怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い。 俺はそんな言葉で頭をわんわんさせながら走った。人が来たら素早く身を隠し、人に見つからないようにしながら。――今の自分を誰にも見られたくなかったから。 俺はたまらない恐怖に突き動かされながら走っていた。遺跡跡を目指して。今の俺がいられる場所は、そこしかないと思った。 なにがそんなに怖いんだよ。俺の頭の冷静な部分が訊ねる。 わからない、でも怖い。逃げ出したい。襲ってくるものから。 ――誰かに、助けてほしい。 墓地を走り抜けて崩れてまだ修復されていない遺跡の中に飛び込む。着地した足首が少し痛かったが、それでもぼろぼろの遺跡を見てようやく少し息がつけた。 崩さないように気をつけながらぼろぼろの遺跡を歩く。宝がないから気晴らしにしかならないのはわかってたけど、奥へ奥へと進まずにはいられなかった。 宝探しがしたいな。 ふいに思った。俺が一番生きていると感じられる場所に行きたい。 生きるか死ぬかのギリギリのスリル。一瞬の判断が生死を分ける知恵も技術も持ってるもの全部使わないと生き延びられないチリチリした空間。 そこでなら、俺は――― 『―――九龍ッ!!』 「!」 俺は驚いて勢いよく振り返った。そして固まった。 そこには、アムさんとナギ――現在俺がどちらか選び出さなくちゃならない人たちが立っていたからだ。 「…………なんで…………」 ほとんど固まりながら、それだけ口にすると、アムさんはひきつった顔で冷や汗を流しつつ何度も手を上下に動かしながら言った。 「九龍、いいか九龍。動くなよ」 「………は?」 ナギは少し顔をしかめながら言う。 「九龍。君は自分が今どういう状況にいるか気づいてないのか?」 「え?」 「……足元をゆっくり見てみろ」 言われて素直に下を見て、驚いた。あと一歩、いや半歩ずれてたら俺は二十m下の瓦礫の山へ真っ逆さまだった。非常に際どい崖のギリギリを歩いていたわけだ。さすがにこれは落ちたら死ぬ、魂の井戸が手近にない今じゃヤバい。白岐がいれば大丈夫だったろうけど。 「うっわー、よく気づかなかったなー俺……なんにも見てなかったんだなー……」 こんなんじゃ親父に殴られるな、と頭をかきながら踵を返すと、アムさんが血の気を引かせた顔を悲鳴をあげたそうに歪めた。もしかして心配してくれてるんだろうか、と思うと胸がきゅんとして抱きつきたくなる――というか本当に目の前に立った時は抱きつきそうになったけど、我に返ってやめた。 今の俺には、この人に抱きつくのは許されていない。 「……九龍。君はなんでこんなところにいるんだ」 「え。えー……なんとなく、かなー?」 その答えにアムさんとナギはため息をつく。ナギが携帯を取り出してどこかに電話をかけるのを見て、ようやく気づいた。 「……もしかして、探させちゃった?」 ナギは苦笑して答えなかったが、アムさんは少し怖い顔をしてこん、と俺の頭に軽く拳を落とした。 「ルイちゃんから連絡が来たよ。阿門くんのところからお前さんが我を忘れて逃げ出したって。君が我を忘れることなんてほとんどなかっただろ。阿門くんが心配して仲間内全員に連絡取ったんだよ。あとで謝っとけよ、みんな心配してたぞ」 「……うん……」 うつむく。心配してくれる人がいる、俺を少しでも大切に思ってくれている人がいるというのは素直に嬉しかった。 だけど、でも、俺は――怖いんだ。なんだか今、とてもとても怖いんだよ。 ナギが電話を終えて、こっちを向く。アムさんが少し急かすように言った。 「九龍。帰ろう。仲間のみんなが心配してるぞ」 「…………」 ナギはじっとこちらを見つめてくる。なにも言わないで。アムさんが少し苛立たしげに言った。 「九龍」 「………………」 俺はどうしよう、と思って立ち尽くした。アムさんに逆らうのは嫌だ。怒られて嫌われるのは嫌だ。だけど、俺は、今、ここにいたいって思ってる。 「九龍!」 「………………」 俺はなんて言えばいいのかわからないまま、アムさんを見て、ナギを見た。するとアムさんは「あーっ………」と言いながら頭をぐしゃぐしゃかき回して、喚く。 「君はどこまでわかってやってんだ!?」 「え……」 「そーいう頼りなげっつーか世界にあなたしかいないのみたいな寂しそうな目で俺を見上げるなよこの状況で、ていうか俺の前でそういう目で夕薙くんを見るな! 嫉妬させたいのかええ!?」 「え……そんな、変な顔してた?」 「変ってだからなぁ君は……!」 それからまた頭をぐしゃぐしゃかき回して、「あーっ……」と呻く。俺はどういう反応を求められてるのかわからなくて戸惑った。 「……九龍。どうした?」 「え……?」 「君らしくないな。なにかあったのか」 「………………」 俺はうつむいた。なにか≠ェあったわけじゃない。あったっていうならそんなの五日前から怒り続けている。 だけど、俺は、今とても不安定だ。自分で、よくわかる。 「……俺、もうちょっと、ここにいたいな……って」 『…………』 二人はしばし俺の顔を見つめ、それぞれ肩をすくめた。アムさんは無表情に、ナギは少し面白がるように。 「わかった。つきあうよ」 「俺も一緒にいていいか、九龍?」 「え……」 俺は少し戸惑ったけど、アムさんはむすっとした顔でどっかりとあぐらをかき、ナギは薄く笑んだ顔で壁に背中を預けた。俺は少しおろおろしたけど、結局二人の真ん中ぐらいに腰を下ろす。 沈黙が下りた。気まずいというかなんというか、アムさんは仏頂面で煙草をくゆらせナギは薄笑いを浮かべながら俺を見ている。 俺はといえばなにも言えずうつむくしかなかった。なんだか顔を合わせられない。なんでだろう、子の二人が好きなのに、それは全然変わらないのに、顔を見れば抱きつきたいと思うのに――顔を見るのが、怖い。 こうしてそばにいるだけで、心臓が苦しいように高鳴る。緊張しすぎて吐き気がしてきた、こんなのどれくらいぶりだろう。なんだかよくわからないけれど、気持ち悪いくらい鼓動が早い。 「……今日は、らしくないな」 俺に言われてるとはしばらく気づかなかった。 「え……」 声を出した人――アムさんを見ると、アムさんは仏頂面で虚空を見つめながら言葉を重ねてきた。 「不安定になってるみたいだ、って阿門くんは言ってたが」 「…………」 「自惚れてもいいのか。その理由は、俺だって」 「……それ、とか。いろいろ……」 「……ふーん」 アムさんがふん、と面白くなさげに鼻を鳴らす。俺の心臓が痛いくらい早鐘を打った。 怖い。怖い怖い。嫌われるのが怖い。 どうすれば好きでいてくれるんだろう。好きになってくれるんだろう。俺は今までどんな風に人と接してたっけ? というか――そもそも、なんでこの人たちは俺を好きだなんて言ってくれたんだろう? アムさんは俺をやや訝るような目で見て、今度はナギに視線を向けた。少し皮肉っぽい口調で言う。 「夕薙くん、君はよっぽど九龍にご執心のようだが。どこに惚れたんだか聞いてもいいかい?」 俺はアムさんがそんなこと言い出したことに驚いて目を見張る。ナギは小さく笑って、肩をすくめた。 「聞いたところで意味のないことだと思いますが?」 「他に話す価値があって適度に穏便な話題なんてないだろ。別に意味なんてなくていいさ、単なる世間話だ」 「世間話ねぇ」 ナギは半分面白がるような、けれど半分は苦い笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「正直、あなたの九龍に対する好意と俺のそれには隔たりがあると思うんですが――そうですね、まず最初はどんな人間も懐に入れてしまうその開けっぴろげさに好意を持ちましたね。会った人間みんなに、たとえ敵でもその価値があると思えばあっさり受け容れて愛を注ぐ。無邪気で、破天荒で、なのに裏切られてもそれを受け容れるしたたかさと強さがあって。こんな人間今まで会ったことがないと思って、その眩しさに惹かれました」 「ふんふん」 「けれど、惚れたと本気で感じたのは――そんな風に誰もに愛を注ぎながら、いつも一人で座り込んでいるところを知ってからかな」 「一人?」 驚いたような声を上げるアムさんに、ナギは笑みを浮かべながら続ける。 「ええ。九龍はいつも一人だ。仲間と喋っている時も笑っている時も遺跡に潜っている時も。世界にただ一人、膝を抱えて座り込んでいる」 「……そりゃ筋違いな評価ってやつじゃないのかい? あれだけ多くの人間を救った奴をつかまえて――」 「一人ですよ。だって彼は、誰に対しても執着心を持ってないんですから」 「――――は…………?」 アムさんが、息を呑んだ。 「誰よりも仲間たちを大切に思っているくせに別れを告げられたら笑ってさよならを言える人間ですよ、九龍は。来る者拒まず去る者追わず。相手が幸せになってほしいと思うしそのために最大限の努力をするけれど愛し返してほしいとは思わない。ただ自分一人の中に気持ちを抱え込んで、相手の執着をすり抜ける。……そういう欠けた人間ですよ、彼はね」 「……過激な意見だな」 ナギは獰猛に、肉食獣の表情で笑う。 「そして俺は、九龍のそういうところに非常にそそられるわけですが」 「……おいおい」 「めちゃくちゃに壊してやりたいって思いますね」 「……物騒だな」 肩をすくめるアムさんの顔は、少しひきつっていた。なんでだろう。ナギの言っていることが怖かったから? それとも――共感する自分がいたから? 俺は血の気が引く自分を感じていた。なんでだろう、俺ってナギの言ってるような奴なのか? そんな気もする。だけどだったら、なんでこんなに怖いんだ? 「あなたは九龍のどこが好きなんですか?」 ナギが軽い口調でそう訊ねる。アムさんは虚を突かれたような顔をして、少し考えた。 「……最初は……俺みたいな奴にも心から優しくしてくれる心根に惚れた」 じっとナギを見ながら、口にする。 「だけど今は……どこが好きなんだろうな。正直、俺はこの子が憎いのかなと思う時があるよ。さんざん浮気されて振り回されて、それでも俺に向ける笑顔はとびきりで。可愛いと思うし抱きたいとも思う。だけど君が九龍に触れたことを思うたび、腹が煮える」 「それは俺もご同様ですね」 「だから、決めたんだ。この子を解放して、行きたいところへ行かせてやろうってな」 「………ほう」 「それで終わりにしようと思ったんだ。俺のところに来てくれるかどうか、最後の賭けをしてな」 ナギがふっと笑った。 「なるほど。あなたは、もう諦めているんですね」 アムさんも同じようにふっと笑う。 「そうかもしれんな」 「――――」 俺は、固まった。 アムさんの言葉が頭の中でわんわん鳴っていた。苦しい。息が苦しい。心臓が痛い。なんだろうこれ。 アムさんがふいにこちらを向いて微笑む―― 「そういえば聞いたことがなかったな。どうして君は、俺を名前だけとはいえ、恋人なんてものにする気になったんだい?」 ―――――――! 「――っは!」 俺は、息を吐き出した。 凄まじい勢いでまた吸った。吐いた。吸った。吐いた。吸った。は、は、は、と早くはあったが休みのある呼吸は、一気に休みのないはははははははという呼吸に跳ね上がる。 「――ッ九龍!? どうしたんだいったい!?」 「過換気症候群だ! ちょっとそこをどいてくれ……!」 誰かが近づいてくる。もうそれが誰かの認識さえできない。とにかく苦しい。息が苦しい。 怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――― なにがそんなに怖いんだ? 別れが。永遠が。信じることが。 そして、自分の弱さが。 俺は笑い出したくなった。そんなこと不可能だったけど。どうして気づかなかったんだろう? 最初から俺は、そのために行動していたのに。 その思考を最後に、俺は意識を失った。 ――いかないで。 そんな言葉は間違っても言えなかった。わかっていたからだ。俺はあの人には――親父にとってはいらない存在なんだって。 物心ついた時から、俺は邪魔者なんだと心のどこかで思っていた。親父が女を連れ帰ってきて外に放り出されて、宝探しの時俺がよそに預けられて、それやこれやなんやかや、俺のために手間をかけるたびに親父が面倒くさそうにする姿を見て。その自覚は雪のように俺の中に降り積もっていったんだ。 だから絶望したってわけじゃない。今はそばにおいてくれているんだから、その間は頑張って好かれるようにすればいいって前向きに考えた。そこらへんは親父の教育の賜物だったのか、俺が元からそういう性格だったのかはわからないけど。 ただ、俺は、最初からずっと、諦めていた。 いつかは親父と別れることになる。それは絶対に避けられないことだって思ってきた。 どんな人ともいつかは別れる。それは、俺にはどうしたって変えられない絶対の真実だったんだ。 だから、俺は一緒にいる時は全開で優しくした。親切にした労わった心の底から愛した。誰にだって、敵だってそれだけの価値があると思いさえすれば。 いつかは別れるから、せめてこの一瞬は、大切にしたいってそう思うから。 だから俺は、永遠って言葉を、それに惹かれながらも心のどこかでずっと恐れてきた。怖かったんだ。ずっとそばにいるっていうことが。俺がもうどうしようもなく壊れて、壊してしまいそうで。 ああきっと。だから俺は、アムさんに惹かれたんだ。 あの人も最初からどこかで諦めてたから。最初からうまくいきっこないって予防線張ってたから。 そして、ナギにも惹かれた。あいつは、親父にそっくりだったから。 一人でも元気に生きていける強さがあって、そして俺を振り回す。俺を利用して俺の気持ちを揺らして、最後には心のど真ん中に豪速球。そういうとこ、すごく似てる。誠実なところは違うけど。 俺に似てる人と、親父に似てる人。 めちゃくちゃ不毛で、そして救いがない。結局俺が好きなのは自分だけだってことになるじゃないか。 俺は、結局、本当は。 本当は――― 「九チャン!」 その叫び声に、俺はぱっちりと目を開けた。 目の前にあるのは、キュートなお団子頭とわかめヘアーと異常なくらい長い鴉の濡れ羽色―― 「……やっちー、甲、幽花………?」 俺が呆然としながら言うと、三人はそれぞれの反応を返してきた。 「気がついたんだねよかったー! 夕薙クンと鴉室サンが運んできてくれたんだよ! もうッ、ホントに心配ばっかりかけるんだから……!」 「お前は阿呆か。あれだけ楽しみにしてた卒業式の前日に体調を崩すなんぞ妙な趣味でもあるのか? まァ俺には関係ないが、あとで俺に八つ当たるようなことはやめろよ」 「九龍さん……あなた、大丈夫かしら……? 苦しいところや痛いところはない? 瑞麗先生は大丈夫だとおっしゃっていたけれど」 俺は呆然と三人を見つめた。気遣ってくれている。こんな俺を、気遣ってくれているんだ。 精一杯の、優しさで。 俺はぶわ、と唐突に瞳から涙を流した。みんなが仰天して涙を拭いたり慰めたり怒ったりしてくるけど、それよりも。 こんなに優しい人たちが俺の周りにいるんだと思うと、泣けて泣けてしょうがなかったんだ。 さんざん泣いて泣き止んだ頃――俺は、ようやく答えを決めていた。 |