逆夢〜旅の仲間たち・1
「むむっ、そなたたち魔法の鍵を使いここへ来たのだな? いやー、よかったよかった。ホルス王子に鍵をかけられ、どこへもゆけず困っておったのだ。私はこのような身なりであるが、怪しい者ではないぞ? ただの旅の魔物ピエールである。……ややっ! 剣は収めてくれ! 剣は収めてくれっ!! 私は騎士道を刺激されホルス王子のお供をしたく思いこの城へやって来たのだ。だがこの通り、いきなりホルス王子に王子の部屋の鍵をかけられてしまってな。もう王子のお供はこりごりである……。どこかに私の力を必要としている方はいないだろうか……?」
 ホルストック城のホルスの部屋の奥の扉を開けて裏庭に出たとたん、そこでうろうろしていたスライムナイトにそうまくしたてられ、ハッサンは思わず困惑して目を瞬かせた。街中で魔物が出たというだけでも驚きなのに(いやこれまでに似たような奴がどこにもいなかったわけではないが)、その魔物がこうも積極的にこちらに懐いてくるというのはちょっと覚えがない。
 基本的に魔物というのは生きとし生ける者を餌として貪り食おうとするものだ。そうでなければ魔物とは呼ばない。自分がこれまで出会ってきた魔物たちも、ほぼ全てが話をするどころか反応する暇すらこちらに与えずに命懸けの戦いを挑んできた。このスライムナイトという魔物だって、数えきれないほどの数を打ち倒し、その命を自分たちの糧としてきたのだ。
 それなのに当然のようにこのピエールというスライムナイトは、そんな様子をまるっきり見せず、ちらっちらっと全身で思わせぶりを表現しつつこちらに何度もうかがうような視線を向けてくる。人間の子供くらいの大きさで、顔が見えないほどきっちり鎧兜を着込み剣を佩いたその姿は、ぽよんぽよん動くスライムに騎乗していることを除けば本物の騎士(ただし小型版)にすら見えそうだ。
 これはいったいどうしたもんか。こんな風にあからさまにお願いしてくるのを無下にするのもどうかとは思うが、スライムナイトというのはどうしたって魔物だ。あらゆる人を害さんとする人類の敵対種だ。それが人間に仲間にしてくれ、などと(いろいろ粉飾しているが、つまりこいつが言いたいのはそういうことだろう)言ってくるとは、正直どう反応したらいいか少々戸惑ってしまう。
 が、ローグはそんなスライムナイトと真正面から向き合い、落ち着いた、厳かとすら言いたくなる表情で告げた。
「少なくとも、一人はいるぞ。ここにな」
「……なんと! 目の前にいる……と?」
「その通りだ」
 力強くそううなずくローグに、ハッサンは思わずおいおいおいと突っ込みを入れたくなった。本気でこいつを仲間にする気か? 魔物を? 街にも入れでもしたらトラブルが起きること請け合いの、それどころか人のいるところに連れて行ったらこちらまで追い出されそうな奴を、本気で?
 まぁ、文句をつけたいわけではないが。魔物だろうがなんだろうが、一緒に戦ってくれるなら仲間だろうという気がハッサンはしているし、デメリットを承知でローグが仲間に引き入れると言うならそれに協力するのがこちらの仕事だろうという気もするのだ。魔物を仲間にする厄介事やらなんやらは、つまるところハッサンにとっては些末事でしかない。どうせローグにもなにか考えはあるのだろうし、こちらとしてはせいぜいその手助けをしてやるくらいしかとりあえずできることはないだろう。
 そんな風に考えをまとめるハッサンをよそに、スライムナイトとローグの会話はどんどん先へ転がっていく。
「おお! なんと嬉しいお言葉!」
「お前が俺を助けてくれるのならば、俺は相応の覚悟を持ってそれに応えよう。命を懸けて助けてくれるのなら、命で返す。力に拠って助けてくれるのなら、さらなる力を与えることで返す。そして心から俺を助けてくれるのなら、俺は心からの信頼を返すことでそれに応える。――俺は今自らの体を取り戻すため、そして世直しのために旅をしている。その中で理不尽な屈辱や日々の厄介事、そして魔物をはじめとした敵との日々の死闘に疲れ果てることもあるだろう。だから、旅から抜けたいというのならば、俺はそれを止めはしない」
「む! なにをそのような……」
「だが、最後まで共に在ってくれるのならば。俺の旅に最後までついてきてくれるのならば。俺は俺の人生を懸けて、お前に想いを返そう。俺のできる精一杯で。……俺のお前にしてやれることというのは、その程度だ。それでも、俺の旅に一緒についてきてくれるか?」
「なんと真摯なお言葉……! わが剣をそこまで買ってくださるお方に、騎士が応えぬ道理がありましょうか。このピエール、どこまでもあなたについてゆきますぞ! そりゃっ! うりゃっ!」
 そう言いながらピエールは鞘に納められたまま剣を振り回し(体が体だし声も子供のように甲高いので、男の子がチャンバラごっこをしているように見えてしまう)、スライムごとぴょんと跳ねて元気よくうなずいた。
「では、外で待っているぞ」
 そう言って駆け去っていくピエールを思わずぽかんと見送ってから、ハッサンはこきこき、と首を鳴らしつつ後頭部をぽりぽりと掻く。どうやら本気であのピエールというスライムナイトは、自分たちの仲間になってしまったらしい。いろいろ言いたいことはあるが、どれから言うか、とハッサンが言葉を探していると、チャモロが先におずおずとローグに話しかけた。
「あの……ローグさん。本当に、彼……スライムナイトのピエールさん、ですか。あの方を仲間にしてもよろしいのですか?」
「嫌なのか?」
 そうしれっと答えるローグの顔は、いつもと変わらぬ傲岸不遜な表情だ。だがチャモロはあくまで真摯に首を振る。
「いいえ。魔物の中にも、邪悪なる意志を跳ねのけ、人と寄り添い合える者がいるということは私も知っています。魔物は魔王のような、邪悪なる意志の体現者がいるがゆえに、人を襲い苦しめ傷つける、邪悪なる存在に堕してしまっているのだということも。私が見た限りでも、あのピエールというスライムナイトに邪悪な意思の気配は感じませんでした」
「ほう。なら、なにが聞きたいんだ?」
「……ローグさんに、あまりにためらいがなかったからです。性急、と言っては言い過ぎかもしれませんが、見ようによっては軽はずみとさえされるだろうほどには、先程のローグさんの話の進め方は早すぎる気がしました。それがいけないとは申しませんが……なぜ、あそこまで簡単に、ピエールさんを仲間に入れると決められたのですか?」
「………ふむ」
 少し考えるように首を傾げるローグに、他の仲間たちも口々に言う。
「そうだねー。確かにあのピエールってスライムナイトは悪い子じゃなさそうだったけど、突然すぎる気はちょっとするかな。今日初めて会った相手なのにそんなに簡単に仲間にしちゃっていいのかな、みたいな」
「そうですねー、でも確かバーバラさんが仲間になったのもローグさんと会ったその日じゃなかったでしたっけ? 月鏡の塔でラーの鏡を手に入れたらいきなり仲間にしてくれって言い出したって聞いた気がしますけど」
「うぐっ……あ、あたしは塔の冒険一緒にしたからいいのっ! その間にローグたちのこと少しはわかったし! でもあのピエールって子は本当にさっき会ったばっかでしょ。お互いに相手のこと全然知らないのに仲間になっちゃっていいのかな? って思ったの」
「ま……確かにな。お前らの言うことももっともだ……で、そこのモヒカンマッチョ。お前はなにが言いたいんだ? ついでに聞いてやるが」
「え、いや、別に大したこっちゃねぇけどよ。お前にしちゃ、やけに勧誘の仕方が優しかったなっつーか。お前、これまで誰かを仲間にする時は、いっつも初っ端からくそ偉そうな態度で言いてぇこと言ってたじゃねぇか。そうでなかったら仲間に入ってからいじめ倒すつもりだったとかだろ。それが今回は、相手の調子に合わせて言葉を受け容れてた、っつーかむしろ自分から誘う勢いだってのは、どういう風の吹きまわしかな、っつーのは思った」
「ふん……簡単だ。どの質問の答えも、今回は一言で済む」
「というと?」
 ローグは威儀を正し、自分たちに真正面から向き直り、きっぱりはっきり大きな声で宣言した。
「あいつがスライム族だからだ!!!」
『………………』
 ハッサンたちは思わずぽかんと口を開けてローグを見つめる。なにが言いたいのか、そもそもどういう意味なのかさっぱりわからない。
「え? いや……なに? スライム族? だとなんかあんのか?」
「ふ……太古、魔物マスターという職業は魔物使いと呼ばれていたことを知っているか?」
「え……いえ、初耳ですが……」
「その職業は戦い打ち負かした魔物の心を惹きつけ、自身の仲間にする力を有していたという。現在ダーマで転職が可能な魔物マスターという職業にはそんな力はないが……その代わりであるかのように、世界にはごくまれに人の心と寄り添い、仲間になることができるスライムたちが存在するのさ。ダーマでもそういうことを言っていた奴がいただろう」
「えー……あ、言われてみればいた気も……え、じゃああのピエールって子が、そういうスライムだってこと?」
「その通り――そして、言うまでもないが俺は主人公=A物語の展開は否でも応でも俺を主役にせずにはおかない。そういったスライムが俺に仲間にしてくれと頼んでくるのは自明のことだ。さらに言うならば……俺は、スライムが大好きだ!」
 くわっ! と目をかっ開き強烈な迫力を撒き散らしながらそう言いきるローグに、自分たちは思わず気圧される。ローグがこんな風になにかに対する好意を表現するのは(好意を表現しているようには見えないが)、ターニアの時ぐらいなものだったんじゃなかろうか。
「は、はぁ、そうなのですか……」
「そうだ。だからせっかくのスライムが仲間になってくれる機会を断じて逃す気はない。なんとしても仲間にして強化し、最強のスライムと呼ばれるまでに育て上げるのだ! ……まぁスライムナイトだから純粋なスライム感は薄い気もするが、あれはあれで可愛いし、スライム感はこれから仲間になる新たなスライムたちに期待する!」
「え……可愛いから好きなの? スライム」
「ああ」
 きっぱりうなずくローグに、ハッサンには返す言葉がなかった。というか返す気にならなかった。それなりに長い付き合いだが、こいつはやっぱりまだまだ底が知れない。

「おっと、一瞬地上の同じところに出たかと思っちまったぜ。上も下も似たような地形だと、やっぱややこしくて区別がつかねぇよな」
「そうね。でも、転移したことを覚えているなら、下から来たのだから、ここは上の世界ね、というくらいの感覚でいいと思うわよ」
「近くに街か村があるといいなあ。あたし、ちょっと疲れちゃった」
「そうですねー、私もです。街があったら少し休んでいきませんか? ちょっとお腹も……」
「北の方角は高い山に囲まれていますね。南に歩いてみましょうか。ある程度開けた土地のようですから、街があるかもしれません」
「一応そこらへんは調べている。ここらはどこかの国に属しているわけではない自治区のひとつで、いくつもの小さな町村が緩く繋がりを持ちつつもそれぞれの土地を固守しているらしい。その辺りは現実のこの一帯と同様のようだな。中でも一番の大きな街はクリアベールというところらしいが……さて。どんなことが起きる街やらな」
「はっ! ご心配は無用です。いざとなったら、私が盾となりますぞ」
 ホルストック近くの祠の井戸から上の世界へと転移してきて、いつものようにパーティの全員が周囲の様子を確認してから隊列を組み歩き始めた中で、元気よくローグの隣で跳ねながらそんなことを言うピエールに、ローグは笑ってぽんぽんとその頭を叩く。
「あまり可愛いことを言うな、ピエール。そういうことを言われると、誘われているのかと勘違いしてしまうだろう?」
 ぶは、と小さく噴き出す自分のことなど気に留めた風もなく、ローグはあくまで優しくピエールの頭を(鎧兜越しにだが)撫でる。
「俺としてはお前が傷つくのは自分の身を斬られるより辛いものがあるからな。俺をかばうのは俺より強くなってからにしてくれ。俺も、少しでもお前が強くなれるように微力を尽くすつもりだからな」
「なんともったいないお言葉……! ローグ殿、剣にかけてそのお言葉に応えるべく死力を尽くすことをお約束いたしましょう。我はスライムナイト、スライムの騎士なのですからな! そりゃっ! うりゃっ!」
 元気に鞘に入った破邪の剣を振り回すピエールを横目で眺めつつ、やれやれと息をつくハッサンの目に、馬車の出入り口に腰かけ足をぶらぶらさせている、あからさまにぶすっとした顔のバーバラが目に入った。ハッサンはわずかに苦笑して、バーバラに近づき小さく声をかける。
「どうした、バーバラ。えらくご機嫌斜めじゃねぇか」
「別にーっ、そういうわけじゃないけどーっ」
「ローグに放っとかれて面白くねぇか?」
 ハッサンとしては気軽に言った言葉だったのだが、バーバラはとたんに顔を真っ赤にして小声で怒鳴ってきた。
「なっ、なに言ってんのぉっ! そーいうわけじゃ全然ないってば! 単純に、そう単純にさっ、ローグがなんかやたらピエールにだけはあからさまに優しいから、サベツだなーって思っただけっ!」
「はいはい、そーですかい」
「なにその呆れたみたいな顔ーっ!」
 いやそりゃ呆れるしかないだろう、とハッサンは内心で独り言ちる。それを言うならハッサンやアモスがあからさまにローグにぞんざいに扱われていることだって差別だと騒ぐ理由になってしまうはずだ。
 特にバーバラに対してはそうだ。ローグは女には基本男よりはるかに優しいが、ミレーユに対してはある程度敬して遠ざけるというか、礼儀正しい距離を保つ傾向があるのに、バーバラに対してはわりと率直な言葉で真正面から優しくしている気がする。
 まぁそれを言うならチャモロに対してもちょっと妙なぐらい可愛がっているし、ターニアに対してなんてあからさまに頭おかしいんじゃないかと思うくらい溺愛しているのも確かだが。少なくともバーバラがローグに冷たくされているようには、ハッサンは全然見えなかった。
 まぁ一応、ローグにとっては仲間たち一人一人にそれぞれの特別席が用意してあるのだろう、ぐらいのことはローグと仲間以外の人間との接し方を見て理解している。だから拗ねるつもりなどはない(もちろんいい年をしたこんな大男が拗ねたところで見れたものじゃないというのもあるが)――ただローグがこんなにあからさまにスライム族をひいきする趣味があるとは思わなかったので、驚いているのも確かだが。
 そんなところまで考えてきて、ちょっと苦笑する。なんだかんだ言っているが、結局『自分もローグに放っておかれて拗ねている』という想いがにじみ出てきている言葉であるように聞こえてしまったからだ。

「ここがクリアベールの街か? ほうっ、なかなかきれいな街じゃないか」
「初めてのところに来るとわくわくしますね。いやー、皆さんと旅をしていると本当に飽きませんね!」
「そうね、なかなかいい街よね。それじゃ、さっそく街の人の話を聞いてみましょ。なにをするにしても、まずは情報を集めないとね」
「この街にもゲントの神のご加護がありますように……。失礼、しばし祈りを捧げておりました。それでは、参りましょうか」
「……あたし、この街の雰囲気好きだなあ」
 街の門をくぐり、水と緑の豊かな小さな街クリアベールに入りながら口々に喋る仲間たちの中で、バーバラは思わずしみじみとそんな言葉を言ってしまっていた。
「ほう。どこが気に入った?」
「え、うーん……どこがっていうか……なんていうの、昔好きだったところに、似た感じなとこ?」
「………ほう」
 別にここに似た街に行った覚えがあるというわけでもないのだが、この街の雰囲気はどことなくバーバラにとって懐かしかった。豊かな水の気配が心地よく、それに育まれた命の波動が気持ちいい。不思議と『故郷』に感じるような慕わしさを覚える街、というのがバーバラにとってのクリアベールの第一印象だった。
「……つまり、お前にとっての原風景に近しいものがあるということか?」
「え? げんふ……なに?」
「記憶の底にいつまでも残りそいつの人格を形成する柱のひとつとなるもの――原体験≠ニ呼ばれるものから生ずるイメージのうち、風景の形を取っているものだ」
「え……え? ? ? ?」
「要するに、お前にとって『忘れられない場所』『大切な場所』と言われてぱっと思いつくような風景に似ているのか、ってことだ。そういうイメージは案外強固なもんだからな、お前をよく知るためにも、できれば聞いておきたい」
「え、まぁ、そういうこと、なのかな……? で、でも、お前をよく知るため、って……なんで、そんな……?」
 おずおずと訊ねてしまったバーバラに、ローグはふっと傲岸な笑みを浮かべて答える。
「それはもちろん、作戦をより的確に立案するために、仲間たちの情報はできる限り集めておきたいという俺のリーダーシップが生んだ問いだが?」
「…………」
 むすーっ、と頬を膨らませてしまったバーバラに、ローグはにっこりと優雅さすら感じさせる笑みを浮かべて追い打ちをかける。
「どうしたバーバラ? もしや俺に特別な意識を持ってあんな台詞を言ってほしかったのか? まぁ俺のようなリーダーと身近に接していれば、自分だけ特別扱いしてほしいと思うのは自然の理ではあるが……」
「ちっがうもん! そんなんじゃないもん! もーっ、ローグの自意識過剰!」
「別に俺はバーバラがそんな風に思っているなどとは一言も言った覚えがないが?」
「ん〜〜〜っ、も〜〜〜っ!!」
 バーバラが思わず地団駄を踏むと、ふいに真剣な顔で言い放つ。
「まぁなんにせよ、これからもそういう感じがする場所があればできる限り俺に言うようにしてくれ。お前の記憶のためにも、できる限り情報は集めておきたいからな」
「あ……う、うん……」
 急に真剣になられて肩透かしを食わされた気分になったが、バーバラはまたおずおずとうなずいた。ローグがそんな風に考えていたなんて、考えたこともなかったからだ。
 だってバーバラ自身、自分が記憶をなくしていることなんて普段は思い出しもしないのだから。みんなと一緒に旅をして、険しい山も深い森も越えて歩き続け、魔物と戦い倒し自分たちを鍛え、という日々は、そんなことをいちいち思い悩む暇もないほど忙しく、充実していたからだ。
 時々――ほんの時たま、目が醒めた時、自分が夢の中の存在か現実の存在かわからなくなる時のように、立っていられないほど心と体が揺らぐ時もあるけれど、そんなのは本当にごくごく一瞬のことでしかないのに。
 まさか、ローグが自分のそんな時のことまで知っているはずはないし――いや、もしかして、本当に、知って、そんな自分を気遣ってくれていた、り………?
 さっきと同じようにおずおずとローグの様子を窺う――も、ローグはそんなことまるで考えてもいないようなしれっとした顔で歩を進め、行き会った街の人にあれこれ訊ねている。むーっと再度頬を膨らませ、それでもなんとなくどこかふわふわした気分で、バーバラはローグの後を追った。なんというか、ローグに自分の装備のことを自慢してやりたいような――そんなちょっとしたことが話題になるくらい、始終まとわりついて頑張って自分の方を向かせてやりたいような、妙な気分だった。

「いやー、あんたも旅の人ならわかるだろうけど、誰かと一緒の旅ってのはいいね。たとえそれがどんな奴でも、長く旅をしてりゃ情も湧いてくるしね」
 宿屋の二階の、行商人らしき男性が言ったそんな言葉に、チャモロは思わず大きくうなずいて言ってしまっていた。
「その通りですね。特に、私はそうです。ローグさんがいるから、私の旅が始まったのです」
 その言葉にローグは一瞬目を瞬かせた。しまった、見当違いなことを言ってしまったか、と焦り口を開こうとするも、それより早くローグはにっこりと優雅な笑みを浮かべつつ、ひょいと自分に抱きついてくる。
「ろっ、ろっろっろっローグさんっ!?」
「可愛いことを言ってくれるな、チャモロ。そこまであからさまに好意を口にしてくれると照れくさいが」
「いっいえっ好意という話ではなくてですね、単純に事実を……」
「そうかそうか、俺がいなければお前は旅にすら出なかった、と。そこまで俺を想ってくれている、と。俺がいなければ夜も日も明けん、と。そこまで言ってくれているのに別に好意とかいう話ではない、と。いやはやここまで熱烈だとさすがに照れんわけにはいかんな」
「ですからーっ!」
 チャモロは自分が泣きそうになっているのを自覚しながら、懸命にローグを引き剥がし落ち着かせようとする。
 いや、落ち着いているのは確かなのだ。チャモロがこれまで見てきた限りでは、ローグはいつも冷静沈着で、我を忘れたことなど一度もない。冷静に落ち着きながら思いきり全力でふざけているのだ。
 ローグのそういうところにはこれまでも何度も悩まされた。最初に仲間になった時も、その、なんというか……どう言えばいいのか……とにかく、なんだか恥ずかしいことをされてしまったし、それからも何度もからかわれおちょくられおもちゃにされている。それでも彼を間違っていると真正面から糾弾できないのは、そういった行いが善意……いや、誠意を持って行われていることだからだ。
 ローグは人と対峙した時、ごく当たり前のように相手の心の隙を見出す。本人の意識していない点――気づいていなかった瑕疵、忘却した傷、考えもしていなかった矛盾。その愚昧を、欺瞞を、醜悪を苦もなく見抜き、そしてときおり自然な笑顔で相手に突きつけるのだ。
 それが彼にとってどういう意味を持つ行為なのかは聞いてみたことがないのでわからない。けれど、彼がその時どれだけ真剣なのかはわかる。旅をする中で、何度も、何度も見てきたことなのだから。
 彼は誰に接する時も、最初の冷たい礼儀正しさを除けば、徹頭徹尾傲岸で高飛車で、理不尽なまでに傲慢な態度を崩さない。だが、それは彼にとってはいわば相手の人格を量るための擬態にすぎないのではないのかと思う。その態度によって粉飾された真意は、おそらくあくまで真摯に、そして熾烈に、人の真情を見据えている。
 人に自身の瑕疵を突きつける時も、彼はあるいは傲慢な、あるいは慇懃無礼な態度で真情を粉飾しているが、その実いつも相手の心を気遣い、自身に課した禁忌に縛られながらも、できる限り相手の心情と誠意を持って向き合おうとしているようにチャモロには見える。自身の倫理観念に、自身の決めた言うべきことと言うべきでないことに、悩み苦しみながらも、懸命に。
 それがチャモロの勘違いではない、と言い切る自信は、実のところない。ローグは本当に底の知れない人間で、チャモロからするとなにを考えているのかさっぱりわからないこともたびたびある。自分の倫理観念や思考回路によってローグの理屈を手前勝手に解釈しているだけなのではないか、と思うこともたびたびだ。
 ただ、ローグは最後には、いつも相手に向けて手を伸ばしてきた。相手を救い、助け、力になろうとする手を。相手がどんな困難な状況にあろうとも変わらず、相手のために、世界のために尽力してきたのだ。
 その誠意を、熱意を、自分は知っている。だからローグの行いを信じるのだ。彼は誠意を持って、真摯に人の真情と向き合っているのだと。それがチャモロにとっても心地よい――心情に、信条に、真情に、そして信仰に沿った行動なのだから。彼を信じることは、チャモロには本当にゲントの神への信仰に似て、現実との戦いで時に辛く苦しくもあるが、自分の心と魂が真実と向き合っている実感を得て、心底からの安寧を感じられる行為だった。
「ま、俺も男だ、そこまで慕ってくれる相手を無下にする気はない。心配せずともお前のことは先々まできっちり可愛がってやるから心配するな?」
「そういうことではなくっ………!」
 ……こんな風にからかわれるたび、心底恥ずかしい思いをしているのも、また確かなことではあるのだが。

「ここは空飛ぶベッドで有名なクリアベールの街よ」
「ずいぶん変わったもので有名なんだな、この街は」
「ベッドが空を飛ぶ……考えただけで楽しそうだね!」
「本当に空飛ぶベッドって有名なんですか? 私は知りませんでしたが」
「私は空飛ぶベッドの噂を聞いてこの街にやってきました。そんなロマンチックなことが起こる街だったらきっと素敵なところだろうと思いましてね。でも残念なことにある時からふっつりと空飛ぶベッドが見られなくなったそうです」
「なんだ、空飛ぶベッドもう見られないのか? 期待して損したぜ」
「見られないと言われるとよけいに見たくなってしまいますね」
「私も空飛ぶベッドの噂を聞きこの街にやってきたのですが……。いやはや、残念ですよ」
「そのベッドで寝ると空を飛ぶ夢を見られる……とかではないのですかね」
「私たちの知らないところで意外と有名だったみたいね。空飛ぶベッド」
「僕、迷子だったんだ。だからこの家の世話になってるんだ。うん、空飛ぶベッドなら僕も見たことあるよ。今の僕より少し年上のお兄ちゃんが乗ってたかなあ」
「空飛ぶベッドに子供が乗っていた!? 本当かよ……」
「この子の目は、嘘は言っていないようね……」
「いいな〜、あたしも空飛ぶベッドに乗ってみたい!」
 クリアベールの街のあちこちで、当たり前のように一番話題に出てくるのは、『空飛ぶベッド』という代物のことだった。話を聞く限りでは比喩ではなく本当に空中を飛行するベッドが間違いなく存在していたようで、あちらこちらでその目撃談が語られている。
 チャモロが一番驚いたのは街の裏路地にホイミスライムがいて、空飛ぶベッドの来訪を心待ちにしていることだったが。ローグが穏やかに、だが目に熱意を迸らせながら話しかけると、「わっ! びっくりさせないでよ! え? 何してるって? ベッドが家から飛び出すのをじっと待ってるんだ。わくわく」と言葉を返してすぐにベッドの飛び出す家とやらの方(それがどこなのかチャモロにはよくわからなかったのだが)を向いてしまう。
 ローグがスライム好きだということはパーティ内に知れ渡ってしまっているので、つい大丈夫だろうかすげなくされて傷ついてはいないかとおそるおそる様子をうかがってしまったのだが、ローグはむしろらんらんと瞳を輝かせ、力強く宣言してきた。
「よし。なんとしても空飛ぶベッドを手に入れるぞ」
『…………、は?』
 思わず全員で声を揃えてしまったパーティメンバーに、ローグはいつものごとく傲岸さすら感じさせるほど自信に満ちた仕草で胸を張り説明する。
「見ればわかるだろが。このホイミスライムは空飛ぶベッドが見られるのを心待ちにしているんだぞ?」
「いや、まぁそれは言われなくてもわかるけどよ」
「つまり空飛ぶベッドが目の前に出てこなければ、仲間になるだのなんだのという話にはまったく興味を示されないことは明白だろが」
「えっ……あの、ローグさん、このホイミスライムを、仲間にするつもりなのですか?」
「当然だ」
 きっぱりうなずかれチャモロも言葉に詰まった。
「あの……そもそも、彼……か彼女かはわかりませんが、とにかくこのホイミスライムに仲間になる気があるのかどうかも、まだ聞いていないような気がするのですが……?」
「そうだな。それが?」
「いや……それが、というか……ですね……」
「お前な、相手がその気なのかどうかも確認してないうちに、仲間になってくれること前提で行動すんなよ。相手にも迷惑だし、こっちだって当てにできるかわからねぇ報酬目当てで動かなけりゃならねぇとなったら腰が据わらねぇよ」
「そうだよー、このホイミスライムくんだって嫌がるよー。……まぁ、空飛ぶベッドが出てこないと話聞いてくんなさそーってのはあたしも思うけどさ」
 ハッサンとバーバラも加勢してローグを説得しようとしてくれる(チャモロも内心、こんな話を横でされているのに脇目もふらず空飛ぶベッドの捕捉に全神経を傾けている様子のホイミスライムを見る限り、確かに空飛ぶベッドが出てこない限りこちらとまともに話してはくれなさそうだな、とは思うが)。
 だがローグはいつものごとく平然とした、というより傲岸不遜を絵に描いたような顔で笑ってみせた。
「なにを言っている。ホイミスライムがこんな街中で唐突に、何の前振りもなく出現してるんだぞ? しかも周りにはそれについて騒ぎ立てる奴も一人もいない」
「はぁ。………それが?」
「そんな相手が、『主人公≠フ仲間になってくれるうちの一体』でない方がおかしいだろが。しかも話す内容が『プルプル。僕悪いスライムじゃないよ』という定番台詞でも間近に見られるご当地ネタでもなく、『かつてよく見られたが今ではみられないもの』という時事ネタの類。そんなもん俺がそれを復活させてこいつに見せてやる、という未来図以外にどんな可能性が考えられるというんだ」
『…………』
「いや……そりゃそういう可能性もあるかもしれねぇけどよ……」
「それ以外ない、とか言われるとちょっと言いすぎかなって気が……っていうか、ローグ、いいの?」
「なにがだ」
 真正面から見据えてくるローグの瞳に、気遣わしげな視線を返しつつバーバラは首を傾げた。
「ローグって、そういう、なんていうの、主人公≠チて思われてる通りの行動するの、嫌なんじゃないかなって思ってたんだけど。前にもそういうこと、なかったっけ?」
 バーバラの言葉に、チャモロは一瞬呼吸の仕方を忘れた気がした。
 そうか、そうだったのか、と腑に落ちたのだ。あの時の――ムドーの居城を目指そうと島に足を踏み入れた時の、あるいはムドーを無事倒し改めて旅を続けようとした時の、ローグのやる気のなさ――いや違う、周囲の期待に反発し抗おうとする姿は、そういう言葉で言い表されるべきものだったのか、と。
 チャモロはそんな心境に陥ったことがない。むしろ周囲が期待をかけてくれればくれるだけ、その期待に応えなければ、期待に恥じぬ自分であらねば、と発奮した。だから、あの時のローグの言葉にはひどく驚いたし、反発すら覚えた。
 けれど、バーバラの今の言葉は、そんなチャモロの心にも否応なく理解させられるものがあった。ごく単純で、心に感じたものを素直に形にしただけの言葉だからこそ。ローグは、周囲にそう思われている通りの、期待されている通りの行動をするのが、本当に嫌だったのだと。――なぜなのか、今もそうなのか、ということまではわからないけれども。
 バーバラの言葉に、ローグはふん、と鼻を鳴らして肩をすくめ、答えた。
「そう思ったのか? 俺は最近はわりとそういう概念に素直に従った行動を取っていた気がしたんだが」
「え? ど、どういう意味?」
「……バーバラさんのおっしゃっていた、『主人公≠チて思われてる通りの行動』をしていただろう、ということをローグさんはおっしゃりたいのだと思いますよ、バーバラさん」
 チャモロの言葉に、バーバラは少し不意を衝かれたような顔になって、眉を寄せる。
「え、そうだっけ? ……言われてみればわりと最近はそうだったような気も……いや、やっぱりしないような気も……」
「ま、なんであれ、だ。誰がなんと言おうと俺は空飛ぶベッドを手に入れるぞ。もちろん必ずしも手に入ると決まったものではないし、当てにならない話と言われればその通りだろうしな、俺と離れて少し旅を休みたいと思うなら、その通りに手配するが?」
「えっ、なっ、んなこと言ってないじゃんっ! あたしローグと一緒の旅すっごい楽しいって言ったの、覚えてないの!? ……あ、もしかしてあたしのこと、もう旅にいらないとか、そういう……?」
「いやお前が言ったのは正確には『あたしローグとの旅、とっても楽しいよ!』だったが……ああわかった悪かった、いらなくないというかお前は俺の旅に必要不可欠だからそんな泣きそうな顔をするな」
「べ、別にそんな顔してないし! もーっ、ローグってばあたしのこと頭撫でて優しいこと言ってれば機嫌直っちゃうちょろい女だとか思ってるんでしょ!」
「別にちょろい女だとは思ってないぞ。思考回路はわりと単純だと思ってはいるが、それはむしろいい意味でのことだしな」
「え、そ……そう?」
「ああ、だからというわけじゃないが、詫びになにかおごらせろ。女に泣きそうな顔をさせておいて、なにもなしでは男としての沽券に係わるからな」
「べ、別にそんなのいらないし! ローグ本当にあたしのことすっごい馬鹿とか思ってない!? ……ま、まぁ、コケンにかかわるっていうのをほっとくのも悪いし、ちょっとくらいならおごられてあげるけど……」
 頭を撫でながらなだめるローグに、バーバラは照れて赤くなりながらも、あっさりと笑顔になる。そういうところを一般的には『ちょろい』と称するのではないだろうか、と内心ちらりと考えながらも、チャモロはバーバラに深い感謝を込めて合掌する。
 ローグはおそらく、今も当初に見せた反発と懊悩の中から抜け出せてはいない。そうでなければバーバラの言葉をはぐらかすようなことはしない。『そういう概念に素直に従った行動を取っていた』というのは、裏を返せば『心はそういう概念に従ってはいない』ということなのだから。
 なぜローグがそんな風に思い考えるのか、チャモロにはわからない。そんなローグの力に、心の支えになってやれるのかもわからない。チャモロにとってローグは本当に、底の知れぬ、それでいながらはるか高みで輝く星のごとく心を惹きつける、謎の塊のようでありながら当然のように自分の隣にいてくれる、不思議でなにを考えているかわからないことこの上ない相手だったからだ。
 けれど、自分のできることならばできる限り力になりたいと思う。今の自分では無理でも、旅の中で少しでも力添えをしてやれるようになれたらと思う。すでに本人に言っているように、ローグは自分の旅の始まりのきっかけであり、旅をする理由であり、自分の世界を変えてくれる原因そのものなのだから。
「どうしたチャモロ、そんな可愛い顔をして。お前もおごってほしいのか? 心配せずとも別の機会に可愛がってやるから」
「そういうことを心配しているわけではありませんから!」
 ……いろいろな意味で困らせてくれる対象でもあることも、疑いようのない事実ではあるのだが。

「ここには僕の大切なご主人様が眠っているんです。どうか、あなたもお祈りしてあげてください」
 そう告げた男の立つ墓の隣に建っている、ずっと前から空き家だという家。空飛ぶベッドが飛び出したところを見たような気がする、という人間もいたという家の扉は、当然のことながら固く閉ざされ、内側から鍵がかけられていた。
「そこでお参りしている男の人は、このおうちの人じゃないんですかね……」
「中には誰もいないようですね」
「鍵がかかってるのか。仕方ない、行こうぜ」
 そんなことを口々に言う仲間の中で、ミレーユは小さく、だが他の仲間にも聞こえる程度の声で呟いていた。
「この家、なにかありそうね……」
 仲間たちが思わずといったように目をそばだて、自分の方を向く。ミレーユは一瞬心が波立つのを感じながらも、表情を変えずに仲間たちの言葉を待った。
 まずハッサンが勢い込んで聞いてきた。
「なにかって、どういうもんだ?」
「どういう、と言えるほどはっきりわかるわけではないのだけど。ただ、感じるの。この家にはなにかある、って」
 続いてバーバラが目をきらきらさせて寄ってくる。
「ねぇねぇ、それってミレーユの不思議な力が教えてくれたの? それとも占い? どっちにしてもすごいね!」
「すごい、と言われるほどのものじゃないけれど……単にそう感じた、というだけのことだから。ただ、たぶんこの感じたこと≠ヘ間違ってはいないと思うわ」
「ううんっ、すっごいよ! ミレーユってやっぱりすごい不思議な力とか持ってるんだねっ!」
 チャモロとアモスも大きくうなずいてきた。
「そうですね、ミレーユさんはかつて黄金竜を召喚したこともある方ですからなんらかの超越的な能力をお持ちなのではないかと思ってはいましたが……そもそも占い師の修行をされていたこともある方ですからね。神秘的な感覚の鋭さについては疑う余地もありません」
「そうですよねぇ、ミレーユさんってホントに神秘的な雰囲気の女性ですからねー。私正直実は女神の化身だった! とか言われても信じちゃう自信ありますよ!」
「いや、アモスよ、そりゃいっくらなんでもふかしすぎじゃねぇか?」
「というかさすがにそこまで言われるとミレーユさんの方もご迷惑なのではないかと思うのですが……」
「え、そうですか? 私きれいな女の人ってだいたい2:3くらいで女神成分ある人の方が多い気するんですけど」
「いや女神成分ってなんだよ」
 そんな風に、いつも通りに騒ぎ盛り上がる仲間たちを見つめるミレーユの背中を、ローグがこちらを見ないままぽんぽん、と叩いた。その暖かさと、優しさにようやくミレーユは息をつく。思った以上に自分が緊張していたのだ、とその時改めて実感した。
 正直、こういったことを仲間たちに、真正面から口に出すのは勇気が要った。仲間たちが自分を積極的に疎外、ないし迫害するとまで思っていたわけではないが、心の距離が生まれてしまう可能性までは否定しきれなかったからだ。
 それでも、ミレーユは正直に自分の感じたことを口にした。怖くても、ためらいがあっても、それを口にしないことが自分の中で仲間たちとの距離を作ってしまいそうだったからだ。
 それに、少なくとも、ローグはとうに自分の力のことを知っている。少なくとも、彼はこれを口にしても態度を変えるようなことはないはずだ。そもそも、彼にとっては自分の力などどうでもいい、ごくごくささいなことでしかない。彼にとっての自分の存在と、同じように――そんな思いに後押しをされて、ミレーユは口を開いた。
 そして、仲間たちの反応に、ローグの手のぬくもりに、心底安堵している。この程度の器しかもっていない自分が女神とは買いかぶられたものだ、と内心苦笑していると、ローグが仲間たちに向けて声をかけた。
「お前ら、そろそろ話を建設的な方向に進めろ。いまさら聞くまでもないことではあるが、ミレーユの超常的感覚については、疑う奴はいないな?」
「あ、うんっ! もっちろんだよっ!」
「では、それを既定事実として話を進めるぞ。ミレーユ。一応確認するが、その感覚が具体的にどういうものかについてはわからないんだな?」
 ローグに向き直って言葉をかけられ、ミレーユの心臓は小さく跳ねたが、それを表情には表さないままにうなずく。
「ええ。申し訳ないのだけれど」
「謝る必要はない、そもそも細密な情報収集もなしに真実を直感できるなんぞという法外な能力なんだぞ、それにいちいち文句をつけるなんぞ馬鹿のすることだ。で、だ。こういう聞き方をするとまずいか? 『その感覚が示す先は、どこにある?』というような」
 ミレーユは思わずくすっと笑ってしまった。ローグができる限り自分を気遣って言葉を使っているのが分かったからだ。自分にわかりやすいように、答えやすいように――『占い師』に問いかけるように。
「そうね、はっきりこう、とは言えないけれど。なんとなく、でいいのならば――私たちが進む先に、それはあるわ。強いて言うなら、南西。あるいはまったく違う、それでいてまったく同じ場所」
「え、え……? ど、どういうこと?」
「す、すまねぇミレーユ、俺ぁ頭が悪いから言いたいことがよく……」
「自覚してるならいちいち聞きほじるな鶏頭筋肉。この手の話にいちいち『解説』を求めるのは厳禁なんだ、受け取る方が自分なりに解釈するっきゃねぇんだよ。そもそも、今回は相当わかりやすく話してもらってるだろが」
「ど、どういうことだよ?」
「俺たちの進む先、だぞ? つまり俺たちがこのまま普通に歩いて行ける場所ってことだ。で、それが南西、あるいはまったく違う、それでいてまったく同じ場所。こんなもん詳しく教えてくれてるも同然だろが。周りの様子を見た限りじゃ、この街から東の方には険しい山脈がそびえていて山越えは難しそうだった。道は南西の方に続いている。で、まったく違う、それでいてまったく同じ場所ってこたぁ、違う世界のこの街がある地点に向かえ、ってこと以外にどう解釈できるんだ」
「あ!」
「俺たちが普通に進める場所、なんだからおそらくは南西に下の世界に転移する井戸やらなんやらがあるんだろ。とりあえずの目標地点としちゃあ十分だ」
「そ、そっかぁ! すごいじゃんローグっ、そんな風にわかっちゃうなんて!」
「当然だ、俺を誰だと思ってる……というかな、ここまではっきりしたことを感じ取れるミレーユを先に褒めるべきだろが、ここは」
「あっ、そうだねっ! すっごいよミレーユ、やっぱりミレーユは本当にすごいねっ!」
 やはり目をきらきらさせていってくるバーバラに、ミレーユは思わず苦笑する。
「あくまで私は感じたことを言っただけよ。あんまり大仰に褒められたら困ってしまうわ」
 それに、実際にはローグはとうに、進む道がどの先にあるかわかっていたのだろうし。
 彼は知っている。自分たちの進む道がどの先にあるか、その先でどんなことが起こるか。それどころか世界がこの先どう動きどう終わるか、そんなことさえ熟知しているに違いない。
 少なくとも自分ばそれを知っている。彼がどれだけ大きなものを背負っているか。彼がどれだけ深く世界とつながっているか。それこそ世界そのものと同化しているかのように。彼の魂の重さと大きさを知っている自分は、それを理解しているのだ。自分にできることなど、少しばかりその道行を粉飾する程度のことでしかないだろう。
 けれども、自分はローグと、仲間たちと共に行くと決めている。それが自分の求めるものを手に入れるただ一つの方法であり、自分にできる一番マシなことであり――おそらくは、主人公≠フ求めていることだと思うから。
 なので、ミレーユはにこっと、優雅に品よく、そしてさりげない微笑みを浮かべ、優しく少女を促した。
「そんなことより、そろそろ旅の続きの準備を始めましょう? もうこの街はだいたい回りきったのだし……まだまだ私たちの旅は続くのですもの。ね?」
「あ、そうだよねっ! あたしも頑張らなくっちゃ!」
「頑張るのはいいけどよ、この前みたいに保存食の量一桁間違えるとかは勘弁してくれよ? いっくら保存食っつったって永遠に腐らねぇってわけじゃねぇんだからよ」
「そ、そーいうこと言わないでよぉっ! あたしだって同じ間違いしないように頑張ってるもん!」
 いつものようににぎやかに騒ぎながらぞろぞろと街の商店街の方へと進む仲間たちを追う。その時ふいに、ちらりとローグがこちらの方を向いた。一瞬視線が交差する――だが、ミレーユは表情を変えないまま、にっこりと微笑みを浮かべたままの顔で、小さく首を傾げてみせる。
 ローグは、自分にたまに見せる、無表情にすら見えるような沈着な表情で、口の形だけで小さく、『無理をするなよ』と告げ――さっさと前に向き直ってすたすたと歩を進めていく。それでも一瞬、ミレーユは小さく拳を握り締めながら足を止めてしまった。
 ローグの視線が、言葉が、気遣いが――刹那、心臓に、痺れるような衝撃を走らせたのを自覚していたからだ。

「いきなり毒の沼地の真ん中に出るなんてとんでもないぜ!」
「ここは下の世界の……どのへんかしらね」
「うーん……見慣れない土地のようなそうでもないような……。こういう時には地図で確認した方がいいかもしれませんね」
「長い階段を降り続けて足ががくがくです」
「あー、上と下とだんだんごっちゃになってきた感じ……」
 ミレーユの言った通り、上の世界のクリアベールの南西には下の世界に続くもの――階段があった。むろんそれなりに体力を削られたが、かかった時間はいつもと同じく天から地に降りてきたとは考えられないほど短く、消耗した体力もそれ相応だ。
 それよりもハッサンは降りてきた先がいきなり毒の沼地だったのがびっくりした。もちろん呪文を使えば沼地で負う傷ぐらいすぐに回復させられるし、そもそもローグのトラマナを使えば傷を負うことすらないのだが、それでもやはり降りた先がいきなり毒の沼地だというのはびっくりする。
 ともあれ、ミレーユやチャモロたちが地図と頭を突き合わせて調べた結果、自分たちがいるのはいつもと同様、上の世界の階段があった場所と同じ地点――地形やらなんやらを無視して、地図を重ね合わせた時に同じ場所になる地点であることがわかった。ローグの話によると、クリアベールなどの小さな街がいくつも並ぶ自治区はこのまま北東に向かった先にあるらしい。
「ま、この先なにがあるにしろ、だ。空飛ぶベッドが手に入る可能性が高いのは間違いない。それなりに気合入れて動かねぇとな」
 当然のような顔でそんなことを言うローグに、ハッサンは思わず苦笑しつつも反論はしなかった。どこまで本気で言っているのかは知らないが、こいつが空飛ぶベッドとやらを本気で手に入れようとしているのは確かだろう。ならば少なくともこいつが満足するまではそれに付き合うことになるのだろうから、なんのかんので本当に手に入れてしまうということもそれなりにありえそうに思えたのだ。
 が、たどり着いた下の世界のクリアベールの街には(街並みを見る限りではそっくり同じように見えたのだが)、それに繋がるようなものはまるっきり存在しないように見えた。こちらでは、『空飛ぶベッド』という代物なぞ、話題の端にもまるで上らなかったのだ。

 まず宿屋に部屋を取り、全員で中をうろついていると、その一階、おそらくは共用の風呂場になっているのだろう部屋で、風呂上りらしきもっさりとした中年男と出くわした。その中年男は「あっ!」と驚きの声を上げるやいなや、素早く煙幕を張り、あっという間にバニー姿に変身して(魔法の類ではなく、異常なほどの速さで化粧や身支度をしたのだと自分たちにはわかった)部屋を出て行く。
「おほほほ! いやーね、あたしがお風呂に入るところをのぞいたりして。それじゃ失礼v」
 そんな声を残して去っていったおっさんバニーに(ちょっと見た限りでは普通にバニーにも見えたが、ちゃんと観察してみれば中年男がバニーの扮装をしているのだというのはすぐわかる)、ハッサンたちはめいめい悲鳴を上げる。
「おじさんバニーって面白すぎっ!」
「私たち、恐ろしいものを見てしまいましたか!? くわばらくわばら!」
「うげっ! なんだありゃ……」
「見たくないものを見てしまったわね……」
「ああ、神さま……私は恐ろしいものを見てしまいました……」
 が、そんな中で、ローグだけは無言だった。いつもの傲岸不遜な顔というよりは、礼儀正しく接しなくてはいけない相手(王侯貴族のような)と相対した時のような、礼儀正しい無表情に近い顔だ。
「? どうしたんだよローグ? なんか、気分でも悪いのか?」
「なんでそうなる」
「いや、なんか元気がねぇからさ」
「別に。喋る必要がないから黙っているだけだ」
「ふぅん……?」
 明らかにそれだけじゃないだろう、と思ったが、ローグがさっさと部屋の中を調べて外に出て行ってしまったので、その時は訊ねそびれてしまった。まぁ大したことじゃないだろう、別にあいつが腹を立てるようなものがあったわけじゃないし、と肩をすくめて後に続く。
 宿屋の二階の一室には、踊り子だろう女性とさっきのおっさんバニーが揃って談笑していた。おおう、と思わず気圧されてしまう自分を気にもせず、ローグは二人に和やかに話しかける。
「私はレイドック城からやって来た踊り娘よ。旅芸人のパノンを探して旅をしているの。どうしても弟子入りさせてほしくって。この街にいたって聞いたから来てみたけど、もうずいぶん昔の話みたいね。がっかりだわ」
「あたしもパノンに弟子入りしてみたーい!」
「人を笑わせるようなことが、私にもできればいいのですが……」
「旅芸人ですものね。風みたいに世界を飛び回っているのかしら」
「わざわざレイドック城からこの街まで来たのかよ。パノンってのはすごい旅芸人なんだな」
「旅芸人パノン……。ゲントの村には来たことがありませんね」
「あーら、いらっしゃい。あたしとパフパフする? えっ? あたしが男ですって? いやーね、女に決まってるでしょ。おほほほほほ」
「あー、駄目だ! 今日寝られないよー。絶対に夢見るよー!」
「男ってわかってなかったらいいんですけどねえ……」
「た、頼むから俺に近寄らせないでくれ!」
「髭の剃り跡が濃い人ね……」
「ゲントの神よ、天罰を与えたまえ……」
 ローグと二人との会話に小声で囁きを交わす自分たちを、ローグは見向きもせずに「行くぞ」と小さく告げ、二人には笑顔を向けてその場を辞した。自分たちも慌ててその後に続く。
 すたすたと早足で宿の外へと出て行くローグに、バーバラが懸命についていきながら声を上げた。
「ちょ、ローグっ、ちょっと待ってよー! 足速いってば!」
「ああ……すまん」
「ぅ……あの、さ……」
「お前、なんか怒ってんのか?」
 バーバラがもの言いたげにしながら言葉にできなかった問いを、ハッサンは自分なりに読み取ってあっさり口にする。ハッサンとしては、本当に怒っていたのだとしたら仲間たちの中で自分が一番『当たりやすい』だろうと思ってのことなのだが、ローグはちらっ、と無表情を崩さず自分を見て、軽く肩をすくめてみせた。
「別に怒ってないが。なんでそう思うんだ」
「や……だってよ、お前。顔とか口調とか雰囲気とかいかにも怒ってそうだったからよ」
「そうか」
「ああ……」
 ……いや明らかに怒ってんだろ、っつーか今まで見たことねぇ反応なんだが、とハッサンは少しばかり気圧されて冷や汗をかく。仲間たちもそう思ったのだろう、足早に歩きながらも無言のままで、気まずい空気が周囲に漂った。
 それを察しているのだろうにローグは反応を示さず、街の広場へと続く階段をさっさと降りて反対側の階段を登り、新しい人に話しかける。その時は笑顔になっていて、さっきまでの気まずい雰囲気は消え去っていたのだが、それでも『なんだったんだろう、あれは』という疑問は変わらずに残った。

「うちのダーリンってとっても優しいのよ! それに頭もいいし。うふふ。私シ・ア・ワ・セv」
「女の幸せってこういうことなのかなあ?」
「私も、いつかきっと……」
「はいはい、ごちそうさまだぜ」
「私は人の見る夢について研究しています。人はなぜ夢を見るのか? 夢の中身にはどんな意味があるのか? 私はきっといつか、夢の世界の謎を解き明かしてみせますぞ」
「なぜ夢を見るのか? ……。それは寝ているからです!」
「私たちもだいぶ、夢の不思議は体験したわよね」
「夢の研究……かあ。早いとこ解明してほしいもんだぜ!」
「ああ、アリシア……。どうしてあんな年上の学者となんか結婚しちゃったんだい? 僕だってこんなにアリシアを愛してるのに……うっうっ、ぐすん」
「アリシアさんは年上好きだったんですね」
「学者さんを選んだアリシアさんは正解だね。こんなところでうじうじしている男なんて、頼りなくて駄目だよ」
「男ならドーンと当たって砕けりゃいいのにな」
「やれやれ、息子が嫁をもらったのはいいが、わしのいる場所がなくて困ったわい。こうなったらわしも恋人を見つけてもう一花咲かせるかのう。ほっほっほっ」
「頑張れ、おじいちゃん!」
「まあ、夢の世界でなら可能でしょうね!」
「恋は若さを保つ秘訣ですからね」
「じいさん元気だな」
「ハリスもマゴットも気の毒に。ジョンは可愛い坊やだったのにな。俺がパノンの代わりにジョンとの約束を果たせればいいんだが。勇気のバッジか……。けど、運命の壁を登るなんて俺には無理だしなあ。情けないよ、まったく。え? 運命の壁かい? この街からずっと北東に行った、険しい山の中にあるそうだ」
「パノンとジョンくんの約束ってなんだろうね」
「そんなにすごい壁なら、私見てみたいです! 登らなくてもいいですが」
「この街の北東に運命の壁があるんだな。そのくらいなら覚えられるぜ」
 ローグはいつものように、次から次へと街の人たちへと話しかけ、情報を得ていく。いつものことだが、その手際のよさはそれこそ魔法のように水際立っていて、流れ作業の勢いで何人、何十人もの人に話しかけているというのに、適当に相手しているという印象を与えない。普通に、というより誠実な印象を受けるほど、一人一人を丁寧に丁重に相手をしているように見えるのだ。その鮮やかさに、バーバラたちとしては口を挟んでも双方に邪魔なことになりそうで(というか一度口を挟んで相手の人に邪魔者扱いされたことがあるので)、後ろでこっそり感想を言い合うくらいしかできることがなかった。
 ともあれ次から次へと情報を仕入れていく中で、ローグはふいに、大きな商店街の休憩場で休んでいた、兵士らしき男の言葉にわずかに眉を寄せた。
「? どしたのローグ、なんか気になることでもあったの?」
「ああ、まぁな……とりあえず、話が聞ける相手にはとっとと聞いておくことにするか」
「?」
 それからローグは、さらに話を聞くペースを速めた。相手をないがしろにしているわけではないが、話を自然な素振りで早く進め、相手に気づかせないように話がさっさと終わるよう急がせていく。商店街を抜け、道行く人の何人かに話しかけながら、ローグは早足で街外れの家――ミレーユが『なにかがある』と言った家を目指した。
「あたしゃこの年まで生きてきて、楽しいこともつらいこともたくさんあったけど……一番嫌なのは自分より若い者が先に死んでゆくのを見ることだね」
「おばあさんの気持ち、すっごくわかるな……」
「どなたか知り合いの若い方が亡くなったのでしょうかね……」
「いつか別れが来るのは仕方がないとしても、確かにそれは辛いわね……」
「この俺だって誰かが死んでいくのを見るのは辛いからな……」
「あのね、ジョンくんはね、病気で寝たきりだったけど、ちっとも辛くないって言ってたよ。でも、どこにも行けなくてどうして辛くなかったのかなあ。あたしだったら絶対に我慢できないな」
「うおーん! ジョンくん、偉いですー!」
「あたしだったら、辛くて泣いちゃうな……」
「ジョンくんはとっても強い子だったのね」
「子供が病気で寝たきりとは、なんと可哀想なことでしょう」
 上の世界では空飛ぶベッドが出てきたという噂のある街外れの家の敷地には、上同様に墓地が作られていた。ただ、その前に立っていたのは男ではなく犬だった。「くーん、くーん……」と悲しげな鳴き声で鳴きながら、どこか切なげに作られた墓を見上げている。
「なーんか、悲しそうな鳴き声だね……。あたしも悲しくなっちゃうよ」
「偉いな、この犬。ご主人さまの番でもしてるのかな」
 そんなことを言う自分たちの横で、アモスが珍しく首を傾げた。
「はて……? この犬の匂い……やはりどこかのお墓のところで嗅いだような気がするのですが……」
「え? 嗅いだって……どこで?」
「うーん、どこででしょう……うーんうーん……わりと最近だったような気もするのですが……」
「おい、議論は後にしろ。どうせ答えはすぐに出るんだからな」
「え? なに、どういうこと?」
「言っただろが。すぐわかる」
 言ってローグは家の扉を軽くノックし、返事が来ないこと、鍵がかかっていないことを確認してから扉を開けて中に入る。
「え、ちょ……いいの、勝手に入って?」
「軽く中を確認するだけだ」
「え、確認……?」
 その問いに答えないまま、ローグはどんどん中へと入ってしまう。バーバラたちは思わず顔を見合わせながら、おそるおそる中に入ってローグを追った。
「ごめんくださーい! ……。やっぱり誰もいないみたいね」
「泥棒と間違えられないうちに帰りませんか……」
「それはローグに言うこったろーが。……それにしても、本当に誰もいないな。あ、おい、ローグ! やっぱりこの家には誰もいねぇよ、話を聞くにしろなんにしろ、とっとと他をあたろうぜ」
 二階から降りてきたところにそうハッサンに声をかけられたローグは、ふんと鼻を鳴らして肩をすくめる。
「ま、見るべきものは見たからな。とっとと行くか」
「? 見るべきものって、なに?」
「俺たちのたどる道筋だ」
「…………?」
 やはりバーバラには(たぶん他のみんなにも)さっぱり意味が分からなかったが、ローグは迷いなく家を出て、足早に歩を進め、中央広場から正面の階段を上がったところにある教会へと足を踏み入れたのだ。

 人生に疲れた、というより絶望に頭の上まで浸っていることがはっきりわかる中年女が、やりきれない思いを形にしたがごとき、呻くような口調で神父に寄り縋る。もしや、彼女がマゴットなのか、と街で聞いた情報から結論を導き出し、チャモロは目をみはった。
「神父さま。私の息子は……ジョンは、本当に幸せだったんでしょうか? 生まれてすぐに病気で寝たきりになって、そのまま神に召されるなんて……あの子はまだ十歳でした。幸せだったなんて思えません」
 そこに後ろから、逞しい体つきをした中年男が、こちらも絶望の色が濃い表情を懸命に奮い立たせながら、神父と女の間に割って入る。こちらがおそらく、マゴットの夫のハリスのはずだ。
「なあ、もう思いつめるのはよそうや。神父さまだっておっしゃってるじゃないか。ジョンが幼くして亡くなったのも、神さまから与えられた運命。それが幸せだったかどうかなんて、あの子自身にしかわからないさ」
「でも……」
 ここで、マゴットに寄り縋られ勢い負けしそうになっていた神父が、咳払いをして姿勢を改め、神父らしく二人に説教を始める。
「……コホン。まあまあお二人とも。ジョンくんのことはまことにお気の毒です。しかし、あなた方を見ていると私は思うのです。こんなにも両親に愛されたジョンくんは、実はとても幸せだったのではないかと。あなた方の愛情は、きっとジョンくんにも通じていたはずですよ」
「神父さま……」
「神父さま。ありがとうございました。さあ、今日はこれで帰ろう。ジョンの墓に新しい花を供えてやらなくては」
「ええ。そうね、あなた。神父さま。それでは今日はこれで」
「では、また……。あなた方に神のご加護がありますように」
 ここで二人は神父に向けて一礼し、相変わらず絶望に染まった顔で教会を出て行く。それを思わず見送ってから、ハッサンがはぁ、とため息をついた。
「なんだか、気の毒な話を聞いちまったな。心が痛いぜ……」
 チャモロも嘆息しながらうなずいて、神に祈るために合掌する。
「そうですね。この街の人の話題にこれまで幾度も出ていたので、ある程度予想はしていましたが……まだ年若い子供が亡くなったなどという予想は、当たっていてほしくありませんでした。ですが、人の生き死にはいかに医術や魔法が発達しようとも、人の作意の外にあるものです。運命なのですね、と神に問いかけ、答えが得られぬことを答えとし、受け容れるしかないことなのでしょう。人にできることは、ただ亡くなった方を偲びながら、祈りを捧げることのみ……祈りましょう、みなさん……」
 そんなチャモロの言葉に、仲間たちはそれぞれ沈鬱な表情で教会の十字架へと向き直り、手を合わせた。
「なむなむ……できるなら、私たちもジョンくんに花を手向けてあげたいですね!」
「うん! それに……あたしもジョンくんは幸せだったと思うな! ずっとベッドの上にいるしかなくたって、あんなにお父さんとお母さんに愛されてるのに、不幸だとか可哀想だとか思われる方がつらいよ、絶対!」
「ええ……でも、ジョンくんのそういう気持ちがわかっていても、たぶんご両親の苦しみは消えないのでしょう。自分にはどうにもできなかったとしても、自分の力の足りなさを悔やみ、子供になにもしてやれなかったことを責めてしまう。ご両親……本当に、ずっとつらかったのでしょうね」
 声をひそめながらもそう言い交わす、自分たちの表情は沈痛だ。仲間たちは基本的には良識のある人ばかりなので、自分と同じようにジョンを哀れみ、マゴットとハリスを気遣わずにはいられなかったのだろう。ピエールも子供のようにきょろきょろしながらも、その気配を感じ取ったのか素直に自分たちを真似て手を合わせる。
 ローグの表情もやはり重々しい――が、チャモロは一瞬、わずかな違和感を覚えた。礼儀正しく目を伏せてはいるものの、手を組んでも合わせてもおらず、十字架の方をちゃんと向いてもいない。彼の視線は、どちらかといえば東の先、たぶんマゴットたちの家である街外れの家屋のある方角、おそらくはジョンの眠っているだろう墓場に向いていて――
「皆さんは、旅の方ですか? ジョンくんのために祈ってくださって、ありがとうございます」
 中年のシスターにそう声をかけられ、チャモロは思考の沼から連れ出された。慌ててローグや仲間たちと共に深々と礼をしようとするも、シスターは笑顔ながらも陰のある表情でそれを制し、穏やかに話し出す。
「ハリスさんと奥さんは、ジョンくんのために毎日お祈りをしていらっしゃるのです。どうしても果たせなかったジョンくんとの約束があるとかで……。けれど、いかに愛した我が子のための祈りであろうとも、あのように日々憔悴していくままではよい結果にはなりますいまい。せめてその約束がかなえば、お二人の気持ちも少しは楽になるでしょうに」
 悲しげにそう首を振るシスターに、ローグはひそやかな声で礼の言葉を伝え、優雅な仕草で頭を下げる。シスターも同様に一礼し、去っていくのを見送ってから、ローグは自分たちの方を振り向いて、小さく肩をすくめ告げた。
「――さて、お前ら。どう思う?」
 仲間たちはそれぞれ、声を抑えながらも熱心に言葉を交わす。やはり子供が亡くなった話となれば、みな冷静沈着ではいられないのは当たり前だろう。
「私……なんとか明るい話で場を和ませようと思ったのですが……ちょっと無理みたいです……」
「アモスさん……ご無理なさらなくていいのですよ。私は、マゴットさんとハリスさん、お二人の祈りは、きっとジョンくんに届いていると思います。ただ、それをお二人が実感できていないようなのが、どうにも気になってしまいますね……」
「約束か……。あ、いや、さっきのシスターが言ってただろ、そういうこと。あの親子に果たせなかった約束があったって。いったいどんな約束だったんだろうな」
「あー、言ってたね……。子供が亡くなったのに、果たせなかった約束のことまで気にしてたら、つらすぎるよね……なんとかあたしたちでその約束をかなえてあげられないかなあ……」
「そうね……いろいろな意味で、さっきのお二人がちょっと気になるわね。ねえ、ローグ。二人のお宅を探して、ちょっと訪ねてみない?」
「ふむ……俺はかまわんが。お前ら全員、異存ないか?」
 それぞれ『諾』の返事をする自分たちに、ローグは小さくうなずいた。
 その表情を見て、チャモロは思わず目を瞬かせる。この街に入ってから、なにやらずっと物思わしげな顔をしていたローグの表情が、いつもの様子に戻っていたのだ。
 傲岸で、傲慢で、けれどこちらを圧倒するほどの力に満ちた――『勇者』と呼ぶにふさわしい、英雄の顔。それを見るや、チャモロの内奥から、ぶわっと熱く滾る感情が噴き出してきて、自分自身ぎょっとした。
 だが、同時に、強烈な実感と納得をも感じていたのだ。自分は疑いようもなく、この人がいたから、この人のために旅を続けているのだ、と。

「私の息子……ジョンは、旅芸人のパノンさんが来る日をとても楽しみにしていました。パノンさんも、ジョンのことをとても可愛がってくださって。今度来る時には勇気のバッジをあげると、ジョンに約束してくれたのです。勇気の岩を削って作ったバッジをつけていれば、きっと病気に勝つことができると。でもその後、パノンさんはこの街を訪れることはなく、ジョンは亡くなりました。あの子はとても楽しみに待っていたのに……せめてお墓に供えてあげられれば……うっうっ」
 泣き崩れるマゴットを、ローグが穏やかな表情で、かつ素早く的確に慰めその場を辞する。自分たちもそれについてマゴットたちの家を出かかったが、バーバラが待ちきれないという様子で、瞳をきらきらさせながらローグに飛びつき、声を抑えながらも熱意に満ちた声を上げた。
「そうだよ! それだよっ!」
「……バーバラ。一応注意しといてやるが、普通の人間に対してはこういう時はちゃんと具体的に言えよ。これあれそれ、じゃ意味わからんからな」
「あ、ごめん……じゃなくて! そういう話じゃなくて!」
「じゃあどういう話だ。まぁ知ってるが」
「え、なんで知ってるの……ってだからそうじゃなくてさ!」
 瞳をいまだ眩しいほどにきらめかせたまま、バーバラは勢い込んで(声を抑えながら)叫んだ。
「勇気のバッジを作っちゃおう! あたしたちがパノンさんの代わりになればいいんだよ!」
『…………』
 一瞬その場に沈黙が下りるが、すぐにそれぞれバーバラ同様の勢いで話し出す。
「勇気の岩を削って、勇気のバッジを作るのか。なるほどな! 勇気の岩ってのは、運命の壁っていう崖のてっぺんにあるっていう岩のことだよな。で、運命の壁ってのはこっから北東の険しい山の中にある……魔物もたぶんうじゃうじゃ出るだろうし、こりゃ俺たち向きの話になってきたじゃねぇか!」
「ほう……やるな、ハッサン。いくら同じ街とはいえそれなりに時間の間隔の空いた話をちゃんと覚えているとは。亀の歩みがごとき早さでも、お前も着実に進歩しているんだな、感心したぞ」
「だぁっ、うるっせぇな! 俺の頭が悪いのは認めるが、今はそういう話してる場合じゃねぇだろっ!」
「ま、確かにな。どう思う、みんな?」
「実は私……今まで黙っていましたが、岩を削るの得意なんです! ぜひ勇気の岩を削りに行きましょう! 私たちの旅の目的の一つ、困ってる人お助け屋の出番ですよ!」
「いや、言いてぇことはわかるが商売にした覚えはねぇぞ」
「ま、まぁ意味するところについては私も同感です。私たちがきっとジョンくんのお墓に勇気のバッジを供えましょう! これも私たちにしかできないことのひとつなのでしょうから」
「そうね、パノンさんを探すよりは、勇気の石を取ってきた方がきっと早いわね。私も賛成よ」
 各人の意見を聞き終わるや、ローグはすっと踵を返す。自分たちに背を向け、マゴットたちの家の扉を開けて歩み去ろうとする――その動きに紛れるように、自分たちに向けふん、といつもの傲岸な表情で鼻を鳴らしてみせた。
「上等だ。全員意見が一致した以上は、きっちり全員に働いてもらうぞ。気合い入れて行けよ、お前ら」
「おうっ!」
「うんっ、まっかせといてよ!」
「了解でっす!」
「承知いたしました」
「ええ、もちろんよ」
 ローグについて家を出ながらめいめい答える自分たちに、ローグはふふん、と面白がるように笑ってみせる。
「ま、いつも通りにやれば問題ない。この程度の――子供との約束を果たさせるなんぞというごく当たり前の仕事なんぞ、当たり前にこなせるぐらいのことはしてきているはずだからな」
 その言葉に仲間たちはそれぞれ、あるいは笑って肩をすくめ、あるいは笑顔で何度もうなずき、あるいは困ったように苦笑する。だが、ローグの言葉を否定する者はいなかった。おそらくは、否定や謙遜の言葉が空々しいものになるほど、自分たちはローグに鍛えられてきているからだろう。どんな敵と出会っても、どんな状況だったとしても、相手が一体になるまで二フラムを、うっかり間違って最後の一体まで消し去ってしまったとしても敵の魔物を多く倒すよりはいい、という勢いでかけさせられる、あの地獄の熟練度上げからすれば、どんな相手も力を思う存分振るえるだけ気が楽なのだから。

 運命の壁――そう呼ばれる崖は、まさに断崖絶壁というにふさわしい代物だった。見渡す限りほぼ直角の崖がえんえんと広がっており、果てが見えない。普通の崖ならば別方向から道をたどることもできただろうが、ここは周囲の山々もおそろしく険しく、その上ローグの見る限りでは運命の壁の上とは道が繋がっていないらしい。つまり、運命の壁は山並みから大きく突き出て張り出した部分で、一番登りやすいのがこの断崖絶壁という、難攻不落という言葉が似つかわしいほどの踏破難易度だったのだ。
 それを間近に見せられ、仲間たちはそれぞれ悲鳴のような声を漏らした。
「どひゃ〜!! この壁はどこまであるんだ!? 上が見えないぜ! 遠くから見てもすごかったけどよ、間近で見るとまた、とんでもねぇな!」
 ガスッ。
「最初に自分からやるなんぞと言っておいて泣き言を抜かすな、鶏頭マッチョ。そんなことが許されるのは稚い子供かか弱いご婦人だけだ」
「ってえっ! ったくこのっ、別に泣き言じゃねぇってのっ!」
「……私にはゲントの神がついています。大丈夫です」
「………。これは、すいすいとは行けそうにもないわね。頑張りましょう」
「うわーっ、ホントすっごいねぇ! こんな高いところあたし見たことないよー! これ登るとかおっもしろそー! レッツゴーゴー!」
 一人楽しげに歓声を上げ手を振り上げるバーバラに、ローグは小さく首を振った。
「悪いが今回は、ハッサンとミレーユとアモスに来てもらうつもりだ。バーバラとチャモロ、お前らは馬車から後方支援に回ってくれ」
「えぇ!? なんだー……ちょっとがっかり。まぁ前回はあたしの番だったし、仕方ないかなぁ」
「……ローグさん、このような危険な場所に女性を連れて行くのは、あまりに不見識がすぎるのではないでしょうか。ミレーユさんは強い方ですが、なよやかな女性であるのですから、このような断崖絶壁を無理やり登らせようとするなど……」
「あら、無理やりではないわよ? 私としても、ローグが望むのならばどんな危険な場所にでも向かうつもりはあるわ」
 にっこり笑ってそう答えると、チャモロは言葉に詰まって視線を揺らす。そこにローグが、くすっと笑ってみせながら軽い声音でからかいの言葉をかけた。
「それに、だ。そうは言うが、チャモロ。お前が今回ミレーユよりも自分を選ばせようとするのは、この断崖絶壁を前にして少しばかりビビってしまったから、自分はビビってなんかないぞ、と自分に示したいというのが一番の理由だろう?」
「むぐっ」
 図星を衝かれて、チャモロは目を白黒させながら口をぱくぱく開け閉めする。チャモロは普段真面目で誠実であるがゆえに、いかなる障害に際してもかくあらん、と自分を律しているため、自分の中に生まれてしまった怯懦の感情を認めたくないのだろう。そういった心の動きは、ミレーユには手に取るようにわかるし、ある程度の共感すら覚える。自身の弱さも愚かさも、自らの在りようのひとつとして受け容れられるようになるには時間がかかるものだ。どんな人間であれ、人であるならば。
「ま、なんにせよだ。今回の面子を変更するつもりはないぞ。ハッサンはパラディンになったことだし、前線で働かせなけりゃもったいない。パラディンは能力の低下がない実用的な職業だからな。アモスはそろそろパラディンをマスターするから、最後に一度起用しておきたいんだ。で、前線要員が二人、現在武闘家の俺も入れると三人になるから後衛がほしい。で、一度スーパースターのダンジョン内での使用感をつかんでおきたいから、ミレーユかバーバラ。それでバーバラは前回使ったし、スーパースターを本格的に使うのは初めてだから、できるだけ安全域を取ってより体力のあるミレーユ、と、それなりに理由もあるわけだからな」
「……はい……」
「ま、そう気を落とすな。次こういったことがあればチャモロを使う予定だし、その機会は俺が主人公≠ナある以上早晩巡ってくるだろうしな。なにより、そういう人間らしい弱さもちゃんと持っているお前のことを、俺は心底可愛いと思っているんだから問題はない」
「そ、そういう類の話を、今はしていないと思うのですがっ!」
「で、他の奴らはどうだ? 文句があるなら早いうちに言えよ」
「あるわけねぇだろ、文句なんざ。久々に前衛職で思いきり殴り合えるんだ、今から腕が鳴るってもんだぜ」
「も、も、も、もちろん私もだいじょ、大丈夫ですよ? きあ、気合十分入りまくりですよ?」
「……あの、アモスさん。ぶしつけなのは承知で申し上げますが、その……お体がひどく震えてらっしゃるように見受けられるのですが」
「こ、こ、こ、怖くないです。む、武者震いです! これはきっと!」
「きっとかよ」
「……ローグさん、本当に大丈夫でしょうか?」
「ま、不都合はないだろう。アモスはなんだかんだでいざという時には腹を据えられる奴だ。それにそもそも、いい年した男の心の機微なんぞをいちいち細かく気遣ってやるほど、俺は人生を無駄遣いする気はない」
「そ、それはさすがに言い過ぎでは……」
 そんな仲間たちのいつもの会話を聞きながら、ミレーユは運命の壁を見上げる。まさに断崖絶壁としか言いようのない、切り立った崖だ。普通なら登るだけでも命懸け、相当な熟練者でもなければあっという間に落っこちてあの世行きだろう。見たところあちらこちらに鎖が垂らされているようだが、あんな細い鎖を頼りにこんな崖を登るのは相当な腕力がなければ無理だろうし、それなりに設置されてから時間の経っているだろう鎖がちぎれたり抜けたりする可能性だってそれなりにある。
 普通に考えれば無謀としか言いようのない愚行だろう――だが、ミレーユは、そんなことが自分たちの障害にはならないことを知っていた。
 ダーマで職業を得た自分たちは、熟練度とレベルを上げることによって、既に人外の能力を手に入れている。種々の強力な呪文や特技のみならず、身体能力がもはや人としての段階を超えているのだ。腕力もその例に漏れず。ミレーユでさえも(体つきはそう変わったようには思えないのに)自身の身体を指先だけで軽く持ち上げる程度の力は持っているし、ハッサンに至っては岩石落としの特技を使わずとも岩でお手玉ができるほど。体の丈夫さも同様で、手や足を滑らせて崖から落ちたとしても、おそらく自分たちはろくに怪我も負わないだろう。
 ――それに、なにより、ローグの背負う運命が、そう簡単に自分たちを脱落させるはずがない。
 彼の背負っている力は、世界の理すらごく簡単に変えてしまう。できるはずのないことを可能にし、起こり得るはずのないことを起こす。どんな高さから落ちてもかすり傷ひとつしないように、ぼろぼろの鎖が鍛え上げられた鋼鉄のごとく丈夫になるように、それでいて『登ることができない』ところは絶対に登れないように――『運命』が目指すところから逸れないように、世界の在りようを規定し直してしまうのだ。
 なぜそんなことが起こりうるのかは、わからない。普通なら本当にありえない、異常な話なのは間違いない。けれどローグがそんな運命を背負っていることはわかるのだ。世界を変える、本来なら存在しえない力を彼は背負っていると。
 それについてローグがどんな風に思っているのか、本当にわかっているわけではないけれど――
『俺たち仲間は、信頼には足らないとでも言うつもりか?』
 彼の自分たちに向ける想いは、知っているから。自分のできる限りで、それに応えたい、とミレーユは思う。
 ……その想いが誰より強いなどと、うぬぼれる気はないけれど。
「さ、みんな。そろそろ行きましょう。バーバラ、チャモロ、馬車から援護、頼むわね」
「うんっ、まっかせといてっ!」
「お任せください。遺漏ないよう努めます」
「そうだな、行くとするか。……ピエール、俺たちが戻るまで、馬車でちゃんと待っていてくれよ?」
「はっ! お帰りをお待ちしておりますぞ! ローグ殿についてゆけぬ今の我が身を恥じ入るばかりですが、お留守は我が身に変えても守ってみせましょう!」
「馬鹿を言うな、お前の身に代えてもらってはなんにもならないだろう? お前の無事を心底祈るから、俺は馬車で待っていてくれと言ったんだぞ? いつか共に戦う時より前に、こんなところで倒れるなんてごめんだからな!」
「……ははっ! 承知仕りました! ローグ殿のような主に仕えられるとは……身に過ぎた果報、我が身命をもってお返しいたしますぞ! そりゃっ! うりゃっ!」
「もー、ピエールってば大げさなんだから―。っていうかローグのこと好きすぎだよー、あたしたちのこととか目に入ってない感じー」
「そういうことを言わないの、バーバラ。人間とスライム族では、やっぱり感覚も違うものなんだから。価値観だけじゃなく、身体や心での感じ方そのものもね。だから、今のようにまだ相手のことをよく知らないうちにどうこう言ってはいけないの。お互いの違うところを理解した上で、尊重し合わないと喧嘩になるばかりでしょう?」
「う、はーい……ごめんなさーい……」
「さすがミレーユさん、慧眼ですね。私はスライムの方々と人間との感覚の違いなど、考えたこともありませんでした」
「だよなぁ。さっすがミレーユ、頭いいぜ」
「もう、おだてないで。私は私なりに考えたことを言っているだけなんだから。自分にできることをするっていう、ごく当たり前の話よ」
 そう、自分は自分なりに、できることをする。そうミレーユはもう決めているのだ。

 地面とほぼ垂直な崖を、細い鎖一本を頼りに体を支えながら、ゆっくりと登っていく。ハッサンも子供の頃わんぱく坊主だった一人として、壁登りのやり方くらいは知っている。常に手足で三点を支えて体を安定させながら、慌てず着実に登っていく。
 鎖を頼りに、と言っても体全体を鎖で支えるような真似をしてしまっては駄目だ。手足で直接、絶壁の少しでも支えになる場所を探さなくてはいけない。手足のうち三本を体の安定に、残り一本を上へと進む新たな支点探しに使うのが基本だ。仲間全員の身体を縄で繋ぎ、誰か一人が手足を滑らせた時の支えになるようにもしておく。万一の時はローグがレンジャーの特技を使って大風を吹かせ落下速度の減少を試みる――
 などと、今の自分たちにできる限りの安全策を考えたのも当然だ。なにしろ自分たちが登ろうとしているのは、それこそてっぺんが見えないほどの高さを持つ断崖絶壁なのだから。いつ落石があるかもしれない、誰かが足を滑らせてその体重を仲間が支えられないかもしれない、そんな重圧の中少しずつ慎重に四人揃って崖登りをしていかなければならない、というのは考えるだに難事業で、何度失敗するかもしれない、それどころか魔物との戦い以外で深刻な命の危機にさらされるかもしれない、そんな覚悟を胸にハッサンは登攀に挑んだのだが。
 ――ぶっちゃけ、事態はハッサンが想像するよりもはるかにちょろかった。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、と」
「おいハッサン、お前掛け声がなけりゃ登れねぇのか」
 アモスを挟んだ後ろ(というか下)から声をかけてくるローグに、軽々と絶壁を登りながらハッサンは笑った。
「なんだよ、別にいいだろ? リズムに乗った方が楽に登れるじゃねぇか」
「お前のリズムと他の人間のリズムは違うだろがっつってんだよ。せめて聞こえないように呟きやがれ」
「……そりゃそうだな。悪かったな、アモス、ミレーユ。迷惑だったか?」
「え、別に気になりませんけど? っていうか手とか足とか滑らせて落っこちちゃったらどうしようとか考えてたら他の人の掛け声とか聞いてる余裕ないです!」
「私の方も気にしなくていいわ。そもそも私が一番後ろにつけているのだから、全体の調子から外れすぎているところがあったら、すぐに指摘させてもらうもの」
「負担をかけて悪いな、ミレーユ。だが、万一前後が同時に落っこちるなんてことがあった時に、この順番が一番ミレーユの危険が少なそうなんだ、悪いが頼む。負担になるようだったらペースメーカーの役目はすぐに俺が交代するからな」
「いえ、かまわないわ。私も山歩きには慣れているし……崖登りはさすがに初めてだけれど」
「お前ミレーユを気遣うのはいいけどよ、俺の方にもちったぁ気ぃ使いやがれ。二人とも気にならねぇってんなら別に俺が掛け声かけててもいいんだろ? 悪かったな、の一言くらい言ってもバチは当たらねぇだろうがよ」
「バチは当たらんだろうが俺の気分が減退する。というかそもそも二人は気にならなくとも俺は気になるに決まってるだろが。なんのためにわざわざ声かけたと思ってんだモヒカン筋肉」
「お前なぁ……」
「! 魔物が来たぞ!」
「グォォォオン!」
「ガァアッ!」
 ローグの声に、ハッサンも一応気配を察してはいたが、注意を前方に集中する。上空から風に乗って襲いかかってきたのはフーセンドラゴンが三匹。崖、それも断崖絶壁を登っている時に、空を自在に飛び回れるこういう魔物に襲われるなんぞというのは、はっきり言って死と同義語だ。――普通ならば。
「ふっ……!」
 ローグが呼気と共に腕を振ると、空中から怒涛のごとく火柱がなだれ落ちて右端の一匹を焼く。続いてアモスが「たぁっ!」と気合の声を上げると、空気が渦を巻いて竜巻を作り、風のひとつひとつが刃と化して三匹をまとめて斬り裂く。高位のパラディンの特技、真空波だ。
 そこにハッサンも「でぃっ!」と左手右足左足で身体を支えたまま、右手でぽんぽんぽーん、と大岩を投げてフーセンドラゴンたちを撃ち落とす。……なにを言っているんだというか、どこから大岩を持ってきたんだとかこんな体勢でどうやって魔物を撃ち落とせるほどの勢いで重い物を投げられたんだとか、いろいろ突っ込みたくなるところはあるが、できてしまうのだからしょうがない。
 理由も理屈もわからないが、できるということは否応なく理解でき、事実簡単にできてしまう。ダーマの職業ってなぁすごいもんだなぁ、とこれまで幾度も受けた感慨にしみじみと浸った。
 しかもこういう風に動かなくても可能な特技で対応したのはそれが効率よく敵を倒せるからであって、やろうと思えば全員体を繋ぎながらぽんぽんと断崖絶壁を飛び回って敵を倒す(崖に手足を突き刺したり細かな窪みを使って指一本で平衡を取ったりして)、なんてこともできてしまう。ローグの指揮に従って、さっき全員でやってみたのだ。そして本当にできた。おいおいおいと自分でも思ったのだが、ローグの言う通り、自分たちは魔物と戦う日々の中で、本当に人外の領域まで鍛え上げられているらしい。
 こんなに簡単に強くなってしまって申し訳ないな、という気がしないでもないのだが、実際そのくらいにならないと戦えない魔物もいるのだろうし、仕方がない。旅が進むにつれてどんどん魔物が強くなっているのは間違いないし、ローグと旅をする以上こんな風に促成栽培で強くなるのは必要なことなのだろう、と気にしないことにした。
「さって、先に進むか。いっそ鎖なしでこのまま壁をまっすぐ登ってったらすぐ着くんじゃねぇか? そっちの方が早ぇだろ?」
「阿呆。お前はそれでよくても、俺たちの全員が全員直接壁に指を突き立てられるほど丈夫な体と馬鹿力を持ってるわけじゃねぇだろが。よしんばお前一人の力で俺たちを吊るしていけるにしてもだ、お前のペースで引きずられていったら身体がおかしくなるわ。万一俺の顔に傷でも残ったらどうするつもりだ?」
「お前かよ! そこはミレーユを引き合いに出すべきだろ!」
「ふふ、お気遣いありがとう、ローグ、ハッサン。でもいいのよ、そんなに私に気を遣ってくれなくても」
「え、い、いや……」
「まぁとにかく、方針に変わりはない。普通に真面目に鎖を使って崖を登る。運命の壁≠ニいっても普通の山にもよくあるように、内部が洞窟で繋がっている部分もあるようだから、それは利用するがな」
「へいへい……じゃあこの鎖を登りきったらどうするつもりなんだ?」
「登り切った先の岩棚をしばらく進んで、そこから飛び降りろ。下から洞窟らしきものが見えたから、その辺りにな」
「そっちの方がよっぽど普通じゃねぇだろ! 下手しなくても死ぬわどう考えても!」
「着地はちゃんとコントロールする、問題ない。俺が特技の制御をしくじるとでも?」
「お前は―、っとにもー……」
「すいませんちょっと黙っててもらえませんか!? 私手足滑らせないようにって本気で必死なんですが!」
「あー……悪ぃ、アモス」
「それは、すまん」
 謝りながらも涼しい顔のローグをちらりと見やりながら、ハッサンは小さく苦笑する。まぁ、こいつがこんな顔をしている時は、任せてしまって問題ないだろう。本当は辛いとか苦しいとかいう時は、自分にだってちゃんとわかるのだし。

「ふう……やっと頂上にたどりついたな」
「いやー、もうあの崖はこりごりです。ここまでたどりつける気がしませんでしたよ、まったく」
「はあ……気持ちいい風。ねえ、ローグ、あそこにある大きな岩が勇気の岩かしらね」
「そのようだな。なにやらご丁寧に立て看板まで立てていることだし」
「『よくぞ来た! 勇気ある者よ! さあ、つるはしでそのかけらを手にするがよい!』ね……よし、さっそく勇気のかけらを手に入れようぜ!」
「この立て札を立てた人も、ここまで登ってきたんですよね? 偉いなあ……」
 などと話しながらも、運命の壁の頂上の大岩の前に立ち、ハッサンはえいやと黄金のつるはしを振るった。運命の壁から落ちた者たちの弔いをしていた神父さまから聞いた情報を基に探し出したこのつるはしは、硬度がおっそろしく高い上に非常に丈夫で、坑夫の仕事の心得などほとんどないハッサンたちにも、ある程度壊しやすい岩ならばしごく楽に壊すことができるのだ。
 それなりに力を入れて振るったのだが、勇気の岩とやらにはほとんどひびも入らなかった。その代わり、つるはしの先からころん、と小指の先ほどの欠片が転げ落ちる。それは形もきれいで紫水晶のごとく煌めいていて、ペンダントトップにしたらなかなか見栄えよく収まりそうな代物だった。後で簡単にそう細工をしておこうと考えながら、思わずしみじみと呟く。
「……もしかしたら、この勇気の岩ってやつも、ジョンくんの遺した想いに応えようとしてくれたのかね……」
「クリアベールから俺たちの足ですら歩いて数日はかかるここまで、ジョン少年の想いが飛んできたと?」
「だぁっ、いちいち細けぇな。いいじゃねぇか、死んだらみんな天に昇るんだから、魂だって空飛んでどこにでも行けるだろ」
「死後の魂がどこに行くのかは種々の宗教の主張含めて諸説あるが、別に悪いとは言ってねぇだろが。俺だってそう思うしな。その良し悪しは別にして」
 ハッサンは一瞬きょとんとしたが、すぐに破顔した。いつものことながら、こいつの言い草は面倒くさいったらない。
 だがそういう奴だってことを知っての上でついてきてるんだからまぁいいか、と機嫌よく笑いながら、ハッサンは仲間たちに声をかける。
「よしっ! そんじゃさっそく、勇気のかけらをジョンくんのところに持っていこうぜ!」
「そうね。早くクリアベールに戻りましょう」
「ここから帰るのに、崖を一気に飛び下りるなんていうのはやめましょうね!」
「ほう、なぜだ? 飛び下りればえっちらおっちら崖を下りていかずとも、魔物と戦うこともなく一瞬でここから脱出できるというのに?」
「ちょ、おま……本気かよ?」
「ちょーっ! それは駄目です本気で駄目です、正直言って人間の所業じゃないです!」
「ほほう、俺が人でなしだと言いたいわけか? それともこの程度の高さで特技の制御をしくじると? どちらにしても舐めてくれたものだ……」
「いやあのそういうことではなくてですね! この高さから飛び降りるとか下手したら本気で私お」
「冗談だ。リレミトを使うに決まってるだろが。どうせクリアベールまではルーラで戻るし、そのままクリアベールで泊まる予定なんだし、魔力を温存しておく意味もねぇだろ」
「な、なんだよ……脅かすなって、はぁ、ビビったぁ……」
「そうですよー、私本当にち」
 そこまで言いかけたアモスの喉笛を、ローグはがしっと片手で締め上げた。驚くハッサンとどんどん顔が青くなっていくアモスを気にも留めず、アモスの耳元に囁く。
「いっくら気安い旅の仲間だろうが、女性の前で下の話題を口にするんじゃねぇ。殺すぞ」
「あー……」
 ローグの言葉からアモスの言いかけたことをなんとなく悟り、ハッサンは思わず苦笑する。ミレーユはこちらの会話が聞こえているのかいないのか(たぶん聞こえてるんじゃねぇかなとハッサンは思った)、少し離れた場所からいつもの穏やかな笑顔で自分たちを待っているが、ミレーユが少し離れた隙にこの話をしてくるあたり、いつものことながら女性には基本的に紳士的な奴だ。
「……っておい、アモスの顔色ヤバいぞ! ちったぁ手加減しろよローグ!」
「してるだろが。女性の前で二度も口に出しちゃあならねぇことを口にしかけた奴だってのに斬り捨ててねぇって時点で、俺の底なしの慈悲に随喜の涙を流すところだぞ」
「世の中の慈悲深い人たちに手ぇついて謝りやがれ!」
 などと騒ぎながらも(ちなみにアモスはかろうじて息を止める前にローグの手から解放できた。息ができるようになったらすぐに元気になり、まったく変わらぬ様子でローグに笑いかけるあたり実際こいつも大物だ)、ハッサンたちはさっさとリレミトで脱出し、バーバラたちと合流してクリアベールへの道を急いだ。といってもルーラで数秒もかからないうちに転移できるのだが、そう言いたいくらいには自分も気が逸っていたのだ。

「うん? も、もしやこれは……あお! 間違いないっ、まぎれもなく勇気のかけらっ! しかし、ど、どうしてこれをあなたたちが……。なんと! 運命の壁に登って……。そ、そうでしたか。そんなに危険なところへ……。いや、これはなんとお礼を申し上げたらいいか。この勇気のかけらがあれば、ジョンのほしがっていた勇気のバッジを作ることができます。本当にありがとうございました。ところでみなさん。あのような険しい山から戻ったばかりで、さぞやお疲れでしょう? お礼に差し上げられるようなものはなにもありませんが、せめて泊まっていってくださいませんか?」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」
 いつも通りの優雅な外面を保ちつつ、微笑みながらそう言うローグに、バーバラも同意してうなずく。ここで断る方が失礼だし、自分だったら亡くなった子供の約束を果たしてくれた相手には、できる限りのもてなしをしたいと思うだろうからだ。
 ハリスもほっとしたように笑い、「そうですか! ではどうぞ、こちらへ」と先に立って自分たちを奥へと案内する。部屋を抜け階段を登り、おそらくは子供部屋だったろう場所まで連れてくる。
「あいにく空いているベッドは亡くなった息子のものしかなくて申し訳ありません。でも、あなた方が使ってくださるならジョンもきっと喜ぶと思います。さあ、どうぞ」
 そう言いながら扉を開け中へと自分たちを導いたハリスは、中で(子供部屋らしくあちらこちらに玩具らしきものが転がっていたが、意外なほど広々としていた。たぶんそれだけ寝たきりだったジョンに住み心地がいいように、と配慮して部屋を選んだのだろう)掃除をしていたマゴットに勇んで声をかける。
「マゴット! なあ、聞いて驚くなよ。この方たちが勇気のかけらを持ってきてくださったんだ!」
「まあ! 勇気のかけらを?」
「それで今日は泊っていってくださるようお願いしたんだよ」
「そ、そうね。もちろんごゆっくりしていただかなきゃ。ああ、本当に勇気のかけらを……」
「さあ、どうぞ。散らかってますがごゆっくりお休みください。よろしければお食事もご用意させていただきますが……」
「いえ、お気持ちだけで。お二人とも、ご夫婦水入らずで話したいこともおありでしょう。自分たちはすでに食事を済ませておりますので、どうぞお気遣いなく」
「そ、そうですか……お心遣い、感謝します。どうかこの部屋はご自由にお使いください。我々も下で休ませていただきますから……」
「本当に……本当に、ありがとうございました」
「それでは、お休みなさい」
 深々と頭を下げて部屋を出て行くハリスとマゴットに礼を返して、自分たちは安堵の息をつき顔を見合わせる。それぞれ一仕事終えた後のすっきりとした顔に、少しばかり切なげな気配が漂っていた。
「……とりあえず、約束を果たせてよかったよな」
「ハリスさんとマゴットさん、涙ぐんでたね……このあと二人でいろいろお話するんだろうね」
「少なくとも、以前よりは前向きな気持ちでお話ができると思いますよ。亡くなった方の心残りを、たとえ死後にでも解消できたことは、遺された人々の心の整理の糧となるでしょうから」
「そうですねー……ところで、この部屋にはベッドが一つしかないんですが。あの人たち、私たちのことどこで休ませるつもりだったんでしょう?」
『…………』
 思わず全員無言になる。アモスの言う通り、この部屋にはベッドが(ジョンが使っていたと思しき)ひとつしかなかった。子供のベッドにしてはかなり大きいが、当然ながら自分たち六人と一体(ピエールのことだ)が揃って休めるような規格外の大きさではない。
「女性優先でいいだろ。ミレーユとバーバラならなんとか二人一緒に寝れるはずだ」
「そうだな。それでいくか」
「え、私たちはどこで寝るんですか?」
「この部屋の広さなら全員横になるくらいのスペースはあるだろが。これまで何度も野宿してきたくせに、寝ぼけたこと抜かしてんじゃねぇ」
「えー、いやでもそりゃ野宿と比べれば楽なもんだとは思うんですけど、屋根のあるちゃんとした家の中で床にごろ寝というのはなんともいえず侘しいものが……」
「あ? まさか女性陣を押しのけてベッドを専有する気か? それとも女性陣と一緒に寝たいとでも? どっちにしても殺すぞてめぇ」
「いえいえいーえ、とんでもないっ! 単に言ってみただけですから殺さないでくださーい!」
「もー、ローグってば口悪すぎだよー。いっくら本気じゃなくたって仲間にああいう言い方されたら……」
「まぁ女性と同じ部屋で寝るとか、十分野宿とはまた別のなんともいえないいけない気持ちになっちゃいますしね! あ、なんかかぐわしい香りが……」
「……やっぱ殺してもいいかも」
「よしやるか」
「はいはいお前ら、ここ人の家だからな!? 殺人事件とか生き返れても死ぬほど迷惑だからな!?」
 などと小声でじゃれ合いつつも、自分たちはめいめいの場所で休む態勢に入る。ハリスとマゴットが自然に二人きりで話す時間を作れるように、というローグの考えで食事はすでに済ませているし、ひょうたん島でさっとお風呂にも入ってきた。あとは寝る前の身支度くらいだ。ミレーユと、それにつられてやるようになったバーバラも、宿屋やひょうたん島、ライフコッドのローグの家など、安心して休める女だけの部屋があるような場所では、寝る前にあれこれお肌のお手入れとかなんやかやをするのが習慣なのだが、たとえ街の中でも全員で雑魚寝という状態ではさすがにそんな気にはなれない。ミレーユも同じ気持ちのようで、男たちと同じように旅装姿でベッドに横になった(ひょうたん島で埃を落とし、洗いたての旅装に着替えてはいる)。
「灯りを消すぞ」
 ローグが小さく囁いて、角灯の火を吹き消す。ひょうたん島に寄ったせいでとうに日は落ちていたため、室内は黒々とした闇に支配される。運命の壁を登ってきた仲間たちは相応に疲れているようだったし、バーバラも後方支援役だったとはいえ、数日間の旅に加え運命の壁踏破の間中気を張っていたせいか、あっという間に眠りに落ちた。
 ――ふっ、と、目覚めた時のような一瞬の喪失感がバーバラを襲った。
 誰もいないジョンの部屋、今自分たちが眠っているはずの部屋で、バーバラはローグを見ている。この部屋の中にはローグ以外誰もおらず、ローグはベッドの上にいた。なのにローグは横になっておらず、ベッドの上に結跏趺坐して、なにかを待つようにじっと窓の外を見ていた。
 そして、その瞬間は訪れる。ベッドがおもむろにふわっ、と宙に浮き、部屋のテラスから外へと飛び出したのだ。部屋の中にいるはずのバーバラの視点はそれを追って窓から外に飛び出し、宙を舞い駆けるベッドの後方からローグを見つめる。
 ベッドが駆けている空間は、不思議な場所だった。虹よりさらに種々雑多な色が混じり合い、同時に煌めいているがごとき空間。見つめていると目が痛くなりそうなそこで、ローグはあくまで真剣な面持ちで前を見据えている。
 そこに、ふっと誰かが現れた。生まれてこの方外に出たことがないかのような、病的に白い肌と細い手足をしたまだ稚い男の子。ジョンだ、と数瞬遅れて気付き、仰天するバーバラを気にも留めず、ジョンは楽しげな笑顔でローグに話しかけた。
「それ、いいベッドでしょ」
「ああ」
「はじめまして。僕がジョンです」
「はじめまして。ご丁寧にどうも。俺はローグだ」
「勇気のかけら、どうもありがとう!」
「気にすることはない。君だけのためにやったわけじゃないからな」
「うん、わかってる。それでもありがとう。僕はずっとこのかけらがほしかったんだ。このかけらがあれば病気と戦えるって、世界にたった一人でも大丈夫だって思えると思ったから」
「そうか。今の君には不要なものだったかな」
「ううん、嬉しいよ。それがないとパパとママは、ずっと僕のことばっかり考えて泣きそうな顔ばっかりしてたと思うから。僕はもう、どこにでも行けるのに。どこまでだって一人で行けるのに」
「そうか。少しはお役に立てたのならなによりだ」
「お礼にそのベッドをあげるよ。僕にはもう必要ないんだ。だって自由に空を飛べるようになったんだもん」
「……そうだろうな。これからも、思う存分空の旅を楽しんでくれ」
「うん! ローグさん、本当にありがとう! さようなら……」
 そんな言葉を交わして、ジョンはすぅっと姿を消していく。え、待って、そんな消えるなんて、ハリスさんとマゴットさんだって絶対絶対ジョンくんに会いたいに決まってるのに、と慌てて手を伸ばし――
 ふいにローグが、バーバラの方を振り向いた。
 この世界では一度もバーバラのことなど気にした風も見せなかったローグと突然目が合って、少なからずバーバラはうろたえたが、ローグはまったく動揺した様子はなかった。いつもバーバラに見せる、子供をあやすような、辛い人を抱きしめる時のような、優しい優しい笑顔で、すっと自分に向けて手を伸ばし、バーバラの手を握って、自分の方へと引き込んで――
 とたん、バーバラは空を飛んでいた。
「!?!?!」
「わっ! な、なんだぁっ!?」
「! ! ! これは……!」
「……っ! きゃっ! 危なっ……!」
「あわわわわっ、世界の終わりですかっ!?」
 すぐ隣から聞こえてきた声に慌てて飛び起きかけて、平衡を崩し落っこちかけて慌ててベッドにしがみつき直す。そう、自分たちが乗っているのはベッドだった。それも尋常な大きさではない代物の。仲間たち全員が揃って横になっても十分余裕があるどころか、ファルシオンと馬車も一緒に乗っているのに狭苦しさを感じないほど大きなベッドが、ひゅんひゅんくるりくるり、と風を切り宙を舞いながら空を飛んでいる。
「わっ!! あれはなんだ!?」
「あーっ! 空飛ぶベッドだ! ベッドがまた空を飛んでるっ!」
 下から聞こえてきた声に反射的に視線を向け、バーバラは思わず目を見開く。自分たちの、ベッドの下にあるのはクリアベールの街だ。自分たちがベッド、それもおそろしく大きなサイズの代物に乗って空を飛んでいるのだ。
 当然街の人々は驚き、それでも歓声を上げて自分たち(だとは遠目なのでわからなかっただろうが)をあるいは指差しあるいは手を合わせる。中には興奮して倒れかけた老人を解放する女性もいたほどで、それでも街の人々がこぞってこのベッドを――空飛ぶベッドの復活を言祝いでいるのがわかった。
「誰が乗っとるかは知らんが、よかったのう。本当によかったのう」
 そう泣きそうな顔で喜んでいる老人を眼下に、空飛ぶベッドは空を駆け、クリアベールの街の外へと飛び、街の人からは見えないだろう程度の距離を置いて、ふわりと地面に着地した。地面の上にベッド置いちゃっていいのかな、などと場違いな感想が頭をよぎるが、見たところベッドにはまともに埃や汚れがついた気配がなく、おろしたてのシーツを使った時のような清潔感に満ちている。
 状況がまだうまく呑み込めず顔を見合わせる仲間たちの中で、ローグは一人、いつも通り涼しい顔で自分たちに向き合い、宣言した。
「さて。それじゃクリアベールの街に戻るか」
「は?」
「え……いや、いいけど、なんで? っていうか、どっちの……いやむしろここがどっち?」
「決まってるだろが」
 いつもと同じ、傲岸不遜、尊大で傲慢、偉そうなことこの上ない表情でローグはにっ、と笑ってみせる。
「俺は宣言しただろう? 空飛ぶベッドが見れることを心待ちにしているホイミスライムのために、なんとしても空飛ぶベッドを手に入れてみせる、とな」
 そのいつも通りすぎる表情に、バーバラは思わずぽかんとして、それから声を上げて笑ってしまった。別に空飛ぶベッドが手に入ったのはホイミスライムのおかげじゃないだろうに、とか自分のおかげで空飛ぶベッドが手に入ったみたいで偉そう、とか思うところもあったが、そういうところも込みで、いつも通りに笑ってみせるローグがなんだか妙に可愛く思えたからだ。
 
「ジョンくんにありがとうって気持ちだね!」
「ベッドに乗って空を飛ぶなんて、今まで夢にもみたことがありませんでした!」
「空飛ぶベッド、いいものを手に入れたな!」
「私たちの方が素敵なプレゼントをもらっちゃったわね」
「ベッドの飛ぶ高さを見ると、高い木や山のある所を越えるのは無理のようです。でもそのまま川や海にも出れますから、行ける場所が広がりましたね!」
 自分たち一行は、そんな言葉を交わしながら空を飛んでいた。地面の上からなら見上げるほどの高さを、全員一度に巨大なベッドに乗って、だ。しかもファルシオンと馬車も一緒に乗って充分余裕があるというのだから、このベッドの大きさのほどは言わずもがなだろう。
 しかも馬車と馬も一緒に乗っているというのに、ベッドにはまるで汚れた様子がない。自分たちも靴を履いたまま乗っているし、街に入る時などには外に放置せねばならない以上、埃や汚れは否応なく堆積するはずなのにだ。寝たきりの子供に少しでも心地よい環境を作るべく常に清潔なシーツを使う親心のごとく清らかな印象を崩さない、それだけでもこのベッドがどれだけ不思議なものか知れる。
 本当に、この空飛ぶベッドは不思議なことこの上ない代物だった。ローグが言うには『ジョンの夢がこの夢の世界で形を成したものだろう』だそうなので、夢の世界の力によって生まれた産物なのは間違いないだろうし、いくら不思議なものでもおかしくない、といえばそうなのだが。
 ただ正直、夢の世界というものの性質には、いまだにチャモロには理解しがたいところが多々あるのも確かだった。夢の世界は人の願いや想いが実現する世界、そのように思えるところもあるのだが、願いが実現する人としない人の違いはどこにあるのかは判然としない。カルカドの例のように夢の世界で殺されて現実の世界でも亡くなってしまうという人たちもいるのだから、どんな切実な願いでも聞き届けられるわけではない、というのは確かなはずだ。
 それにカルカドといえば水不足に苦しまされ絶望に侵されていた人々の印象が強いが、夢の世界では願いが実現するというのなら、なぜそんな苦痛を味わわされるばかりの人々が存在するのか。下の世界と上の世界にある数多の街の中で、どちらにもあるものとどちらにしかないものの違いはどこにあるのか。チャモロはどの疑問にも、まだ答えを見つけることができていない。
 だが、それでも、こうしてベッドで空を翔けるのはたまらなく心地いい。風を切って空を舞うのは、たとえ高屋程度の高さであろうとも爽やかで涼やかだ。これが夢の世界でなければ在り得ない代物だというのなら、夢の世界に感謝したい気持ちさえ生まれてしまうのも確かだった(むろん、グランマーズの言からしても、夢の世界が存在≠オてしまうというのはあってはならないことだそうだし、原因が魔物にあるというのならなおのこと、とすぐに自分を諫めているのだが)。
「考えてみれば、いろいろな乗り物が増えてきましたね。神の船はもちろん、浮かぶ島……空飛ぶベッド……まだ他にも出会うでしょうかね」
 心地よい気分を打ち消せぬまま、そんなことを言ってしまうチャモロの横でも、空飛ぶベッドにしがみつきながらふわふわと浮く、という不思議な体勢で空飛ぶベッドを堪能している者がいる。
「フワフワ。空飛ぶベッド、気持ちいいなぁ〜!」
 夢の世界のクリアベールの街にいたホイミスライムのホイミンは、ローグの思惑通り、空飛ぶベッドにつられてあっさり仲間になってくれた。ピエール同様ダーマ神殿て転職し、基本的に馬車の中で職業の熟練度を上げている。
 今の職業は魔法使いだが、それでも生来の能力として高い回復呪文の素質を持っているようで、わずかな戦いの中でも強力な回復呪文を覚えていっている。ピエールと異なり姿も顔貌も、スライム特有の特徴的な姿そのものなせいか、ローグは彼(なのか彼女なのかはよくわからない)を非常に可愛がっていた。
「そうかそうか、よかったな。よーしよしよしよしよしよーし」
「ん? なーに? そろそろホイミ使う?」
「いや、まだ大丈夫だ。それよりもう少しでいいからこのまま撫でさせてくれ」
「ん〜、いいよー。撫でるくらいならー」
「そうかそうか、ホイミン、お前はいい子だな。よしよしよしよしよしよしよーし」
「……ちょっとー、ローグ、いくらなんでもホイミン猫可愛がりしすぎじゃない? ひいきがあからさますぎてホイミンにとってもよくないと思うんだけど……」
「ほう、バーバラ。妬いてくれるのか?」
「は……はぁっ!? んなわけないじゃんなに言ってんの!? もーっ、自意識過剰すぎ! あたしはただそんな風に片っぽだけひいきされたらちょっと前に入った同じスライムのピエールが複雑な気持ちになるんじゃないかって……あっ」
「……………」
「バーバラ……言ってはならないことを言ってしまったな。そんな風に真正面からきっぱりと真実を告げるとは、さすがの強心臓だ」
「いやお前が言うなよ」
「ごごごっ、ごめんピエールっ! あたしはその、なんていうか、はたから見てても不公平で可哀想だなって思っただけで……」
「……………………」
「バーバラ。そこまで追い打ちをかけなくてもよくないか? お前のどSな一面を新たに知れたというのはそれなりに価値がある気がしないでもないが……」
「どえすってなに!? なに言ってんのかわかんないけどそんなんじゃないから! もーっ、ごめんってばピエールーっ、人のいない方見てしゅんとしないでよーっ」
「やれやれ。……ピエール。手を」
「は……、っ!?」
 ローグはピエールの手を取って、自分の胸に置いたもう片方の手の上に重ねさせた。古くは家臣が王に対する忠誠を示す仕草(掌を内側に向ける、手の甲への接吻など)に応える仕草が自身の胸に手を当てる、というものだったと聞くが、とわずかに首を傾げたチャモロをよそに、ローグは低く、落ち着いた、優しい声でピエールに語りかける。
「俺は今、俺の心臓を護る手に、お前の手を重ねさせた。この意味がわかるな」
「………はっ………!」
「ならばいい。俺にとってお前は今のところ、ただ一人の騎士なんだぞ。よそ見をせずに胸を張っていろ」
「ははっ……!」
 ピエールは深々と頭を下げてから、突然元気になって「そりゃっ! うりゃっ!」と騎乗しているスライムと一緒にぴょんぴょん飛び跳ねながら剣を振り回し始めた。体の小さいスライムナイトのやることなので、馬が馬車ごと乗っても余裕のある空飛ぶベッドではそれほど邪魔にもならないが、人間の男がこれをやったら普通に危なかっただろう。体格的には子供同然のピエールに、この状況で注意すべきかどうか即断できず、チャモロは小さく苦笑してから、ローグのもとへとベッドの上をいざり寄って囁いた。
「ローグさん。私にはよくわからなかったのですが、先ほどの仕草にはどういう意味があったのです?」
「別に大した意味じゃない。忠誠を誓う騎士に対して、王が『私はお前に命を預けている』という信頼を示す仕草ってだけだ。王が心臓を護っている手に騎士の手を重ね合わせるというのは、自身の身を護る手をその騎士に預けてもいいと考えているのみならず、自身の心臓を騎士にさらけ出しても不安を抱いていない、ということの表れとも取れるだろう? その程度のことだ」
「それは充分大した意味のような気がするのですが……なるほど。そういった意味があったのですね。それならばピエールがはしゃぐのも無理はないでしょう」
「………ふむ」
 ローグはわずかに首を傾げてから、すっと顔を近づけてきた。驚いてチャモロが反射的に身を引こうとするよりも早く耳元に口を寄せ、囁く。
「それは、『自分もあなたにはしゃぐようなことを言ってほしい』というおねだりか?」
「………っ、いえっ、そのようなつもりではっ!」
「冗談だ。ただ、今回の、空飛ぶベッドはなんだかんだでわりとお前にとっても嬉しい驚きだったようだからな。パーティのリーダーとしては、さらにお前のツボをついて、はしゃがずにはいられないような気持ちにさせてやりたいとは思っているが」
「いえあの、私をはしゃがせてローグさんにいったいどのような得が……」
 力なく問うたチャモロに、ローグはしれっと笑顔を浮かべてみせながら答える。
「そんなもの、お前が可愛いところを見せるのが俺の心を慰めるからに決まっているだろう。世界の主たる主人公≠ニいうのは、なんだかんだで気苦労が多い立場だからな」
「……そうですか……」
 どこまで本気で言っているのかまったくわからない顔だ、とチャモロは思わず嘆息する。故郷であるゲントの村でならば、相手がどんな想いを抱いているかなどということは少し相対するだけでだいたいわかってしまったものだが、ローグに対してはこれだけ一緒にいてもまるでそういった経験ができていない。
 まぁローグと比べればたいていの人間は純真無垢だろうけれども、などと考えてしまいつつ(不届きな思考なのは自覚しているので、同時に神に懺悔の祈りを捧げた)、チャモロはローグに笑みを向ける。
「ローグさんの心の慰めになるのでしたら、なによりです」
 その言葉にローグはちょっと驚いた顔をしてから、苦笑する。
「まったく……チャモロ、お前はどこまで俺に可愛さをアピールする気だ? そんな顔でそんな台詞を吐くとは、俺に寝床に忍んできてくれと言っているようなものだぞ」
「は!? いや私はそんな台詞は一言も言っていないと思うのですが!?」
「なにを想像している? 俺は単にお前を猫可愛がりしろと言われている気がする、と言っただけだが。猫を可愛がるのはベッドでごろごろしながらが一番楽しいだろう?」
「な、そ、それはっ、ですがっ」
「ああ今もベッドの上ではあるな。よし、ならばひとつここはご期待に応えるとするか」
「いえあの私はそのそういうことを申し上げているのではなくーっ!」
「おいローグ、なにチャモロいじめてんだよ? チャモロは世間知らずなんだからちゃんと労わってやれよな」
「貴様に言われるまでもないわモヒカンマッチョ。労わりつつも少しばかり意地悪をするのがそういう純情な奴を可愛がる時のマナーだろが」
「どこのマナーだそりゃ」
「俺のマナーに決まってるだろが。なにか問題が?」
「なにかもなにもどこもかしこも問題だろそりゃ」
 ぽんぽんと言葉をぶつけ合うローグとハッサンをよそに、チャモロはベッドの外に視線を向けて神へと祈りを捧げ始めた。ローグと渡り合うのに足りない、自分の未熟さ、器の足りなさに懺悔を捧げつつ、ローグのこういった性格をこのまま放置してよいのだろうか、と神に問いかけるいつもの祈りだ。
 当然ながら神が直接答えを返してくれるわけはないのだけれど、祈りはどんな時にでも心を鎮めてくれる避難所にして護りの塔であるし、習慣として自分の身に馴染んだ重要な行為であるし――それにこうやってそっぽを向いて祈りを捧げていれば、熱くなった頬が冷めるくらいの時間は与えてもらえるから。
 ちらりと一瞬頭によぎったそんな想いに、チャモロは自分の頭をぽかぽか叩きたくなるような気恥しさを覚えつつ、さらに真摯に祈りを捧げる。本当に、自分は、まだまだどうしようもない未熟者だ。

「うん? お客さんか……。あんた、アモールって街には行ったことあるかい? なんでもその街の南にある井戸から幻の大地に行けるって話だ。そんなものが本当にあるのかどうかは知らねえけどよ」
「幻の大地か……。とりあえずこの男も存在だけは知ってるようだな」
「アモールの南の井戸ね。今度はどこに繋がっているのかしら」

「俺は伝説の武具のひとつ、スフィーダの盾を探して旅をしている者だ。しかし、もう駄目かもしれぬ。まず北へ。つきあたりを東に。一つ目の十字路を北へ進み、西の十字路を南に進むべし。などという言い伝えだけではまるで雲をつかむような話で……もうあきらめようかと思っているのだ」
「きっと今のはルートを示した暗号ね。覚えておきましょ」
「うう……。スフィーダの盾は欲しいが、ややこしそうだぜ……」
「北だ東だって言ったって、そもそもどこでそう歩くのかわからないよね」
「まず北へ。つきあたりを東に。一つ目の十字路を北へ進み、西の十字路を南へ進むべし。覚えましたか?」

「ふぉっふぉっふぉっ。ここはすれ違いの館じゃ。道に迷いなされたかな?」
「いえ……強いていえば、新たな道を探してここを訪れた、と言うべきでしょうね」
「ならば、夢告白に来たのかな。おぬしも好きじゃのう」
「夢告白? おばあちゃんがやってる夢占いとは違うもののようね」

「ずいぶん長いこと放置されているようですね」
「なんだ? ここはいったい……」
「薄気味悪いところだわね……」
「どうやら牢屋のようね」
「う、後ろに誰かいませんよね……?」
「……もう骨になっているな。これ以外には人の痕跡らしきものはない。いや、人の身体の、と言うべきか」
「死んでからだいぶ時間が経っているようですね」
「魔物に襲われた様子はないみたいだよ」
「この人は牢屋の番人だったのかしら」
「急に起き上ったりしないでしょうね!?」

「俺は伝説の武具を探して旅をしている。その一つがどこかの洞窟にあると聞きここまでやってきたが……。どうやらこの洞窟ではなかったようだな」
「どこかの洞窟か……。いったいどこなんだろうな」
「あたしたちも負けずに探さなきゃ!」
「洞窟といっても、この世界に洞窟は山ほどありますからねえ。あ……洞窟だから山ほど、とは言わないですかね」

「ほう、こんなところにお客さんとは珍しいのう。よし、いいことを教えてやろう。世界中に散らばっている伝説の四つの武具を集めた者は、神の城にゆけるという話じゃ」
「伝説の武具が、神の城への道を開くか……」
「伝説の武具が扉の鍵にでもなっているのでしょうか」
「あたしたちなら、きっと全部集めちゃうよね!」

「ようこそ占いの館に。道にお迷いですか?」
「いえ……ですが、できれば道行を導く光はほしいと思っています」
「では、占ってしんぜましょう。なんと! 島ごと海に飲まれる街の人々の姿が見えます。こ、これはもしや、その昔海に沈んだと言われる伝説の魔法都市、カルベローナの姿では……? こんな物が見えるなんて、あなたたちはいったい……」
「私たちを通してその光景が見えたということは、なにか深い意味が……?」
「私たちは、ごくごく普通の旅人ですよね!」
「なんだか不吉なものが見えちまったって言い方だな。……? バーバラ、どうした。大丈夫か?」
「うう……うん、大丈夫……。ただ、なんだか……なんだか、頭が痛いよ……」
「……無理をするな、バーバラ。とりあえず休め。運んでやるからベッドの上で寝ていろ、冷たいものでも出してやるから」
「うう……ちょ! ちょっとぉっ、運ぶってなんでそーいう運び方……!」
「ん? 女の子を運ぶ時に姫抱きするのは普通だろが。敵が近くにいるってわけでもなし。それとも俺が女の子の体を支えられるくらいの腕力と甲斐性も持ち合わせていないとでも?」
「そっそっそーいうこと言ってんじゃなくてぇ! もーっ、自分で歩くからローグ放してよぉっ!」
「そうか。役得を逃したな」
「も……もーっ!!」

「すっごい山の中の村だね。びっくりだよー」
「空飛ぶベッドがなかったら、きっとこんなところまで来られなかったわね」
「ホルコッタの村が都会に思えますね」
「こりゃあまた……確かに、すごい田舎だな。でも俺は好きだぜ」
「みなさん、足元にはくれぐれもご注意を! こういう村ですからね! ……でも本当にすごい田舎ですねー。言葉通じますかね?」
「(がづっ)貴様そういう失礼なことを村の人にほざいたら殺すぞ」
「おうち、おうち! いやそういうことは手を出す前に言ってくださいよー!」
「それじゃ追っつかん勢いでお前が失言をかます奴だと知ってるからだろが。獣の調教と同じだ」
「あっ! ローグさんもしかして、私が魔物に変身できるからって動物扱いしてます!?」
「阿呆、そんなわけがあるか。単にアモス扱いをしてるだけだ」
「そうなんですか! それなら安心……していいんですかね? どう思いますハッサンさん」
「俺に聞くなよ」

「おや、こんな山奥によく来たね。ここはザクソンの村だよ」
「先祖代々ここに住んでるって感じだね!」
「普段よそから人が来そうにもありませんね」

「エンデじいさんの作った防具が高く売れたおかげでこんなに立派な畑ができたんだよ。けどエンデじいさんはいなくなっちまって……。たった一人残されたばあさんをああやって守ってる犬のシルバーがふびんでねえ……」
「そういえば、扉の前にワンちゃんがいるおうちがあるわね」
「いなくなったのは、どこかで魔物にやられたのか、行方不明なのかどっちなんだ?」
「エンデじいさんの防具かあ。どんな防具なんだろうね」

「おや、旅の方だね。おおかたクラーク・エンデの噂を聞いて来たんじゃろう。じゃが、もうエンデはおらんぞい。五年ほど前突然姿を消してのう。ずいぶん腕のいい防具職人じゃったが、いったいなにがあったんじゃろか……」
「へえ、エンデさんってそんなに有名なんだー」
「噂は知りませんでしたよね……」
「どんなすばらしい防具を作られるのか、見てみたかったわね」
「しまった! 五年前に来るんでしたね!」

「オラ見ただよ。けんど誰もオラの言うことを信じてくれないだよ。あんたらはオラのことを信じてくれるか?」
「そうですね……疑問を持った時はあれこれお訊ねするかもしれませんが、少なくとも頭から『そんなわけはない』と決めつけて信じないようなことは、絶対にしないと誓えます」
「そうか。そんなら話してやるべ。あの晩、エンデじいさんはずいぶんと落ち込んどった。わしがいくら防具を作っても、魔物に殺されてしまう人が後を絶たない……。わしのやってることに意味があるんじゃろうか……って本当に落ち込んでおったべ。もう消えてしまうくらいに落ち込んどってな……。その時だべよっ! 本当にエンデじいさんの姿が消えてしまったんだべよ! 嘘じゃねえべよ!」
『…………』
「消えた……!? 魔法でもあるまいしどういうことだ?」
「この方のいる目の前で、パッと消えた、ということでしょうか……?」
「なにか秘密がありそうね……正直、あまり簡単にわかりそうな秘密でもないけれど……」
「……そうだな。エンデじいさんとやらがいなくなったのも五年も前のことだ、今日明日中に突き止めなけりゃならないってほどの緊急性もないだろう。腕のいい防具職人という素性からしても、姿を消した原因……人為的なものか自然的なものかもわからんが、ともかくそれにとって最重要確保対象だ、という可能性もそこまで高くない」
「え? ど……どういう意味?」
「こういった事態がエンデじいさん一人のことかどうか、という話だ。エンデじいさんだけの話だとすると、最悪でも人的被害は一人。それもお年を召したご老人だ。その命の重みを軽んじるわけじゃないが、なにをおいても最優先で助けなけりゃならん、という存在じゃない。俺にとってはな」
「ええー! そんなのおじいさんがかわいそうじゃ……」
「もちろん助けられる目算が立ってるなら労を惜しむ気はないが、この場合どこをどうすればじいさんを助けられるのかさっぱりわからんってところが問題だ。腰を据えて取り組むなら相当の時間をかけなけりゃならんだろうし、ムドー級の魔物がまだ存在することがほぼ確定している現在、この件にばかりかかずらっていたせいで、他の場所でさらに大規模な取り返しのつかない被害が出る、という結果に陥るというパターンが怖い」
「う……それは、確かに……」
「しかもそれだけ時間をかけてエンデじいさんが姿を消した理由をつかめたとしても、今の俺たちにはどうにもできない場所に連れ去られてていたり、あるいはすでにもう亡くなっていたり、という可能性もかなりあるんだ。なにせ五年も前のことだからな。だから俺としては、今日一日きっちりこの村で調査をして、それで駄目だったらこの件については保留、ということにしたいんだが」
「んー……うーん……そっかぁ……仕方ないのかなぁ、それでも……」
「……俺はそれがいいと思うぜ。正直今すぐ助けてやれねぇっていうのは悔しいけどよ、ローグの言うことも正論だし。それに、案外旅を続けていく中で、ころっとエンデじいさんの居場所がわかったり、助けに行けたりする可能性だってあると思うしな」
「あ、そうかっ! そうだね、旅の途中でころっと見つかる可能性だってあるんだもんね!」

「この村には神父さまもいねえし、病人はみんなバタバタと死んでいっただよ。けんど、マザー・ヘレンが来てくれてからは病人も元気になって……もっと早く来てくださってればエンデじいさんもあんなことにはならんかったかもな」
「マザー・ヘレンは今では神父さまの代わりをなさっているのですね」
「マザー・ヘレンさんは病気を治す魔法でも使えるのでしょうかね」
「ヘレンさんってどんな人なのかしら。会ってみたいわね!」

「あたし、旅の尼よ。でも、もう旅に出ることないね。あたしここ来た時、みんなホントにしょんぼり。元気全然なかったね。だからあたし、面白いことを言ってみんなを笑わせてあげたね。そしたらみんな、少しずつ元気出たよ。お前もあたしの面白いこと聞くか?」
「……そうですね。少しでけっこうですので、お聞かせ願えますか?」
「じゃあ言うよ。この盾変よ。立てへんから。魔王はまあ、大きい。教会に行くのは今日かい? あははっ、自分で言っててもおかしくて笑ってしまうよ」
『…………』
「ククク……クス……アッハッハ! ヘレンさんは、面白くて素敵な女性ですね!」
「うくっ……。やばい……腹が痛いぜ……うくくくっ……!」
「わっはっは! 布団が吹っ飛んだ、くらい面白いネタですね!」
「えーっと……それじゃ、あたしも! この剣は誰のじゃ? 賢者! 月鏡の塔は高かっタワー! あははは! 自分で言っててもおかしいよー!」

「マザー・ヘレンのお話って、あまりにくだらなさすぎて笑っちゃうの。くだらないけど一生懸命で、その気持ちに打たれて元気が出たって……うちの父ちゃんは言ってたよ」
「お話というよりも、ヘレンさんの気持ちが嬉しいのよね」
「私も心を打たれました!」
「元気が出るっていうか、笑いすぎて疲れたぜ。うぷぷぷっ!!」
「あの一生懸命のくだらなさは、いったいどこから来るのでしょうね……」

 村から村へ、街から街へ。自分たちと、ローグの旅は続く。
 普通に歩くよりはるかに速く、背の高い山や森でなければどんな場所でも飛べる、空飛ぶベッドを手に入れたことで自分たちの移動範囲は一気に広がった。海の上を船よりはるかに速く、魔物たちもちょっかいをかけようのないほどの速度ですっ飛んで、新たな大陸、新たな島を次から次へと見つけていく。
 時には北へ、時には南へ、時には東へ、時には西へ。方々へ飛んではそこで見つけた建造物や建物の中を探り、時には人と出会い時には魔物の群れと相対する。時には残っているのは屍のみという状況に出くわす時もあるし、時には今までまるで聞いたことのない山奥の村を見つけることもある。
 そんなことを続けていくうちに、もはや自分たちは上の世界――夢が形になった世界の地図を、ほとんど塗りつぶすことができるようになっていた。上の世界は思ったよりはるかに村や町が少なかったせいで、ルーラを駆使してもたどり着くまで時間のかかる地域というのがかなり広範囲になってしまっていたが、それでも上の世界の隅々までも、探索の手を進め得るべきものを得ている。いくつかまだ探索の余地があるところもあるが、ほとんどを探索しつくした、と言ってもさして過言ではないだろう。
 それでもまだまだ旅は続いている――今のところは。『すれ違いの館』という不思議な代物(別世界の旅人が訪れる館など初めて聞いたし、そもそも別世界とはなにか、夢の世界とどう関わっているのか、など疑問点は尽きないのだが、館に住まう人々の話を聞いていると、なんとなく納得したような気分になってしまうという不思議にもほどがある代物なのだ。ローグとしては『実体が分からない以上、敵対する意思を見せない限り放置』という方針らしいのだが)を見つけたり、伝説の武具という存在の情報を手に入れたり(ダーマ神殿で聞いた、ラミアスの剣ともかかわりがあるかもしれないと仲間たちの考えが一致した)、とミレーユがこれまで考えもしなかった存在との邂逅もしばしばある。
 だが、それよりもミレーユは、『地図をそんなに簡単に塗りつぶせてしまう』ということ自体に驚きと、小さな恐怖を感じてしまったのだ。下の世界のことではあるが、自分は故郷から脱出し、出会うべき者たちと――レイドックの王子ローグィディオヌスと出会うまで、ずっとずっと、人生のほとんどとすら感じられるほどの長い時間、旅を続けてきた。今自分たちがやっているように、村から村へ、街から街へ。
 その多くは旅芸人や行商人の使う馬車に同行させてもらいながらの旅路だったが、そうしてできる限り旅を急ぎ、少しでも広く少しでも早くと考えながらも、自分は世界の半ばすら巡ることができなかった。自分にとって世界は、ひたすらに広く、行く手を遮る壁も分厚いものだったのだ。
 けれど、ローグは、そんな世界をごくあっさりと踏破することができてしまっている。完全にとは言えないまでも、旅に出てからまだ一年も経たないうちに、世界のほとんどを未知から既知へと変えてしまえるのだ。それはミレーユにとって、恐ろしいほどの運命を、世界を変える力だった。人ではありえないと思うほどに。自らを主人公≠ニ嘯く態度がまぎれもない真実だと、むしろ実際のところを軽く表現したものでしかないと思い知らされるほどに。
 ――けれど、その存在に恐ろしさすら、そして同時に哀しみをも感じながらも、ミレーユはローグから目を逸らす気にはなれなかった。
「だいぶ魔物の癖なんかを覚えてきて、戦いがうまくこなせるようになりましたよ。自分で言うのもなんですが、今ならムドーの一人や二人指先でピュンピュンですね!」
「いや、お前ムドーと戦ったことねぇだろうが。まぁしかし、確かに俺たち、もうだいぶ強くなっているはずだよなって気はするよな。実際の話、今もう一度ムドーと戦ったら、あっという間に倒しちまうんじゃないか?」
「いい気になるな筋肉ダルマ。確かにあの時のムドーと戦ったなら楽勝で勝てる公算が高いのは確かだが、まともな頭がありゃ一度負けた相手に真正面から似たような戦力をぶつけるなんぞという馬鹿な真似はしねぇだろが。裏で糸を引いているのがどんな奴にしろ、これから俺たちと出会うムドーと同じ範疇の強敵は、ムドーよりもはるかに高い戦力を保持して、あるいはそれなりに作戦を立てて向かってくるはずだ。侮ったまま戦えば不覚を取る可能性もあるぞ。……ま、俺がいる限りそんな真似はさせないし、どんな代物が出てきても楽勝できるような状況を作る自信があるのも確かだがな」
「もー、ローグってばいつものことだけど自信過剰すぎ! それこそいい気になってんじゃん」
「明確な事実を基に正確な予測をしているだけだ。なにか問題が?」
「もー……本当に、そーいう風にいっつも偉そうな態度取ってぇ……いつか大失敗しても知らないからね? あ、それはそれとしてさ。ねえねえ、ローグ〜。今度でいいからあたし、軽くて強い防具が欲しいの。あ、それから色はできたらピンク系がいいんだけどなー」
「……ピンク系ときたか。しれっとなかなか難しい注文をつけてくるな……できる限り努力はさせてもらうが」
「ははっ、おいローグ、いっつも甘やかしたい奴を相手の気持ち無視して甘やかしまくるからそういうことになるんだぜ? そりゃ普段ああいう態度取られてたら相手もそのつもりで注文つけたりしちまうだろうよ。なぁ、チャモロ」
「ハッ! トリャーッ!!」
『!?』
「……あ、これは失礼! 次の戦いに備えてイメージトレーニングをしていました」
「い、いめーじとれーにんぐね……いきなりだからビビったぜ。チャモロって普段めちゃくちゃ真面目だからよ、ちょっとはしゃいだとこ見せるだけでびっくりしちまうな」
「え……私、はしゃいだところなどをいつお見せしてしまったのでしょうか!?」
「そこかよ。お前もうちょい肩の力抜いて生きようぜ、真剣な話」
「あはは……あれ、ミレーユ。なんかにこにこしてるけど、どうかしたの?」
「え?」
 バーバラにきょとんと首を傾げられて、初めて自分が笑みを浮かべているのを自覚する。それに正直羞恥を覚えながらも、ミレーユはこちらに視線を向けている仲間たちに、にっこりと微笑んで見せた。
 空飛ぶベッドの上ではしゃぐ仲間たち。馬車を引いたまま、悠然とベッドの上で立つファルシオン。ベッドの下を見る間に駆け過ぎ行く数多の景色。これからまだ長い間続くであろう旅路。それを自分が素直に楽しめていることは、喜びをもってそれらを見つめるようになっていることは、ミレーユ自身とうに自覚していたのだから。
「ああ……ただ、風が気持ちいいわ、って思っていただけよ」
「あー、そうだよね、空飛ぶベッドの移動は風が気持ちいいよね!」
「ええ。でも、馬車で移動している時も、また違った心地よさはあると思うわ。言ってしまえば、どの土地でも、魔物さえいなければ素敵な旅なんだけどね」
「ああ、確かになー。けどまぁ、魔物がうじゃうじゃ湧いて出てきてるから俺らの旅が始まったところもあるし、そこはいっちょ頑張るしかねぇだろ」
「ですねー。あ、そういえば……」
「アモス、お前なぁ……」
「ちょ、ローグさんっ……」
「あはは、もう、二人とも……」
 数えきれぬほど交わされる言葉。想い。積み重ねられる経験。思い出。数多の出会いと数多の戦いが、体と心と魂に刻まれながら過ぎてゆく。
 それを自分はきっと、あえて言葉で表すならば、かけがえのないもの≠ニ思っているのだろう。これまでの人生で、どんな道行きでも、どんな人との旅でも、思わなかったことだ――だから、そこから目を逸らすなんてもったいないことはしたくないのだと、自分の心の動きを読み解きながら、ミレーユはローグとそっと笑みを交わした。視線がぶつかった時にローグの方から微笑みかけてきて、それに笑みを返しただけだけれども、そんなことも自分にとってはきっと、これまでの人生で経験のなかったかけがえのないもの≠フひとつなのだと、ミレーユは微笑むのだ。
 ――旅は、まだまだ続く。

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