Get Set
「っはー……」
 僕は目の前にそびえる建物を見上げた。
 でかい。そりゃー単純に建物部分だけだったらこれより大きい建物を見たことはあるが、サーキット(だろう、多分)をぐるりと囲んでいる外周部分も含めるとこんな広く大きい建物を見たことはない。
 まあ、車を走らせるというんだからこのくらいの広さは必要なんだろうけど……。
 僕は、ふるふるふると頭を振って忍び寄ってきた弱気をふっとばそうとした。パンパンと強めに顔を叩く。
「……よし!」
 一人気合いを入れ直して、僕は通用口に向い歩き出した。

 中のサーキットまで出てきて辺りを見回す。夏のぎらついた陽射しが目に飛び込んできて、反射的に目を伏せた。
 手をかざして光を避けながら見ると、少し先にガレージが見える。
 そしてその中で、車を中にもぐりこむようにしていじっている少年が一人。
 それを見たとたん、僕はそのガレージに向けて走っていた。ガレージの入り口で足を止めて、乱れた息を整えながら中に入る。
 少年は気付かずに車の機械部分に頭を突っ込んでごそごそやっている。僕は邪魔したくなかったので立ったまま待った。
 しばらくして、少年は車から頭を抜いて息をついた。額の汗を拭い、軽く頭を振る――そして、僕に気付いた。
「……北澤さん? なんでこんなところに!?」
 驚いて立ちあがる彼に、僕は笑ってみせた。
「やあ、お言葉に甘えて君の走ってるところを見に来たよ、走一君」

 僕の名前は北澤昇治。現在高校二年生。
 どーいうわけか気になってしょうがない十二歳の同級生、菅野走一君の誘いに乗って、僕はここエクスドライバー基地へとやってきていた。
 そして今、声をかけながら僕はビビりまくっている。
 声震えてなかったよな? どもってなかったよな。服おかしくないよな? 髪型もきちんとしてるはずだし。ああそれよりも本当に来ちゃってよかったんだろうか。単なる社交辞令だったのかも。いや単なる社交辞令で地図まで渡しはしないだろ? いや渡す人は渡すって。
 ――などと頭の中がぐるぐる回っている僕の目の前で、走一君は戸惑っていた顔を笑顔に変えた。
「……本当に来てくれるなんて、思ってなかったよ。ありがとう」
 うっ!
 そ、そんなことを言われたら、言われたら……
 嬉しいじゃないか! すっごく!
 ああっ、三時間かけて身だしなみを整えたかいがあった(関係ない?)!
 来てよかったぁ!
「あ、あの、走一く……」
「おーい、走一ィ! 組み立て中のヤツのSLDどこにやったか知らないかー……って、あれ?」
 ガレージの奥から男が出てきた。茶髪に赤のツナギを着た、多分三十代くらいの男で、ちょっと驚いたような顔をして僕と走一君を見比べている。
「……誰?」
 言われて、走一君がああ、と笑った。
「小川さん、こちら北澤さん。俺の学校の同級生で、俺の走ってるところが見たいってわざわざ来てくれたんだ。北澤さん、こちら小川さん。俺たちエクスドライバーの使う車の整備をしてくれてるんだ」
「は、はじめまして、北澤です。走一君にはいつもお世話になってます」
「はあ、これはどうもご丁寧に。小川です、どうぞよろしく」
 小川さんという人は頭をかきながらぺこりと礼をすると、走一君を指でつついた。
「しかし、いいのか? ここ一応普段は関係者以外立ち入り禁止だろ?」
「え!? そうなんですか!?」
「小川さん、そんなこと言わないでよ。俺の友達なんだから、別にいいだろ?」
 そう言って走一君は僕ににこっと笑いかけてくれた。
「気にしないでいいからね、北澤さん」
 ――ぼっ。
 と音がするほど頭に血が昇ったという気がした。
 友達。友達。友達という言葉を四倍角にして一番目立つところに貼りつけたい気分だ。
 この前までロクに話したこともなかったのに……うう、大出世。
「まあ隊長に知られなきゃ別にいいと思うけどな。……そんじゃ、せっかく来てもらったんだからお望み通りお前の走りを見せてやったらどうだ?」
「あ、うん。ちょっと待ってて、もうすぐ整備終わるから」
「あ、気にしないでいいよ、いくらでも待つから。僕が勝手に押しかけてきたんだし」
 走一君は、それを聞くとにこっと笑ってまた車にもぐり込んだ。
 僕はウキウキしながらそれを見る。本当に、何時間でも待つ気でいた。
 走一君は、やっぱり学校にいるよりここにいる方がいきいきして見える。高い能力と自信、その二つが合わさって子供なのに熟練した大人みたいな雰囲気ですごく魅力的だ。
 もちろん学校にいる走一君も可愛いんだけど――
 ん?
 ちょっと待て。今僕何考えてた?
 そりゃ走一君は可愛いが、今の僕の思考にはなんだか別のニュアンスがこめられていたような……。
 と、ガレージの外から小川さんが手招きをしているのが見えた。他に誰もいないから多分僕にやってるんだろう。
 慌てて小走りに小川さんのところに駆け寄る。
「あの、何か……?」
「お前さん、車に興味あるのか?」
「え?」
「エンスーに興味あるのか、ってことだけど」
 エンスーって? と聞き返しそうになって慌ててそれを抑えた。
 これは……正直に『全然ないです』とはとてもじゃないが答えられん……!
「ええ、まあ。最近ちょっと。まだ何にも知らないんですけど」
 よっしゃ、いい答えかただ、僕。
 小川さんはほうほうと満足げに頷くとニッと口の端を吊り上げた。
「それなら後で今組み立て中の車を見せてやろうか。一から車を組み立てるのを見るのはけっこう勉強になるぞ」
「あ、ありがとうございます!」
 全然嬉しくない……。
 という内心はおくびにも出さず、僕は嬉しげに笑ってみせた。
「レシプロカーに興味があるから走一の走りを見たかったのか?」
「え、いえそういうわけではないんですけど」
「へえ?」
 小川さんが面白そうに僕の顔を覗きこむ。
 ……しまった、つい正直に答えてしまった。
「じゃあ、どういうわけで?」
 ……ここは、正直に答えたほうがいいな。
「……僕、走一君の眼が気になるんです」
「眼?」
「眼っていうか。走一君、学校でも明るくて元気なんですけど……時々、遠くを見るような眼になるっていうか……なんだか、いつも僕たちとは違ったものを見てるような気がするんですね。それがなんなのかすごく気になって――彼が夢中になっている車を運転してるところを見てみたくなって――彼にとってガソリンカーを運転することがそれなんじゃないかって思って。すいません、わけわかりませんね」
「……いや」
 小川さんはしばらく何か考えるようにすると、ふいに声を上げた。
「走一ィ! 倉庫の奥のカートちょっと使うぞ!」
「わかったー!」
 走一君は車に頭を突っ込んだまま答える。
「カート?」
「ああ。ついてきな。いいもん見せてやるよ」

「無理ですよお!」
 僕はカート……小型のぺったりした車の運転席にシートベルトで縛りつけられながら声を上げた。
「何言ってんだ。たかがカートだぞ? 事故ったところで死にゃしないって」
「死にゃしなくたって無理です! 僕運転なんてできませんよ!」
 そう、僕は小川さんにこの小さなカートに乗せられ、サーキットを一周するように言われたのだ。
「四の五の言ってないでとりあえずやってみろって。男だろ?」
「男だからって文句言っちゃいけないってのは不当な差別です!」
 押し問答していると走一君がそばに寄ってきた。カートに乗っている僕の顔を覗きこんで言う。
「大丈夫だよ、やってごらん? 車はそう簡単には乗ってる人に怪我させたりしないよ。気楽な気持ちで、ね?」
「……やってみます」
「うん」
「ったく、お前さんは走一の言うことだとあっさり聞くんだな」
「ベ、別にそういうわけじゃ!」
「ほら、いーから運転してみろよ。右がアクセル、左がブレーキだ。で、その隣がバックな」
「は、はい……」
 走一君と小川さんがカートから離れる。僕は一人になって、もう一度カートの操縦方法を確認した。
 右が進む、左が止まる。その隣がバックで、ハンドルを回せば左右に曲がる。
 これでいいん……だよな……ええいいつまでも考えていてもしかたがない!
 僕は思いきり右足を踏み込んだ――
 ――瞬間、頭が真っ白になった。
 ガツン、とサーキットの沿石にぶつかってカートが止まる。僕は慌ててアクセルから足をのけた。
 ……今のって……なんか……
 バックしてコーナーの入り口少し前まで戻り、もう一度アクセルを踏み込む。
 とたんにカートは爆発的に加速した。体がぐぅっとカートに押し付けられ、耳元で風が唸りを上げる。
 今度は沿石にぶつからないよう全開でハンドルを切る――とたん反対側の沿石にぶつかった。
 またバックして緩めにハンドルを切ってみる。今度は上手くいって、カートは緩やかにカーブを曲がった。
 アクセルを踏み込むと景色がすごい早さで後ろにふっとんでいく。
 空気が僕の顔に叩きつけられ、左右に割れる、風を切る感覚。
 跳ねるカートを必死にハンドルでコントロールする。
 ……楽しい!
 これって、楽しいじゃないか!
 僕は夢中でハンドルを切った。
 走一君の見てた世界ってこんなに……こんなに……
 小川さんが大きく手を振るのが見え、僕は全力でブレーキをかけた。

 僕は震える手でシートベルトを外し、運転席から降りようとする――が足に力が入らなくて立ち上がれない。
 たった一周しただけなのに、体中ががくがくしていた。
 小川さんがそばによってきて、手を貸して立たせてくれたが、それでも腰から力が抜けてヘタヘタとへたりこんでしまった。
「……大丈夫?」
 走一君の心配そうな声音に、僕ははっと立ち上がろうとして、こけた。
 ううう、走一君にみっともないところを見せまいとしてますますドツボにはまってる……。
「だらしねえなあ、いい若いもんが」
「そう言わないでよ、無理ないって初めてなんだから。だよね?」
「あ、う、うん、ごめん、みっともないとこ見せちゃって……」
 顔では情けない笑みを浮かべていたが僕は内心泣きそうだった。
 恥ずかしすぎる。たかがカートで一周しただけなのに立つこともままならないなんて。
 だが、走一君は笑って言った。
「そんなことないって。それより、どうだった?」
「え?」
「走ってみて」
「……!」
 そうだ、それを伝えたいと思ってたんだった!
 僕は勢い込んで話し出した。
「すごかった! 凄い早さで景色が後ろに飛んでって、風が勢いよく顔にぶつかってきて――それで、それをやってるのが自分――っていうか、車なんだけど、それをコントロールしてるのが自分ってことが……なんか、すごい気持ちよかったよ!」
 やたらどもったり早口になったりして話としては聞くにたえないものだったろうに、走一君は嬉しげに笑ってくれた。
「そっか。よかった」
 ……なんだか僕はじーんときてしまった。
「走一君は、いつもあんな景色を見ていたんだね」
 学校にいる時も、いつもあの超高速の景色に思いを馳せていたんだね。
 なんだか僕は深く納得してしまった。いつもあんな景色を見て、それに全エネルギーを傾けていたんだったら、学校でのごちゃごちゃした人間関係がめんどくさく思えたって当たり前かもしれない。多分本人にはそんな自覚ないだろうけど。
「言っとくがな、走一の走りはあんなもんじゃねえぞお?」
「小川さん! からかわないでよもう」
「整備したてのピッカピカのヤツを見せてやるよ。まあこっちこいや」

「ケータハムスーパー7JPE。水冷直列四気筒エンジン、250馬力オーバー、オープン2シーター……」
 小川さんが低い声で呟く解説を半ば聞き流しながら、僕はそのスーパー7という車に見入っていた。
 第一印象は黄色い″。タイヤとシート以外のほぼ全てが黄色に塗りたくられている。
 そして次に――
「どう、北澤さん?」
 走一君が僕を見上げて訊ねる。
 その顔はやや照れくさそうながらも誇らしげで、彼が心底からこの車を大切に磨き上げているんだということがわかった。
 実際、どこもかしこもつやつやと光った車ではある。だが――
「うん、カッコいいよ。これ、いつも走一君が整備してるの? すごいね」
「別に、普通だよ。俺はただこいつが好きなだけだし……」
「俺もやってるんだぞ、言っとくが」
「……でも、なんだかこの車骨組みだけみたいに見えるんだけど。雨の日とか、どうするの?」
 そう、このスーパー7とやらには屋根がなかった。多分エンジンとかが入ってる小さめのフロントと、そこから伸びる何本かの細いシャフトとばねみたいなもので連結されたタイヤ、ほとんどパイプだけで構成された座席と後部車体。それだけだったのだ。
 僕の言葉に、走一君と小川さんは顔を見合わせて苦笑する風を見せた。
「……まあ、この車は言っちまうと晴れの日専用みたいなもんなんだよな」
「晴れの日専用? ……車なのに?」
「スポーツカーだからね。輸送力じゃなくて走ることそのものが目的なんだ。だからその分、走力はすごいよ?」
「へえ……見せて、くれる?」
「もちろん!」
 走一君はにこっと笑って運転席に乗った。シートベルトをつけて、ゴーグルを被り、グローブを両手にはめる。
 僕は小川さんに促されて後ろに下がった。小川さんが手を大きく振り、同時にスーパー7がピットを飛び出す。
 僕は神経を集中させて、その姿を見送った。

 スーパー7がガレージにその車体を収め、走一君がベルトを外して車から降りた。ゴーグルとグローブを外し助手席に置く。
 そして一回強く頭を振ると、こちらを向いて笑いかけてきた。
「どうだった?」
「……かっこよかった!」
 僕は顔を興奮で真っ赤にして叫んだ。
 本当にかっこよかったのだ。目にも止まらぬスピードでサーキットをかっとばすスーパー7。
 コーナーを曲がる時も遅滞というものがまるでなく、どんな時も走りが滑らかで、僕は踊りを踊っているようだと思ってしまった。
 そしてそれをやっているのが、まだ十二歳の可愛い走一君だと考えると背筋がゾクゾクしてしょうがなかった。
「本当に、すごくかっこよかったよ! なんだか走ってるの見てて芸術作品みたいってゾクゾクしちゃった!」
「き、北澤さん、それいくらなんでも褒めすぎだって。かゆくなっちゃうよ」
「そんなことないよ! 本当にすごく……」
「走一、俺向こうのガレージにいるから。北澤くん、ごゆっくり」
「あ、うん」
「…はい、どうもすみません」
 小川さんが出ていくと、しばし沈黙が降りた。僕も気勢を削がれ、話のきっかけを失ってしまっていたのだが、すぐに走一君が話し出した。
「あのさ、よかったら、一緒に走ってみる?」
「え!?」
「あ、いやならいいんだけど」
「いやなわけない! …ってそうじゃなくて、いいの!? 僕なんかが、その…隣に乗って!?」
「うん。俺めったに誰かをのっけて走るってことないんだけど、そういう経験も積んどいた方がいいかなって思って。……それに北澤さん、いい人だし」
「……ありがとう……」
 僕は感動してしまった。
 なんていい子なんだろう。可愛いし、優しいし、もう本当にどうにかしてやりたくってしょうがない。
 ……どうにか?
 どうにかってなんだ。何を考えてんだ、僕?
「北澤さん!」
 ………!
 走一君が下から僕の顔を覗きこんでいた。身長差のせいでどうしても上目遣いになる。
 大きくて黒目がちの瞳が僕を見上げ、大きめのピンク色をした唇が小さく動く。
「どうしたの? 大丈夫?」
 その一抱きにできそうな小さな体が僕のそばに擦り寄るように近づいてくる。
 白くつややかな肌と黒くきらめく瞳の対比。瞳が心配そうに、潤んでいるように見え――
 僕はガバッと走一君を抱きかかえるようにしてガレージの壁に押し付け、唇を奪っていた。
 想像どおり走一君の唇はとても柔かかった。油とかきたての汗が入り混じった不思議な匂いがする。そして同時に体中からなんだか乳臭いような子供っぽい匂いもした。
 僕は走一君の後ろ頭を優しく支えながら舌を走一君の口内に侵入させた。走一君の舌は引っ込んでしまっていたが、それでも軽く舌先を突っつき歯の裏をなぞり口内を思うさま愛撫する。
 走一君は瞳を大きく見開いて硬直していたが、やがてだんだん力が抜けてきた。ゆっくりと目を閉じ――
 そしてようやく僕は正気に戻ってきた。
 ――やっちまった。
「…ご、ごめん!」
 叫んで走一君の肩を放し、猛然とガレージの外へダッシュする。
 サーキットの脇を通りぬけて、通用口からエクスドライバー基地の外へ出た。
 どうするんだ僕ー! 明日走一君とどんな顔して会えばいいんだー!
 パニックに陥りながら、でも頭のどこかで「走一君の唇って、柔かかったな……」などと不届きなことを考えている僕だった。


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