迷夢〜ハッサン・1
「おーい、待ってくれよぉ!」
 野をすたすたと進む紺碧の髪が、すいとこちらを向く。後姿だけで間違いなくあいつだ、と思ってはいたが、予想通りのものやわらかな顔立ちがそこにあることにハッサンはほっとしてにっと笑った。
「探したぜ、ローグ。兵士に採用されたんだろ。まずは、おめでとうよ!」
 にかにか笑顔で歩み寄り、ばぁん! と力を込めて肩を叩く。細い体が揺れるのに、おっとっとと慌てて力を緩める。塔で会ったのと同じ――いや、それ以前にも会っていたような気はするが、とにかくどちらかというと優男とか目元涼やかとか、そういう形容が似合うような風貌の、顔だけならあどけなささえ感じるような童顔の少年と青年の間ぐらいの年の男に、大きく胸を張り話しかけた。
「ところで、もしかすると、暴れ馬を捕まえに行こうと考えちゃいないかい? だがな、ローグ。一人じゃ無理だ。どうだい、ここはひとつ、この俺と手を組まねえか? 馬のことならバッチリよ!」
 そう言ってぐいっと親指を立ててみせる。が、相手の男――かつて出会い、優しげな声と笑顔で名前を名乗った男であるローグは、そんなハッサンの言葉に。
「は? なに抜かしてんだお前、スープで顔洗って出直してこいボケ」
 そう思いっきり顔をしかめて言い、すいと背中を向けてしまったのだ。
 一瞬ハッサンはぽかん、として遠ざかっていく背中を見つめてしまった。だがすぐに慌てて駆け寄り、ローグの肩をつかむ。
「おいおいおいおい、ちょっと待てよ。まぁ、そんなにつれなくするなって」
「却下。断る。きっぱり嫌だ」
「また〜。遠慮なんかしてる場合じゃないだろ」
「アホかお前。脳味噌腐れてんのかまーいかにも脳味噌少なそうな顔だけど。お前みたいな暑苦しいマッチョモヒカンと組むのはごめんだ、っつってんだよ少しは頭働かせろ。お前みたいな暑苦しい奴となんで組まなきゃなんないんだ、俺の得になることがまったく全然これっぽっちもねーだろうが」
「むぐ……そう言うなって。お前だって一人でなんでもかんでもできるってわけじゃないだろ?」
「一人でなんでもできるわけじゃなかろうと、暴れ馬を捕まえる程度のことはできんだよ。だってのになんでお前と組んで手柄分けてやんなきゃなんねーんだ、説明できるもんなら三十字以内で説明してみろ、ただし制限時間は十秒で」
「は……? さんじゅ……」
「チッチッチッ……はい終わり。制限時間越えで失格、つまりお前を仲間に加える必要性は皆無かつ絶無かつ存在証明すら不可能っつーことだな。じゃ、そういうことで」
「いやいや待て待て待て! そう言うなって、ちょっと仲間に加えてくれるくらいいいだろ? 実を言うと、俺はお前を手伝ってレイドックの兵士の一人に加えてもらえないかと思ってるんだ。自分の力や技を磨くためにも、魔王と戦うレイドックの兵士になって、世界を守るため戦おうと……」
「お前のつもりと俺のつもりに相関関係がある必要がどこにあんだよ」
「へ? そうかん……?」
「このくらいの言葉も覚えらんねーほど脳筋なのかよ、見た目通りだな。親切に説明してやるとな、お前がどういうつもりだろーと俺にはまったく微塵も少しも皆目てんでさっぱり寸毫も、関係ねーっつーことだよ。わかったらとっととその無駄に太い腕を離してどきやがれ、人様の通行の邪魔すんじゃねえ」
「いやいやいや、だからそう言うなって!」
 ハッサンは隙あらばこちらの手を振りほどいて歩き出そうとするローグの肩を、必死につかみ引き寄せてかき口説いた。なにもここまで言われてまでこいつと一緒に行かなきゃならないこともないだろう、と頭の一部では考えたりもするのだが、それでも自分なりに必死に考えて決めたことなのだ、そう簡単に退くわけにはいかない。なんとしても、こいつと一緒に行ってやらなくてはならないのだ。
「だからなっ、そうつんけんせずに、少しは考えてくれても」
「考える必要がまったく全然ちっとも露ほどもねえ、っつってんだろうがわかりの悪い奴だな。ここまで言われてまだわかんねえってどんだけ脳筋なんだよ、本気で頭腐ってるのかこの脳味噌ゾンビ男」
「むぐぐ……いやそう言うなよ! ほら、な、せっかく縁があって会ったんだし、少しは心を広く持ってくれても」
「なにが縁だ、てめえが勝手に声をかけてきたんだろーがふざけるなこのハゲ。俺の心がどんだけ母なる海のように寛大だろーとな、ここで心の広さを見せるつもりも意味も必要性も、最初からまるでいっこうに毫末もねーんだよ」
「ハ……っ、ってお前なっ」
「なんだハゲ。文句あんのかよマッチョモヒカン。お前が好きでそういう格好をしてんだろが露出狂ムキムキ野郎」
「っっっだ、からなっ! お前は、もっとこう、心の広い奴のはずだろうっ!」
 がっし、と両肩をつかみ、我ながらかなり血走った目を近づけ叫ぶ。と、ローグはその琥珀のような瞳をわずかに歪め、こちらを睨むように見て言った。
「なんでそんなことがわかるんだよ。俺とお前は、顔を見たのもこれで四度目、会話したのなんぞ二度目だぞ。それで俺のいったいなにがわかるってんだ」
「へ? 四回も顔合わせてたか?」
「………、いいからとっとと答えろこの無駄筋肉ハゲ。よく知りもしねぇ俺が心が広いなんぞと、なんでわかんだよ」
「え、ええと、だな」
 問われて慌てて考えるが、どうにももっともらしい理由が思いつかない。そもそもハッサンは考えるのは苦手なのだ。頭の中が熱く、痛くなってきたので、ええいとばかりにぐいっとローグの体を引き寄せ、宣言した。
「なぜでも、わかる! お前は心の広い奴だ! その日会ったばかりの奴だろうと、信頼できると思えば仲間にできる奴のはずだ!」
「………………」
 ローグはそれからもしばしこちらを睨むように見つめていたが、やがてふっ、としょうもなげなため息をつき、ぐいっとハッサンを押しやってから面倒くさそうに言った。
「わかった。……ついてきたけりゃ勝手についてこい」
 投げやりにもほどがあるだろう、という言葉だが、ハッサンに気にしている余裕はなかった。体の奥底から溢れる喜びに突き動かされて、ぱぁん! とローグの背中を叩いて笑う。
「ようし、決まった! 今日から俺たちは兄弟分だ。よろしく頼むぜ。なっ、ローグ!」
 とたん、がずっと脛に蹴りを入れられた。
「おおっ……!? ってぇ〜っ!」
「勝手に兄弟分にするんじゃねーよこのスカポンタン、あと無意味にスキンシップとるのやめろそれから人の体叩く時に力入れんなボケ」
「そういうこと言うならお前も人の体蹴るなよ!」
「これは正当な報復だろが。やられた分をやり返すのは古くから刑法の基本なんだよそんくらい知っとけタコ」

 そこから暴れ馬のいるというレイドック西の森までは三日ほどかかったのだが、その間中ハッサンはローグに怒鳴られっぱなしだった。
「邪魔だこのハゲ! でかい図体でいきなり飛び出すんじゃねえ、こっちの攻撃の巻き添えになりてーのか!」
「っわ! って、んなこと言ったって敵が目の前にいんのに、飛び出さないわけにいかねぇだろ!」
「アホ。ブーメランは攻撃したら戻ってくるってこともわかってねえのか、お前は脳筋だから戻ってきたブーメランに当たっても痛くねーのかもしんねーけどな、こっちは見てるだけで痛えんだよ! 曲がりなりにも命懸けて戦ってる時にこっちの邪魔すんじゃねぇスッタコ野郎!」
 だの、
「は? おい、モヒカンハゲ。もう一回言ってみろ」
「いや……だからさぁ。急いでたから保存食買い込むの忘れてて……悪ぃんだが、ちっと分けてくれねぇかな?」
「アホかてめえ! 曲がりなりにも成人した奴がなんだその言い草、犯罪だぞもちろん悪い意味で。旅してんだから自分の面倒は自分で見るのが当たり前だろが、旅の最中にはなにがあるかわからねえってのもわかってねーのかよクソボケ、それとも人間は飯を食わなきゃ死ぬということも理解できてねーのかこの無駄にでかい頭は、あぁ?」
 だの、
「なぁ、ローグ。お前、なんで兵士になったんだ?」
「は? なんでそんなことお前に言わなきゃなんねえんだよ」
「いや、せっかく一緒に旅してるんだからこのくらい話したっていいだろ。別になにか話さなきゃならない話題があるわけじゃなし」
「ほー、そんくらいのことはわかってんのか。ならこれも教えておいてやるけどな、俺とお前が話さなきゃなんねぇ必然性も、親しくなる必要も、まったく完全にこれっぽっちもねーんだよ。暴れ馬を一頭捕まえるくらいなら俺一人で十分できんだ、ゆえにお前と俺がチームワークをよくする必要はまったくねえし、仲良くなる必要なんぞさらにねえ。それがわかったら少し黙ってろ、お前の無駄にマッチョな声を張り上げられると耳障りなんだよ、お前の声以外聞こえなくなるから」
 だの。
 まー本当に口を開けば口を極めてこちらを罵ること罵ること、さすがにハッサンもこいつ殴り倒してやろうかと思ったことは一度や二度ではない。態度からして偉そうだわそっけないわ体全体でこっちを馬鹿にしているとしか思えないわ、喧嘩を売ってるのかこいつと拳を握りしめてしまったこともあるほどだ。
 だが、なんというか、なぜかあと一歩のところで、いつも喧嘩を買う方向に針が振れなかった。
 もともとハッサンが喧嘩っ早い方ではないということもあるのだろうが、なんというか、ローグの言っていることにはたいてい、一応理が通っているのだ。腹の立つことに。
 仲間と一緒に戦っている以上、仲間の投擲武器の軌道からきっちり身をかわすよう気を遣うのは当然の心得だろうし、数日であれ旅をする以上その間の食料を用意しておくのは当然以前のことだ。山道を歩いている時に話しちゃいけないとはハッサンは思わないが、魔物が襲ってくることを考えれば確かに、黙って周囲の音に耳を澄ませていた方がいい、というのも間違っていない。
 なので、仏頂面だったり頭をかいたり苦笑したり、その時々で表情はいろいろだったが、ローグの言葉に、ハッサンはいつも最後には、「へいへい、わかりましたよ」と答えたのだ。
 ローグはいつもその言葉をうさんくさそうな顔で聞き、「ふん」と鼻を鳴らすことしかしなかったけれども。

 こんなことがあった。
「……はぁ〜、腹減ったぁ〜……」
 旅の初日、夜。ハッサンはぐるぐる唸るすきっ腹を抱えて焚き火の前で唸っていた。
 保存食がない、つまり食べるものがないので、道行きの途中で木の実などを取ったりはしていたのだが、当然ながらそんなものでは腹を満たすにはまるで足りない。なのでハッサンは始終腹の虫を鳴らしていたのだが、ローグは当初の宣言どおり自分に食料を分けてくれるような気配は微塵も見せなかった。
 ぐるぐる腹を鳴らしながらよだれを垂らしそうな顔で見るハッサンの前で、平然と乾し肉と乾パンを食ってみせたのだからある意味見事と言いたくなるほどだ。そして飢えに必死に耐えるハッサンの表情などまるで無視して、「曲がりなりにも俺についてきてるんだから俺が寝ている間の見張りぐらいしやがれできんとは言わさねぇ」と睨んだかと思うやとっとと寝てしまったのだ。
「……ったく。いいご身分だぜ、人が空きっ腹抱えてる時にたっぷり飯食って高いびきかよ」
 ぶつぶつと不満を漏らすが、だが実際食料を用意していなかったのは自分のしくじりだ。二人で旅をしているんだから寝ている間の見張りくらいはするのが筋だろうし。なので、ぐるぐる腹を鳴らしながらも、焚き火に薪をくべつつ一人で数時間も空腹に耐える。
 正確に時間を計っていたわけではないが、まだ四時間やそこらしか経っていないだろう頃、ローグはむっくり起き上がった。不機嫌そうに顔を歪めながら、ぎろりとハッサンを睨みつける。
「俺の番か。……じゃあお前、とっとと寝ろ」
「は? とっとって、なんでだよ。別に早く寝なきゃならない理由があるわけでも」
「1.曲がりなりにも一緒に旅をしている以上一応はまともに動いてもらわないとこっちが困る、よって睡眠時間をきっちり確保するのは当然。2.二人旅で見張りが二人いても仕方ないのに二人一緒に起きている時間を作るなんぞ時間と労力の無駄だ。3.こっちが真面目に見張りをしようとしている時にお前の無駄に暑苦しい巨体にうごめいてられると非常に目障りだ。以上、わかったらとっとと寝ろ、俺は時間の無駄遣いと視覚的公害が大っ嫌いなんだよ」
「うごめ……」
 相も変わらずの毒舌っぷりにハッサンは思わずこめかみに青筋を立てたが、すきっ腹を抱えて数時間、そろそろ眠気もきているという時に喧嘩を買うほどの元気はない。2と3はともかく、しっかり寝ておかなければ明日に差し障るのも間違いがない。むっとはしたものの、結局「へーへー、わかりましたよ」と言って毛布に包まり焚火のそばに寝転がった。
 よく寝てよく食べよく動く、を武闘家修行の基礎としているハッサンは、目を閉じただけでいつも通りにあっさり眠りに落ちた。思う存分いびきをかきながら、睡眠の快楽に耽溺する。
 自分のいびきは相当うるさいらしいのだが、まぁ二人旅だしと気にはせず、ひたすら気持ちよく寝こける――と、唐突にがづん、と頭を蹴られた。
「っでぇっ!」
「いつまで寝てんだこのボケタコ。とっとと起きて出発の準備をしろ、今日もいやってほど歩くんだからな」
「へーへー……ふぁー、ぁっと」
 寝ぼけ眼を擦りつつ起き上がり、伸びをする。同時にぐるるるると腹が鳴った。あーくそこれからまた空きっ腹抱えてえんえん歩くのかよ、と思うとうんざりしたが、ふと薫ってきた匂いに思わず鼻をうごめかせた。
 これは、肉だ。新鮮な肉の匂い。それと、それを焼く、匂い?
「っ!」
 飢えた獣の目で素早く匂いの元をたどると、ぱちぱちと音を立てて燃えている焚き火の前に串焼きにされている肉があった。のみならず焚き火の脇では猪が解体され、塩漬けにされ油紙に包まれた肉がうず高く積まれている。
 思わず踊りかかりたくなるのを理性を総動員して押さえ、おそるおそるローグに訊ねる。
「……なぁ。この肉、どうしたんだ?」
「俺が腹が減ったから狩ったに決まってるだろが」
「か……狩ったぁ!? お前が!?」
「他に誰がいる。教えといてやるが、ブーメランはもともと狩猟のための道具だ。狩ろうと思えば小さな猪くらいいつでも狩れる」
 それだったら昨日狩ってくれてもよかったじゃないかよ、と思わず口から出かかるが、なんとか抑えた。そんなことを言ったとしてもこいつが狩ってくれたとは思えない。
 そんな無駄なことを言い立てるより先にすることがある。ハッサンは半ば土下座するような勢いで、ローグに頭を下げて頼み込んだ。
「頼む! ちょっとでいいから分けてくれ!」
「は? なんでお前に分けなきゃならん。俺が狩った獲物だぞ、これは」
 予想通りの台詞にむぐぐっと一瞬言葉に詰まるが、負けずに再び勢いよく頭を下げて頼む。
「そこをなんとか!」
「なにがなんとかだ」
「頼む! なっ、俺にできることならたいていのことならするから、頼むからなんとか俺にその肉を!」
「お前なんぞにできることをわざわざ頼むかボケ。時間と人的資源の無駄だっつーんだタコが」
「そこを押して頼むから、なっなっ!? お前だってこの先、俺の手を借りたいって思うことができるかもしれないだろ!? その分の前払いってことで、なっ!?」
「俺は前借りも前払いも嫌いなんだよ、いいからひっつくなボケハゲ!」
 さんざん拒否され、怒鳴られ、怒られたが、それでも必死に頼み込んでいると、は、といかにも『どうしようもねぇな、このハゲは』という感じの苛立たしげな息をつき、ぶっきらぼうな口調でローグは言った。
「あーもーわかったわかった、わかったからひっつくな鬱陶しい。俺の残りくらいなら恵んでやるからとっとと離れろ」
「っしゃぁっ! ありがとなっ、ローグっ!」
 満面の笑みになってがっしと手を取りぶんぶんと振り回すと、「鬱陶しいっつってんだろうがボケタコ!」と怒鳴られもぎ放された。ほそっこい体をしているくせに、ローグの力は今のところハッサンより強いのだ。
 ローグは焚き火の前の猪の串焼きを取り、「ほれ」と面倒くさそうに渡してくる。空きっ腹を抱えていたハッサンは、あっという間にそれを咀嚼し胃の中に入れるが、ローグは即座に「アホか!」と怒鳴りつけてくる。
「へ? アホかって……なにがだ?」
「腹を空かせてる時はゆっくりよく噛んで食わないと体に悪いんだよ! 数日食ってない時に飯をかっ込みでもしたら死の危険まであるんだからな、旅してんならその程度のこと知っときやがれど阿呆が!」
「へ、そうなのか……? いやでも大丈夫だって、俺体丈夫だし」
「そういう風に自分の健康を過信してる奴がそのせいで体を壊したって例がどれだけあるか知らねぇのかクソボケ。いいから今度はちゃんとゆっくり噛んで食え。……ほら」
「む……んぐ、むぐ……」
 偉そうだなぁ、と思いはしたものの、まぁこいつも俺の体を気遣って言ってくれてるわけだし、とハッサンは素直に差し出された新しい串焼きをゆっくり噛んで食べた。歯応えのある赤身部分とじゅうじゅう音を立てている柔らかい脂身部分の味わいのバランスがなんともいえない。
 噛めば噛むほどに味が出てくる肉の味をたっぷり堪能してから飲み下すと、新しい串焼きが出される。それもゆっくり咀嚼して呑み込むと、また新しい串焼きが。
 そんなようにして気づいたら、ハッサンは焚き火で焼かれていた串焼きを全部たいらげてしまっていた。うわやべっ、と思いつつぽりぽり頭を掻き、気まずい気分で頭を下げる。
「いや……悪かったな、ローグ。お前の分まで食っちまって。いやホントすまん、なんかめちゃくちゃうまくて止まらなくてよ」
 ハッサンとしては心底申し訳ない思いだったのだが、ローグははっ、といかにも馬鹿にしていますというように鼻を鳴らしてみせた。
「馬鹿か、お前? 『俺の残りくらいなら』って最初に言っただろうが、お前がぐーすか眠ってる間に俺は自分の分たっぷり食ってんだよ。お前が食ったのは俺が食ったあとの残りだ、残り。一番うまい部分はもうとっくに俺が食ってんだよボケタコが」
「へ……そうなのか? いやーよかったぜ、飯食わせてもらった相手に恩を仇で返すような真似したくねぇからな」
 心底ほっとして思わず笑むと、ローグはぐっと相当に全力だろう勢いで顔をしかめ、「いいからとっとと行くぞ! 早く支度をしろ、遅れたら置いていくぞわかってんのか脳味噌筋肉!」と怒鳴る。「へいへい」と頭を掻いて素早く支度をするが、その間にローグは塩漬け肉を新しい小袋にまとめて自分の袋の中に放り込んでいた。
 それを見て、思わず訊ねてしまう。
「……なぁ、それ、どうするんだ?」
「保存食にするに決まってるだろう。せっかく狩った食材を無駄にするなんぞ俺の良識が許さん」
「や、それはそうなんだろうけどさ……よかったら、俺にもちょっとくらい分けてくんねーかなと、そう……」
 照れ笑いをしつつ手を合わせたハッサンに、ローグは見下げ果てたという顔で自分を見つめ(下から見られているのにこちらを見下すという顔ができるというのはある意味大したものだ)、ぶっきらぼうに答えた。
「それならそれだけの働きをしてみせろ。お前が役に立つというところを見せれば考えてやらんでもない」
「……へいへい」
 ほんっとーに偉そうだよなぁこいつ、と思いつつ自分の袋を持ち上げる――と、ふと思った。
 腹が減ったって、こいつ昨日乾し肉と乾パン食ってたよな。あれだけ言うからには自分の分は充分確保してあるんだろうし。その状況でなんでわざわざ新しく肉を狩るんだ? もしかして、俺のためにわざわざ狩ってきてくれたとかいうんじゃ……。
 まさかな、と内心苦笑してハッサンはローグの後ろを歩き出したが、それからもその探索行の間中、ローグはなんのかんの言いながらも、自分に肉を分けてくれたのだ。

 そして、こんなこともあった。
「どけっ!」
 後方から響いてきた罵声に反射的に後ろに跳び退ると、ちょうどさっきまで体があったところを通る軌道でブーメランが飛んだ。ブーメランは魔物の群れ全体を一気に薙ぎ払い、次々その場に打ち倒していく。
 もう動いている魔物がいなくなったのを見て取り、ふ、とハッサンは息をついた。ローグの攻撃の呼吸とどう攻撃するかが罵声を浴びせられた一瞬でなんとなくわかった。なんというか、ようやくそれなりにローグとコンビネーションらしきものができてきた気がする。
「……おい」
 にっと喜びの笑顔を浮かべていたハッサンをよそに、ローグは背後からすさまじく不機嫌そうな顔と声で声をかけてきた。「ん?」と振り向くと、ぎろりと睨みを利かせながらハッサンの腕を指差す。
「そこ」
「へ? ……あ」
 戦いの興奮で気づいていなかったが、そこは魔物の攻撃でぱっくりと裂けていた。傷口からはだらだらと、処置しなければまずいだろうというくらいの血が垂れ流されている。
 まぁこのくらいなら手持ちの薬草で、と腰の袋から薬草を取り出しかけ――る前に、おっそろしいくらい全力で顔をしかめながらローグは言った。
「出せ」
「へ?」
「傷を出せって言ってんだよ、この状況ならそれ以外ねぇだろうがそのくらいのこともわかんねぇのかこの鶏モヒカン!」
「にわ……」
 っとに好き放題言いやがって、と思いつつもハッサンは笑って首を振る。
「いや、いいって、こんくらい。こんくらいなら自分で処置できるし、俺の手持ちの薬草でちゃんと」
 言いながらこっそりはっとした。やべぇそういや薬草も買い込み忘れてた、かも。
 だがローグはハッサンのそんな素振りなど意に介した様子もなく、ふんと鼻を鳴らしてきっぱり告げる。
「馬鹿かお前。俺はな、お前の傷を心配してるんじゃない、資源の浪費を心配してるんだ。魔法は元手がタダだからな、世界に優しいだろうが」
「……へ?」
 きょとんとするハッサンをよそに、ローグはずかずかとこちらに歩み寄り、ハッサンの腕を(こちらが「いでででで!」と叫ぶのも気にせず)がっしりとつかみ、苦虫を噛み潰したような顔で小さく唱えた。
「ホイミ」
 その短い言葉が響くと同時に、ローグのかざした掌の先がぽう、と青白く光った。同時に腕にほんわりと暖かい、子供に抱きつかれているような温もりが伝わってくる。
 照らした先を日向ぼっこでもしている時のように心地よく温もらせてくれるのに、太陽の下でもはっきり見えるくせに月のように、蛍のように、冴え冴えと澄んだ不思議な光に目をみはっていると、ローグはぽい、と放り出すようにハッサンの腕を放し、告げる。
「治ったぞ」
「え……えぇ?」
 ハッサンはますます大きく目を見開いて自分の腕をまじまじと見つめる。確かに、傷が消えている。痛みもまるでなくなっている。つまり、これは。
 しばらくぶんぶんと腕を振り回したり、ぐるぐると肩から回転させたり、ぐーぱーと曲げ伸ばしたりしたのち、思わずしみじみとした口調で言ってしまった。
「いや……おっでれぇたなぁ、お前、回復魔法とか使えたんだなぁ。そんな性格してんのに」
 魔法。通常あり得ざる現象を起こす、この世ならぬ力。天から与えられた、限られた才能を持つ者にしか使えない奇跡の業。ある者はどんな傷も一瞬で治し、ある者は炎を生み出し一瞬で敵を焼き払うことができるという。
 そういったものが存在することは知っていたが、見るのは初めてだったハッサンは感心して傷のあった場所を見つめた。かなり深い傷だったのに、今ではもう傷痕すら残っていない。
 こんな奇跡のような力を当たり前のように使える人間が、本当に当たり前にその辺に歩いていようとは思わなかった。こんな力があれば戦いの時どれだけ楽になるかしれない。そりゃあレイドック兵士にもなるべくしてなった、と誰からも認められるだろう。
 しかし、よりにもよって回復魔法とは。ハッサンは魔法についてはまったくもって詳しくないが、回復魔法は他者を労り、慈しむ心を持つ者に神が与える小さな奇跡だと噂に聞いたことがある。それをまさか、よりにもよってこの傍若無人男が使えるとは、世界とはまったく謎に満ちているものだ。
 ハッサンとしては素直な感嘆の言葉でもあったのだが、ローグは予想通りびしびしっと眉間に皺を寄せてふんと鼻を鳴らした。
「……ほー、ご挨拶だな。曲がりなりにも人に手間をかけさせておきながらよくそんな口が叩けたもんだ。それはつまり、お前は今後一切回復魔法をかけられなくともいいっつー宣言とみなしても」
「はは、悪い悪い、冗談だって! 助かったぜ、ありがとな」
 感謝を込めてにかっと笑い、ばんばんとローグの背中を叩く。実際助かった、ローグが助けてくれなければ下手をすれば命に関わっていたかもしれないところなのだ。
 ローグはきゅっと眉を寄せて、小さく口を開いた。目もわずかに見開いて、何事か言いたげに口を開く――が、すぐに馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らしてみせる。
「貴様なんぞに礼を言われる筋合いはねぇ。お前なんぞの礼を聞いたら俺の耳が穢れる」
 そう言ってふん、とそっぽを向いてしまったのだが、もうこの数日でそんな態度には慣れっこになってしまっていたハッサンは気にしなかった。ずかずかと山道を闊歩するローグの後ろについて歩きながら、木の枝の隙間から降り注ぐ陽ざしに思わず笑んで言う。
「なんか、こうして二人で歩くのも悪くないな。仲間って気がするぜ」
「俺とお前がいつ仲間になった勝手なことを抜かすな」
「ははっ、まぁそう言うなって。旅は道連れっていうだろ、仲良くやろうぜ」
「きっぱり断る。夢を見るのは寝る時だけにしとけ」
 そう言いながらも、それからの旅の間中、ローグはハッサンが怪我をするたびに回復魔法で傷を癒してくれたのだ。

『あばれ馬 注意!』
 森の中に広がる開けた場所に、ぽつんと立った真新しい看板。誰が立てたのかは知らないが、ハッサンは思わず笑顔になった。
「ここだ、ここだ! もうすぐ暴れ馬ちゃんに会えるってことだな!」
「会えるとも限らねぇし会っても捕まえられるとも限らねぇがな。お前の場合」
「ははっ、まぁそうだけどよ、それはお前も一緒だろ?」
「は? ふざけるな、お前なんぞと一緒にされてたまるか。悪いが俺は主人公≠ネんでな、どんな障害だろうが俺の前にはあっという間にその門を開くんだよ」
「ぶっ、お前なかなか詩人だな」
『俺が俺の人生の主人公だ!』なんてことを、そんな大真面目な顔で言ってのけるなんて。
「は? なに抜かしてやがる。俺は当然のことを言ったまでだ」
「へいへい。ま、それはそれとしてとっとと暴れ馬を探そうぜ。この辺りにいるのは確かなんだろうが、いったいどの辺にいるんだろうな?」
「……ふん」
 ローグは仏頂面で鼻を鳴らし、ひょいと地面にかがみこんだ。しばらく丹念に地面を観察したのち、かがんだままじろりとこちらを見て言う。
「たぶん暴れ馬のだろう足跡があるな。そう古くない。追っていけば暴れ馬にたどり着けるだろうよ」
「そうなのか? ならさっそく行こうぜ! すげぇなローグ、お前馬の足跡なんてわかるのか」
 思わず満面の笑顔になって褒めると、ローグはいつものように偉そうに鼻を鳴らした。
「むしろそのくらいのこともできずに馬を追おうとしたお前にある意味感心するぜ。そんなお前に褒められても嬉しかねぇが、ついてきたけりゃついてこい」
「あいよっと」
 笑顔で答え、丹念に地面を調べては歩き調べては歩きを繰り返すローグについて歩く。とりあえず今の自分の仕事は、ローグの邪魔にならないことと、ローグの邪魔をするものを排除することだ。
 小半時ほど足跡を追っていると、森の木陰からざっとシールド小僧が現れた。素早く武器を構えようとするローグに先駆け、だっと突っ込んで組み合い、「でやぁっ!」と気合いを込めてローグの前から遠くへと放り投げる。
 当然シールド小僧はばたばたと暴れ、武器でハッサンの体を斬り裂いてきたが、それを無視してさらに組みつく。足跡を踏み荒らされるようなことがあれば、ローグの苦労が台無しだ。
「……どけっ!」
 鋭い叫び声と共に風を切る音が響く。ローグのブーメランだ、と察するや反射的にその場を飛び離れ、シールド小僧を打ち据えるブーメランの軌道から身をかわすことができた。
 シールド小僧はその一撃で気を失ったのか、見事にひっくり返る。ハッサンは笑顔で「やったな!」と親指を立てたが、ローグにずかずかと歩み寄るやホイミをかけられた、と思うやすさまじい顔で睨み上げられて思わずちょっと身を引いた。
「おいおい……なに怒ってんだ? 無事敵を倒せたんだからここは喜ぶとこだろ?」
「阿呆かてめぇは! 阿呆で間抜けで脳味噌完全に筋肉でできてるよーな奴なのはこれまででよーくわかっちゃいたけどな! 武闘家だかなんだか知らねぇが、武器持ってる奴相手に武器落とす前に組み合ってどうする! 相手が武器振り回したら下手したら内臓斬り裂かれんだぞ!」
「へ? や……」
「『や……』じゃねぇてめぇの頭ん中にはヌカミソでも詰まってんのか! 後先も考えねぇで突っ込みゃいいって考えるような奴が生き残れるとでも思ってんのかっ、いっぺん本気で死んでその馬鹿治して生まれ直してこいっ!」
「いや、そーいうことじゃなくてだな」
 ぽりぽり、と頭を掻いてからつい、と顔を近づけ、首を傾げて。
「お前、もしかして俺のこと、心配してくれたのか?」
「…………っ」
 ぎぎぃっ、と物理的な圧力すら感じるほどの殺気に満ちた形相で睨まれ、ハッサンはうぉうとまた身を引く。こいつの眼光はいちいち鋭いというか、迫力があっていけない。一見優しげな風貌をしているのだから、もっと柔らかい表情をすれば女も寄ってくるだろうに。
「殺すぞてめぇ。人前で勝手に死んどいてな、人に罪悪感感じさせずにすむとでも思ってんのか。俺は自分でも嫌になるほど慈悲深い性格なんでな、てめぇに目の前で死なれちゃ少なくとも小半時は潰れたゴキブリ見た時みてぇな嫌な気持ちになっちまうんだよ」
「つ、潰れたゴキブリって……お前なぁ」
 相も変わらずむちゃくちゃ言う奴だが(しかも小半時って曲がりなりにも一緒に旅した相手に短すぎやしないだろうか)、まぁ理由はどうあれ心配してくれた気持ちはありがたい。ぽんぽんとその髪が大きく逆立った頭を叩き、笑って言った。
「悪かったって。けどよぉ、あの魔物放っておいたら暴れ馬の足跡踏み荒らされちまうだろ? 俺なりに役に立とうって考えたんだって、これでも」
「…………」
 ぎゅらっ、とまたもとてつもなく殺気のこもった視線で睨まれた、と思うや脛を相当強い力で蹴られ、ハッサンは文字通り飛び上がる。
「うおぉっ……ってぇ〜! なにしやがんだ、お前はっ」
「てめぇ風情に気遣われるなんざ冗談じゃねぇ。こちとらてめぇに世話されなくても仕事こなすくらい簡単なんだよ。今度またやったらぶっ殺すぞ、ったく考えただけで虫唾が走るぜ」
「お前なぁ……」
 殺意すら込めてぼろかすに言われ、ハッサンは思わずため息をつく。別に褒めてほしかったわけではないが、なにもここまで悪しざまに言わなくてもとは思う。自分はこいつにそんな恨みを買うようなことをやっただろうか。
 試練の塔の中で初めて会った時のこいつは、兵士になろうと思っているにしてはどうにもほっそりとした体つきの、優男とすら言えそうな顔の爽やかな好青年、むしろ少年? という印象だったのに。あれは演技だったのか? よくまぁこの性格で猫をかぶっていられたものだ。
 ローグはこちらに背を向けて、シールド小僧の身ぐるみを剥いでいる。野生の魔物にしろ魔王に支配された魔物にしろ、たいていはいくぶんかのゴールドを身に着けているものだが、ここまで積極的に魔物に山賊行為を働く男はハッサンも初めて見た。死体となってしまった場合もあっただろうに、その体を探って金品を得るなんて嫌な気持ちはしないのだろうか?
 ローグはこちらを見もせずにしばらくひたすらシールド小僧の体を探ってから、ぽいと放り出して立ち上がりまた追跡行に戻った。ハッサンの方には目もくれず、ひたすら地面を調べては歩き調べては歩きしている。
 ったく、と少しばかり腹立たしいような悔しいような気分でその背中を見つめていたのだが、ふと思ってしまった。
 こいつの態度って、人に懐かない猫みたいじゃねぇか?
 ぷっ、と思わず吹き出す。ローグが一瞬足を止めて、鋭くこちらを睨んでくる。それを笑顔で見返してやると、ぎゅっとしかめた顔をぷいと背けられる。
 こちらを嫌い抜いているようにしか思えない素振りだったが、人に馴れない猫として見てみると、不思議なことに妙な可愛げすら感じられてきてしまう。人間を信頼できず、餌をやったら皿をひっくり返して撫でてやったら引っ掻かれて、こちらに全力で反発してくるくせに、どこかでこちらを信じたいと思っているようにときおり指先を舐めてくる。
 なんだかんだでこいつはハッサンが傷ついた時にはホイミをかけてくれたし、保存食も分けてくれた。もちろんそれが本人の言葉通り嫌々ながらだったとしても、こちらにはそう受け取れてしまったのだからそう思っても別に悪くはないはずだ。
 妙に面白いような気分でくっくと笑いながら、言ってみる。
「なあ、ローグ。どうやら俺たち、馬が合いそうだな」
 当然すさまじい目で睨まれて、「殺されてぇのか黙って歩けボケ」と罵られたが、ハッサンはそんな言葉も妙におかしくてにやにや笑ってしまい蹴りを入れられた。

「さーてと……暴れ馬をとっ捕まえるぜっ!」
「黙れ喋るな動くな殴るぞモヒカンマッチョ。てめぇの暑苦しい筋肉で騒がれたら馬が逃げるだろが、馬ってのは基本臆病な生物なんだからな」
「暑苦しい筋肉って言い方はねぇだろ、見てみろよこの見事な筋肉美」
「殺されたくなかったら黙れっつってんだ、てめぇの覚える場所の少なそうな脳味噌に直接刻むぞボケ」
「へいへい」
 そんなことを言い合いながら、数十歩先の岩陰で草を食んでいる馬を見つめる。そこは樵が木々を根こそぎ切り倒しでもしたかのように、森の中だというのに木々のない空き地のような場所だった。真ん中に巨大岩が鎮座しているので輪のような形になっているが、少なくとも木陰から出ればすぐに気づかれるだろう。
 ハッサンとしては暴れ馬ってくらいなんだから姿を見せたらこっちを襲ってくるような奴なんじゃないかと思っていたのだが、その馬は一見したところいたって穏やかな雰囲気をまとっていた。暴れ馬どころか、むしろ優美とすら言っていいほどの。
 なのにハッサンにもわかっていた。間違いなく、こいつが噂の暴れ馬だ。少なくともローグの任務目的の、どんな馬も引けないような巨大な馬車を一頭で引ける馬なんてのはこの馬しかいない、と。
 体色は純白で、本来なら老馬と考えるべきところだっただろうが、その躍動する肉体の若々しさは隠しようがなかった。草を食んでいるだけだと言うのに、動きに老馬ではありえない機敏さがうかがえる。
 なによりその体の逞しさ、力強さといったら! 今まで見たどんな馬よりもどっしりと重厚感のある、けれど微塵も無駄のない引き締まった筋肉の美しさは芸術的とすら言っていいだろう。
 がっしりと逞しい脚、巨大とすら言っていい胴体、息だけでそんじょそこらの馬丁など吹き飛ばしてしまいそうなほどみっしりと肉のついた迫力のある体つき。それは馬としては畸形と呼ぶべきものだろうに、全体として見ると、むしろこんな美しい馬は見たことがないとすら思わせるほどしなやかで軽やかな存在に感じられる。それだけ全身の均整が取れているということなのだろうが、それこそこの世のものとは思えないほど美々しい馬だった。
 しばしその馬を眺めつつどう捕まえるかハッサンが思案していると、ローグがふいにすっと森の木陰から出て白馬に近づいた。おいおい、と思いつつ慌ててあとを追うと、ある程度近づいた、と思うや「ヒンッ!?」と鳴かれて脱兎の勢いで逃げ出されてしまう。
「あ! こら待て! 待てってば!」
 言いながら慌てて白馬のあとを追い走る。馬のことだからあっという間に遠くまで逃げられているのではないかと思ったのだが、白馬は逃げる時の速さこそ目にも止まらないほどだったが、空き地を少し歩いたところで足を止めている。
 ほっとして今度は気づかれないように足音を忍ばせつつ風下から近づいたのだが、ある程度の距離まで近づくとまた「ヒンッ!?」と鳴かれて逃げ出されてしまう。
 そしてまた少し離れた場所で足を止めるのだが、これじゃらちがあかない、とハッサンは顔をしかめ言った。
「くそっ、こりゃ駄目だ。ただ追いかけるだけじゃとても捕まえられないぜ。うーん、どうしたものか……」
 なんとか捕まえる方法をうんうん唸って考える。ハッサンは頭を使うことは苦手なのだが、ローグがこちらに近づいてくる足音を聞いた時、ふいに閃いた。
「よし! こうなりゃ挟み撃ちだ。俺は西、お前は東からあの馬を追うんだ。そして北のはじっこへ追いつめよう」
 ハッサンとしては非常に自信のある名案のつもりだったのだが、ローグはじろりと、それこそ世界でも有数の馬鹿を見るような目でハッサンを見下すように見た。
「お前、阿呆か? 挟み撃ちがしたいなら最初から俺が出て行った時逆方向から向かえばよかっただろが。脳味噌筋肉だと思ってはいたけどな、ここまで本格的に不自由な脳味噌を持っているたぁな、ある意味感心するぜ」
「なっ、んなことお前に言われたかねぇよ! なんにも考えねぇであの馬の前に突っ込んでったくせしやがって」
「馬鹿か。なにも考えてないわけがあるか、お前と一緒にするな」
「じゃーなに考えてたってんだよ、言ってみろ」
「俺の主人公≠ニしての力を試したかったのさ。まぁすぐ逃げられるだろうというのはわかってはいたが、俺の主人公らしさ≠ェ強ければそのくらいの当然≠ミっくり返せるんじゃないかと思ってな」
「はぁ?」
 ハッサンがきょとんとすると、ローグは思いきり顔をしかめ、しっしと犬の子でも追うようにハッサンに手を振ってみせた。
「ああ、わかってる悪かったお前に理解できる話じゃなかったな。ほらさっさと西側に回れ、太陽が昇ってるんだから方角間違えるなよ」
「おい、なんだよその言い草。説明してみろって、俺にだってわかることかもしれねぇだろ?」
「……お前がわかる必要は微塵もねえ話だ。未来永劫関係はないし興味も持つ必要はねえ。ほら、とっとと行けナスビ頭。万一しくじったら三回は殺すぞ」
 ぎろり、と睨まれて渋々ハッサンは空き地を走り出す。この空き地は下生えもろくに生えていなかったので、走るのに苦労はない。
 ローグがなにを考えてるのかはさっぱりわからなかったが、確かに今やるべきは暴れ馬を捕まえることだ。北側の小さな空き地(岩や木がみっしりと密集して馬どころか人も通れそうにない)に向かう道の前で、でんと仁王立ちして暴れ馬を待つ。
 さして時間も経たないうちに、「ヒンッ!?」という短い悲鳴とどかどかどかっと地面を蹴る音が響く。すさまじい速さで暴れ馬がこちらに向かい駆けてくるのが見えた。
 当然ハッサンはその正面に陣取り、ばっと両手を広げて行く手をふさぐ。
「おっと! ここから先は行き止まりだぜ。さあ、大人しくするんだ!」
 暴れ馬はその言葉を理解したわけでもなかったろうが、わずかに後ずさりして後ろの様子をうかがい、後ろからローグが迫ってきているのを見て戸惑ったように足で地面を掻く。じりじり、と双方から追いつめられて、だっと北の空地へと走り出した。
 すでに調べてある通り、そこは行き止まりのどん詰まり、それ以上はどうしたって進めない。戸惑ったように足を止め、きょろきょろと周囲を見回す暴れ馬。
「いいか、ローグ、いっせのせで捕まえるぞ」
「貴様ごときに指示を出されるいわれはねえが、いまさらお前の頭に新しく指示を叩きこむのも面倒だから従ってやる」
「お前はっとにいちいち……まぁいいや、いくぞ。いっせーのっ……せっ!!」
 間合いを見計らっていっせいに飛びつくと、暴れ馬はヒヒーン!! と悲鳴を上げながらもさして暴れもせず大人しくなった。
「ようし、捕まえたっ! やったな、ローグ!」
 思わず満面の笑顔になると、ローグはなぜか逆にすさまじく顔をしかめた。全力で面白くなさそうな顔に、ハッサンは苦笑して顔を撫でる。
「ったく、そんな顔すんなって。少しは嬉しがれよ」
 言いながら頬を、鼻を、額を、唇をわしゃわしゃと撫でると、殺意を込めた声で言われた。
「てめぇ、喧嘩売ってんのか」
「ははは、悪い悪い。いや、お前の頭ツンツンしてっからさ、なんかこだわりがあんのかなって。きっちりセットしてる頭、ぐしゃぐしゃにしちまったらお前怒るだろ?」
 そう言うと、少し黙ったあと、自分の掌の下から呟くように言う。
「別に、セットしてるわけじゃない。勝手に立つんだ」
「へぇ? そりゃまたすげぇな。セットの手間が省けてうらやましいぜ」
「……待て。お前のその髪型、もしかしてセットしてんのか?」
「当たり前だろ? 旅の間とはいえ身だしなみはきちんとしねぇとな」
「…………」
 珍しく沈黙したローグに、ハッサンは笑いながらばんばんと背中を叩く。
「ま、それじゃ今度からは頭を撫でることにするぜ。そっちの方がお前も嬉しいだろ?」
「微塵も嬉しくなんぞないわ、というかてめぇごときに嬉しがらされるようなことがあってたまるか」
「ったく、強情な奴だな。でも、変だなあ。暴れ馬っていうわりには、そんなに暴れなかったぜ」
 そんなことを話していると、暴れ馬はヒヒーンと嘶いたのち、ブルルッと顔を震わせてローグに鼻をすり寄せてきた。そのあからさまに懐かれた様子に、ハッサンは思わず目をみはる。
「あれ? 変なヤツだなあ、ローグに鼻をすり寄せたりしてさ。俺たちのこと気に入ってくれたのかもな」
「気に入られた中に当然のように自分を入れるな、厚かましい奴だな」
「別にいいだろ、捕まえたのは俺も一緒なんだし。そうだ、こいつに名前をつけてやんないとな。うーんと……。よし! 思いついたぞ! こいつの名前はファルシオンだっ! どうだ、いい名前だろう?」
 得意満面に言ってみせると、ローグは仏頂面できぱっと言葉を返す。
「顔に似合わねぇ名前をつける奴だな」
「なっ、顔は関係ねぇだろ!」
「感想を求められて素直な感想を言って何が悪い」
「ファルシオンのどこが悪いってんだ!」
「その顔でつけられると……」
 言いかけて、ローグは言葉を切った。それから小さくため息をつき、ぎゅっと思いきり顔をしかめ、全力で嫌そうに、ぼそりと言う。
「悪い名前とは、言ってない」
 ハッサンはなんとなく、今ローグが(野良猫のような奴が)自分で傷つけた指先をぺろりと舐めてきたような気分になって、満面の笑顔になってしまった。嬉しさを前面に押し出したそんな顔のまま、ファルシオンの背を叩きながら言う。
「へへ、強そうだしな。よーし、行くぜっ!」
 その声に、ローグははぁ、と今度は深々とため息をついた。それから仏頂面で――さっきまでの仏頂面をさらに不機嫌にしたような仏頂面で、ぼそりと返す。
「……そうだな。行くか」
「おうっ。……ん? なんだよローグ、なんかさらに不機嫌な顔になってないか?」
「別に不機嫌になんぞなってねぇっつの勝手なこと抜かしてんじゃねぇボケ!」
 やれやれ、と苦笑しつつ、ハッサンは先に立って歩くローグのあとについてファルシオンの背中を叩いて進ませた。まったく、よくわからない奴だ。せっかく使命を果たしたってのに、なにを不機嫌な顔をしているんだか。
 けどこいつはこいつなりに努力してて、人に対して誠実で、ことによっては親切な時すらあるかもしれない、というのはなんとなくわかる。
 悪い奴じゃない、ことによるといい奴かもしれない。少なくとも、背中を預けるには足る奴だ。
 そんなことを思いながら、ファルシオンを引いていたハッサンは気づかなかった。今ローグが、初めて自分を連れと、一緒に旅をする相手と認めるようなことを言ったのだということに。
 その前のため息が、本当に深く深く、まるでなにかを諦める時のように切なげだったということにも。

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