客夢〜ハッサン・3
「うん……? なんか、今、人の声が聞こえたような気がするけど……」
 男は完全に独り言の語調で呟いて、きょろきょろと前後左右を見回し、やはり独り言の語調で肩をすくめつつ呟く。
「誰もいないよなあ。気のせいか……」
 その男の耳元に、さっきから大声で話しかけていたハッサンは、やれやれ、と息をついた。
「やっぱり、俺たちの姿は見えていないようだな……」
「というか、存在そのものがほとんど認識されないってのが正しいな。声も匂いも、それどころか触ってがくがく揺らしてみても、ほとんどの人間は気づかないし、俺たちがいることなんて考えもしない」
「……やたら実感こもってんじゃねーか」
「言っただろうが。体験済みだって」
「あー、そーだったなー……」
 はぁ、と息をつき、ハッサンは改めて周囲を見回す。潮風に乗って街中に海の匂いが運ばれる港町。街の門にはサンマリーノ≠ニ街の名前が記してあった。
 商業やらなにやらが盛んなのだろう、街の規模はかなりに広く、街の中央には様々な店が軒を連ねる巨大な煉瓦造りの市場がそびえている。その右には腕のいい職人たちが集まって工房を構える職人通りがあり、左側には住宅街。住宅街は左――南に行けば行くほど高級なものになっていき、最南端には町長の住む邸宅が大きく面積を取っている。
 そんなにぎやかだけれどどこか懐かしい港町の中で、ハッサンとローグは二人、透明人間の役を演じさせられていた。
 いや、完全に透明というわけではない。自分たち二人同士ならば、透けてはいるもののきちんと輪郭や色味は見て取れるのだが、それでもどこか薄ぼんやりとしているし、他の人間にはまるっきり見られていないようなのだ。それどころか声を出しても触ってみても、自分たちがいることにまるで気づいてもらえない。
 正直、こんなことになるなんて想像もしていなかったのだが、ローグは自分たちがこうなると――あの穴から飛び降りればこうなるとわかっていたらしい。なんでもこの穴の下の世界――幻の大地、と呼ばれているそうなのだが、そこでは自分たち上の世界の人間はこういうように透明人間と化してしまうらしいのだ。こちらの世界では廃墟として残っていた、ダーマ神殿でもそうだった。
 それなのに魔物はきっちり襲ってくるというのがなんとも不公平な感じなのだが、こんなことになるなど想像もしていなかったハッサンとしては、これからどうすればいいか正直途方に暮れていた。人から話も聞けないし、この世界がどういう代物なのかもわからない。そんな中で、どう動けばいいものかさっぱりわからなかったのだ。
 が、ローグはいつものように平然とした顔で、あっさり言ってのける。
「んなしょーもねぇこといちいち気にするなんぞ時間と精神力の無駄だぞ」
「む、無駄ってな、実際この先どう動きゃいいかわかんねーだろーが。お前だってこの世界がどーいうもんなのかとか、わかんねーんだろ?」
「だから?」
「だ、だから、って……」
「だからって俺たちのやることがなにか変わるか? 俺たちはレイドック王にラーの鏡を探せと命ぜられて、ここまでやってきた。それならここでもラーの鏡を探して、レイドック王に献上することを第一目的として考えるのは当然だろが」
「………まぁ、それもそっか」
 堂々と言い切られ、ハッサンはぽりぽりと頭を掻きつつもうなずいた。確かに、自分たちの目的はラーの鏡を探すことだ。ラーの鏡を見つけることが、世界征服をもくろ(んでいるのかどうか詳しいことは知らないのだが、魔王っていうくらいだし、こいつが現れた頃から魔物が凶暴化し始めたのだからそのくらいのことはするつもりなんだろう)む魔王ムドーを倒すために絶対に必要だそうなのだから、それに全力を注ぐのは当たり前だろう。上の世界で存在を教えられたラーの鏡が、こっちの世界にあるかどうかははなはだ怪しい気がするのだが、上の世界でもどこを探してもなかったというし、もしかしたらこっちの世界の方にあったりするのかもしれない。
「けど、透明なまんまじゃやっぱりやりにくいぜ。人から話も聞けねえしさ。まぁ、これはこれでちょっと面白ぇとこもあるけど……」
「阿呆。悪いが俺は主人公≠ネんでな、そのくらいの障害なんぞ障害のうちに入らねぇんだよ。俺がこの街をうろついてりゃあ、事態の方が勝手に転がってくるさ」
「……ぷはっ、お前いつもながらすげぇ自意識過剰っぷりだなぁ!」
「過剰じゃねぇ、相応だ」
 当然のような顔をしてふんと胸を張るローグに、ハッサンはくっくっと笑い声を立てながらばんばんと肩を叩く。手は即座に叩き落とされたが、特に気にはならなかった。愉快な気持ちのまま、にやにやとローグに言ってみせる。
「それじゃあ主人公さま、誰に話しかけても気づかれない状況で、俺らはこれからどうすればいいんでしょーか? 脇役の俺にもわかるよーに教えてくれよ、なっ」
 からかい半分のハッサンの言葉に、ローグはまたも堂々と胸を張る。いつもながら、こいつのこのどんな時でも変わらない態度のでかさは(そう見せているだけなのかもしれないが)ある意味感嘆に値した。
「まずは、町長の顔を見る」
「へいへい」
 すたすたと歩くローグの後ろについて、ハッサンはのんびりと歩を進めた。実際、こいつと一緒にいると先を思い悩むということをしなくてすむので、それだけでも面倒くさいことが苦手なハッサンはずいぶん救われている。

「あんた! 今日はもうそんくらいにして、少し休んだらどうだい?」
「てやんでい! まだまだ若いもんには負けねえぞ!」
「もう……。あんたって人はホントにガンコなんだから……。やれやれ……。こんな時にハッサンがいてくれたらねぇ」
「ハッサンだとお!? おまえ、まだあんなバカ息子のこと考えているのかっ! けっ! 勝手に家をおん出たヤツなんか、俺の息子でもなんでもねえ! もし今さら戻ってきたって家に入れてやるもんかってんだ」
 目の前で繰り広げられる夫婦の一幕に、ハッサンは目をぱちぱちさせつつローグに話しかけた。
「??? ハッサンだって? 俺と同じ名前だぜ。変な偶然もあるもんだなあ、ローグ」
 ローグはちらりとこちらを見て、「そうだな」と軽くうなずく。
「山ほどある職人の工房の中から、たまたま俺がひとつ選んで入った工房の中で、たまたまちょうどのタイミングで中の夫婦が息子の話をしていて、その息子の名前がたまたまお前と同じ名前なんて、本当に妙な偶然もあるもんだ」
「本当だよなぁ。こんな偶然に出くわしたの、俺は初めてだぜ」
 うんうんとうなずくハッサンに、ローグは改めて向き直り、じっと見つめてきた。なんだ? と首を傾げつつハッサンが見返していると、ローグはは、とため息をついて肩をすくめた。
「お前、なに考えて生きてんのか時々真剣に不思議になる奴だな」
「へ? そーかぁ? そんな大したこと考えてねーけどな」
「自分で言うか。……ったく、馬鹿馬鹿しい」
「しっかし、これだけ広い家に住んでるってことは、大工ってけっこうもうかるんだな。平和になったら、大工になってみるのもいいかもな!」
「……大工の家がでかいのは、儲かるからじゃなくて自力で家を建てられるからその分の人件費を建材の費用や土地代に使えるからだろが。ま、ここの家の主人は実際腕がいいみたいだから、稼ぎがいいのも確かだろうけどな」
「そうだなぁ……」
 ハッサンはゆっくりと、家の中を見回してみた。木屑や大工道具の散らばった工場が半ば以上を占める、やたら大きな平屋。ぱっと見散らかり放題の粗雑な造りのように見えるが、ハッサンの目にはそのあちらこちらに凝らされた技術の粋が見てとれた。
 一見しただけでは気づかれないような場所にほどこされた精緻な細工。陽の光を時間によってちょうどいい分だけ部屋の中に入れるように計算されて作られている天窓。扉、柱、壁、そのひとつひとつが中の人間が心地よく過ごせるようにとことんまで考えられ、配慮されて作られているのがわかる。
 本当に、ここの主人はいい腕をしているのだろう。腹の立つほど。
 あれ、とハッサンは首を傾げた。今一瞬、なにか奇妙な感覚が胸をよぎったような気がしたのだが。
「さあて、ムダ口をきいてるヒマなんてねえぜ! 明日の朝までにこいつをやっつけてしまわねえとなあ。あらよっと!」
 そんな自分たちの前で、自分たちにはまるで気づかずこの家の主人は大工道具を振りかざして仕事をする。その動作一つ一つに、熟練の大工の技の冴えが感じられ、ハッサンは一瞬見惚れたが、それでもその眉間に寄せられた皺、一本眉毛、への字口などから漂う強烈な職人気質――というより頑固さに、ついついハッサンも口をへの字にせざるをえなかった。
「まったく、頑固そうな親爺だぜ。こんなのが父親だったらたまらないだろうなあ」
「なんだ。頑固な奴は嫌いか?」
「好きな奴なんていねぇだろ。つきあうだけでも大変だし、一緒の家に暮らすなんてことになったらたまったもんじゃねぇよ」
「ふん。体験談か?」
「え……」
 一瞬目をぱちぱちとさせる。そう訊ねられて、一瞬答えがうまく出てこなかった。
 どうだっただろう。自分はかつてそういう頑固な奴と一緒に暮らしたことがあっただろうか? そんな覚えはない――まるでない。自分は物心ついた頃から旅暮らしで、武闘家の修業をしていたはずだ。
 親なんてものもいた覚えがない。だから、そんな問いには即座に否、と返すことができたはずなのに。
 ローグはちろり、とハッサンを見てから肩をすくめ、目の前の夫婦に視線を移した。ハッサンもそれについて、夫婦に視線を投げかける。
「ああ、ハッサン……。おまえはいったいどこに行ってしまったんだい……?」
「……自分とまったく同じ名前を呼ばれるってのは、どうも変な感じだな」
 嘆く中年女の言葉に、思わずそう言葉を漏らすと、ローグは肩をすくめ、「そうだろうな」とだけ呟いた。珍しく、悪口雑言を口からほとばしらせることもなく、どちらかといえば淡々とした、感情を抑えた口調で。

「どうして僕の気持ちをわかってくれないんだい? こんなに君を愛しているのに」
「私だってジョセフさまを愛してますわ。でも、ご主人さまのことを思うと……」
「パパだっていつかは僕たちの結婚を許してくれるさ。パパがどうしても許さないっていうなら、僕は家を出るよ」
「それはいけないわ。あなたはいずれお父さまのあとをついで町長になる人。私なんかよりもっと素敵な人が現れますわ」
「メラニィ。僕は……」
「あっ、いけない! そろそろ戻らないとご主人さまにしかられるわ。それじゃ……」
 港の南端の埠頭の先で、いかにも言い交した間柄らしい雰囲気を漂わせた男女が演じる愁嘆場。それを堂々と(すぐ目の前、ほんの半歩先ぐらいの距離しかないので。こちらの姿は見えないが)、女が逃げるようにその場を駆け去るまで見届けてから、ハッサンは思わず小声になりながらも、興奮しつつローグに言う。
「おい、ローグ。今の娘がメラニィだったぞ!」
 この町の町長の言葉から聞いた女中の名前がメラニィ。市場で将棋盤を囲んでいた中年男と老人が話していた、町長のお手伝いをしている老人の孫娘がメラニィ。
 そして、アマンダとかいった宿屋の娘が、いかにも怪しげな薬を調合しながら、陥れてやると意気込んでいた相手の名前もメラニィだ。『私のジョセフに手を出したりして』なんぞと言っていたことからしても、あの娘は本当にメラニィに対する嫉妬からなにやらけしからぬことをしでかす気かもしれない。
 人に見えないからといって、遠慮会釈なく人の家へずかずか上りこむローグにハッサンは内心呆れていたのだが、こんな情報を手にすることになろうとは。知ってしまった以上放ってはおけない、なんとかアマンダからメラニィを救ってやりたいところなのだが。
「メラニィ……ごめんよ。僕が頼りないばっかりに……。ああ、誰かメラニィを僕のかわりに見守ってくれる人はいないだろうか……?」
 海を見ながら一人たそがれるジョセフを冷然とした目で見ながら、ローグは「そんな暇な奴いるかボケ」などと呟いている。
「ふう……。メラニィにまた油を売らせちゃったな。またパパに叱られなきゃいいけど……」
「……なんだか頼りなさそうな男だな。俺たちがなんとかしないともしやメラニィは危ない目に遭うんじゃないか?」
「なんとかってなんだ。ものを言う時はきっちり具体的な方策まで考えて口にしろ」
「ぐ、ぐたいてきっつわれても、わかんねぇけどさ。あのアマンダとかいう女、なんか毒みたいの調合してたじゃねえか。あいつ、もしかしたらあれをメラニィに盛ったりする気なんじゃないか?」
「……ま、そういう可能性もなくはないがな」
「だろ!? だからアマンダの企みを知ってる俺らがよ、なんとかメラニィを守ってやらなけりゃ……」
「なんでだ」
「……は?」
 ぽかん、とするハッサンに、ローグはジョセフを見ていたのと同じような冷然とした目でハッサンを見つめて。
「なんで、俺たちがメラニィを守ってやらなけりゃならないんだ?」
「………っはあああっ!? なに言ってんだお前っ、あんな若くて優しそうな子がひどい目に遭うの、放っとけっていうのかよ!?」
「若いのは確かだが、『優しそう』と『優しい』の間には天と地の開きがあるぞ。それともお前はその年で純真無垢に見える女が全員純真無垢に違いない、なんぞと寝言を抜かすつもりか?」
「うぐっ……そ、そういうわけじゃねぇけどよ! メラニィって子はじいさんからも、その相手してたおっさんからもいい子だって認められてたし……!」
「誰からもいい子だと思われるように猫をかぶる、ってぐらい少しでも演技力のある女なら誰でもやってのけるだろうが」
「け、けど本当にいい子だってことだってあんだろ!?」
「……ま、確かにな」
「だろ!? だったらっ」
「だったら四六時中メラニィについて回って、彼女の身に迫る危険すべてから彼女を守ってやれるのか」
「っ」
 冷然というより、いっそ冷徹といいたいほど冷たい響きでローグは言ってのける。いつものごとく、偉そうにこちらを睥睨しながら。
「俺たちはそれなりに緊急性の高い、かつ重要度の激高な使命を帯びた身だ。なにせ魔王を倒せるか否かがかかってるわけだからな。だってのに女一人のために長期間この街に留まるわけにはいかない。俺たちが人に見える姿なら官憲に通報して片がついただろうが、この状態じゃそれもできない」
「け、けど……放っとくわけにもいかねぇだろ! なんかできることはないのかよっ、たとえば……そうだ、字を書いて伝えるとか!」
「誰とも知れない人間が書いた怪しげな文字情報を、真摯に受け止める奴がどこの世界にいる」
「ぐぐっ……け、けどよ! お前、本気であの子のこと、このまんま放っとくつもりか!?」
「それのどこが悪い」
「悪いに決まってんだろうが! そりゃこれから先四六時中あの子について回るわけにゃいかないかもしれねえけどなあ、俺たちはあの子に危機が迫ってることを知ったんだ! 放っておいたら危ないってわかってんだ! それなのにそのまんま放置するなんぞなあ、男として生まれた以上許されるこっちゃねえ!」
 胸倉をつかまんばかりの勢いで迫って、声を張り上げたハッサンを、ローグは冷然とした表情のまま見下すように睨――んでいたが、最後の言葉を口にしたとたん、ふっと表情が緩んだ。緩んだというか、まじまじとハッサンを見つめたあと、いかにも馬鹿にしたように肩をすくめてみせた。
「男として、だ? お前、いつの時代の男権誇示者だ」
「は……だんけ……?」
「マッチョマン、ともいうが。お前の場合そう言ったら確実に違う意味の言葉に受け取られるだろうな」
「わ、わけのわかんねえこと言うなよっ。いつの時代だろうが現代だろうがなっ、男は女や弱い奴を護る! そんなの当たり前のことだろーがっ」
「当然だろが。なにをそんな論じる以前のことを青筋立てて力説してる、はたから見てたら馬鹿かと思われるぞ」
「………へ………?」
 ぽかん、と口を開けてしまったハッサンにまた軽く肩をすくめてから、ローグはちろりと街の入り口の方を見て言ってのける。
「気が済んだらそろそろ行くぞ。俺の、ほとんど勘みたいなもんだが、あのアマンダとかいう女、ことによっちゃそろそろ動きそうな気がするからな」
「…………? …………。………………!!! おま……んな……てめっ、騙しやがったなっ!?」
「いつ騙した。お前が勝手に騙されただけだ。俺は一言も『メラニィを助けない』とは言ってないだろが」
「あ、あ、あの言い草でそう思わねえ奴がいるかっ!」
「世間の狭い奴だな。お前の理屈で世界を量ってたら馬鹿見るぞ。俺はただお前の単純な思考に疑問を投げかけてディスカッションを試みてみただけだ」
「はああぁぁぁ………」
 心底からの疲労感を覚えて、ハッサンはへたへたとその場にしゃがみこんでしまった。こいつって、こいつって、本っ気で疲れる奴だなぁ………。
 まあなんのかんの言いつつ最初から助ける気だったみたいだけど、としばらくしゃがみこんでから立ち上がる。顔に苦笑を浮かべずにはいられなかったが、気分としてはそう悪くなかった。自分の見込んだ相手が(まぁ好意的に見ればそういうことになるのだろう)、自分と同じことを考えて行動しようとしているというのは、実際悪い気持ちのするものじゃない。

「これをペロの餌に混ぜて……これでいいわ」
 メラニィの作ったペロの餌(細かく刻んだ肉と骨を混ぜたもの)に、アマンダは懐から取り出した瓶の中の液体を注ぎ、にやりと笑う。濃く化粧を施されたその顔に浮かぶ表情は、醜悪ではあったが、後ろめたさのようなものはなにもなく、むしろ自慢げですらあった。
「運が悪かったと思ってあきらめるのね、メラニィ。ジョセフは渡さないわ」
 ふふん、と笑ってこそこそと台所から出ていくアマンダを見ているしかない悔しさに拳を握りしめながら、ハッサンは思わず怒鳴る。
「くそ! このままじゃまずいぜ! なんとかこの餌始末しちまわなけりゃ……」
「いや、待て」
 呟いて、ローグはその餌の匂いを手で扇ぐようにして嗅ぎ、指で液体の滲みた餌をごくごくわずかに指先で取って口に含んだ。
「お、おいおい! なにやってんだよ、ローグ!」
「やかましい、耳元ででかい声を張り上げるなモヒカンマッチョ。……ふん。これは、この餌を放っておいた方がよさそうだな」
「………はぁ!? お前、なに言ってんだ!?」
「だからでかい声を張り上げるなと言ってるだろうが鶏ハゲマッチョ。……いいか。俺はこの毒に心当たりがある。特定できてる自信がある。で、ペロって犬の健康状態も、体格もさっき詳しく調べた」
「……だから?」
「この餌を完食しても、ペロが死ぬことはほぼ100%ない。となれば、ここはこの餌の処分を見送った方が効率がいい」
「はぁ!? 効率!? なに言ってんだ、お前!?」
「……ったく、頭の巡りの悪い奴だな。詳しく説明してやるとな、もしここでこの餌を処分した場合、アマンダがもっとタチの悪い真似をしかけてくる可能性が高いんだよ。あの手の女は思い込みが強くて容易に暴走する。なにをしても憎い恋敵が始末できないとなると、死なばもろともの恋敵殺しだの無理心中だのをやりかねねぇ」
「う……そ、それはまずいけど、よ」
「なにより、俺たちはこの先四六時中メラニィについて守っててやれるわけじゃねぇ。となれば、さっさとアマンダに犯罪を犯させて、気を済ませ≠トやった方がいい」
「だ、だからって、このままじゃメラニィが!」
「俺たちの方からこの世界の奴らにアプローチができない以上、アマンダが犯人だと教える方法はない。となれば、一番危険の少ない方法は、アマンダに被害の少ないやり方で犯行を行わせることだ。アマンダをぶっ殺すって選択肢を取らないならな」
「そ、それはさすがにしたくねえけど……だからって、メラニィを犯人扱いさせたまんまにしておくのかよ!」
「現状ではそうするしかねぇ。……姿が見えるようになるまでは、な」
 ハッサンは思わずぽかん、と口を開けてしまった。
「お前……姿が見えるようになる当てとか、あるのか?」
「は? なに言ってんだお前」
 ローグはこういう時いつも浮かべるような、心底こちらを馬鹿にしきっている表情で鼻を鳴らす。
「俺は主人公≠セっつっただろうが。じきに姿が見えるようになる展開が転がってくるに決まってる」
「……だったらいいけどよぉ……」
 ハッサンははぁ、とため息をつく。本当に、こいつのこの異常なまでの自信はどこからくるのだろう。先の見えない状況でそこまでの自信を持っていられるとほっとするものはあるし、ここまで自信たっぷりに言い切られるとそうかなぁという気もしてきてしまうが、まったく根拠がないのでもし外したらこいつ大丈夫なのかなぁ、という気持ちが湧いてくるのも否めない。
 まぁ、こうなりゃこいつについていくしかねぇか、とハッサンは覚悟を決めた。こいつの言う言葉にも理はあるし、なによりこいつはなにがなんでも言った言葉を押し通す、という顔をしている。だったら一緒にやってやるのが、命を預けた仲間としての筋というものだろう。
「納得したらアマンダを追うぞ。餌に毒を入れた犯人だって証拠を、気づかれないうちにがっつり手に入れねぇとな」
「……へいへい」
 それに、実際こいつはいろいろと抜け目のない奴ではあるし。

「まったく、なんということだ! わしのかわいいペロに毒を盛るとは……! 恩を仇で返されるというのはこのことだな!」
「父さん! メラニィがこんなことをするなんて考えられないよ。なにかの間違いに決まってるさ! ねえ、メラニィを地下の納屋から出してやっておくれよ」
「ふん! メラニィでなければ、誰がペロの餌に毒を入れられるというんだ?」
「それは……」
「とにかくわしは絶対に許さんからな!」
「…………」
 そんな言葉を交わしている町長とジョセフを残し、ハッサンとローグは町長の家を出た。予測していたことではあるが、ハッサンの口からは何度もため息が漏れてしまう。
「ちくしょう、悔しいぜ……犯人がわかってるのにどうにもできない、なんてよ」
「どうにもってこたぁない。じきに姿が見えるようになる話が転がってくる。その時のための備えは、もう万全だからな」
「まぁ、そりゃそうなんだけどよ……」
 ふ、とため息をつき、街を行き交う人々の言葉に耳を傾ける。住宅街周辺はこの街の人間以外近寄らないので、道行く人々のほとんどがメラニィがペロに毒を盛って地下の納屋に閉じこめられたことをひそひそと話していた。町長の息子であるジョセフとの身分違いの恋の噂されるメラニィは、この街ではかなりの有名人なのだ。
「くそ……どうにか、早く助けてやりてぇなぁ……」
「最終的にはなんとかなる。だからその辛気くさい顔をいいかげんなんとかしろ、鬱陶しい」
「なんとかってなぁ……ま、そうだよな。やることはやったんだから、あとは話が転がるのを待つしかねぇよなぁ……」
「当たり前だ、ボケ」
「……ふーっ」
 パンパン! と頬を叩いて気合を入れる。いつまでも暗いことをぐじぐじ考えているのは自分の性には合わない。にっ、と笑顔をローグに向けた。
「よっし、じゃあこれからどうする? お前、なんか当てとかあるのか?」
「そうだな……」
 ローグはわずかに頭を巡らせてから、小さくうなずく。
「美人を探してみるとするか」
「……は? 美人?」
「街の入り口から続く中央通りにいる男どもがこぞって話してやがるんだよ、美人が港の方へ行ったってな。誰かを探してるようだ、とも。俺も探されたい、なんぞと喚いてる男どもがうじゃうじゃいたぜ」
「美人、ねぇ……俺だって美人さんから追いかけられてみたいぜ。まあ、ねえけどな」
「ほー、意外に謙虚だな」
「馬鹿野郎、俺は自分ってもんを知ってんだよ。で、その美人がどうしたって?」
「道を歩くだけでその美貌を噂されるほどの美人だぞ? にっちもさっちもいかない状況下で、主人公≠導くために現れる謎の女。話の展開としては王道だろが」
「話の展開って……おいおい……」
 ハッサンは思わず苦笑した。王道もなにも、これは現実の話だということをこいつはわかっているのだろうか。こいつの自分が主人公だという言葉、どこまでが冗談なのかだんだんわからなくなってきた。
「……ま、別にいいけどよ」
 実際他に当てがあるわけじゃなし、その美人とやらを探しても別に悪いことがあるわけではないだろう。それにそこまで噂される美人というものを、一度見てみたいという気もするし。
 市場を通り抜け、ドックに入る。その前に貼ってある、『レイドック城行き定期船乗り場』という張り紙に思わずまたため息をついた。
 初めてこの張り紙を見た時は驚いたものだ。自分たちはこの幻の大地の上の、レイドック城があってライフコッドがある自分のずっと旅してきた世界から落ちてこの街にやってきたのに、この船に乗れば戻れるのか、とわけがわからなかった。
 けれど人の話に耳をすませてみても、張り紙やらなにやらを見てみても、この港から出る定期船がレイドック城に行くのは間違いないらしい。いったいどうなっているのか、とローグに相談もしたのだが、ローグはいたって冷静だった。
「そんなもん、単なる同名の別の城って可能性もあるだろ」
「なっ、そりゃそうかもしれねぇけど、わざわざレイドック城って書いてあるんだぜ!? なんかの関係があるって考えた方が普通だろ!」
「関係があろうがあるまいが、俺たちとしてはどうにもしようがないだろが。そもそもこの世界と上の世界がどういう関係にあるのかすらわかってねぇんだぞ、そんな段階であれこれ考えたところで時間の無駄だ」
「むぐ……そ、そりゃそうだけどよ……」
 などとあっさり流されてしまったのだ。
 けど、やっぱり気になるよなぁ、と思いつつ歩を進める。なんでレイドック城がこちらの世界にもあるのか。この幻の大地と自分たちの世界がどういう関係にあるのか。
 できればなんとかそこらへんを突き止めて、こっちの世界でも姿が見えるようにしたいところだが――などと思いつつ、すたすたと休憩所の方へ足を進めるローグを追う――と、ローグの足が止まった。
「? おい、なんで……」
 訊ねかけて、ハッサンも固まる。休憩所の一階、奥のテーブルで、一人の女がじっとこちらを見つめていたからだ。
 月の光のような淡い色の金髪を腰まで伸ばし、どこか巫女装束を思わせる絹のローブに身を包んだ女。肌は雪のような真白、瞳は静かに輝くエメラルド、顔貌は目をみはるほどに整っている――整いすぎて、どこかこの世ならぬ雰囲気を醸し出している女が、じっとこちらを、明らかに自分たちを認識している視線で見つめている。
 その形のいい、さくらんぼのような淡い色の唇がゆっくりと動き、音楽的な響きの声を発した。
「あら、こんにちは。これは別に独り言じゃなくてよ」
「…………!」
 ハッサンはまたも目をみはる。この女、自分たちに、話しかけているのか?
「ここであなたたちが来るのを待っていたの。私はミレーユ。あなたたちは?」
「俺はローグ。後ろの筋肉ダルマはハッサン」
 おいおいなんでそんなに冷静なんだ!? と慌てつつローグと女――ミレーユを見比べるハッサンに、ミレーユはついと視線を向けて、柔らかく軽やかな笑い声を立てた。
「うふふ。私にあなたたちが見えるので驚いているみたいね」
「…………」
「どうして私だけ見えるのか、そのわけを知りたかったらついていらして。町の外で待ってるわ」
 そう言ってミレーユは席を立ち、しずしずとした動きでドックを出ていく。それをあっけにとられて見送ってから、ハッサンはふー、と息をついた。自分がなんとはなしに気圧されていたことを、その時になって自覚する。
「おいおい……なんだかあやしい女だなあ」
「せめて謎めいた女ぐらいのことは言ったらどうだ」
「謎めいた、ねぇ……」
 ハッサンはミレーユの顔を思い浮かべる。確かにどちらかといえばその言葉の方がふさわしいかもしれない。どこか巫女めいた、神秘的な、この世のものとは思われないような美貌に静かな笑みを浮かべていた、あの女。
「お前はどう思うんだよ、ローグ。あの女のこと」
「そうだな……確かに女日照りの男どもがこぞって見惚れるのもうなずける美人だな」
「おいおい……美人だからって油断すんなよ。美人がみんな性格もいいとは限らねぇんだぞ?」
「ふん……それをお前に言われるとは思わなかったな」
「あ、おいてめぇ、俺が女とみればすぐのぼせ上がるような野郎だと思ってんのか? 俺はそこまで単純じゃねぇよ」
「ふん……」
「……でも今の俺たちじゃ他には何もできないし、行ってみるしかなさそうだな」
「ま、そういうことだな。……行くぞ」
「おう」
 ハッサンはローグのあとについて歩き出す。別にローグが主人公≠セからというわけじゃないだろうが、せっかく向こうから手がかりが飛びこんできてくれたのだ、ここで逃す法はない。
 ミレーユは、街の外で待たせていたファルシオンと馬車(どうやらファルシオンたちは姿が見えるようだったので、はぐれ馬だと捕まえられてしまうのを恐れたのだ。ファルシオンの場合外で食事も睡眠も好きに行えるし)のところで待っていた。なんでこいつらの場所を知ってるんだ、と思わず眉を寄せる。この女、やっぱりどうにも怪しすぎる。
 だが、おかしなことに、身の危険はまるで感じねぇんだよな、とハッサンは一人首をひねった。敵意を感じないせいかもしれないが、ハッサンの身の底の本能のようなものが、謀られているという気配をまるで感じない。
 ミレーユはやってきた自分たちに微笑みかけ、すい、と静かな(けれど、見ているとそんな気はしないのに、脇から測ってみるとびっくりするほど素早い)動きで先に立って歩き出した。
「さあ、私についてきて」
「ついてきて、ってなぁ……いったいぜんたい、どこに行くつもりなんだよ?」
「私のおばあちゃんのところよ。心配しないで、そう離れてはいないわ。普通に歩いていても夕方までには着けるはず」
「夕方まで、って……」
 けっこうな距離みてぇに思えるけどなぁ、と頭を掻いたが、いまさら逆らっても仕方がない。ハッサンはファルシオンの首を叩いて、一緒にミレーユの後ろを歩き出した。
「……けど、お前、向こうの都合で引っ張り回されてるわりにはやけにおとなしいな。やっぱ、ここは猫かぶっとこうと思ったわけか?」
 ファルシオンを挟んでハッサンの反対側を歩くローグにそう訊ねてみると、ローグはふんと鼻を鳴らした。
「俺はわざわざ他人に猫をかぶりなんぞしねぇ。単に状況に合った振る舞いをしてるだけだ」
「へいへい……で、状況に合わせて大人しくしとこうと思ったわけか」
「別に。そもそも俺は、女相手に礼儀を外れた真似をする気はない」
「へぇ? お前って、意外と女好きだったんだな」
「阿呆か。女相手に礼儀を守るのは人として当たり前だろうが」
 そのきっぱりとした言い方に、ハッサンは目をぱちぱちとさせた。こいつがこうまできっぱり男女を分けて考えているとは思わなかった。それはもちろん自分も、男として生まれたからには女を護るのが当然だと思ってはいるが、この傍若無人な男がそんな殊勝な考えを抱いていようとは思わなかったのだ。
 自分たちがそんなことを喋っている間にもミレーユはすいすいと歩を進め、森の中の道なき道をも通り抜けて進んでいく。こちらは稀代の名馬ファルシオンと、どんな悪路をも踏破できるよう魔法のかかった馬車のおかげでさして苦労はしなかったが、一見ひどくか弱げな女性に見えるミレーユもまるで疲れた様子も見せない。ほっそりとした姿に似合わず、大した健脚だった。
 こちらを振り向く様子も見せない辺り、こちらを信頼しているのか、ついてこれないならそれでいいと思っているのか。とにかく一度も休むことなく歩を進め、言葉通りに夕刻前に森の中の一軒の小さな家にたどり着いた。
「さあ、どうぞ、こっちよ」
 ようやくこちらを振り向いたミレーユの顔に、疲労の色はない。すげぇな、と内心感心しながらも、慌てて訊ねかけた。
「ちょっと待ってくれよ、ファルシオン――馬と馬車はどうすりゃいいんだ? 厩とかあるのか?」
「厩はないけれど。その馬だったら、馬車から放してもちゃんと戻ってきてくれるでしょう? この辺りには草も川もあるし、放してあげた方が馬も喜ぶのじゃないかしら」
「……まぁ、そりゃそうかもしれないけどよ」
 いいか? と確認の視線を投げかけると、ファルシオンがうなずいたように思えたので、ハッサンは馬車からファルシオンを開放した。ファルシオンは嬉しげにいななくと、さっさと森の中へと姿を消していく。
「……大丈夫かな、あいつ。魔物に襲われたりしねぇだろうな?」
「ファルシオンなら心配ない。というか、魔物の方が避けるさ。これまでにも俺たちが魔物に襲われてるそばでも、あいつは一度だって魔物に狙われもしなかっただろうが」
「あ……言われてみれば」
 確かに、これまでの旅で自分たちは何度も魔物たちに襲われてきたが、ファルシオンは一度も魔物に狙われたことがなかった。どころかすぐそばで自分たちが魔物と激しい戦いを繰り広げていても、その巻き添えを受けたことすら一度もないのだ。
「……今さらだけど、大した馬だよな、あいつ」
「本気で今さらだな、そりゃ。……行くぞ」
「おう」
 自分たちはミレーユのあとについて家の中へと入る。小ぢんまりとして古びた、なのにどこか不思議な雰囲気のある、おとぎ話に出てくる魔女の家じみた家だと思ったが、中に入ってもその印象は覆らなかった。中は意外と広々としていたのだが、石敷きの上に古ぼけた絨毯が敷かれ、幾種類もの薬草の香りがぷんと香り、いかにも魔女の隠れ家という雰囲気を漂わせている。
 しかも、ミレーユに案内されて奥に進んで、ハッサンは内心仰天した。そこには、まさに魔女が座っていたのだ。
 皺くちゃの、小柄な、年齢の見当がさっぱりつかない老婆が、大きな水晶玉の前に、広いテーブルを挟んで向こうに座っている。口元にはにたにたと笑みを浮かべ、紫のローブに背の高い帽子という魔女そのものの恰好をして、眼鏡をかけているせいか皺のせいか、目がどこにあるのかほとんど判別できないのが怪しげな雰囲気に拍車をかけていた。
 その老婆は、歩み寄るミレーユに座ったまま顔を向け、ひどくけたたましい笑い声を立てた。
「ひゃーっひゃっひゃっ。おかえり、ミレーユ。どうやら見つけてきたようじゃね」
 笑い声にハッサンは内心びくっとしてしまったのだが、ミレーユは少しも驚かずに微笑んだ。
「ただいま、おばあちゃん。その通りよ。見つけてきたの。おばあちゃんの言った通りだったわ!」
 そしてこちらの方に視線を向けると、にこりと微笑んで老婆を紹介する。
「こちらは夢占い師のグランマーズ。あなたたちを待っていたのよ」
「そういうことじゃ。確かお前たちは、ローグとハッサンだったね」
「!?」
 ハッサンは仰天して、ローグと顔を見合わせた。自分はまだこの老婆に名乗った覚えはない。なのに、なんで?
 だがグランマーズという老婆は、そんなハッサンたちの様子を気にした様子もなく笑ってみせる。
「ふぉっほっほっ、そんなに不思議そうな顔をしなさんな」
「……ったってなぁ……」
「わしやミレーユにどうしてお前さんたちの姿が見えるのか……そもそもどうしてこっちの世界ではお前さんたちの姿が見えないのか……あれこれわからなくて困っとるんじゃろ?」
 平然とした顔でそう問うてくるグランマーズに、ローグは少し首を傾げてからうなずいた。
「そうですね。いささか」
「……ふむ、そうかい。しかし、お前さんたちにはしっかりと目的があるようじゃ。レイドック王の兵士としてラーの鏡を探せと……そう言われているはずだからのう」
 ハッサンはさらに仰天する。なんでこっちの目的まで!?
「だがそれには、まずお前さんたちの姿をなんとかしなければならん。この世界で姿が見えなければ、レイドックへの乗船券も買えんのじゃから。ただ、お前さんたちを助けるには、少し準備が必要じゃ。ともかく、今日のところはひと休みおし。話の続きはまた明日にしよう」
 言うと老婆はぴょい、と案外機敏な動きで椅子から飛び降り、家のさらに奥へと歩いていく。ミレーユは逆に、微笑んでこちらに近づいてきた。
「お腹が空いているんじゃないかしら? 昼からずっと歩き詰めですものね。朝にシチューを仕込んでおいたの、よかったら食べてもらえないかしら?」
「お! そりゃありがてえ……けどよ」
 思わず飛びつきかけて、途中で勢いを失速させる。周囲を見回してグランマーズがもうどこにも見えないのを確認し、こそこそと耳打ちした。
「なんか、妙なもんとか入ってねえよな? 虫とか、変な薬草とか。ここっていかにも魔女! って感じの家だし……」
 がずっ。鳩尾に入ったローグの肘に、ハッサンは一瞬身を丸めてから、悶絶した。
「ご……っ、ってええぇぇ〜〜っ!!」
「失礼なこと抜かすんじゃねぇこの田吾作が。女性が食事をご馳走すると言ってくれてんだぞ? 虫だろうが薬草だろうが笑顔で完食するのが男の礼儀だろうが」
「そ、それはそうかもしんねぇけどなっ、そういうことは先に口で言えよ口でっ! 久々にマジで急所に入ったぞっ!」
「は? 口で、だぁ? 女性を魔女呼ばわりしといてどの口でそんなこと抜かしこいてんだこの筋肉ハゲ! てめぇの脳味噌全部モヒカンに吸い取られてんのか!」
「てめぇモヒカンを馬鹿にしたら承知しねぇぞっ、こいつは俺の魂を表した髪型でだなぁっ」
「はっ、髪型程度で表せるほど安いのかてめぇの魂は。男だったら魂は行動で表しやがれ!」
「むぐっ……そ、それはそうかもしれねえけどなっ、ファッションってのはやっぱこう、男として気にしとくべきだと思うところなわけで……」
「……ま、ある意味非常にお前らしいファッションとは言えるけどな。お前は自分をよくわかってる、とは言える」
「お! そうだろ? やっぱ俺にはこういう男らしいファッションが似合うんだよ!」
「別に褒めてねぇでかい胸張ってんじゃねぇぞマッチョモヒカン」
「おいおいそんなに褒めんなよ、なにも出ねえぞ? それにお前だってそう捨てたもんじゃねえよ」
「だから褒めてねぇっつってんだろが脳筋マッチョ、俺は大胸筋の発達に血道を上げるような酔狂な趣味してねぇんだよお前と一緒にするな」
 ぎゃあぎゃあやり合い、わあわあ騒ぐ自分たちを、ミレーユはちょっとぽかんとした表情で見ていた。へぇ、こいつこんな顔もするんだ、と目を瞬かせていると、さらにくすくす、と楽しそうな顔で笑い出す。
 ミレーユのことをどこか普通じゃない女、というように思っていたハッサンは、それこそぽかんとしてしまった。少しばかり見惚れすらしてしまった。そんな楽しげな笑みを浮かべると、ミレーユは本当に雰囲気の柔らかい、美しいのに可愛らしい女性になってしまう。
「そ……そんな、面白いか? 俺ら」
「ふふふっ……ええ、あの、ごめんなさい。笑ったりしてしまって。なんていうか……びっくりして」
「びっくり?」
「ええ……あなたたちがそんなやり取りをしているところなんて、想像もしていなかったものだから。ふふっ……あなたたちって、思ったよりずっと、元気な人たちだったのね」
「へ? そうなのか? 俺たちは元からたいていこんな風だけどなぁ……」
「俺たち≠スぁなんだ、俺を一緒にするなハゲマッチョ。……もっとくそ真面目な奴らだと思ってたか?」
「ふふ……そうね。使命のために死力を尽くす、一生懸命な人たちだと思っていたわ。さっきみたいにじゃれ合ったりするなんて考えたこともなかった」
「そうか。がっかりさせたかな?」
「いいえ。今のあなたたちの方が、ずっと可愛らしくて、魅力的だわ」
「かわ……」
 自分に捧げられる言葉としてはもっとも似つかわしくない部類に入るだろう言葉に、ハッサンはぱかっと口を開けてからぽりぽりと頭を掻く。まぁ、好意で言ってくれてるんだろう、というのはその楽しげな笑顔を見ればわかるのだが。
「ふふ、じゃあそろそろお食事にしないかしら? 大丈夫よ、虫も薬草も入っていないごく普通のシチューだから。家畜を潰したわけでもないから、肉は控えめだけれどね」
「いやいや、食べさせてくれるだけでもありがたいぜ。悪いな」
「偉そうに抜かしてんじゃねぇタコ助。喜んでごちそうになる、ありがとう」
 そんなやり取りをしつつご馳走してもらったシチューはとびきりの味で、ミレーユが作ったということを聞いたハッサンは思わず「すげぇ! やっぱ女の人は違うな! 男同士だとやっぱ干し肉炙って食うぐらいしかしないからよ!」と感心しまくり、ローグに「お前と一緒にするんじゃねぇ」と絡まれたが、ローグも「確かにこのシチューは本当にうまいな、ミレーユが料理上手なことがよくわかる。いいお嫁さんになりそうだ」などと言っていたので内心の感想は似たようなものだったのだろう。
 ミレーユ本人は、「ふふ、ありがとう」と穏やかに笑っていただけだったが。

 しかしこんな状況は当然ながら想像もしていなかった。
 自分の隣を歩くミレーユに、もう何度目かになる台詞をぶつける。
「なぁ……グランマーズに言われたからって、なにも本気でついてくることないんじゃないか? こう言っちゃなんだけど、外は本気で危ないぜ? 俺たちをグランマーズの家に連れてくる時に魔物に襲われなかったのが、不思議なくらいなんだから」
 それにミレーユは穏やかに微笑んで、やっぱり同じ言葉を返してきた。
「お気遣い、ありがとう。でも大丈夫よ、あなたたちの足手まといにならないようにするくらいのことはできるから」
「はぁ……」
 ハッサンはぽりぽりと頭を掻いて、それ以外にどうしようもないのでまた歩き出す。正直、いかにもか弱げな風情の女性であるミレーユが足手まといにならないといってもちょっと信じられないのだが、本人がそう言い張るのだから仕方がない。
 グランマーズの家に泊まった翌朝、グランマーズの切り出した話はこんなようなものだった。
「こっちの世界でも、自分たちの姿が人に見えるようにしてほしいじゃろ?」
「そうですね、それなりには」
 ローグの言葉にグランマーズは得たりとばかりにうなずき、言う。
「この世界で二人の姿が見えるようにするには、夢見のしずくが必要じゃ。夢見のしずくはわしも仕事で使うんじゃが、今は切らしていてね。南にある洞窟の奥、夢見の祭壇でしか手に入らないんじゃよ。しかし、その洞窟には最近魔物が住みついてしまってのう。取りに行きたくてもわしやミレーユだけでは行けないというわけじゃよ。そこでここはひとつ、お前さんたちに行ってもらおうと思ってな」
「ちょっと、ばあさん! 勝手に決めないでくれよ!」
 思わず文句を言ったハッサンに(ハッサンは勝手に自分の行動を決められるのは大嫌いなのだ)、グランマーズは面白がるように笑った。
「ふぉっほっほっ。勝手に決めたわけではないぞ。これも夢のお告げじゃよ」
「…………………」
 ハッサンはその言葉のあまりのうさんくささに沈黙する。夢のお告げ? なんだそりゃ。いっくらなんだって怪しすぎるだろ。
 だがグランマーズが自分たちが名乗る前に名前を知っていたのは確かだし、なにより自分たちのいるところにミレーユを差し向けてきたのはグランマーズらしい。そういうことを考えるともしかしたら単なる駄法螺とは思えないような気もするし、なにをどう判断すればいいのかわからずにハッサンは混乱して頭を抱えそうになった。
「とにかく、わしにもお前さんたちにも夢見のしずくが必要なわけだし。言ってみれば、これは助け合いということじゃな。どうじゃ? ここから南にある夢見の洞窟に行きたくなってきたじゃろ?」
「もちろん。もとよりそのつもりです」
 きっぱり言うローグに、ハッサンは目をむいたがグランマーズはローグがそう答えることがわかりきっていたように楽しげに笑った。
「ふぉっほっほっ。やっと決心してくれたようじゃな。それじゃ、南の洞窟から夢見のしずくを取ってきてもらおうかね。そうそう、ミレーユ。お前もついていっておやり。それから、これも持っておゆき」
 そう言ってグランマーズが差し出したのは薬草の束だった。それも、色やらなにやらからするとかなりの上物だ(職業柄ハッサンは薬草にはそれなりに詳しいのだ)。十回は使えるくらいの分量はあるだろう。それを受け取るや、グランマーズは言うことは言った、という顔でゆったりと椅子に深く腰掛けた。
「気をつけてな」
「ええ、わかったわ、おばあちゃん。さあ、行きましょう。私も、少しだけあなたたちのお手伝いをさせていただくわ」
「え……えぇ!?」
 ミレーユがにっこり笑って告げた言葉に、ハッサンは仰天した。お手伝いって、ミレーユが? 魔物の巣窟に突っ込むってのに、どんな手伝いができるってんだ。こんな華奢な、美しい女性が。
 ハッサンは途方に暮れてミレーユを見るが、ミレーユは穏やかな笑顔を返すだけだ。お前もなんとか言えよ、とローグを見るが、ローグは涼しい顔でミレーユにこんなことを言いやがる。
「それじゃあ、ミレーユ。とりあえずは、これからしばらくよろしく」
「ええ、よろしくね、ローグ、ハッサン」
 そう言って、ミレーユはにっこりと笑ったのだ。
「………お前、いったいなに考えてんだよ」
 洞窟までは急いでも三日ほどはかかる、ということで、さすがに何度か休憩をはさみつつの移動となったのだが、その最初の休憩でハッサンはローグにこっそり訊ねた。
「少なくともお前より深甚に多種多様なことを考えているのは確かだな」
「はぐらかすんじゃねえよ。ミレーユを本気で連れてく気か? あんな女を連れてって、怪我とかさせたらどうするんだ。万一のことがあったら取り返しがつかねぇんだぞ」
「ほほう。お前は若く美しい女だったら、たとえ鍛錬を積み戦うことを誓った戦士だろうと戦わせちゃいかん、というわけだな。ずいぶんと時代錯誤なことだ」
「時代錯誤ってな……って、え?」
 言われて、少し離れた場所で水袋から水を飲んでいるミレーユをこっそりと見る。
「……戦士だってのか? ミレーユが? とてもそんな風には見えねぇぞ」
 ほっそりとした体はとても戦うために作られているようには見えないし、動きも(不思議にしなやかではあるにしろ)戦士のような力強さはうかがえない。
「戦士だとは言ってない。だが、彼女はただ華奢で美しい女性ではない、とは思う」
「……そりゃ、そうだけどよ」
「どっちにしろ、足手まといになるかどうかはすぐにわかる。三日もあるんなら、その間に少なくとも一度や二度は魔物の襲撃があるだろう。そこで彼女が足手まといになるとはっきりしたんなら、ルーラでグランマーズの館まで戻って置いてくればいいだろう」
「その一回で取り返しのつかないことが起きたらどうすんだよ」
「なら、そうならないようにお前がなんとかしろ」
「なんとかって……」
 こいつだって生きるか死ぬかの戦いで人を庇ってる余裕があるかどうかくらいわかるだろうに、なにをお気楽なことを言っているのだろう。困惑してじっとその顔を見つめるが、ローグはあくまで平然としていた。
「結果はすぐにわかる――が、どちらにしろ、俺はミレーユが俺たちの助けになる方に賭ける」
「……本気かよ?」
「嘘をついてどうする。お前がどうするかはお前の勝手だが、彼女を庇って自分だけ死ぬ、なんぞ無様な真似をしたら指差して笑うぞ」
「お前なぁ……」
 がりがりと頭を掻き――それからハッサンはうんとうなずいた。
「しかたねえ。お前がそこまで言うってことは、なんか根拠があるんだろ。お前、根拠のねえことは絶対口にしねえ奴だからな」
「……ふん。お前なんぞにそこまで読まれるとは俺もヤキが回ったぜ」
「んっだよ、ここは俺の洞察力を褒めるとこだろうが。……けど、その戦いでミレーユが足手まといだってはっきりしたら、お前がなんと言おうとマーズのばあさんのところに置いていくからな」
「ああ、そうしろ。そうなったら俺も止める気はない」
「女を護るのは当然だ、ってか? ……お前も難儀な性格してるよなあ」
 その言葉にローグは無言で肩をすくめただけで済ませた。

 そして、その言葉を確かめる機会は案外早くやってきた。山道を歩いている時に、魔道士の姿をした蝿のような魔物二体に襲われたのだ。
「蝿魔道だ! 呪文唱える前に倒すぞ!」
「おうっ!」
 こいつどこに行っても魔物の名前よく知ってるよなぁ、もしかしたら自分で勝手につけてんのか? という毎度おなじみの疑問がちらりとひらめくが、それは一瞬で消えて、ハッサンは一気に戦いに没入した。サンマリーノで手に入れた鉄の爪の初披露だ、とばかりに勇んで敵へと突撃する。
 だが、それよりも速く蝿魔道に突っ込んだ影を見て、ハッサンは仰天した。ブロンズナイフを振りかざし、金の髪をなびかせて蝿魔道に素早く一撃を加えて離脱する、その姿は。
「ミレーユ!?」
 思わず顎を落としそうになるほどの衝撃だったが、体に叩き込まれた反応はそんな時でもしっかり働いてくれ、あれこれ考える前にローグがブーメランで打撃を加えたあとに、ダメージの大きい方に一撃を加えてさっと身を退いてくれた。ミレーユも同様に、ローグのブーメランの軌道から上手に身をかわしている。与えた傷はごくごく小さなものだったが、動きが戦い慣れていることへの驚きから、ハッサンはなかなか脱け出せなかった。
 だが魔物の方はそんな驚きになど当然遠慮せず、杖を振り回して呪文を唱えてきた。ハッサンが一撃を加えた方は倒れたのだが、残った一体が「ヒャド!」と叫ぶや、杖の先に氷が集まって矢の形を取り、目にも止まらぬ速さで自分に向けて突っ込んでくる。
「ぐうっ……!」
 氷の矢に貫かれる、そのかなりに強烈な衝撃にハッサンは呻いたが、この程度ならまだ倒れるほどではない。倒れなければローグのホイミや薬草で傷は治せる。負けるか! ともう一体へと突撃する――や、ふわっと体が暖かいものに包まれる感触があった。
「ホイミ――!」
 ミレーユの凛とした声。え、これはつまり、ミレーユが俺にホイミをかけたのか!? と仰天するより早く、再び投げられたローグのブーメランがもう一体の蝿魔道を打ち倒していた。
 ふ、と息をつき、さっさと魔物の体からゴールドやらなにやらを奪い始めるローグを尻目に、ハッサンはミレーユへと突撃していた。
「ミレーユ!」
「なにかしら?」
 ミレーユはいつものごとく、柔らかく、静かな笑顔でこちらを見つめる。それにわずかに気圧されはしたものの、ハッサンは勢い込んでミレーユに訊ねた。
「ミレーユ、あんたって呪文使えたのか!?」
「ええ。言っていなかったかしら?」
 そう言ってにこり、と微笑むミレーユに、ハッサンは思わず脱力した。
「なんだよ〜……それならそうと早く言ってくれよ。俺はてっきり、あんたには戦う力とかないもんだとばっかり……」
「あら、でも今の私では攻撃呪文の類は使えないから、戦う力が劣っているというのは間違いではないわよ?」
 またにこり、と微笑んでそう言うミレーユに、ハッサンは慌てて確認した。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。じゃあ、あんたの使える呪文は、回復だけなんだな?」
「他には、毒消しや防御の呪文も使えるけれど……今の私では、それだけね」
「……じゃあなんで、あんなに思いきりよく突っ込んでったんだ? あんたの力じゃろくにダメージ与えられない相手だろうに」
「素早く一撃離脱を行っていれば、狙われる確率は後ろにいる時とほとんど変わらないわ。少しでもダメージを与えられるのなら、なにもしないよりはましだと思ったから。駄目だったかしら?」
 そう言ってまたにこり、と微笑むミレーユに、ハッサンはまたへたへたと脱力した。
「あんたって……もしかして、相当戦い慣れてんのか?」
「それほどでもないけれど……今の実力に比べれば、戦い慣れている方かもしれないわね」
「……ったく。それならそれで先に言ってくれよ……」
「おい、そこの筋肉ダルマ」
 思わずびくっ、とするハッサンの首を、後ろからつかんできた手がぎぎぎぎぎと捻り上げる。
「ちょ……ぐはっ、ローグ、いて、痛ぇって!」
「あぁ? 人に働かせといて女性とお喋りしてる奴が言えた台詞か。魔物を倒したあとはなにはなくともゴールドと宝箱チェックは基本だろうが、あぁん?」
「ぎ……っ、わかってるっての、だからすぐ手ぇ出してくんなよお前体細っこいくせに力けっこう強ぇんだから!」
 そんな風にじゃれ合う自分たちを、ミレーユは楽しげに、くすくす笑いながら眺めていた。

 ぼぅっ!
 ベビーゴイルの放ったギラの炎が、自分たちのいる空間を薙いだ。もう何度も味わってはいるが、当分慣れそうにない肌と肉の焼ける激痛に奥歯を食いしばって耐え、「うおぉっ!」と叫びながらベビーゴイルの一体に突撃する。
「ふっ!」
 ローグが息を吐く音が聞こえた。ブーメランを投げたのだとわかる。大丈夫だ、この間合いなら、ローグの攻撃の前に届く!
「どらぁっ!」
 ざしゅっ! という音と共にベビーゴイルの体に鉄の爪を突き立てる。ぶしゅぅっ、と赤い血が噴き出すのを、さっと身を退いてかわした。手応えはあった、こいつはもう問題ない。実際相手はふらふらっとよろめいたかと思うと、ぺたんと地面へと落っこちた。
 あと一体! と地面を蹴るが、その時にはすでにもうローグのブーメランがベビーゴイルの体を薙ぎ払っていた。そしてそれとほぼ同時――か数瞬前に、ミレーユが「ホイミ!」と叫んでローグの傷を癒す。
 敵が全員動かなくなったのを確認してから、ハッサンはようやくふぅ、と息をついた。この洞窟には様々な魔物が出るが、このベビーゴイルという魔物は特にやっかいだ。こいつらの唱えてくるギラという呪文の炎は、どれだけ散開していても巧みに伸びて、自分たち全員を捉えてくる。しかも与えてくるダメージもかなりに強烈だ、連続で二発喰らった時には一瞬死を覚悟してしまったほどに。
 なのでそれからは、常にローグが傷をほとんど残っていないぐらいまで癒しておくことになっているのだが。
「なぁ、ミレーユ。あんた、魔法力あんまり残ってないのか?」
 ローグにホイミで傷を癒されながら、ハッサンは訊ねた。ほとんどの呪文は使う時に、使用者の魔法力と呼ばれるエネルギーを消費するのだということはすでに聞いていた。その魔法力が有限であり、現段階のローグの魔法力はホイミを十数回も唱えれば尽きてしまう程度であることも。
 だから、傷を癒すのをミレーユと手分けすればいいのではないか、と思って問うたのだが。
「――ごめんなさい。魔法力はそれなりには残っているけれど……戦いの間以外は、呪文は使えないの」
「は?」
 ハッサンはぽかん、と口を開けた。なんだそりゃ?
「私は……なんと言ったらいいのかしら。まだ完全ではないの。欠けているのよ。まだきちんと固まっていない、と言った方が正しいのかもしれないけれど。だからまだあなたたちの仲間になれているわけではないし……力を成長させることもできない。そして……力を自由に使うこともできないの」
「はぁ……?」
 意味がよくわからない。どういうことだ、とまた訊ねようとすると、ぎゅむっと足を踏まれた。
「ってえぇぇっ!」
「少しはものの道理ってもんを考えたらどうだ鶏頭マッチョ。ミレーユの顔をよく見てみやがれ。女が自分のことを言うに言えず苦しんでいるって時に、無遠慮に聞き出そうとするのが男のやることか」
「なっ……ぐむ……」
 ローグに言われてハッサンはミレーユの苦しげな表情に気づき、反論できずに沈黙した。確かに、事情をいちいち聞き出してミレーユを苦しめるなんていうのは本末転倒だ。実際まだまだ薬草も残っているし、ミレーユに力を借りなければ命の危険がある、というわけではないのだから無理に聞き出すこともないのかもしれない。
「いや、悪かったな、ミレーユ。さっき俺の言ってたことは忘れてくれよ」
「ハッサン……ごめんなさい。ありがとう。ローグも……」
「気にするなって」
「なに、ミレーユがこっちに危害を加えるような相手じゃないってのはわかってるからな。そういう場合に当然の指摘をしたまでだ」
「………そうなの。でも、ありがとう」
 にこり、と微笑まれて、ハッサンは照れて頭を掻いた。どんな状況であれ、美人に笑顔を向けられるなんていうのはそうそうあることではない。
 だがローグは少しも動揺せずに、小さくうなずいてみせた。ミレーユと視線を合わせ、お互いに理解しあっている、とでも言いたげに落ち着き払った顔で。
「……さて、そろそろ行くか。たぶん、そこの階段を下ればこの洞窟の最下層だ」
「お! そこに夢見のしずくがあるってわけだな!」
「ああ。だが気を抜くんじゃねぇぞ、その前にそれを守ってる魔物だのなんだのがいるかもしれないからな」
「おうよ」
「……ええ。そうね」
 自分たちは、ローグに続いて武器を構えながら階段を下りた。

「さてと……今から夢見のしずくに呪文をかけるよ」
 夢見の祭壇に巣食っていた魔物を倒し、夢見のしずくを得て、グランマーズの館に戻ってきて、一晩休んだのち占いの部屋(最初に自分たちが案内された場所)に集まった自分たちに、グランマーズはそう切り出した。
「そのしずくをふりかければ、お前さんたちもこの世界で姿が見えるようになるはずじゃ」
「でも、ばあさん。この世界って言うけどよ、ここはいったいどこなんだ?」
 ハッサンとしてはそこがまず最大の疑問だった。自分たちの住んでいる世界の下に広がっている幻の大地。そんなもの常識ではありえない代物のはずなのに、実際こうしてここにある。そして自分たちの姿はここでは見えない、なんぞとはっきり言ってわけがわからなかったのだ。
 だが、そんなハッサンの疑問に、グランマーズは怪しげな笑声を立てて答えた。
「ふぉっほっほっ。ここはお前さんたちの住んでいた世界とは別の世界……。お前さんたちはこの世界の住人ではないため人から姿が見えないんじゃよ。もっとも、お前さんたちの世界からこっちにひとが迷いこむなどありえないはずじゃが」
「なんだよ、そりゃあ……」
 それでは答えていないのと同じではないか。
「……まあ、起きてしまったことはしかたあるまい。夢占い師のわしにしかできないことをしてあげようじゃないか」
 そう言ってグランマーズはローグに夢見のしずくを渡させると、グランマーズが用意したガラスの小瓶に入った夢見のしずくに、ぶつぶつと呪文らしきものを唱え始める。その静かだが、時に遠く時に近く、それこそ別の世界から聞こえてくるような不思議な響きはまさに魔女の呪文、という感じでハッサンは少しばかり気圧された。
 ――と、ふいに、輝きが見えた。
 自分たち――自分とローグの周囲が、突然キラキラと煌めきだしたのだ。月の光のように白く、星の光のように瞬く、そのくせ闇夜のランプよりはるかに眩しく感じられるその光は、どんどんと輝きと煌めきを増し、自分たちの周りに大きな光の球を創り――そしてそれが収束していく。というか、煌めいていた光が自分たちの体の中に吸い込まれていく――
「やれやれ、終わったわい」
 グランマーズの言葉に、いつの間にか目を閉じていたハッサンは、はっと目を開けた。そしてさらに目を見開く。
 透けていない。自分たちの体が、元の世界同様にきちんと見えている。
「おおっ……すげぇっ!」
「ありがとうございます、グランマーズさん。おかげで助かりました――このご恩は必ずお返しします」
「なに、気にすることはない。いつか数倍にして返してくれればいいさ」
「数倍!? おい、そりゃあいくらなんでも……」
「はい。必ず」
 しれっとした顔で答えるローグに、思わずハッサンは恨みがましい顔になった。こいつ、外面がいいのはいいとしても、なにも俺までそれに巻き込むこたぁないだろうに。
 いや、そうでもないか、と思い直す。自分はローグと一緒に旅をしているわけだし、こいつが恩を返そうとするなら自分もそれにつきあうことになるだろう。いちいちそんなことを気にする意味はない、か。
 そんなハッサンの思いを知ってか知らずか、グランマーズはふぇっふぇっふぇ、と怪しげに笑った。
「そうじゃ、このしずくをすこしおまえさんにももたせてやろう。もしこの先、お前さんのようなひとを見たらそのしずくをかけておやり。お前さんたちにならそういうひとの姿が見えるはずじゃからな。のう、ミレーユ」
 話を振られ、ミレーユは数瞬目を逸らしたが、すぐにこちらに向き直って静かな表情で告げる。
「本当は、私もあなたたちのようにこの世界で姿が見えなかったの。それをおばあちゃんに助けてもらって、このとおり姿が見えるようになったのよ」
「なんだ、そうだったのか! それであんたには、俺たちの姿が見えたってわけだな。でも、ばあさんにも見えてるのはなぜだい?」
「ふぉっほっほっ。わしは夢占いを生業にしておるからのう。わしに見えない夢はないんじゃよ。どうじゃい、お前さんもだいぶわかってきただろうが……真実は、お前さんたちにはショックなことかもしれん。まずは、サンマリーノからの船でレイドックへ行き、王さまに会うがいいじゃろう。難しいことは、それからゆっくり考えなされ」
 レイドックなぁ、とハッサンは考え込んだ。こっちの世界のレイドックと上の世界のレイドックにはどういう関係があるのか、そこの辺りはさっぱりわかっていない。ラーの鏡の在り処もわからない。
 だが他に当てもないし、言われる通りにした方がいいのだろうか。行ってみて実際にどう違うのか確かめたい、という気持ちもあるし。まぁローグがどう反応をするかにもよるのだが……
 などと考えていたハッサンは、ふいに聞こえてきたミレーユの言葉に仰天した。
「おばあちゃん。私、この人たちについて行くことにします」
「えぇ!?」
 思わずぽかん、と口を開けてミレーユを見る。なんだ、その唐突すぎる言葉は。
 だがそれに対するグランマーズの答えも、負けず劣らず唐突だった。
「そうかい。お前がそう言うなら、わしは止めはしないさ。どちらにせよ、わしの力でできることは、ここまでじゃからな」
 おいおいおい、と慌ててミレーユとグランマーズを見比べるが、どちらも少しも慌てた風もない。ミレーユはすっとこちらに近づいてきて、告げた。
「ローグ、ハッサン。これからは一緒に旅をさせていただくわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんでまた、そんな……?」
「あなたたちの行く先に、私の探すものがあると信じるから」
「探すもの……? って、そりゃいったい」
 と言いかけて、またもごずっ、とみぞおちに肘が入った。
「っつぉおおぉ……! ローグ、おっまえなぁっ、先に口で言えって何回言やぁ」
「お前の方こそ何回言わせる気だ、あぁ? 女が自分のことを言うに言えず苦しんでいる時に」
「うぐっ……わかった、わかったよ! もう聞かねぇって」
 改めてミレーユに向き直り、ハッサンは笑いかける。
「それじゃ、ミレーユ。これからは、改めて仲間としてよろしくな!」
「俺より先に言うな鶏ハゲ。……よろしくな、ミレーユ」
「……ええ、よろしく!」
 そう応えたミレーユの顔が嬉しげにほころぶのを見て、ハッサンは照れくさくなってぽりぽりと頬を掻いた。なんというか、これまでは男二人で、それはそれで気楽で楽しい旅だったが、これから先はなんというか、もっと潤いのある旅になるかもしれない。
「お前さんたち、ミレーユをよろしくたのむよ。そして、なにかこまったことがあったらいつでもおいで。わしの夢占いでわかることは教えてやろう」
「はい、ありがとうございます」
 ローグは礼儀正しく頭を下げる。ハッサンとしては占い〜? とうさんくさく思う気持ちの方が強かったのだが、グランマーズは実際に自分たちの姿を見えるようにしてくれるような力を持っているのだから、普通とは違うのかもしれない。ローグにならって頭を下げておいた。
 そして立ち上がったローグに、ハッサンは勇んで話しかけた。
「さて! これからどうする、ローグ? やっぱ、サンマリーノからレイドック城に行くのか?」
「その前に、いくつかやることがあるな」
 ローグはいつものごとく偉そうに胸を張りながら言う。こいつのこの調子、もうすっかり慣れて楽しくなってきちまうよなぁ、と思いつつ笑顔で訊ねた。
「なんだよ、そのやることって」
「まず、メラニィの無実を証明する」
「お! そうか、せっかく姿が見えるようになったんだから、それをやらなきゃ嘘だよな!」
「当然だ。そしてそのあと」
「そのあと?」
 勢い込んで訊ねた自分に、ローグはにやり、と笑んで鼻を鳴らして言う。
「港の地下カジノに直行だ」
「は……はああぁぁぁ?」
 ぽかん、と口を開ける自分に、ローグは「なに間抜け面晒してやがる」と蹴りを入れてくる。「なにしやがる!」と即座に蹴り返し、しばしぎゃあぎゃあ喚き合いながらじゃれあったが、そんなことをしながらも思っていた。
 こいつって、もしかしたら、俺が思ってた以上に底知れない奴なのかもしれない。馬鹿なのか、頭がいいのか、どっちなのかはわからないけど。
 まぁ、どちらにしても、こいつと一緒に旅をするのは変わらないのだが。今は新しい仲間もできたし。
 やれやれ、っとに骨の折れる奴だぜ、と苦笑していると、今度は「なに偉そうな顔してやがる」と蹴りを入れられて、それに反撃して、とやっていたらグランマーズに「喧嘩するなら外でおし!」と叩き出された。

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