あ、また外見てる。 僕は彼の二つ後ろの席で、そう小さく呟く。 彼は窓際の一番前という教師にかなり目をつけられやすい席にいるにも関わらず、時々ふっと授業と全然関係ない方向を向く時がある。 そんな時、彼の子供っぽいくりんとした瞳は、外の景色とは別の、全然違う何かを映しているように見えた。 何を見ているんだろう。何を考えて、外を見つめているんだろう。 そういう風に彼の事を考えること自体、彼にとっては鬱陶しいのかもしれないけれど。 僕の名前は北澤昇治。現在高校二年生。 僕は最近、あるクラスメイトが気になって気になってしょうがない。 彼の名前は菅野走一。男、十二歳。 五年もスキップしてまだ余裕があるほど頭脳明晰な少年。そしてその年で暴走AIカーを止める役目を負った特殊運転能力者エクスドライバー″でもある。 そんな彼は、わずか数ヶ月前に転校してきたにも関わらず、ずいぶんクラスに馴染んでいると皆から思われているようだった。 十代も後半に入った高ニの教室の中で、その小さい体はかなり目立つけれど、そのあからさまな体格差をものともせず、皆に宿題を教えているところなんかよく見かける。 確かにそう言う意味では彼はクラスにとけこんでいると思う、けれど―― 僕には彼が、僕たちとは違うところに立っているような気がして仕方がないのだった。 たとえば、彼は話しかけられたらごく普通に、明るく受け答えする。言葉ははきはきと淀みなく、立ち振る舞いもごく自然だ。 だが、彼は、用事がある時は別として、一度も自分からクラスメイトに話しかけたことがない。 話しかけられない時は、大抵一人で本を読んでいる。 同じエクスドライバーの榊野さんなんかはしょっちゅうクラスの中心で騒いでいるのに―― 他にもいろいろあるけれど、ともかくそんなこんなで、彼はどこか自分たちとは違う場所に立って違うものを見ている――そんな気がしてしょうがなく、僕はいつからか――彼のことがひどく気になって、いつも目で追うようになってしまった。 気になったから目で追うのか、目で追っていたから気になるところを見つけたのか、本当のところはわからないけれど。 教室での昼食を終えて、僕は自分の席でぼおっとしていた。 僕の席は窓際の前から三番目、既に言ったが走一君の席の二つ後ろだ。 走一君はあっという間に食べ終えて、席を立ってしまった。食べる速度の遅い僕はそれを悲しく見送ることしかできない。 頬杖をついて窓の外を見る。 走一君の見ていた景色とほぼ同じ景色だと思うけど、でもやっぱり違うんだろうな。 彼のあの瞳――二つ後ろだからよくわからないけれど、まるで何か夢見るような―― (あ) はっと気付いた。眼下の景色に走一君がいたのだ。 中庭の木の下に座りこんで、一人本を読んでいる。 (……やっぱり一人だ) 口の中で呟く。 たぶん彼には、少なくとも学校で友達″と呼べる人間はいないと思う。エクスドライバーっていう仕事″を持っているせいもあるんだろうけど、一緒にどこかへ遊びに行こうって誘うような人間はいない――というか、たぶん彼自身がその気にすらならないような気がする。 人当たりはいいけど、どこかシビアだ。 学校以外では、もっと違う風なのかな―― (え?) 気付いた。走一君が力が抜けたように首をがくんと折り、ページをめくっていた手を脇に投げ出しているではないか。 これは――もしかして、寝てる、のか? (――チャンスだ!) 僕は即座に立ち上がって教室を飛び出す。 どんな本を読んでいるのか覗き見れる。今まで分からなかった彼の素顔を垣間見ることができるかもしれない! (それに寝顔も見れるし) ――寝顔? ……彼の寝顔を見て一体どうする気だ、僕。 走一君は木に背中を預けて、ぐっすり眠っているようだった。 ……疲れてるんだろうか。 ちょっと心配になった。本を読みながら、しかもこんなところで寝てしまうというのは昨日あんまり寝てないせいなのじゃないかと思える。 (大丈夫かな) 彼の寝顔を見ていると心配が加速度的に大きくなってきた。彼の首はドキッとするくらい細くて、彼がまだ十二歳の子供なのだということをいやがおうにも思い出させる。 (……本当に、まだ子供なんだなあ) 夏服の半袖からのぞく二の腕も僕のそれより一回り以上細く、柔らかそうだ。健康的な琥珀色の肌もびっくりするほどきめが細かい。触ったときのすべすべした感触が手に取るように感じられた。 (こんなに小さくて可愛いのに……もう僕よりずっと重い責任を背負ってるんだなあ) 陶磁器のように滑らかな頬は子供らしくふっくらとふくらんでいる。形のいいおでこにかかる髪の毛は、洗いたてみたいにサラサラだ。 というか、走一君の顔は全体的に形が整っていて、バランスがいい。 小さくて筋の通った鼻、大きな口と瞳――は今閉じているから見えないが。 大きくなったらきっとハンサムになるな。今は可愛いって感じだけど。 近寄って、そっと顔を覗きこんでみる。瞳は見えないけど、まぶたを閉じているせいで睫毛がよく見えた。 やっぱり長いな、睫毛。 ふいにどうにもつっついてみたくなって、僕は起こさないように気をつけながらそろそろと睫毛に指先を伸ばした。 ――と、パチッと指先のまぶたが開いた。 「――うわわわわわわっ!」 思わず声を上げてその場から飛びのく僕。 心臓がドカドカと派手なマーチを歌っている。 そりゃいつ起きたって別におかしかないが―― 何も指を伸ばしたその瞬間に目覚めることはないじゃないか! 走一君は何がなんだかよくわからない、という顔でぼうっとこっちを見ている。僕は慌てて弁解を始めた。 「あっ、あの、ごめん! ごめんなさい! いや実は、その…なんて言うか、ほらあれだ、本! 君の読んでる本がどんなのかなーって急に気になって! 気に障ったらごめん! 本当にごめん!」 走一君はきょとんとした顔を人差し指でちょっとかいて、にこっと笑った。 「それならそう言えばいいのに。別に気にしないよ」 「そ、そう? よかった」 「えっと……北澤さん、だったよね」 「え!?」 僕は思わず硬直してしまった。 「僕の名前、知ってるの!?」 「そりゃ知ってるよ。クラスメイトだろ?」 「……びっくり、した……」 本当に驚いた。僕は走一君のことをずっと見てきたけど、話しかけたことはいっぺんもなかったのだ。 なんだか我ながらストーカーぽくって嫌だったけど、話しかけるきっかけもなかったし、有象無象に混ざって宿題教えてもらうっていうのはなんか違う気がしたし。 それを、名前を覚えて、顔と一致させてくれるなんて―― (すごく、嬉しい) うん、嬉しい。 「……ありがとう」 「……なにが?」 「その……名前、知っててくれて」 走一君はわずかに苦笑するふうを見せた。 「そんなのでお礼言うのってなんかおかしくない? クラスメイトなのにさ」 「いやでも…僕、君に話しかけたことなかったし…それなのに、よく名前覚えててくれたなって。やっぱり記憶力いいんだね、走一君って……あ、名前で呼ばれるの嫌かな」 「ううん。親しい人には大抵名前で呼ばれてるから」 「……親しい人って?」 言ってからしまった! と思った。こんなこと言ってもし反感を買ったらどうしよう。 だが走一君は微笑んで、あっさりと言った。 「ローナさんとか。理沙も一応、そうかな」 「…やっぱり、エクスドライバーの同僚の人たちとは、親しいんだね」 学校の他の人たちとは、親しくなさそうだけど。 内心思ったことには当然気付かず走一君はうなずいた。 「まあね。一緒に仕事してる仲間だからさ。ローナさんも、一応理沙もね」 それはそうだろうと思う。だがそうはっきり言われると、なんかカチンと来るものがあった。 「…ねえ、本、見てもいいかな?」 その気持ちをできるだけ早く投げ捨てようと、声をかける。 「いいよ。どうぞ」 走一君は膝の上に開いていた本を取って差し出してくれた。さっそく受け取って中を見る。 「……これって……」 そのページにあったのは、なんだかよくわからない機械の塊の構造図だった。 「レシプロ・エンジンの構造図だよ。ふだん使ってるのとは別タイプのでね。今度その型の車のレストア手伝うから復習しとこうと思って」 「……なるほど……」 それはわかったが――しかしこれって読んでて楽しいんだろうか? 僕は見てるだけで頭が痛くなってきたんだけど。 「…あのさ、走一君。いつも読んでた本って、皆こういう…なんていうか…機械の本なの?」 「機械っていうか、技術書が多いかな。本を読めばわかるってもんでもないけど、知識はあるにこしたことはないから」 「……よっぽど好きなんだ。こういうの」 「もちろん!」 走一君はにこっとはじけるような笑顔を見せる。僕は思わずどきりとした。 「…それってやっぱり、エクスドライバーだから?」 走一君はちょっと笑って言った。 「エクスドライバーだからっていうか……俺がこういう俺だからって言ったらいいかな。もし俺がエクスドライバーじゃなくても、俺は何らかの形で車に関わってたと思う。生まれて初めてガソリン・カーに乗った時のことは今でも忘れられないよ。エンジンから伝わる振動、ハンドルとタイヤと地面が繋がっているあの感触。車と一緒になって風を切る気持ちよさったら! 車って生きてるんだって、心から思ったな。だから俺は、たぶん生きている限りずっと走り続けると思う……」 と、夢中になって語っていた走一君が我に帰ったように照れた顔になった。 「…こんな話してもつまんないよね」 「そんなことないよ!」 自分でもビックリするくらい大きな声が出た。走一君も驚いて少し口を開ける。 「なんていうか……凄いなって思った。走一君が本当に車が好きなんだなって、ちょっと感動しちゃったよ。そういう夢中になってる走一君、いいと思う。普段学校でなんか違うって感じの走一君より全然いいよ!」 「………」 「あ! ご、ごめん、気に障った?」 「ううん」 走一君はかぶりを振って、にこっと笑った。 「そんなふうに言ってくれるなんて思わなかったよ。ありがとう」 「……いや……別に……気にしないでよ」 照れる。 にっこり笑ってありがとう、なんて……これは照れる。 照れ隠しに髪をかきあげながら言った。 「あーでもいいな、榊野さんたちは走一君の走るところが見れて! 僕も一度走一君がどんなふうに走るのか見てみたいよ」 「……なんなら、見に来る?」 「え?」 走一君が笑って地図らしきものを僕に渡した。 「それ、エクスドライバー基地の地図なんだけど。俺、休日は大抵そこで走ってるから」 「……え? い……いいの?」 「うん。俺の走りなんて見て楽しいかどうかは保証しないけどさ」 そう言うと、走一君はまた笑った。 と、予鈴が鳴った。走一君は慌てたように立ち上がる。 「やば、予鈴だ。急がないと……じゃ、お先に!」 走一君がその場から立ち去っても、しばらく僕は動かなかった。 やがて、実感がうわーっと襲ってきた。 「うわ――――ぉっ!」 足を踏み鳴らし、体を叩き、なんとか興奮を鎮めようとする。 (誘ってもらった) これは一大事だ。 (走ってるところ見てもいいって) すごいことじゃないか。 もうもう、興奮しちゃってしょうがなかった。授業に遅れないよう教室へ走りながらガッツポーズを繰り返す。 (今日帰ったら乾杯だ) なんでそんなに嬉しいのか自分でもわからないくせに、僕は嬉しくて仕方がなかった。 |