変身入門―初級編―

by 週刊文学文芸編集長


 くそう、なんて暑苦しいんだ。
 俺は届いたばかりの「そいつ」に身を包みながら思った。それに(英語でよくわからないけど)、水洗いもドライクリーニングにも出せないみたいだ。汗臭くなったらどうやって洗濯するんだろう。
 ゴム製のウエットスーツみたいに、「これ」は俺の肌にビッタリと密着し、通気性が悪いためか、裏地と皮膚の間がヌルッと汗で滑るのがわかる。不思議に呼吸には支障はないものの、クーラーもない俺の部屋では、不快指数120パーセントという感じだ。
 確かに普通はS、М、Lだよな、あのホームページの入力フォームには、身長、体重だけじゃなく、胸囲とウエスト、腰廻りをメジャーで測って、股下から踝までの長さまで正確に記入するように指示してあった。道理で届いた「こいつ」がピッタリな筈だ。丁度スピードスケートの選手が着ているやつみたいだ。
 これでいいのか?これで本当に俺は、108つのクンフーアクションとモハメッド・アリの10倍のパンチ力、垂直跳び10メートル、幅跳び30メートルのジャンプ力を手に入れたのか?
 うーん、全然実感が無い。なんかおかしい。こんなはずじゃないぞ。畜生、こんなことならもっと英語の授業を真面目に受けていれば良かった。

 おれは上から制服のワイシャツとズボンを着ると、階段を降りて台所へ向かった。
 「ウルセー!ドスドス降りるなって言っただろ!」向かいの部屋から兄貴が怒鳴った。ちぇ、受験生だからってテメエだけの家だと思うんじゃねえ。元はといえばお前のせいなんだぞ、クソ兄貴。
 まあ、いいや。全てはもうすぐわかるんだ。
 俺は冷蔵庫の扉を開けた。ひんやりとした空気が心地よい。手前の物を幾つもどかすと、俺は冷蔵庫の奥の壁に押しやられた「アーサー王のジャム」に手を伸ばした。これだこれだ。手元まで手繰り寄せてラベルを確認する。間違いなく「アーサー王のジャム」だ。
 辺見家でこの瓶詰めのジャムが「アーサー王のジャム」と呼ばれるようになったのは、もう半年以上も前の事である。去年のお歳暮に、親父の会社の誰かから、ジャムの詰め合わせを貰った。この瓶はその内の一つで、ワイルドベリーと英語のラベルが貼られている。ストロベリー、ブルーベリー、ラズベリーぐらいは家族の誰もが知っていた。でも、ワイルドベリーってどんな味なんだろう。みんなの期待を集め、最後まで残っていたこの瓶は、しかし蓋がビクとも回ならなかったのである。非力のバカ兄貴は勿論の事、俺も、親父も、怪力で知られるあのお袋でさえも、無残に敗退した。ゴムを巻いたりお湯に浸したり、角をコンコンと金槌で叩いたり、婆ちゃんは知恵袋を破裂させたが、やっぱり全ては徒労だった。
 土曜日の家族会議で、親父の口から初めて「アーサー王のジャム」という言葉が発せられた。
 「アーサー王は、まだ若き頃、岩に刺さった聖剣エクスカリバーをいとも簡単に抜いて見せ、皆に王である事を知らしめたと言ふ。
 辺見家の一同よ、よく聞きなさい。今日からこの瓶を、『アーサー王のジャム』と呼ぶことにしよう。そして、この蓋を開けられた者だけが、選ばれし者として中身を全て食する権利を得るのである」
 言っとくが親父は大学で古代哲学を教えている、相当の変わり者なのだ。
 それから1〜2ヶ月して、親戚の達郎おじさんが遊びに来た。柔道二段、算盤三級のおじさんに、一家の期待は集中した。おじさんはみんなの期待を一身に受け、堂々と勝負に出た。
 ゴキ。
 鈍い音がした。次の瞬間、達郎おじさんは右手を抱え込んでうずくまった。右手首の関節を外したおじさんは、そのまま病院に運ばれていった。
 おじさん、元気にしてるかなあ。

 おお、いかん。冷蔵庫で涼んでいる場合ではなかった。俺は冷蔵庫の物を元通りに戻すと、「アーサー王のジャム」を持って二階に駆け上がっ、、、オットットいけねえ。またバカ兄貴にどやしつけられる。猫のように静かに上がった。

 部屋に入ると鍵を閉めて、俺は丹田式呼吸で精神を集中させた。そして静かにゆっくりと肺一杯息を吸い込み、「アーサー王のジャム」の蓋をシッカリと握り絞めた両手に渾身の力をこめた。
 駄目だ。回らない。
 汗で滑ってしまうからだ。俺は、近くにあったタオルを蓋の上に乗せ、もう一回チャレンジした。顔から血が吹き出るほど、思いっきりの力でジャムの蓋をひねった。
 うくくくく、、、ききき、、、
 駄目だはあー。
 そ、そんなあ。
 イッキに疲れた。両手からこぼれ落ちた瓶が、ドアまで転がってコトンと止まった。
 (バカデエ。お前は騙されたんだよ。うすのろ)
 己をなじる言葉が頭の中で響いた。そうだよなあ。そんなスーパースーツなんてあるわきゃないよな。常識でわかるだろ。
 はあ、思えばココまで、長い道のりだったなあ。

 「Super Discount Sale! 2X Matrix suit!!(超大安売り!ツーバイマトリックススーツ)」

 俺は目下不登校中、時間はたっぷりあったが、訳あって外出できない。暇を持て余して2週間ほど前、予備校に行ってる隙にヘタレ兄貴の部屋に忍びこみ、パソコンでネットサーフィンを楽しんでいた時、そのページを偶然見つけたのだった。ハリウッド映画「マトリックス」の主人公、ネオ役のキアヌ・リーブスそっくりの白人男性が、トレードマークの黒いサングラスをかけて、真っ黒なタイツに身を包み、慄然と立っていた。アメリカ特有の品の無い飾り文字とギザギザ噴き出し。今思えば、如何にも怪しいホームページだ。だが追い詰められた俺には、その姿が救世主のように見えたのである。
 英語は苦手だが、単語を拾えば大体何が書いているのか判った。
 「ひ弱なナーズ諸君!驚け!
 このスーツは、米陸軍とNASAが秘密裏に共同開発していた白兵用対人格闘服のテクノロジーを、ある特殊ルートによって入手した当社が、更に改良して製作した、最強のバトルスーツである。
 ツーバイマトリックススーツは、肉体の防護、筋力の強化ばかりではなく、108種類ものクンフーテクニックをマスターしている。君はただスーツに身を預けるだけで、最強のコマンドサンボマスターになれるんだ!
 さあ、今ならシブイ、クール、アメジングなブラックサングラスが付いてくるよ。
 もう、悩む事なんか無い。今すぐ、君の身長、体重、スリーサイズを入力して、サブミットだ!」
 俺は目を輝かせた。ゲロ兄貴が帰ってくる前に、ホームページのアドレスをメモして、クソ兄貴の部屋を出た。
 $5,000.00って幾らだ?$1.00が百円だから、えーっと、、、。
 ご、五十万円!?無理だ。今の俺に一番必要な物、命がけで手に入れたい物には違いないが、そんな大金、高校生の俺にどうやって都合すればいいんだ。
 俺は悩んだ挙句、結局親父のアメックスを使わせてもらう事に決めた。親父は酔っ払って帰ってくると必ず上着をダイニングテーブルの上に放り投げ、すぐに風呂に入る。お袋が文句を言いながら上着をクローゼットにしまいに行くまでの僅か数十秒。これが勝負だ。
 俺は毎晩、虎視眈々と機会を待ち、何日目かの夜、ようやくアメックスのカード番号をゲットした。頭の中でMission Imposibleの音楽が鳴っていた。

 あとはクソ兄貴の部屋に忍び込み、パソコンでスーツを注文するだけだ。
 だが、何故なのかそれから数日間、バカ兄貴は予備校へ行かないのだった。しかたないので一日だけという約束で、俺は中学の頃のダチ、パソコンおたくの雅夫から、愛用のバイオノートを借り出した。だが雅夫の奴はインターネットのやり過ぎで、巨額の電話代請求書を見た両親が激怒し、目下PHSの通信を止められていた。
 インフラだけは何としてもヘボ兄貴の部屋から拝借しなくてはならない。
 俺は意を決した。夜、家族が寝静まるのを待って行動に出た。一つの家に何本も電話を引く程、親父は太っ腹ではない。ゲス兄貴の部屋に行っているのはINS64の内の一本で、ファミリーフォンからではアクセスできないので、TAは一階の電話付近に設置するしかなかった。そう、其処から直で繋いでしまおうというわけだ。
 またまたMisson Imposibleのテーマが、高らかに俺の頭の中を駆け巡る。俺はバイオノートを持って階段を降り、玄関脇にある黒電話を置いたカウチに腰掛けた。ファミリーフォンの交換機の上に置かれたTAを裏返し、アホ兄貴の部屋へ行っている一本を引っこ抜いて、バイオに繋げた。フリー接続のアクセス番号を入力すると、接続の確立を待った。
 よし。繋がった。
 メモしておいた「ツーバイマトリックススーツ」のアドレスを打ちこんだ。
 暫く待つと、見覚えのあるキアヌクリソツ兄ちゃんが表示された。注文フォームに用意しておいたボディサイズと、届け先住所、親父のアメックス番号、メールアドレスはフリープロバイダのものを使って、打ちこんだ。サブミット!
 Complite. Thanks Your Order!
 やった!

 そして待つ事二週間。思えばこの二週間が、俺の人生最高の時間だったかもしれない。

 涙が溢れ出して止まらない。こんな可哀想な俺を、騙しやがって、鬼畜米!悔しい。時間が経つごとに怒りが加速する。親父から50万円盗んだのも、時間の問題でバレてしまうだろう。どうしよう。涙が止めどなく溢れ出て、俺は声を上げて泣きじゃくった。
 ああああ。あああああああ。ああああああああああ。
 「何だよ!ウルセエぞ。大声出すな靖男!」ドカッっとドアを蹴飛ばし、クソ兄貴が癇癪声を上げた。
 威張り腐りやがって、万年「油虫」の癖に。
 元はと言えば、俺が虐められているのはお前のせいなんだぞ。俺がお前みたいなクズ兄貴の弟じゃなかったら、蛭崎達に目を付けられずに済んだんだ。そもそもクソ兄貴と同じ高校なんかに入らなきゃ、留年した蛭崎達と鉢合わせしなかったし、蛭崎達がオモチャのようにイジメていた奴の弟でさえなけりゃ、奴らだって同じようにやれるとは思わなかった筈だ。

 事の発端は俺が高校に進学して間もなくの事だ。
 「油虫二世はお前かよ?」とても高校生とは思えないシッカリとした顎鬚をたくわえ、耳と鼻にピアスをした化け物のようにでかい男が、始業式の翌日、俺の登校路に立ち塞がった。こいつの名前を知ったのはこの時だった。蛭崎義男。
 「何ですか?」
 「何でスカ、だってよ、へへへへ」大男の後ろでサディスティックに笑ったのは黒川比呂彦だ。
 いきなり、俺の胸ぐらを掴んで、コメカミの血管をビクビクと痙攣させたのは、寺西修一。無口だが目がすわっていて凶暴な奴だ。
 「何するんですか。は、離してください」
 「どうお?コイツおもしれえ?」男達の影から持田沙緒里が姿を現した。小柄で細い女だが、蛇のような目をしている。茶髪でメイクもどぎつい。思いっきり札付きだ。後で知った話では、中二の頃から蛭崎の愛人なのだそうだ。
 「まだわかんね。でも、素質ありそうよ。何せ、あの油虫の辺見の弟だもんな。」蛭崎が俺の両頬を片手で挟んで左右に揺さぶった。俺は周囲に目で助けを求めた。しかし、男子も女子も、蛭崎たちを丸く避けて通った。まるで工事でも避けるかのように無表情に遠巻きにするのだ。あきれた事に、教師までがその群れに隠れて登校していた。
 「お前の兄ちゃんなあ、俺達のオモチャだったんだよ」蛭崎は言った。「アイツが学校に来ねえから、俺たちストレスたまっちゃってさあ、へへへ」
 その後、寺西に強烈なボディブローを食らい、うずくまって数分動けなかったが、誰もが俺を置いて学校へ向かった。
 俺はその日一日、生きた心地がしなかった。奴ら4人は始終俺を見てはニヤニヤと笑っているのだ。しかし、その日は何故か、放課後まで何事もなく終わった。
 
 学校から帰ると、俺はすぐにバカ兄貴の部屋に押し入って、怒鳴り散らした。
 「オイ!お前、虐められてたのかよ!」
 アホ兄貴には全てが予期した事だったようだ。参考書から目を離さず、鉛筆は何やらノートに書き綴りながら、冷静に話し出した。
 「蛭崎たちの事だろ」
 「なんで黙ってたんだよ」
 「言ったじゃないか、真似すんなって。それをムキになって兄さんと同じ高校入ったの誰だよ」
 「だったらちゃんと高校行けよ。登校拒否して引きこもって大検受かってんじゃねえよ。なんなんだよあいつらは。弟の事もちょっとは考えろよ」
 「じゃあ転校でも不登校でもすりゃあいいじゃないか!」クソ兄貴のノートをとる手がピタッと止まった。「兄さんだってな。ひ、ひっく、兄さんだって、ひっ、ひっ、、、、
 三年間、じーごーくうだったんだああああー!」ガタンと椅子を後ろへすっ飛ばし、涙目の兄貴は立ちあがって、はじめて俺を睨んだ。さっきまでの冷静さはまるで失っている。耳まで真っ赤にし、涙でグシャグシャにした顔を俺に向けながら、クソ兄貴は語り出した。
 「あいつらは人間じゃない。小さい頃から弱いものを虐め殺して来た危痴害なんだ。パシリをやっても、金を渡しても、何の効果もない。あいつらの目的は子分が欲しいわけでも、金が欲しいわけでもないからな。あいつらの親は俺達の親より数十倍も金持ちだ。有名私立に入学できたのだって、裏口からなんだ。あいつらは何でも手に入る。弱いものを虐め殺すのがあの4人の目的なんだ。それ以外にない。何をやってもどんなに謝っても、奴らをエスカレートさせるだけなんだ。
 ああいう奴らは社会のゴミだ。
 そうさ、あいつらには社会的な制裁を加えなくては。社会的な。それにはな靖男、死ぬほど勉強して東大に入るんだ。そして司法機関のエリートになるんだ。そうさ、警察のキャリア組に入って、あいつらを国家権力で痛めつけてやる。へへへ、へっへへ」
 俺は一歩たじろいた。バカ兄貴の目は普通じゃない。小鳥の雛に口移しで食料をやっていたフヌケ兄貴は、唯一の取り柄が「優しさ」だった。いつもおとなしくて目立たない、何一つ取り柄の無い奴。でも弟の俺の方が背が高くなった頃から、ヌケ兄貴は少しづつ変わっていった。年中イライラし、家庭内で暴れたり、とうとう学校に行かなくなって、風呂にも入らずに勉強だけするようになった。しかし、俺はこの時、ヨワムシ兄貴の変貌を目の当たりにしたのだ。そしてその原因もわかった。ダメ兄貴はあいつら4人に壊されたんだ。
 「冤罪でもなんでも構わない、、、へへへ、何だかんだ罪をきせて豚箱に送ってやる。死刑台に登らせてやる。なんて言ったってこっちはエリートなんだからな。へへへへ、泣こうがわめこうが許してやらないんだからね。首に縄をつけて、踏み台を外してやるんだ。奴らは奈落の底にまっ逆さまだ。やがて縄が伸びきり、首の骨が折れ、目玉が飛び出し、脱糞し放尿し、それでも生きようと手足をバタバタさせ、地獄の苦しみを味わって死ぬんだ。へへへ。
 ああ、こうしちゃいられない。勉強しなくちゃ。靖男、兄さん勉強するから出てってくれ。いかんいかん、無駄話で時間を潰した。勉強しなくちゃ、勉強、勉強。勉強、、、」
 バカ兄貴は、興奮から一転して静かになると、倒れた椅子を元に戻して腰掛け、また一心不乱に机に向かった。
 俺は心底情けなくなった。虐めなんかで壊されやがってクズ兄貴。社会のゴミなのはお前の方じゃねえか。何が国家権力だ。そういうヒネたところが益々あいつらを挑発するんだ。こんな奴、俺だって虐めたくなるぜ。弱い。余りにも弱過ぎる。お前は宮様かってんだ。そんなに弱くっちゃ、この世の中は渡れねえんだよ!
 俺はこの時決心した。決してイジメに負けないと。屈服するぐらいならあいつらと刺し違えてやる。

 その翌日から俺の地獄は始まったのだ。
 やつらのイジメは俺の想像をはるかに絶していた。俺はイヤガラセとイジメを混同していた。何しろ、これまで虐められた事なんか一度も無く、およそ虐められるなんて考えてもみなかったのだ。俺はイジメと聞くと、上履きに画鋲が入っていたり、教科書に落書きをされたり、体育着をカッターで切られるといったものしか知らなかった。だが、これらは単なるイヤガラセに過ぎない。イジメと言うのはもっとずっと壮絶なものだった。
 最初の頃、とにかく俺は連日殴られた。4人に代わる代わる、意識が遠のくまで殴られ、蹴られ続けた。反撃に出れば余計に殴られた。押さえつけられて犬の糞やゴキブリ、芋虫などを食わされたこともある。
 それでも俺は登校し続けた。まだこの頃は奴らを甘く見ていた。奴らだって俺がクソ兄貴と違うと判ったら、すぐにつまらなくなって止めるもんだと多寡をくくっていたのだ。

 ある昼休みの事、俺は奴らに捕まらないように授業が終わらないうちに、先生が止めるのも聞かず教室を出た。昼休みはとにかく逃げ回った。あいつらは校内のあらゆる所にネットワークを持っていて、誰も信用できない。とにかく、人の居ない場所へと常に移動して逃げ回るしかない。だが、学校から外には出なかった。それは負けを意味すると思っていたから。
 大概は見つかってしまい、袋叩きにあった。奴らは4人ともエアガンを持っていて、プラスティックのBB弾だが、これが当たると結構こたえた。家に帰って鏡で確認すると蒼く内出血していた。サバイバルゲームのつもりか、奴らは携帯電話で連絡を取り合い、バラバラになって俺を探すのだ。一人が見つけると仲間に連絡し、エアガンで俺を追い詰めるのだ。
 「逃げられると思ってんのかよ」廊下を挟んで黒川と寺西に挟まれた。連絡を受けて、蛭崎と持田もすぐに駆けつけて来た。「いた、いたあ」と持田が舌なめずりをしながら歩み寄ってくる。「逃げなよ、つまんないジャン」
 俺は廊下の両側を見渡した。西側からは黒川と持田、東側からは蛭崎と寺西がへらへらと笑いながら詰め寄ってくる。屋上へ上がる階段が俺の目に入った。あそこしかない。俺は一気に階段へ走った。4人は一斉に射撃をはじめた。その内の一発は脹脛に命中、背中に二発、一発は腕を掠めて廊下の窓ガラスに当り、派手な音を立てて割れた。
 「え?!」俺は階段を駆け上がりながら異変に気付いた。幾らなんでもBB弾で窓ガラスが割れるだろうか?ふと腕を見ると皮膚が裂けワイシャツに血が染み付いている。
 「あいつら、なんか別のものを入れてる!」瞬間的に物凄い恐怖が湧き上がってきた。
 屋上に出て、階段の扉を急いで閉めた。だが、鍵は内側からしか掛からない。何かバリケードになるものを探したが、屋上には何も無かった。俺は渾身の力を込めて扉を押さえた。だがこれが無駄な努力であることはわかりきっていた。屋上への階段はココ以外に二つもある。時間の問題だった。屋上へ出たのは間違いだったかもしれない。でも、一かバチか、俺はノブを放すと西側の階段へ向かって走り出した。背後でドーンと扉を蹴飛ばす音が聞こえた。追いかけてくる!更に、俺の走る前方には絶望的な光景があった。思った通り、足の速い黒川が、西側の階段出口に廻り込んでいたのである。扉を押さえて躊躇していた時間、黒川達の方が有利だった。俺が扉を閉めると同時に黒川と寺西の二人が、残りの二つの出口まで走っていたのだ。
 勝負はついていた。それでも俺は数分間、往生際悪く屋上をグルグルと逃げ回った。奴らはもう走ってはいなかった。エアガンで効率良く俺を屋上の隅へ追いやった。俺はとうとう息が切れて立ち止まった。4人が銃口を向けてズンズンと近寄ってきた。
 「やめろ!打つな、打たないでくれ!」俺は両腕で顔面をカバーしながら、降参の標しに手の平を上げた。
 「へっへ。この脅えようは、どうやら気がついたみたいだな」蛭崎が黒川に振りかえって楽しそうに笑った。
 「打たないでくださいだろ、油虫」黒川は俺の耳の近くに一発撃ち込んだ。俺は腰を抜かしてその場にへたりこんだ。
 「今日から特別サービスだ。BB弾にボールベアリングを混ぜたんだよ」黒川はなおも銃口を向けている。「毎日少しづつ増やしてってやる、ボールベアリングをよ」
 「ひひいいい」俺は情けない悲鳴を上げた。今度黒川が撃った弾は間違いなくボールベアリングだった。弾は俺の頭上数センチの金網とぶつかり跳ねて、鈍い金属音を発したのだ。
 更にもう一発を黒川が撃とうとした時、蛭崎が片腕でそれを制した。そして寺西に「押さえてろ」と指図すると、寺西は俺の背後に廻ってチキンウイングをかけてきた。俺はもう無抵抗だった。
 「俺達の奴隷になれ、自分が油虫だと認めろ!」蛭崎は俺の眉間に銃口を突き付けて言った。「お前は一生、俺達4人のオモチャだ」
 <一生>という言葉が、心にズシンと重く響いた。いやだ。絶対いやだ。
 「いやだあ!」頭で考えるよりも早く、口が動いた。蛭崎の表情が変わった。全身を振るわせ、奴は引き金を引きやがった!
 「がああああ!!」撃たれたのはオレンジ色のBB弾だった。俺の額でバウンドし、銃口に戻されたそれは、福引の玉のように転がり落ちた。たとえBB弾でも至近距離で眉間に打たれたのだ。一瞬目の前が真っ暗になり、激痛は筆舌に尽くしがたい。押さえられた両腕がビクビクと痙攣した。
 「おい、白目剥いてるぜ、ベアリングか?」
 「いや、BB弾だ。ベアリングなら頭蓋骨めりこんでるっつうの」
 蛭崎達の声が何だか遠くに聞こえる。殺される。こいつら完全に狂ってる。
 「こ、こんどは俺に撃たせろ」蛭崎に代って今度は黒川が、俺の眉間に銃口をつけた。
 寺西の息遣いがやけに生暖かい。急に、ヌルッとした感覚を耳に感じた。寺西が俺の耳を舐めたのだ。コイツが男色だという噂は本当だったのか。遠のいた意識が背筋の寒気とともに蘇った。目の前には目をギラギラと輝かせた黒川が、今にも引き金を引きそうに痙攣している。
 俺の緊張の糸がプツリと切れた。全身を脱力感が支配した。
 「う、うたないで、、ください、、」
 「ああん?コイツ何か言ってるぜ、聞こえねえなあ」
 「撃たないで、撃たないでください。奴隷でもオモチャでも、何でもやりますから、撃たないで、、、ううううう」言葉の最後は嗚咽に変わった。
 またボコボコに殴られるんだろうなあ、という覚悟はあった。だが、まさかあんなに屈辱的な事をされるとは、まだこの時点で俺は想像だにできなかった。

 思い出しただけでも死にたくなる。あいつらは多分はじめてじゃない。あいつらは何度も何人にも同じような事を繰り返して来たに違いない。そのリンチには名前が付けられていた。<灰皿>という名前が。
 「おい、疲れたなあ、イップクしようぜ」蛭崎の言ったこの<イップク>という言葉に、仲間の3人は目を輝かせた。俺は身に危険を感じ、寺西の腕から逃れようともがいた。だが、圧倒的に腕力の差があった。奴のチキンウイングは完全にロックされていた。
 蛭崎と黒川が俺の両足を押さえつけたかと思うと、持田沙緒里が馬乗りになって俺のズボンのベルトに手をかけてきた。
 「やめろ!」俺は叫んだ。蛭崎の鉄拳が俺の顔面を直撃した。キーンと耳鳴りがして、頭がボーっとしている内に、俺はズボンとパンツを下ろされ、下半身剥き出しの状態にされていた。
 「灰皿はしゃべらねーんだよ」黒川がそう言うと、俺のパンツを俺の口の中に押し込んできた。同時に寺西は俺の上体を倒し、俺のワイシャツをめくって顔を追おうと、余った布を堅結びにした。そしてその俺の顔の上に尻を乗せて座り込むと、俺の両足を持ち上げて、その上に自分の足を載せた。
 俺は丁度、肛門を太陽に向けた状態で固められた。もがいたり抵抗したりするたび、寺西は尻を浮かせて思いっきり腰を落としてきた。首の骨が折れるかというほど強烈に。
 俺はやつらが何をしているのか、見ることができなかった。ただ、奴らが<イップク>しようとしているのは想像がついた。ジッポーの火打石の「ショッ」という音、蓋を開閉する金属音、奴らの薄気味悪い笑い声だけが聞こえた。暫くして、肛門の周りに熱気を感じた。こいつら!俺のケツの穴を灰皿にしているのだ!
 俺はもがいた。だが体勢は全く崩れなかった。やがて俺の肛門に火種が落とされた。俺の絶叫は口の中のパンツでかき消された。くぐもった叫び声を聞いて、奴らは益々サディスティックになった。次々と俺の肛門に火種が押し付けられた。寺西のデカイ尻の下で、俺は満足に呼吸する事も出来なかった。そこからの記憶はない。失神してしまったのだ。
 気がついた時、辺りはすっかり暗くなっていた。何時間意識を失っていたのだろう。立ちあがろうとしたが、尻が痛くて立てない。ようやく立ったが、満足に歩く事ができなかった。家に辿り着くまで、何時間もかかった。
それ以来、俺は学校へ行かなくなった。

 バカ兄貴の言った通りだった。あいつらは人間じゃない。もう学校には行けない。それどころか、家を一歩も出られない。あいつらは俺を嬲り殺すまで続けるだろう。ナイフを持ち歩く事も考えたが、所詮は無駄だ。第一学校にナイフは持ちこめないし、たとえナイフで抵抗しようとも、奴らは喧嘩に慣れている。蛭崎は噂では少林寺拳法の段持ちだそうだし、俺が持っているナイフなんていとも簡単に奪い取られてしまうに違いないのだ。悔しいがどうしようもない。あいつらに復讐することなんて、ホント、クソ兄貴の言う通り権力でも行使しなけりゃ、出来る代物ではない。クソ兄貴もあんな風に虐められたのかな?そうだとしたら、一心不乱に勉強し出したのも無理もない気もした。
 俺が「ツーバイマトリックススーツ」を何としても手に入れたかった理由がわかっただろう?事実上、この蒸し暑いウエットスーツだけが、最後の頼みの綱だったのだ。
 それにしてもマンマと騙されたものだ。そんなスーパーマンになれるスーツなんて、あるわきゃないよな。
 俺はスーツを着たまま暫く放心状態だった。
 そうだ、返品は利くのだろうか?クーリングオフってアメリカでも通用するよな。俺はスーツの入っていた箱の中身を漁った。オマケのサングラス、説明書や何枚かの紙切れは入っているが、全部英語だ。ガッテム(恨み言ぐらい英語で言わせろ)!
 取りあえず、箱に書いてある場所に国際電話をかけようか?しかし英語でまくし立てられたらどうしようもないよな。プリーズ、ヘンピーン、ギブミーゴジューマンエーン。
 通じねえな。
 だいたい、荷物が着いてすぐ着てみて、その時点で詐欺だとわかるんだ。何か返品できないシステムになってんだろうな。あーあ、親父になんて言おう。ま、月末には騒ぎになるだろうな。俺が疑われる可能性はどれぐらいあるだろう。親の金に手を出したのははじめての事じゃないもんな。今回は金額がデカイが、年がら年中、千円単位ではお袋の財布からネコババして、バレては小遣いカットされてるもんな。今度ばかりは小遣い一生分カット&百叩きだな。まあ、あんな強烈なリンチを受けた後じゃあ、親の暴力なんか屁でもないけど。
 俺はジャムの瓶を拾うと、台所へ返しに行った。ついでにニックキバカ兄貴の部屋をドカッと蹴っ飛ばした。怒鳴り散らして出てくるだろうが、腹いせにボコボコにしてやる。俺は今猛烈に荒れてるんだぞ。ま、セイゼイお勉強して、弟の俺も死刑台送りにしてくれ。
 あれ?
 いつもなら頭から湯気を出して追いかけてくるのに、クソ兄貴の部屋はシーンと静まり返っている。何だか嫌な胸騒ぎがした。俺は瓶を冷蔵庫に戻すと、引き返してバカ兄貴の部屋をノックした。返事がない。
 「やい、バカ兄貴!」
 ドアノブを回してみた。ドアには鍵がかかっていなかった。俺はそのままドアを押した。
 「うおっぷ」凄い匂い。何だ何だ?
 ドアの隙間からカス兄貴の勉強机が見える。居ない!出掛けた様子もなかったけど。
 「タコ兄貴?」俺は部屋へ入ろうとドアを更に奥へ押した。
 ドカっと何かがドアに当たってそれ以上開かない。あれ?っと隙間から首を入れてドアの裏を見て絶句した。最初それが、その天井の桟から垂れ下がっているそれが、何なのか理解できなかったのだ。
 それは紛れも無く、俺の兄の躯だった。直下の床に溜まっている強烈な匂いを放つ茶褐色の液体は、兄貴のズボンの裾から滴り落ちてきた糞尿だった。

 兄貴の通夜は二日後に、シメヤカにとり行われた。もともと兄貴は婆ちゃんっ子だったので、婆ちゃんの落胆は見るに絶えなかった。
 「こんな年寄りを置いて行くなんて、何て酷い孫なんだい。うううう、、、」
 「婆ちゃん、元気だせよ」
 「靖男、あんた雅之が何で自殺なんかしたのか?本当は知ってんだろ?教えておくれ。婆ちゃん誰にも言わんから」
 「受験ノイローゼってやつじゃねえのか。俺にはわかんねえよ」
 とても言えやしない。本当の事なんか、言えやしない。兄貴は、、、兄貴は奴らに殺されたんだ。
 俺が死体を発見した時、パソコンのモニターにはウエッブページが表示されていた。そこには何枚かの写真が載せられてた。あれを見て、兄貴は自殺したんだ。
 信じられないような光景だった。全裸の男が、後ろ手を手錠で縛られ、複数の人間から痛めつけられている写真なのだ。男の体には青痣や蚯蚓腫れがいたるところに見られた。別の写真では、男は這いつくばい、女生徒のルーズソックスをしゃぶらされていた。この足の主は恐らく持田だろう。更に別の写真は、巨大な黒いデルドーを肛門に半分までねじ込まれた男が、写真の隅に写っている別の男の性器をくわえさせられている。写真の隅の男は。シャツと下ろしたズボンしか写っていないが、間違いなく寺西だ。
 そしてこの信じられない屈辱を受けながら、薬でも打たれているのか?シンナーでも嗅がされたのか?ヘラヘラと笑っているこの男の顔は、明らかに兄貴だった。兄貴の性器はどの写真でも勃起していた。その部分のアップも写されている。
 俺はこのページのリンク元を確かめようと、ブラウザーの履歴を開いた。履歴はない。とすると、兄貴はいきなりこのURLにアクセスした事になる。
 ふと、気がつくと、背後のウインドウでメーラーが開いている。メーラーを前面に表示してみると、そこには蛭崎からのメールがあった。

 俺達から逃げられると思っているのか? お前は死ぬまで俺達の奴隷だと言ったはずだ。ここを見てみろ。http://www.xxx.xx/xxxxx/xxxx/xxx.html

 兄貴の遺書は発見されなかった。警察はパソコンの中身まで調べたが、蛭崎のメールと問題のホームページは、俺がキャッシュごと消去した。ハードディスクの未使用領域にも、全て0を上書きし、完璧に隠滅した。奴らを法的に裁くのであれば、それそこの証拠物件になるはずであろうそれらを俺が何故処分したのか?それは、兄貴の気持ちを思ったからだ。画像が載せられていたページは有名なフリー領域だ。放っておいても悪質なポルノ画像として削除されるだろう。それより、事件化することでこの画像を多くの人間の目に触れさせる事になる。その方が兄貴の名誉を著しく傷つける事になるからだ。奴らは未成年だ。直接手を下したわけでもない。兄貴は奴らに殺されたにちがいないが、現在の日本の法律に頼ったところで、奴らに大した打撃も加えられないだろう。
 兄貴はイジメの事を誰にも話さなかったらしい。相談できる人間がいなかったのだ。親父は世俗離れした大学の研究者、お袋はガサツな性格だから、ただやたらに騒ぎ立てるだろう。教師は蛭崎達を恐れている。もう少し俺が兄貴を理解してやっていたら、、、。
 通夜の席では、誰もが言葉少なに項垂れていた。親戚達は皆、俺に事情を聞きたがる。落胆した父や母に聞くのは忍びないのか?それでも自分の野次馬根性を押さえられないのか?どいつもこいつも興味本位でしかない。俺は頑なに言葉を閉ざした。親戚から総スカンを食らっているフウテンの達郎おじさんだけが、何も聞かずに俺の頭をポンと叩いてくれた。
 「おじさん、手首、もう平気なんですか?」
 「ああ、もう平気平気。ところで、あのジャムは開いたのか?」
 「いいえ」
 「マケンナヨ」それだけいうと、おじさんは親父達に一礼して、すぐに去っていった。あのジャムの蓋はずっと開かないのだろうか。おじさんが負けるなといったのは、あの瓶の事なのか、それとも、、、。
 達郎おじさんが去ってから一時間ほど経った頃、一台の黒いセンチュリーが、家の前に止まった。出てきたのは、厳つい顔の男が三人。真中の一人をガードするように、ガタイのいい男二人が付き添っていた。真中の男は、二人を玄関先に待たせて、入り口で派手な飾りのついた香典袋を出すと、自分はズカズカと家の中に入り込んだ。親父が立ち上がり、男に歩み寄った。
 「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
 「この度は大変に、ご愁傷様でございます。雅之君の高校時代の同級生の、蛭崎義男の父親です。お悔やみを申し上げに来ました。お線香をあげさせては貰えませんか?」
 コイツが蛭崎の父親!
 俺は瞬間的に切れた。蛭崎の親父が出した香典袋を受付から探し出した。一体幾ら入っているんだか、分厚く、ずっしりと重い。バカにしている。口止め料のつもりなのか?!俺は線香をあげている蛭崎の親父の背中に、香典袋を叩きつけた。
 「帰れ!」
 「おい、何をするんだ!折角来て頂いたのに!」親父が俺に叫んだ。
 「親父!コイツだ。コイツの息子が兄貴を虐めていたんだ。それを苦に兄貴は自殺したんだぞ」
 俺の声に親父もお袋も、親戚一同が絶句して、蛭崎の親父に視線を集中させた。蛭崎の親父は投げつけられた香典袋を拾い上げ、親父の前に改めて突き出すと、ギロッと親父の顔を睨んだ。
 「うちのバカ息子には困っています。それでも我が子は可愛い。いざとなったら守ってやりてえと思うのは、極道の世界でも変わりません。命張ってでも守ってやろうと、こっちは覚悟しております」そういうと蛭崎の親父は、改めてずいっと香典を押し出した。
 数秒の沈黙の後、俺の親父は香典を受け取った。何故だ。なんで受け取るんだ親父。
 蛭崎の親父は立ち上がると、俺と一瞬目を合わせた。俺は相手を思いっきり睨み返した。その男の瞳の深潭には、我々の世界では到底見られない、修羅のようなものが存在しているのを垣間見た。心の底が自然と怖気るのがわかる。
 相手の方から先に視線をそらした。息子と戦うと言う事は、ひいてはこの俺と闘うと言う事なのだぞ、とその瞳は釘をさしていた。その勇気がお前にはあるのか?とその瞳は嘲笑っていた。

 「50万円も入っている」
 葬儀、出棺も終わり、骨壷を持ち返った俺達家族が悲しみに暮れている時、香典の整理をしていた親父がぼそりと言った。親父の言ったのは蛭崎の親父が持って来た香典袋の中身だった。
 「考えてみろよ、親父」俺は思い余って口を開いた。「何の関係もないんなら、どうしてそんな大金を持って来るんだよ!」
 「わかってる!」親父は答えた。「わかってる、そんな事は。だが、私達に何が出来ると言うのだ。相手はホンモノのヤクザだ。あいつ等に目をつけられたらどんな目に会うか、いくら世間知らずの父さんでも想像がつく。暴力というものは、人類史上最も忌むべき行為でありながら、全てを肯定するものなのだよ。そして果てしない。限りなく憎悪と破壊だけを繰り返すのみ、何の実りもないのだ。
 何処か田舎へ引っ越そう。静かな町で、みんなでやり直そうじゃないかね」
 親父の哲学はもう沢山だ。そんなものは屁の役にだって立ったためしがないじゃないか。兄貴の無念は誰が晴らすんだ。家族が忘れてしまおうと言うんじゃ、余りにも浮かばれないじゃないか。兄貴の人生って何だったんだよ。
 お袋は放心状態で、泣き崩れては黙ってを繰り返していた。婆ちゃんは、骨壷に向かって念仏を繰り返し唱えている。親父は書斎に引き篭もって、ピアノを弾き始めた。ベートーベンの「月光」だった。何やってんだコイツ等は!
 俺は何とか蛭崎達に復讐する事を考えた。奴等と刺し違えるか。それでもあいつ等に一太刀でも食らわす事が出来るだろうか?
 「月光」のメロディーと、念仏と、お袋の嗚咽が、頭の中でグルグルと廻った。家族の中で俺だけが怒りのやり場を持てない。俺の苛立ちは頂点に達しようとしていた。もう堪えられない。
 「わああああああああ!!」
 俺は急に大声を上げた。俺が肺の中の空気を全部外に出しきった時、ピアノも念仏も嗚咽も止んでいた。婆ちゃんが振り返って俺を見た。あれ?何だよそれ。
 「婆ちゃん、何でサングラスなんかかけてんだ?」婆ちゃんは、黒いサングラスをかけていたのだ。
 「なんだい、吃驚したじゃないか。ああ、これかい?靖男の部屋にあったから婆ちゃんちょっと借りたんだよ。これ、七色の虹が見えるんだよ。婆ちゃんにくれないかねえ、とっても綺麗で、極楽浄土にいるみたいなんだよ。いいねえ、これ」
 !。
 「婆ちゃん、それちょっと貸してくれ!」俺は婆ちゃんの頭からサングラスを奪い取ると、一目散に階段を駆け上がり、俺の部屋に入った。これはツーバイマトリックススーツのオマケとして付いてきたサングラスだ!
 俺はとんでもない思い違いをしていたかもしれない。これはオマケなんかじゃない。俺は急いで服も下着も脱ぎ捨てると、スーツを装着した。
 サングラスをかけてみる。すると、目の前にスクリーンが現れ、ピピピピピピッという電子音とともに、七色のゲージが上昇した。
 Enargy Charge Up!
 目の前に大きく英語が表示された。なんだなんだなんだ!?全身に力が漲る!
 アーサー王のジャム!
 俺は台所に急いだ。冷蔵庫から例のジャムの瓶、「アーサー王のジャム」を手に取った。
 こういう時、映画なんかだと必ず「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れる。俺がジャムの蓋を握るとイントロの管楽器が厳かに鳴り始め、そしてスローモーション。
 ジャジャアーン!蓋はいとも簡単に回った。力が余って強烈な回転数でスピンした。そしてフリスビーのように吹っ飛んだ。壁に当たって跳ね返り、それでもまだ凄まじい勢いでスピンして、また反対側の壁に強く当たった。台所の壁を何度もバウンドして蓋は跳び続ける。ドンデンドンデンドンデン、、、。
 瓶をシッカリと握り締めた左手は、コチラもまた力が余って瓶を握り潰してしまった!
 ジャジャアーン!ガラスの破片とワイルドベリージャムが台所いっぱいに飛び散った。ジャムは四方の壁にビチャッビチャッとぶち当たった。
 スーツは本物だった!ギンギンと全身が震える!これが強者の感触!これがワイルドベリーの香り!
 ツーバイマトリックススーツは、サングラスとセットだったのだ。サングラスがパワーをマネージメントするのだ。そして動体視力も恐ろしく向上しているようだ。自分の動き以外、全てがスローモーションのように見えるのだ。
 これなら勝てる!
 俺は笑った。何故か笑いが止まらなかった。思いっきり笑った。奴等に思い知らせてやる!俺は笑い続けた。本当に笑いが止まらない。破壊衝動が全身を支配している。その心地よい狂気に、いつまでも身をまかせていた。

 この日をどれだけ待ち焦がれた事か、二学期の始業式、俺は再び悪魔の四人組と対峙する事になった。
 始業式の日は半ドンで、昼過ぎには校舎から殆どの生徒が居なくなった。俺はサッカーグラウンドの真中辺りに立って、奴等が現れるのを待った。奴等は俺を探し出して、必ず現れるに違いない。炎天下の校庭は午前中に撒いたスプリンクラーの水分が蒸発して、陽炎が立っていた。
 数分後、思った通り奴等は現れた。
 陽炎の中、四つの影が蜃気楼を作った。次第に近づいてくる四つの蜃気楼は、やがて実体化し、俺のすぐ目の前まで進み寄って来た。
 「久しぶりだなあ、油虫」蛭崎が口を開いた。
 「兄ちゃんの仇でも討つつもり?」持田がガムを噛みながら言った。
 「おおかた、ナイフでも持ってるんだろ。俺達には通用しないぜ」黒川がせせら笑った。
 「今日は、全部ペア・リングだ、、、」寺西は頭が弱い。ベアリングと言いたかったのだ。そうか、そっちもハナからそのつもりかい。
 四人がいっせいにエアガンを撃った。連射しながら俺の後ろに廻りこもうとしている。
 遅い!
 なんて遅いんだ。飛び来るボールベアリングはまるで小さなシャボン玉のようだ。それにも増して奴等の移動速度の遅い事。まるで止まっているように見える。普通に体を動かしているだけだったが、俺には、弾を全て避け、更に奴等の間を抜けて、背後に立つだけの余裕があった。奴等が振り向くのを待ったが、一向に気がつく様子がない。恐らく奴等に俺は、消えたように見えたに違いない。
 「こっちだ!」待ちくたびれた俺は声をかけた。ゆっくりと四人が踵を返す。その顔は、四人が四人とも驚愕に満ちていた。
 俺は校舎に向かって走り出した。これもまた驚く程のろのろと追ってくるので、奴等に足並を合わせるのに一苦労である。校舎に着くと、俺は階段を一気に駆け上がった。驚くべき跳躍力だ。一蹴りで踊り場まで到達し、二蹴り目には次の階だ。全力で跳躍すれば、校舎の外側から屋上まで飛べたかも知れない。
 少し早く屋上に着いた俺は、校舎の真中辺りで奴等を待った。暫くして息を切らせた四人が屋上に登って来た。奴等にはもう、無駄口を叩いている余裕はなかった。俺を見つけるや否や、エアガンを気が狂ったように撃ち続けて来た。
 俺は上体を仰け反らせて、リンボーダンスのように弾を避けてみた。ベアリングの弾がゆっくりと顔の脇をかすめて通り過ぎる。
 おおー、マトリックスチックウー!
 なんて感動している場合ではなかった。俺は弾を避けながら奴等に近づいていった。急に右足が勝手に動いた。恐ろしい速さで蹴りあがった俺の右足は、黒川の持っているエアガンを弾いた。右足が着地したかと思うと、俺の体は右足を軸に自動的にクルリと回転し、左足が残り三人の腕を順番に弾いた。奴等のエアガンは残らずすっ飛んでいった。
 奴等の表情が次第に恐怖へと変わっていく。俺は手始めに寺西の急所を蹴り上げた。怒りの余り手加減出来なかった。寺西の巨体が宙に舞った。2メートル程離れた場所に背中を打ち付け、股間を押さえながら口から泡を噴いている。マズイ、かなり手加減しないと殺してしまう。
 蛭崎が拳を振り上げて接近してきた。反射的に左腕がそれを弾いた。右の拳が相手の頬を直撃、続いて左の拳が相手の咽喉部に、更に右の拳が相手の鎖骨を折り、次に左の拳が右肋骨を砕いた。両拳に人骨が砕ける感触が伝わり、俺はヤバイ、と思い攻撃を止めた。蛭崎は口から血を吐いてうずくまった。あまりにも力の差がありすぎる。これでは相手を殺してしまうじゃないか。
 黒川は懐からバタフライナイフを引き出した。切っ先を俺に向け、抉り込む様に突き出してきた。多分超高校級の攻撃だろう。しかしスーツを着た俺にはまるで幼稚園児が玩具のナイフを突き出しているようだ。俺はナイフの腹を右手の人差し指と中指で挟んだ。黒川は急いで引き抜こうとしたがビクとも動かない。バズーカのような側蹴が奴の胸に決まった。やや斜め上方に蹴り上げた為に、黒川の体は思いのほか高くすっ飛び、フェンスを超えようとしている。イカン!屋上から落ちたら間違いなく死ぬ!
 俺は急いで黒川の体を追った。間一髪、黒川の体はフェンスから飛び出しかけていたが、その踝に手が届いた。
 「助けてくれー!」叫ぶ黒川の体はフェンスの外側で逆さ釣りになってしまった。
 「待ってろ、今助ける」俺はフェンスの金網を押し広げた、バリバリと音がして針金が千切れ、直径1メートル程の穴がフェンスに出来た。俺はそこから手を出して黒川の体を掴み、内側に引っ張り込んだ。床に転がった黒川は既に戦意を喪失しているばかりか、失禁していた。何とあっけないのだろう!
 振り返ると、持田沙緒里がガタガタと震えて立ちすくんでいる。
 「ねえ、あ、あたしも殴るの?お、女の子は殴らないよね。なんでもするから、お願い。いや、殴らないで、、、」こいつにはコイツに相応しい制裁を考えてある。
 俺は持田の前に立って胸元に手をかけると、ポテトチップスの袋を開けるように一息に制服を引き千切った。スカートも下着も細切れに引き裂くと、全裸になった持田の髪の毛を引っ掴んでフェンスまで引きずり、千切れた針金の一本を両手首に巻きつけた。手首が抜けないようにシッカリと固定すると、持田の体をフェンスの外へ放り投げた。絹を裂くような悲鳴と共に全裸の持田は落下した。丁度二階あたりで針金が引張られ、あられもない姿を晒して持田は宙釣りになった。
 「ひっどーい。引っ張り上げてよー」
 「明日の朝になれば誰かが見付けてくれる」
 「おしっこはどうするのよー」
 「そこでしろ」

 家に帰った俺には、何故か空虚感だけが残った。弱過ぎる。余りにもあっけない。明日から奴等は俺の奴隷だろう。自ら命を絶ちたくなるような、絶望的な屈辱感を味合わせてやる。しかしそれはもう約束された結果だった。それが何になるのだ。兄貴が生き返るわけじゃない。
 俺は無意識に兄貴の部屋のパソコンの前に座っていた。
 メールをチェックすると、何とツーバイマトリックススーツからメールが届いていた。

 親愛なるスーツユーザーへ
 ツーバイマトリックススーツの威力を心行くまでご堪能いただけましたか?もしかして、相手が弱過ぎるので物足りないとお感じではありませんか?
 当社ではそんなスーツユーザーに耳寄りなご紹介システムが用意されています。あなたはたった二名の方をご紹介いただくだけでいいのです。ご心配はいりません。紹介した友人があなたより強くなる事はありません。何故なら、一人を紹介する毎に、あなたのスーツのバージョンを上げる「オートマティックバージョンアップ」が既にスーツにインストールされているからです(直接紹介で200%、間接紹介で150%スーツの性能がアップします)。
 さあ、今すぐこのURLにアクセスして紹介者をサブミット!

 何という事だ!
 俺はこの時はじめて、スーツの名前の本当の意味を知ったのだった!
 だが、もう後戻りできない。俺は更なるパワーを体験したい欲求で満たされていた。更なる強さ、この上のパワー。この上の支配力!
 気がつくと、蛭崎達の名前とメールアドレスを入力している自分がいた。
 もう後には戻れない。無限に続く戦いの渦中に、俺は撒きこまれてしまったのだ。

                                 

おわり


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