スペース大相撲宇宙場所

by ザッピー浅野


 1. ぷろろーぐ

 20XX年、10月。
 地球北半球地域の上空で、近年まれにみる活発な流星活動が目撃された。これは19XX年のズーテール流星群以来の大出現だといえる。それらの流星群の正体は、木星の軌道を巡回している惑星観測衛星NWOからの調査結果から推測するに、アンドロメダ星雲と銀河系をまたにかけて移動している謎の彗星に源を発していると思われる。なお、この彗星は今世紀発見されたばかりで、まだ正式な名称はつけられていない。
 いま「彗星」と書いたが、この物体が彗星であるというのは、まだ確定した事実ではなかった。彗星としては不可解な要素が余りにも多すぎた。発見されてから既に数年の月日が経過しているにもかかわらず、天文学会で正式な名がつけられないのも、そこに理由がある。
 発見当初、それは既に小口径の望遠鏡でも観測可能なほどの明るさを放っていたが、その後の観測から、距離的にはまだ太陽系から大分離れていることが判明した。その巨大さは今までの観測至上例がなく、彗星としての常識をはるかに越えるものであった。しかしそれは間違いなく彗星のように、異常なスピードで、銀河系を移動しているのであった。
 太陽からかなりの距離がありながら、既にそれを惑星ではなく彗星らしい、移動型の天体だと認知できたのは、その明るさゆえ、観測上彗星にそっくりな光の尾が認められたからである。しかしその事実は、その尋常でないスピードと大きさからも、容易に判断されることだった。
 合衆国宇宙情報局MASAは、その謎の天体を"X"と仮称し、極秘の調査を開始した。しかし天体は、調べれば調べるほどその実体を覆い隠してゆくがごとく、今までの地球上で観測されたあらゆる天体の実例を逸脱してゆくのだった。
 ひとつ確かなことは、その天体はこの地球の方角に向かって、銀河系をつき進んでいるということだけだった。

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 同時期。
 数万個もの流星が、天空を昼間と見まがうばかりに照らしていたころ、地球では空前の格闘技ブームが巻き起こっていた。
 これまでにも、地球の各地で格闘技が流行した時期はあったが、現在のような世界規模なムーブメントに発展したのは、これが初めてである。
 この現象の発端には、日本の国技である相撲界の世界格闘技界への進出があった。
 世界の異質の格闘技同士が同じリングにあいまみえる。こういった異種格闘技の類は、先世紀の終わりごろから盛んに行われてきた。しかし、それらは主にプロレスを中心とした、空手、アマレス、柔術、ボクシング、ムエタイなどの一部の格闘技に限られ、伝統的な日本の国技である相撲や、中国拳法、その他アジアやアフリカの少数の民族間、あるいは一子相伝によって受け継がれてきた秘境の武術などは、まだそのベールを脱がないままでいた。
 そういう点で、日本の相撲が外界の異質の格闘技にその門を開いたことは、世界の格闘技史のなかで空前の革命であったといえる。誰もが予想だにしなかった異常事態といってもよい。
 日本の相撲界がこの禁断の決断に到った理由の最大の理由には、大相撲の興行的な低迷があった。
 日本はもともと、格闘技に関しては世界でも最もコアな熱狂者を持つ国であったが、それに反比例して、国技である相撲の客離れは深厚な問題となっていた。もちろんその裏にあるのは、若い国民達が熱狂できるだけの技とスター性をもった実力ある力士がなかなか育たないことである。
 その点を考えると、今思えば相撲協会の決断は、決して突飛な発想から話題性を得て、人々の注目を集めるだけのことではない。むしろ外界の異質な土俵に戦いの場を求めることによって、相撲界の凝固まった形式をうち破り、日本の国技に新しい風をおくりこみ、そのなかから新しい戦いのイデオロギーをもった力士の才能の登場を願ってのものだった。
 すべては「このままでは日本の国技は消滅する」という強迫観念に押し流されてのことである。
 この革命に最後まで執着し、大相撲の異種格闘技進出を主張していたのは、他でもない、現在の日本相撲協会理事長である、木場山亜欣理事長であった。
 彼は周囲の猛反対にも屈せず、この結論を最後まで押し通した。
 木場山理事長の革命的な提案に対し、周囲の反発は非常に激しいものだった。協会のなかでも、それは日本の歴史ある国技の伝統が没落する、あまりにも常識を外した無謀な決断だと言う者が大半であった。
 しかし理事長は、このままほっておいても相撲界の衰退は目に見えて深刻である、小さな伝統の形式の中に留まっていては新たな波は生まれない、力士達を世界に解放することによって、世界中の格闘技の技術を吸収し新たな風を送り込み、それと同時に、今こそ我らが誇りある国技が世界最強の格闘技である事を証明するときである。そう主張してはばからなかった。
 一見、支離滅裂な理論に思えるが、他にいまの相撲界の最悪の状況を打破する術も見付からず、またそこに木場山理事長の歴代会長と比較しても異形を放つ底知れぬカリスマ性も加わって、状況は無数の小さな流れをのみこみ吸収しつつ膨らんでゆく大河のように、ひとつの方向へと進んでいった。

 現役大相撲力士の世界総合格闘技界への進出は、その成功までに数年の歳月を要したが、ひとりのスター力士の出現によって実を結んだ。
 第166代横綱・炎帝神(えんていしん)。
 立役者・木場山亜欣の実の息子である。
 中国古代神世の王の名を冠するこの力士は、身の丈195cm、体重160kgを有する巨漢だが、いわゆる普通の関取のアンコ型の体型とは少し違い、腹と同じく上半身さえ筋肉で盛り上がり、肌は浅黒く、肉の鎧を幾重にも纏った怪物に見える。現にその顔は人間離れした妖気を発し、頭蓋骨が妙な形に変型しているのか、脳天からは大きなこぶが、鬼の角のように盛りあがっていた。さらに異様なことにはその顔下半分を覆う、岩のような顎に無造作に生い茂った髭である。昔なら力士に髭とは不謹慎極まれりと非難もあびただろうが、世界中の格闘界を巻き込んでの乱世にあって、もはや髭どころの騒ぎではない。
 そして数万個もの流星が、天空を昼間と見まがうばかりに照らした夜、炎帝神はニューヨークのマジソンスクエアガーデンにて行われた「総合格闘技世界一決定戦」のメインイベントにおいて、ロシアのアマチュアレスリングの強豪、身長2メートルを超すアレキサンダー・ミハルコフを相手に、2分35秒の勝利をものにした。
 決め技は一発の張り手による、頭蓋骨陥没骨折の為のレフェリーストップだった。

 2. 総合格闘技世界一決定戦

 話はその、炎帝神がアレキサンダー・ミハルコフの頭蓋骨に立体の手形をつけた時から数時間前にさかのぼる。
 同じ日の「総合格闘技世界一決定戦」の第2試合で、恐るべき事件がぼっ発した。
 世界最強と謳われている炎帝神を、唯一倒せると言われていた男、そしてこの日、ロシア格闘界の最期の砦と言われたミハルコフがよもや破れるようなことがあれば、間違いなく次の大会で炎帝神の対戦相手になろうと目されていたイギリスのマイケル・ガースを、まったくの無名の新人選手が倒したのである。
 この対戦カードが決まった時、誰もがガースの勝利を信じて疑わなかった。
 ガースといえば、年末に開催される予定だった次の「総合格闘技世界一決定戦」で、今日のメインの勝者との対戦がほぼ90%決定していた。主催側にしてみても、下手な相手に万が一ガースが取りこぼし、格闘技の強豪としての商品価値を落とすようなことはなるべく避けなければならない。折角のガースの参戦だが、この日の観衆はメインの炎帝神vsミハルコフに十分沸き立っている、ガースにはここで他の強豪を当たらせるよりも、ウォーミングアップ程度に中堅以下の選手と戦わせておけばよい、それくらいの腹算だったのだろう。
 しかし、事態は予想と大きく異った。
 まずガースと対立する見たこともない無名の格闘家の放つ、異様なオーラに観客はあっけにとられた。その顔はすべてを知り尽くしたような微妙な笑みをたたえ、ガースよりもふたまわりほども小さい身体なのに、巨体のガースの気をまるごと呑み込むような不敵な威圧感を感じさせていた。細いながらも堅く引き締まった筋肉はライトに照らされ、玉石を敷き詰めたように光っている。
 その言葉にできない違和感は、ゴングが鳴り、二人が肌をあわせるにつれて、次第に形を帯びてきた。
 ゴングと同時に打撃で勝負をかけてきた秒殺狙いのガースの猛攻撃を、入道雲の合間を縫ってうねりゆく龍のごとくかわしつつ、時折コーナーに追い込まれつつも巧みに腕や首を取っては、グラウンドにおいても一流と言われたガースの関節をあわや決めんとする場面もたびたび。その気になれば決められたところを、寸前で放している感さえあった。一分と経たない内に明らかに現れてきたガースの焦りの表情は、それを間違いなく裏付けている。そして男がガースの背後に回り、鮮やかなスープレックスが決まってガースの脳天がマットの中央にめりこんだのは、試合開始2分35分後、この2時間後に行われたメインイベントと同じ試合タイムであった。
 水をはったように静まり返ったマジソンスクエアガーデンに、何ごともなかったかのような涼しい表情で、マットの中央に立つひとりの男。数秒後に訪れた地を揺るがすようなどよめき。誰もが意表をつく戦いのドラマに酔いしれていた。
 強い選手を無名の新人が倒す。格闘技の世界にはよくある光景ではあったが、選手のインパクト、精錬された試合内容、そして異常な天体現象などの要素が融合して、その光景は見たこともない凄まじいものとして誰の目にも映った。
 ガースを倒したその男の名は、フランク・アンチナチュル。
 ニューヨークのメジャー団体「WCWF」に所属するプロレスラーであったが、レスラーとしての戦歴は皆無に等しく、これが事実上のデビュー戦であった。

 試合後、控え室に戻るフランクの周囲におびただしい数のマスコミが群がった。
 「ミスター・フランク、強敵ガースを相手に、凄まじい勝利でした。勝因はなんだったと思いますか」
 スーツを着た男がテレビ局の腕章をつけた左手にマイクを握り、最初の質問をものにした。
 「ありがとう。しかし、ガースは強敵ではなかった。勝因は、圧倒的な実力差、それだけだ」
 極めて客観的な答えが端切れ良くはじき返る。フランクの公のマスコミにおける第一声であった。
 「しかし、ガースはいま、唯一炎帝神にも匹敵すると言われていた、世界有数の最強選手のひとりでしたが」
 間髪を入れずに、他の記者が聞いた。
 「世間の評価は関係ない。下らない質問はやめろ」
 質問した記者をちらりとも見ずにフランクは答えた。
 「ガースを倒したということは、一夜にして全世界の格闘界のトップクラスに躍り出たわけですが、今日のメインの結果次第では、次の炎帝神の対戦有力候補ということにもなると思います。それについては」
 「私はもとから最強だ」そしてリングシューズが床でふたつ響くくらいの間をおいて「相手が誰であろうと関係ない」と短く言った。
 「ミスター・フランク、資料によると貴方は今年WCWFに所属してプロレスラーとしてトレーニングをしてきて、今日が事実上のデビュー戦ということになるのですが、それまでの格闘技のバックグラウンドは」
 「本格的に指導を受けたのはボクシング、レスリング、柔術、空手、シュート。それ以外の格闘技も大抵のものならひととおり経験している。かじった程度だがね」
 「ミスター・フランク、貴方は先頃暗殺され、惜しまれつつこの世を去った、合衆国大統領の御子息だという情報が入ってますが」
 今まで記者の質問に次々と答えていたフランクが一瞬沈黙し、ゆっくりと口を開いた。
 「・・・・確かに父は偉大な大統領だった。しかし、この場には関係のないことだ。私は私の力で頂点に立つ。それだけだ」
 この情報はほとんどのマスコミが知らなかったとみえ、にわかに周囲の記者達がざわめいた。
 「頂点に立つと言うのは、炎帝神を倒して、世界の格闘界の頂点に君臨するということですね」
 「いいや」と言ってフランクは立ち止まり、記者達の方を振り返った。そして右手を頭の高さに上げ人さし指を一本、天に向かって立てた。均衡のとれた逆三角形の筋肉が盛りあがり、フラッシュに照らされ指先がペンライトのように輝く。
 そして短く言った。
 「宇宙だ」

 3. 大相撲九州場所

 ひと月後。今年最後の大相撲九州場所はいつもと変わらず、大激戦の連続の内に幕を閉じた。
 全勝優勝を果たした炎帝神を取り囲んでの祝賀パーティーは、野外で行われた。夜空の下、周囲を木々で覆われた空き地に点々と、巨大なちゃんこ鍋が火にかけられ、そこからのろしのように立ちのぼる湯気が星の合間に消えてゆく。
 中央には炎帝神があぐらをかいて座り、その前にひときわ大きな鍋がぐつぐつと煮え、その隣には木場山理事長、あとは同じ部屋の力士達や数人の関係者達が、5,6人づつ固まって鍋を囲んでいた。その合間を数十人の女達が、給仕に動き回っている。
 炎帝神はサングラスをかけている。彼は試合のとき以外は常にサングラスをかけているのが習慣だった。彼の眼光の鋭さは、周囲の人間の日常生活に支障をきたすほどのものがあった。その風貌は、浴衣を着て髷を結っているとはいえ、とても関取には思えない。
 「幻宇(げんう)は強くなった」木場山は言った。「今日の奴の首投げを見たか。神が宿ったようだったぞ。昔のお前にそっくりだ」
 しゃべりながら、鍋のなかに箸をつっこみ、白菜、白身魚、海老、牛肉、大根と次々にどんぶりの上へのせている。老いたとは言え、木場山はまだ下手な現役力士よりはるかに食う。
 「奴もそろそろ外に出してみようかの」
 そう言って、うまそうに具ののった飯をかき込んだ。
 「塩が足りん」炎帝神はそう言うと、もう一度大きな声で言った。「塩だ」
 女が塩の入った瓶を持ってくると、蓋をあけて炎帝神の前に差し出した。炎帝神は塩をひとつかみ、鍋の中央にばさりと落とした。そして混沌とした鍋の中に杓子をつっこむと、左手に持っていた巨大などんぶりを食い物でいっぱいにした。
 幻宇は木場山部屋の内弟子の中でも、ポスト炎帝神とその実力を評価される男だった。いまは関脇だが、その起動力と柔軟性は、間違いなく未来の横綱候補筆頭だといえる。今日の千秋楽の一番でも、大関の鬼道を、頭からぶち当たり吹っ飛ばして14勝1敗の好成績をもぎとったばかりだった。
 「・・・・まあ、お前に比べればまだまだだがの」
 顎からちゃんこの汁をしたたらせながら木場山が言う。さきほどからほとんど何もしゃべらない炎帝神の態度を意識しての言葉だが、炎帝神にしてみれば、自分よりも数年後輩の幻宇の存在など、片腹痛いに違いない。今日の千秋楽で炎帝神、実に159連勝目。彼が双葉山の69連勝記録を破ったのは三年前のことだった。
 「どうも気になる」炎帝神が言う。
 「なにがだ?」
 「あの男だ」
 「あの男?」
 「フランク・アンチナチュル」
 炎帝神のず太い声で発せられたその名に、木場山の目が輝いた。
 「フッ、己は宇宙の頂点に立つ最強選手だとほざいたあの男のことか」
 「あの男はただ者ではない」
 木場山の箸の動きが止まった。あのおとこはただものではない。この剛強さの権化のような男の口から、およそ出てくるとは思えない台詞であった。
 「面白い。実に面白い」そう言って、木場山は夜空を仰ぎ見た。
 空には、無数の星が瞬いている。
 大相撲力士が解放された数年前から、空に認められる星が、異常にその数を増していることに木場山は気がついていた。そしてそこにひときわ輝く北斗七星の隣に、日増しに妖しい輝きを放ちながら増大してゆく、かの天体の存在にも気がついていた。
 「大昔の賢者は、その時代の武勇伝を星や雲の動きに見立てたものだが」
 木場山は懐から取り出したタオルのようなハンカチで、口元をふいた。
 「よし。ひとまず幻宇をあの男とあたらせてみよう」
 そう言うと、木場山は面白そうに、どんぶりの底に残った汁をぐいと飲み干した。

 4. 総合格闘技世界一決定戦

 12月。
 天空の彗星的天体は、昼間にもはっきりそれと判るほど、その姿を誇示していた。各国の政府も、こうあからさまに肉眼で確認できるようになっては、とてもその存在を隠しおおせるものではなく、その不安沈静化に頭を悩ませていた。それというのも、まだその天体の正体を、どの科学者も解明できていなかったのである。
 彗星によく似た、彗星以外の物体であるとしか言い様がなかった。あるいは地球の科学や物理学では説明仕様のない、まったく別次元の存在であるのかもしれない。
 天体から発せられる引力によって、世界では異常気象が相次ぎ、各地で記録的な干ばつ、台風、洪水、地震が巻き起こっていた。
 そんな中、総合格闘技世界一決定戦は行われた。場所は中国・上海ドーム、先頃建設された、日本の東京ドームをふた回りも上回る巨大競技場である。
 暴風雨ふき荒れるなか、10万5,000人の観衆は、恐るべき戦いの連続に血を沸騰させていた。まるで大自然の狂乱ぶりが乗り移ったかのようだった。
 この日のメインイベントで炎帝神に対するは、パトリック・ゴードン。
 “オランダの狂犬”と異名を馳せる空手家である。
 その勝つ為には手段を選ばぬ異常な勝利への執着ぶりは、世界中の格闘家から敬遠され、長らく格闘界追放同然に追いやられていた。熊のような手刀は、薄い瓦を割るかのごとく、コンクリートを叩き割り、2トンの破壊力を持つ蹴りは、極太の鉄パイプで殴られたかのごとく骨を粉砕する。並の格闘家ならまともに戦っても勝ち目はないが、ひとたび立場が危ういとみるや、目潰し、金的攻撃、凶器攻撃、いかなる反則手段もいとわないという性格だった。ゴードンはこの特性も加わり、いまだ公の対戦では“無敗”の称号を守っていた。
 メインイベントのゴングが鳴った時、上海ドーム10万5,000人の観衆、いや世界中の衛生中継で大会を見守っている50億の観衆は、異常な、まさに異常としか言い様のない興奮と熱気に支配されていた。
 この興奮のボルテージは、炎帝神とゴードンというふたつの巨星対決への期待だけではない。
 実はこの寸前で行われた、セミファイナルの余韻まだ覚めやらぬ精神状態によるものでもあった。
 日本大相撲木場山部屋から初参戦の幻宇 vs フランク・アンチナチュル。世界格闘界新星同士の対決は、この日の第二のメインイベントであるとも言えた。
 ゴングと同時にリングの中央に躍り出た幻宇は、拳をマットに突き下ろし、相撲の立ち会いのポーズをとった。
 関取にとって、土俵よりかなり広々とした格闘技のリングでは、余計な立ち回りは無用である。持久力で数段劣る関取には、下手に攻撃を仕掛けて逃げ回られたりしたら、いたずらに体力を消耗し、必ずその隙を突かれるのが落ちだ。ここは中央にどっしりと構え、相手の攻撃を待った方がよい。分厚い脂肪と剛鉄な筋肉に囲まれた肉体とトドのような首は、ヘビー級ボクサーのパンチさえ受け止める余裕がある。そして、一瞬の起動力で関取に適う格闘技はない。すべては敵が攻撃してきた5秒後に決まる。
 はずだった。
 ゴングと同時にリングの中央で立ち会いの構えを取った幻宇に、フランクはゆっくりと近付いてゆく。
 普通の格闘家なら、この相撲の構えを見ただけで恐ろしくて近寄れたものではない。現に、いままで何人もの関取が、この戦法で30秒以内の勝利を納めている。
 フランクは幻宇の目の前まで歩み寄ると、屈んで同じように、拳をマットに近付けた。
 相撲の立ち会いのポーズを真似するのかと思われたその刹那である。
 フランクの拳がマットに着くか着かないかという一瞬、まるでフットボールのタックルのように、フランクは幻宇に向かって突進し、右の拳で幻宇の顎を殴り上げた。
 ばちん、という肉を叩く鈍い音がして、幻宇の巨体が弧を描き、仰向けに倒れた。それは空気ポンプで動くおもちゃのカエルが、ひっくり返った光景を思わせた。
 戦慄するドームに、試合終了のゴングが鳴り響く。仰向けに倒れた幻宇はぴくりとも動かない。試合時間25秒。たった一発のアッパーカットで、あの幻宇が失神するなどと、誰が想像し得たであろうか。
 この様子を控え室で見ていた木場山は、モニターの前で腕を組んだまま、10分、まったく動かなかった。
 炎帝神は、モニターの中で口から血を流して失神している幻宇を一瞥すると「顎の骨が折れているな」とまるで独り言のように呟き、試合に向かった。

 炎帝神 vs ゴードンの試合は、同じ25秒、炎帝神の勝利に終わった。
 試合開始直後、炎帝神の張り手にロープまで吹き飛ばされたゴードンは、朦朧とした意識のなかで、靴の中に隠し持っていた凶器の鉄槌を取り出した。そんな凶器など目に入らないかのように炎帝神はゴードンに近付き、片足でゴードンを踏み潰した。
 試合が始まって10秒でゴードンに凶器を出させた男は炎帝神が初めてだったが、その記録はもう破られることなく、オランダの狂犬は内臓破裂による再起不能に陥り、長い格闘家人生に幕を閉じた。

 5. 大相撲最終場所

 ハッピー・ニュー・イヤー。
 新しく年が変わっても、この言葉は誰の口からも発せられることはなかった。
 相次ぐ異常気象は、このひと月の間に、世界の人口を三分の二にまで激減させていた。
 空を仰ぎ見れば、一日の半分は、昼夜関係なく、あの天体のおびただしい巨大な姿が見ることができる。太陽の三倍の大きさはあろうか。
 「地球は崩壊する」
 それは日増しに、全人類の確かな確信へと近付いてゆく。
 そして残された時間のなかで、人類が見ておかねばならないこと。それも全人類共通の確固たる意識として、存在していた。
 目指すは日本。両国国技館。大相撲初場所。
 飛行機も飛べず、船旅もままならないこの状況下で、どうやってやってきたのか、日本には世界から数万人の旅行者がやって来た。
 両国国技館は5年前の格闘技ブームに際して増築が行われ、今では15万人の観客数を動員できる、東京ドームを倍上回る巨大競技場へと発達している。
 巷で別称“最終場所”と言われる今場所が、前代未聞の盛り上がりを見せている理由は他でもない。日本伝統の国技・大相撲へのフランク・アンチナチュルの参戦である。
 真の世界最強決定戦として誰もがその実現を待ち望んでいた炎帝神とフランクの対戦は、実に総合格闘技世界一決定戦の場ではなかった。
 現役力士が総合格闘技に進出したことさえ異常事態であったが、まったく畑の違う格闘技の選手が大相撲に参加するというのは、異常事態のまた異常事態と言わざるおえない。
 しかし自らそれを望んだのはフランクであり、木場山も協会も民衆も、ためらわずそれを受け入れた。誰も異を唱えるものはいなかった。炎帝神とフランクが同じ土俵で肌を合わせる、それを見れれば何が何であろうと構わなかったのだろう。この時点で、すでに人類は狂っていたのかもしれない。

 そして“最終場所”は初日を迎えた。
 特別参加のフランクは、黒のパンツを履いて出場した。シューティンググローブとシューズを着けていない以外は、総合格闘技のリングと同じスタイルである。もちろん戦いは大相撲の公式ルールにのっとり、相手を倒すか土俵の外に押し出すかすれば勝ち。拳での攻撃は禁止だが、掌打は張り手とみなされ、有効となる。
 初日から小結の曲卍(きょくまんじ)とあたったフランクは、その細い筋肉からは想像もつかないパワーで相手を土俵の外に突き飛ばした。土俵下で頭を強打し、昏睡状態に陥った曲卍は、残りの休場を余儀なくされた。一方、炎帝神は平幕の虚詠宝(きょえいほう)を相手に、同じ押し出しで勝利を納めた。押し出された虚詠宝は同じく頭を打ち、休場となった。
 二日目、本日より休場した虚詠宝の為にフランクは不戦勝。炎帝神は小結の狂骨(きょうこつ)を相手に、寄り切りで勝利を納めた。寄り切り、と言っても、差した時点で炎帝神の怪力がさば折り状態に狂骨を締め付け、既に失神した狂骨を土俵の外に捨てたと言った方が正しかった。
 三日目、フランクは平幕の獄無双(ごくむそう)と当たり、前日の炎帝神と同じ寄り切りで勝利。炎帝神は曲卍の休場により不戦勝。
 四日目、フランクは平幕の牙壊大(がかいたい)を相手に、目の覚めるような手刀で突き倒す。鎖骨を砕かれた牙壊大は休場。炎帝神は関脇の武雷元(ぶらいげん)を掌打で叩き潰すがごとく、やはり突き倒しで勝利した。
 五日目、フランクは平幕の麗鬼(れいき)を相手に、組んだ瞬間、相手の腕をつかんで豪快に投げ捨てた。麗鬼はフランクの頭上で弧を描いて頭から土俵に倒れた。一見プロレスの“裏投げ”のようだったが、決まり手は逆手投げ。炎帝神は大関の天瞑(てんめい)相手に同じ逆手投げで白星。
 六日目、フランクは狂骨の休場により不戦勝。炎帝神はやはり獄無双の休場により不戦勝だった。
 炎帝神は必ずフランクと同じ決まり手で勝ち、フランクもまた、不戦勝になった翌日は炎帝神のひとつ前の決まり手以外では勝とうとしなかった。そして二人と当たるものはことごとく休場に追い込まれた。そういった状態が毎日、千秋楽まで続いた。

 天体はすでに空一面を覆うがごとく、その姿を広げていた。


 6. 地球崩壊


  両国国技館は14日目の終了直後、屋根が吹き飛ばされ、最終日が始まる時間には、ほぼその形をとどめていなかった。建物だけではない、あちこちに起こった地割れによって、数万人の人々が地中に呑み込まれ、首都圏は完全な廃墟と化した。
 このわずか15日間の間に、人類の90%は死に絶えてしまっている。残された人間も、もう何日も食べ物を口にしていない。滅びゆくだけの地球で、ただ一つの熱狂にしがみついて、かろうじて生きている。
 千秋楽。
 両国国技館があった場所に、対座する二人の男。東の炎帝神に、西のフランク・アンチナチュル。
 他の力士達はこのふたりによって、すべて休場に追い込まれていた。そうでなくとも、地獄のような異常気象と混乱の連続に、まともに戦える能力を残しているのはこの二人以外にいない。
 たった一番だけの大相撲最終場所千秋楽。
 土俵もなければ、屋根もなく、行司もいない。暴風雨の中、瓦礫にしがみついて固唾を飲んで見守る数百人の観衆があちこちに点在するだけだった。
 長い時間、二人の男は向かい合ったまま、お互いを見すえていた。土俵も行司もいないこの場には、もはやルールも存在しない。
 ただ目の前の敵を殺すのみ。
 頭上には、もう地球のすぐ近くまで接近している謎の天体が、得体の知れない光を発し、二人を見下ろしていた。
 「炎帝神」フランクが叫んだ。「この日を待っていた」
 炎帝神は無言で頷いた。
 地鳴りがする。地の底から響いてくるようなその轟音は、間違いなくかの天体からのものだった。
 炎帝神はゆっくりと膝を曲げてゆくと、両手を地に近付けてゆき、相撲の立ち合いの姿勢をとりはじめた。
 フランクは何を思ったか、両手の拳を高々と突き上げ、そして笑った。
 「こい、炎帝神」
 炎帝神の拳が地面に触れた瞬間、それまでのスローモーションのような動きが幻覚だったかのように、頭からフランクに向かって突進していった。
 フランクは両手を上げた無防備の構えのまま、それを腹で受け止める。
 ドオンと音がして、フランクの身体が宙に舞い上がった。
 轟音が最高潮に達し、炎帝神の鼓膜が破れる。
 その刹那、辺りが闇に包まれた。
 「炎帝神、お前の負けだ」
 脳髄の中心に、フランクの声が幽かに聞こえたのを最後に、炎帝神の意識は闇にとけていった。

 そして地球は崩壊した。







 7. ビッグ番







 天体は、幾億光年先まで照らすようなおびただしい閃光とともに、あとかたもなく、地球をこの銀河から葬り去った。
 後に残されたのは、限りない闇。闇。闇。
 そして、ふたつの淡い光を放つ天体がふたつ。
 ふたつ?
 ひとつは、地球を崩壊した、あの天体である。
 それまで猛スピードで太陽系を突き進んでいた天体は、地球を破壊した直後、星雲のような状態でそこに停止している。地球に衝突した衝撃と太陽の重力により、その場に止まったとみえた。
 そしてもうひとつは、いままで地球のあった場所に、地球と同じくらいの大きさで、やはり同じ星雲のようなものとしてそこにあった。それは破壊され、塵とガスの固まりと化した、地球の成れの果てなのか。
 しかし、何かが違っていた。
 かつて地球であったその天体は、淡い光を発している。それは太陽の光を反射したものではなく、紛れもない、自らの体内から発せられた光のようだった。星雲であれば、自ら光りを発することはない。
 そしてかすかにだが、その全体が鼓動しているように見えた。
 地球上の言葉を借りるならば、それは霊体であり、科学的にはエーテル体と呼ばれるものといえた。光を発しているように見えるのは、それを包むアストラル体、俗に言うオーラである。
 住んでいた三次元世界を破壊され、行き場を失った人類の魂は、お互い寄り添い結合しあい、巨大なエーテル体の結晶としてそこに存在していた。そしてそのエーテルをひとつの意志で統括しているのは、紛れもない、かつては炎帝神と呼ばれていたあの男だった。
 炎帝神は謎の天体を見た。
 驚くべきことに、それもまたひとつの巨大なエーテル体とアストラル体の結晶であることが解った。人類の科学では解明できなかったそれは、霊体という一段階崇高な存在になって初めて、認識が可能になったのである。
 そしてそこにもまた、同じようなひとつの意志が認められた。
 『アンチナチュル、お前か?』
 天体は紫色の光を発しながら、静かに動きだす。
 この時点ですでに地球が破壊されて、数億年の時間が経過していた。肉体よりも崇高な存在である霊体にとってみれば、三次元世界での時間の感覚など、塵のようなものでしかない。
 『私は<破壊>だ』
 天体は邪悪な光を放ちながら、再びもとのように動き出そうとしていた。
 炎帝神はその後を追う。そして天体の向こうに回り込むと、凄まじい勢いでエーテル体を膨らませ、巨大なエーテルの壁としてその行く手に立ちはだかった。
 『お前とは決着を付けねばならんようだな』
 アンチナチュルもその身を巨大化させる。
 両方とも太陽の5千倍ほどの大きさになると、太陽系の真ん中で向かい合った。
 お互いがエーテルの結晶でありながら、手や足や頭の生えている人間的形態として認識しあっている。
 『ここが我々の土俵だ』
 アンチナチュルのその言葉を合図に、ふたりは同時に頭からぶつかりあい、がっぷり四つに組み合った。
 押し合いでは炎帝神の方が優勢とみえ、アンチナチュルは押され、土俵際まで追いやられた。逃げようとしたアンチナチュルがバランスを崩したところに、炎帝神は右手で叩き込みをかけたが、アンチナチュルは寸でのところで持ち直し、下から猛烈な張り手を連続で食らわす。炎帝神も張り手を繰り出し、暫く凄まじい張り手合戦となった。
 アンチナチュルは炎帝神の張り手のひとつを巧くかわすと、それを掴んで引き寄せ、背負い投げに持ち込もうとする。しかし炎帝神は腰を低くしてそれを防ぎ、逆に背後から同体を掴んで投げようとした。
 アンチナチュルは腰を軸にして振り向きざまに肘打ちを食らわし、炎帝神がひるんだすきに、そのまま土俵の外に押し出そうとするが、強靱な腰でかろうじて土俵際に踏み止まる。
 『これで終わりだ』
 アンチナチュルがそう呟くや、炎帝神の背後の星がまるく消え、暗闇が広がってゆく。それはアンチナチュルの邪悪なアストラルのエネルギーが呼んだ、ブラックホールだった。
 太陽系の星々が次々に吸い込まれてゆく。金星も水星も火星も木星も土星も冥王星も海王星も、順番に暗闇の中へと沈んでいった。太陽の光も屈折して闇の中へと向かっている。光りさえ呑み込むブラックホールが、太陽さえその胃袋に取り込んでしまうのは時間の問題だった。
 『消滅するのは、お前だ』
 炎帝神はひとことそう言うと、腰を落として両腕に力をいれ直し、アンチナチュルをぐいと吊り上げ、そのまま背後のブラックホール目掛けて上手投げに放った。
 一瞬の出来事だった。
 アンチナチュルを呑み込んだブラックホールは、それを呼び込んだアンチナチュルと共に消え去り、そこにはまた元の星がきらめきだした。

 炎帝神、いや、地球人類は、がらんとした太陽系で一度大きく四股を踏むと、また元のエーテル体の結晶の固まりに戻り、そしてあてもなく銀河を進みはじめた。
 彷徨える魂達が、再びもとの三次元の世界を構築できる星を探して。



       完


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