ウエヌスとタンホイザー

by 夜長

 タンホイザーは、ウエヌスが棲むという「ウエヌスベルグ」を目指していました。

 彼にはエリザベートという恋人があり、長い間、清い愛をはぐくんでいました。が、ふと、あるきっかけから官能に満ちた世界をのぞきたい。と願うようになりました。
 タンホイザーは騎士であり、また同時に詩人でもありました。ですから、彼の「なにかを知りたい」という欲求は誰にも・・・彼自身にも止めることはできませんでした。
 彼は、才能にあふれた美しい男でもありましたので、自分に真の官能の世界を教えるにふさわしいのは誰だろうと、いろいろ考えを巡らしました。そして、考えに考えた末、「美と愛の女神のウエヌス」こそが、自分の愛の師匠にふさわしいだろう。と思い至ったのです。
 そして、単身ウエヌスが棲むという「ウエヌスベルグ」に向かうことにしたのでした。

 タンホイザーが「ウエヌスベルグ」の入り口に着いたのはちょうど逢魔ヶ時でした。全ての生き物がひっそりと、死んだように息づいていました。彼は、乗ってきた馬から下りました。
 「ウエヌスベルグ」は洞窟の中にありました。暗くぽっかりと空いている洞窟の入り口を見つめながら、さすがのタンホイザーも、ここに入った後の自分の行く末を思わないわけにはいきませんでした。タンホイザーがこれから入っていこうとしているのは、神々の領域です。生きて再びこの洞窟から出られないかもしれません。しかし、ここで一歩を踏み出さねば、自分の求めているものを知ることはできないであろうことも、彼にはよくわかっていました。
 彼は馬のほうに向き直ると、たてがみを優しく撫でながら、軽く丸一日の旅の労をねぎらいました。そして、その鼻面をもと来た方に向け、尻をたたいたのです。
 馬は最初は動きませんでした。が、繰り返し尻をたたかれると、主人の固い決心を悟ったのでしょうか、ゆっくりと、振り返り、振り返り、もう執る人のいない引き綱をゆらゆらと揺らしながら、だんだんと小さくなっていきました。
 これで、タンホイザーはたった一人、清清しく涼しい霧の中に残されることとなりました。
 馬がいなくなって、一人の恐怖によくよく五感を研ぎ澄ませてみると、彼は洞窟からはなにやら甘やかな香りが漂って来ていることに気づきました。その香りは、彼には、まるで彼を歓迎する儀式のプレリュードのように思えました。そして、その香りとともに、不吉なほどに真っ白い蝶が、たった一羽、緩やかに洞窟から舞いでてきたのです。そして、タンホイザーの肩に止まると、彼の鼓動に合わせるかのように、優雅に羽根を開閉しました。
「白い蝶はウエヌスの使いだという。してみると、わたしは歓迎されているようだな。」タンホイザーは少し心強く思いました。
 少なくとも、着いたとたんに闖入者として捕らわれることはなさそうでした。

 彼は思いきって洞窟の中に入りました。
 洞窟にはいると、その通路は薄暗闇でした。遠くを見やっても、どこまでもどこまでもボコボコした岩の壁が続いているように見えました。しかし、一度決めた覚悟ですから、彼はもはや、決してひるんだりはしませんでした。
 そして、女主人に会うときに失礼のないように、絹糸のように細い美しい髪をなでつけながら、道を進みました。
 果てしなく続くと思った道は、覚悟を決めてしまうと意外にも短く、それさえも女神の思し召しによってできているようでした。まもなく彼は、開けた場所に出ました。
 ああ、その洞窟の中の開けた場所は、なんの魔法によるものか、上を見やると、紫に煙る空に星が瞬き始めていて、女主人の住む丘をぼんやりと浮かび上がらせていたのです。
「ここはまだ洞窟の中なのだろうか?それとも通路のみが洞窟なのだろうか?」
 彼には、この不思議なウエヌスの丘のことはなに一つわかりそうにありませんでした。

 ウエヌスの丘は1年中常夏だという伝説でした。たしかに丘の麓には珍しい花々が咲き乱れていました。しかし、それは決して極彩色ではなく、ウエヌスの趣味の良さを伺わせていました。
 たくさんの花々や茨に囲まれて、眠るかのように、白い城壁と、そびえ立つ塔をあしらった豪華な城(後期ロマネスク様式)はありました。
 タンホイザーは、城門のところに立つと、自分の肩や胸をみて、服装の乱れがないか確かめると、一つ大きく息を吸いました。そして、まさに名乗ろうとした瞬間、憂鬱な音を立て緩慢に城門が開かれたのでした。

 門が開くと、一人の男が立ってい、中にはいるよう促されました。タンホイザーは美しい庭を歩きながら、周りをみる余裕もなく、突然の訪いの非礼をわびました。
 男は、「ウエヌス様はなにもかもご存じです。」と一言言ったきり黙って、先に立って歩きました。
 城にはいると、途中、なにやら布を抱えた女の召使いが2人黙って従ってきました。
 タンホイザーは、まず浴室に通され、旅の汚れを落とすように言われました。
 浴室では、付き従っていた召使い2人が着ているものを脱がせ、彼の体を隅々まで洗い、拭き、えもいわれぬ香りの香水を振りかけました。そして、まるであつらえたかのようにぴったりとくる、美しい、しかしこざっぱりとした晩餐用の衣装を着せると、彼を化粧台のまえに座らせ、髪を整え始めました。
 「タンホイザー様はなんて美しいお方なんでしょう。」
 髪を整えながら召使いの一人が感極まったように言うと、
 「ほんとうに。ウエヌス様にふさわしいお方だわ。」
 と、もう一人も言いました。しかし、
 「ウエヌス様はどんなお方なんだい?」
 とタンホイザーが問いかけると、2人はとたんに顔を赤らめ、忍び笑いを漏らしながら、黙ってしまったのでした。
 すっかり身支度ができて立ち上がると、タンホイザーの様子は、本当に周りを圧倒するように美しい、光り輝くような風でした。もちろん、元々、美しい若者だったのですが、ウエヌスの召使いの巧みな技によって、その美しさがいっそう引き出されたのでした。
 そして、タンホイザーはいよいよウエヌスの晩餐に招かれたのでした。

 晩餐の席では、ウエヌスとタンホイザーは隣り合わせでした。一度に何十人が座れるかわからないような、長く大きい白の大理石のテーブルは満席で、場は、すぐに盛り上がりました。もちろんタンホイザーの訪れについての話題でも盛り上がっていたのですが、この城にいる人々は、元来が享楽的で、騒々しかったのです。アペリティフが運ばれたときこそタンホイザーのために乾杯はしましたが、その後は、皆、好き勝手に振る舞うのでした。
 しかし、タンホイザーは、そのおかげで、誰にはばかることもなく、じっとウエヌスを見つめることができました。2人は、最初に見つめ合ったその時に、すっかり恋に落ちていたのです。2人とも、すでにかなり空腹でしたが、せっかくの夢のように美味な夕食を、ほんの少し口に運んでは見つめ合い、またほんの少し飲み物を口に含んでは、ほほえみ合い、という具合に、うわの空で済ませました。

 晩餐が終わると、仮面舞踏会でした。
 タンホイザーはウエヌスが、舞踏会用の衣装に着替えるために召使いに促され席を立つと、突然夢から覚めたような心地がしました。出会ったばかりなのに、ウエヌスがいなくなると、まるで半身が引き裂かれたような思いがしました。タンホイザー自身も別室に通されて舞踏会用の衣装に着替えさせられたのですが、今度は、その支度の間中、召使いに一言も口をききませんでした。すっかり熱に浮かされたように、思うことはウエヌスのことばかりでした。
 ホールで舞踏会が始まりました。タンホイザーが召使いに伴われて通されると、そこは、今まで見た一番大きな王宮のホールよりも広く、もうすっかり、人でごった返していました。タンホイザーは仮面の下の目をできるだけ見開いてウエヌスを探しました。
 ああ、しかし、彼はそんな努力をする必要はなかったのです。どんなに仮面をつけていても、その甘く息づく盛り上がった胸、どこに食物が通るのか心配になるほどの細いウエスト、そして、その下に続く、豊かな双丘を思わせるなだらかな盛り上がり、そして何よりも光り輝くような存在感で、彼は美しい婦人たちの中でもっとも美しいウエヌスを、難なく見つけることができたのです。
 タンホイザーはすぐにもウエヌスに近づこうとしました、が、彼のように美しい男性を、放埒なウエヌスの丘の住人たちが、黙って放置しておくわけがありません。彼らは熱中しやすく冷めやすいその性質で、晩餐の時こそ、目の前の快楽にタンホイザーを黙って放置しておいたのですが、今や、この美しい訪問者を取り巻いて誘惑することに夢中になってしまいました。
 タンホイザーはすっかりもみくちゃになりました。あっという間に髪が乱れ、服はちぎられ、乳首が露わになりました。すると、その様子に興奮したタンホイザーの周りの快楽主義者たちは、すぐさま淫らなお祭り騒ぎを始めました。
 そして、それは波紋のように広がり、とうとう、ホール一帯が淫蕩な香りに耽りだしたのです。
 タンホイザーがむしゃぶりついてくる誘惑者どもを蹴散らし、何とかウエヌスのところにたどり着くと、彼女も、その取り巻きたちにもみくちゃにされているところでした。彼女は、顔を真っ赤にした美丈夫の背中に腰をかけさせられ、靴下止めをはずされ、そのかわいらしい、白い鳩のような足をしゃぶられているところでした。
 「ああ、ウエヌス!」
 タンホイザーは、ウエヌスの手を取ると、大声で召使いを呼び、
 「ご主人様はお疲れだ。」
 といい、ウエヌスの細い腰を支えると、寝室まで案内させたのでした。
 周りにいた丘の住人たちは、おおよそ彼らの知っている「紳士」らしからぬタンホイザーの行動にすっかりしらけたものの、また、すぐに女主人のいなくなった舞踏場で、きちがいじみた快楽に耽り始めました。

 ウエヌスとタンホイザーは、彼女の寝室で、やっと2人きりになりました。彼女の寝室は、白とうす桃色と金を基調にした匂うように甘く、穏やかな部屋で、そこは、果てることのない快楽への没入と、その後の安らかな眠りを約束していました。部屋一面にはうす桃色の薔薇が飾ってあり、ベットの際のサイドテーブルにだけは、なぜかあふれんばかりの真っ白なカラーが飾ってありました。
 ウエヌスはべットのそばの椅子に腰をかけると、興奮にかわいらしい頬を紅潮させ、豊かな胸を上下させながら、
 「あなたはここにいる限りは、ここのやり方に従わなくてはならないわ。」と言い放ちました。
 タンホイザーは騎士道に根ざした誠実さを持っていたので、直ちに訪問者である自分のした非礼を悔いました。そして、「ああ、美の女神よ。わたしは申し訳ないことをした後悔で、胸がいっぱいです。しかし、まだ、ここのやり方がわかっていないことを、どうか許して欲しい。そして、わたしにここのこと、あなたのやり方を教えて欲しい。」
 と詫びました。
 ウエヌスは、少し落ち着いた様子で、
 「そうね。」
 と言うと、サイドテーブルに差してあったカラーを、花瓶から一本ひき抜きました。
 カラーの茎は切り口が少しめくれあがって、そこからぽたぽたと水を滴らせていました。
 ウエヌスは、その切り口に大理石のように白く冷たそうな人差し指をやると、しばらく円を描くように撫でていました。彼女が指を離すと、切り口からにじみ出た液体が透明な糸を引きました。
 と、ウエヌスは突然召使いを呼び、そのカラーの花を渡すと、夜着とナイトキャップに葡萄酒を持ってくるように言いました。
 タンホイザーはその間、ただただ、彼女の所作の美しさと唐突さに言葉を失い、馬鹿のように黙っていたのでした。
 しばらく後、召使いが戻ってきました。
 ウエヌスはタンホーザーの目の前で着替えを始めました。タンホイザーは思わず、目を逸らしました。そして、召使いが下がっていって彼は初めて頭を上げました。
 異国風の、薄紫のヴェールのように薄い夜着に包まれて、窓際に月明かりに照らされてたたずんでいる、ウエヌスの美しさは、それはそれは、美しく例えようもないほどでした。
 「わたしのやり方を知りたいんでしょ?」
 ウエヌスは、ベットに横たわると何とも蠱惑的なポーズをしてそう言いました。
 そして、彼女は、サイドテーブルにおいてあったカラーの花をとりました。
 花の茎の先端には、いつの間にか、なにかが巻いてあり、茎の水分が滴らないようになっていました。
 「わたしは、あなたが思っているような女じゃないのよ。」
 ウエヌスは語りはじめました。
 「わたしは、あなた達が想像もつかないほど長い時間生きているわ。そして、それは、最初のころは、あなたが思うような快楽主義者だったわ。淫乱と思われても仕方がないくらいに恋に自由だったもの。でもね、そんなのは、初めの数百年くらいのお遊びだった。そのうちそんなお遊びにも飽きてしまったの。」
 ウエヌスはこともあろうに、話をしながら、少し斜めに体を変えると、カラーの花を自分の秘所に当てたのでした。それで、タンホイザーにはちょうどカラーのしべが見える形になりました。タンホイザーはたじろぎました。そうしている間に、カラーの茎はため息に合わせてゆっくりと彼女の中に埋まり、その長さを縮めました。
 ウエヌスはあえぎながらも話を続けました。
 「そして・・・とうとう、愛を知ったのよ。本当にたった一人の愛する人と語らうとき・・・愛し合うときに感じる快感ほど・・・素敵なものはないって・・・。美しいだけの男女、才能があるだけの男女。そんなものはたくさんここに訪ねて来たわ・・・。与えられる愛にはもうすっかり倦んだわ・・・。簡単に手にはいるものは、もはや、わたしになんの快楽ももたらさないの。本当に心から欲しいと思う男女しか・・・もうわたしの情熱を呼び覚ませないのよ。」
 ウエヌスは、時々動きを変えては小さく呻きました。
 「だから・・・あなたはわたしに官能の世界を教わりたくてここに来たのでしょうけど・・・愛欲を知りたいなら、わたしに教えることはないわ・・・。どちらかというと・・・もはや、わたしの周りにいる丘の住人たちのほうが達人ね・・・。彼らは好き勝手に交わり、相手を変え、その時だけに生きているわ・・・。わたしは、彼らからのきちがいじみた愛撫くらいは受けるけど・・・もう、無闇に、それ以上の快楽に耽ることはないのよ・・・。本当の快楽は・・・自分の心の真実を満たしたときにこそ・・・やってくるのよ・・・。」
 ウエヌスは、そういうと、手の動きを早めました。
 「ほら見て・・・。」
 ウエヌスは少し腰を上げて、カラーの花を、より、タンホイザーに見えるように示しました。
 カラーの花は、ウエヌスの内部の熱で、彼女の高まりに合わせ、ゆっくりとその花びらをめくれあがらせていました。花びらがたった一枚だけのそれは、彼女の秘所の隠喩でした。
 彼女は達しながら言いいました。
「!!ああ・・・。花でさえ、こうして命を燃やしてわたしを愛するのよ!よくご覧になって!!」

 時がたち、少し落ち着くと、彼女は言いました。
 「これがわたしのやり方よ。今晩一晩よく考えることね・・・。」

 次の日に、彼は騎士一流のやり方で、慇懃に彼女だけに愛を誓い、彼女の愛を請いました。もちろん、一目で恋に落ちていたウエヌスに異存はありませんでした。
 彼は、そうして、ウエヌスの丘で夢のような月日を過ごすこととなりました。彼らは、ただれた愛欲の世界で、それをおもしろく思いながらも、お互いだけを見つめて、二人だけの寝所の帳に秘められた、より官能的な世界におぼれました。

 いつのまにか7年の月日が流れました。

 その日タンホイザーは夢を見ました。それは故郷の夢でした。しかも、なにかしら、不吉な感じのする夢でした。タンホイザーは思わず寝ぼけて、サイドテーブルに手を這わせました。彼は、実際のところ、キリスト教徒でした。ですから、彼の手は、不吉な夢の不安から、家のサイドテーブルにあるはずの聖書を思わず探したのです。そして、ふと、甘い香りに目を開け、隣を見やると、そこに、ミルクで作ったような白い肌の異教のウエヌスが、すやすやと眠っているのをみました。
 「ああ。」
 タンホイザーは一瞬でなにもかも思い出しました。自分は今、ウエヌスベルグにいるのでした。
 恋するものの不思議な感応によって、ウエヌスも目を覚ましました。そして恋人が沈痛な面もちでいるのに気づき、理由を尋ねました。
 タンホイザーは、故郷にまつわる不吉な夢を見たことを告げました。そして、ぜひとも里帰りをしたいと申し出ました。ウエヌスは止めました。ここ以上に素晴らしいところがどこにあるというのでしょう!
 しかし、タンホイザーの意志は堅固でした。里帰りをしたいのも山々だったのですが、それよりも、戯れに訪れてすぐ戻るはずだったのに、魔法にかかったように過ごしてしまった異境の地での長い月日が、許されないほどに罪深いように思われて、急に怖くなったのです。
 帰りたいと思うと、もう一刻もここにはいられませんでした。夕べまであんなに魅力的に思えていたウエヌスさえも、何かのあやかしの技で自分を縛っていたに違いない魔女のように思えるのでした。
 ウエヌスは突然の恋人の心変わりに驚き、かき口説き、彼にすがりつきました。逃げようにも意外にその力は強く、彼は、まだ騎士としての心得だけは忘れていませんでしたから、なんとか、言葉での説得を試みようとしました。しかし、ウエヌスがそんな急な話をきくはずもありません。

 タンホイザーはあまりのウエヌスのしつこさに、思わず 「おおマリアよ!この魔女から我を救い賜え!」
 と叫んでしまいました。と、そのとたん、ウエヌスの悲鳴とともに、城は崩れ去り、気がつくと、タンホイザーは7年前に馬を放した、見覚えのある洞窟の入り口に立っていました。

 それから、彼はぼろぼろになりながらも故郷に帰り着くことができました。

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 しかし、その後は、伝説の伝えている通り、彼は、法王に今までの罪の赦免を請いましたが、その時は、許されず、またウエヌスの丘に帰っていったのでした。そして、後に、罪を許され、多くの使いが彼を捜しましたが、その行方はとうとう、誰にもわかりませんでした。



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