白い糸

by 畠山ノリヤス(丸顔)


 ボクの目の前に、白くて細い糸が一本ぶら下がっていた。
 この白糸を引けば生き返ることができる。しかしこのまま引かずにいれば、ボクはこの世界から完全に消滅する。
 ココに来て、すでに十時間以上も、糸を引くか引かないかを悩み続けている。悩んでいる間にも、ボクの身体は少しずつ薄くなっている。あと二時間もすれば、ボクの存在は消えてなくなる。
 ボクは、目の前の白糸を引くべきなのだろうか。

     * * *

 目が覚めてからいつもと同じように時間を確認する。午前六時五分前。
 山小屋に来てから一週間。
 秋も終わりになろうとしているため、朝から肌寒い。窓の外もまだ陽がのぼっていないので真っ暗だ。
 朝食の準備に取りかかるため、ボクはキッチンに入った。この山小屋は何年も使われていなかったらしく、一週間前にキッチンに入ったときは、ほかの部屋と同じように蜘蛛の巣だらけだった。ボクは山小屋に入った日にキッチンも含めて、蜘蛛の巣をある程度取りのぞいた。
 今じゃこのキッチンも、一週間使い続けたこともあって、蜘蛛の巣はほとんどなかった。
 ガスコンロに火をつける。ココに来て最初にコンロをひねったときは、誰も使っていなかった山小屋だったから火がつくとは思っていなかったけれど、にガスコンロはきちんと着火してくれた。小屋の外に回ってみると、ボンベのプロパンガスが二本つながっていた。物置にも四本のボンベが入っていた。そのうちの二本は空になっていたけれど、二本も余っていれば十分だった。
 小屋の裏を流れる小川から水を鍋に入れて、ガスコンロに置いた。物置にはとてもたくさんの真空パックされた乾燥ウドンが入っていた。パックは一食ずつ小分けされていた。どうやらこの山小屋は、遭難者のために用意されたようなモノらしいことが分かった。残念ながらめんつゆは無かったけれど、塩も物置にあったので、塩だけで食べた。
 ゆであがると火を止めて鍋を持ってキッチンから出て、ホールのテーブルに置いた。椅子に座ってボクはウドンを食べ始めた。この七日間繰り返してきたことだった。
 ただ、昨日までと違って今日は少し部屋の中がニオった。ボクはニオイのする方に目を向けた。
 天井から吊り下がる一本の白い糸。その先にぶら下がっているキョーコの死体が腐り始めているようだった。

 彼女を助手席に乗せてドライブしていた。山道を走っている途中で横道を見つけた。ボクは通り過ぎようと思ったけれど、彼女はその横道に興味を持ったらしく、ちょっと入ってみよう、と言ってきた。仕方なくボクは車を横道に入れた。
 五分も走らせていないうちに、タイヤが窪地にハマって動けなくなった。キョーコは紙袋とカバンをヒザに置いた状態で不満をもらした。JAFを呼ぼうと思ったけれど、携帯電話の電波は圏外だったし、歩いて本道に戻っても公衆電話すら見あたらない。悪態をつきながらもどると、車の中で待っていたはずの彼女が、助手席の上にカバンを残していなくなっていた。
 大声で彼女の名前を呼ぶと返事があって、そっちに向かうと朽ちた小屋があった。小屋の壁の木が、何十年も前に建てられたモノであることを物語っていた。
 こんなところに山小屋なんて誰も気付かないよね、とキョーコは無邪気に言った。
 本当に誰も気付かないから忘れられたんだよ。とボクが答えると、彼女は、そうなんだろうね、と相づちを打った。
 ボクはいい加減こんな場所から離れたかったのだけれども、彼女はボクの考えとは逆で、山小屋のドアを開けて、中に入って行ってしまった。直後に、小さな悲鳴があがる。
 ボクは慌てて彼女のあとを追って小屋の中に入ったけれど、ぼくも思わず小さく声をあげてしまった。
 小屋の中は薄暗く、木と木の隙間から入り込んでくるたよりない陽の光だけでmなんとか建物の中がみえてきていた。。
 部屋中一面、蜘蛛の巣だらけだった。さし込んでくる陽によって、白い糸が怪しく不気味な輝きを見せている。
 ボクは顔についた蜘蛛の巣を取り払ってから彼女を見た。彼女も顔や頭についた巣を取っていた。
 やだ、気持ち悪い。ちょっとなんとかしてよ。
 ボクに向けられたその一言が、ボクの中の殺意を突然。本当に突然、干渉した。ワガママな彼女の欲求が、最近になってボクの精神まで蝕んでいた。それまでも、彼女のワガママでボクは色々と苦労していた。彼女は巣に引っかかった獲物に糸を巻き付けるように、ボクを自分のワガママで束縛していった。
 そのとき、それまでのボクは彼女の巣に引っかかった「彼女の餌」だったけれど、そのときにはボクが蜘蛛になっていた。ボクは彼女の髪の毛に引っかかった蜘蛛の糸を取り払うフリをして、キョーコの首に手を回した。そして叫ぼうとする彼女を絞め殺した。

 自殺に見せる必要があった。ボクはまだ警察の厄介にはなりたくなかった。首吊り自殺に見せるために小屋の中を漁った。蜘蛛の巣がうっとおしかった。巣を振り払いながら小屋の中を探し回った。だけれどもロープみたいなものはどこにもなかった。そこでボクは身動きの取れなくなった車にもどった。
 エンジンが止まったままの車の、工具やら布やらがたくさん詰まったトランクの中から、一番上に置いてあった白のビニールロープを取って小屋に入った。
 部屋の隅にあった小さなテーブルを使って天井の梁にビニールロープを通した。片方を彼女の首にかけてから、ボクはロープのもう片方を引っ張って彼女を吊り上げた。
 ゴキ、と首の骨が折れる音が聞こえた。ボクは構わず彼女を引っ張り、ビニールロープを固定した。
 なぜだか罪悪感が無かった。ボクは彼女を殺して吊り上げなければならなかったように思えていた。だから梁から吊り下がった彼女の死体をみても、吐き気もわき起こらなかったし、不快感もなかった。逆に爽快感があったし、達成感があった。
 それからやっと気付いた。
 車が動かない。車を放置してこの場を離れたら、ボクが彼女を殺してしまったことはすぐにばれてしまう。指紋もそこいら中に残っているだろうし、なにより検死をすればすぐにばれてしまうだろう。日本の警察が優秀だとか言う前に、彼女の首にはボクが絞め殺したという証拠の痕がくっきりと残っている。
 それからボクは考えた。どうすれば彼女の死体を隠し通せるか。ずっとそんなことを考えていたら日が暮れ始めていた。
 ボクは考えるのをやめて、このまま逃げることにした。でも車を放っておくことはできなかった。車がなければ街まで帰ることはできそうにない。覚えている限りでは、街から車で一時間以上かかったはずだ。歩いて帰ることなどできそうにない。
 悩んでいる間に日は暮れていた。ボクは車にもどった。日が沈んでからは急激に温度が下がってきて凍えそうなほど寒かったからだ。でも車のヒーターも使い物にならなかった。ガソリンが無くなったためにバッテリーを使い続けることが怖くなったからだ。
 ヒーターが効かないとなると、車の中は異様に冷えた。ボクは懐中電灯を持って小屋にもどった。
 小屋の奥には廊下があって左側にキッチンがあり、廊下をはさんだ反対側の壁にドアがついていた。ドアを開けて中を照らすと部屋になっていた。ベットもあった。
 廊下の奥には突き当たりになっていて、両側にドアがついていて、右側は物置になっていた。物置に、ウドンやら寝袋やら鉈やらを見つけた。ほかにも色々あったけれど、暗かったし、必要なモノは見つけたのですぐに探索するのはやめた。
 左側のドアは小屋の裏口になっていた。外に出ると小川が目の前にあって、ちょっと離れたところに小川の上に掘っ建て小屋があった。どうやら上下水道がないので、小川をトイレとして利用するらしかった。
 ボクは物置の寝袋をベットの上に置いて、明日どうするかを考えながら眠った。
 目が覚めて腕時計を確認すると、午前六時五分前。山の寒さが、昨日のことが夢じゃないってコトを強調するように、ボクの肌に染みこんで骨まで伝わってきた。
 そして、日常が始まった。

 七日もたってしまった。
 いくら山の温度が低いからといっても、冷凍庫のような温度ではないのだから、死体が凍ってしまうわけでもなく。腐ってきてもおかしくはない。
 最初の朝を迎えた時のニオイもひどかった。彼女の腸の中に詰まっていた内容物が肛門から吐き出されてきていたから。彼女の服を脱がすのに手間取ったのは、脱糞のニオイがひどすぎたから。
 何度も小川から鍋に水を張ってきて床にまき、彼女の身体にかけ、物置に置いてあったブラシで彼女と床を磨いた。
 結局その日は一日かけて掃除していた。お陰で部屋中に張られていた、霧のように視界を遮っていた蜘蛛の巣も、すっかり片づいていた。
 翌日からは、日中はずっと本を読んで過ごしていた。
 なんで逃げださなかったのかが分からなかった。逃げることに抵抗があったのも理由かもしれないけれど、多分、現実から目をそらしたかっただけなんだと思う。
 現実逃避。
 たとえ逃げても、街に降りてしまえばボクは家に帰ることになるだろう。家に帰れば両親がいるし妹もいる。ボクは家族に殺人を隠し通すことができないと思う。それにボクが自首して逮捕されたとしても、家族に迷惑をかけてしまう。ボクは家に帰ることができない。だからといってほかの街に逃げて一人で暮らすことなんかできないと思う。
 そんなことを本を読みながら考えていたら、一週間が過ぎてしまった。

 死体腐臭はそれほど気にならなかったけれど、腐っていくことで崩れる肉片は見たくなかった。多分、物凄く気味悪いものなのだと思う。キョーコの死体を見ても罪悪感一つ浮かばないボクだったけれど、腐っていく彼女をそのままにするのは、気持ち悪いなって感覚と一緒に、ちょっと可哀相な気がした。
 白い糸に垂れ下がる彼女は、とても生きていた人間には見えなくなっていた。

 キョーコを吊り下げていた蜘蛛の糸を切ると、彼女は床に落ちた。とても普通では考えられない方向に首が曲がっていたし、手足も、壊れた操り人形が捨てられてしまったかのような方向に向いていて、それが人間だったとは思えなかった。
 人間じゃなかったのかもしれない。
 そんな考えが頭の片隅をよぎった。少しでも人間じゃなかったと考えてしまうと、ダムが決壊して一気に水が攻めてくるように、ボクの頭の中は彼女が人間じゃなかったといった考えに埋もれてしまった。
 それは今のボクにとても危険な言葉だった。いや、もう危険などとも考えられない。危険じゃない。そうだ、彼女は人間じゃないんだから、なにも可哀相だなんて考える必要性はなかった。ロープを切るなんてしなければ良かった。
 ボクはまず、彼女だったモノが腐らなくなる方法を考えた。冷蔵庫があるわけじゃないけれど、ココの山の気温はもうすぐ冬を迎えるだけのことはあって、気温がかなり低くなっていた。血を抜ききって土の中に埋めれば、腐りにくくなるかもしれない。ふと、薫製にすればいいと考えた。
 ボクは肉を外に出した。外は明るかった。時計はまだ十時をさしたばかりだった。物置には鉈があって、ボクは鉈でソイツの手首をたたき落としてみた。血はそれほど飛び散らなかったし、骨を砕く感触しか感じられなかった。どうやらかなり腐敗が進んでいるみたいだった。
 ボクはソイツの両方の腕の手首、肘、肩とたたき落とした。次に足首、脛(一番硬かった)、膝、股と細かく切り落としてから首を落とした。頭はもう腐っているようだった。脳みそが一番最初に腐っていったみたいだった。もっと早く薫製にすることを考えれば良かったかもしれない。ボクは彼女の頬を思い出しながら、美味しかったかもしれない、と思った。
 ソイツの身体をどんどん細切れにして、骨を身と切り離し、血抜きするために陰干しした。
 昼のウドンを食べ終わってから本を読んで肉を調べた。すでに腐っている肉は捨てた。
 残った肉に塩をふった。塩がとてもたくさん物置に入っていたので、塩の今後のことを考える必要はなかった。
 夕方過ぎに小川で肉を洗って塩抜きをして、室内で風干しした。
 日が沈む前に、薫製にする前の彼女だったモノの肉を焼いて食べた。多分、腹筋だったと思う。コリコリしていて美味しかった。

 完全に腐敗する直前に薫製のことに気付いたから、保存するのが遅くなってしまい、かなりの肉がダメになってしまっていたから、ちょっと残念だった。
 一週間で彼女だったモノを平らげてしまったので、ボクは再びウドンだけの生活をしなければならなくなった。
 最後の薫製を食べ終えて天井を見ると、梁の上の彼女を吊っていたビニールロープと天井の間に、いつの間にか新しい蜘蛛の巣ができていた。

 肉の味が忘れられなくて、ボクは新しい肉を調達するために本道に出た。もちろん、一人でこんな山道を歩くバカはいないだろう、相手は車で通るはずだった。
 だからボクは車がやって来たら道ばたに寝転がって、車から人が降りてくるのを待った。
 二時間ほどで車がやってきて、倒れたボクを見つけると車から人が降りてきた。若い男だった。でも助手席には女も乗っていた。ボクは横道の方を指さして、この奥に車を進めたら事故になったから一緒に来て欲しいと男に訴えた。男は助手席の女に車の中でまっているように伝えてから、ボクと一緒に横道に入った。車を見つけると男はボクに、オマエの彼女はどこだ、と訊いてきたから、すぐそこに小屋があって、そこに彼女を運んだ、と言った。小屋に向かって歩き出した時、ボクは車の中に隠しておいた鉈を取り出して、男の背後から首に切り付けた。鉈の切れ味は思ったより悪く、男の首を半分ほど切断したところで止まってしまった。
 男の首がこちらを向いたけれど、身体は向こうを向いたままだった。男は倒れ、その拍子に首がねじれ切れた。ボクは男だった肉をその場に残して、女の乗っている車に向かった。
 血だらけの俺を見て女が悲鳴を上げた。俺は大声で、アンタの彼氏が車を持ち上げている時に転んで大けがをしたと言った。骨が足から突き出した、とも言った。女は慌てて車から飛び出して横道に入っていった。俺はあとを追い掛けて、男だった肉を彼女が目にする前に、女の背後から鉈を振り下ろして頭を割った。

 残った車を横道とは逆側にある草むらの中に突っ込ませて隠すことにした。草むらの向こう側は沼になっていたので、そこに車を沈めた。
 ボクは小屋に戻って、二つの肉の血抜きを始めることにした。

 もはや姿格好がみすぼらしくなりすぎてしまって、倒れているだけでは車は止まってくれなくなってしまった。
 十人目までは数えていたけれど、そこから先は何人を薫製にして食べたのか覚えていなかった。
 三日前に最後の薫製を食べ終えた。二十歳前後の女だったモノの内股部分だった。思ったより柔らかかった。
 薫製を食べられないのは辛かった。
 もうすっかり雪景色になっていて、通る車もほとんど無かった。小川も氷が張ってしまっていて流れなくなっていたけれど、周囲に積もった雪が水になるから気にはならなかった。
 ウドンにもすぐに飽きてしまい、ボクは山を降りようかと思った。もちろん、新たな薫製を手に入れるためだった。
 でも小屋から離れるのはイヤだった。せっかくキチンと補修したのだから、小屋に愛着がわいていた。
 補修は人間だった肉の皮で行った。肉の皮を剥いで、その皮を石の上でなめした。なめし終えると物置にあった鑞を塗った。そして一杯に広げて、壁に釘で打ち付けて、すきま風を防ぐようにした。
 小屋の中の灯りは、何台もの車から取ってきた配線やモーター、ヘッドライトやバッテリーなどを利用していた。時間はかかったけれど、部屋の中を少しは明るくしてくれる電灯を作った。
 その電灯に照らされた壁は、色々な色の肌色に染まっていた。黒っぽかったり白っぽかったり黄色っぽかったりした。皮は色々な色で部屋の中に貼り付けられていた。とてもシュールな気がして、ちょっと楽しかった。
 髪の毛は、長いモノは頭から切り取って編んだ。いくつもの肉から切り取った髪の毛を編み上げて、座布団にした。衣類などを重ねるよりも、髪の毛の座布団の方が座り心地が良かった。
 ボクは薫製を食べたかったけれど、ウドンでガマンした。口の寂しさを紛らわせるために、すぐソバに転がっていた骨をしゃぶった。

 雪の降らなくなった日が続くようになった頃、誰かが小屋にやって来た。その人物はボクがちょっと沼に沈んだ車の様子を見にいっている間にやって来ていた。
 本道に戻ると軽トラックが止まっていた。荷台にはガスボンベが乗っていた。ボクは直感的に、小屋の管理者が来たのだと悟った。運転席には誰もいなかったから、すでに小屋に向かってしまっていることが分かった。
 ボクは慌てた。運転手が小屋を見てしまえばボクは運転手を殺さなければならなくなる。そして街では戻ってこなくなった軽トラックを不審がって、この小屋に人がやってきてしまう。
 いくらボクでも、もし何人も一緒に来られたら、一度に何人も人間じゃないモノにすることはできないだろうし、逆にボクが殺されてしまうかもしれない。
 ボクが慌てていると、小屋の方からボンベを引きずって持ってくる男がやって来た。
 あんたが昨日、あの小屋を使ったのか。そこに車が穴にハマっていたが、山で遭難したのか、と男が言ってきた。ボクが答えられないでいると、街まで乗せていってやろうか、と言われた。
 ボクはちょっと不思議に思って、逆に男に訊いた。
 ボンベを取り替えに来たのですか。
 あぁ、去年の夏に来た時に気付いたんだがな、先日まですっかり忘れてて今日になっちまったんだ、まぁまだ備え付けのもガスが大量に残っているようだしな、また当分来ることも無いがな。
 男はボンベを荷台に乗せた。空のボンベといえども少しは重いようで、一本乗せるのに手間取っていた。
 あぁ、小屋の中には入らなかったんですか。
 蜘蛛の巣だらけかと思ったからな。裏口から物置に入ったが、ぎれいになっていたな。あんたが片付けたのか、あんたも車に乗ってけ。街まで連れて行ってやるぞ。
 ボクは遠慮した。車のことも心配だから、とだけ答えた。
 気を付けろよ、とだけ運転手は言って帰っていった。
 小屋に戻って物置を覗いた。新しいボンベが二本入っていて、空だったボンベは無くなっていた。小屋の中は大した変化もなく、ボンベの男が入らなかったのは確かなようだった。

 雪が溶け始めたころに一台の乗用車が、本道の、横道に入る前の辺りで止まった。
 それはとてもボクにとって恐ろしいことだった。何を怖いと思っているのか分からない自分がいたけれど。
 ボクは横道の窪地にハマった車の影から乗用車を観察した。
 乗用車から降りてきたのはスーツ姿の三十くらいの男だった。男が何者なのか分からなかったけれど、この横道に何か用があるのは確からしく、こちらの山小屋の方を向いていた。
 ボクは男を怖いと思った。男を殺さなければならないと思った。
 男はゆっくりと横道に入ってきた。ボクは手に鉈を持って、男が車のところまで来た時に男に鉈を振り下ろした。鉈は冬の間毎日研いでいたので、切れ味が良かった。鉈は男の左手を肩の辺りから落とすことができた。
 男は逃げだそうとしたが、ボクは男のヒザを狙って鉈を投げた。ヒザには当たらなかったけれど、左の足首を切り落とした。鉈の柄にはキチンと白のビニールロープが結んであって、ボクはビニールロープを引っ張って、再び鉈を自分の手にもどした。
 身動きの取れなくなった男は倒れたまま、大きな目を見開いてボクを見ていた。ボクはそのまま男の頭に鉈を振り下ろした。

 本当は、小屋から離れてしまえばいいのだけれど。男の乗ってきた車を使って山を離れて遠い街へ向かえばいいのだけれど。
 小屋から離れてはいけないような気がした。
 だから男の死体を埋めた。薫製にはしなかった。初めてボクは、殺人という行為を行った。今までも殺していたのだけれども、今までは狩りだった。食べるために殺す、狩りだった。今回は狩りじゃない、殺人だ。食べるために殺したんじゃなく、怖くて殺した。イヤな感じだったから殺した。
 死体を埋め終えてから男の乗ってきた乗用車の中を物色した。
 写真が数枚出てきた。写真に写っているのは色々な人間たちだった。ボクは写真の人間を見たことがある。ボクが狩った人間だった。
 行方不明になった、ボクが薫製にした人間たちは、この山道で行方不明になったのだから、調査が入るのも当然だろう。
 多分家族などは、この行方不明になった写真の人間たちが死んだものだと考えているかもしれない。死んだのは確かだし、ボクが消化した。骨は砕いて粉にした。粉にして飲んだ。死体として残っているのは、たった今埋めた男だけだ。

 男を埋めてから、ボクは現実に引き戻された。
 ボクの行ってきたことは殺人だ。
 ボクは初めて、罪と対面した。

 男を埋めてからしばらく、ボクは自分の行ってきたことに恐怖した。人間を殺して食べてきた。骨をすすり、皮を壁に貼り付けてきた。
 コレはボクの行ってきたことなのか? ボクがやってきたことだ。ボクは多重人格なのか? いや、ボクは自分の行いを自覚している。多重人格じゃない。ボクは食べたのか? 食べた。彼らを薫製にして。抜いた血を飲んで。ボクは、人間なのか? 人間だ。まず間違いなく人間だ。ただし、社会的には人間じゃないのだろうけれど。
 この小屋で獲物を待ち、引っかかったモノを食べる。蟻地獄、いや、蜘蛛のようなものかもしれない。ボクにとってこの小屋は蜘蛛の巣と同じだ。
 悩んでいた。何に悩んでいるのかということがいまいち分からなかったけれど。頭を抱えていると、テーブルの上を蜘蛛が這っていた。

 男の車はすでに沼の中に埋まってしまった。沼は少し氷が張っていたけれど、車を押し込むと簡単に割れて、車はみるみる沈んでいった。
 この沼に何台の車が埋まっているのか分からない。五台なのか十台なのか。持ち主は全員ボクの栄養となった。
 ボクは沼の中に身を投げようと思っていたのだけれども、そのとき偶然にも車がやってくる音がした。男を殺したから二日が過ぎたから、男を捜しに来た人間かもしれなかった。
 ボクは草むらに隠れて車を待った。
 果たして、車は横道の前で止まった。ボクは慎重に車の中を確認した。二人の屈強そうな男が乗っていた。

 ボクが二人を殺すことができたのは奇跡だった。偶然が重なった。一人はボクが片付け忘れたビニールロープに足を引っかけて転び、倒れた先に鉈があって、その鉈で首を切った。いわば事故死だった。もう一人が慌てて男に駆け寄った瞬間を見逃さなかった。ボクは背後から男に襲いかかった。
 慌てた男は、首を切ったばかりの、そのまま放置されていた鉈で左手首を切り落としてしまった。男が慌てているうちに鉈を拾い上げて、男に振り下ろした。

 男たちが何者だったのか分からないけれど、警察官じゃないだろう。車は普通のステップワゴンだったし、警察手帳を持っていたわけでもなかった。でもまっとうなヤツじゃないだろう。
 車の中には拳銃が二丁入っていた。弾もたくさん入っていた。
 次からは狩りが簡単になると、思った。

 多分二ヶ月くらいたったと思う。
 ボクは走ってくる車を手を挙げたり、車の前に無理やり出たりして止めて、運転手をおろしたら引き金を引くだけという狩りを行い続けた。
 獲物は毎日通るわけだし、ボクは人間だったモノを薫製にする技術がすっかり備わっていたから簡単に薫製を作れたし、だから空腹で悩むことも余り無かった。
 その日も車はやって来た。ボクは特に今は薫製を必要としないからやり過ごすつもりでいた。
 でもそのスカイラインは横道で止まって、中から人が降りてきた。女だった。
 ボクは、女がボクのことに気付く前に、拳銃の引き金を三回引いた。

 女の乗ってきたスカイラインから女のカバンを取って、いつものように沼に沈めた。
 カバンの中には十枚ほどの写真が入っていた。見たことのある顔が写っていた。どこかで見た顔だと思ったら、ボクが数ヶ月前に薫製にした肉たちの顔だった。
 ボクは殺したばかりの女を薫製にするつもりでいたのだけれども、先日の男たちと同じように埋めるだけにした。ボクが消化した肉たちの仲間が、誰かに依頼して彼らを探しているのだ。ボクの存在がばれてしまうのも時間の問題だった。
 ボクは小屋をそのままに、山から降りて遠くの街へと逃げることにした。服は男たちからはいだものがあったし、ヒゲも簡単に剃った。体も拭いた。みすぼらしくはない格好になったはずだった。
 誰とすれ違っても、怪しまれることはないだろう。

     * * *

 山小屋から離れた直後、ボクは死んでしまった。死んだ原因は事故死。本道に出たところで、車に撥ねられて頭を強打して死んでしまった。
 そしてボクはこの部屋にいた。
 四方は壁に囲まれていた。天井は存在しなかったけれど、壁は果てしなく高くて、空にまで届いているようだった。この世界に空があるのかどうかは分からないけれど。
 壁そのものがほんのりと光を発していたので、暗くはなかった。そしてこの部屋に来た時、ボクがしなければならないことが分かった。

 目の前に垂れている糸を引くか、このまま消えるか。

 ずっと。
 生き返るつもりなどなく。このまま消えて。
 ボクを撥ねた車の運転手は警察に通報するだろうか? そしてボクの住んでいた山小屋のことが。今頃は猟奇的大事件としてマスコミが。
 この鉈で彼らの首を切り骨と肉をわけて、裏に置いてあるあの塩を肉にふりかけていたのです。
 見てきたような言い方をして。警察官たちは小屋の中の血の臭いに吐き気を覚えて、肉の連中の家族はボクを恨み。

 糸を引くつもりはなかったし、上にのぼっていくつもりもなかった。ボクはココで消滅して、存在がなくなる。それで構わなかった。

 でも。
 興味があった。
 生き返った時の周囲の反応。そして今、世間にどれだけ騒がれているのか、ボクは知りたいとも思っていた。
 生き返ってもマスコミに騒がれるだろう。
 猟奇的犯罪を行った男は、ゾンビのように蘇って、再び人肉を喰らおうとしているのです。
 生き返ったボクは、英雄になれるかもしれまい。

 もう、身体はかなり透けていた。あと一時間もしないうちに、ボクの身体も精神も溶けてなくなる。
 それで構わない。ボクは生き返ったところで、人を殺してしまったことに対しての罪意識が薄くなっている。ボクの生命の危険だと感じたから、ボクは狩りをしただけだ。腹が減っていたから食べただけ。ボクの住む巣を壊されそうになったから殺しただけ。
 ボクは自分の命を守るために生きていただけなのだ。殺しは悪じゃない。そんなふうに考えると、とても重かった罪の意識が軽くなっていった。

 時間が迫ってきた。
 ボクはまもなく消える。
 それでいい。

     * * *

 ボクは本道から離れた草むらの中で横になったまま、ボクを撥ねた車がひき逃げしていったことを知った。

 最後の最後で、ボクは白い糸を引っ張った。
 本当にそのまま消えるつもりだったのに、消える寸前でボクは白糸を引っ張ってしまった。
 最後の瞬間に、どうしても確認したかったことが出てきてしまった。だから生き返ることにした。
 キョーコは、ドライブに行く前から紙袋を持っていたけれど、紙袋の中身は何だったのだろう。
 紙袋のことはすっかり忘れていた。キョーコを殺してしまった日、ボクは車の中から彼女のカバンを持ち出したのだけれども、紙袋が車の中になかったことを思いだした。
 紙袋はどこに行ったのだろう。それに最初の日、公衆電話が見当たらなくて車に戻ってきた時、エンジンが止まっていたのはどうしてだったんだろう。
 考えられるのは、キョーコが車のキーを抜いて、紙袋をトランクの中にしまったってこと。キョーコは車のトランクはエンジンを止めないと開けられないのだと思っていたけれど、ボクはあえて訂正しなかった。そういうタイプの車が全くないとは言い切れなかったからだ。
 ボクは地面に打ち付けられた身体を引きずりながら、半年以上放置したままの車に戻った。
 運転席に座ってトランクを開け、車の背後に回っておそるおそる中を見た。
 トランクの中を探ってはいなかった。最初にトランクを開けた時にはビニールロープは一番手前にあったわけだし、生活に必要なモノは山小屋の中にあったり、襲った車の中にあったりしたからだった。それにキョーコを殺してしまったビニールロープがここに入っていたと思うと、意識的にも無意識的にもトランクを避けてしまっていた。
 トランクの中を引っかき回すと、果たして、見覚えのある紙袋が出てきた。
 ボクは慎重に中を見た。

     * * *

 ボクは部屋の中にいた。
 目の前には相変わらず蜘蛛の糸のような白糸が垂れ下がっていた。
 一瞬だけだったのだけれども、夢を見ていたようだった。ボクが生き返った場合の夢を。
 ボクの身体はあと五分もしないで消えるだろう。ボクの存在は無にかえる。それでいい。
 ボクは間違えていた。でも、もうどうすることもできない。
 ごめん。
 ボクは一言だけ謝った。
 少しだけ涙が出そうになった。この世界で最後の涙になるのだけれども、ボクは涙を流したくはなかった。
 最後の最後で、ボクは自分の罪を認めた。ボクは。人を。キョーコを。殺してしまった。
 意識も途切れそうになっていた。もう、消えるのだ。

 紙袋の中にあったモノは────





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