蜘蛛とわたし

by 夜長


わたしの部屋には、蜘蛛がいます。
黒くて、長い手足を、少し持て余し気味に、ぎこちなく動かしている、愛しい蜘蛛です。
その蜘蛛を見ると、わたしは失ったものの大きさと、確実に手に入れたもののすばらしさに、ふっと胸が痛くなるのです。
人は笑うかもしれませんが、わたしには、いつ、どこに彼がいるのかが分かります。気配を感じて振り返ると、彼は、いつも確実にわたしの視線の先にいるのです。真っ白い壁に、ぽつんと、今しがた浮き上がってきたような黒いしみ。わたしに見つかって少し恥ずかしそうに身じろぎする彼を、わたしは本当に愛しいと思うのです。
彼の気配を背中に感じながら何かをしているとき。その時は、なにか、心の中に、聖霊歌としか言い様のない物がわき上がってきて、あまりの安心感に涙が出そうになります。そして、どんな音の中でも、彼とわたしが感じている密やかで甘い静謐は、荘厳なその歌をバックに決して破られることはありません。

わたしには以前、わたしの心のどの部分と引き替えにしてでも大切にしたい人がいました。いつも何かにおびえているような彼が、そのままあまりにも大切すぎて、自分にだけは心を開いてほしい。自分が、どのくらい愛してるか知ってほしい。それだけでいつも頭がいっぱいでした。そして、彼に会うと、その思いの出し方の加減がわからず、体中にかみついては、激しく泣きじゃくったものでした。
そんな時、彼は、想いをぶつけた分だけ、わたしだけの快適な座椅子のように、ゆっくりと体を倒し、ふんわりとわたしを抱き留めるのでした。
そして、いつしか、わたしは、ストッキングを破ることを覚えました。彼が愛しくてたまらなくなると、わたしは、びりびりと、自分のストッキングに爪を立てるようになりました。いつも、難なくわたしの激しさを受け止めてしまう彼の目の前で、わたしの内の本当に、何かをこわしてしまいたいという破壊衝動を示すことは、その時は、とても意義があるように感じたのです。
普段は、他愛なく破れる生地なのに、それをいざ、めちゃくちゃにすることは、意外に難しく、わたしはいつのまにか、なんとか破ろうと熱中し、汗ばむような興奮は、性的な興奮と区別が付かなくなり、最後には力を入れすぎなのか、それとも別の何かなのか・・・いつも、くらくらとめまいがするような感じになってくるのでした。
そしてその姿は、彼にも扇情的に移るのか、いつの間にか、わたしがストッキングに爪を立てるのは、二人にとって愛を交わすための合図の儀式のようになり、私たちは、その興奮の中、いつもお互いの体をむさぼり合い始めるのでした。

しかし、数ヶ月そんな風に過ごすと、わたしは、彼といられない自分を感じ始めました。あまりにも彼が愛しすぎて、わたしは、自分がすっかり昆虫になったように感じてしまったのです。

以前飼っていたカミキリムシのつがいは、驚くほど仲がよく、いつもより沿い、果てることを知らないかのように愛の交歓を続けていました。しかし、昆虫の寿命の悲しさで、大切に飼っていたにもかかわらず数ヶ月で衰え、死んでいったのです
その死骸を見つけたとき、わたしは、他の昆虫には見られなかった愛の交歓の激しさのみが心に残り、まるでその激しさ故に死んでしまったように感じたのでした。

彼と数ヶ月過ごすと、わたしはまるで自分がそのカミキリムシになったかのように感じました。会っているときは、その思いを心行くまでぶつけて消耗し、会えない時は、彼のいないときのあまりのむなしさに消耗し、見る見るうちにやせ衰えてしまったのです。
カミキリムシが弱ってくると、表面上はわからないのですが、その体の裏側には、びっしりとだにがたかるようになってきました。弱っているものには、さらに追い打ちがかかるのでしょうか。
わたしは、もう自分が、そのだににたかられたカミキリムシに思えてなりませんでした。彼と一時も離れたくない・・・。でも彼は、そんな狂人のようなわたしをどう思っているんだろう・・・わたしの体には、もう、そんなくだらない些細な悪い心配が、ぷつぷつと音を立ててだにのようにたかってきたのです。

ちょうど、そのとき、以前から患っていた兄が死にました。彼の晩年は、ほとんど病院暮らしで、わたしは毎日欠かさず見舞いにはいくものの、彼が家族の一員である実感はかなり薄らいでいました。わたしの感覚の中では、食卓を囲み、一日を無事終え、就寝するその家族の中に彼がいない方が、もう、普通だったのです。
しかし、彼の死を聞いた時、わたしの心を、それまで彼がいなかった月日を取り返すかのように、猛烈な寂しさがおそってきたのです。わたしは、混乱しました。
男に執着しすぎるあまり、自分が神経衰弱になっていることを疑いました。
なぜ兄の死がこんなに悲しいのか、と、とまどいました。しかし、その感情が人間らしく、男のせいで自分が自分である手応えを失いつつあった私は、少し安心しました。そして、この肉親らしい、人間らしい感情が冷静になったときに薄れるのをおそれました。
わたしは、彼が焼かれて、形がなくなるまでは、このまま激しい悲しみに包まれていなくてはいけない、と思いました。そして、その一方で、こんなにつらい思いが続くと、男のことで弱っている自分はどうなるのだろう、と恐ろしくもなりました。
そして、ふっと、「男と別れよう」と思いついたのです。男と別れたなら、わたしは、死ぬほどの悲しみにおそわれるだろう。そして、それは、兄を失った悲しみと入り交じり、当分消えない激しい悲しみになるだろう。その悲しみは、かなりの間持続するに違いない、そして・・・男と別れれば、自分は、もう、カミキリムシにたかっただにのような、小さな悪寒を蓄積せずにすむだろう。とも思ったのです。
わたしは、男を愛することで味わう恐ろしいほどの飢餓感と、彼を失う考えることもできない飢餓感と、兄を失った喪失感と、それが薄れること、心にたかった小さなだに達すべてを、疲れ果てていた頭の中で混ぜこぜにし、見たこともないような大きく毒々しい色の花火を打ち上げようと考えたのです。
わたしは、途方もなく混乱し、そして、途方もなく冷静でした。

男に別れを告げてから、わたしは、三日ほど食事をとれなくなりました。少しでも物を口にすると、すべてもどしてしまうのです。消耗した体に、吐くという胃のぜん動はかなりこたえるので、何かを口にするのは、そのうちあきらめました。その三日の間に、通夜、葬式があり、人々の目には、私は兄の死でかわいそうなくらいに打ちひしがれ、やせ細った妹とうつりました。なんといっても、車で焼き場に運ばれたときは、そこに着くなりもどしてしまい、本当に心身共につらかったのですが、その姿は、きっと会心の出来だっただろうと思われました。
すっかり弱っていた体に、その断食期間はさぞこたえるだろう、と思っていたのですが、ばたばたと人が出入りする緊張感のせいか、倒れることも、病気になることもなく、わたしは、ただやせ衰え続けました。しかし、その後、また仕事に戻り、作り笑顔の毎日を続けていると、いつの間にか食事がとれるようになり、体は元に戻っていきました。悲しみは、決して収まることはなく、寝てもさめてもただ意味もなく悲しかったのですが、心に反して、身体は異常なまでの健康への執着を見せていました。わたしは、数日で、やつれてもいない、面影に変化もない、もう人々も同情するのに飽きた、ただの「少し前に兄を亡くしたいもうと」になりました。
そして、まだ続く悲しみが、兄の死のせいか、男と別れたせいか、その後のいろいろな出来事のせいか、・・・不純物が混ざりすぎた故の「純粋な悲しみ」になったころ、わたしが愛した・・・なおも愛していた男が死んだと聞きました。
彼の友人から、最後に彼のポケットに入っていた物は、数千円と、ポケットティッシュと、小さな切り抜きだったと聞きました。切り抜きは、自殺の名所のある温泉地の写真だったそうです。しかし、実際に彼が死に場所に選んだのは、全く別の場所で、そこを選ぶまでに、彼の内にどんな懊悩があったかは、もう知る由もないこととなってしまいました。
その時は、鮮烈な想いででも、いつかは色あせてしまいます。わたしは、その前に、こういう陳腐なやり方でではあるけれど、わたしの心からより先に、この世自体を去ってしまった彼が、やはり愛しいと思いました。

こうして、わたしは、短期間に二つの死を経験したと思っていました。
しかし、そうではなかったようです。

そのころから、わたしの部屋には、蜘蛛がでるようになりました。それまでも、蜘蛛を見かけることはままあったのですが、それは、どうやら、いつも同じ蜘蛛のようでした。何か、書き物をしているとき、など、ふっと気配を感じ、後ろを振り向くと、必ずそこにはその蜘蛛がいるようになりました。そして、わたしの視線を感じると、一瞬止まって、もぞもぞと旋回したり、もじもじと手足を縮めたりのばしたりするので、そのうち、その蜘蛛は雄に違いなく、わたしに見つかると恥ずかしいのだろう。となぜか、自然に思うようになりました。
そんなある日・・・その日、彼は、珍しく、わたしが書き物をしている机の上に乗っていました。わたしは、しばらく書き物をしたあと、そこに資料を切り張りするために、カッターを持ち出しました。そして、定規に刃を当てて、資料を切っていると、思いがけず、彼が、ぴょんと、刃の進んでいるすぐ先に飛び出してきたのです。直線を切っていたのでかなり勢いがあり、思わず手元が狂ったその拍子に、カッターは、わたしの左の人差し指を深く傷つけました。
あわてて、血止めを探し、何とか、ティッシュで指を押さえ、机に目をもどすと、散乱している紙類の間の机の面に、血の滴が落ちていて、それにふれるような格好で、蜘蛛がじっと止まっているのが目に入りました。カッターは彼の体まで及ばなかったはずなので、死んでいるとか、傷ついているはずはないのですが、彼は、身じろぎ一つしません。横から見てみると、どうやら、その血に頭を乗せているように見えました。
その時、背筋をざーっと熱い物が走り抜け、そして、わたしは悟ったのです。「この蜘蛛は、あの、わたしの愛した男だ。」と。そして、彼は、わたしは自分の物だと、思い知らせるための儀式をしているに違いない・・・と。ひとしきり血の滴を味わったあと、彼は悠々と机をはい下り、そして見えなくなりました。わたしは、ティッシュを通して血がにじんできた、真っ赤な左のひとさし指を押さえ、しばらく呆然としたのでした。

そして、それからも、蜘蛛は、わたしのところに現れ続けています。彼の最終の目的は何か、それは、全くわかりません。これ以上どうすることもなく、ただ、わたしといたいだけなのかもしれません。
でも、蜘蛛が、あの人だとわかった瞬間から、この部屋の空気は、以前よりも、濃密で愛に満ちたものになりました。外出先でも、電車の窓に張り付いていたり、鞄にいたりと、片時もわたしのそばを離れないようです。
彼は、人であることをやめたときに、わたしとの間に初めて、本当に、猜疑心も、離れている苦しみも、破壊の衝動もない、優しい愛の時間を手に入れました。

彼は、知っていたのです。すべてを失ってこそ初めてすべてが手にはいるということを。


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