ヘッジホッグ・コンプレックス
「なに考えてんだ変態とっとと死ねボケ!」
 そう叫んでバタン、とドアを閉め(勢いがよすぎて蝶番がみしりと音を立てた)、彬は部屋の外へと飛び出していった。
「……あーらら。怒られちゃったか」
 ガウスは白衣の肩をすくめてくっくっく、と笑った。ガウスにしてみれば彬に殴られるのも怒られるのも日常茶飯事、子猫が爪を立ててるみたいなものだ。あー可愛い、と思いこそすれ落ち込む必要性など微塵も感じない。
「さーて、どう機嫌を取ってやるかなー?」
 ガウスはそう言ってくっくっと笑う。彬を自分の掌の上で転がしているという感覚はこたえきれない快感だった。だからついついつつきすぎて怒らせたりしてしまうのだが、それもまた楽しい。
 その時はそんな風に余裕ぶっこいていたガウスだが、彬は翌日になっても部屋に帰ってきはしなかった。
 二日経っても、三日経っても、それどころか一週間経っても。

 ガウスの様子がおかしい、という噂が流れ出したのは三日ほど前からだった。
 歩く様子からしてあからさまにおかしい。目の焦点が合っていないし、足もなんだかふらついている。物や人にぶつかっては見当違いの方向を見つめ謝る。その様子はほとんど夢遊病者か神経症患者かってなもんで、道行く人に思わず遠巻きにされるほどだ。
 受け答えもおかしい。たとえばアレクが「ガウスせーんぱいッv」とか言いながら抱きついてきてもなんの反応もせずぼーっとしてるし(普段なら平然とはしていたけど挨拶ぐらいはするのに)、教師や教授に話しかけられてもぽかーんとした顔でとんちんかんな受け答えをするばかり。「君はふざけているのかね!?」と怒鳴られても「はぁ、昼食はサンドイッチでした」とか言うくらい。
 おまけに実験でもそうなのだ。ガウスはあれでも優秀だからウルトラサイエンスクラブのメンバーにびしばしと指示を出しつつ自分もてきぱきと実験を進めて間違いなく結果を出してみせるのに、加熱したらやばい薬品を熱して爆発させるわ装置に過電流を流して実験データ吹っ飛ばすわ。「ガウス先輩、真面目にやってください!」と何度言っても「ああ、真面目ね、真面目……シリアス・グレイブ・マイフレェ〜ンド……」とかぼーっと歌を歌っていたりでまるっきり暖簾に腕押し。
 一体なにがあったんだ、と周囲が囁く中――ジェフはトニーを連れて、まっすぐ彬のところへ向かった。
「彬」
 談話室で笑顔で談笑していた彬は、声をかけられて振り向き不機嫌な顔になった。
「なんだよ」
 まったく嫌われたもんだ、とジェフは内心肩をすくめる。自分としては彬は(トニーとの関係で少し含むところはあるにしろ)バルーンモンキーを思い出させてなんとなく嫌いになれない奴なのだが。
「……おいお前今心の中で俺のこと馬鹿にしただろ!?」
「いや、別に」
「嘘つきゃあがれ、今すっげー気色悪い視線で俺の方見たくせに!」
「もう! いきなり喧嘩しないでよー」
 トニーがひょいと自分と彬の間に割り込む。彬が少し眉間の皺を緩めた。
「トニー……」
「あのさ、彬。ガウス先輩のことで、少し話があるんだけど……」
 トニーがそう言うと、彬はまたぎゅっと眉間に皺を寄せる。
「俺はあいつのことで話すことなんかねーよ」
「……そう?」
「それは無責任じゃないのか。ガウス先輩がああもおかしいのは明らかに君のせいだろ」
 そう言ってやると、彬は顔を真っ赤にしてこちらを睨む。
「うるっせぇな! 俺はもうあいつとは金輪際関係ねぇんだっ、部屋も別にしてもらうんだからな!」
「………やれやれ。相変わらずお子様というかなんというか………」
「うるせぇっつってんだろ大人ぶってんじゃねぇよこの変態眼鏡!」
「へんた……」
 ちょっとカチンときてなにか言い返してやろうとすると、またトニーが間に入ってきた。
「ストーップ! 談話室中から注目浴びてるよ、気づかないの?」
『う……』
 言われて初めて周囲から視線がびしばし投げかけられていることに気づき、ジェフと彬は少し顔をしかめた。退屈な寮生活に飽き飽きしている寮生に、娯楽の種を提供するのはどちらにとっても本意ではない。
「とりあえず、場所移さない? ぼくたちの部屋とかにさ」
「………そうだね。もとからその予定だったし。彬、いいかい?」
「………ああ」
 彬は仏頂面で立ち上がり、自分たちについてきた。おや思ったより素直、と内心で目をそばだてる。やはり彬なりにガウスとのことで悩んでいたということだろうか。
 彬が黙っているので、トニーとお喋りをしつつ部屋に向かう。
「ジェフ、今晩も昨日の研究続けるの?」
「ああ、ガウス先輩があの調子だから、少しでもこっちでデータ揃えておきたくてさ」
「わかった。じゃあ、お夜食用意しとくね」
「ああ。助かる」
「えへへ〜」
 トニーが顔を崩してへらっと笑みを浮かべる。
 妙な顔だけど、トニーのこういうすごく幸せそうな顔、なんだか可愛いと思う。ジェフはつん、とトニーの額をつついた。
「わ、なにするんだよー、ジェフ!」
「別に。なんとなくやってみただけ」
「んもう。ジェフってば……」
 むぅっと頬を膨らませるが、口元は緩んでいる。可愛いな、と思いつつまたつついてやろうと指を伸ばすが、ずいっと彬が体を二人の間に割り込ませてきた。
「いちゃついてんじゃねぇよバカップル! そういう阿呆なことやりてぇなら二人だけの時にしやがれ、鬱陶しいんだよいっぺん死ねタコボケ!」
 そして肩をひどく怒らせながらずかずかと早足で先へ行ってしまう。
 ジェフとトニーは顔を見合わせた。彬が自分たちがいちゃついていると腹を立てるのはいつものことだが――今回は普段よりはるかに反応が激しい。
 やっぱりガウス先輩と、相当根の深い喧嘩をしたんだな――そう思ったジェフは、ため息をついた。僕は他人の喧嘩の仲裁なんてしたことないのに、いきなりこんなヘビーなのは荷が重過ぎる。
 頼むぞトニー、と思いつつ、軽くトニーの手を引いた(とたんトニーの顔が赤くなったのはいつものことだ)。

 自分たちの部屋で、ジェフ&トニーと彬は向かい合った。
「それで。なにが喧嘩の原因?」
「…………」
 彬はぶすっくれて口を開こうとしない。ジェフははーっ、とため息をついて言った。
「別に君たちの間だけの問題なら口を挟んだりしないけどさ。実際問題としてこっちにも迷惑がかかってるんだよ? それなのに頑固に口を閉ざしたまんまっていうのは――」
「もう、ジェフ! そういう言い方よくないよ」
 きっとトニーが自分を睨む。え? どこがよくないっていうんだ? と本気でわからず眉をひそめるジェフにかまわず、トニーは彬に微笑みかけた。
「彬が自分で解決するって言うなら口出しはできないし、しないよ。でもさ、ぼくたち、話を聞いて彬の考えを整理するぐらいの役には立てると思うんだ」
「…………」
「今の彬、なんだか一人で苦しそうだしさ。一人より二人や三人で悩んだ方が、きっと気持ち、軽くなるよ?」
「……トニー………」
 彬が少し顔を赤らめて、うつむく。これから重大な告白が来るのだろう、とジェフとトニーは内心身構えつつ話しやすいように体勢を整える。
 かなり長い間があってから、彬はかすれた声で言った。
「…………………んだんだ」
「え?」
「…………んだんだよ」
「なんだって?」
 ジェフが眉をひそめて聞き返すと、彬は顔を真っ赤にして瞳を潤ませきっ、とジェフを睨みつけて怒鳴った。
「あいつ、キスしてきた時ケツ揉みやがったんだよ! 信じられねぇだろ!?」
『……………………』
 リアクションに困って、ジェフとトニーはしばし沈黙した。
 彬はそんな自分たちの様子など気にも留めず、据わった目で宙を睨みつけながらぶつぶつと言い募る。
「だいたいあいつはおかしいんだ。なにかっちゃ俺にくっつくしちょっかいかけてきやがるし、すぐ……キス、しようと、するし……そば通る時にケツ撫でたり、ま、ま、前の方触ったりしてきやがるしっ……俺が怒っても平気な顔して笑いながら『他に文句は、子猫ちゃん?』とか抜かしてきやがるし……!」
『……………………』
「だから、俺は、もう決めたんだ。もうあいつとは関わらない。あいつのいないとこで、普通に、当たり前に暮らすんだ。もうあいつのとこなんか金輪際戻ってやらねぇんだからな!」
「…………あのさ、彬」
 いろいろ言いたいことはあったのだが、とりあえずジェフはこう聞いた。
「君たち、まだできあがってないの?」
 彬はきょとんとした顔をする。
「できあがるって、なんだよ?」
「だから……恋人としてお互いを認める、というか」
「は………はぁ!? 違ぇよ俺とあいつがいつ恋人になったんだよ気持ち悪いこと言うなっ!」
「え……だって彬、ぼくが『彬って、ガウス先輩のこと、好きなの?』って聞いた時に顔真っ赤にして……」
「う……うるせぇなそんなの関係ねぇだろ! 俺は……俺はただっ………あいつが好きって言うから、仕方なく………!」
「仕方なく?」
「…………一緒にいてやるって。言って」
 ぼそっと言う彬に、ジェフとトニーは顔を見合わせ、また彬に向き直って聞いた。
「つまりさ」
「彬って、ガウス先輩に好きって言ってない?」
「…………!」
 彬はカッと顔を赤くして、手元のクッション(トニー製)を二人に投げつけてきた。旅で鍛えられたおかげで常人離れした反射神経を持つジェフは、それをあっさり叩き落とし投げ返す。
「……まぁ君たちがどう愛情を確認しあうかは僕たちの関知するところじゃないけど。好きなら好きって言った方がいいんじゃないのかい?」
「うるせぇ俺がいつあいつのこと好きっつった勝手なこと言うな!」
「彬……なにもそんなに意地張らなくても」
「違うっつってんだろーっ! ………それに」
『それに?』
 彬は投げ返されたクッションに顔を埋めて、ぽそりと言った。
「……あいつだって、俺のこと本当に好きなのかわかんねぇし」
『…………』
 ジェフとトニーは顔を見合わせた。
「だって、ガウス先輩、君に好きだよって言ったんだろ?」
「……言った」
「じゃあなんで疑うの? なにか疑われるようなことガウス先輩がしたの?」
「疑うもクソも本気かどうかなんてわかんねぇもん! まともに好きって言われたのはたった一回、しかも俺のこといつもみたくふざけてベッドに押し倒した時にだぜ!? あの時は真剣なのかと思ったけどよく思い出してみたら顔笑ってたしなんか眉ぴくぴくしてたしすっげぇ怪しいじゃねぇか! しかもそれからもふざけた真似ばっかしてくるし、まともな顔して向き合う時なんかキスしてる時だけだし! あんな、あんな奴の好き*{気にして馬鹿見るなんて、俺は嫌なんだよっ!」
『…………』
 またジェフとトニーは顔を見合わせた。どうしたもんか、と肩をすくめるジェフに微笑んで、動いたのはトニーだ。優しく微笑みながら、叫ぶだけ叫んでまたクッションに顔を埋めてしまった彬の肩をぽんぽんと、優しく叩く。
「そうか。つまり彬は、不安なんだね。ガウス先輩の気持ちがわからなくて」
「……そんなんじゃねぇ。あいつが、すっげぇムカつくから……だから」
「うん、わかってる。腹が立って、ガウス先輩がなにを考えているのか知りたくてしょうがなくなるんだよね?」
「…………」
「彬の気持ち、わかるよ。相手がちゃんと自分と向き合ってくれてないような気がして、相手の気持ちが自分の方を向いてくれてないような気がして、寂しくて苦しいんだよね?」
「……別に……そういう、わけじゃ。ただ俺は」
「ただ?」
「…………あいつが、ふざけるのが嫌なんだ。こっちからかってばっかなのが。あいつ俺に好きっつったのに、俺は一緒にいてやるっつったのに、あいつちっとも俺とまともに向き合わない。おちょくって、馬鹿にするばっかで、ちっとも自分がなに考えてるかとか、苦しいとか悲しいとか言わねぇし。こっちはすっげぇ必死でいっぱいいっぱいなのに、バッカみてぇじゃん、俺………」
「そっか……うん、辛いね………」
「………うん………」
 クッションに顔を埋めたまま会話を続ける彬とトニーにいろんな意味で複雑な視線を送りながら(トニー彬の気持ちわかるってなんだ聞き捨てならないぞ僕がそんな想いをさせたとでもとかなんで君たちはそんなにわかりあっているんだ僕には理解できないとかどうでもいいけど彬トニーに甘やかされすぎじゃないかとか)、ジェフは肩をすくめた。
 なんだかよくわからないが、これはやっぱりそう簡単には片付かなさそうだ。

 学校で授業を受けている時は楽だ。あいつと会うことがないから。
 ガウスはスノーウッド寮の寮長部屋に住んではいるが、実際にはモーリス校大学部の研究生だ。家庭の事情と、単に趣味とで寮で馬鹿騒ぎを起こしながら暮らしているだけで。
 ――その家庭の事情≠ニいうのが、彼が孤児だというただそれだけの事実だとはごく最近まで知らなかったのだけど。
 鬱々とした気分で教室移動する集団について歩く。正直移動するのが億劫だった。授業中はできるだけなんにも考えないようにして眠ってしまえば時間は過ぎていくけれども。
 体を動かすのが面倒くさい。こんなところは自分のいるべき場所じゃない気がする。かといって今自分がいる寮がその場所だとも思えない。
 ――だからってあいつのところには絶対に戻ってやらないからなっ!
 きっと顔を上げて虚空を睨みつける――と、その瞬間曲がり角の向こうからガウスがひょいと現れた。
『!』
 お互い無言で相手の顔を見つめあう。自分たちが仲違いしていることを知っているのだろう、クラスメイトたちは遠巻きに自分たちを見守っている。
 彬はきっと、全身全霊をこめてガウスを睨みつけていた。目を逸らすとなにかが崩れてしまいそうで怖かった。
 ガウスは、彬の顔を見つめながら、なにか言うつもりか口を開け――
 結局なにも言わずにのろのろと閉じて、小さく笑った。まるで、しょうがないよなと自嘲するように。
 それから小さく肩をすくめて歩き出す。自分のそばをすたすたと通り過ぎる際も、歩みに乱れは見られなかった。
「……………………っ!」
 彬はずんずんと歩き出した。冗談じゃない、あんな奴がこっちを見なかったぐらいでなんで俺がへこたれなきゃいけないんだ。俺には関係ない、あいつなんか。あいつが俺をいらないって言うなら俺だってあいつなんか―――
「………ちくしょうっ………!」
 ガツ! と古い校舎の壁を殴りつける。コンクリートの壁は、冷たくて、骨にじんと響くほど堅かった。

 最初にガウスをまともに意識したのは、トニーと少し仲違いしていた時のことだった。
 仲違いというのは正確じゃない、どちらも相手を嫌ったわけでも怒ったわけでもないのだから。ただ、初めて会った時から、優しさの中にどこか翳りがあったトニーが、ゲイで、ジェフという元ルームメイトが大好きで、ジェフがもう帰ってこないんじゃないかと不安なせいで翳りがあるのだ、と本人に聞かされてショックを受けていたのだ。
 はっきり言って、すごくショックだった。それは確かにゲイという人種が存在することは知っていたけど、そんなものは遠い世界の話で、自分には関わってこないことだと思っていたのだ。
 そんな遠くて、よくわからなくて、なんだか気持ち悪い、汚らわしいような気さえするゲイという性癖を、転校してきた時からなにかと自分の力になってくれて、自分が周囲に馴染めるよういろいろ気を遣ってくれて、こまごまとよく気のつく優しいトニーが持っている、というそのギャップにどうにもうまく馴染めず、受け容れられず、拒否反応を示してしまった。トニーが告白してからというもの、まともにトニーの顔が見られなくなってしまったのだ。
 その日も朝からトニーとまともに顔が合わせられず、ぎこちなく挨拶をしてそそくさと部屋を出てトニーが早々と寝つくまで部屋の外をうろうろする、というパターンを繰り返していた。自分にかトニーにかはわからないが、ひどく苛つきながら歩いている時に――スノーウッド寮のめったに人の来ない一階西非常口前で、ガウスと会ったのだ。
「よ、彬」
 にやりと手を上げるガウスに、彬は顔をしかめた。
「――なんであんたがこんなとこにいるんだよ」
「ふははは、オレ様は神出鬼没。疾風のように現れて疾風のように去っていくのだ」
 高笑いをするガウスに苦々しい気分になる。彬はガウスが苦手だったし嫌いだった。
 なにかっちゃ自分をからかうし、おちょくるし、かまってくる。そのくせ時々全然知らない人間みたいに無視したりもする(あとでトニーに研究が忙しくなると研究者の人たちはどうしてもそうなってしまうのだと聞かされたがそんなことは彬の知ったこっちゃない)。
 そんな嫌な奴なのに寮生からは全員一目置かれていて、ふとした時に格好をつけて含蓄のあるっぽい言葉を言ったりする。そういうところがまた腹が立つのだ。
 だから、そんな奴の相手をする気分ではなかった彬は、くるりと踵を返した。
「――逃げるんだ?」
 む、と眉を上げて足を止め、ガウスを睨んだ。なんだとこの野郎。
「誰がだよ」
「彬が、オレから」
「誰が。てめぇなんぞに逃げるほどの迫力あると思ってんのか」
「迫力はどうか知らんけど。彬は怖がりさんだからなー」
「なんだとっ!?」
「トニーからもそうやって逃げてんだろ?」
 う、と彬は言葉に詰まった。こんな奴に言い負かされるなんて絶対嫌なのに、こんな奴ぶん殴ってやりたいのに、飄々と笑うガウスに反論する言葉が出てこない。
 だが、ガウスはそれ以上彬を挑発するような言葉は言わず、笑みを収めてこう言ってきた。
「――受け容れられないか。トニーのこと」
「……受け容れられない、っつーか」
 彬はぼそぼそと答えていた。ガウスは真剣だった。真剣で斬りつけるような視線で自分のことを見つめてきた。こちらの逃げやごまかしを許さない激しさがあった。なので、いかに気の進まないこととはいえ負けず嫌いの彬としては答えないわけにはいかなかったのだ。
「なんつーか……やなんだ」
「嫌って、なにが?」
「トニーが……その、ゲイ、っていうのか? なのが」
「なんで?」
「だって……なんか、やだよ。おかしい。なんで男なんか好きになるんだよ。そういうのって、なんか気持ち悪い。そんなのがトニーだなんて、なんか、すげぇやだ」
 今思えば子供丸出しの台詞だ。どんな人間を好きになるかはトニーの勝手だしトニーの性癖に自分が文句をつけられる筋合いなんてないのに。
 だが、ガウスは茶化さず怒らず、静かにこう言った。
「お前さん、初恋まだか?」
「は……はぁ!? ンなことがなんの関係が―――」
「マジな話なんだよ。いーから答えてみんさい」
 彬はかなり渋ったが、ガウスの顔がこれ以上ないほど真剣なので、しぶしぶ告げた。
「……したよ。小五の時に」
「女の子か、相手?」
「はぁ!? たりめーだろ!?」
「じゃ、なんでお前は女の子を好きになったんだ?」
「………はぁ?」
 彬は眉をひそめた。
「なんでもなにも、それが当たり前――」
「もし当たり前じゃなかったら? 同性愛のほうが盛んだったらお前は男を好きになるのか?」
「う―――」
 一瞬言葉に詰まったが、答えは決まっている。
「……ならねぇよ。俺は男好きになったりしねぇ」
 ガウスは少し笑ったようだった。唇の端がわずかにゆるむ。
「それでは、なんでお前は女が好きなのか理由を述べてみよ」
「…………」
 彬は困惑した。そんな、理由を述べよつったって。自分はただ普通に女の子を好きになっただけで。いや普通じゃなくても自分は女の子を好きになった。女の子じゃない、あの子を好きになったんだ。さらりと流れる長い髪、琥珀色の肌の中で自分を見つめる静かな瞳、それが本当にきれいだと思ったから、だからなんで女を好きになったのかなんて聞かれたって―――
「言えないだろ。わかんないだろ」
 ふっ、とガウスが笑んだ。いつもの面白がるような笑みとは違う、労わりの心のこもった笑みだった。
「トニーだっておんなじなんだよ」
「え?」
「自分だってなんで男が好きになったのかわかんないのさ。ただなんでかわからんが自分が好きになったのは男ばっかだったってだけ。男が好きになったんじゃなくて男のそいつらが好きになったのさ」
「――――」
 彬は、ちょっと呆然としていた。
 あぁそうかぁ、と腑に落ちたのだ。そういうことだったのか。
「お前さんが男が好きになる男が嫌いだっつーなら仕方ないがね。少なくともトニーはそんじょそこらの女好きなんぞよりよっぽど真面目に恋愛してるってことは認めてやんな。その上であいつと友達でい続けるかどうかは、お前さんの自由さ」
 いつもの飄々とした口調に戻ってそう言ってから、また不意に真面目な表情になって。
「少なくともオレには、お前とトニーは仲のいい友達に見えたけどな」
「…………っ!」
 彬はもう矢も盾もたまらなくなって自分とトニーの部屋へと走った。トニーに謝らなくちゃとそればっかりで頭がいっぱいだった。
 なのでガウスにこの件で礼を言うことはなかったのだが、彬の心の中でガウスという存在が少し変わったのはこの時からだった。
 ――あいつ、けっこうすげぇかも。
 そんな風に思うようになったのだ。

「ちょっと、彬」
 放課後の教室でぼんやりとしていた彬に、そんな尖った声がかかった。
 彬は声のした方に振り向き、顔をしかめる。
「―――アレク」
「『アレク』じゃないよ! ほんっとにもう、いい加減にしてよね!」
 自分の(一応)友人であるところのアレクがばんっと彬の机を叩き、きんきん声でがなりたてるので、彬はますます顔をしかめた。なにしにきたんだ、こいつ。
「彬、君ねぇ、どうしてとっととガウス先輩と仲直りしないわけ?」
「――――!!」
 彬は硬直した。頭と背中が氷を押しつけられたように冷える。
 まさか――まさか、こいつも、俺と、あいつのことを―――
「ガウス先輩があんなに辛そうなのに、どーしてルームメイトとして助けてやんないのッ!」
「…………」
 その言葉に彬は体から力を抜いた。ほぅっと息を吐く。よかった、気づいてない、俺をあいつのただのルームメイトとして話してる。
『――ただのルームメイトとどう違うっていうんだ』
 そんな声が頭の中でして、彬は一瞬息を呑んだ。
「あのクールでカッコいいガウス先輩があんなに苦しんでるのにどーして助けようと思わないのッ! だいたい彬はわがままなんだよ、かんしゃくもちだしすぐ怒るし……」
 勝手なことを言うアレクの言葉は半分以上耳に入っていなかった。彬は体を震わせながら、頭の奥の方から聞こえてくる声と対峙していた。
『あいつはもともとただ俺をからかってただけじゃないか。以前も今も。ただのルームメイト、恋人でもなんでもない、そんな細い繋がりしかないんだよ』
 違う。あいつは俺のこと好きって言った。
『からかわれたんだよ。面白がってただけだ。あいつは俺のことなんかただのおもちゃとしか思ってやしないんだ』
 違う。あいつが好きって言った時、一緒にいてくれって言った時の顔は、本当に本当に真剣だった。
『違うね。それも嘘なんだ。だってそうだろう、本当にあいつが俺のこと好きなんだったら――』
 うるさい、うるさい、うるさい黙れ!
『こんな風に離れていこうとする俺を追いかけてこないはずないじゃないか』
 うるさい―――!
「ちょっと彬聞いてんのッ!?」
「うるせぇっ!」
 がしゃんっ! と彬は机を蹴り倒した。ぎりぎりで飛びのいたアレクが目を見開く。
「なんにもわかんねぇくせに偉そうなことぐだぐだ言ってんじゃねぇっ、あいつのことなんにもわかんねぇ奴があいつの気持ちがどうこうとか言うなっ! 味噌汁で顔洗って出直してこいバカヤロウっ!」
「なっ……」
 彬は激情のままに叫んで、それからはっとした。今のはアレクに言ったんじゃない、単なる八つ当たりだ。自分の中の声に、腹が立って仕方なかったから。
 謝らなくちゃ、と思ったけれど、口が凍りついたように動かなくて、たまらなくなって彬は駆け出した。教室の外へ。
「ちょっと、彬!?」
 バカヤロウバカヤロウバカヤロウ―――頭の中でその言葉がぐるぐる回る。バカヤロウは俺だ。だって俺はあいつに好きって言われたのに、一緒にいるって言ったのに――あいつのことが全然、なにひとつわかんないんだから。

「あ・き・ら・くーんv」
 ガウスが猫撫で声を出すのを聞いて、彬はすかさず身構えた。
「おーやおや、きーずついちゃうなぁオレ。なーんでルームメイトに声かけただけでそんなにおびえられなきゃなんないのかなぁ?」
「おびえてねぇよ! 警戒してるだけだ! てめぇが今までそういう声出した時ろくなことなかったじゃねぇかっ!」
「あ、大丈夫大丈夫、オレ楽しかったからオレ的にはオッケー」
「俺的には全然オッケーじゃねぇっ!」
 腹立ち紛れにパンチを放つが、六歳も年上のガウスには自分の攻撃を避けることなど赤子の手をひねるようなものなのだろう、あっさり手首をつかまれた。
 そしてぐいっ、と引き寄せられて抱き寄せられる。大きく背中を曲げてガウスのにやにや笑いが彬の眼前数cmのところまで近づいた。
 ――どきり、と心臓が跳ねた。
 だが彬はいつものようにそんなものは無視をする。ただ腹が立っているからだ、こいつに苛ついてるからだ、それ以外の理由なんてない。
「放せよバカッ!」
「んー、チューしてくれたら放してあげてもいーんだがなー」
「誰がするかボケっ!」
「んもう、つれないお言葉。ガウスってば泣いちゃうぞ? プンプン!」
「キショイんだよぶりっ子すんじゃねぇ大の男がっ!」
 ばたばた暴れながら言い合っているうちに、いつの間にか彬はベッドに押し倒されていた。これまたいつものことで、やりあっているうちにいつの間にかいつもベッドの上に戦場は移動してしまうのだ。
「放せ変態っ!」
「放さなーい」
 そう言ってガウスの顔が近づいてくる――
 キスされるっ、と思って彬は思わずぎゅっと目を閉じた。さすがに唇にはしないが、ガウスはなにかっちゃ頬やこめかみや鼻など、顔や体のあちこちにキスをしてくるのだ。
 そのたびに必死に抵抗するのだが、力ではかなわなくて負けてしまうのがめちゃくちゃ悔しい。
 あとでぶん殴ってやる、と思いつつも体が勝手に目をつぶってしまう。いつされるかと思って体を固くしていたが、いつまで経ってもキスが下りてこないのでおそるおそる目を開ける――
 するとガウスはいつの間にか自分から離れていた。ベッド脇の椅子に座って自分を見ている。
 しかも自分はいつの間にか布団をかぶせられているではないか。なんなんだこれは。
「………おい」
「なんだ?」
 ガウスが微笑みながら言う。
「……なにがしたいんだよ、いったい?」
 そう言うと、ガウスは苦笑した。
「彬、熱あるだろ」
「え」
 確かに熱っぽいと思ってはいたが――そんなの自分でもほとんど気にしていなかったのに。
「熱がある相手に無体するほどオレも人非人じゃないんだよ。彬、明日体育でサッカーの試合だろ? 今日はゆっくり寝て、明日までに元気になりなさい」
 彬は目を見開いた。なんでこいつがそんなこと知ってるんだ。そりゃ、なにかの拍子にそんなことを口にしたことがあったかもしれないが――そんなのずっと覚えてるものなのか?
 ガウスはふ、と笑って、優しく彬の頭を撫でた。
「ほら、いいから目ぇ閉じて。なんならお兄さんが子守唄歌ってあげちゃおうか?」
「……いらねぇよ、タコ」
 ガウスの言うことに従うのは業腹だが、と彬は少し熱い胸の中で思った。今回こいつが言ったことはもっともだ。明日の試合、ずっと楽しみにしてた。出られなくなるなんて冗談じゃない。
 ガウスはたまに、本当にたまにだけどこういう風にまともなことをする。まぁその程度自分より六歳も年上なんだから当然だけど。
 そうだ、当然なんだ。あいつの瞳が時々びっくりするぐらい優しいのも、時々泣きそうになるくらい切ない瞳で自分のことを見つめているのも、全部、全部当然で、当たり前のことなんだ。
 だから自分は、ドキドキなんてしてない、しないんだ。
 そう自分に嘘をついて、ごまかして、彬は目を閉じ、夢の世界へ旅立っていった。

 寮に帰ってきてからアレクに謝ると、彬は談話室に向かった。寮長室から抜け出してからの日課だ。寮生たちの話し声をBGMにすると、しばらくの間はなにも考えずにぼーっとできる。
 その日も談話室の暖房の前に陣取ってぼーっとしていたが、ふいに、寮生のこんな声が耳に飛び込んできた。
「あ、ガウス先輩」
 ――心臓が跳ねた。
「あの人最近以前とは別方向に変だよな。どーしたんだろ」
「失恋でもしたんじゃねぇの?」
「まっさかー、あの人がぁ? あの人の生命力ゴキブリ並みだぜ?」
 心臓が早鐘を打つ。ガウスが今どこにいるのか、どんな顔をしているのか怖くて見られなかった。
「ぷっ……それお前当たりすぎ。あの人ゴキブリどころかウイルス並みだよな、生命力」
「そーそー、振られようが世界が滅ぼうがそれがどーしたって感じで平然としてそうだよなー」
 彬は顔もわからない寮生の言葉にかちんときた。あいつのことなにも知らない奴が偉そうに言うな。
 そりゃ、俺だってあいつがどんな奴か、なに考えてるかなんて全然知らないけど。
 少なくともあいつが、すごく寂しがりやだってことは知っている。
「けどさー、じゃーあの人なんであんなにおかしいんだろーな? ……親御さんが亡くなりでもしたのかな?」
「いやいやぁ、その程度じゃあの人はあそこまでおかしくならんだろぉ」
 寮生たちは勝手なお喋りを続けている。自分は今こんなに心臓が苦しいのに、勝手なことを言う寮生たちに猛烈な苛立ちが湧き上がり、怒鳴っていた。
「うるせぇタコっ!」
 そしてあっけにとられた寮生たちを尻目に立ち上がり駆け出す。
 どこに行けばいいかなんてわからなかったが、自分のいるべき場所はここじゃない、という声は、頭の中でがんがん鳴っていたのだ。

「あ・き・ら・くーん! あっそびっましょ!」
「うるせぇタコうぜぇんだよ死ねボケ殺すぞアホ!」
 そんな風にいつものごとくやりあって、いつものごとくベッドの上に押し倒されて。
 彬はベッドから、自分に馬乗りになっているガウスを睨んだ。こいつは、いつもいつも自分をいいようにしやがって。ムカつく。俺のことなんだと思ってやがんだ。ぶん殴ってやりたい――
 なのに、最後の最後まで全力で抵抗する気にはどうにもなれないのは。
 ガウスが自分をかまう時、時々、本当に時々だけど、なんだかひどく寂しそうな、捨てられた子猫みたいな瞳をする時があって。
 それでなんだか、可哀想になってしまうのだ。
 ガウスは自分の上から、にやにやしながら自分を見る。その瞳は底の方に嵐のような感情の揺らぎを見せていたのだが、彬はその時はそれに気づかなかった。
「さーて、なにして遊ぼっかなー」
「てめぇ……いっつもいっつも人のことおもちゃにしやがって! ざけんじゃねぇぞ、てめぇ俺のことなんだと思ってやがんだよっ!」
 いつものごときがなりあい。その言葉も大して意味があって言ったわけじゃなかった。
 だから、ガウスの瞳に一瞬暗い影が差したことも、ちっとも気づいちゃいなかった。
「えー? そりゃ愛しちゃってる可愛いルームメイトだぜ? 彬は本当に可愛いなぁーってオレ思ってるしv」
 言うやすい、と体を傾けて、彬のシャツの襟を開き――鎖骨に噛みつくようにして口付けた。
「! やめろバカッ!」
「えー、なんでー? こんなのいつものことだろ、彬?」
「………っそうだけどっ………!」
 でも、やっぱりこんなのはいやだ。恥ずかしい。こんなの、体にするキスなんてまるで恋人同士みたいじゃないか。
 違うのに。俺はこんな奴好きでもなんでもないのに。そのはずなのに。こいつだってただからかってるだけだろうに。
 どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。
 ガウスは自分のシャツのボタンを次々外していく。彬も必死に抵抗したがガウスの方が巧みだった。
 シャツのボタンを全部外され、胸元に今度はがぶりと噛みつかれた。「……った!」と叫ぶがガウスは聞かずに――今度はズボンのベルトに手をかける。
「や……やめっ! なに考えてんだバカヤロウっ!」
 彬は必死に暴れる。それは駄目だ。それは本当に冗談ごとじゃすまない。
 だがガウスは完全に彬の抵抗を抑え込んでいる。この時初めて、怖い、と思った。
 ガウスは薄い笑みを浮かべたまま、しゅるりとベルトを抜き取りホックを外す。そして彬の体を動かなくしたまま、ズボンを下ろし―――
「……やだぁっ………!」
 ぼろ、と彬の目から涙がこぼれおちた。泣いてからはっとして両腕で顔を隠したが、涙は止まらなかった。交差した両腕の下で、ぼろぼろぼろぼろと涙はこぼれほとんど腕しか見えていない視界がにじむ。
 悔しかったけど――それ以上に、怖くて、胸が痛かった。
 ガウスの動きが止まるのが腕の下からでもわかった。ガウスはズボンを上げ、ホックを戻し、シャツのボタンをひとつひとつ留めて、それでもまだ腕で顔を隠したままの彬の頭をそっと撫でて、小さく「ごめんな」と囁き立ち上がった。
「―――! 待てよ!」
 彬はガウスの服の裾をつかんだ。必死だった。半ばパニックだった。ガウスがもう、自分の手の届かない遠いところに行っちゃうんじゃないかって気がして。
 涙に濡れた視界でガウスのちょっと驚いた顔をきっと睨み、必死に怒鳴った。あとから考えてもなんでそんな言葉が出てきたのかさっぱりわからない言葉を。
「お前俺のことどう思ってるんだよ!? はっきりしろよ、ちゃんと言えよ、言わなきゃ口利いてやんないぞばかっ!」
「……………………」
 ガウスは一瞬、すぅっと石のような無表情に顔を変え。
 それから少し困ったような顔をして、顔を赤くして、そして最後にへちゃ、と普段のガウスには似つかわしくない、崩れたような笑みを浮かべて言った。
「好きだよ」
 そんなシンプルな一言を。
「―――――――」
 彬は一瞬絶句し、それからぼっと顔を赤くした。誰かに告白されたのは、生まれて初めてだ。
「だから、ずっとそばにいてほしい」
 そう言ってガウスはひょい、とベッドに乗り、同じ高さの視線で彬を見つめた。
「彬――一緒に、いてくれるか?」
 彬は(かぁっと顔を熱くして血を上らせながら)、小さくうなずいて言った。なんでかわからないけど、その時はこの言葉がふさわしいような気がしたのだ。
「……いいよ。一緒に、いてやる」
 その言葉にガウスは、なんだかひどく照れくさそうな顔をして「そうか」と言ったので、彬もなんだかひどく恥ずかしくなってぷいと横を向き枕に顔を埋めてしまったのだった。

 彬は一階西非常口前に一人たたずんでいた。初めてあいつを、ガウスを意識した場所でただ一人。
 わかっているんだ。こんなことをしてたってなんにもならないんだっていうのは。
 だけど、自分は怖かったんだ。ガウスが、あいつが自分を本当に、ただのおもちゃとしか思ってないんじゃないかって。
 だってあいつは自分になんにも言わない。辛いとか苦しいとか、寂しいとか、なんにも。あいつがどんなに寂しいかってことぐらい、自分だって二年近くずっと一緒の部屋で暮らしてるんだから知ってるのに。
 でも自分は実際鈍感で、あいつが黙ってたら普段はあいつがどんな気持ちかなんてわからない。あいつが自分に好きって言った時どうしてあんなことしたかだって、スノーウッドに入るまで育ってきた孤児院の院長が亡くなったからだ、ってあとで教えてもらうまで全然わからなかったんだから。
 あいつはぜんぜんなにも言ってくれない。自分をからかっておちょくって笑うばっかりで。これじゃ以前となんにも変わらないじゃないか。
 俺だって、あいつになにかしてやりたいって。あいつの寂しさを埋めてやりたいって、思うのに。
 まるでおもちゃとしか思われてないみたいで、なんだか、なんだかすごく――
「寂しかったんだ………」
 ぽつん、と口から言葉が出てきて、彬はうつむいた。なんだそれ、結局最後にはそんなことか。馬鹿みたいじゃんか、俺。
「ばっかみてぇ……」
 吐き捨てるように呟いたつもりの言葉は、思ったよりひどく寂しげに聞こえた。当たり前かもしれない、だって自分は寂しいんだから。ガウスにまともに相手されなくて、ガウスが気持ちに応えてくれなくて。
 ガウスがいなくて。
「なんなんだよ、もう……」
 彬はしゃがみこむ。自分がみじめでみじめで仕方なかった。どうしてあんな奴のことでここまで悩まなきゃならないんだ。あいつは俺のことなんか、ただのおもちゃとしか思ってないかもしれないのに。
「―――彬」
「!」
 彬はばっと立ち上がった。そこにいたのはジェフだ。
「………なんだよ」
 一人で落ち込んでいるというひどく恥ずかしいところを見せられて体中が熱くなる。だが、ジェフがすっと一枚の便箋を渡してきたのでその体温はすぅっと冷えた。
「――なんだよこれ」
「ガウス先輩から、君にって」
 彬は驚きで固まり、それから大急ぎで便箋を開いた。なにを言ってくるのかわからないが、あいつが初めて示した俺を追いかけようという意思―――
 だが、便箋に書かれた文字を呼んだ彬は固まった。そこにはただ二言、
『ごめん。さようなら』
 と書かれていたからだ。

 ガウスは寮長室の窓から外を眺めながら、はぁ、とため息をついていた。
 やる気がしない。研究も生活も人生も。すべてにおいて張り合いが持てない。
 自分がおかしい状態にあるということはガウス自身気がついていた。だがそれを修正しようとすることすら面倒くさかった。
 だって、彬がいないのに。
 まさか自分自身ここまで彬にハマっているとは思わなかった。世界で一番好きで、大切で、ただ一人ずっと一緒にいてほしい人だとは思っていたけれども。
 最初はただからかいがいのあるおもちゃだとしか思っていなかった。顔は好みだなと思ってはいたが。
 それが毎日遊んでやっているうちに、少しずつ。彬の見せるいろんな顔に心が奪われて。
 一緒にいるのが楽しくて、いろんな表情を見せてくれるのが嬉しくて。同じ部屋にいてどんなに長く一緒にいても飽きなくて。
 トニーとのことで筋金入りの常識人だとわかっていたから、どんなにかまっても自分を好きにはならないだろうと安心して。自分の個人生活が妨げられることはないだろうと楽しくかまっていたのに。
 いつの間にか、自分の方が、彬のそばにいたい、と思うようになっていた。
 なんでだろう、彬といる時は一人でいる時よりずっと楽しかった。一人の時のように安心感はなかったけれど、その代わり世界の果てまで駆けていけそうな充実感に満ちていた。
 ずっと一緒にいられたら嬉しい、なんて思った。
 でも今ここに彬はいない。
 ふ、と息を吐いてガウスは肩をすくめた。なにやってんだかな、オレ。
 ―――と。
 ばたーん! と凄まじい音を立てて部屋の扉が開いた。
「な!?」
 驚いてガウスが振り向くより早く、なにか小さいものが自分の背中に突進してきた。がしっと自分の体と服をつかんで放さない。
 ―――彬!?
「あき……」
「バカヤロウっ!」
 ――いきなり怒鳴られた。
「さよならとか言うな! あんな、あんなこと言っといて、さよならとか言うな!」
「へ……え?」
「お前俺のこと好きって言っただろ、一緒にいてくれって言っただろ! 嘘だなんて言わせねぇぞ、俺は確かに聞いたんだからな! 笑ってたけど、ふざけてたかもしれないけど、俺は聞いちゃったんだから!」
「いやその……彬?」
「こっち見んなばかぁっ!」
「はいぃっ」
 慌ててガウスは元の通りに窓の外を向いた。
 彬……泣いているのだろうか、声が濡れている。なんだかわけがわからないが、彬が必死で叫ぶ声を聞いていると、たまらなく胸が疼いた。
 ガウスの背中に抱きつきながら、彬は本当にぽろぽろ涙を流している時の声で叫んだ。
「お前は俺のことただのおもちゃとしか思ってないかもしれないけど! 俺は! お前がどんなに寂しくて、人と本当に親しくなるのが怖いか知ってるんだからな! お前がどんなに人がいても、気づかれないようにバリヤー張って一人ぼっちでいること知ってんだからな!」
「―――――」
 ガウスは思わず胸を衝かれて絶句した。まさか、気づかれてたとは思わなかった。
「だから俺はお前と一緒にいるっつったんだ、本気の本気で! だからお前が俺のことどう思ってようとなんとも思ってなくても一緒にいて一人じゃなくしてやるって決めたんだからな! さよならとか言うなら俺をぶっ殺すつもりで言えばかっ!」
「…………――――」
 ガウスは、ぎゅ、と腰に回された彬の手を上から握り締めた。
「彬。振り向いていい?」
「! だめだっ!」
「駄目って言われても、俺今とってもお前を抱きしめたいんだよな。だから振り向くぜ、いいよな」
「だめっ……やだぁっ……!」
 彬の懇願を無視して、ガウスは彬の方を振り向き、今度は自分から抱きしめた。ぎゅっと、強く、けれど彬を傷つけないように。
「顔……っ、見んなっ………!」
 予想通りぼろぼろ泣いて、涙を必死に拭う彬に、ガウスはそっと口付けた。
 まず額に。そしてこめかみに。鼻に、頬に。そして、くいっと顔を上向かせて――唇に。
「………ん………む………」
 愛情をこめてしっかりキスをしてから(彬もキスにはだいぶ慣れた)、ぽわんとした表情になって自分を見上げる彬に囁いた。
「彬。好きだよ」
「…………」
「本当に好きだよ。お前がオレの言うこと信じられなくても何度でも言うぞ。好きだ、大切だ、大好きだ。お前はオレの、ただ一人、ずっと一緒にいてほしい人だよ。………そう言っただろ?」
「…………ばかっ…………」
「馬鹿だよ。彬バカ。お前が絡むとオレ馬鹿になっちゃうんだよなー。お前がオレのとこからどっか行っちゃうのがすっげー怖いのに、追いかけたら腹立てて本当に帰ってこなくなっちゃうんじゃないかとか怖くなっちゃったりもしたしさ」
「…………ホントか…………?」
「ホント。だから、ずっと一緒にいてくれよな? 彬がいなくなるとオレ駄目になっちゃうからさ」
 にーっと笑って彬を抱き上げ、同じ高さの視線でそう言ってやると、彬はカーッと顔を赤らめ、「ばか」「放せ」「変態」とか言い始めた。
 まぁいつも通りの彬に戻ったわけだが、ガウスとしてはそれで全然文句はない。
 それに、彬が、暴れに暴れてガウスに下におろされる時、小さな小さな声で。
「すき」
 と言ったのを、ちゃんと聞いていたのだから。

 トニーはジェフと自分の部屋で、まったりしながら楽しい時間を過ごしていた。
 ジェフが珍しく研究をしておらず、自分のベッドに寄りかかりながら本を読んでいる。自分はそのベッドに腰掛けつつ、本を読むジェフを思う存分観察していた。
 白く、繊細だけどしっかりした手がページを繰るたびにジェフの金色の前髪がさらりと揺れて額にかかる。ときおりジェフの手がうるさげにそれをかきあげる。
 ジェフの首がゆっくりと、ほんのわずかに動いて本を読み進めるのを見るのだって、ふだんではできない贅沢だ。ジェフをただ見ていればいいなんて贅沢な時間は、学生の身分としてはそうそう取れないのだから。
 しばらくそうしていたが、そろそろジェフにかまってほしくなったトニーはジェフのうなじにかかる髪にさくりと指を通しながら言った。
「ねぇ、ジェフ」
「なに? トニー」
 問い返す声は穏やかだ。これは話してもいいというサイン。トニーは微笑んで話を続けた。
「ジェフも案外世話焼きだよね」
「……そういうわけじゃないよ」
「世話焼きだよ。彬にガウス先輩からだって言って彬を揺らすような手紙送って。それが失敗した時のためにもいろんなの用意してあったんでしょ?」
「……自分がやったことのフォローぐらいはしてしかるべきだろ」
「ふふ」
 トニーは小さく笑って、上からジェフの額に口付ける。自分の恋人が世界の誰より誇らしい。
「ジェフ、二人のこと心配してたもんね」
「……そりゃ、ガウス先輩がしゃんとしてくれないとクラブの方がね」
「それだけじゃないでしょ。……ジェフとガウス先輩、ちょっと似てるもんね」
「……トニー。喧嘩売ってるのかい?」
「そうじゃないよ。ただ、ジェフは優しいなーって話」
「……なにを言ってるんだか」
 苦笑するジェフに、トニーはベッドの上、ジェフの背後から、ジェフの頭をそっと抱きしめる。
「ジェフ。大好きだよ」
 そう言うとジェフは小さく苦笑した。それからひょいと首を伸ばしてキスを盗み、笑う。
「僕も大好きだよ、トニー」
「うん……」
 ジェフとトニーはそのまま、しばらく黙って抱きあっていた。傷ついてもそばにいたいほど好きな人が隣にいるという幸せを、思う存分噛み締めるため。

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