君はここに帰らない
「……遠き夜空に星降るばかり、蒼き夜空に星降るばかり……=v
 静かに歌い終えて、ホイミンは一礼した。静まり返っていた酒場の中の観衆が、わあっと歓声を上げる。
 笑顔で帽子を持って観衆の間を回るホイミンに、惜しみなくゴールド金貨が投げられた。小指の先ほどの大きさしかない1ゴールド貨が大半だったけれども、中には10ゴールド貨や、100ゴールド貨なんてご祝儀を弾んでくれる人もいる。
 ホイミンは深々と頭を下げた。自分の好きなことをやって評価してくれる人がいるというのは、本当に嬉しいことだ。
「ほいよ、ホイミン! 今日のお代!」
「わ、ありがとうございます、女将さん」
 座った席の前に置かれた肉や野菜をたっぷり時間をかけて煮込んだシチューとパンに、ホイミンは顔を緩めた。
「しっかし、本当に演奏代三度の食事と宿代タダだけでいいのかい? あんたの演奏が聞きたいってんで今日も大入り満員、売り上げもますます好調だってのにさ」
「いいんです。ぼく、お金とかあんまりいりませんから。ただ、その日食べるご飯と、寝るところがあればもうそれで」
「はぁ……まぁ、あんたがそれでいいって言うならいいけどねぇ……」
 女将はホイミンを眺め回した。今のホイミンは十五〜六歳の少年に見える。ともすれば冷たい印象を与えそうなほど整った顔貌を、溌剌とした表情が柔らかく輝かせている、などと褒めてくれたのはどこかの教会のシスターだったか。
「……あんたみたいな子が一人で生きてくんじゃ大変なこともあるだろう。誰か頼る人はいないのかい」
 ホイミンは笑った。
「ボクは一人じゃありませんよ。旅の途中で会った人、演奏を聞いて拍手を送ってくれた人。そういう人たちがいてくれるから、ボクは生きていけるんです」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。あんただっていつかは所帯を持って、どこかへ落ち着きたいだろう? そういう居場所を作ってくれる人、いないのかい」
 ホイミンは笑ったまま、ゆっくりと首を振る。
「ボクには、そんな人、いません」

 サントハイム王国、バザーリア砂漠の中央に、プレミアムバザーと呼ばれる街がある。作られてからまだ数年も経たない若い街だ。
 その創始者は、魔王を倒し世界を救ってくれた導きの勇者と旅をしたこともあるという商人、ホフマン。スラムとなったり城が建ったり怪しげな樹が生えたりと変遷を繰り返してきた街だが、今や世界でも有数の商業都市へと発展を遂げていた。
 だから、ホイミンのような吟遊詩人も数多い。他の吟遊詩人とかち合ったことも何度かあるが、ここの酒場に腰を落ち着けてからはそういうこともなくなっていた。
 ここで歌を歌うのは楽しかった。何人も固定客がつき、収入も十分以上にある。普通の吟遊詩人なら数ヶ月は留まって金を稼いでいたところだろう。
 だが、ホイミンは、じきに旅立とうと心を決めていた。
 この街が嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。活気があって豊かで、ホイミンのずっと憧れてきた人間というものを映し出したような街。
 けれど、ホイミンは旅立たないわけにはにはいかないのだ。
 休み休み何度も歌って時刻はもう月も沈む頃。酒場も看板をしまう頃。ホイミンは一人、夜道を歩いていた。
 数日中に旅立ちたいと思っていたので、その用意のため街に出たのだ。普通ならこんな時間に店など開いていないだろうが、この街には一日中やっている店というのがいくつかある。どちらかといえば寝ぼすけなホイミンは明日も昼頃まで寝こけているだろうから、夜のうちに準備を済ませておきたかったのだ。
 ――つけられている、と気づいたのは、道具屋を出てしばらくしてからだった。
 まずいな、とホイミンは内心困った。いつ頃からつけられていたのだろう。かつてはグランドスラムだったここには悪漢の類も相当数いる。明るい道を通ってきたのに、どこで目をつけられたのだろうか。
 少し考えて、ホイミンは走り出した。足を使って走るのは得意ではないが、ホイミスライムだった時よりはるかに弱々しくなった手足で抗うよりマシだ。
「逃げたぞ!」
「追え!」
 後ろからそんな声が追いかけてくる。ホイミンは必死に走った。今持っているお金を分け与えるわけにはいかないのだ。自分は数日中にはこの街を出なければならないのだから。
 もう一年以上旅をしているのにいっこうに力強くならない足を必死に動かして、ホイミンは暗い夜道をひた走る。あと百mで夜中でも明かりをつけている店がある通りに出る――
 というところで、腕をつかまれた。
 大声を上げようと口を開いたが、その前に手で塞がれた。背後から何本もの手が伸びてきて顔を、目を隠しあっという間に裏路地に引きずり込まれる。
 体中が痛んだが声を上げることはできなかった。口を塞がれて体をつかまれて、口を開くことすらまともにできない。
 ぬっと目の前に巨大な山刀が突き出された。耳元で囁くように言われる。
「金を出せ。出さねぇと命はねぇぞ」
 ホイミンは悲しくなった。なんでこんなことをするんだろう、この人たちは。
 自分がずっと憧れていた人間にも悪い存在がいるのだということはよくわかっていた。これまでにも何度も人間に襲われたことはあったし、悪いことをする人間も何度も見てきた。
 そしてそのたびに泣きたいほど悲しくなった。せっかく人として生まれてきたというのに、なぜこの人たちは進んで間違った道へ入ろうとするのだろう。
 神の作り出した光溢れる世界の住人が。世界の祝福を受けた存在が。なぜ、こんなことを――
 あの人は、ホイミンの大好きなあの人は、『人間が祝福された存在だとは私は思わない』といつも言っていたけれど、それでも自分には人間はみんな、いつもとても眩しく見えたのに。
「おい、てめぇ聞いてんのか。とっとと金出せつってんだよ」
 ぴたぴたと山刀を突きつけられる。ホイミンは力なく首を振った。
「出せねぇだぁ? ふざけてんのかてめぇ」
「いいからもう殺っちまおうぜ。死体から奪えばいいだろ」
「……おい、待てよ。こいつ、けっこう美形だぜ」
「……ほぉぉ。こいつはなかなか……」
 自分の頭の上で男たちは話をしている。声は聞こえたが暗闇で顔はわからなかった。けれど男たちには自分の姿がよく見えているらしい。
「売り飛ばす前にちっと味見してやるか。こんな顔で吟遊詩人やってんだからどうせ初めてじゃねぇだろ」
「いいねぇ。仲間内で軽くマワしてから……」
「具合がよけりゃちっと飼ってやってもいいしよ。次の市が立つまでにはまだちっと時間あるからな」
 ホイミンにはよくわからない言葉。だが少なくともその中に善意は感じない。
 自分は殺されてもマスタードラゴンの加護により、教会まで連れて行ってもらえて生き返らせてもらえるけれど、殺されたいとは思わない。だがだからといって目の前のこの人間たちに自分は逆らう力を持っていない――
 あの人だったら、その力強い腕で、みんなひと薙ぎにしてしまえるだろうけれど。
 ホイミンは目を伏せた。駄目だ、そんなこと考えちゃ、自分はあの人とはもう二度と会えないんだから――
「――なにをしている」
 唐突に、低く、背筋をぞくりとさせるような冷えた声が周囲に響いた。
 はっとして目を声のした方にやると、そこには一人の男が立っていた。月光より輝く銀の髪に白皙の美しい顔立ちをした青年だ。年はわかりにくいがおそらくは三十にはなっていない。
 だが、ホイミンは思わず震えていた。元は魔物だった自分にはわかる。圧倒的な魔力と神威と言っていいほどの威厳。この人は――恐ろしく強い力を持った、魔族だ。
「お呼びじゃねぇんだよ兄ちゃん!」
「死にたくねぇんならとっととどっか行っちまえ!」
 その美しい男は、ふ、と小さく笑った。
「なるほど。お前たちは、よほど命がいらないとみえる」
「は? なにを――」
「――破落戸風情が、私に命令するな」
 そう言った瞬間、ずば! と音がして男たちの体はずっぱりと斬り裂かれていた。温かい血が噴き出して、ホイミンの顔に降り注ぐ。
 高度な体術と魔術を組合わせた妙技、真空波。これだけでも彼の尋常でない技量がうかがえる――だがそれに感嘆する間もなくホイミンは叫んでしまっていた。
「やめてください……!」
「……なに?」
 魔族が美しい眉をしかめる。ホイミンはかまわず男たちの脈を確かめた。――全員、すでに息はない。
 ホイミンはぎゅっと目をつぶり泣きたくなるのをこらえると、ぐっと男たちの一人の脇に手を入れた。自分の力でこの人たちを教会まで運ぶのは大変だろうが、なんとかやらなければ。
「おい。そこのお前」
「……はい」
 ホイミンは必死に男の体を引きずりながら魔族に顔を向けた。魔族はやや不機嫌な顔でホイミンを睨んでいた。
「貴様、この人間どもに襲われていたのではないのか」
「……はい、そうです」
「ならなぜそいつらを運ぶ。教会に連れていこうとしているのだろう? 自分を襲ってきた奴相手に、なぜそんなことをする」
 ホイミンは息を吸い込んだ。もしこの人の機嫌を損ねれば、自分はその瞬間に命を失うだろう。
 けれど、怖くはなかった。マスタードラゴンの加護があるとかいうことではなく――そもそもこれほど力のある魔族にささやかな加護がどれほどの障害になるものか――たとえ殺されても、それはそれでかまわなかったから。
 冥界であの人を待てるなら、死ぬのもきっと悪くない。
「ボクは、人が死ぬのは、嫌だからです」
「生きる価値もない者どもでもか」
「それでも。人間は、僕の好きな存在を産んでくれた種族だから。命が失われるのは悲しいし辛い。自分が属する種族とはまた別に、大切にしたい、生きていてほしいって思う種族なんです」
 その魔族は、美しい顔を歪めてくくっと笑った。
「まるで自分が人間でないかのようなことを言う」
「……それは」
「……まぁ、よい。その者たちは私が運ぼう」
「え……? ありがとうございます!」
「くく……襲われた者たちを教会に運ぶと言われてそこまで喜べるとはな。面白い奴よ。名は何という?」
「ボク、ホイミンっていいます」
 その魔族は堂々とした素振りでうなずいて、言った。
「私の名はグラン・ピサロだ」

「……ほう……なかなかに数奇な運命だな」
 ワインをくゆらせながらグラン・ピサロは言う。
 ホイミンは「そうですか?」と首を傾げた。自分は自分よりはるかに数奇な運命の元に生まれついた人々を何人も知っているから、あまりそんな風には思わない。
「元ホイミスライムの吟遊詩人か……導かれし者と共に旅をしたこともあるとはな。マスタードラゴンもなかなか面白いことをする」
「はぁ……」
 心底面白そうに笑みながら言うグラン・ピサロになんと答えればいいかわからずホイミンはあいまいにうなずく。
 グラン・ピサロの招待を受けて彼の部屋で一晩を過ごすことになったのはいいものの、ホイミンはこんな強い魔族がなぜ自分などに興味を持ったのかよくわからなかった。この方に比べれば自分など木っ端のような存在のはず。なのになぜ?
「なぜ私がお前に興味を持つのかと考えているな」
 笑みながら言われて驚いたが、素直にうなずく。するとグラン・ピサロはまた笑って、肩をすくめた。
「私はお前を面白いと感じるのだよ、人の形をした魔物よ。人でもなければ魔物でもなく、ましてや魔族でもない心の持ち主。その全てを慈しまんとする心根は実際貴重だ」
「そう……でしょうか?」
「自覚がないとはな」
 グラン・ピサロはまた笑う。ホイミンはどうしようもなく困惑するしかない。
 と、ふいにグラン・ピサロが真剣な顔になって言った。
「ところで、ひとつ聞きたいことがあるのだが」
「はい……なんでしょう?」
「お前はなぜ人間になりたいなどと思ったのだ?」
「……………………」
 ホイミンは小さくため息をついて、グラン・ピサロを見つめた。
「大して面白くもない話ですよ」
「かまわん。夜は長い、面白くない話を少しばかり聞いたところで害にはなるまい」
「………好きになった人が、人間だったから」
「なに?」
 眉を上げるグラン・ピサロに、ホイミンは笑った。
「馬鹿でしょう。人間になれば、その人とずっと一緒にいられると思ったんです。ボク、ホイミスライムだった頃に一人の女の子を好きになって。友達とも生き別れになっちゃって、すごく寂しかった時に、その子はそばにいてくれたから。他の魔物たちにもその子の親や友達にも内緒で、何度も遊んだんです」
「ふん……長く続いたとは思えんな」
「ええ。その子と一緒に遊べたのは、せいぜいが数ヶ月でした」
「魔物と遊ぶ刺激に飽いたか、親が止めたか」
 はっきりきっぱりと言うグラン・ピサロにホイミンは笑う。
「そうですね、そんなところでしょうね。だけど当時のボクは思ったんです。きっとあの子になにかあったんだって。ボクが人間だったら、人間の住む街にも行けて、事情を調べられるのにって」
「……それだけか?」
「そう、最初はそれだけだったんですよ」
 考えてみると馬鹿みたいな話だ。
「だけど、馬鹿みたいな話だけど、その気持ちは薄まらずにどんどん強くなっていったんです。人間の姿を見るたびに。ボクから見ればみんな似たような顔をしていたはずの人間に、みんな個性があっていろんなことを考えてるんだって知って。魔物を追い、街を築いて世界に広がる人間たちが、どんどん輝いて見えるようになって。あの子のためだけじゃなくて、人間になれたら、あの人たちの間に入って話せたら、どんなに素敵だろうなって思うようになって」
「……人間などにそこまで思うほどの価値があると思っているのか?」
「恋は思案のほか、って言うでしょう?」
 グラン・ピサロは片眉を上げた。
「恋というか?」
「はい。あの子への恋じゃなかったと思います。ボクは、人間って種族に恋をしたんです」
 この世界を作り出した神に祝福を受ける、太陽の下で生き生きと生を謳歌する人間という生き物に。
「ふん……それで今は恋した相手のそばにいられて幸せいっぱいというわけか」
「……そうですね」
 返事が遅れたのにグラン・ピサロはしっかり気づいたようだった。面白がるような表情を浮かべて自分の顔をのぞきこむ。
「お前、誰か本気で恋をした者がいるな?」
「え」
「誰だ。どんな奴だ、言ってみろ。今すぐここに連れてきて想いを告げさせてやる」
「……好きだなんて――恋をしているなんて、絶対に言っちゃいけない人です」
「ほおう?」
 これで諦めてくれないかと思ったのに、グラン・ピサロはますます顔を近づけてくる。
「お前のような奴に好かれていると言われればどんな奴でも悪い気はするまいに。なぜそんなことを言う?」
「言ったら、拒否されるのがわかってるからです」
「なぜそう言える?」
 ホイミンは小さく息をついた。あまり喋りたい話ではないけれど、この方にならいいかもしれない。自分などの話などこの方は歯牙にもかけないだろう。それに、喋るまで許してくれそうにないし。
「――そのボクの恋している人というのは、男だからです」
「――ほう。誰だ?」
「……導かれし者たちの一人、ライアン」
 グラン・ピサロはにぃ、と心底面白そうに唇の両端を吊り上げた。
「――面白い」

 ――その気持ちがいつから恋になったのかは、よく覚えていない。
 ただ、自分はライアンが好きだった。大好きだった。子供のわがままのような自分の仲間にしてくれという懇願をあっさりと受け容れて共に旅をしてくれた人。自分を守り、背中を預け、初めて信頼と信用をくれた人。ことあるごとに自分に話しかけて、自分がなにか言うと優しく笑ってくれた人。
 好きで、好きでしょうがなくて、しょっちゅうじゃれついては頭を撫でられていた。人間になれたら一番最初にライアンさんのところへ行って、大好きですって言うんだと決めていた。
 人間になれたら。
 ――旅の途中で死に、人として蘇った自分には、人として生きるための知識が与えられていた。
 その中には、『人は通常性が同じ者同士で愛し合うことはない』というものも含まれていたのだ。
「魔物同士だったら、こんなこと気にはしなかったと思います。男同士でつがうことも女同士でつがうことも普通にあるし」
「そうだな、同じ性を持つ者同士で子を成すことも不可能ではない」
「だけど――人間は。ボクがなりたかった人間は、そうじゃないんだってわかってしまったから。だからボクは――」
「逃げ出した、と」
 ホイミンはこっくりうなずいた。
「ライアンさんにとってボクの気持ちが迷惑になるかもしれないなんて考えたことなかったんです。ただ好きで、大好きでそれだけでよかったのに。でも、その気持ちはあっちゃいけないものなんだって、おかしいものなんだって、わかっちゃったから」
「ふん……」
「導かれし勇者の一人が、男に言い寄られてるってことになったら、きっとライアンさんに迷惑がかかるから。そのくらいなら、ボク」
 遠くから想っている方がいい。
 あの人の幸せを、遠くで願っている方がいい。自分の記憶がきれいなものとしてライアンの中に残っている方がずっといい。ライアンは自分のことなど記憶にはとどめていないかもしれないけれど、自分はずっと覚えている。ライアンと共に過ごした時間を、余さずに。
 時々こっそり姿を見にいけたならと思ってしまうけど、きっとそんなことになったら自分は泣きながら抱きついてしまうと思った。だから、まだ、会えない。
 あの人が子を成し、家族を作ってしまったら会えるかもしれないけれど、今はまだ、駄目なのだ。
「愚かな奴よ。自分の幸福より相手の幸福を優先するか」
「ボク、ライアンさんが幸せになってくれないなんて、嫌なんです」
 あんな人が。あんなに優しくて、強い人が、幸せになれないなんて、どう考えてもおかしいから。
 自分がその原因になるなんて死んでも嫌だと、そう思ったから。
「だから……ボクは、こうして旅を続けるんです。ひとところにいたら、ライアンさんと会ってしまうような、そんな気がして」
「………ふん」

 勧められるままにワインを口にし、ホイミンは最後の方には酔っ払って眠り込んでしまったようだった。酔いに任せてグラン・ピサロにさんざん愚痴ったことを覚えている。
 目を覚ましたホイミンは、頭をぐらぐらがんがんさせながら顔を上げた。――見える部屋が寝る前と違っている。
「え……?」
「目を覚ましたか」
 そう声をかけられてホイミンは硬直した。この声。忘れっこない、心の中で何度も何度も反芻した声。聞くたびにたまらなく幸せになれた声。ただ一人好きな人の声。
「――ライアンさん……!!」
「久しぶりだな、ホイミン」
 呆然とするホイミンの前で、ライアンは小さく笑った。
「見違えたぞ。お主が人間になったことはユーリルたちから聞いてはいたが。お主の姿は私の中ではホイミスライムのものだったから、正直少し戸惑うな」
 固まってライアンをひたすらじっと見上げる。頭の中ではどうしようどうしようとそればかりがこだまして、口もまともに動かなくて。結局言えたのは、
「………この姿、変………?」
 そんなしょうもない一言だった。
 ライアンはふ、と優しく笑う。
「いや。その姿もよいと思う。お主の内面がよく出ている」
「…………」
 ぶわ、とホイミンは唐突に目から涙を流しだした。一瞬ライアンは驚いたような顔をするが、すぐに微笑んで両手を広げる。
「来い」
「………っ………!」
 もう止められなかった。ホイミンはだっと床を蹴ってライアンの腕の中に飛び込んだ。
「ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん」
「ああ」
「ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん……」
 もうどうしよう。たまらない。体中から溢れてくるこの感情。幸福で苦しいこの感情。
 人間になりたかった。人間になれさえすれば、あなたとずっと一緒にいられると思ったんだ。
 あなたに胸を張って大好きだって言えるって思ったんだ。
 ごめんなさい。馬鹿な勘違いして、ごめんなさい。
「ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん…………」
 大好き、の代わりにひたすら何度も名前を呼んだ。頭を何度も擦りつけた。
 そのたびにライアンは優しく頭と背中を撫でてくれ、ホイミンは背筋が震えるほどに泣きたくなった。

「……落ち着いたか?」
「……うん」
 ホイミンは目を擦りながらライアンを見上げた。きっと自分の目は今真っ赤になっている。
「ライアンさん、なんでここに?」
 その問いに、ライアンは苦く笑んだ。
「グラン・ピサロに知らされてな……」
「えぇっ!?」
 ホイミンは仰天して立ち上がった。ライアンさんとグラン・ピサロさまは知り合いだったのか?
「どこで私の居場所を知ったのかは知らんが、突然現れてお主の身柄を預かっているが飼ってもかまわぬか、などと聞いてくる。正直、腹が煮えたな」
「え……えぇ?」
 なんだろうそれ。なんでそんな意味のないことを?
 というか――腹が煮えたって。なんで?
 きょとんとするホイミンに、ライアンは小さく微笑む。
「気にしないでいい。……というか、お主には知られたくないな」
「……なんで、なの?」
「お前の前ではできるだけ格好をつけていたい」
「ライアンさんはいつだってカッコいいよ」
 きっぱり言うと、ライアンはちょっと驚いたように眉を上げて、それから笑った。
「そうか。ありがとう、ホイミン」
「うん――」
 胸が疼く。こうしてライアンのそばにいられるのは嬉しい。たまらなく嬉しい。
 だけど、再会が終わったら、この人は王宮戦士としての生活に戻っていく。
 体を焼く渇きは一時喉を水が潤したあとはなお辛い。こうして再会したあとまた一人になった時は、こうしてまみえる前よりなお苦しかろう。
 それを思うとホイミンは少し泣きたくなった。ライアンさんは優しいけど、残酷だ――
「で、これからお主はどうするのだ?」
「え?」
 急に聞かれて目をぱちくりさせるホイミンに、ライアンは笑いかける。
「お主はこれからどうするのだ? また旅を続けるのか? それともどこかへ落ち着くのか?」
「え……うん、また旅をしようって思ってるけど……」
 そう言うとライアンは真面目な顔でうなずく。
「そうか。わかった」
「……わかったって、なにが?」
「私もまた旅暮らしを続けることになるようだな。まぁ、それも悪くない。お主とならば」
「………へ?」
 ホイミンは思わず間抜けな声を上げた。
「ライアンさん……なに言ってるの?」
「言葉通りの意味だが?」
「わかんないよ、はっきり言ってよ」
「ふむ。わかりにくいか。ならばはっきり言おう。ホイミン――」
 ライアンは自分に向き直って、静かに、けれど底に恐ろしいほどの気迫を籠めて言った。
「私と共に生きてくれぬか」
「………え………?」
「まぁ、男同士ゆえ神の前で誓いを立てるというわけにはいかぬが。その代わり私はお前に誓いたい。一生を共にし、生も死も共に分かち合おうと」
「え―――………」
「いうなれば、求婚しているわけだが」
 どこか飄々とした顔でそう言ってのけるライアンに、ホイミンは一瞬頭の中が沸騰した。
「な、な、な、なに言ってるのライアンさん!?」
「いやか?」
「嫌っていうか、あの、だって、なんで!?」
「お前に惚れているからだが」
「だ、だって、惚れてるって、だって、男同士でしょ!?」
「私ではいやか?」
「そういうことじゃなくって! だって、人間って男同士ではつがわないんでしょ!?」
 ライアンは小さく苦笑した。
「まぁ、そうだな。一般的ではない」
「じゃあ!」
「だが、一般的でないという理由で、お主と共に生きるのを諦めるのは我慢できん」
「………………」
 きっぱりと言い切るライアンの表情を、ホイミンは呆然と見つめた。何度も魅せられた、ライアンのたまらなく毅い心の輝き――
「私はお前が好きだ。一生共に生きたいと思っている」
「………………」
「お前は、私のことをどう思っているのだ?」
「………………」
 ホイミンは呆然とライアンを見つめた。じっとこちらを見つめてくるライアンの静かだけれど毅い瞳。心の底から真剣に言っているのがわかる。たまらなく毅いその輝きが、自分に向けられている――
「………うっ」
「……ホイミン?」
「う………う……ううーっ……」
「……ホイミン」
 泣き出してしまった自分の背中を、ライアンは優しく撫で下ろしてくれた。あくまで穏やかな口調で、自分に囁く。
「すまなかった、驚かせてしまったな。少なくとも嫌われているわけではないというだけで短慮をした、許してくれ。だが私は、お前に幸せになってほしいと、かなうならそれを自らの手で成し遂げ、一番近くで見つめ続けたいと――」
「そういうことじゃ、なくて……!」
 泣きながらホイミンは必死に訴える。
「ライアンさん、なんでそういうこと言うの?」
「……なんで、とは?」
「ボク、ライアンさんのこと、大好きなんだよ? そんなこと言われたら、本当に離れられなくなっちゃうじゃないか。そばにいたいって思っちゃうじゃないか」
「……私としてはぜひ思ってほしいところなのだが」
「思ったらライアンさんが幸せになれないじゃないか!」
 泣きながら叫ぶと、ライアンは困惑したように眉根を寄せた。
「なぜそう思う」
「……だって………」
 ボクなんかが。元ホイミスライムの、おまけに男のボクなんかが。ライアンさんのつがいになったら、ライアンさん、きっといろんな人に後ろ指さされちゃうよ?
 ライアンさんにはきっと、もっとふさわしい人がいるのに。ボク、自信ないよ。ライアンさんを幸せにする自信ない。だってライアンさんはこんなにカッコいいのに、ボクなんかじゃ全然つりあわない――
 だけど。
 なけなしの勇気が誘惑する。それって絶対になんとかできないこと?
 つりあわないって理由で諦めちゃっていいの? ライアンさんにふさわしいような人間になれるよう頑張ればいいことなんじゃないの? ライアンさんがボクと一緒に生きたいって思ってくれてるんだから、その気持ちを大切にしたいって思ってもいいんじゃないの?
 少なくともたぶん、ホイミスライムから人間になるよりは、ライアンさんの隣にいてもいいような人間になる方が、ずっと簡単だ。
「……ライアンさん。一個だけ教えて」
 ホイミンは鼻をすすりながらライアンを見上げた。自分の瞳が濡れているのがわかる。ライアンはなぜか一瞬息を詰めて、それから微笑んだ。
「なんだ?」
「なんで、ボクのことを好きだって思ったの?」
「……そうだな」
 ライアンは少し面白がるように唇の端を上げた。それから口を開いて、楽しげに語り始める。
「まず、その壮大な夢に魅せられた」
「……夢?」
「ああ。人間になりたいと願うホイミスライム。自らの種族を変えようとするその驚くべき大志。なにを求めることもなく、ただ生きてきた私には、その一途な想いがたまらなく眩しく見えたのだ」
「…………」
 そんなことって、あるんだろうか。自分のあんな子供っぽい思いがライアンさんに感銘を与えるなんてことが。
「共に時を過ごすうちに、その心根の優しさ、清らかさに惹かれた。強さにも。本来なら仲間である魔物たちと戦うことになっても、自らの手を汚すことを恐れずに立ち、正しいことを貫かんとするその心が、けれど死んでいった者たちに対する悼みも忘れぬお主の心が、私にはたまらなく美しく思えたのだ」
「…………」
 ホイミンは赤くなった。そんなの褒めすぎだ。自分はそんなに立派な奴じゃないのに。
「だが、お前を愛することになったきっかけは……私を理解してくれた、と思ったからだな」
「え……?」
 どういうことだろう。
「私は戦士だ。それ以外の生き方を知らぬ。戦いになれば血が騒ぐ――だが、同時にそのことがたまらなく苦しかった。殺すことでしか生きられぬ自分がたまらなく厭わしかった。自分などいない方がいいのではとずっと思ってきた――」
「………そんな」
「そんな私に、お前はこう言ってくれただろう。『ライアンさんって、優しいね。魔物の命も大切に思ってくれてるんだね』と」
「…………」
 ホイミンは、少し考えて思い出した。確かに言った。ライアンが魔物を斬り殺したあと、憂わしげな表情で剣を拭っているので思わず言った言葉だ。
「そしてこうも言ってくれた。『でも、情けをかけちゃだめだよ。死なないでね。ライアンさんが死んじゃったら、ぼく、すごく寂しいし、嫌だよ』と」
「………………」
 それも言ったけれど――
「そんなことで?」
 ライアンは不審そうな自分に苦笑してみせた。
「お前にとってはそんなこと≠ナも私にしてみれば初めての言葉だった。私が命を奪うことを厭っていることを知り、それを馬鹿にせず、それでも自分の命を案じてくれと願ってくれた。そんな存在は私の人生の中で初めてだった」
「…………」
 そんな、寂しい生をライアンさんは送ってきたんだろうか。
 泣きそうな顔になるホイミンの頭を、ライアンは撫でた。
「そんな顔をするな。……私はそれでもよかった。なにも求めるものがなかったのだから。だが、お前と出会って初めて、お前がほしい、とそう思えるようになったのだ」
「………………」
「それから長く世界を旅し、美しいと思えるものも心惹かれるものも大切なものもいくつもできた。だが、お前以上に心を揺るがせる存在には会ったことがなかった」
「…………」
「お前が嫌でなければ、私はお前と共に生きたい」
「………………!」
 ホイミンはぽろぽろ涙をこぼしながら、ライアンに抱きついた。胸にぐりぐりと頭を押し付けながら叫ぶ。
「ライアンさん、ライアンさん……!」
「ホイミン」
「ライアンさん……大好き……大好きだよぉ……!」
「ホイミン」
 ライアンが優しく涙を指先で拭ってくれる。たまらなくなってライアンの顔を見上げた。ライアンの頭にむしゃぶりついてしまいたい。
 ライアンは真剣な顔で自分を見つめている。と、その指がくいと自分の顎を持ち上げた。ライアンの顔が近づいてきて――
 チュ、と音がした。
 きょとんとしているホイミンに、ライアンはまた半分苦笑、半分安堵したような笑みを浮かべた。
「キスをしたのは、初めてのようだな?」
「……きす?」
「口付け、接吻。要するに唇と体を触れ合わせることだ。唇と唇を合わせるのが普通だな」
「普通なの? そんなことして、面白いの?」
 首を傾げるホイミンに、ライアンは今度は混じりっ気なしの苦笑を浮かべる。
「面白い面白くないの問題ではないな。ただ、触れ合いたいと思った時に行う」
「……ふぅん……」
 よくわからなかったが、ホイミンは背伸びをして、今度は自分からライアンの唇に唇を合わせた。やっぱりただ触った感じしかしなかったが、とても柔らかい感じがして、少し気持ちいいかもと思った。
「こんな感じ?」
「……ああ」
 ライアンは苦笑して、また唇を触れ合わせてきた。キスというやつだ。目の前にライアンさんの顔があるのによく見えない、と思いながら目を開けていると、ライアンは少し顔を離して苦笑する。
「キスするときは、目を閉じるものだぞ」
「どうして?」
「目を開けたままだと相手の顔が近すぎてわけがわからなくなる」
「……わかった」
 目をつぶってライアンを見上げる。なんだか唾を飲むような音がしたと思うと、ぐい、と抱き寄せられて唇を合わせられた。キスだ。
「………………」
 だけど、今度はさっきのとは少し違う。なんだか柔らかいものが口の中に入ってきた。なんだろうこれ。舌か?
 ライアンの舌はホイミンの口の中を探るようにそっと動き回る。なんだかよくわからなかったけど、ホイミンも真似をしてライアンの口の中に舌を入れようとした。
 ――ライアンの舌が邪魔をしていてうまくできずに、息が苦しくなって咳き込んだ。
 げほげほと咳をするホイミンに、ライアンは苦笑して背中を撫で下ろす。口の中で小さく呟いた声が聞こえた。
「……まぁ、少しずつ馴らしていくしかないな」
「? なにを?」
 顔を上げて訊ねるホイミンに、ライアンはまた苦笑する。
「お前がもう少し大人になったら話してやろう」
「……ボク、子供?」
「……そうだな。少し、な」
「そっかぁ……」
 少し落ち込むホイミンに、ライアンは優しく笑いかけて、今度はおでこにキスをする。
「別に気に病むことはない。これからはずっと私と一緒なのだから、すぐに大人になるさ」
「どうして?」
 そう聞くとライアンはなぜかさらに苦笑して、言った。
「楽しい時間は過ぎるのが早いものだろう?」
 ホイミンは少し考えて、その通りだと思って満面の笑顔でライアンの首にむしゃぶりついた。
「うん! ライアンさん、ずーっと一緒にいようね! 大好きだよ!」
「……ああ」
 そう笑ってキスをしたライアンが、小さく口の中で「本当に、早くもう少し大人になってもらいたいものだな……」とやや苦く言っていたのにはホイミンは少しも気づかなかった。

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