君は変わり、変わらない
「ライアンさーん。手紙が来てたよ」
「手紙? 誰からだ」
 非番の日。ぽたぽたと走ってきたホイミンの言葉に、ライアンはわずかに眉をひそめる。手紙をくれるような人間に心当たりはないというわけではない。共に旅をした大切な仲間で友である、ユーリルやクリフト、トルネコなどから手紙をもらうことはたまにある。バトランドから離れた地に住まうかつての同僚や後輩、上司などもいる。
 だがそのうち誰からでも少しばかり奇妙というか、違和感というか、普段と違う感じがある。ユーリルからは一ヶ月前ハバリアに到着してモンバーバラに向かうという手紙をもらった。クリフトからは二週間前、トルネコからは一週間前に近況報告等についての手紙をもらっている。ユーリルはそう筆まめな方でもないし、クリフトとトルネコからにしては少しばかり早すぎる。他の知り合いはどれも手紙を書くような人間ではないし。
 そういう疑問を込めた問いに、ホイミンはあっさりと答えた。
「ユーリルさんと、マーニャさんからみたい」
「ユーリルとマーニャの連名か?」
「うん」
 これはまた珍しい、と首を傾げながらもライアンは手紙を受け取った。マーニャは手紙を書くなんて面倒くさい、ルーラ使えばすぐ会えるんだから会いに行けばいいじゃない、というタイプのように思っていたのだが。
「ね、ね、ライアンさん、なんて書いてあるの?」
「うむ……」
 ペーパーナイフで封を切り、手紙を取り出す。普段より上質な紙の手触りを感じながら、開けて読み上げた。
「……『ライアンさんへ。久しぶり、ってほどでもないよな。実は今回手紙を書いたのは、すごく重要な用事があるからなんだ。俺ことユーリルと、マーニャは、今度』……」
 一瞬、ライアンは固まったが、すぐにまた口を開く。
「『結婚することにした』」
 一瞬の沈黙ののち、ホイミンが「ほんとにっ!?」と歓声を上げた。

「お、ライアンさん、おひさ! もう来てくれたんだ!」
 手紙に書いてあった、結婚式まで二人が泊まっているというモンバーバラの宿の部屋。手紙を読み終えるや即座に準備してホイミンと共にキメラの翼で飛んできて(一緒に旅をしていた頃モンバーバラに来たことがあったのだ)、宿の主におとないを告げて部屋まで案内してもらった。
 軽くノックするや「はーい!」と明るい声でいらえがあり、元気な足音が立って扉が開き、ユーリルが満面の笑顔で出迎えてくれる。もう二十歳をとうに越えているというのに、扉を開けるや冒険していた時と変わらない明るい笑顔で笑いかけてくれるユーリルに、ライアンはわずかに笑んだ。
「久しぶりだな、ユーリル。マーニャは一緒ではないのか?」
「そっれがさー、マーニャってば結婚式やるからには派手にやるわよ! っつってさ、踊ってた劇場に頼んで観客入れた結婚式やるっつーんだよな。だからそのための練習とかでもーめっちゃ忙しーの。もうここに一ヶ月くらいいるけどさ、深夜くらいしか会えないんだぜ」
「そうか……」
「あ、心配しなくても仲間内での結婚式はまた別にちゃんとやるからな。そっちの準備は全部俺がやってんだけど結婚式ってけっこう……あ、お前」
 ライアンの後ろに隠れるようにして立っていたホイミンはその声にびくりとし、おずおずと前に出て頭を下げた。
「こんにちは、ユーリルさん。お久しぶりです」
「おう、久しぶり! 話は聞いてるぜ、ライアンさんと一緒に暮らしてるんだって? 好きな人と一緒に暮らせるようになってよかったな!」
「は、はいっ」
 にかっ、と笑顔で言われた言葉に、ホイミンは少し頬を染めながら大きな声で答える。珍しく少しばかり恥じらうような表情に、ライアンは微笑ましい気分になった。
 ユーリルたちとはキングレオ城で会ったと聞いているが、どこまで突っ込んだ話をしたかまでは聞いていない。もしかしたら顔を合わせるのが恥ずかしいような話までしたのかもしれない、と考えるとライアンも少しばかり気恥ずかしい気もしたが。
「手紙にも書いたと思うけどさ、結婚式は七日後と八日後の予定なんだよな。派手にやるのが七日後で、内輪のが八日後。忙しないけどさ、いちいち間ぁ空けんのも面倒っつーか、盛り下がるじゃん? だから一気にやっちまおーって」
「そうか」
「まだ間ぁあるのにわざわざ来てくれてありがとな。で、今日は泊まってけんの?」
「ああ、そのつもりだ。今日がたまたま非番に当たっていたのでな。サントハイムの方々やトルネコ殿、ミネア殿は来ているのか?」
「んー、ライアンさんたちが最初。今日届けたばっかだからな、クリフトやトルネコさんだってまだ気付いてねーんじゃね?」
「……? もしや……そういえば封筒には切手が貼っていなかったな。まさかユーリルたちが直接届けて回ったのか? ならば声をかけてくれればよいものを」
「いやーだってさー、なんつーか。照れくさいじゃん? なんつーかその……結婚します、とか面と向かって言うのとかさ」
「……そういうものかもしれんな」
 自分もホイミンとのことについては、仲間たちにも手紙で知らせただけだったのだし。
「あ! そうだ、一番最初に言わなきゃならないこと忘れてた!」
 笑みを浮かべながら自分たちを見つめていたホイミンが、ふいに声を上げた。「え?」と目をぱちくりさせるユーリルに、ホイミンは満面の、ひどく嬉しそうな顔で言う。
「ユーリルさん、ご結婚おめでとうございます!」
「…………」
 ユーリルは一瞬目を見開き、それからわずかに苦笑して、笑顔でホイミンの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「おーっ、あっりがとーっ! いー奴だなお前っ、ライアンさんの惚れた人なんだからそーだろーとは思ってたけどさっ」
「わ、わわわわ、ありがとうございますっ」
 恥ずかしがり慌てながらもしっかり礼を言うホイミンに思わず笑みを浮かべながらも、ライアンはふむ、と少し考えていた。そして言った。
「ユーリル。お前は結婚式の準備などで忙しいとは思うが……今日、時間は取れるか?」
「え? あ、うん。準備っつってももうほとんどのとこは終わってるし。あとは当日になんないとどーしようもないとこだから、大丈夫だけど?」
「ならば、共に飲まないか?」
 くい、と杯を傾ける真似をしてみせると、ユーリルは一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐににやりと笑った。
「いーのかよ。俺、けっこう飲むぜ? ここ二年で相当鍛えられたからな」
「かまわん。どちらが先に潰れるにしろ、お互い酔っ払いの面倒を見るのは慣れているだろう」
 ユーリルはぷっ、と吹き出した。くっくと笑いながらちろりとホイミンを見やる。
「まーな。俺はマーニャでだけど。ライアンさんは、そいつで?」
「いや、ホイミンとは数えるほどしか一緒に飲んだことはないな。ホイミンは酒に弱く、数杯ですぐに潰れてしまうので」
「え、そーなの?」
「あ、はい、そうです。ボク、水ものは得意なんですけど、お酒には弱くって」
「ふぅん……? じゃあ、誰と?」
「王宮戦士の同僚には、酒を飲む人間がいくらでもいる」
「……ふーん」

 飲むといっても、時刻は午後三時を回ってしばらくというところ、まだまだ日は高い。なので日が落ちるまでユーリルにモンバーバラを案内してもらうことにした。ホイミンと共に来たこともあるが、あの頃はホイミンはホイミスライムだったので今はまた違う楽しみ方があるはずだ。
 それにできるならユーリルにはある程度体を動かしておいてほしい。
「ライアンさんと一緒に街歩くなんて、一緒に旅してた時でも相当珍しかったよなー」
 ユーリルと一緒に宿屋を出てすぐ、少しばかり浮かれた調子でユーリルが言うのにライアンは首を傾げた。
「そうだったか?」
「そーそー。ライアンさんってマイペースっつーか、どこ行っても淡々と買い物してそれが終わったら鍛錬しかしねーんだもん。武器屋とか道具屋とかは一緒に行くけどさ、観光とか全然興味なかったじゃん」
「……ふむ」
「あはは、ライアンさんらしい。ライアンさんって、自分が楽しいことしようとか、あんまり考えないよね」
 ホイミンがくすくす笑いながら言った言葉に、ライアンはわずかに眉をひそめた。
「そうか?」
 ライアンとしては、自分は基本的に自分のしたいことしかしていないつもりなのだが。
「うん。なんていうかさ、ライアンさんって、当たり前みたいに人の役に立つことばっかり考えるんだよね。人の役に立とう、とか考えるんじゃなくて、ライアンさんにとってはそれが呼吸するみたいに当たり前のことなんだ。そういう風に、ごく自然にみんなの役に立てるって、すごくいいと思うなぁ」
「……それは私にとって、他人より優先したいほどの欲望がなかったからでもあるぞ」
 ホイミンは驚いた顔をした。
「そうなの?」
「ああ、そうだ。私は周囲の人々の世話になりながら生きてきた。だからそれを返すべく、周りの人間の役に立つのが当然だった。だが、それはどうしてもしたい、というほどのことがなかったからでもあるのだ。酒も博打も、他の人間が楽しいと思うことを私はさして楽しいと思えなかった。それしか他にやることがなかったから人の役に立とうとしてきたのだ。私はそんな、つまらん男だぞ」
 ホイミンは少し考えるような顔をした。
「じゃあ、ボクのことで、周囲の人に迷惑かけても、ボクと一緒にいようとしてくれたのは、なんで?」
「……む」
 ライアンはわずかに口ごもった。だがホイミンは真面目な顔でこちらを見つめてきている。言わぬわけにはいかないか、と軽く気合を入れてから、じっとホイミンを見つめ返し言った。
「お前に関わることならば、私は世界一欲深な男だという自信がある」
「え」
「お前と出会って、私は初めて人を愛おしむことを知った。そしてお前を守りたいと、大切にしたいと、喜ばせたい幸せにしたいと次々と私の中に欲望が生まれた。……そうして、私は生き始めたのだ」
「……ライアンさん」
 ホイミンが、好きという想いを形にしたような瞳でこちらを見つめてくる。ライアンはそっとホイミンの肩に腕を回し抱き寄せた。
 そしてその時ユーリルが呆然とした顔でこちらを見ているのに気付いた。
「どうした。ユーリル」
「いや、どうしたってさぁ……」
 ユーリルは呆然とした顔のまま言って、頭を掻いた。
「いやー……なんか、すげぇもん見たって感じだわ。ライアンさんもいちゃつくことってあるんだなー」
「む」
 ライアンはわずかに眉をひそめる。確かに、公衆の面前で愛する者と見つめ合い肩を抱き寄せるというのは慎みがないことかもしれない。周囲から視線が飛んでくるのを感じる。ホイミンは気付いていないのか、きょとんとした顔でライアンとユーリルを見比べているが(ホイミンにはあまりこの類の羞恥心というものがない)。
「なんつーか、そいつ……ホイミン相手だったらライアンさんも普通の男になるわけか。なんか、ちょっとほっとしたな。よっ、色男」
 にやっと笑んで脇腹をつつかれ、ライアンは少しばかり憮然としたが、ホイミンの前でそんな顔は見せたくないので、軽く肩をすくめて「光栄だな」と返しておいた。
 それから二時間ほど全員でモンバーバラを回った。
「モンバーバラって劇場がすげー多いんだよな。歌と踊りの街ってのは伊達じゃないってわけ」
「歌と踊りの街か……私は伎楽にはとんと疎い朴念仁だが、それでも私にとってはホイミンの歌が世界一美しい歌だということは確信できるな」
「そう? 嬉しいな。ボクもライアンさんが剣の練習してるとこ、世界で一番カッコいいって思うよ」
「…………」
 時々は、ホイミンの教育に悪いのではないか、と懸念される場所もあったが。
「ここの通りはずーっと色町。ホイミンにはちょーっと早いかー?」
「え? いろまちって、来るのに早い遅いってあるの?」
「……いや、そう真正面から訊ねられると困るけどさ」
「心配することはない。お前には私がいる限り必要のない場所だ」
「そっか。じゃあずーっと必要ないね!」
「………………」
 ユーリルが周囲からかけられる声に答えたりするところも見たが。
「おっ、ユーちゃん! いい男連れてるじゃないの」
「なんだよ、俺がいい男じゃないみたいな言い方じゃん」
「だーって他の女のものな男なんてどんだけカッコよくても塵芥よねー?」
「……ライアンさんは、やっぱりいい男なんだね。ライアンさんがみんなに好かれるの、嬉しいけど、ちょっと、なんだか……悔しいな」
「気にすることはない、ホイミン。私も女性たちにとっては塵芥にすぎん。……私の心も体も髪一筋に至るまで、すべてお前のものなのだから」
「そうなの? じゃあ、ボクも塵芥でいいんだよね? ライアンさんがボクのものなら、ボクだって全部ライアンさんのものだって思うから。……本当は、ライアンさんをもの扱いしちゃうのとか、偉そうでちょっと嫌だし、『ボクのもの』とか言っちゃうの、恥ずかしい……けどさ」
「……ホイミン」
「ライアンさん」
『……………………』
 ともあれ全員で二時間ほど共に街を回ると、唐突にユーリルに頭を下げられた。
「すいませんもー降参です勘弁してください」
「? どうした、ユーリル」
「え、ボクたち、謝られるようなことされてない、よね?」
「あのさ。二人とも、自覚ないわけ?」
「なにがだ?」
「なにが?」
 ユーリルははーっ、とため息をついてから、顔を上げ怒鳴った。
「あんだけ人の前でいちゃこらいちゃこらしといてなんで気付かねーんだよバカップル! あんたらのいちゃつきっぷりはもー公害だっつーの!」
「………」
「え……公害、ですか?」
 思わずライアンは顔をしかめてしまった。バカップル。自分とホイミンが?
 自分は造語には詳しくないが、バカップルというのは確か人目をはばからず自分たちだけの世界に浸っていちゃついている恋人同士のことを指すはず。確かに自分たちは恋人同士だし、ホイミンといる時はいつもホイミンが視界の多くの割合を占めているのは確かだが、他人を認識していないわけではないし、普段と比べてさしていちゃついているというわけでもない。そもそもいちゃついている時のホイミンなど他人に見せたくはない。なのになぜバカップル呼ばわりされねばならないのか。
 ライアンは内心大いに不満に思いつつも、それをいちいち言い立てるのも大人気ないので眉を上げて不本意の念を表すだけに留めたが、ホイミンはユーリルの言葉をとても素直に受け止めたようで愕然とした顔をみせた。
「どうしよう……ボクが、ライアンさんに迷惑、かけちゃったんだ……」
「待て、ホイミン。なぜお前が私に迷惑をかけたことになるのだ?」
「だって、ライアンさんはいっつも大人で、人に迷惑かけることなんてしないじゃないか! いっつも冷静で、周りのことちゃんと考えてて。ボクのことがスキだ、って気持ち、すごく静かにしか出さないし。だったらボクが公害みたいに、えっと、いちゃつき? しちゃったってことだし」
「待て、ホイミン。それは違う。私は確かにお前より、気持ちを表すのはうまくはない。だが、心の中ではいつでもお前の誰よりもそばに在りたい、心を交わしたいと思っているのだぞ」
「でも、ボク……今日も、また変なこと、思っちゃったし」
「変なこと?」
「う、うん……あのね」
「うむ」
「や、やっぱり言わない。だって変だもん、すごく」
「教えてくれ、ホイミン。私はお前が思い悩んでいるというのなら、少しでもそれを解決する手助けをしたい。お前が辛いというのなら、それを軽くするために共に悩み、苦しみ、全力で力を貸したいと思うのだ」
「ライアンさん……」
「ホイミン」
 ホイミンは潤んだ瞳で自分を見つめる。自分もホイミンをありったけの誠心を込めて見つめた。この二年何度も繰り返した視線の交差。お互いだけが映る瞳を合わせていると、お互いの気持ちまで通い合う気がする。
 ホイミンはほんのりと顔を赤くしながら、恥ずかしそうに口にした。
「あのね……」
「うむ」
「……手」
「手?」
「うん……前にね、街で手を繋いで歩いてる人たちを見てね。なんだか、いいなって。一緒に手を繋いで歩けるって、すごくいいなって。あのね、まだボクがホイミスライムだった時、別れ別れにならないようにってよく手を繋いでくれたでしょ? あの時のこととか、思い出したりして……ご、ごめんね、変だよねやっぱりっ!」
「………いや」
 ライアンは少しばかり驚いて一瞬口ごもったが、とにかく首を振った。幼い恋人たちがそのようにして気持ちを確かめ合うのだということは聞いたことがあるが、ライアンがいわゆる付き合った¢且閧ニいうのは(全員向こうから誘ってきた相手だったのでライアンが選んだわけではないが)、全員ある程度年上だったので、そのようなことをしたことがなかったのだ。
 だが、自分も確かに覚えている。ホイミンがホイミスライムだった時、繋いだ手の感触。くすぐったいような胸の疼き。それは確かにひとつの幸福だった。
 なにより、ホイミンがそれを望むなら自分が叶えてやらない理由はない。ライアンは微笑み、手を差し出した。
「では、ここから宿へ帰る道では、手を繋いでいくことにしようか」
「え」
 ホイミンが驚いたようにライアンを見て、ぽうっと頬を上気させる。その様がひどく可愛らしく思えて、ライアンはさらに微笑んだ。
「……いいの?」
「むろん」
「迷惑、じゃない?」
「お前の心からしたいと思うことならば、私が迷惑だと思うことはなにひとつない」
「……ライアンさん」
「ホイミン」
 しばし視線を通わせてから、ホイミンはそろそろと手を伸ばし、きゅ、とその小さな手でライアンの無骨な手を握り締めた。かすかに指先を締め付ける、かつてと同じ、けれど確かに違う感触。ホイミンがえへへ、と照れたように笑った。
「ライアンさん……ボク、嬉しいや」
「ああ。私もだ、ホイミン」
 またしばし視線を通わせ、微笑み合い――
「………あのさー………そろそろ俺がここにいるっつーこと思い出してほしーんですけど………」
「あ」
「む」
 はっとして、揃ってユーリルの方を向いた。ユーリルはははは、とひどく疲れたように笑う。
「声かけても手ぇ離さねーし……もーホントに、あんたらどんだけバカップルなんだよ……」
「う」
「む……」
 その言葉は不本意だが、現在の状況ではさすがに反論はできなかった。確かに、今のはちょっといちゃついた、の部類には入るだろうな、という自覚はライアンにもあったのだ。ライアンは敵意のない気配は無視する習慣がついているから意識はしていなかったが、周囲には相当な数のちらちらこちらをうかがっている視線を感じるし。
 自分たちは本当にバカップルというものなのだろうか、と眉をしかめて考えるライアンに、ユーリルははは、と珍しく少し力なく笑った。
「なんつーか、すげーな、二人とも。出会ってから二年も経つってのにさ、そんだけラブラブなんて、どんだけ愛し合ってんだよ。……本気で」
 少しばかり、途方に暮れたような響きのある声だった、とライアンは思った。

 宿に帰ってくると、ライアンは食事と酒を用意してもらって部屋に持ち込んでくれるよう頼んだ。その方がゆっくり話ができると思ったのだ。ユーリルは驚いたような顔はしていたが、特になにも言わずそれを受け容れた。ホイミンを同席させるか少し迷ったが、最初から二人きりというのも警戒させるかもしれないと隣に座らせることにした。話が込み入ってきたら部屋に戻せばよいだろう。
 共に食事をし、お喋りをし、すべて食べ終えた辺りで酒を持ち出す。華やかな香りの果実酒はライアンの好みからすると少し甘すぎたが、ユーリルにとっては慣れた酒のようで、舌の上で転がすように味を楽しんでいた。ホイミンは一人果汁だが、その笑顔を見れば不満はないのはすぐわかる。
 それからしばらくやくたいもないお喋りをしてから、頃合を見計らいライアンは切り出した。
「ユーリル。お前は、なにか悩んでいることがあるのではないか?」
「え」
 ユーリルは一瞬目を見張り、首を振りかけて途中でそれを止め、それから困ったように笑った。
「ったく……ライアンさんってほんっと、そーいうとこそつがないよな。なんでわかったんだよ?」
「共に背中を預けて戦った相手だ。迷いのあるなし程度は気配でわかるさ」
「そーですかい。っとに……どーしてこーもすらっと弱いトコ突いてくるかな。かなわねーや、ちくしょー」
 らしくもなく自嘲するようにそう言って、ユーリルはくいと杯の中の酒を乾し息をつく。頬は赤いが、残っていた酒は少なかったし、さして酔っているというわけでもないはずだ。ホイミンは突然緊迫した空気にきょとんとしていたが、とりあえず様子を見ることにしたようで黙って自分たちの様子をうかがっている。ライアンもホイミンも、ユーリルの杯に酒は注がなかった。
 ユーリルはしばし無言で杯を見つめる。ライアンも無言で待つ。数分ほどの時間が過ぎてから、ユーリルはぼそりと言った。
「ライアンさんはさ。ホイミンと、結婚する時、どんな風に思った?」
『…………』
 思わず、絶句してしまった。
「ユーリル。ホイミンは男なのだが」
「へ……え、あぁっ! そーかそうだったごめんっ、ホイミスライムってとこが強烈すぎて性別までよく覚えてなくて! 言われてみれば男の顔だよな、声も印象も中性的だったからわかんなかったごめん!」
「……ホイミン」
「え、なんで? ボクは別に嫌じゃないよ。ボク、別に人間ならもう男でも女でもどっちでもいいし」
「……そうか。ということだ、ユーリル。気にする必要はない」
「うん、でも悪い……」
「ホイミンと共に在ろう、と約束した時のことならば、言えるが、それでもかまわないか?」
 ユーリルは真剣な顔でうなずく。
「ああ」
「私の場合は、とにかくもうホイミンを二度と離さぬようにと必死だったからな。勇気を振り絞って全力で突撃するしかなかった。なので、なにかを考えている余裕はなかったというのが本音だな」
「……そっか」
「そうなの? ボク、ライアンさんはすっごく冷静っていうか、ちゃんとしてるみたいに見えてたけど」
「なに、格好をつけていただけだ。言っただろう、お前には格好をつけていたい、と。……ユーリル」
 ライアンはうつむき加減になったユーリルに視線を合わせるようにして、言った。
「お前は、私のような例では参考にならぬことで不安になっているのではないか?」
「……そうなん、だろうな」
 ふーっ、と息を吐いてユーリルは天井を仰ぎ見た。その姿は、ユーリルらしくないことに、ひどく呆けたようなというか、疲れて見えた。
「……俺たちが、さ。みんなと別れてから、ずーっと二人で旅してたって知ってるよな?」
「ああ。ときおりミネア殿と連れ立ったりもしつつ、マーニャ殿の踊りの技を世界中で披露していた、と」
 最初の頃はホイミンと出会ったらちゃんと引き止めといてやるからな、などと手紙の中で書いていたりもしたのだ。
「で、その間俺はさ。マーニャの護衛っつーか。一緒に旅しながら冒険者みたいに依頼受けて厄介事解決したりして稼いでたわけ。ヒモってほどじゃねーけど……マーニャはどこ行ってもひっぱりだこだったからさ、稼ぎとしてはマーニャの方がずーっと上だった」
「うむ」
「俺はさ、その生活、楽しかったんだよな。そりゃ年食って体が辛くなってくりゃ無理だろーけど、それまではこんな風に世界中うろうろすんのもいいよなって思ったんだ。あの旅で、旅暮らしが体に馴染んじまってたし……旅すんのって、俺、好きだったし。いろんなもん見て、いろんな人と関わってってやんの、楽しかった」
「そうか」
「だけどな。一ヶ月前……ハバリアに着いて、ライアンさんに手紙送ってからすぐ、マーニャが言ったんだよな。『あたし踊り子引退して、モンバーバラで教える側に回るから』って」
「……ふむ」
「そんで、仰天してる俺に続けて言ったんだ。『あんたがあたしについてくるっていうんなら、あんたの食い扶持ぐらい稼いでやるわよ』って。なんのことかわかんなくてぽかんとしてたらさ、言われたわけ。ふんって鼻鳴らして。『結婚する気があるならしてやる、っつってんの』ってさ」
「……なるほど、な」
 マーニャらしい台詞だと、いえばいえるかもしれない。ライアンは静かな口調で問うた。
「お前は、それになんと答えた?」
 視線をうつむかせながら、ユーリルはぶっきらぼうに返す。
「……『マーニャを幸せにできるほどマーニャが好きな奴なんて、世界中に俺しかいないだろ』って」
「そうか」
「うわぁ……」
 ホイミンがわずかに目をきらめかせる。さすが元吟遊詩人というべきか、色恋沙汰の話は嫌いではないらしい。
「それで、お前はなにを悩んでいるのだ?」
「……別に。悩んでるってわけじゃねーよ」
 ユーリルはぶっきらぼうの口調のまま答えて酒瓶に手を伸ばすが、ホイミンが先に気付いて杯に半分程度の量を注いだ。一瞬不満そうな顔をするも、にこにこ見返すホイミンに文句を言うのもはばかられたのかくいっと一気に杯を乾す。
「わぁ、ユーリルさん、体に悪いですよ」
「いいだろ、こんくらい。……ホントに、別に悩んでるってわけじゃねーんだ。俺は、マーニャとちゃんと結婚するつもりでいるし。マーニャ以外の奴と結婚するつもりないし。俺だっていつかはって、思ってたんだからさ」
「なるほど。いつかは、だったのだな」
 そううなずきながら答えると、ユーリルは「あー……」と呻きながらずぶずぶと椅子に体を沈めた。
「ライアンさんって、ほんっと、ずりぃよなぁ……」
「長く生きていれば、少しは要領もよくなる。ことに宮仕えなどしているとな」
「よく言うぜ……あーくそ。こんなこと絶対言いたくねーのに」
 心底嫌そうに言って、ユーリルはぐい、と杯をホイミンに差し出した。ホイミンはきょとんとしたが、ユーリルが「酒くれよ」とぶっきらぼうに言うと、少し困ったような顔をしながらも三分の一程度の量を注ぐ。ユーリルはくいっとそれを一息に飲み干し、またうつむいて、ぶつぶつと半ば独り言のように呟いた。
「そーだよ、俺にとっては、いつかは、の話だったんだよ。マーニャと結婚とか、そーいうのって。だって、俺はまだ世界に見てないもんいっぱいあるって思ってたし。やりたいこととかいっぱいあったし、もっと知りたいこと行きたい場所いっぱいあって……マーニャもそうだって思ってたんだ。俺と一緒に、どこまでも行ってくれるって」
「だが、そうではなかった、と?」
「そーだろ……俺になんにも相談しないで、踊り子やめるとか、教える側に回るとか、モンバーバラに永住するとか決めちゃってさ」
「そうなのか」
「そーだよ……ちょっとくらい相談してほしかったよ。俺はさ。だって二人のことだろ、こーいうのって。二人でどう生きていくかってことだろ? そーいうのさ、一人で決めてから一緒に来たけりゃ来れば、なんてさ……ずりぃじゃん」
「そうだな」
「そーだろ。俺はさ……俺は……」
「まだ覚悟ができていなかった?」
 さらりと言ったライアンの言葉に、ユーリルはは、と顔を上げ目を見開き、それからじっとりとライアンを睨んだ。
「……そーだよ。俺は、まだ全然覚悟なんてできてなかったんだよ」
「覚悟……って、なんの覚悟ですか?」
 不思議そうに聞いたホイミンの方を見もせず、ユーリルは据わった目で続ける。
「結婚とか。一家の長になるとか。父親になるとか。それに」
「それに?」
 ライアンは静かに問うたが、ユーリルは据わった目のままぐい、と杯を突き出した。ホイミンはまた困ったような顔をしたが、素直に四分の一程度酒を注ぐ。ユーリルはそれをぐいっと飲み干し、呟く。
「俺さ、なんで俺が勇者に選ばれたのか、全然わかんねーんだ」
「そうか」
 突拍子もない台詞だったが、ライアンは驚きもせず静かに返した。ホイミンも口を挟まずじっとユーリルを見つめる。ユーリルはぶつぶつと二人のどちらとも視線を合わせず呟きを繰り返した。
「なんで俺だったのか、村にいた時もわかんなかったし、しょーじき今でもわかんねぇ。だってさ、天空人と人間のハーフが勇者になるっつーんだったらさ、集団お見合いでもさせてもっとそーいう奴何人も作っときゃいーじゃん。そもそも俺が勇者だってのがなんか敵倒すのに役立ったか? そりゃ俺は剣も呪文もそれなりに強いけどさ、ぶっちゃけ前衛後衛ちゃんといりゃ俺がいなくたって敵倒せたじゃん」
「そうだな」
「別に……勇者だってのが嫌だってわけじゃないぜ。最初はすっげー嫌だったけど。マーニャや、ミネアや、みんなと出会って、俺が勇者だからできることってのがあるってわかって、今はそれなりに満足してる。ただ、なんつーかさ……なんで俺が勇者って特別扱いされなきゃなんねーのか……される理由があるのか。納得いかないんだよ」
「そうだろうな」
「なんで、俺を特別扱いするのか、マスタードラゴンに聞いても、ちゃんとした答えは返ってこなかった。なんで俺の、父親を、殺したのかについても。なんで、あの人たちは、俺のために死ななきゃならなかったのか」
「そうか」
 あの人たち、というのが誰なのかなどとは当然ライアンは訊ねない。ユーリルは呻くように呟き続ける。
「もし俺が、特別扱いされる理由が、ただの血≠セったら。俺がもし、子供とか、作ったら、その子供もなんかあったら、あんな風に、俺みたいに、特別扱いされて、勝手にあっちからもこっちからも重要視されなきゃなんねーのかな、とか思ったらさ。子供なんて作っていいのか、とか……思っちまってさ……。なんか……カッコ悪ぃけど、俺……」
 黙って言葉を聞いていると、ユーリルはぐた、と椅子の背もたれに体を預けてくた、と目を閉じた。すー、すー、と静かな吐息が口から漏れる。
「……ユーリルさん? 寝ちゃったんですか?」
「おそらく、泥を吐き出して気が抜けたのだろう。ここのところろくに眠れていなかったのだな。そういう顔色をしていた」
 ライアンは立ち上がると、ユーリルを抱きかかえベッドに横たえさせた。襟元を緩め、そっと体の上に毛布をかけてやる。
「もしかして、ライアンさん、だからユーリルさんに街を案内してもらったの?」
「うむ。少し体を動かした方がよく眠れると思ってな」
 サイドボードに水とタオルを準備するホイミンに、ライアンは軽くユーリルの髪を撫でてやりながら答える。正直、こうもあっさり思惑が当たるとは思っていなかったが。
 ユーリルが悩んでいるのは一目みればわかった。ああもあからさまに無理をしてはしゃいでいますという顔で喋っていれば鈍感な自分にでもわかる。なので少しでも楽になればと水を向けてやったのだが。
「さて、どうするかな……」
 ライアンは眉を寄せながら顎を撫でる。ユーリルの不安はおそらく、時間をかけてマーニャや他人に相談したり自分で考えたりとしていけば克服できるものだろう。ユーリルは若いが、その精神も肉体もしなやかで強い。
 だが結婚まであと一週間では少々時間が足りない。たとえ心に不安に感じていてもユーリルは笑顔で結婚するのだろうが、できるなら心から幸せだと思いながら華燭の典を執り行ってほしい。この少年の苦しみ傷つきながらも前を向き戦う様に、ライアンも何度も喝を入れられてきたのだから。
「マーニャ殿と、少し話をしてみるか。聡いあの人ならばとうに気付いているとは思うが」
「うん……ユーリルさん、大丈夫かな、ライアンさん」
「そうだな……大丈夫だろうとは、思うのだが」
 さら、と最後に軽く頭を撫でてやりながら、ライアンはわずかに苦笑した。大丈夫だから幸せだとは限らない。これもまた、ホイミンと出会ってから知ったことだ。

「ユーリルさん、おはようございますっ!」
 ホイミンが笑顔で言うと、起き抜けのユーリルはひどく驚いたような顔をしてホイミンを見た。ぽかんとした顔でこちらを見てから、周囲を見回す。
「おはよ……あのさ、ライアンさんは?」
「ライアンさんはお仕事に行きました。今日はお仕事だから、キメラの翼でバトランドまで」
「あ……そう。お前は、なんで」
「ボク、ユーリルさんのお手伝いをするように言われて、残ったんです」
「は……? お手伝いって」
「ユーリルさんとマーニャさん、もう新居は決まってるんでしょう?」
「え、そりゃ、まぁ」
「一週間後からそこに住むんだったら、お掃除とか日用品とかちゃんと準備しなきゃ駄目じゃないですか。だから、そのお手伝いをしろ、ってライアンさんが」
「……なんで?」
「えっと……」
 ホイミンは少し口ごもった。これを言っていいのかな、と思ったのだが、ライアンはいつも通りのホイミンでいてくれればそれでいい、と言っていたので正直に言う。
「ずーっとうじうじしてるより、誰かと一緒に頭と体動かした方が、すっきりするだろう、って」
「…………」
 ユーリルはあからさまに顔をしかめた。怒っちゃったのかな、と思うと少ししょんぼりしたが、それでもライアンさんから任されたんだからちゃんとやらなきゃ、と顔を上げてにこっと笑う。
「とりあえず、朝ごはんにしません? もうマーニャさん、稽古に行っちゃいましたよ」
「……そーですかい」
 は、と少し苛立たしげな息を吐いて、ユーリルは上半身だけを起こしていたベッドから滑り降りた。それから一緒に取った朝食の間中ユーリルはぶすっとした顔で黙っていたが、ホイミンが「掃除用具ありますか? ないなら買いに行きましょう」と言うとぶすっとした顔のままうなずいてくれた。
「ほうきに、ちりとり、ぞうきんと、桶に、石鹸、たわしに、ブラシ……」
 店先で掃除用具を次々両手に抱えるホイミンに、ユーリルが少し困惑したように呟く。
「そんなに掃除用具っているのかよ……」
「え、いりますよー」
 ユーリルは一瞬驚いたように目をこちらに向けてから、また目を逸らして半ば独り言のように言う。
「なんに使うんだよ。雑巾こんな、何枚も」
「え、だってトイレに水回りに床にってだけでもう三枚はいるし、床はたぶん何枚も使うだろうからこのくらい必要でしょ?」
「ふーん……そーいうもんかね」
「そうですよー。ユーリルさん、お掃除ってしたことないんですか?」
 そう訊ねると、ユーリルはわずかに苦笑するような風を見せた。
「まーな。俺、故郷にいた頃は家のことなんてしたことなかったし」
「そうなんですかー」
 ホイミンはこっくりとうなずいて、店の人を呼んで会計を頼んだ。それから一度床に置いた掃除用具をまた持とうとすると、それより早くユーリルがしゃがみこんでひょいと軽く全部持ち上げてしまう。
「ユーリルさん」
「力仕事はこっちに任せとけって。掃除する時になったらいろいろ指示出してもらうと思うしさ」
 仏頂面ながらも親切に言うユーリルに、ホイミンも嬉しくなって笑顔でうなずいた。
「はいっ、じゃあお願いしますね」
「おう」
 荷物を軽々と持って歩くユーリルを数歩後ろから追いかけていると、ふいに前を向いたまま訊ねられた。
「ホイミン。お前、俺の生まれのこと、どんくらい知ってる?」
「生まれ、ですか?」
 ホイミンはきょとんとして、わずかに首を傾げた。
「よくは知らないです。ライアンさんは、勇者として育てられたことを重荷に感じていたらしい、って言ってましたけど。それ以上のことは」
「……そっか。ライアンさんらしいっつーかなんつーか」
 小さく苦笑してから、ユーリルは足の進みを速めた。
「わわ、ユーリルさん」
「ほら、早く行こうぜ。さっさと掃除掃除」

「……っはー。つっかれたー」
「お疲れ様です。はい、お茶」
 ぐったりとソファに体をもたせ掛けるユーリルに、ホイミンは掃除したばかりの台所で淹れた香草茶を差し出した。
 ユーリルたちの新居は、街外れの小さな(ホイミンも人間として経験を積み家の大小くらいなら言えるようになっているのだ)庭付き一軒家だった。だが小さくとも新築らしく壁や柱はつやつやと輝いていたし、扉口や階段の手すりなどに施された装飾は見事なもの。庭の花壇や茂みも美しく整えてあり、全体的におしゃれな感じがする。
 なのに水周りやトイレ、風呂場などは手入れしやすく機能的に配置されており、部屋も心地よく過ごせるよう日当たり風通しなどが考えられている。住みやすそうないい家ですね、と言うとユーリルは小さく苦笑して、「マーニャの指示で劇場お抱えの大工が作ったんだってさ。二週間で作ったから小さいけど、増築しやすく作ってあるんだって」と言っていた。
 これじゃ掃除する場所ないんじゃないかな、と少し困ったが、中に入ってみると荷物がどっさり運び込まれていたのでそれの整理に取り掛かることになった。ユーリルたちの荷物は宿に置いてあるので全部だそうだが、マーニャは有名人なのであっちこっちから家具やら何やらが贈られてきて、それで部屋がすべて満杯になってしまったので家に泊まれなかったのだとか。
 いるものといらないものを分けて、それらをざっと配置、というか邪魔にならない場所に置いて。そうしているとやっぱり掃除もやった方がいいだろうという結論になり二人がかりで大掃除することになった。
「くっそーなんでホイミン平気な顔してんだよー」
「え? だって、ボクはユーリルさんみたいに重いものいくつも運んだりしてないですし」
「それにしたって俺の倍は手早く動いてるだろ……」
「あは、それ言いすぎですよ。それにボク、掃除は慣れてますから」
「そーだよなー、俺掃除なんてほっとんどやったことねーもんなー、馬車の掃除手伝うくらいでさー……家事って本気でやるとすげー大変なんだなー」
 ぶつぶつ言いながら温かいお茶をぐいっと飲み干すユーリルに、ホイミンは笑った。
「毎日やってれば、すぐ慣れますよ。マーニャさんだって一緒にやってくれるでしょうし」
「……毎日、か」
 少し自嘲するようにユーリルは笑って、ぐて、とソファの肘掛に頭をもたせかけた。ホイミンからはもうユーリルの顔が見えない。
「ユーリルさん? お茶のおかわり、いります?」
「いーよ。……あのさぁ」
「はい」
「ホイミンってさ。ホイミスライムから人間になったんだよな?」
「え、はい」
「どーやってなったの。っつかさ、ホイミスライムだった頃の……家族とか、友達とか、どーしたの?」
「え」
 思わず目をぱちくりさせると、ユーリルは頭を肘掛にもたせかけたまま手で顔を隠すようにした。自分の言った言葉に落ち込んでいるのかな、となんとなく思った。
「っ……あー……悪い。俺すっげー馬鹿なこと聞いてるよな。悪ぃ、忘れてくれ」
「え……いえ。別に、馬鹿じゃないですよ。気になったんでしょう?」
 ホイミンがぷるぷると首を振りつつ訊ねると、ユーリルは顔を隠したまま小さく顎を動かす。その仕草が『素直には表せない肯定』の仕草のように思えて、じゃあ話した方がいいかな、と思いホイミンは自分の分のお茶を飲んでから口を開いた。
「えっと、ホイミスライムからどうやって人間になったのかは、ボクもよく覚えてないんです」
「……ライアンさんが言ってた。ホイミスライムだったお前、魔物に殺されたんだよな」
「はい。魔物に殺されて……普段は気がついたら教会にいる、っていう感じなんですけど、なんだかその時は普段と違ってて」
「違うって、どう違うんだよ」
「なんだか……暗い、熱いところを長い間流されてるような夢を見たんです。流されながら、ボクの体はどんどん溶かされていって。痛みはなかったんですけど、自分の体がどんどん消えていくのがわかって、だからボクは一生懸命流れに逆らって浮こうとしたんです」
「浮く……?」
「あ、ホイミスライムは宙に浮いて移動するんですけど、それって足の下が不安定だとうまくいかないんです。だから川や穴に落ちることもあるんです、川に落ちても溺れないですし穴に落ちても怪我しないですけど。だから普通ならうまくいかないだろうって思ったんですけど、でもボクは消えちゃうのが嫌で、だから一生懸命やればなんとかなるんじゃないかって、浮こうとして……流されたけど浮こうとして……そうしたら一瞬、ふわって体が浮いたんです。そうしたらなにか、ものすごい叫び声みたいなものが聞こえて、驚いて目が醒めて、そうしたら人間になってました」
「……ふーん」
「でも、もちろんホイミスライムだった時の記憶はなくなったわけじゃなかったですから。人間になってから、友達……っていっても、ずーっと会ってなかったですけど、にも会って話したりしました」
「家族は?」
「えっと……いなくなってました」
「……なんだよそれ」
「えっと。ボクはもう、だいぶ前に独り立ちしてましたから、家族とはたまにしか会ってなかったんです。もともと魔物って、独り立ちが早いから、家族で長い間暮らすってあんまりしないですけど。でも、両親はイムル近辺の群生地にいるってわかってましたから、人間になってから何度か行ってみたりはしたんです」
「それで?」
「何度行っても、そこには誰もいませんでした。両親も、兄弟も、同じ群生地にいた知り合いも。独り立ちした兄弟の住処だった場所にも行ってみたりもしたんですけど、そこにも誰も」
「…………」
「なにがあったのかは、よくわからないんですけど。人間に襲われたのか、魔王軍の徴兵を受けたのか。ともかく、その群生地はたぶん、だいぶ前に全滅したんだと思います」
「………。……お前、すっげー普通のことみたいに話すのな」
 ユーリルが顔を隠したまま低く言う。ホイミンはどういう意味かわからず眉をひそめた。
「普通のことじゃ、ないんですか?」
「……普通のこと、って」
「だって、ホイミスライムは弱い方の魔物ですから。人間に殺されることも多いし、ホイミが使えるから魔王軍に引っ張られることだってあるでしょう?」
「っ、そーいうことじゃなくて! お前の家族のことだろーがよっ!」
 ばっとユーリルが体を起こす。きっとホイミンを睨みつけるその瞳に燃える怒りに、ホイミンは思わず息を呑んだ。
「そりゃそーいうことは何度も何度も起こってんのかもしんないけどな! お前のことだろ、自分の家族の身に起きたことだろ! それをなんで当然みてーな顔ができるんだよっ!」
 ぎっ、とこちらを睨みつける蒼の瞳。ホイミンは少しばかり困って、ユーリルを見返した。どう言えばいいのだろう。どう答えても、ユーリルを怒らせてしまいそうな気がする。
 でも、嘘はつけない。ホイミンはできるだけ正直な気持ちを伝えようと口を開いた。
「でも、ボクにとっては当然みたいな感じなんです。生まれた時から、そういう風な結末っていうのは、すごく身近にあったから」
「え」
「スライム族は一度に何体も子供を生むし、多産なので。ボクの生まれた群生地にはそれなりに数がいました。でも数が増えないのは、定期的に数が減らされるからなんです」
「……それって」
「群生地はボクのいる間でも定期的にいくつかの場所を移動してましたけど、それでも何度も人間が襲ってくることがあって。みんなで逃げたり戦ったりしたけど、やっぱり数はぐっと減って。魔王軍が来て、強制的に徴兵されることもよくありました。昨日まで一緒に遊んでた子が、今日はもう死んでるってこともしょっちゅうでしたし。だから、ボクにとっては、そんなに当然じゃないって気はしないんです」
 ユーリルは愕然としたような顔でホイミンを見つめた。ホイミンは困りながらユーリルを見返す。やがてユーリルの口からぽろりと言葉が漏れた。
「辛いとか……思わなかったか?」
 ホイミンは少し考えてから、首を振った。何度か自分に問いかけてみた時と同じように。
「ボクにとってはそういう生活が当然だったから。そういうものだと思ってました。自分たちは当然のように殺されるものだって。――でも」
 もしかしたら。自分でもわかってはいなかったけれど。
「だからボクは、そういうことが当然じゃない存在に、恋をしたのかもしれません」
 生きることを謳歌することを当然のように許されているように見える、人間というものに。
「でも、なってみたら人間も無条件に生きることが許されてるわけじゃないってわかりました。恋って、本当に思案の他ですね」
 笑ってみせると、ユーリルは体を起こしたまま、また顔を手で隠した。わずかに身を震わせ、うつむいて、まるで泣いているように見える。ホイミンは慌てたが、どう声をかければいいのかわからずどきどきしながらじっとユーリルを見つめた。
 ユーリルがぼそり、と言う。
「お前さ」
「はい」
「やっぱ、ライアンさんが惚れるだけのことはあるよな」
「え」
 思わず顔を赤くするホイミン。ユーリルはゆっくりと手を外した。その下の表情はもう落ち着いている。
「あのさ。聞いてくれるか?」
「……はい」
 ホイミンはゆっくり、けれどしっかりとうなずく。自分がなんの役に立つのかはわからなかったが、聞けるものならこの人の話をいくらでも聞きたいと思う。
 ユーリルはじっとホイミンを、深い蒼色の瞳で見つめながら、口を開いた。
「おれさ」
「はい」
「十七の誕生日まで、ずーっと山奥の村で暮らしてきたんだ」
「はい」
「ちっちゃな村でさ。村人全員知り合いどころか家族の一員、みたいな。そこでな、おれはずーっと剣とか魔法とかの訓練させられてきたんだ」
「そうなんですか」
「ああ。村の周囲は崖になってたりみっしり木が生い茂ってたりしてさ、ただひとつ出入りできるところはいつ行っても誰かしら見張りがついてて、絶対に外になんか出れなかった。村の外に出たい、って何度言っても、お前はまだ弱いから、もっと強くならないと外には出せない、って答えが返ってくるんだ」
「そうなんですか……」
「うん。だからおれは一生懸命剣も魔法も頑張って練習したよ。強くなって村の外に出るのが、おれのただひとつの望みだった」
「ただひとつ……なんですか?」
 なぜかその言葉に不思議な違和感を覚えて首を傾げると、ユーリルは小さく苦笑する。
「そうだよ。だっておれは、あの村も、村の奴らも、吐き気がするほど大嫌いだったんだ」
「…………」
 目を見開くと、ユーリルは少し顔をうつむき加減にしながら呟くように言葉を続けた。
「俺はあの人たちが嫌いだった。だって普通に考えてみろよ。ちっちゃな村に閉じ込められて、なにを言っても外に出してくれなくて相手してくれなくて、どこにいってもみんなが俺を見てて一人になれる時間なんてなくて、そんでいっつも俺を見てる周りの奴らがいーっつも強くなれ強くなれって呪いみてーに言ってんだぜ? うんざりするだろ、普通。うぜぇとかやってらんねーとかって思うだろ? 少なくとも俺は思った。なんでこいつらこんなにうるせーんだ、いい加減にしろよって思って、周りの奴らを叩きのめすぐらいの力をつけることを目標に修行に励んでたんだ」
「そうなん、ですか」
「ああ。父さんも母さんも周りのみんなも、俺のことを大切に思ってくれてるんだろうとは思ったさ。だけどだからって俺をいつまで経ってもよちよち歩きのガキみたいに扱って、なに言っても相手にもしないって、それって本当に愛情っていえるのかよ。どいつもこいつも真綿で包むみてーに俺のこと扱って、そのくせ俺のいうことはひとつも聞いてくれない。うんざりしてた、心の底から」
「そうなんですか……」
「その村には一人俺の好きな女の子がいたよ。シンシアってんだけど。俺と年が近い奴って村にはそいつしかいないから選択の余地がなかったっつーのが当たってんだろうけどな。エルフだったのかな、耳が尖ってて、物心ついたときから全然変わらない子だった。俺はあいつにいっつも愚痴ってた、外に出たいみんな気に入らないって。そんな俺をいっつもあいつは優しく宥めすかして、落ち着かせて家に帰してきた」
「はい」
「でもな。十七の誕生日の数日前に、聞いたんだよ。俺の話した愚痴を一言一句漏らさず、あいつが長老に報告してるの」
「…………」
 ホイミンは、またも目を見開いた。ユーリルはわずかにうつむいたままさらに言葉を続ける。
「だから俺は十七の誕生日を最悪な気分で迎えた。なんで俺ばっかりこんなとこに閉じ込められてなきゃなんないんだ。自由になりたい。こんな奴ら全員いなくなっちまえばいい。そう思ってた時に」
「……時に?」
 ユーリルは顔を上げた。その顔には苦笑が浮かんでいた。なんというかほとほとやりきれない、という感じの微笑が。
「魔物に襲われて、村が全滅したわけ」
「…………!」
「シンシアがおれに変身して、おれの身代わりになって、おれだけ生き延びさせられて。勇者だなんだってわけわかんないこと言われて。わけがわかんないうちにみんな消えてた。長老も師匠も、父さんも母さんも、シンシアも。おれの今までの世界が全部消えて。おれは自由になったんだ。望み通り」
「…………」
 ユーリルはホイミンを見ずに、眼前の宙を見据え話し続ける。
「おれはさ。その時、なんにも感じなかったんだ。みんなが死んだって実感、全然なくてさ。村はぼろぼろだったけど、死体が全然なくて。みんなが魔物に殺されたって現実感、まるでなくて。なんか、すこーんと空っぽになったみたいな感じになった」
「……はい」
「おれは自由になりたかった。だけど本気でなーんにも縛られない自由って、すんげー、なんつーか……寄る辺ないのな。なーんか本気でどーすりゃいいのかわかんなくなって、ブランカに来て、そっちのが魔物弱いからってだけの理由でエンドールに来て、ミネアとマーニャに会って。勇者だって言われて。世界を救えって言われて。――そんでようやく、おれは怒ることができたんだ」
「なにに、ですか?」
 ユーリルはちらりとホイミンを見て、小さく笑った。
「村の奴らにさ。あんたらは結局、おれ≠守って死んだんじゃなくて、勇者≠守って死んだのか、って」
「…………」
「おれをずーっと囲い込んで育ててきたのは、勇者を育てるためだったのかって。おれが大切なんじゃなくて勇者が大切だったのかって。そんなもんのために、そんなおれが選んだわけでもなんでもない肩書きのために、あんたらは勝手におれを守って、死んでいったのかって。死ぬほどムカついた」
「ユーリルさん……すごく、苦しかったんですね」
 ユーリルはまたちらりとじっとユーリルを見つめるホイミンを見て苦笑してから、また宙に目を据え半ば独り言のように言葉を連ねる。
「苦しかった。悔しかった。腹が立って腹が立ってしょうがなかった。なんでそんな理由でって、何度も考えた。なんにもおれに言わないで、明かさないで、勝手におれを守って死んだ奴らが憎いとすら思った。なのにどんなに文句を言ってやりたくても、ぶん殴ってやりたくても、あの人たちはみんな、もう戻ってこないんだ。それがもう、たまんなくてさ。だからマーニャたちに出会った頃は……荒れたなぁ」
「荒れたんですか?」
「そーそー。すぐ怒鳴るし喚くし八つ当たりするし。そのくせ戦闘では全然弱いし。はっきり言ってすんげー邪魔な奴だったと思う」
「でも……そうじゃ、なくなっていったんですね?」
 そう言うと、ユーリルは今度はちゃんとホイミンの方をみて苦笑した。
「ああ。だってさ、マーニャってすんげー普通なんだもん」
「普通、ですか?」
「うん。おれの生い立ちとか村でなにがあったのかとか言ったのにさ、勇者様でも可哀想な子でもなくて、そこらへんのガキとおんなじ扱いしかしなかったんだぜ。怒鳴ればうるさいって一喝、喚けば水をぶっかけられる、八つ当たりすれば鉄の扇で叩かれる。だっから最初はそりゃもー喧嘩したした」
「始まりは、そうだったんですね」
 そうホイミンがくすりと笑むと、ユーリルは照れ笑いをしてみせた。
「そー。勇者じゃなくて。重い過去背負った子でもなくて。今一緒に旅をしてる、おれ≠セけしかマーニャは見なかった。それがどんだけおれを楽にしたかっての、しばらくあとまでわかんなかったな」
「ああ……」
「それにマーニャは、近所のガキと同じ扱いしかしないくせに、おれを絶対に見捨てようとはしなかった。いちいちってわけじゃないけど本当に辛い時はフォロー入れてくれてさ、世界で自分がただ一人、みたいな本当に辛くて辛くてどうしようもない気分になった時には、抱きしめて、抱かせてくれたんだよ」
「…………」
「お前と話してたら、そん時の気持ち思い出した」
「え? そうなんですか?」
「そー」
 にかりん、とユーリルは明るく笑い(その表情がひどく似合っていることから、たぶんこの顔がユーリルのいつもの笑顔なのだな、と思った)、ひどく気持ちよさそうに宙に視線を据え、目を閉じる。
「そーだよなー……俺って、こんなにマーニャのことが好きだったんだー……」
「……よかった、ですね」
「おう」
 にかっ、と笑って立ち上がった、かと思うとユーリルはホイミンの方に腕を伸ばし、ぐりぐりと頭を苛めた。
「いたっ、痛い、痛いですっユーリルさんっ」
「つかな、お前さ、今はそーいうのが当然じゃねーんだろーな?」
「え?」
「今はライアンさんと一緒にいるっつーのに、大切な人が死んでも当然とかまだ思ってたら本気で殴るぞ」
 ホイミンはユーリルを見て目をぱちくりさせ、くすすっと笑った。
「ユーリルさんって、本当に優しい人ですね」
「……なーに言ってんだこのやろっ」
 ひょいと小さなテーブルを避けくすぐり攻撃に切り替えられて、ホイミンは弾けるような笑い声の下から、『ライアンさんがボクを見つけてくれた時から、ボクはもうそんなこと思えなくなったんですよ』と伝えようと努力した。

 夜半を過ぎる頃、マーニャは宿に戻った。ぐっすり休めるよう相当に品のいい宿にしたので、一階は酒場ではないし夜半過ぎに起きている人間などほとんどいない。フロントの人間に軽く手を上げて、階段を上っていく。食事や湯浴みは当然もう済ませているのであとはもう眠るだけだ。
 一日中練習したあとの体にずっしりのしかかる疲労感を感じながら部屋の扉を開けると、椅子に座ってなにか考えるように頬杖をついていたユーリルがこちらを振り返り笑った。
「おかえり」
「……ただいま。なによ、まだ起きてたの?」
 部屋の中に入りながら肩をすくめると、笑顔で言う。
「マーニャのこと待ってたんだ。話、したくてさ」
「ふーん」
 話、ねぇ。苦笑したいような気持ちでマーニャは自分のベッドに座った。ぽんぽんと隣を叩いてみせる。
「いいわよ。なんの話か知らないけど、聞いてあげようじゃない」
「うん」
 ひょい、とユーリルが立ち上がった。マーニャのすぐ隣、ベッドの上にあぐらをかく。マーニャはベッドに横向きに腰かけたまま、体を傾けてユーリルを見た。
「で、なんの話?」
「うん。あのさ」
 ユーリルはマーニャを見つめ、真剣な顔で言った。
「俺、マーニャと結婚するよ」
「……ふぅん。知ってるけど?」
 それで? とばかりに眉をそびやかしてやると、ユーリルはなおも続ける。
「そんで、ずーっとマーニャと一緒にいる」
「………ふぅん」
 ユーリルをじっと見返し、マーニャは肩をすくめた。
「ずーっと、っていつまでのこと言ってんの?」
「ずーっとはずーっとだよ」
「いつまで続くからわかんないから聞いてんの。あんたこの一ヶ月ずーっとすぐにでも外へ飛び出していきたい、みたいな顔してたじゃない」
「……気付いてたわけ?」
 少し気まずげな顔になるユーリルに、ふんと鼻で笑ってやる。
「とーぜん。マーニャ姐さんの目をごまかそうなんて百年早いわ」
「もしかして、マーニャ、俺のこと試したのか?」
 じっと見つめる視線に、また肩をすくめて首を振った。
「試した、ってわけじゃないわ。ただ、あんたの気持ちがどう転ぶかを見定めたいって気持ちはあった」
「それってやっぱ試したってことじゃねーの?」
「違うわよ。あんたはあたしと結婚するだろうとは思った。ここまできて逃げ出すような奴を男に選んだつもりはないからね。けど、あんたずーっと、『このまま結婚していいのか』『このまま家庭に収まっていいのか』みたいなことぐちぐち考えてたでしょ?」
「それ、は」
 わずかに口ごもるユーリルに、マーニャはにっこり笑顔を作ってやる。
「行ってきてもいいわよ」
「え……」
「あんた、まだ世界を見てきたいんでしょう? あたしここに置いて、行ってきてもいいわよっつってんの」
「……それって、結婚してから俺一人で旅を続けてもいい、ってことか?」
「そーよ」
「なんで、そう思うんだ?」
 ユーリルの問いかけは意外に冷静だった。じっとマーニャを見つめるその視線に、揺らぎはない。マーニャはもう一度肩をすくめてみせる。
「別に。あんたがそうしたいだろうって思うからそう言っただけよ」
「俺がマーニャを一人にしても平気だろうって?」
「平気かどうかは知らない。けど、あんたの気持ちはだいたい想像できんのよ。あたしだってまだ二十一で家庭に入れっつわれても納得できなかっただろうしね」
「……じゃあ、なんで突然、踊り子引退して結婚なんて」
 心の底から疑問に思っているらしい顔。マーニャは軽く笑い声を立ててやった。
「あんたって、ほーんと鈍感ねー」
「なんだよそれ」
「あんたは二十一だけどね。あたしはもう三十なのよ」
「……だから?」
 さっぱりわからない、と書いてある顔を、マーニャはぴん、と人差し指で弾いてやった。
「鈍感」
「ったいな! だからなんなんだよっ」
「あたしはね。長く細く生きるなんてごめんなの。肌や体の衰えを必死に隠しながら、いつまでも舞台にしがみつくなんて冗談じゃない。太く短く、大輪の華みたいにぱっと咲いてぱっと散りたい。老いさらばえたあたしをみんなの記憶に残すなんて絶対に嫌」
「マーニャ全然衰えてねーじゃん」
 ぴんっ、とさらに額を弾く。
「って!」
「素人が偉そうに言うんじゃないの。……衰えてるのよ、確実に。日々の疲れが確実に体や肌に残るようになってきてる。トレーニングは怠ってないけど、それでもあたしの踊りはもう絶好調の時のようにはめったにできない。旅を続けながら踊るっていうのは、もう無理がきてたのよ」
「そうかなぁ」
「そうなの! ……でも、あたしには踊りを捨てるなんて無理だしね。もう踊り以外で生きていくなんてできない。だから今しかないって思った。きれいな記憶をみんなに残したまま華々しく消えれば、あたしは指導者としてもこれ以上ないってくらいの位置につけられる。たくさんの新人や見習いを教えてやることができる。踊り子ってのがどんなものか、若い娘たちに……劇場の上の方のボンクラ共にだって教えてやれる。そうすればモンバーバラの、ううん世界の踊りってものを変える一歩を踏み出すことができる」
「……マーニャ」
「だけどね。そんなこと、あんたには全然関係ないことなのよ」
 にっこり。とっておきの優しい笑顔を浮かべてやる。いつも気風のいいマーニャ姐さんの、たまにしか見せない優しげな笑顔ってやつだ。
「だから、言うの。行ってきていいわよ。世界中を好きなだけ、旅して見て感じて、あんたの生きたいように生きてきていいわよって」
「……マーニャは、それでいいのかよ」
 変わらぬ真剣な顔で、ユーリルが問う。マーニャは笑顔のままうなずいた。
「いいわよ」
「俺きっといろんなもの見るぜ。いろんな人と会うぜ。他の人好きになって、マーニャのとこに戻ってこないかもしれないぜ?」
「いいわよ。あんたがそうしたいって思うならそれでいい」
 そう、それでいい。あたしは勝手にいつまでもあんたを待っているから。結婚という形の繋がりがあれば、死ぬまでの五十年ぐらいは耐えられると思うから。
 ただひとつ、願うなら。
「あんたが死ぬ時に、あたしのことを人生で一番愛した女だったって思い出してくれれば」
 とたん、ぐいっ、と体を引かれた。
 反射的に押し戻そうとするも、それより早くユーリルは自分の体を抱きしめる。力強い、でも優しい手で。そっと、雪のようにそっとマーニャの体を包んで。
 蒼い瞳が間近で自分の瞳を見つめている。熱ささえ感じる視線で。そして、それがすっと近づいてきて、すっと伏せられた。
 同時に、唇に、暖かいものが触れる。
 もう二十歳を過ぎている男のものだというのに、いつまでも柔らかく艶のあるユーリルの唇。それがちゅ、と音を立てて自分の唇に触れる。一瞬離れて、もう一回。また離れて、またちゅ、と触れる。
 それを何度か繰り返してから、舌がマーニャの唇を舐めた。
 化粧まだ落としてないっつーのにこのガキ、と頭のどこかで怒っている意識もあったが、ユーリルの唇は、舌は、腕は指先は、優しくマーニャの体を捕らえて、中に入り込む。ちゅ。ちゅぶっ。くちゅっ、じゅぷっ。そんな水音が立つ頃には、マーニャも体を熱くさせながらユーリルの体に腕を回し舌を絡め合わせていた。
 たっぷり数分口付けすると、ユーリルはすっと唇を離し、紅のわずかに移った唇を優しく笑ませて言う。
「行かないよ。どこにも」
「……あんた、まだまだ見たいものがあったんじゃないの?」
「うん。だけど今はマーニャのそばにいたい」
 こちらを見つめる真剣な瞳。ああ、そうだ。こいつはいつもこうだった。ごまかしかわし逃げる自分に、いつも真正面から突撃してきた。
 そして、その変わらぬ熱誠をぶつけてくる瞳が、自分は、たまらなく。
「俺、はっきり言って覚悟なんかできてないよ。マーニャの将来っていうか……人生、俺に背負えるかどうかわかんない。子供のこととか、もさ。父親になるってことも……子供に俺の血を受け継がせちまうってのも。正直ビビってる。俺に、世界を救ってもガキのままだった俺に、そんな重いもん、背負えるのか、って」
「…………」
「それに世界をもっと見たい、って気持ちも俺の中にはある。まだ落ち着きたくなんかない。自分のありったけ世界に向けてぶちまけてみたい。そう思うよ。でもさ」
 間近で、視線を揺らがせずこちらを見つめ。
「それとマーニャのこと比べたら、どっち取るかって言われたら、マーニャなんだ」
「…………」
「俺はマーニャを離したくない。一秒だって他の男のものになんかしたくない。これからだってそーいうことで、うじうじすること何度もあると思う。いろんな失敗だってすると思うぜ、俺ガキだから。血のことやら将来のことやら考えたら身がすくむほど怖いし……けど、なんつーか……好きな人を失うなんて経験、もう二度としたくないからさ。ずっとそばにいて、捨てられないように死ぬ気で努力するしかねーだろ。これまでみたいに、その場その場でさ。未来がどう転ぶかなんて誰にも、マスタードラゴンにだってわかんねーんだから。……好きな奴との別れなんて、一度だけで充分だぜ」
「……ユーリル」
 半ば意識せず、言葉が漏れた。その声にユーリルは、にかっ、と元気で明るくて子供っぽい、いつもの笑みを浮かべて応える。
「一緒にいよーぜ。だって俺ら、愛し合ってんだもんな」
「……バーカ」
 思わず笑って肘鉄を食らわせてやると、「いってー」と言いつつも笑ってまたキスを仕掛けてきた。マーニャも笑いながらそれに応えてやる。
 ちゅ、ちゅ、とキスをして、じゃれあうようにお互いの服を脱がせながら、ユーリルは笑って言った。
「ま、マーニャもしょーじき先生なんてずーっとやってられるかどーか怪しいし? いつかまた冒険に出ることになっちまうかもしんねーよな」
「かもね。その時はしっかりついてきてくれるんでしょ?」
 冗談ごとに紛らわせての問いかけに、ユーリルは笑顔で、けれど真剣にうなずく。
「とーぜん。俺は、マーニャと結婚するんだからな」
「本当に……あんたは、バカね」
「そのバカが好きなんだろ? プロポーズしちまうくらいさ」
「バーカ。……当たり前じゃないの」
 ぐいっと頭を引き寄せて激しいキスをすると、ユーリルも激しくキスを返しながらベッドにマーニャを押し倒した。
 ちなみに耳のいいホイミンは(ライアンにはユーリルを頼むと言われていたので二人が無事落ち着くのを見届けるまで待つことにしたのだ)窓を開けていたせいで二人の会話はいくらか聞こえてきてしまっており大丈夫かなとはらはらしていたのだが、二人がいちゃいちゃし始めた辺りでこれ以上は聞いちゃ駄目なんだよね、とライアンに言われたことを思い出し部屋でムードたっぷりの音楽など奏でてみた。

「ありがとな、ライアンさん」
「なにがだ?」
「俺に最初の気持ち思い出させてくれて、さ」
「……うむ」
 ライアンはかすかに口元を緩めつつ、杯を乾した。
 ユーリルとマーニャの公的な結婚式は今日つつがなく終了した。マーニャの踊りはこれ以上ないほど見事で、劇場中が歓声に沸き、二人の結婚を祝福した。
 それから私的な結婚式をするべくエンドールにルーラで移動し、サントハイムの三人やトルネコとも合流し(当然サイトハイムの面々はお忍びだ)。明日の結婚式に備えることとなった。
 といっても準備はもうすでにできているので、あとは心構えだけ。その時間を、ユーリルたちは仲間同士で酒を飲むことに使うことにした。
 といってもブライの「結婚式の前日は新郎新婦は別々に同性の友人と飲むものじゃ」という言葉に従い、ユーリルとマーニャは別々の部屋に宿を取ってそれぞれ飲んでいるのだが。しかし男性である(見ようによっては女性にも見えるぐらい中性的な顔立ちをしているが)ホイミンがマーニャたち女性陣の方に連れられていってしまったのはいったいなぜなのだろうか。
 そんなことを考えつつも、ユーリルの言葉に応える。
「最初はさ、なんか相談しろってお膳立てされてるみたいでさ、ちっとムカついたけど。あいつに――ホイミンににこにこ話しかけられてるうちに気が抜けて、気がついたらするする話しちまってたよ。あいつさ、やっぱライアンさんの相手ってだけのことはあるよな」
「そうか」
「話したとは、なんのことかな?」
「んー、なんつーか……マリッジブルーっつーの? 今の俺で結婚してちゃんとやっていけんのかとか、そーいうことうじうじ悩んじまってたんだよ、俺」
「そうですか。でも、今はもう悩んでないんですね?」
「まーな。また悩むかもしんねーけど……一番根っこのとこの、俺はマーニャが誰よりも好きだから一緒にいたいんだ、って気持ち思い出せたからさ」
「そうですか……それは、本当によかったですね」
 珍しく、というかたぶん旅の間を入れても初めて酒に付き合っていたクリフトが、ほんのりと頬を赤くしながらうなずく。表情はいつも通りの穏やかかつ適度な距離を置いた感じのするものだが、声音は不思議に優しい。
「おー、サンキュークリフトー! めっずらしく優しいじゃん、お前」
「……私はこれまでそんなにあなたに冷たかったですか?」
「冷たいっつーか、そーとー長い間嫌ってたじゃん、俺のこと」
「確かにのう。旅をしている間も終盤も終盤に来るまで貴様はユーリル殿にわだかまりがあったようだったからの」
「そーそー。アリーナとは本当にもうなんにもねーってわかってるくせにさ、このアリーナ以外基本塵芥なヘタレ神官は」
「さんざんな言われようですね」
 クリフトは苦笑した。苦笑≠ニいう表情も旅をしていた頃のクリフトには相当に珍しい代物だったのに。
「私は別に、あなたを嫌っていたわけではないですよ」
「えー? 嘘つけよー」
「本当に。あなたの、そのいつも明るく前向きで、ひたむきで……正直なところに、私はむしろ、少し憧れていました。それを受け容れられるようになったのは、旅が終わってある程度の時間が経ってからでしたが」
「え……」
 目を見開くユーリルに、クリフトはいつも通りの、穏やかで距離を置いた笑顔で淡々と言葉を重ねる。静かに、けれど確かな感情をこめて。
「確かに、私はずっとあなたに冷たく当たっていたな、と今になっては思います。けれどそれは別にあなたを嫌っていたからではなくて、ただ、あなたに嫉妬していただけなのですよ。あなたの想いが姫様にあるわけではないのはよくわかっていたのに、それでも、だからこそ姫様に当然のように好かれるあなたが腹立たしくて、悔しくて。当然のように好きな人を好きだといえるあなたを妬ましいという気持ちまで湧いてきて。そのような感情を抱く自分を必死に律しようとしても感情は抑えきれなくて。……あなたには本当にひどいことをしてしまったな、と思います。すいませんでしたね。あなたはずっと、私と喧嘩をしても、当然のように私を仲間の中に入れていてくれたのに」
「え……いや」
「私の世界の中心には、姫様がいました。あの方の幸せを、あの方の役に立つことを、あの方のそばにいることだけをずっと考えてきた。それに後悔はありません。それを変えるつもりもありません。私にとって世界は姫様で、それでいいのだと思います。ただ……ただ。あなたが、みなさんが。私にくれたものがあることを。私にとって世界の中心が姫様でも、世界のすべてが姫様である必要はないのだと、そう教えてくれたことを。私はずっと、忘れないでいたいと、ようやくそう、思えるように」
 くたり。
「わ、ちょ、クリフト!?」
「……酔っていたのか」
「わしも知らなんだ。こやつ、限界を越えると突然倒れるタイプなのじゃな」
「たぶん、本音を言いたいから、飲めない酒を無理して飲んでたんじゃないですかねぇ」
「え……」
「みなさんに。そして、明日結婚するユーリルに。せめてものお返しに、祝福に、言いたいと思ったんじゃないですかねぇ。『私はみなさんが好きです』と」
「………んだよ、それ。くしょー、アリーナとのこと聞き出してやろうと思ってたのにできなくなっちまったじゃん……」
 クリフトを部屋に運んでからも、酒盛りは続いた。トルネコは適度なところで切り上げ、ブライは酒瓶を抱いていびきをかき。最後まで残ったのはユーリルとライアンだけだった。鍛えられたと言っていたのは嘘ではなかったらしい。
 お互い無言で杯を舐める時間の中で、ふいにユーリルが口を開いた。
「あのさ、ライアンさん」
「なんだ」
「あいつを残したのって、どこまで読んでた?」
 ライアンは小さく肩をすくめる。
「さして。ただ、ホイミンと話をすれば、得るものがあるのではないか、と思っただけだ」
「得るものって?」
「ありていに言えば、悩むのが馬鹿馬鹿しくなるのではないか、と」
 ユーリルの悩みはとどのつまりただのためらいだ。突然の状況を受け容れられずどうすればいいか混乱し困惑しているだけ。そういう時は自分を見つめなおすのがいい。
 ホイミンの浄い心は、水鏡のように人の想いを映す。やましいところのある者は自らの醜い姿を見せられ、苦しんでいる者は自分がどれだけ苦しんでいるかを知る。そして悩んでいる者は、その笑顔の下に在る溢れそうなほどの想いに、自分の悩みの小ささに気付くのだ。
 ユーリルならばそうして自らの根本に立ち返り、顔を上げてくれると思った。
 そういった説明を行わず、ただそれだけ言ってユーリルを見つめるライアンに、ユーリルは小さく苦笑して天井を見上げた。
「そっか。そーだよな。……おれは、だから勇者になれたんだ」
「?」
「ああいう奴に、当然だと思ってる奴に、それは違うって言ってやりたいって思うから……勇者って呼ばれるくらい、世界を救いたいって思えたんだよな……ライアンさんはそれは違うってわからせちまったわけか、すっげー……」
 そう半ば寝言のように言うとユーリルは目を閉じ、数秒もしないうちに寝息を立て始めた。限界を越えると寝るのは変わらないのか、とライアンは小さく肩をすくめ、ユーリルをベッドに運んで一週間前と同じように服を脱がせてやる。
 幸せに。優しく、強いこの少年が幸せになれるよう。そう天に祈って、そっと髪を撫でた。

「ほんっとに、まさかあたしが一番に結婚するとは思わなかったわねー」
 相当飲んでいるせいだろう、何度も言った言葉をマーニャは繰り返した。そしてそのたびに何度もミネアに、「そういうことを言わないの!」とたしなめられている。
「でも、本当におめでとう、マーニャ。無事ユーリルと結婚できて、わたしもほんとに嬉しいわ」
 マーニャと比べれば舐める程度の酒しか飲んでいないのに、顔をだいぶに赤らめてアリーナが同じ言葉を繰り返す。そしてマーニャが「ありがと、アリーナっ!」と抱きついてキスをする。
 ホイミンはなんでボクがここにいるんだろうなぁ、と何度も繰り返して思ったことを思いながら、ちょっとだけ酒を舐めた。自分は一瓶どころかグラスに一杯ですぐに酔ってしまうとよく知っている。
「なんでマーニャさんは自分が一番だと思わなかったんですか?」
 ふと気になって聞いてみた。するとマーニャはんふっ、とからかうように笑って言う。
「そりゃー、こんなあばずれがまともに結婚できるなんて思ってなかったもん。そりゃいつかはただ一人って相手を見つけたい、とは思ってたけど……結婚するとは思ってなかったしね」
「? でも、ユーリルさんは、マーニャさんからプロポーズしたって」
「え! そうなのっ、姉さん」
「なんて言ったの、なんて!」
「あーもー余計なこと言わなーい!」
「ご、ごめんなさい」
「ま、いーけどね。……なんていうか、さ。自分に枷をはめちゃいたかったのよね」
「枷、ですか」
「そー。結婚して、法律やら神様やらの力で夫婦になって。それならあたしはユーリルがいなくなっても『待てる』と思った。不安に負けて逃げ出したり、誰かにすがったりしないですむって思ったのよ。あたしもね……これでも、本気であいつに惚れてるつもりだからさ」
「そうなんですか……」
「……ま、あたしも結局は、自信がなかったから結婚って力にすがった弱い女ってことになるのかしらね。あーやだやだ、年は取りたくないわねー」
「マーニャは別に年寄りじゃないじゃない」
「世間一般の年寄りと女としての年寄りは違うのー。あんたも今のうちに相手見つけなさいよ、いい男をさ」
 そうマーニャが笑って言うと、アリーナも笑って答えた。
「わたしには、ユーリル以上にいい男なんていないもの」
 ホイミンはその言葉の意味を考えて、理解してかなり驚いたのだが、マーニャは驚きもせずにっこり優美な笑顔を浮かべて言う。
「あげないわよ?」
「いらないわよ。もうもらっても困るし」
「お、大きく出たわね」
「そりゃあね。だって、もう旅が終わってから二年半も経つんだもの。その間いっぺんもユーリルに会ってないし、っていうか会わないようにしてたんだけど。会ったら、えっとなんて言うんだっけ……そう、やけぼっくいに火がつく、みたいなことにならないかって不安だったし」
「まあ、アリーナさんがそんな台詞を口にするなんて。大人の女性になったんですね」
 感心するミネアに、アリーナは笑う。
「まさか。でも、そうね……少しは、成長、したのかな。ユーリルと会ったらね、どうしよう、なんて言おう、ってドキドキしてたの。怖くて怖くてたまらなかった。好きだから、っていうんじゃなくて、もしまだあの頃と同じように好きだったらどうしよう、って怖かったの」
「……はい」
 ようやく話が飲み込めてきたホイミンはただうなずく。アリーナは赤い顔で、ぺろり、と杯の中身を舐めて続けた。
「でもね、今日エンドールにやってきて、約束の場所にクリフトたちと一緒に向かって、そこでユーリルに『おう、久しぶりアリーナ!』って笑顔で声をかけられたらね。『久しぶり、ユーリル!』ってわたしも笑顔で答えちゃってた。ユーリルは今のわたしにとってはもう昔好きだった人≠ナ、でも大切な仲間≠ネの。それがわかって、すごくほっとして、嬉しかった」
「どうして、ですか?」
「だって、ユーリルへの好きって気持ちはもう恋じゃなくて。それが自然で。だけどわたしの心にはユーリルが大切な仲間だって気持ちが残ってる。好きって気持ちがなくても、ユーリルとわたしはちゃんと仲間だった。それが証明されたのも嬉しいし……なんていうのかな、ユーリルとの間にわたしには、昔恋って気持ちがあって、でも絶対変わらない仲間で、そして今はかつて好きだったともだち、なのよ。もうわたしはユーリルを好きじゃなくていいし、ユーリルもわたしになにも気を遣わなくていい。マーニャとめいっぱい幸せになってほしいって心から言える」
 アリーナはにこり、とホイミンに微笑みかける。びっくりするくらい可愛らしい、魅力的な笑顔だった。
「それって、すごく自由な関係だと思わない? わたし、ユーリルとそうなれて、すごく嬉しい」
「そうなんですか……ごめんなさい、ボク、よくわからない、です」
 もし自分がライアンさんと離れることになってしまったら、いつかそんな風に笑ってライアンさんのことを話せるのだろうか。話せるように、なってしまうのだろうか。そう思うと、ホイミンは胸がきゅーっ、となってうつむいてしまった。
 と、マーニャがぽんぽんと優しく頭を叩いてくれる。
「ったく、可愛い顔すんじゃないの。ライアンって案外わっかりやすい奴ねー、若い子のウブなところにつけこんでメロメロにして、自分もすっかりメロメロってか」
「ライアンさんは、ボクにつけこんでなんてないです」
 反論するとマーニャはくす、と笑ってまた頭を叩く。
「あんたいい子ね。ほんっとーにライアンが好きなんだ」
「え、ありがとうございます……はい」
「でもね、時間が経てば気持ちって形を変えていくものなのよ。年を取れば新しい恋するのがおっくうになってくるし、たまらなく好きだった人も単純なきっかけで大嫌いな奴に変わるわ」
「…………」
「だけど変えたくないって気持ちがあるから……人間ってのは永遠を望んじゃうから、形式で縛ったり気持ちを衰えさせないようにいろいろ努力したり気持ちの在り方を変えたりとかして頑張るの。そういう人間だから、変わる人間だから、失うものもあるけれど、手に入れられるものもあるのよ」
「……そうなん、ですか」
「でも、わたしホイミンの気持ちもわかる。ユーリルと普通に接せられるようになって、今ではすごくほっとしてるけど、まだ好きだった頃にそうなりたいかって言われたら、絶対わたし断ってたと思うもの。苦しくてもユーリルへの好きだって気持ちが元ならちゃんと抱いていたかった。そういう気持ちがなくなったの、ほっとはしてるけど……今でも、少し、寂しいな、とは思うし。あの頃のわたし、子供だったなぁ、とは思うけど……子供じゃないと手に入れられないものって、あると思う。あの頃にユーリルを好きって気持ちがあったことは絶対忘れたくないし、あんなに人を好きになることもうないって、今でも思うもの」
 アリーナが訥々と言うと、マーニャはにやっと笑って、今度はアリーナの頭をぽんぽんと叩いた。
「アリーナ、あんたいい女になったじゃないの。年食った時には昔の男の話を肴に一杯やれそうね」
「あはは、ありがと。楽しみにしとくわね」
「さーて、あとは、ミネア! あんたのほーはどーなのよっ、誰かいい男いたの!?」
「はっ!? なんで私に振るのよっ! わ、私は別に、もう男の人がどうとかいう年齢じゃないし」
「なーに言ってんのよあんたまだ二十代じゃないのっ! だいたいあんたはいっつも押しが足りなすぎんのよ、いい男がいても遠くから見てるだけでろくにアプローチもしないんだからっ」
「わ、私はだから別に、仕事に生きるって決めてるし」
「そうなんですか? 本当に」
「う……だ、だからですねぇ……」
「ミネアのそういう話って全然聞いたことないから気になるなぁ」
「あ、アリーナさんまでっ」
 そんな調子で、その日は夜遅くまで騒ぐ、というホイミンはあまりしたことのない経験をすることになった。

「あ!」
 結婚式まであとわずか、という頃合。ホイミンは式場で動転した声を挙げた。
「どうした、ホイミン」
「楽器、宿に忘れてきちゃった……!」 
「……む」
 ライアンは目を瞬かせる。二人で結婚式というものについていろいろ話しながら来たので、ライアンもホイミンが楽器を持ってこなかったことに気付かなかったらしい。痛恨のミスだ。
 結婚式の終わりにはホイミンの奏でる楽の音に合わせてマーニャが舞を舞う予定だったというのに(ライアンが絶賛するホイミンの音を聞いてみたいと新郎新婦の意見が合ったらしい)、楽器がなくてはどうにもならない。どうしよう、と考えるより早く、ホイミンは立ち上がっていた。
「む……ホイミン?」
「取ってくる! ライアンさんはここで待ってて!」
「待て、ホイミ……」
 駆け出したホイミンの耳には、あとは聞こえなかった。
 全速力で宿まで駆け戻り、また全速力で教会まで走る。途中からはもうぜぇはぁ言っていたが、なんとしても楽器を持ってこなければ、という思いの前はそんなこと問題にもならなかった。
 教会が見えてきた。時間にまだ充分余裕があるのを教会の時計で見て取り、ようやく足を緩めて息をつく。正直その場にへたりこんでしまいそうだったが、そんなことをするくらいなら指馴らしでもしておくべきだろうと足を進めた。
 と、その足が止まった。
 教会を、じっと外から見つめている人がいる。黒い衣、銀の髪。真白の肌。鮮血のように紅い瞳と唇。体格は明らかに男性のものだったが、その顔貌は女性のように、というか普通の女性よりはるかに綺麗だった。
 そしてこちらを圧する威圧感と、背筋をぞくりとさせるような、艶っぽいというのか色っぽいというのか、そういう雰囲気に満ちていた。一言で形容するなら、凄艶。その言葉が一番ふさわしいだろう。
 ホイミンは以前会った人にわずかに似ているその人影をしばらく見つめ、それから声をかけた。
「入らないんですか?」
 その人は首を動かして、ちろり、と迫力に満ちた眼でホイミンを見た。あ、見てくれた、とちょっと嬉しくなってホイミンはにこり、と笑う。
「なんだ、お前は」
「ボク、ホイミンっていいます」
「名前など聞いては……ホイミン? そう言ったのか?」
「はい」
「……なるほど、話は聞いている。さっさと教会の中に入るがいい。私のことなど忘れてな」
 そうしてまた教会の方に顔を向ける。ホイミンは小さく首を傾げて、再び問うた。
「入らないんですか?」
「……貴様、しつこいぞ。私を煩わせるな。命が惜しければな」
「でも……もうすぐ、結婚式始まっちゃいますよ」
「……なぜ私が結婚式に用があるのだと思う」
「え、だって、そうじゃないんですか?」
「…………」
 ふ、と小さく、その人影は息をついた。
「用などない。ただ、見ておきたかっただけだ」
「結婚式を、ですか?」
「……あれが、好いた女と一緒になるところを」
 その人はじっと教会を見つめながら、淡々と言葉を重ねた。ホイミンはじっとその人を見つめながら、言葉を聞く。
「私はあれを、これ以上ないほど傷つけた。そのことを悔いているわけではない。悔いる資格など私にはないし、悔やみたいとも悔やむべきとも思わぬ。私はそれが正しいと思ってやったし、今も間違っていることをしたとは思っていない。私にとって、人は、滅ぼすべきものなのだから」
「……そうなんですか」
 その人の少し後ろに立って、ホイミンも一緒に教会を眺めた。その人は静かな、深みのある声で続ける。
「ただ……あれは。そんな相手に、憎い仇に。苦しんでいるのを放っておきたくない、などと抜かしたのだ」
「……はい」
「私とあれとは立っている場所が違う。私は魔族の王で、人間どもを皆殺しにしようとした存在だ。あやつはそれを阻んだ、天空人の血を引く者。我が配下たちを殺した者。だから、相容れることは永遠にない。そのような可能性などありえない」
「そうなんですか?」
「ありえない――なのにあれは、あやつは、私を理解したい、などと言ったのだ」
「……そうなんですか」
 感情を抑えた静かな言葉。けれど、その声音には、底に確かに揺らぎがあった。
「初めてだった。あのように真正面から、私を見て、話しかけてきた者は。ロザリーのように庇護欲を起こさせる存在ではなく。アドンのように私に忠誠を誓う存在でもなく。まるで立場の違う、どこまでいってもすれ違い続ける存在だというのに……奇妙な話だが、あやつは私と、ただ一人対等だった」
「あなたはとても、その人が好きだったんですね」
 そのホイミンの言葉に、その人はしばしの沈黙ののち答えた。
「そうだな……惹かれた。惹かれたところでどうしようもないのに」
「そうなんですか?」
「そうだ。お互いの立つ場所も、傍らに立つ者も、捨てられるはずがない。それがお互いよくわかっているのに、捨てさせたくないとすら思っているのに、それでも私は、あれを、ただ一人―――」
 その人はそこで言葉を止め、小さく首を振った。ゆったりと。声音同様にひどく静かに。
「なぜこんなことまで話してしまったのか……奇妙な奴だな、お前は」
「そう、ですか?」
「……私は行く」
 ばさり、とマントを翻して、その人は教会に背を向けた。
「え、でも」
「あれに……ユーリルに一言伝えてくれ。―――幸せに」
「……はい………」
 ああ、この人はきっと、その名前を言うことに、本当にたまらないほどの勇気を振り絞ったに違いない。
 けれどその声は一瞬で掻き消え、その人はどんどんと歩みを進めていく。教会の方を振り向きもせずに。誰にも会いも、声をかけもしないまま。
 どうしよう。どうすれば。だけどこのままじゃ、あんまりだ。どうしよう、どうすれば、わからない、わからないけど。
「あの!」
 大声で必死に叫ぶと、その人は足を止めた。それがいつまで続くかはわからない、だからホイミンは一気呵成に喋った。
「立場は違うかもしれません。すれ違っているかも。でもだからって好きになっちゃいけないってことはないと思います。魔族でも、人でも、魔物でも。好きって気持ちは、その人が本当に好きなのなら、ボクだったらずっと覚えて大切にしたいです。いつかは線が交わる時があるかもって思うから! ずっとずっと思ってたらいつかはって思うから! きっと、ユーリルさんも、そうだと思います!」
 必死にそこまでまくしたてて、はぁはぁと息をつく。その人は、静かな瞳でこちらを見つめていたが、やがてふっと笑った。たまらなく綺麗に。
「覚えておこう、魔物と人のあわいを越えた者よ」
「………はい」
 そしてその人は、くるりとこちらに背を向ける。あ、と手を伸ばしかけ、手を下ろしたホイミンに、その人は背を向けたまま声をかけた。
「悪くはない時間だった」
「え」
「いつかその線が交わる時が来たのなら、私はお前に言葉を返そう」
「………はい」
 その人は小さく呪文を唱えた。その姿がふわり、と宙に浮かび、すぐにふっと掻き消える。ホイミンはそれからしばらくその場所にたたずみ、それからたまらなくなって駆け出した。静かな教会に飛び込み、集まっていた人の中、思案げに扉の方を見ていたライアンと目が合って、だっと床を蹴った。
「ホイミン、遅か……っと」
「ライアンさん」
「……どうした、ホイミン?」
 ライアンは(自分を心配したことなどおくびにも出さず)そっと自分を抱きしめ、背中を撫で下ろしてくれた。何度も何度も。とても優しい手で。
「ライアンさん、ライアンさん、ライアンさん」
「……うむ」
「ライアンさん……大好き、大好きだから」
「うむ」
 大好きで、幸せだから、寂しそうだったあの人の姿がたまらなく悲しかったんだ。
 その言葉はその時は口からは出ずに、ただライアンの胸に頭をすり寄せた。
 ――結婚式の最後、舞の時間。ホイミンの奏でる音とマーニャの舞は、二つともに溶け合い、高め合い、自分たちでも恍惚とするほどの悦びを引き出し、全員から喝采を受けた。
 けれどお互いそれぞれの相手からちょっと嫉妬されてしまったのは、ここだけの話。

 全員トルネコ宅での宴会に引き上げた教会で、ホイミンは一人ステンドグラスを見上げていた。エンドールには教会はいくつもあるそうだが、結婚式にここを選んだのはいつもお祈りに使っていたからだと聞いている。一番多く祈った場所だから、と。
 当たり前だが、ホイミンには導きの旅をしている間のライアンの記憶はない。だから当然彼らの仲間には入れない。記憶は絆を作り、絆が心を繋ぐ。共有する記憶を持つ人間の間には、その人間たちだけの心の行き交いが確かに存在するのだ。
 ホイミンはそれが嫌ではない。少し寂しい気持ちはしないでもないが、それでも同じ時を過ごした仲間だけが共有できる空気を楽しんでいるところは、ライアンでもライアンじゃなくても見ていて好きだ。
 なので自分は、その空気を邪魔したくない、とライアンに言って席を外させてもらった。そして人気のない教会の椅子に座り、一人考えている。
 この一週間の間に、いろんな人の話を聞いた。誰かが誰かを好きだと思う。その心にどうしてこうもいろんな形があるのか不思議だった。
 愛する人と一緒に暮らす不安に悩んで、けれど苦しかった自分を救ってくれた相手が誰より好きだと再確認したユーリル。年を重ね変わることに対する恐れと不安を見つめ、自らに枷をはめることでそれと戦おうとしたマーニャ。かつて好きだった人にもう恋をしていないことがすごく嬉しいと言っていたアリーナ。そして立場と自分の大切なものにがんじがらめになりながら、それでも愛しいと思った相手の幸せを願ったあの人。
 いろんな想いがある。かなう想いもかなわない想いもある。消えていくものも変わってしまうものも、続いていくものも。そのどれも無意味だとはホイミンには思えないけれど。
 ボクの想いはどうなんだろう。ライアンさんの想いは。今は大好きで、これ以上ないほど幸せだけど、それがいつか変わったり、消えてしまうこともあるんだろうか。
 そんなことは考えたこともなかった。ただライアンさんへの好きで体中がいっぱいで、それに毎日が満たされていた。でも。
 その幸福も、いつかは消えて、変わってしまうかもしれない。
 そのことを考えるとなんだか目と足の指先がじんわり熱くなったが、涙を落としはしなかった。ただ、十字架を見上げ考える。
 もう陽は落ちて、月の光が窓から聖堂内へと差し込んできていた。あの人の髪と同じ白銀の光が、世界の色を変えていく。
 ユーリルさんは変わらないよう努力しようとしている。マーニャさんは変わらないよう枷をはめた。アリーナさんは変わってよかったと言って、あの人は変わらないことが悲しそうだった。
 自分は。そして、ライアンさんはどうなんだろう。
 それは、たぶん。
「――ホイミン」
 静かに声をかけられ、ホイミンはゆっくりと振り向いた。どこかで声をかけられることを予想していた気がする。
「ライアンさん」
「遅いので、迎えにきた」
「うん。ありがとう」
 じっとライアンを見つめる。ライアンは静かに見返してきた。しばらくなにも言わず、ただ向かい合って互いを見つめる。
 じーっとライアンを見つめ、ぽーっとしながら考えた。ああ、やっぱり、ボクライアンさんのこと、ほんとにほんとに好きだなぁ。
「……どうした? ホイミン」
 ライアンが問う。他の人にはわからないかもしれないが、ライアンは小さく苦笑しているように思えた。
「うん。あのね、ライアンさん」
「うむ」
「ボクね、ライアンさんのこと、ほんとにほんとに好きだなぁって思うんだ」
「……うむ。私も、ホイミンのことが他の誰より好きだぞ」
「そう? えへへ」
 にへら、と笑み崩れてから、いけないいけないと首を振ってしっかりライアンを見て続ける。
「でもね、この一週間、いろんな人の話を聞いて。その気持ちが、いつか変わっちゃうこともあるのかなぁ、って思ったんだ」
「……そうか。それで?」
「でもね。ボク、何度考えても、わかんないんだ」
「なにがだ?」
「なんで気持ちが変わっちゃうのか」
 ライアンは驚いたように目をぱちぱちとさせた気がした。
「何度考えても、ボクはずっとずっとライアンさんが好きで、ライアンさんもずっとずっとボクのこと一緒にいてくれるくらいには好きなんじゃないかなぁ、って思っちゃう。変わることがあるかもしれないって考えても、実感わかないんだ」
「……うむ」
「でね。そういうのはきっと、経験してみなくちゃわからないこと、ってものだと思って、未来のことだからどうなるかはきっと誰にもわからないことで。だから、いろいろ考えたんだけど、ボクに今できることはね、ずっとずっとライアンさんと一緒にいたいって気持ちのまま、ずっとずっとライアンさんと一緒にいることだと思ったんだ」
「…………」
「だからね、ライアンさん。これからも、よろしくお願いします」
 ぺこり、と頭を下げる。ライアンはしばらく黙っていたが、やがてすっと自分の前に立って、小さく「ホイミン」と自分の名前を呼んだ。静かで、でも優しくて愛しげな、ホイミンの大好きなライアンの声音で。
「左手の指を出してくれ」
「指?」
 きょとんとして顔を上げ、言われるままに左手を突き出す。その手をライアンの大きな暖かい手がそっと握り、なにかを薬指にはめた。見てみると、それは指輪だ。
「………? なに?」
「本来なら、もう少し時を選んで渡すつもりだったのだが」
「?」
 意味がわからず眉を寄せるホイミンに、ライアンは苦笑した。
「エンゲージリング、というやつだ。とりあえずの、婚約の印だな」
「え……ええぇぇっ!!??」
 ホイミンは仰天してライアンの顔と指輪をばっばっと見比べた。大きなブルーダイヤモンドをつけた美しい指輪。知識としては知っている、だけどなんでそれが自分に?
「前々から考えては、いたのだが。ホイミン……私と、神の前で誓いを交わし、夫婦になってはくれまいか?」
「え、だ、だってだって、ボク男だよ? 男は男と夫婦にはなれないんでしょ? ライアンさんだって人間のボクと最初に会った時神の前では誓えないって」
「うむ。だが、私もあれからいろいろと考えてな。先々のことも考えると……お主ときちんと、婚姻を結んでおきたいと思ったのだ。クリフト殿とも相談してな、そなたには戸籍がないし、養子縁組という形でならば籍を入れることはできるだろうから、あとはクリフト殿に婚姻の儀を結んでもらえればよいかと。形の上でのことと言われるやもとも思ったが、形を実質に追いつかせることはなにも悪いことではなかろうと、な」
「………………」
「ホイミン」
 ライアンが男らしい顔を近づけてきて、その低く、渋い声で囁く。
「私も今のこの、そなたが愛しいという心が変わるとは思えん。むろん未来がどうなるかは誰にもわからぬ。だが、少なくとも、この瞬間の、お前を世界の誰より愛しいと思う気持ちがあれば、人生を懸ける理由には足りる」
「………………」
「ホイミン。お前も、私に人生を懸けてくれるか?」
「………うんっ………」
 ホイミンはぎゅ、と自分の手を握ってきたライアンの手を握り返した。それを顔の前まで持ってきて、すりすり、と顔をすり寄せる。それだけでは治まらなくて、腕を、体をめいっぱい腕を伸ばして抱きしめ体を摺り寄せた。
「ライアンさん……ほんとに、ほんとに、大好きだよ……」
「ああ、ホイミン……私もだ」
 ライアンが顔を近づけてくる。自分の体に逞しい腕が回される。ひょい、と半ば自分の体を抱き上げるようにして、ホイミンも精一杯背伸びをして――ちゅ、と唇と唇が合わさった。
 ちゅ。ちゅ、ちゅ。ちゅ、ちゅぷ、ちゅ。何度も何度も唇を触れ合わせて、大好きだと告げる。体全体で懸命に。ライアンはホイミンの拙いキスをすべて受け止め、何倍にもして返してくれる。
 優しく体を撫でて、唇を噛み、舐め、吸い、そっと舌が入ってきて。口の中に触れ、舌を引き出され、絡めあい。それが何度も何度も繰り返されて。
 だいすき。
 その気持ちを伝えるためだけに、二人はできる限り雄弁に唇を重ねた。
 ちなみに教会の神父に見つかりど叱られることになるのは、これから五百ほど数えたあとのことである。

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