いつまでも君が好きそう決めたあてにならない自分
 ――熱い。
 頭の中が真っ白になるような、強烈な昂揚感。全力疾走している時のような、心身を疲労させながら昂ぶる熱。
 体が、心が熱い。燃えるみたいに熱い。頭がたまらなくくらくらして――
 死にそうだ。

 俺がのろのろとまぶたを開けると、ナギがいつものうさんくさい爽やかな笑みを浮かべてこっちを見ているのと目が合った。
「おは……よ……」
「声が枯れているな。大丈夫か?」
「……っ、誰の、せいだと……」
 昨夜のセックスは本気でハードだった。ナギは俺の気持ちいいところを的確に巧みに突いてきて、もーいやっちゅーほど喘がされて鳴かされた。
 ナギと引っ張り合いながら全力疾走しているような感覚。なにもかも焼き尽くすような勢いの強烈な熱。
 こんな熱いセックスは、ずいぶん久しぶりだと思った。アムさんのセックスはねちっこかったけど、優しかったから。
 ――アムさんのことを考えると、胸がずきりと痛んだ。
 ……俺、しちゃいけないこと、しちゃったんだ。
「なにか食べるか? 体が辛いならここまで持ってくるが」
「いいよ、平気。立てる……あのさ、ナギ」
「なんだ?」
 ナギは笑顔を俺に向ける。いつもの感情の読めない、うさんくさいぐらい爽やかな笑み。
「なんで俺を抱いたのか……言う気、ない?」
 ナギは片眉を上げて、少しおかしそうに唇の端を上げながら言った。
「君にはわからないのか?」
「できるなら、ちゃんと聞きたい」
「ほう」
 ナギは笑いながら肩をすくめると、さらりと答える。
「それなら言わない」
「……なんで?」
「ご想像に任せるということさ。その方が君は俺に都合のいい行動をしてくれそうだ」
「………それってずるくない?」
 俺の非難に、ナギはいっこうにこたえない顔で笑った。
「君だってずるいだろう」
「…………」
 確かにそうだ。俺は抵抗できた。死にもの狂いで抵抗すればナギとセックスするようなことにはならなかったはずなのに。
 わざと、流されたんだ。そっちの方が心地いいから。
 アムさんが傷つくことはわかってるのに――
 タララ〜タラララ〜。
 携帯の着メロが部屋の中に響いた。風詠みて水流れし都――俺の着メロだ。ここに来てから買った携帯に、一番後に入れたやつ。
 一瞬だけ、取るのをためらった。
 ナギが取らないのか? という意思をこめた、からかうような視線で俺を見る。俺はきゅっと唇を噛んで、携帯を取った。
「もしもし」
『……よう、九龍。鴉室お兄さんだよ』
「アムさん……」
 なんとなく予感していたことだった。
 アムさんはどこか困ったような、照れくさそうな声で言葉を連ねる。
『昨日は、悪かったな。君が悪いわけでもないのに勝手に……それで、できるなら今日』
「ごめん、アムさん。俺、浮気した」
 アムさんの言葉を遮っての俺の台詞に、アムさんは電話の向こうで絶句した。
『………九龍?』
「アムさんのこと嫌いになったわけじゃ全然ないけど。今でもアムさんのこと好きだけど。他の男とエッチしちゃったんだ」
『…………』
「ごめん、アムさん。俺、ずるくて」
『………………』
 プツッ、と音がして通話が切れた。ツーツーツー、と感情のない電子音が俺の耳を突く。
 俺は呆然と携帯を見つめた。自分で言っといてどんな反応してんだと自分でも思うけど、それでも呆然と。
「……別れ話にまでは至らなかったようだな。まあ、突然の話だからそれも当然か」
 俺は上から俺を見下ろすナギを、やはり呆然と見上げる。ナギはそんな俺を見つめて苦笑し、肩をすくめて言った。
「怒られたかったのか?」
「……うん。そうかも」
 俺は呆然と呟く。俺はアムさんにめちゃくちゃに怒られたかったのかもしれない。
 そうしたら俺はより強く、アムさんにつかまえられているって実感できるから。
 でも――アムさんは俺に、浮気したって言った俺に、なにも言わなかった。
「見捨てられたのかな……」
 ぼうっと呟く俺を見て、ナギはわずかに目を眇めた。
「相当ショックなようだな」
「……なんでわかるの?」
「わかるさ。これでも俺は三ヶ月の間君を見てきたんだ」
「…………」
 ナギはすっと、俺の目の上に手をかざす。
「もう少し眠るといい。目が覚めた時には、もう少しまともにものが考えられるようになってるさ」
「……なんで、そんなこと言うんだよ……」
 俺を抱いたのは、浮気をさせたのは、お前なのに。
 なんでそんなに優しいこと言うんだ。
 俺の言葉に、ナギはわずかに苦笑した。
「君の想像に任せるよ」
「そういう言い方、ズルイ……」
「年を取るとずるくなるのは当然だろう」
 二歳しか違わないくせに。
 ……アムさんは、どうなんだろう。俺が今まで会った限りでは、アムさんも少しだけ、ずるかったようにも思うんだけど……。
 そんなことを考えながら、俺は眠りに落ちた。ナギの優しい言葉に甘えて。

「……だから! 九龍さんがいるかいないか、それを聞いてんですよ俺はッ!」
「だから答えただろう? 『さぁな』と」
「誤魔化さないでくださいよッ! あんた俺に喧嘩売ってんすか!?」
 ……夷澤とナギの声が聞こえる。
 あーもー夷澤はまた揉め事起こしてんのかー……まー放っとくわけにもいかないよなー、なんか俺探してるみたいだし、会ってやらんと。はーやれやれ。
 そんなことを思いながら俺は起き上がり、夷澤とナギが話している部屋の出入り口のところに向かった。
「夷澤ー、まーそんなに怒んなよー。どうかしたのか?」
「九龍さ……」
 夷澤の顔がぱぁっと輝きこっちを向いた――と思ったとたん、夷澤の表情が固まった。驚愕と衝撃を絵に描いたような顔で、俺を凝視してくる。
「……夷澤?」
 怪訝に思って一歩夷澤のほうへ近づく――と、夷澤は顔をカッと赤くして後ろを向き逃げ出した。俺ととても話してらんないって感じの顔で。
「……なんだ?」
「九龍。その格好で歩き回るのは、俺にとっても少々刺激が強いんだが?」
「………へ?」
 その時初めて、俺は自分がすっぽんぽんで歩き回っていたことに気づいた。エッチしたまんまで眠っちゃったから、当然服なんか着ちゃいない。
「……もしかして、それで俺がいるかどうかとぼけててくれたの?」
「さほど効果はなかったがな」
「ありがと……でも、別にバラしてくれてもよかったのに」
「君はそう言うと思った」
 ナギはわずかに哀れむような笑みを浮かべ(……なんで?)、肩をすくめた。
「とりあえず服を着たほうがいいな。体の方はもう大丈夫か?」
「平気だよ。元から」
「そうか」
 そんな会話がふと途切れ、俺とナギはしばし見つめあった。無言で。ナギはいつもの余裕たっぷりの顔で、俺は俺らしくもなく妙にぼんやりした顔で。
 どこか緊張をはらんだそのにらめっこは、一分弱で終わった。ナギが苦笑の形に顔を崩して、すっと俺の顔に手を伸ばしてきたからだ。
「……ナギ?」
「……君は、きっと誰でもそんな風な顔をして見上げるんだろうな」
 そんな風な顔って、どんな顔だよ。
 俺の疑問が顔に出ていたのか、ナギはつつつ、と俺の頬を撫でながら答える。俺は愛撫される気持ちよさにぞくりと背中を震わせた。
「頼りなげで、切なげな――今すぐ押し倒して犯してと言っているような顔さ」
「なんだよ、それ」
 後半はからかうような笑いを浮かべつつの一言に、俺はいくぶんむっとしてナギを睨む。
 ナギはにこり、とひどく邪気なく笑って――俺の額にちゅ、とキスをした。
 ちょっと呆然としてナギを見上げる俺に、ナギは笑う。
「そろそろ自分の部屋に帰った方がいい。――まためちゃくちゃに鳴かされたいと言うのなら、俺はかまわないが」
「…………わかった」
 俺はくるりとナギに背を向けて、服を着始めた。鳴かされるのが嫌だってわけじゃないけど、今はもう少し自分で考えたいことがある。

 寮の廊下を歩きながら俺は考える。俺と、アムさんと、ナギについて。
 俺はアムさんが好きだ。それは今も変わらない。アムさんのことを思うと、今でも胸がほっこり暖かくなって、鼓動が気持ちよくどきどきと高鳴る。
 じゃあナギのことは? 友達や仲間としてならそりゃ好きだ。シビアなとこあるけど、優しいし、親切だし。いい奴だと思う。
 恋愛対象としてどうか、ってことになるとよくわからない。ナギの顔や体は正直言ってめっちゃ好みだ。あの無精ヒゲやら逞しい体躯やらがセクシーで、あの太い腕に抱かれて思いきり鳴かされたいとか思ったことは一度や二度じゃない、正直言うと(俺は別に色情狂ってわけじゃないから行動に移そうとはしなかったけど)。
 セックスの相手としてなら正直アムさんより好みかもしれない。でもそれが恋愛になるかっていうと――
 よくわからない。ナギの立ち位置が定まらない。友達じゃないナギ、っていうのは昨日初めて会ったけど、あのナギは俺に熱に浮かされたような感覚を与える。
 どこか冷たいのに、体と心をたまらなく昂ぶらせる熱。頭の中からなにもかも吹っ飛ぶんじゃないかと思わせるような、暴走する鼓動。
 背筋がぞくりと粟立つような感覚。体が震え、心が泣き叫ぶ。このままどこまでも流されてしまいたいって。
 ナギとのセックスは、確かに――頭の中が真っ白になるほどの快感を、俺に与えた。
 だからって、浮気していいってことにはならないんだけど。
 俺ははぁ、とため息をついた。俺って、節操なしだったのかな。恋人になったのはアムさんが初めてだからわかんなかったけど。
 俺はアムさんが好きだ。だから傷つけたくなんてない。浮気したいかしたくないかで言えば、したくない。
 けど、ナギとセックスしたことは、後悔してない気がする。自分でも、よくわからないけど。
 それは気持ちよかったから? ナギの気持ちもアムさんの気持ちも考えないで、ただ快感に流されたかっただけなんだろうか?
 気持ちいいことは好きだ。だから俺はセックスって好きだ。好きな相手とじゃなくても。
 でも、それは人を傷つけてまですることじゃない。
 俺はただ気持ちいいからナギとセックスしたわけじゃない、と思う。俺はそこまで最低じゃないとどこかで信じてる。
 ――けど、俺は最低の卑怯者かもしれないんだ。誰も特別扱いしないで、みんなに少しずつ愛情を注ぐ。
 それを思い出して、俺はまた深いため息をついた。俺は本当に、ただ気持ちよかったから流されたんだろうか。
「九龍さん!」
 考えに沈んでいたところに大きな声を出され、俺は思わずびくりとして声の方を見た。
 夷澤だ。走ってきたのか顔を上気させて、きっと睨むようにしてこっちを見ている。
 俺は思わずほんわりとしてしまい、にっこーっと笑って夷澤に駆け寄ってしまった。
「夷澤ー、お前は今日も可愛いなぁ〜!」
「ちょ、九龍さん……! なんなんすかッ、いきなり!」
 ぎゅむーっと夷澤を抱きしめてほっぺをむにむにする俺に、夷澤は顔を真っ赤にして俺を突き飛ばす。
「んもー夷澤ってば、相変わらず冷たいんだからな〜。でもそーいうとこもたまらなくプリティv」
「嬉しくないっていっつも言ってんでしょうがッ!」
「それはそれとして、なんか俺探してたみたいだけど。なんか用だったのか?」
「…………」
 夷澤は一瞬沈黙してうつむいたが、すぐにぐいっと顔を上げて俺を睨み言った。
「年末年始の予定聞こうと思ってたんすよ。俺今年は実家帰らないから」
「ふーん。俺なら卒業まではずっとここいるけど。ナニ、俺と遊びたかった?」
「そういうこと言ってんじゃッ……!」
 怒鳴りかける夷澤。だがその勢いは途中でしゅるしゅると下降し、声を落として口を閉じた。どころか、唇を噛んでうつむいてしまう。
「……どした?」
「……なんも、変わりないんすね」
「は?」
「アンタにはあんなの、どうってことないことだってことなんすか」
「あんなの……って?」
 夷澤は顔を上げ、きっと俺を睨み怒鳴った。
「アンタ夕薙先輩の部屋ですっぽんぽんでうろついてたでしょうがッ! おまけに体のあちこちに……ッ、キスマークつけてたくせにッ!」
 くせにッ。くせにッ。くせにッ。
 夷澤の怒鳴り声は、人のいない寮の中でずいぶんよく響いた。
「……あ……」
 なぜか顔面蒼白になる夷澤に、俺はちょっと困ったような笑みを浮かべてみせる。
「あー……俺も今、そのこと考えてたとこなんだ」
「は……?」
「なー夷澤。俺って、最低の卑怯者かな?」
「は……意味わかんねぇっす」
「愛情周りに振りまくくせに誰も特別扱いしない、一人の愛情じゃ満足できない卑怯者かな? 気持ちよければ簡単に好きな人も裏切れてしまうような節操なしだと思う?」
「な……」
 絶句する夷澤に、俺はわずかにしゃがんで、考えながらのぼんやりとした顔で視線を合わせて問いかける。
「なぁ、夷澤。教えてくれよ。お前にとって、俺ってどういう奴?」
「………ッ」
 夷澤はカッと顔を赤くすると、回れ右して走り出した。俺が声をかける暇もないくらい迅速に。
 呆気に取られる俺を残して。
「……なんなんだ」
 俺は一人そう呟いた。少し浮上したぶん、ひどく物寂しい気分になってくる。
 一人で考えてても埒明かないし、誰かのところに行こうかな。相談してみよう。怒られてもいいや――っていうか、思いきり怒られたい気分かも。
 寮に残ってる奴は何人かいるけど――怒られるんだったら、やっぱりあいつのとこかな。

「断る」
 相談に乗ってくれないか? という俺の言葉に、甲は予想通りきっぱりそう言った。
「冷たいこと言うなよー。お前しか頼れる人間がいないんだよー」
「無駄に知り合いの多いお前が言う台詞じゃないな。いいから他を当たれ」
「頼むよ、なぁ、甲ちゃーん」
「断る」
「…………あ、そう」
 俺はちょっとムカついて、にっこり微笑んだ。
「ま、嫌だってのならしょうがないか。ちょっと腹立つけど、嫌なんだからしょうがないよな。でもそれなら俺が腹いせに、お前のヌード写真ヨガ風味を画像系サイトにアップしても別に悪くないよな?」
「…………!」
「うんわかったしょうがないよな、それじゃお前のSM写真を全世界に公開する準備があるんで俺はこれで」
「待て」
 立ち去りかけた俺の襟首をがっしとつかむ甲。
「なに?」
「わかった相談には乗ってやる。その代わり写真のネガをよこせ」
「あれデジカメで撮ったからデータなんだけど」
「全部消去しろ。それなら相談とやらにつきあってやる」
「んー……」
 俺はちょっと考えてうなずいた。少し惜しいけど、甲の恥ずかしい写真なんて眺めて楽しいもんじゃないし、脅すネタはこれからいくらでも作れる。

「………この馬鹿がッ!」
 俺の話を最後まで聞いた甲は、そう怒鳴って俺の頭を思いっきり殴った。
「てっ! なにすんだよ」
「お前なんぞ殴られて当然だッ! なに考えてんだお前はッ、男と寝るだけじゃなく浮気か、それも流されて! 人にはさんざんなことやっといて自分はどうなんだ、明らかに人としておかしいだろうが! 人に文句をつける暇があったら、最初から人生やり直せ!」
「…………」
 言うなあ、甲。
 でも、その方がいい。心地いい。今の俺は優しくされるより、こうしてめちゃくちゃに罵られる方がよかった。
 怒鳴り終えてからも甲はしばらくぶつぶつと文句を言って(ったくこの馬鹿が、とかなに考えてるんだ、とか)、それから俺から微妙に視線をそらしつつ訊ねた。
「で。これからどうするんだ」
「…………」
 俺は、その問いにくてっと床に突っ伏した。
「どうしようかなぁ」
 これからどうすればいいのか。俺には正直皆目見当がつかない。
「あの探偵と別れて、大和とつきあうのか」
「……アムさんが別れたいって言うなら別だけど、俺はアムさんと別れるの嫌だ。俺、まだアムさん好きだもん」
「別れたいって言うのが当然なんじゃないのか」
「だよな……でも、それでもたぶん俺、ナギとはつきあわないと思う」
 その言葉は意外だったみたいで、甲はわずかに目を見開いた。
「なんでだ」
「俺、ナギといちゃいちゃしたりデートしたりしたいって思わないもん」
「……そんな奴と……寝たのか、お前は」
「……よくないのかな、そういうことって。俺は、浮気したのはすごく自分でも嫌だけど、ナギとセックスしたことは後悔してないんだけど」
「なんだそりゃ。なにが言いたい。そもそもどうしてお前は大和と寝たんだ」
「……したいって、思ったから」
「恋人がいるのにか」
「うん……」
「普通そういう時は我慢するもんだろうが。そんな風に誰にでもふらふらしてる奴はな、結局最後には誰にも相手されなくなるんだぞ、馬鹿が」
「そうだよな……でも、したいって思っちゃったんだ。ナギと。しちゃいけないとは思ったけど心はしたいって言って、頭の中混乱してわけわかんなくて――成り行きに流されたいって思っちゃったんだよ」
「最低だな」
 甲がびしりと切り捨てる。俺はうつむいた。
「お前は我慢するってことを知らないのか。盛りのついた猫じゃあるまいし、節操も持ってないのかったく」
「ないのかな……俺、我慢ってしたことなかった。相手に誘いをかけるのも断るのも、それはみんな自分がしたいからで。今まではそれで問題なかったんだ、誰かを傷つけるようなこと、俺はしたいと思わなかったから。……もしかしたら気づいてないだけで、本当はたくさんの人を傷つけてたのかもしれないけど」
「……つまりお前は探偵を傷つけても大和と寝たいと思ったわけか?」
「……うん。あの時のナギとセックスできなかったら、後悔するって思っちゃうぐらいに」
 俺はそう言うと、中空に視線を固定しつつぽろり、と一粒涙をこぼした。俺ってひどいなぁ。今の言葉、掛け値なしの本音で言ってるんだから。
 それが本音だってわかってしまった。アムさんを傷つけてもいいって、俺思っちゃったんだ。
 甲はほろほろと涙をこぼす俺を見て顔をしかめ、頭をぐしゃぐしゃかき回し、アロマをやたらと吹かして、ぶっきらぼうに言った。
「それで。結局お前はどっちを選ぶんだ」
 俺は拳を握り締めた。確かに、その疑問は当然だ。
「……選べないよ。選ぶもんじゃないと思う。だって二人とも違う人間なんだから」
「違う人間だったらセックスしてもいいってのか? 馬鹿が。そういうのを自分勝手と言うんだ。大和と探偵がそれで納得すると思うのか」
「そうだよな……」
 俺はこてん、と床に倒れた。カーペットの柔らかな感触が伝わってくる。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたがお前は俺の予想をはるかに上回る馬鹿だったらしいな。そんなことで上回ってもらっても少しも嬉しくないがな。本当にお前という奴は……」
 ぶつぶつと愚痴るように文句を言っている甲に、俺はちょっと微笑んだ。
「俺、たぶんお前のそーいうとこが好きで友達やってんだろうなー」
「俺はお前と友達でいることを考え直してる真っ最中だぞ」
「ありがとな」
「やかましい」
 俺の言葉に、甲はむすっとした顔でアロマを吹かした。
 ――と、ふいにその眉がひょいと上がる。
「――行ったか」
「……なにが?」
「気づかなかったのか? 俺たちの話を扉の外で夷澤が立ち聞きしてたぞ」
「……そうなのか」
「いっそあいつにも聞かせてやりたいと思ったから咎めたてはしなかったがな。あいつがお前に愛想を尽かしても俺は知らんぞ」
「ん……」
 俺は夷澤が俺に愛想を尽かすことってあるのかな、と思ったが、口には出さなかった。

 夜。
 飯を食いに行く気力もなくて、俺は食材の残りを簡単に調理して夕食を済ませた。そして、電気を消して、ベッドの中でつらつらと考えた。
 どっちかを選ばなきゃいけないんだろうな。アムさんか、ナギか。二人のうち、どちらかを。
 正直な気持ちを言うと、選びたくなかった。アムさんが好きだ。ナギはまた違った風に、セックスしたいって思う。
 はっきり言うと、二人とも欲しい――けど、そういうのを二股がけって言うんだろうな。
 俺はぎゅっと遮光器土偶ぬいぐるみを抱きしめる。俺って最低かもしれない。そんな考え方してたら、どっちにも相手にされなくなって――アムさんに捨てられちゃう。
 それは嫌だ。絶対嫌だ。でも――どうすればいいのかわからない。俺は遮光器土偶ぬいぐるみに顔をうずめた。
 ――そんなことをしていると、部屋の扉がぎぃっと開いた。
 反射的に枕もとの銃を握り締める。ちょうど月が雲で隠れていて、学校内には明かりもなく、部屋の中は真っ暗闇だった。
 顔の見えない扉を開けた奴はささっと部屋の中を見渡すと、ゆっくりとこちらに近づいてくる。殺気はない、だが油断はできない。接近戦になるか、と銃をナイフに持ち替えて、すっとベッドから降り気配を消して近づく――
 そしてその時、相手が夷澤だということに気がついた。
「……夷澤」
 鼻先十cmでそう囁くと、夷澤も気づいていたようで硬い、けれど激情を抑えているように震える声で囁き返した。
「九龍さん」
「どした? こんな時間に」
 その問いに、夷澤は少し黙った。俺もあえて答えを促さず待っている。
 一分と少しあと、夷澤は俺を睨んで言った。
「本当なんすね?」
「なにが?」
「アンタが、あのいい加減な探偵と夕薙先輩に抱かれてたってことですよ」
「うん、本当だけど」
 俺があっさりそう答えると、夷澤はじっと、夷澤らしくもなく無表情な視線で俺を見た。
「どっちが本命なんすか」
「どっちって……選ぶようなもんじゃないだろ」
「どっちも本命じゃないってことっすか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、俺が本命になってあげますよ」
「………は?」
 ぐいっと押された。不意を衝かれたんでとととっと後ろに退がった。そこにはベッドがあったんで、俺は背中からベッドに倒れこんだ。そこに夷澤がのしかかってくる。
 ……これって……押し倒されてる状態じゃないか?
「夷澤……なんのつもりか聞いてもいいか?」
「この状況でそんなこと聞かなくてもわかるでしょ」
 夷澤は俺のジャージをぶきっちょに脱がしながら、ひどく苛立たしげにそう言う。……やっぱりそういうつもりなわけか?
「一応お前の口から聞いておきたいんだけど」
「決まってるでしょ。俺があの二人の代わりに満足させてやるっつってんですよ」
「…………」
 俺はなんとも言いがたい気持ちになって暗闇の中で動く夷澤の顔を見つめた。なんつーか……その世界に入りたてのチンピラが精一杯悪ぶってる、みたいな感じ。
「いや、そりゃ無理だと思うぜ」
「なんでっすか!」
「だってお前、勃ってないじゃん」
 俺が足の先で触れた感じでは、夷澤のペニスはむしろ縮こまっていた。ものすごく緊張しすぎて勃たないってことはあるし、夷澤の息は荒くて興奮してるのはわかったけど、それでも俺は、夷澤は俺とエッチしたいわけじゃない、と思えたのだ。
 俺がそう言うと、夷澤の顔が(暗闇の中でもはっきりわかるほど)くしゃくしゃっと歪んだ。うわっ、と思う暇もなく夷澤はぐいっと俺の胸倉をつかんで叫ぶ。
「アンタが! アンタが男に抱かれたなんて、平気な顔して言うから……ッ!」
「…………」
 俺はなんと言っていいのかわからず、一瞬夷澤に胸倉をつかまれたまま呆然とした。だが泣きそうな夷澤をなんとかせねばと、そっと胸倉をつかんでいる手に触れて言う。
「俺が、男に抱かれてるのが気に入らなかったのか?」
「当たり前でしょうがッ!」
 噛みつくように言ってくる。
「それで、なんでこういう行動に出ようとしたんだ? お前は、別に俺を抱きたいわけじゃないんだろ?」
「当たり前でしょ。俺はホモじゃない」
「じゃあなんで?」
 俺の疑問に、夷澤の目から堪えきれなくなったのか涙がぱたぱたっとこぼれおちた。
 夷澤はぐいっと俺をベッドに押しつけ、涙声で怒鳴る。
「アンタ、俺がどんなにアンタに憧れてるか全然わかってない! 最初は気に入らなくて、勝負挑んで見事に負けて、アンタに言葉をかけられてそれが心地よくて。一緒に遺跡潜って、アンタの凄さ見せつけられて、そんでアンタに背中預けてもらった時どんなに俺が嬉しかったか、アンタは少しも気にさえしてないんだ! あんな男になりたいって、心の底からそう思って、この人の言うことならどんなことでも聞けるって思って……ッそれがッ……!」
 ぐっとうつむいて、泣きながら夷澤は叫ぶ。ほとんど殺気すらこめて。
「男に抱かれただって!? しかも二股だって!? 冗談じゃない、俺はそんなアンタに惚れたんじゃないッ! いつでも強くて、憎たらしいぐらい余裕たっぷりで、平気な顔してむちゃくちゃやるアンタだから……ッ!」
 俺は黙って夷澤の言うことを聞いていたが、ここで一言口を挟んだ。
「……幻滅したか?」
 俺の言葉に、夷澤は泣き笑いに笑いながら首を振った。
「言ったでしょ、俺はアンタに憧れてるって。半端じゃなく。俺は悔しかった。アンタが男相手に股開いてると思うと。二股して情けない面晒してると思うと。それより、なにより――アンタの相手が男なら、なんでそれが俺じゃないんだろうって、すげぇ悔しかったんですよ」
「…………」
「俺はホモじゃない。男同士で絡むなんて吐き気がする。だからアンタにもそうなってなんかほしくなかった。けど、アンタが男を相手に選ぶっていうなら、ホモだっていうなら、その相手は俺じゃなきゃ嫌なんですよッ!」
 夷澤は泣きながら、心底悔しげに喚きながら、がくっと俺の上にのしかかってきた。
「ちくしょうッ! なんで俺がこんなこと言わなきゃならないんだッ!」
「……………」
 思いきり昂ぶらせた感情が、たまらなくなって溢れ出してきたみたいな言葉――
 俺はそっと、夷澤の頭を抱き寄せた。夷澤がびくりと震える。
 だが、かまわずに、ぽん、ぽんと何度も夷澤の頭を撫でるように叩く。優しく、いとおしむように。
 夷澤はされるがままになりながら、鼻をすすっている。俺は、夷澤を抱きしめて、押し倒したくてたまらなくなった。
 ホント可愛いなぁこいつ……俺年上に可愛がられることが多かったから、こんな風にひたむきに求められたのって初めてかもしれない。こいつの泣き顔ってもっと泣かせたいって気持ちとベロベロに甘やかして泣き止ませたいって気持ちの両方をかきたてる。あぁ、こいつにキスして脱がして突っ込んで喘がせてたいなぁ。もーめっちゃ可愛い……。
 だけど、それはしなかった。アムさんが傷ついても夷澤とエッチしたいとは思えなかったし、なによりエッチしたら(特に俺が突っ込んだら。夷澤と俺だったら俺のほうが突っ込む側だと思う)、夷澤が傷つくと思ったからだ。
 だから俺は、夷澤を優しく抱きしめて、頭を撫でながらこう言うに留めた。
「ごめんな、夷澤」
 お前の望むような先輩でいてやれなくて、本当にごめんな。
 夷澤の言ってることって考えようによってはけっこう勝手なんだが、それでも、こいつの言葉は俺の心を震わせた。
 ごめんな、本当にごめんな、と何度も言いながら頭を撫でる。夷澤はすんすん鼻を鳴らしながら俺に黙って撫でられていたが、そのうちに気持ちよくなってきたのか眠りこんでしまった。
 本当に可愛いなぁこいつ、と俺は苦笑しながら夷澤の体をそっと横に降ろす。考えなくちゃいけないことはいっぱいあるのに、今日はもうそんな気分にはなれないな、と思った。
 でも、いいや。こいつの想いの分涙の分、一晩くらいこいつのことしか考えない夜があっても悪くない。
 本当は悪いのかもしれないけど――ごめんな、アムさん。
 俺は心の中でアムさんに頭を下げて、夷澤の寝顔を観察し始めた。

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