君になんと教えよう
「それでは、行ってくる。ホイミン」
「うん、ライアンさん。いってらっしゃい」
 ホイミンはにこっと笑顔で小さく手を振った。寝ぼすけな自分だが、このライアンと共にすごした一年ですっかり生活が朝型になり、毎日出勤するライアンを見送ることができるようになった。そのせいで夜は早々と床についてしまうのだが、ライアンに毎朝朝食を作ってあげられるようになったのだから嬉しい変化だと思う。帰ってきたライアンと一緒に夕食をとって一緒にお風呂に入るぐらいまでは起きていられるし。
 ライアンはいつもと変わらぬ生真面目な顔で(でもその中に微妙な変化が見えたりするのだ)顔を近づけてきて、ちゅっ、とホイミンの唇にキスを落とした。ホイミンも目を閉じてそれを受ける。
 こんな風に毎日キスするようになったのも、ライアンのくれるキスを嬉しいと思えるようになったのも、嬉しい、幸せな変化だ。
 キスをしてからぎゅっと相手の体を抱きしめて、数十秒相手の匂いを堪能し。お互い名残惜しいと思いながらもそっと離れて微笑みあう。
「ではな」
「うん、いってらっしゃい、ライアンさん」
 そしてライアンはこちらに背を向けて歩いていく。ホイミンはライアンの姿が見えなくなるまでじっとその後姿を見送り、完全に見えなくなってからほう、とため息をついて家の中に戻った。掃除に洗濯繕い物に夕食の準備、やることはいっぱいある。
 ライアンと離れ離れになる毎日のように訪れる別離の瞬間の辛さやせつなさを感じるのは苦しいけれど、それもライアンを自分が好きで、ライアンも自分を好きでいてくれるからこそだ、と思うと嬉しい変化に思える。そして家事やなんやかやでライアンの役に立てるのも、とっても嬉しい変化なのだ。
 嬉しいばっかりだ。毎日のように訪れるその認識に、ホイミンはしみじみと感じ入る。一年前までは自分はたった一人で生きて死んでいくのだと思っていたのに。ライアンは自分の人生をまるで変えてしまった。いいや、ライアンは自分に人生そのものを与えてくれた人なのだ。
 ライアンさんが今日も一日、元気で幸せにいられますように。
 いつものように心の中でそう祈りを捧げ、ホイミンは掃除を始めた。本当に、今でも怖いくらいホイミンは幸せで、満足とかそんな言葉では足りないほど満たされていたのだ。

 ライアンは寝不足の頭を振りながら、鎧の上にマントを装着した。ライアンは仕事でもそれ以外の時間でも家にいる時以外ははぐれメタルの剣とはぐれメタルの鎧、鉄仮面に風神の盾(予備の武器に破壊の鉄球)という完全装備で行動しているのだが、バトランドの王宮では近衛隊長という大層な役をもらっているライアンは、仕事の時はそれに加え豪奢な装飾つきのマントを羽織らねばならないのだ。
 バトランドの国と王家の威儀のため、近衛隊長の当然の勤めだといわれればそれまでだが、疲れている時にはそんな手間さえ面倒くさくてならない。ライアンは昨日もほとんど眠っていないのだ。ここ数ヶ月まともに睡眠が取れたのは、二週間に一回力尽きて家に帰るやいなや眠ってしまった時だけ。それ以外は仕事の合間の仮眠ぐらいのものとなれば、そろそろ四十の声も聞こえだしたライアンにはさすがに辛い。
 だがもちろん勤めはしっかり果たさねばならない。王に対する忠義も仕事に対する真剣さも揺らいではいないし、面倒くさいことだが英雄であるライアンがだらしのない姿を見せればいろんな意味で騒ぎ立てる輩がこの国には(バトランドに限ったことではないだろうが)山といるのだ。
 静かに、滑るように歩くライアンに、部下をはじめ元同僚や元上司までが道を開け頭を下げる。近衛隊長という地位は将軍の中でも相当に高い地位だし、あの戦いの功績としてライアンには王の前ですらひざまずかずともよい、すなわち形式上では王と同等の位であるとされる特権が与えられているのだ。もちろんライアンは今でも王の前ではひざまずくし誰かに頭を下げろと強要したこともないのだが。
 もともとライアンは自分を王宮勤めには向かぬ男だと考えている。貴族たちの派閥争い権力争いに加担するのは趣味ではないし、そもそも政治の才覚もない。自分は剣を振るしか能のない男だ。なのに王宮に仕えているのは、成り行きと王に対する恩義を返すためだけにすぎない。
 ライアンの日々の仕事は王の護衛とあとは上に立つ者としての書類仕事だ。どちらも得意とはいえない。護衛というだけならまだしも、護衛の間は近衛隊長として王に陳情しようとやってくる者たちのうち誰を通し誰を通さぬかの判断も行わねばならぬからだ。ひとつ判断を誤れば貴族たちを敵に回すことになる。実際王の身を案じて通せぬと言ったことで、ライアンは何人かの貴族を敵に回してしまっていた。まぁ、貴族たちのほとんどはライアンを半ば敵視しているのだから当然といえば当然だが(王に誰より寵愛を受けている平民出、となれば貴族に敵視されない方がおかしい)。
 王に挨拶をしてから執務室の前に立ち、周囲を警戒しながら待つ。そして今日もほどなくして貴族たちがわらわらとやってきた。
 それらと神経をすり減らすようなやり取りをして時間をすごす。一人相手をこなすたびにどっしりと肩に疲労がのしかかり、元気を削り取っていく。
 ホイミンに会いたいな、といつものように思った。ホイミンの、あの素直で愛らしい微笑が見れれば、自分はまた元気を取り戻せるだろうに。
 もっとも、今自分がこれだけ体力を削られているのもホイミンのせいといえばせいなのだが。ライアンはこっそり苦笑した。

 ライアンの家はそれほど大きくはない。ライアンの給料がどれほど高いのかはホイミンにはよくわからないので(自分の稼ぎ以外に比較対象がないから。暮らしに困ったことがないのは間違いのないことだが)、どのくらいの大きさの家が相応なのかもわからないが、物置やら風呂場やら厠やらの類を除けば寝室と居間と客間と台所だけ、というのはあまり大きいとはいわないと思う。
 でもそれでもホイミンは充分に快適にくつろぐことができたし、広々としていると感じている。掃除もさほど広くはない分隅々まで行き届かせることができた。
 今日も埃を掃き出してから隅々までしっかりと磨き上げ、洗濯に移る。ライアンの家は街外れにあるせいか、周囲に人家が少なく、静かで、いつも使う井戸はほとんど自分たちの独占状態だ。なので二人分くらいの洗濯はあっという間に終わってしまう。水を汲んで、石鹸をつけて、洗濯板でごしごしと擦って、すすぎ。あとは干すだけ。一日せいぜい四着しか洗濯物が出ないのだから(二人の肌着と上着。寝巻きはライアンもホイミンもこの時期は裸で寝るので必要ない)、本当にあっという間だ。
 それが終わると遅い昼食。ライアンに持っていってもらった弁当と同じものを食べる。自分ひとりの食事に手間をかける気にはなれなかったし、なによりライアンと同じものを食べるというのは嬉しいことだったのだ。
 味がおかしくないか確かめつつ、改良点を探しつつ食事を終えると、衣類を調べて繕わなくてはいけないものがあるかどうかを確かめる。今日は昨日頑張ったせいかまるでなかった。となると、夕食の買い物をするまで時間が空く。
 少し考えて、寝室から楽器を取り出してきた。久しぶりに街で吟遊詩人の仕事をしよう。夜ではないのでそうお金は稼げないだろうけど、ないよりずっといいし、なにより自分は吟遊詩人の仕事が好きなのだ。ライアンのために歌う時ほどではないにしろ。
 一人照れ笑いを浮かべ、ホイミンは楽器と、ついでに夕食の買い物をするための財布と買い物籠を持って、しっかり戸締りをしてから家を出た。

 ライアンは弁当を開け、微笑んだ。今日もうまそうだ。
 マスタードラゴンはホイミンを人間に変える時、なよやかではあるが器用な手を与えたらしい。楽器を操る時同様、ホイミンの料理の際の手さばきは見事なものだった。吟遊詩人は指に傷をつけないため家事の類はしないと聞いていたが、ホイミンは指を荒れさせながらも炊事洗濯繕い物と器用にこなしてくれる。
 ホイミンの手が傷つくのかと思うと痛ましい気持ちもしたが、ホイミン自身の意思でやってくれていることだし、なによりホイミンの気持ちが嬉しかったのだ。「ライアンさんのためにしてあげられることがあるって思うと、ボクすっごく嬉しくなれるんだ」と笑うホイミンの笑顔を見ると、こちらとしては無条件降伏せざるをえない。
「お、隊長、いつもながらうまそうっスねー」
 まだ若い部下の一人がにやにやと言ってくる。ライアンはぱくりとサンドイッチをかじり、ふっと笑った。
「うまそうなのではない。うまいのだ」
「うっわ……すげぇのろけ」
 書類仕事の後だったので、同じ部屋で昼食を取っていた部下たちが苦笑する。実際、ライアンは部下たちにのろけるのは嫌いではなかった。部下たちはみなライアンを慕ってくれているし、その恋人であるホイミンに対しても礼儀正しく優しい。そういうホイミンを傷つけないと確信している相手に自分は恋人のことを誰より愛しているのだと宣言するのは、心地よいことだったのだ。
 ホイミンを王に引き合わせるため初めて王宮に連れてきた時はそれなりに大変だった。自分は世界のどこにいても探し出して共に生きていきたい相手が男だということを宣言していたし、ホイミンが恋人になってくれたあとは誰にそれを誇っても平気な気持ちでいたけれども、ホイミンの耳に傷つくような
言葉を入れたくはなかった。そして、王宮はそういう言葉を投げかけそうな人間が一山いくらでいる場所なのだ。
 それでもホイミンを王宮に連れてきたのは国王陛下への義理を果たすためだ。恩義のある王を放り捨てるように、長旅から戻ってくるや男に惚れたと宣言していなくなってしまったのだから、さぞかし心配もおかけしてしまったろうしご立腹もされただろう。それでも「お前の恋人ときちんと会って話を」と言ってくださったのだから、これは会わせないわけにはいかない。
 予想通り自分を婿入りさせて権力を握ろうとたくらむ輩はホイミンにひどい言葉を投げつけてきた。そして自分はそのたびに、最愛の人を侮辱する人間はこの剣にかけて許しはしない、ということを教えてやらねばならなかった。
 普段はなにを言われても怒るどころか反論すらしない自分のその行為に、周囲は相当に驚いたらしい。ともかくホイミンを傷つければただではすまないということは、王宮中に知れ渡った。
 ホイミンはなにを言われても怒らず、むしろ優しく微笑んで醜い言葉を受け流していたが。国王陛下にも部下たちにもにこにこしながら優しく話をしたので、自分の味方である人々は全員ホイミンに好感を持ってくれたようだった。
 それはもしかすると、ホイミンがライアンを敵視する貴族たちがこぞって男を恋人にするなどと、と馬鹿にするようなことを言ってきた時に怒鳴りつけて黙らせたせいもあるかもしれなかったけれども。
『ボクの欠点をあげつらうなら好きにすればいい。でも、ライアンさんはあなたたちに馬鹿にされるような人じゃない! 誰かを愛することを馬鹿にしていいと思っている、あなたたちなんかには!』
 あの時は嬉しかったな、とライアンは笑む。ホイミンが自分を守ろうとしてくれているのが伝わってきて、泣けるほど幸せだった。
「しっかし、恋人さんもマメっスよねぇ。毎朝朝食作って夕食作って、掃除も洗濯も繕い物もしてくれんでしょう? ほとんど嫁って感じっスよねぇ」
「馬鹿、実際嫁だろ。一緒に暮らしてんだから」
「あ、それもそっか。となると結婚して一年? それじゃーそろそろ夜の方も落ち着いてきたんじゃないスか?」
 へらへらと笑いながらそうこちらに顔を向けた部下は、ライアンの視線に固まった。それどころか部屋中の空気が凍っている。全員硬直してこちらを見ていた。
 なぜか、と考え、自分が凄まじく不機嫌な顔になっているからだと理解し、ライアンは表情を意識して元に戻した。別に部下たちを怯えさせたいわけではない。
 そうしてやっと息をついた部下たちは、しばし視線を交わしあい囁きあい、互いを押しやって役を押し付けあい、結局失言をした部下がそろそろと前に出ておそるおそるといった風に聞いてきた。
「あのー……隊長?」
「なんだ」
「あのー、ですね。もしかしてもしかすると……その、まだ、ヤられてなかったり、なんかしちゃったり?」
 ライアンが思わずまた不機嫌な顔になると、部下たちは揃って土下座した。
『よけいなこと言ってすいませんでしたぁ!!』
「……いや」
 ライアンは首を振った。こんなことで苛立つとは、みっともないとわかってはいるのだが。
「……正直、困っている」
 ぼそりと言うと、またおそるおそる聞かれる。
「あのー、なにが、でしょうか」
「ホイミンは、そういったことに大してまるで無知なので。……いつ、どうやって手を出したものかどうか」
『はー……』
 感心したような声を出された。
「手を出していいものかどうか、じゃないんスねー。いやー、やっぱ隊長も男だったんだ」
「…………」
「すいませんでしたぁ!!!」
「い、いやでも、そーいうのをちょっとずつ教えていくのも年下の恋人を持った醍醐味っつーもんなんじゃないですか? ちょっとずつスキンシップから調教、じゃない教育していくとか」
「いろいろと、試してみてはいるのだが。寝る時に体を触ってみたり、一緒に風呂に入って体を触ってみたり」
「え、一緒に風呂に? 隊長も意外と」
「…………」
「申し訳ありませんっ!!」
「そ、それでどうなったんですか?」
「……風呂ではくすぐったいと笑われ。ベッドでは触られながらさっさと眠ってしまった」
『………………』
「……隊長。その……それって、男として意識されてないんじゃ……」
「…………」
『申し訳ありませんでしたぁ!!!!』
 ライアンはふ、とため息をついた。男として、というか、恋人としては意識してもらっていると思う。キスするたびにホイミンは本当に幸せそうに微笑むし、自分からもキスやハグを仕掛けて、求めてきてくれる。
 だが、性欲を抱いてくれるかどうかとなると。どんなアプローチもスルーされて、まだ手を出すのは早いのではないかという考えが先にたち。
 なのに一緒に風呂には入りたがるわ寝る時は同じベッドでしかもここ数ヶ月素っ裸でくっついてくるわで、ライアンはここ数ヶ月ずーっと睡眠不足なのだった。
 ライアンの目には、ホイミンはいつも、たまらなく可愛らしく美しく、愛おしく見えるのだから。

「風は流れて花を浮かべる、空に世界に花の香満ちる……=v
 しゃらん、と竪琴をかき鳴らして歌い終えると、周囲の子供たち、そしてその親たちからいっせいにわっと拍手が送られてきた。ホイミンは嬉しげな笑顔を浮かべて周囲に頭を下げてみせる。
「兄ちゃん、すっげー! すっげーじょうずー!」
「とても素敵でしたわ! 他の吟遊詩人さんなんか比べ物にならない!」
「ありがとうございます」
「ねぇー、お兄ちゃん。私とケッコンしてー?」
「ごめんね、ボクはもう好きな人と一緒に暮らしてるから、結婚はできないんだ」
「ライアンさまとー?」
「これっ!」
 少女の遠慮のない口調に苦笑する。この一年この街で暮らしてきて、方々の道で歌って、自分の顔は街中に知られていた。自分がライアンと一緒に住んでいることも知られている。だから、ホイミンは笑ってうなずいた。
「うん。……ライアンさんと」
「えー、でもー、おとこどうしじゃこどもつくれないってママがいってたよー?」
「おやめっ!」
「うん……子供は作れないけれど。でも、それでもボクにとってライアンさんはただ一人の好きな人なんだ」
「トコジョウズだから?」
「……え?」
「パパがいってたの。あれほどウキナをながしたライアンさまをウワキもさせないでいっしょにくらしてるなんて、すごいトコジョウズにちがいないって!」
「ばかっ! お黙りっ! あ、あはは、すいませんこの子ったら、じゃあっ!」
 子供を抱えて大急ぎで去っていく親子。他の親もごまかすような笑みを浮かべて子供を引っ張り去っていく。
 ホイミンはその場に立ち尽くしていた。うきな。うわき。とこじょうず。知らない言葉だ、だけどなんだか不安な気持ちになる言葉だ。
 だって自分は、そんなライアンは知らない。ライアンはそんな言葉を、そんな自分を教えてくれない。
 なんでだろう。
 そう考えたら、空がふっと曇ったような気分になった。

 体を鈍らせないためと後進の指導のため、ライアンはいつも午後のうち四時間を稽古に当てている。その分書類仕事にしわ寄せはくるが、いざという時に近衛隊長の任を果たせなくなるよりずっといい。
 激しく稽古を行っている修練場の脇で、まれに貴族の令嬢らしき人がタオルを持って待っていることがある。たいていそれは自分に対して送り込まれてきた女性だ。
 自分の名声と王の寵愛はよほど魅力的に見えているらしい。それとも恋人が男だから落としやすいとでも考えているのか。舐められたものだ。
 今日もそんな日で、稽古が終わるまで目を潤ませながら待っていた女性は稽古が終わるやライアンのところに駆け寄ってきた。他の男が目当てであったらよいのだが、という自分の希望ははかなく潰える。
「ライアンさま、わたくし、あなたを待っておりましたの……さ、汗をお拭きします」
「いや、けっこう。自前のものがあります」
 ライアンはあっさり断って自分のタオルで顔を拭く。唇を噛む女性は年の頃は二十代の後半というところだろう。おそらくは夫と気が合わず出戻ってきた女性が自分に目をつけたというところか。
 女性はめげずに、笑顔を作ってすり寄ってくる。
「わたくし、ライアンさまとぜひお近づきになりたいんですの……ライアンさま、わたくしのことを覚えてらっしゃいます?」
「いえ」
「……わたくしゼリナ伯爵家のメイフォアと申しますの。わたくし、以前陛下が開かれた園遊会から、あなたのことをお慕い申し上げて……」
「申し訳ありませんが、私には愛する者がおります」
「承知しております。ですが、ですが、せめて一夜のお情けをいただけませんか? ライアンさまの恋人は男性でいらっしゃるとか。女を抱きたいと思われることもあるでしょう……?」
 露骨に囁いて体を摺り寄せてくる女性。確かに美しいといわれるに足る顔立ちではあるのだろう――けれど、目が欲にひどく濁っている。
 ライアンは軽く女性を突き放し、首を振った。
「申し訳ないが、あなたでは私は役に立たぬと思います」
 女性はカッ、と顔を赤らめ、ぶるぶると震え出し、タオルを投げつけると足音も高く去っていった。部下たちが苦笑しながら言ってくる。
「またですか、隊長?」
「ああ」
「やれやれ、いい加減無駄だってわかんないんですかねぇ。隊長がホイミンさんにぞっこん惚れこんでるのは誰が見てもわかるでしょうに」
「まったくだな」
「でも隊長、役に立たないっつーのはひどくないっスか? いくらなんでも」
「仕方あるまい。事実だ」
『……え?』
 固まる周囲の部下たちをよそに、ライアンはホイミンのことを考えていた。
 間違いなくさっきの女性に言ったことは事実だ。ホイミンのあのたまらなく清らかで美しい瞳を見てしまったというのに、いまさらあんな濁った瞳の女相手に役に立つわけがない。
 と言いつつも、ホイミンを相手に自らが男性としての役割を果たせたことは一度としてないのだが。一緒に風呂に入る時も、一緒に寝る時も、朝キスをする時でさえ、ライアンは必死に昂ぶりを抑えているというのに。

 気持ちにのっしりと翳りを落としながら、ホイミンは夕食の買い物をして夕食の支度をした。パンは朝に焼いた残りがあるからそれを焼き直せばいい、あとは野菜と肉と、ジャガイモで副菜を――などと考えつつも心に微妙な翳りが落ちているのをしっかり感じる。
 うきなってなんだろう。うわきって、とこじょうずって。ホイミンは買い物をしながらため息をつく。ただ知らない言葉というだけならこんなに考え込んだりしない、それがライアンと自分に向けられた言葉だから、自分の知らないライアンを示す言葉だからたまらなく気になるのだ。
「おうライアンさまんちの奥さん、そんなに考え込んでどうしたい?」
 馴染みの野菜売りのおじさんの心配そうな声に我に返り、なんでもないですと笑って買い物をする。そうだ、考えていたってしょうがない。ライアンさんに聞いてみよう、ライアンさんはきっとすぐ答えてくれる。
 うん、とうなずいてホイミンは家へと戻った。いつも通りにライアンが帰ったらすぐに温かい食事を取れるように時間を見計らって夕食の準備をする。
 肉を叩いて薄く延ばし油で揚げてカツレツを作り、その片手間にマッシュポテトとサラダとベーコン入り野菜スープを作る。時間を確認して、ライアンが帰ってくるまであと十分、というタイミングでパン生地をオーブンに入れ焼き始める。
 いつも通りに、パンが焼きあがる頃合に、ライアンは家に帰ってきた。
「お帰りなさい」
 いつも通りにホイミンは玄関まで駆けていってライアンを出迎える。ライアンが鼻をうごめかして嬉しげに顔を緩め、ホイミンの方を向いて微笑んで両手を大きく広げてくれる。この瞬間がたまらなく好きだ、とホイミンはいつも思うのだ。
 力強いハグと、優しいキス。お互いの匂いを嗅ぎあって、今日一日なにがあったかの簡易報告に代える。ライアンから漂ってきたのは、いつも通りの汗とインク、それにちょっと香水の匂いが加わっていた。もしかしてまた女の人に迫られたんだろうか、と思うとホイミンはちょっと面白くない。ライアンさんがカッコよくて女の人から好かれるのは当たり前だけど、自分の知らない人が知らないところで迫るのは嫌な感じがする。それはしっとという気持ちなのだ、とホイミンはライアンに教わった。
 きっとそれについてはいつも通りにあとで報告してくれるだろうから、ホイミンはにこっと笑ってライアンに言う。
「食事、ちょうどできたところだよ」
「そうか。いつもながら見事なタイミングだな」
 優しく笑って頭をくしゃくしゃにしてくれるライアンに、ホイミンは嬉しくなる。自分のしたことがライアンの役に立つというのは、何度やっても本当に嬉しい。
 ライアンが鎧やら武器やらを外して身軽になっている間に、ホイミンは手早く食事の準備をする。パンと主菜副菜を手早く皿に盛り、飲み物も準備する。人間の大人の男の人はお酒が好きなのだと最初は思っていたが、ライアンは酒も煙草もやらなかった。相当強いのは確かなようなのだが。
 居間で小さなテーブルを挟んで互いに向かい合い、「いただきます」と礼をして食べ始める。食べながら今日一日のことを互いに語り合う。これもいつも通り。
「今日お前の作ってくれた弁当を食う時、うまそうだと部下に褒められた」
「えぇ? 本当? 嬉しいな」
「本当だ。うまそうなのではなくうまいのだと言ったら、のろけだと言われた」
「もう……ライアンさんたら」
「稽古のあと今日は女に待たれていてな。迫ってきたので追い返した」
「そうなんだ」
「ああ。……お前の方はどうだった?」
「ボクはね」
 ホイミンはすぐに話し始めた。ライアンなら女性に迫られたことをちゃんと言ってくれたように、すぐに説明してくれるに違いないと思いつつ。
「今日は少し時間があったから楽器を持って街に行ったんだ。マズルカ通りの辺りで一曲歌ってね。みんな喜んでくれた」
「そうか」
「うん。それでね、その人たちに聞いたんだけど。ライアンさんはうきなを流してて、うわきしないのはボクがとこじょうずだからに違いないって言われたんだ。どういう意味?」
 その瞬間、ライアンの表情は凍った。
 完全に硬直したライアンに、ホイミンは驚いて首を傾げる。
「ライアンさん、どうしたの?」
 訊ねてもライアンは固まったまま動かない。ホイミンは少し悲しくなって、首を小さく傾げ訊ねた。
「ボクが聞いちゃ、いけないことだった?」
「……いや……そういう、わけでは。……ない」
 答えは途切れ途切れで苦しげだった。ライアンさん、困ってる? そう思うとホイミンはひどく申し訳ないような気分になって、胸のところでぎゅっと拳を握り締めた。
「ライアンさん、言いたくないことなら言って。ボク、ライアンさんが言いたくないなら聞かないから」
「いや、言いたくないわけでは……。………。そうだな。私はたぶん言いたくないのだろう。お前には」
「…………」
 もしかしたらそうかもしれないとは思っていたが、ライアンの言葉はさすがにショックだった。ライアンさんはボクに言いたくないことがあるんだと思うと悲しくて、小さく唇を尖らせてうつむく。
 ライアンはそんなホイミンを見て少し慌てたように言った。
「勘違いするな、ホイミン。言いたくないのは確かだが、言えないわけではない。単に、私がお前には格好をつけていたいからにすぎないのだからな」
「え……格好?」
「ああ。お前が好きだから、みっともないところを見せたくないのだ」
「ライアンさんはいつだってカッコいいよ」
 ホイミンにとっては当たり前なその事実を言うと、ライアンは苦笑する。
「以前も、そう言ってくれたがな。私はお前と出会う前は、相当にろくでもない奴だったよ」
「そんなこと……」
「あるんだ」
 ライアンは暗く笑む。ホイミンにとっては初めて見るそんな表情に少し戸惑った。
「……私はお前に嘘はつきたくない。だが、言ってしまえばきっと、お前は傷つく。うぬぼれかもしれんがな」
「ボクは、ライアンさんがくれる言葉でなら、傷ついても、いい」
 ライアンは一瞬息を呑んだ。ホイミンはライアンをじっと見つめる。正直な言葉だった。ライアンがライアンである限り、ライアンのくれるものにいやなものなんてきっとない。傷ついたとしたって、ライアンのためについた傷なら嬉しいとさえ思えるだろう。
 自分は、ライアンが大好きなんだから。
「……ホイミン」
 どこか苦しげな息をつき、立ち上がった。料理の載ったテーブルをゆっくりと周り、自分の方に近づいてくる。
 そして、抱きしめられた。なぜそんなことをしてくれたのかはよくわからないけれども、ライアンに抱きしめられるのは嬉しいので抱き返す。ライアンはぎゅっと自分を抱きしめたままちゅ、ちゅ、と耳元にキスを落としてきた。
 思わず笑ってしまう。
「ライアンさん、くすぐったいよ……」
 ライアンは答えなかった。耳元のキスを少しずつ下に移動させていく。耳の後ろから首筋へ。首筋から胸元の鎖骨へ。そしてホイミンの体を支えていない方の手は、少しずつホイミンの太腿やら尻やらを撫で回している。
 ホイミンはなにをしているのかよくわからなくて、くすくす笑った。くすぐったいというか、むず痒い。だがライアンさんがしていることなんだから、これにはきっとちゃんとした理由があるんだろうと抵抗はしなかった。
 だが、その手が自分の服を脱がせ始めた時には、さすがに驚いた。
「ライアンさん、ごめん、まだお風呂準備できてないんだけど……」
 普段は帰って食事をしてから一緒に準備するのに、どうしたのだろうかと思いつつライアンを仰ぎ見る。なんでこんなことをするんだろう?
 じっとホイミン払いアンを見つめる。すると、ライアンはひどく苦しげな顔をして動きを止め、ぎゅっと奥歯を噛み締めながらホイミンから手を放して微笑んだ。
「そうだな。すまなかった、私が愚かだったな」
「…………」
「さぁ、食事をしようか。せっかくお前が作ってくれたうまい料理が冷めてしまう」
「…………」
 言っていいものだろうか、とホイミンは少し悩んだ。だが、やはりどうしても気になる。おかしいとしか思えない。だって、ライアンさんは。
「ライアンさん、なにか言いたいことがあるんじゃない?」
「……気のせいだろう?」
「だって、ライアンさんなにか我慢してるような顔してる」
「…………」
 ライアンは困ったような顔をした。聞いちゃいけなかったのかな、と思うがどうしても気になったのだ。ライアンとは喜びも苦しみも分かち合いたい、そう思うのだから。
 ライアンは眉間に皺を寄せ、顔を片手で覆うようにしながら呻くように言う。
「私には、わからないのだ」
「なにが?」
「私がお前を穢していいのかどうか」
「……穢す?」
「私はお前を抱きたい」
「抱いてるじゃないか」
 さっきもしたばっかりだ。
「……そういうことを本気で言ってしまうようなお前を、私が犯すようなことをするなど許されないのではないかと思ってしまうのだ」
「おかす?」
 どういう意味だろう。
 首を傾げるホイミンに、ライアンは苦笑して背を向けた。
「そのような欲望を抱いたこともないのだろうな……ならば、やはり私は、劣情など放り捨てるしかない。お前に無理を強いたいわけではないのだから」
「ちょ……ライアンさん!」
 ホイミンは思わずたっと駆け寄り、ライアンの背中に抱きついた。
 どういう意味なのかはさっぱりわからない。わからないけど。
「ボク、ライアンさんが無理するのは、いやだよ!」
「ホイミン……だが、これはせねばならぬことだ。私はお前を傷つけるくらいならば地獄に落ちる方がずっといい」
「そんなのいやだ!」
「……ホイミン」
「ボクはライアンさんが苦しいのが一番いやなんだ! ライアンさんが不幸になるのが一番いやだ! だから傷ぐらいいくらつけられたっていいし、言ったでしょ、ライアンさんにつけられるんなら傷だって嬉しいよ! だからライアンさん、お願い、ボクにちゃんと気持ち言って? ライアンさんが苦しんでいることを解決するには、どうすればいいのかボク一緒に考えたいよ!」
「ホイミン………」
 ライアンはひどく苦しげな顔をしてホイミンを見る。ホイミンはもうたまらなくなって、ライアンにキスをした。唇と唇をくっつけて、舌を侵入させ、相手の舌や口内を舐め回す。キスというのはそういうものなのだとホイミンはライアンに教わった。
 そして、キスは好きだという気持ちを表す方法なのだとも。
「…………っ」
 ライアンが唸るような声を上げて、ホイミンを床に押し倒した。え? なに? と思う暇もなく、あっという間に自分は服を脱がされていく。
 ほとんど引きちぎるような勢いで上着を引き剥がされ、ズボンを引き摺り下ろされ、下帯を解かれ。素裸になったホイミンに、ライアンは何度もキスを落としてきた。
 唇だけでなく、体中に。喉元を吸い、鎖骨に軽く歯を立て、それから乳首を口に含んで。
 ホイミンはわけがわからず、必死にライアンに言った。
「ライアンさんっ、どうしたの? なにかボク、いけないことした?」
「ホイミン」
 ライアンは答えず、体への愛撫を続けた。まるでホイミンの体を食べようとでもするように、体中に口付け、舐め回し、吸い上げる。
 ホイミンは震えていた。なんだろう、なんでライアンさんはこんなことするんだろう? 怖い。こんんなこと思うの初めてだけど、ライアンさんが怖い。魔物に食べられそうになった時だってこんなに怖くなかった。怖い、怖い、泣き出しそうだ。ライアンさんの目が、雰囲気が、自分をたまらなく怯えさせる。
 これがライアンさんの我慢してきたこと? こんなことをしたかったの? やだよ、怖いよ、ボクはこんなことするなんて考えたこともなかったのに。
 ――でも、どうしてだろう。なんだか胸がたまらなくドキドキしてる。
 ライアンが心の底から真剣に見えるから? ライアンの目の輝きが普段と違うから? わからない、わからないけど。ライアンに好き勝手されているこの感覚は、まるで食われているようなこの感覚は。怖くて、怖くて、心臓がひどくドキドキして、体中が痺れるほどぞくぞくした。
「ホイミン……」
「ライアンさん……」
 熱に浮かされたような気持ちでライアンを見上げる。ライアンは少し戸惑ったような顔でホイミンを見下ろしていた。
「……嫌ではないのか」
「いやって、なにが?」
「私に触られることがだ。私は一瞬我を失っていたし……」
「そのくらい平気だよ」
「……それだけでなく、私はお前にもっといろいろなことをしたいと思っている。お前から見れば吐き気を催すようなこともするかもしれない」
「ライアンさんなら、平気だよ。なにされたって相手がライアンさんなら嬉しいよ。ボク、ライアンさん、大好きだもん」
 腕を伸ばし、頭を引き寄せて、ちゅ、と軽くキスをする。とたん、ライアンは顔を赤らめた。ライアンのめったに見せない、子供っぽい表情。そんな顔は初めて見たので、ホイミンは思わず微笑んでしまう。
「ライアンさん、可愛い」
 ライアンは苦笑すると、ホイミンをひょいと抱き上げた。
「わわ」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだけだぞ」
 ライアンに抱き上げられるのは好きだ。不安定な体勢はちょっと怖いけど、自分の体をライアンがどうとでもできるのだと感じることは、不思議に胸を気持ちよく高鳴らせることだったのだ。
 ライアンは寝室にやってくると、ホイミンをそっと寝台の上に下ろした。それからぐいっとシャツをまくり上げるようにして脱ぎ、ズボンを下ろし、下帯を解いた。え、これからお風呂に入るの? と怪訝に思う、だが口には出せなかった。ライアンの割れた腹筋を背景に、ライアンの大きくなった性器がぴくんぴくんと震えているのを見て、なぜかひどくどぎまぎしてしまったからだ。
 ライアンがすっと自分の上に体を乗せる。体と体が触れ合う。体の両側に腕をつき、ライアンの顔が降りてくる。なんでだろう、別に普通のことのはずなのに、お風呂やなんかでしょっちゅうやっていることのはずなのに、ライアンの体が触れたとたん体がびくんと震えてしまう。
「ホイミン」
 ライアンの唇が熱を持った言葉を囁きながら、自分の体に触れる。唇、耳、あご、喉、肩、鎖骨、胸、腹、脇腹、太腿、ふくらはぎ、それから足の指まで――
「ライアン、さん……」
「どうした?」
 優しく微笑みながら足の指にキスを落とすライアンに、ホイミンはおずおずと言う。
「ボクの足の指、くさくない?」
 ライアンは意表を衝かれたような顔をして、それから笑った。
「お前が私に傷つけられてもいいと思うように、私もお前のすべてを味わいたいと思うのだ」
「え、それって、う、ん……あ!」
 しばし丹念に足の指を舐めてから、ライアンはホイミンの性器に口をつけた。そこはなぜか硬く張り詰めている。ライアンはなぜか嬉しげに、ホイミンの性器をしゃぶり、吸う。
「ライ、アンさん……ライアン、さんっ」
 なんだろう、なんだか変な感じだ。体が、腰の奥の方がうずうずする。爆発しそうなのにあともう少しで弾けられない風船みたいだ。あともう一押しという微妙なあたりで、ライアンの口の動きは自分を翻弄する。
「ライアンさん、ライアン、さん……」
 ただひたすらに名前を呼んだ。この感覚を与えているのはライアンだ。自分を支配して動かしているのはライアンだ。そう思うと体中が潤むような感覚を覚えたが、自分だけがやられているというのはなんだか面白くなかった。自分だけではいやだった。ライアンに与えられ支配されるだけでなく、自分も与えてライアンが自分のものだと感じたかった――
「ライアン、さん……」
 くい、とライアンの短く刈った髪を引っ張る。ライアンはわずかに眉をひそめ顔を上げた。
「ホイミン」
「ボクばっかり、は、いやだ……ボクにも、ライアンさん、いっぱい、ちょうだい。ライアンさん、いっぱい、ほしい……」
 なんだかうわごとのような自分の台詞に、ホイミンは思わず顔を赤らめた。うわ、なに言ってるんだろうボク。ライアンさんが自分のものだなんて、なんだかすごく態度大きくないか? なんだか、すごく、恥ずかしい……。
 ライアンは呻くような声を上げた。どこか獣じみたその声。ホイミンは思わずどきりとする。怖いという気持ちも少しはあったが、今はそれ以上にもっと見せてほしい聞かせてほしいという気持ちの方が勝った。
 もっと、ボクに、ライアンさんを全部見せて。ライアンさんの気持ちを、ボクに向けられるもの全部、ボクにちょうだい。
 そんな気分だったから、ライアンに「腰を上げてくれ」と言われた時も素直に上げた。ライアンの言葉に従うのはただでさえ気持ちのいいことだったが、それ以上にその声ににじむ欲望に、たまらない気分になる。
 腰の下にクッションが挟まれ、自分の肛門にライアンの濡れた指が触れた時は驚いたが、それでもライアンの頭を見つめながら堪えた。自分の中に指が入ってくる感覚、中をまさぐられ広げられていく感覚というのは胃が口から溢れ出てしまうのではないかと思うような、微妙な吐き気を催させたが、きっとライアンにとってはこれも大切なことなのだ。
 長い時間をかけて肛門をほぐされ、体のあちこちを愛撫されながら広げられ。なんだかだんだんわけがわからなくなってきた頃、ライアンが熱をこめて囁いた。
「挿れていいか、ホイミン」
「…………」
 挿れるって、なにを、どこに?
 疑問には思ったが、頭がほわほわしていてそんなこと聞く余裕なんてなかった。それにライアンがくれるものなら、いやなものなんてきっとない。
 だからホイミンは、愛撫に喘いで濡れた顔で、こくんとうなずいた。
「ホイミン……っ」
 ライアンはどこか切羽詰ったような声で叫び、自分に踊りかかってきた。なんだ、と思うより早く、肛門のところに凄まじく硬い熱を感じる。
 え、これってもしかして、と思ったとたんホイミンは真っ赤になった。え、えー、これって、あれ? だって、えー? こんなのありなの?
 別に今までの風呂場でのじゃれあいと行為自体は変わらないものだったかもしれない。けれどなぜかひどく興奮した。心臓がドキドキして壊れそうだ。硬くて力強くてぬるぬるした熱は、ずるぅり、ずるぅりと中に少しずつ押し入ってくる。
 指よりもっと太いものが入ってくるのだから(風呂場で見たライアンのあれはすごく大きかった)もっと吐き気を感じてもいいようなものなのに、ホイミンは気持ち悪いとは感じなかった。背筋に走る痺れ。ライアンが腰を進めるたびにぞくぞくぅ、と不思議な悪寒とも快感ともつかない震えが体中を走る。
「ホイミン……ホイミン」
「ライアンさん……っ、は」
 愛おしげに囁くライアンの声に応えながらもホイミンの息は荒かった。心臓は早鐘を打つし、体温は勝手に上がる。ず、ず、と熱く太いものがどんどん奥に入ってくるのだから当然だろう、息も荒くなろうというものだ。
 ぐいっ、とライアンが腰を押し進め、ライアンの腰とホイミンの腰がしっかりと密着した。ホイミンは「あっ!」と小さく叫び、体を震わせる。ライアンが小さく呻いた。
「……どうした、ホイミン?」
 ライアンの顔。汗にまみれている。少し苦しげに歪んだ顔。でも、優しい顔だ。ホイミンは胸の中からどんどん溢れそうになる、心身を潤ませる光に似たなにかに泣きそうになりながら、ライアンの顔をなでた。
「ボク、嬉しくて」
「なにがだ?」
「体の中、ライアンさんで、いっぱいで、ライアンさんとすごくくっついてて、ぴったりで、繋がってて……それ感じたら、もういっぱいで、嬉しいのがわってきて、たまんない……」
 ホイミンのそんな支離滅裂な言葉に、ライアンは一瞬絶句し、それからわずかに苦笑したように見えた。
「本当に……お前という奴は」
 ライアンがゆっくりと腰を動かし始める。「あ、あ!」とホイミンは悲鳴を上げた。いや、むしろ嬌声か? なんだろう、熱がどんどん混ざり合っていく。ライアンと自分が混ざって、境目がわからなくなっていく。
「ライアン、さん、ライアンさん、ライアンさ」
「ホイミン、ホイミン……愛している、愛している……」
 熱に浮かされたようなライアンの声。ライアンも自分と同じように熱を感じてくれている。そう思うとさらに体の熱が上がった。ライアンの熱い手が体中を愛撫する。名前を呼び合うたびにどんどん熱が加速する。体も頭も魂も、全部がライアンへのすきでいっぱいで、全部がどんどんはちきれそうに膨らんでいく――
「ライ、アンさんっ……!」
「ホイミン……!」
 弾けた、と思った瞬間、ホイミンはかくん、と体中から力を抜いた。一気に気が抜けて、あっさり気を失ってしまったのだった。

 ライアンの作ったスープを(ライアンとて独り身の時間が長かったのだ、料理くらい作れる)ホイミンはベッドの上で嬉しそうに飲んだ。
「おいしい!」
「そうか。よかった」
 微笑むライアンに、ホイミンは嬉しそうに微笑み返しながらも首を傾げる。
「でも、人間ってやっぱり難しいんだね。まぐわいに負担がかかるなんて。ボク、ちゃんと起きて料理作れると思うんだけどなぁ?」
「そう言うな。初めての朝くらい私に面倒を見させてくれ」
「……うん。えへへ」
 照れくさそうに笑うホイミン。可愛らしいな、と我ながら色惚けた頭で思いながら、ライアンも微笑む。
 ホイミンはあのあと(双方がイったあと)、気を失ってしまったが、ライアンが手早く気付けを施したせいですぐに覚醒した。自分では冷静なつもりだったが、性交のあとで自分も気が動転していたのだろう、性交で気絶した相手に軍隊式気付けを行ってしまった。
 それからいつものように裸でくっつきあいながらいろいろと話をして、というかまぁいちゃついて、眠気が訪れるのを待った。そのうちにライアンがまた兆してきてしまったり、ホイミンが顔を真っ赤にして股間を昂ぶらせながら抱きついてきたりして何度かまたしたりもした。食事はあらかた終えた後だったのでさほど腹が減りはしなかったし、後片付けなんて頭に上りもしなかった(そして、ライアンが今朝方片付けた)。
 そして、ホイミンはこんなことを聞いてきた。
『ライアンさん、これがしたいことだったんだよね。これって人間の言葉でなんていうの?』
 教えてやると、大きく目を見開いて言ったのだ。
『えぇっ!? 人間の男同士で、まぐわいってできるの!?』
 つまり、ホイミンにも性交の知識はあったらしいのだ。ただそれが魔物のものだったので人間になった自分たちに当てはめられず、人間の男同士はそういうことをしないものだと思い込んでいたらしい。
 遠まわしに接触してみたりせず真正面から性教育を施すべきだったか、と苦笑したくもなったが、今はもうそんなことはどうでもよかった。こうしてホイミンと、愛しい人と、愛を交わすことができたのだから。
 愛する人と熱を交わすということがあれほどすごいものだとはライアン自身初めて知った。ホイミンはいつも初めての幸福を自分に与えてくれる、と微笑んで、スープを飲み終えたホイミンの髪を撫でると、ホイミンも微笑みを返す。幸せな心持が胸に満ちた。
 と、ホイミンがまた首を傾げ訊ねた。
「そういえば、昨日聞けなかったことなんだけど」
「なんだ?」
「うきな≠ニうわき≠ニとこじょうず≠チてどういう意味だったの?」
 ライアンは思わず固まって、それからぎこちない笑みを浮かべた。
 さて、この愛しい世間知らずに、なんと言ってやるべきだろうか?

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