malformation

by 羽根蟲


 嘘だろ。何があったんだ。断るなんて酷いじゃないか。
 本気なのか?オレが嫌いなのか?何なんだ、いったい。
 信じられない。目の前のモノが崩れていく。
 戻ってきてくれ。こっちを見てくれ。
 頼む、振り返ってくれ。頼むから・・・・・・。




   「プカリプカリと暗黒の海に浮き沈みせん。
    満月が空に玲瓏と輝く。
    我の躰は輪郭を保つことが出来ず。波に揺られ、ゆらゆらと拡散せる。
    我の意識も、散華の花びらのよう、はらはらと散らばりゆく。
    その中の一枚が、燦々と輝きを増す。押さえ切れぬ欲望の焔。
    赤黒い血肉を喰らう邪鬼の様に、意馬心猿を制するに能わず。
    ナザレのイエスの救いとて、我が身の横を擦り抜けるのみ。
     我、何に救いを求めしか、何に救いを求めしべきか。」




  風が強い。
  酷く耳障りだ。
  息も出来やしない。
  目も開けられない。
  此処は何処だ?
  僕は何をしている?

    嗚呼、思い出した。
    これでやっと眠れるんだ。

  ふいに風の音が止んだ。
  と、同時に、女の悲鳴が聞こえたような気がした。
   もう、どうでも良い。
  奇妙な脱力感が、僕の全身を満たし始めていた・・・。


 夢を見た。
 子供の頃に見たことがある、あの夢だ。
 テレビの好きな子供だった。終日かじりついていたように思う。
  「超男性ゲルニカ」。
 一番のお気に入りだった。
 ゲルニカは、強い。普段はしがないサラリーマンだが、ちょっとしたキッカケで、怪力無双の大男に変身する。
 そして、悪人を殺しまくる。八つ裂きにする。
 そこに正義はない。
 ゲルニカは、ただ感情の赴くまま、自分が気にくわない奴にその力を振るうのだ。
 「ゲルニカ」になる想像を、繰り返ししていた。
 そして、級友達に仕返しをするんだ。
 泣き叫ぶあいつの頭を、壁に叩きつける。
 僕を見て笑ったあの子の体を引き裂く。首を引きちぎる。
 何もしてくれなかった先生の腸を引きずり出す。

 そんな夢想を抱きながら、じっと耐え続けていた。

 何年振りだろう、この夢を見るのは。
 そう、判ってるんだ。この夢を見るときは決まっている。
 また、やってしまったのだろうか・・・




  男は、もう手を伸ばせば、女の後ろ髪が捕まえられる程の距離に迫っていた。
 必死に逃げてはいるが、所詮女の足だ。頃合いを見計らって跳びかかるつもりでいた
 しかし、なんで若い女というものは、こうも危機意識が薄いのだろう。
 こんな夜更けに人通りもない公園を通るとは、襲ってくれとでも云ってるようなもんだろうに。
 まぁ、それで美味しい目を見てるわけだけどな。
 先日犯した女の白い足を思い出し、また、これから始まる陵辱に男は、股間を熱くした。
 さぁ、そろそろ良いかな。

 動物園に隣接したその公園は、やたらと広い。最近流行りだしたエコ何とかって云うののおかげで、
方々にこんな公園がある。おまけに光害うんたらで、街灯もそこそこ。
 ほんとにうってつけの場所だ。

 男は跳びかかり、横の木陰に引きずり込んだ。
 女の頬を張り、首筋にナイフを押し付ける。
 大抵の女はこれで観念する。
 まぁ、大人しくしてれば、やることやるだけで怪我させたりはしないからな。
 しかし、この女は、諦観の顔をしたと思いきや、突然悲鳴を上げ、暴れ出した。
 男は慌てて、女を押さえつけ、静にしねぇか、この女等と罵ったが、女は一点を見据えたまま必死に藻掻く。
 男は、女の視線が自分ではなく、その後ろを見ていることに気付き、恐る恐る後ろを振り返った。
 真っ暗な夜空を背景に、獣じみた眼光を見た、否、見えたと思った瞬間に、男はもの凄い力で跳ね飛ばされていた。
  な、何だ、ありゃ。
 そいつは、男の見ている前で、女の足を掴むとそのまま地面に叩きつけた。
 癇癪を起こした子供がするように、何度も何度も女を振り回す。
 殺される。知らず、口から悲鳴が漏れる。
  ひぃーーーーー
 その声に反応したように、女を放り出し、男に向かう。
 男は、這い蹲ったまま、必死に逃げ出した。
 その男の頭を、巨大な手がゆっくりと掴む。
 男は、もう一度キチガイじみた叫びを上げ、そして、絶命した。




 耳鳴りがする。
 脳髄自体が唸り声を上げているようだ。
 ベットの上で寝返りをうつ。体の繋ぎ目が、使い古された扉のように軋む。気怠い痛みを感じる。
 ・・・最悪の朝だ。
 わかってる。昨日の深酒が良くなかったのだ。
 僕自身酒に弱いことはよく知っている。そして、すぐに記憶が曖昧になるのも悪い癖だ。
 嗚呼、煩い。自分の鼓動に腹が立つ。
 どくんどくん、と。黙って働いてればよいものを、何故そう自己主張したがるのだ。
 自分の心臓を引きずり出して壁に叩きつけれるなら、さぞ楽しかろうに。
 くだらない妄想に身を任せながら、ふと自分の手を見る。

  何だ、この色は?

 握っていた手をゆっくりと開いてみる。途端に走る激痛。指の付け根は、皮が破れ、赤黒い血が凝固していた。
 嫌な予感。
 自分の服に目をやる。昨日と同じワイシャツ。ネクタイだけは、外したらしい。
 その真ん中に、当然のように、赤黒い汚れが拡がっていた。
 指先で引っ掻いてみる。パリパリと零れ落ちる。
  また、やってしまったらしい。
 壁に叩きつけた心臓の印象が、片隅から、徐々に拡がっていく。
 耳鳴りが酷い。鼓動が煩い。息をするのも煩わしい。
 両の手を、目前に翳す。赤黒い汚れが・・・ 自分の血か? それとも・・・

  ジリリリリリリリリリリリリリリン

 目覚ましが、僕を現実に引きずり戻す。
 そう、考えたってしょうがない。
 急に意識の焦点がハッキリした。
 ベットから降りると、汚れた服、ああ、スラックスもだ、をまるめて、ゴミ箱に放り込む。
 シャワーで、血の汚れと、倦怠感を洗い流す。冷水と熱湯を交互に浴びる。一向に気分は優れない。
 浴室から出、再び出血し始めた両手に取り敢えず包帯を巻き付けた。
 濃いめの珈琲を淹れ、パソコンの前に落ち着く。イエローペーパーサイトに繋ぎローカルエリアの見出しにザッと目を通す。
  「サイクリング車による轢き逃げ多発」「放射能ドラッグ製造者検挙」「市営動物園、管理機構故障」「女装警察官、痴漢容疑で逮捕」云々・・・
 目指す記事は−−−無い。安心すると同時に、少し落胆する。
 何を期待している? 
 夢?  
 偶然に決まっているだろう。
 画面の右下が点滅する。新着ニュースの着信ランプ。
 心臓が、とくん、と声を上げる。
 予感がする。点滅するアイコンをクリックした。
   「市営公園にて、女性の他殺死体発見」
 ・・・これだ。
 体温が上昇する。額に汗が浮かぶ。ああ、手が、震える。喜んでいるのか?
   「本日未明、市営公園を散策中であった男性が、・・・・・・女性の遺体は、・・・頭部が、・・・地面に何度も打ちつけるなどして・・・」

 また、やってしまった。
 そう、犯人は僕だ。 正確には、僕の中にいる「超男性」だ。
 これで、何度目だろう。
 原因は解っている。僕の呪われた血のせいだ。

 ヒトゲノムの解析は、数年前に終了していた。その結果、殆どの遺伝子病は減少傾向にある。
 なにせ、胎児に重大な異常が見つかれば、ほぼ強制的に堕胎されるからだ。
 しかし、それでも遺伝子的に欠陥を持つ人間が、居なくなるわけではない。
 解析のもう一つの成果は、欠陥を持たない人間など居ない、ということだったから。
 現在の研究のテーマは、その遺伝子の差違が、身体的能力に如何に作用するかで、これも、数年内には解明される予定だ。

  あれは、小学生の頃だった。
 担任の教官が、白衣の男と一緒に、沈痛な顔でやってきた。教官は手に先日行った身体検査のカルテを持っていた。
 
 僕は、染色体異常だった。性染色体異常だ。
 ターナー症や、クラインフェルター症の様に、外見的異常はないXYY型で、何百万人に一人という話だった。
 それから何度か、その研究員のもとで色々な検査や実験を受けさせられた。
 其の結果は知らないが、どうやらあまり優秀なモルモットではなかったようだ。2,3ヶ月で、解放された。
 
 しかし、現実は、非情な演出が好みのようだ。僕は苛められるようになっていた。
 もともと内向的な子供ではあったが、周囲とはそれなりに上手くやっていたと思う。
 検査は絶対に秘密にすると云う約束であったが、人を譏るは鴨の味、止められるものじゃない。
 拷問のような日々が続く。虐げられた生活。自尊心も個としての尊厳も、根こそぎ奪い去られた。
 僕はみんなのオモチャだった。気付いているはずの先生も、僕を奇異の目で見る事はあっても、助けてはくれる事は無かった。
 
 永遠に続くかと思われた辛苦の世界も、卒業間近のある日、急に終わりを告げた。
 首謀者だった少年が殺されたのだ。
 僕と同じように苛められていた級友が、犯人にされた。その場で自殺していたらしい。
 それから、僕を苛めていた奴等は、僕と目すら合わせようとしなくなった。
 あの事を知っているんだろう。子供は意外と鋭いものだ。大人は誰も気付いていないみたいだが。
 
 あいつを殺したのは、僕だ。
 
 それを思いついたのは、彼の葬儀があってから数日後だった。
 あいつが死ぬ前の晩、夢を見た。夢を見たと思っていた。でも、それは現実だったようだ。
 流石に、素手では殺せず、ナイフを使ったようだったが。あの夢は、現実の隠蔽。歪んだ自己保身だ。記憶に残らぬ犯罪に、
良心の呵責はない。自分の行った罪状も他人事。逆に自分の特質を誇らしく思った。
 XYY型の人間にのみ許される特権。
 ボストンの看護婦寮殺人事件の例を引くまでもなく、XYY型の男は、凶悪犯罪に手を染める場合が多い。
 そうした犯罪者は、罪悪に対する心的抵抗感が著しく低いと云う。
 僕は、産まれながらにして、犯罪者になるべき性質を持っていたのだ。
 そこから推し量るに、彼の殺人が僕の犯行であると、結論付けるのは容易い。一緒にいた彼には、悪いことをしたが、まぁ巡りが悪かったんだろう。
「超男性ゲルニカ」だって、一般人を巻き込んでるのだから。
 それからの僕は、人が変わったように明るくなった。自信が与えた影響は大きい。おどおどした羊ではなく、牙を持った狼のプライドを身につけた。
 誰も僕を傷つけることは出来なくなった。友人には恵まれなかったが、知人は増えた。
 平穏な生活が続く。力を振るうことなど、二度と無いと思っていた。

 災いは、突然やって来る。
 どういう経緯で、そうなったかは定かではない。肩が触れたとか、目が合ったとかそういう類だろう。
 大学に入って間もない頃、繁華街を一人で歩いていた僕を、数人の男が取り囲んでいた。後は、定石通り。
 気が付いたのは、路地裏の塵捨て場だった。
 悔しかった。虫螻の如き下賤の者が、僕に手を出しのだ。悔しさを紛らわすため、慣れぬ酒を浴びるほど飲んだ。
 あやふやな記憶の中、ひとつだけ覚えているは、例の夢のみ。
 数週間後、虫螻共の死亡記事が新聞を賑わせた。犯行は、対立するグループによるものと発表された。
 子供の頃とは違う。僕は暫くの間、官憲の姿に怯え、戦戦兢兢としていた。
 しかし、犯行に及ぶ僕は、思いの外冷静らしい。証拠を残さぬ強かさを持っているようだ。それとも警察が無能なだけか。
 事情を聞きに来る輩もおらず、小気味良い心持ちだけが残った。

 次の犠牲者は、電車で隣り合った女性だった。
 僕を痴漢と間違えたのだ。必死の抗弁も適わず、始末書を書かされた。
 忸怩たる思いを味あわされる。許してはおけない。どうしたって復讐せねば気が収まらない。
 だが、当然、氏素性も判らず、悶々とした日々を過ごす。次第、酒の量も増えてくる。
 朦朧とした頭を抱えながら、毎日を過ごした。そんなある朝、ニュースで、あの女が通り魔に殺されたことを知った。
 写真も載っておらず、名前に見覚えもなかったが、あの女に間違いない。
 すると、やっぱり犯ったのは、自分であろう。後追いの自覚が芽生える。
 僕には力がある。
 誰にも負けない力だ。
 僕の癪に障って、無事に済むものは居ない。
 そんな力に自得し、暫しは静謐な世に安住した。


 パソコンの電源を落とし、一人北叟笑む。
 女の身元は、まだ知られていないようだが、そのうち判明するだろう。
 まぁ、間違いない。沙織だ。昨夜、僕を振ったあの驕慢な女だ。
 気分が高揚する。
 今までもそうだった。今回も証拠を残すようなことはしていないだろう。
 冤罪を繰り返す警察には、もしかしたら僕と沙織の関係すら気付かないのではないのか。
 笑ってしまう。殺人に対する禁忌はもはや存在せぬ。呵責は、記憶にのみ働くのだから。

 耳鳴りが止んだ。爽快感が身を包む。

 出勤の準備をし、意気揚々と家を出た。
 マンションの入り口に人集りが出来ていたが、それを避けるように横を通り過ぎ、大通りに出る。
 ここから、最寄りの駅までは20分は歩かなくてはならないが、街道沿いに植えられた木々のおかげで、心が和む。
 とても殺人を犯した人間の心境では無いだろうな。自然、足取りも軽くなる。

 と、前方の桜の木の下に、真っ黒な服を着た少年が立っていた。遠慮の無い視線を僕に向けている。
 背中を冷たい汗が流れる。首筋の毛が逆立つ。凛冽なる視線。僕は其の目を避けるように顔を背けた。

  「お兄さん。昨日の夜、凄かったね」

 横を擦り抜けようとした刹那、彼が、声をかけてきた。
 心臓が一瞬動きを止める。なんて、冷涼とした声だ。僕は、狼狽を隠しながら、まじまじと少年の顔を見返した。

  「何のことだ?君は誰だ?」
  「ああ、手を怪我してるんだね。そりゃあれだけのことをすれば怪我もするよね。
  「惚けたって無理だよ。お兄さんの背の高さ見違えるわけ無いもの。」
 
 少年は、口元にうっすらと笑いを浮かべながら、僕を睨め付ける。
 僕は、足下の震えを止めるのに苦心している。また、羽虫が頭の中を飛び回る。煩い。煩い。僕は、黒衣の少年の首に手を伸ばす。
 少年は軽く身を捻ると、相変わらぬ冷たい邪眼で、僕を縛りながら、
 
  「また会いに来るよ。」

 そう云って、ゆっくり歩み去った。

  (見られた・・・!!)
 手足が悴けてくる。戦慄を覚える。恐慌が脳髄を満たし始める。悲鳴を上げそうになる口を噛み締めながら、部屋に駆け戻る。
 未だ入り口に屯っている集団が奇異の視線を向ける。こいつ等も、気付いていたのか?

 他人の口から聞いた己の行状を指し示す言霊が、自己の記憶をすり替えていく。
 僕が殺した女の顔が、鮮明に浮かび上がる。恐怖に満ちた顔。見開いた眼から涙が溢れている。
 どうやって殺した? そうだ、地面に頭を叩きつけたのだ。そう書いてあった。
 固い地面に頭を打ちつける。短い悲鳴が聞こえる。繰り返し繰り返し叩きつける。きっとこの手は、その時に傷つけたんだ。
  ああ、思い出した。
 恐怖に駆られ、確信を求めて、パソコンに向かう。ニュースを検索する。

   −−−−−−−!!

  「公園内に新たな死体発見」
  「身元不明、男性のバラバラ死体が、・・・力で引き千切られており・・・肉片が公園内に散乱・・・」

 突然胃液が逆流してくる。洗面に反吐を吐く。胃の痙攣が止まない。空嘔に苦しむ。
 鏡に映った自分の顔が、見知らぬモノに思えてくる。昨日と違う顔。悲鳴を上げる。

 怪力で引き千切られた死体・・・それは、ゲルニカの殺し方だ!
 そんなやり方、人間には無理だ。出来るはずがない。それが可能なのは、「超男性ゲルニカ」ぐらいだ。
 嫌だ 嫌だ。あんな怪物になるのは嫌だ。
 ゲルニカに憧れていたのは、あの力だけなんだ。あんな醜い忌まわしい姿になるのは堪え難い。
 ゲルニカの最後を思い出す。人間の姿に戻れなくなった彼は、化け物として殺されてじゃないか。
 あんな風になるのは嫌だ。怖い。怖い、怖い、怖い。嫌だ。怖い。
 人殺しは良い。人間らしい行動だ。倫理的な問題だって解決できる。僕は、このまま人間以外になってしまうのか。
 鼻先で嗤笑する顔を殴りつける。鏡が割れ、鮮血が滴る。呪われた血、呪われた染色体。
 
 突然変異を司る遺伝子は、Y染色体に多く含まれる。

   ・・・思い出した。

 薬物、放射能、住環境変化。子供の頃に受けた実験の数々は、人為的な突然変異の実験だった。
 その結果がこれか。解放ではなく、経過観察だったのか。
 今はまだ人間の皮を被っていられるが、きっと、細胞変化は始まっているだろう。
 人間を素手で解体するなんて、そうでもなければ無理だ。
 今朝の体の痛みは、急進的な代謝活動のせいか。そうやって化け物に造り替えられていくのか。
 恐怖が体中を満たしていく。いっそ気が狂ってしまえばよい。精神の構造変化を待ち望む。
 そうして、白衣の悪魔共のモルモットに墜ちてゆくのか。
 拳を壁に何度も打ちつける。痛みがあるのが人間の証拠、とでもいうように。

 唐突に、ドアのチャイムが鳴った。
 我に返る。通報されたのか?
 恐る恐る外部モニターを確認する。案の如く、制服姿が目に入る。開錠しないでいると、ドアを叩き始めた。

   「こんにちは、いらしゃらないんですかー。」

 白々しい。合い鍵も用意しているだろうに。
 素早く玄関口から靴を持ってくるとベランダに出た。此処は二階だ、飛び降りても大したことはあるまい。
   (特に今の躰ならな)
 自嘲気味に笑う。後ろから警官の声が追ってくる。
 目の前の木に飛び移った。
   「入り口の犬の死体のことで・・・」
 僕は、走り出していた。
 逃げてどうなるものでもないが、あらん限りの抵抗はしてやるつもりだ。
 いつもの道を駅に急ぐ。人間と一緒にいたい。感じたこともない寂寥感が胸にわく。
 都会へ、人間の多い所へ。
 人の目に触れることを恐れながらも人の気配を求め、繁華街のホテルに身を隠した。



  あれから、幾日過ぎたのだろう。未だ、官憲の手は、我が身に伸びてはおらぬ。
 さりとて、心休まるはずもなく、まんじりとともせぬ夜を重ねる。
 身体の変化は休むことを知らず、此の処、感覚器に変調の兆しを見る。
 有り得ないモノが耳朶を煩わし、有り得ないモノが視界を占住する。
 からくり人形のように、盆を運ぶ女中。盆の上から得体の知れない匂いが漂う。茶碗の中の蛆虫が蠢く。箸で突つくと、表皮が裂けて青黒い体液をそこらに撒き散らす。味噌汁は重油の香りを残し、黒々とコールタールのように淀んでいる。
 魚の目玉は、僕を凝視し、有り得ない音楽を奏でる。腐った腸からは、まるまる太った回虫が顔を覗かせる。
 部屋の薄暗い電球は、始終小便を垂れ流し、類い希なる芳香を漂わせている。カーテンからは、白い手がのび、壁の一面を眼球が埋め尽くす。心地よい筈の寝台は、蠢く蟲のように躰を弄る。だから、僕は床の上で横になる。リノリウムの冷たさが、躰に染み込んでくる。蛹のように身動きできない。

 テレビは、ずっと付けている。片隅に残った理性が、社会との断絶を頑なに拒む。
 映画を放送しているようだが、上手く聞こえない。音量を上げる。溢れるノイズが流れ込んでくる。
  「フランケンシュタイン」じゃないか・・・いや、これは、「ゲルニカ」か?
 頭の中で、火花が散る。脳髄を映画の台詞が犯していく。
  「お前は人間じゃない、怪物だ。お前は人間じゃない怪物だお前は人間じゃない怪物だお前は人間じゃない怪物だお前は怪物
   だお前は人間じゃないお前は怪物だ人間じゃない人間じゃない怪物だ怪物だ怪物だ人間じゃない怪物だかい物だ人間じゃな
   いにん間じゃないかい物だ怪ぶつだ・・・」

 僕の躰が怨嗟の声を上げる。進化を拒み、妄執に囚われる我が魂を恨めしがる。
 malformationの囁き声が聞こえる。一握りの理性すら奪い去ろうとする。
 頭の中で、原動機が廻る。ブーンブーンと音を立てる。クローゼットが、身を震わせ笑い転げる。壁の模造画が、赤い煙を吐き出している。
 僕は毛布にしがみつき、ガタガタと震えていた。椅子にとまった銀の鸚鵡が、キリキリ金切り声を上げる。視界を遮る人形の羽根。深紅の羽音が、不意に人の声になる。

  「お前は人間だよ」

 ステンレスの花弁が擦れ合うような声が聞こえる。
 映画の台詞か?
 いや、アレは誰だ。
 黒より黒い暗闇の中に、そのモノは佇んでいる。白い服を着た女。
 ゆっくりと其の顔をこちらに向ける。
  「母さん・・・?!」
 女は、静かな微笑みをたたえ、涙を浮かべた優しい眼差しで、僕を見つめていた。
 僕は、思わず怒鳴り声をあげる。
  「あんたのせいで、あんたが、俺をこんな風に生まなきゃ・・・」
 僕の慟哭につられ、女の顔も瞬間歪む。輪郭がぶれていく。
 女の啜り泣きの声が、次第に嗤笑じみてくる。
 見たことの無い女が、目の前で、薄ら笑いを浮かべている。見世物小屋で、片端の道化師に向けるような眼差しを僕に向けた。
 女の顔が醜く歪みだす。堪らず僕は目を背ける。耳を塞いだ。
 硬く閉ざした筈の耳朶から、玲瓏とした囁きが洩れ聞こえる。
  「ごめんなさい。あなたとは良い友達でいたいの」
 沙織の嬌声が、脳髄を蝕んでいく。赤面した僕は彼女の前で這い蹲る。彼女の足に縋り付く。見上げる僕を見下す女。凛冽の視線、口元の哄笑。
 纏わりつく僕を振り解き、女は歩み去る。蹲る僕には、一瞥すらくれない。
 僕はその二人を眺めていた。寂寥感に満たされた心が、なお激昂する。
 去りゆく女の後ろ髪を掴み、引きづり倒す。マネキンのように澄ました顔を殴りつける。女の口が切れ、赤い血が糸を引く。白く透き通るような肌は、今や、赤黒い肉の塊。
 憑かれたように殴り続ける僕。殴り慣れぬ拳が痛むのも意に介さない。
 骨の砕ける音が、肉の弾ける音が、僕を追い立てる。堪らず僕は目を背ける。耳を塞ぐ。
 
 僕の持っているナイフが、少年の腹に深々と刺さっている。腹の皮を破り、腸をかき回す感触が、何とも心地よい。
 そのまま横に滑らす。腹圧に堪えきれず、内蔵が飛び出してくる。意外に白い腸が、のたくる蛇のように足下に垂れる。
 ナイフを少年の頬に突き刺し、切り裂く。にっこりと顔中口にして笑っているかのような少年の顔。
 逆手に持ち替え、処かまわず刺しまくる。少年は人間であったことを忘れ、肉塊と化す。
 辺りに立ちこめる血臭に、吐き気を催す。少年を刺す僕の笑い声が聞こえてくる。邪な笑い声。堪らず僕は目を背ける。耳を塞ぐ。
 女の両目に、僕の指が突き刺さる。電車であった女だ。深々と刺さった親指を、くの字型に曲げ、眼球を抉り出す。
 視神経を糸のように引いた目玉が地に落ちる。足でプチッと踏みつぶす。髪を力任せに引き抜く。頭皮が破れ血が滲む。
 這い蹲った女の腹、顔面、背中、処構わず蹴り付ける。次第に呻き声すら聞こえなくなる。その女の腕を取り、逆関節に折り曲げる。鳥のもも肉のように引き千切る。骨の軋む音と、女の狂気に満ちた叫び声が、僕の耳になだれ込んでくる。

 嗚呼、もうダメだ。堪えられない。

 これが僕か。こんなの人間じゃない。やっぱり僕は怪物になってしまったのか。
 記憶の再構築が、僕の心を壊していく。煉獄の炎が、僕の精神を灼き責める。
 僕は毛布を噛み締めながら、冷たいリノリウムの床の上で、静かに泣いていた。

 目の前に綺麗な花畑が拡がっている。テレビの画面か。
 涙に霞んだ瞳に、醜い大男がゆっくりと倒れる姿が映る。
 後ろにいるのは、痩せっぽちのつまらない小男。怪物もこんな男に殺されたのか。
「ゲルニカ」を殺したのも、こんな奴だったか。
 怪物は最後には、死ぬんだ。正義の味方でも、ヒーローでもない普通の人間が、自分の生活を守るために殺す。
 
 何だ、簡単なんだ。

 目の前が明るくなる。崩れだした部屋の壁が再構築される。まだ、大丈夫。
  時間が無い。
 髭を剃り髪を整え、表に出る。空は抜けるような青空だ。
 そのまま、自分の部屋へと向かう。僕を見る度に吠えたてる管理人の犬が、今日は見あたらない。                         。
 犬小屋は空のままだ。
 おかげで誰にも見咎められずに、部屋に入り、着替えることが出来た。
パソコンの前に落ち着き、知人宛にメールを書く。
 ついでに、ニュースサイトもチェックしてみる。
 僕のいない間、下らないニュースで盛り上がったいたらしい。
 公園に逃げ出していたゴリラが射殺されたようだ。
 あろう事か、先日の殺人はそのゴリラの犯行になっていた。
 ・・・巫山戯てる。此処は、モルグ街ではないし、僕はゴリラじゃない。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに失笑を禁じ得ない。まぁ、僕の為にはその方が良いか。
 気を取り直して、部屋を後にする。
 通い慣れた駅までの道を、足取り軽く進んでいく。

 あとは、見晴らしの良い屋上でも探すか。

 僕は、街で一番高いビルの屋上を選んだ。
 遠くに富士の山が見える。空は晴れ渡っていた。
 ああ、良い気分だ。こんな清々しいのは、産まれて初めてだ。
 これでやっと眠れる。
 僕は、鉄柵を、身軽く乗り越えた。


  「そうそう、あの犬殺しの変人だったんだ。ほんとに目の前に墜ちてきたんだよ。もう吃驚しちゃってさぁ。悲鳴上げちゃったよ。
  「え、何? いやだなぁ 偶然だよ。
  「スプラッタとか見慣れてるけど、やっぱ、生は違うね。凄い迫力って云うかさぁ、そうそう血とかどばぁーってね。
  「デジカメで写真取ったからさぁ、今度送るよ。え?モザイクかけとく?
  「うん、じゃあ、近いうちに飲みに行こうよ。そうそう、現場が見えるとこでさ。
  「また電話するよ。またね、バイバイ」

(了)

 

 

 

引用文献
 「超男性・超女性」
 「妖魔の戯れ」    タニス・リー著
 「夢幻紳士 怪奇編」 高橋葉介  著
 「ピュア・トランス」 水野純子  著
「中原中也詩集」   河上徹太郎 編


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