ブルドネージュ

by きみよし藪太



  指先から滑り落ちたのは、確かに支えていたはずの音楽の教科書だった。
  戸惑っているのか様子をうかがっているのか、その娘は肩より遥かに長い黒髪を縛らなくてはならない規則をまだ知らないまま、目の前に立っている。白い肌は生まれたての人魚を思わせた。水に濡れて儚げでそのくせ、好奇心だけは強そうな瞳をきらきらさせているような。
 似ている。
 人魚よりなにより、彼女は、あの日失ってしまったあの人に。
 僕の耳は周りの音すべてをシャットアウトし、目は彼女だけを捉え、その場に立ち尽くしたままひと言も発することができずにいた。まるで香港映画の映像効果みたいだ、周りの景色は矢のスピードで流れてゆくのに僕と彼女だけが静物画のように呼吸すらしていないのではないかと思わせる静寂さで画面の中に取り残されている。
「センセ? センセってば、新垣センセ?」
 神様、ようやくあの人を僕に、と思ったところで思考を中断させられた。流れる景色でしかなかったその一部が、急に手を伸ばしてきて僕の肩を揺すったからだ。
「え、あ、はい、」
「これ、うちの担任からです、新しい名簿」
 確か音楽係だったはずの生徒がぺらりと薄い紙を渡してくれる。途端に、遮断させていた世界中の音が僕の中に流れ込んできて、覚醒した耳がうるさすぎるほどのざわめきを拾った。
「あー、静かにして。今日は音楽鑑賞なので、教科書の十七頁を開いてください、」
  まだ衣更えにならない白いブラウス達が夏の名残を振りまいている。中学生とはいえ最近では発育のいい子も増えていて、色の濃い下着などはブラウスの白さから透けてしまうので目のやり場に困ってしまう。渡された名簿の一番下に書き加えられた、目の前の生徒の名を呼ぼうとして僕は違う名前を口にしてしまった。
「まき先輩、」
「――え、」
 不思議そうに揺らいだ瞳が僕を見つめている。慌てて下手な感情を込めないように視線をずらし、今度は今の彼女の名前であるらしい、名簿に記入されたそれを読み上げた。
「……和原優子さん、君が転入生ですね。音楽の授業の時は席順が決まっていませんから、好きなところに座って下さい」
 はい、と素直に頷かれて、僕の耳はまたすべての音をシャットアウトしそうになった。自分の心臓の音がやたらと体内で大きく響いている。
――似ている。
 すぐに先程の音楽係の生徒が彼女を手招きしてしまい、僕にくるりと背を向けて彼女は呼ばれた方へと向う。
――似ている。
 あれはあの人だ。
 冷静を装うのに苦労し、それが額の汗になってしまうほど僕は動揺していた。
 僕が失くした、世界で一番大切だった恋人。
「はい、静かにして。じゃあ後で感想文を書いてもらいますから、居眠りは仕方ないですけど私語は慎んで下さいね、他の人の迷惑になりますので」
  居眠りは仕方ない、のところで、彼女がこぶしを唇のところに当てて笑ったのが見えた。ああ、その笑い方まで一緒だ。
 僕はCDをセットする。
 ブラームスの音楽が、ゆっくりと音楽室を、ざわめきごと飲み込んで静かに流れはじめた。


 あの人の身体がこの世から消え去ってしまったのはもう十四年前の話になる。僕が二十五歳の夏だった。彼女は中学の時の先輩で、当時男子バスケットと女子バスケットは同じ体育館の東面と西面でそれぞれ練習していて、まき先輩――それがあの人の名前だった、僕は付き合う事になってからも時々先輩と呼んでしまい、どんな恋人よ、といつもあの人に呆れ顔をさせてばかりいた――は三年生になっても補欠にしかなれない、背の低い女の人だった。一年生だった僕は放課後の練習で当然のように他の一年とコート整備を 上級生より先に行ってやらなくてはならなかったのだけれど、まき先輩は僕らよりもずっと早く来ていて、三年生だというのに毎回丁寧にモップ掛けをしていた。
 どうして最上級生がそんなことするんですか、と一度誰かが聞いたことがある。
「どうしてって、だって、体育館すべると危ないじゃない。私は補欠だから、誰か選手がすべって怪我してくれると試合に出られるの、でもそんなこと思っちゃうのは卑怯でしょ? だから、自戒を込めて、自分の努力で選手になれるようにって願いを込めてモップ掛けするの」
  ボブカットの髪がさらさら揺れる。僕はその時初恋を経験したのだと思う。女バスの三年生達が、彼女の事を偽善者っぽいだの自己満足女だのとこっそり言っていたのも知っていたけれど、僕はそんな風に思わなかった。けれども中学時代の二歳差はとてつもなく大きなもので、僕の恋心は誰にも告げられる事なく終わるはずだったのだ。
  再会は社会人になってからだった。教員の免許を取ったものの、小中学校の空きがなくて最初の年は塾の講師をしようとそちらに一旦就職した時。副科目で国語の教員免許も持っていたので、そちらの仕事があったのだ。そこの事務員にどこか見たことのある人がいて、名前を聞いたら中学時代の初恋の彼女だった。
「まき先輩!」
 彼女は僕を見て、誰、という顔をしたけれど、新人歓迎飲み会の時に僕が全部話して、彼女は僕のことをちっとも記憶していなかったけれど、酔った勢いもありみんなの前で「初恋の人でした、あなたが今も好きです」と叫んでしまったせいで新しく記憶し直してくれたようだった。その飲み会の大暴露で周りの押しもあり、僕らは付き合うようになっていって。
 あの夏、僕らはもう結婚しようかという話を進めていた。二年付き合っていくうちに、お互いの相性も価値観も驚くほどぴったりなことや、長く一緒にいるのに少しもお互いに飽きてしまわないこともあり、両親からの反対もなく、周りからは祝福の言葉だけがあたたかく注がれ、僕は彼女を一生愛し続けていくのだと幸せになっていたあの夏。彼女の乗っていた車に、酔払い運転の車がものすごいスピードで信号無視のまま突っ込んだ。軽だった彼女の車はぺしゃんこに潰れ、彼女はシートベルトをしていたにもかかわらず上半身が熟れすぎたトマトのようにぐしゃぐしゃになっていたという。顔の判別はできなかった。彼女だとの決め手は、僕の渡した婚約指輪だった。誕生石であるガーネットが嵌まっていた指輪。左の腕だけがなぜか無傷で、その薬指にきちんと指輪があったらしい。
 お葬式で、故人は最後のお別れの際にも棺の蓋が閉められたままだった、だから僕は彼女に最後のさよならも、キスもできていないままだったのだ。
「新垣センセ、優子ちゃん音楽係になったんでよろしくです」
 さよならをしなかったので、神様が彼女を返してくれたのだろうか。
「センセ?」
 十四歳の女の子と、十四年前に死んでしまった彼女。
「新垣センセ?」
 生まれ代わりを信じてはいけない理由があるだろうか。
「ああ、よろしく。他の教科と違って、音楽は特に授業前の仕事がある訳じゃないですけど、時々楽譜の配布なんかをしてもらうのでその時はよろしく」
 まき先輩にそっくりな中学生が僕の目の前にいる。
 白い肌も唇の脇のほくろも、小さな造りの輪郭も。
 転入生が紹介された授業のあった日の放課後、彼女は他の音楽係に連れられて音楽準備室まで僕に挨拶をしに来ていた。もう注意されてしまったのであろう、髪は後ろでひとつに括られている。
「縛らない方が可愛いのに」
「……え?」
「いや、ご苦労様でした、わざわざ挨拶に来てくれて悪かったね。じゃあこれからよろしく」
 死んだ恋人によく似ている顔で笑って、彼女は友達にまた連れられて音楽準備室を出て行く。振り返ればいいのに、と思ったけれど、振り返らなかった。後ろ姿を見送ってから、僕は各学年の貸し出し用教科書に貼る「音楽室」というラベルシールの制作に取り掛かる。学校の先生というのは自分の教科を教える仕事より雑用の方が遥かに多いことを、教職員になってからはじめて知った。まだ塾講師だった頃の方が教えるという純粋な仕事ばかりだった気がする。
 ラベルシールを作る小さな機械のコンセントを繋げようとしていた時だった。コンコン、とためらいがちなノックの音が聞えたのは。
「はい?」
 腰を屈めたまま返事をしたので、誰かが入ってきた時も僕は床の方を向いていた。コンセントを挿して上半身を起す、と、僕の隣に立っていたのは彼女で。
「わっ、」
「あっ、先生っ、」
 タイヤのついていた椅子はバランスを崩した僕の力をそのまま吸収して変な方向へつるりと動いた。大きな音を立てて、僕は椅子から置いていかれる形で落ちそうになる。
「っと、危ない危ない、」
 右腕を床についてどうにか体勢を立て直すと、僕は慌てて笑顔を作った。照れくさかったのが大きかったのだけれど、彼女はそんな僕を見てこぶしで唇を隠す笑い方で目を細める。
「先生、なにしてるんですか」
「いや、ちょっと、うん、あの、いつもこんな風な訳では、」
 言い訳をしているのが自分でも不思議で、でもなんだか生徒に言い訳をしているというよりはまき先輩を目の前にしているような気になっていた。
「ええと、和原さんでしたね、」
「はい、和原です」
「なにか聞き忘れたことでも?」
 聞き忘れたというよりも、と彼女が首を傾げた。
「あの、この町に音楽専門高等学校がありますよね」
「ああ、ありますね。あそこは五年だったかな、確か卒業すると専門学校卒業と同じ扱いになったと思うけど」
「そこに行きたいんです」
「来年受験するってこと?」
「はい、それで、あの、うちにピアノがないんですよ、あの、放課後とか使わせてもらっていいかな、とか思ったりして、……駄目、ですか?」
 駄目じゃないけど、と僕は語尾を濁す。
 駄目じゃないけれど、普段使用している音楽室は放課後、合唱部が練習で使用してしまうため、ピアノを使わせる事ができない。体育館のステージにも一台あるが、運動系の部がこれまた部活で体育館を使用しているため、ピアノなど弾かせたら邪魔になると他の先生に怒られるだろう。
「困ったな、」
 まき先輩に似ている彼女なので使わせてあげたい気持ちはあるのだけれど、肝心のピアノが空かない。
「でもピアノがお家にないのにどうやってあそこの受験を、……あ、」
 確か試験にはピアノ実演も含まれるはずなのに、と続けようとしていたところで急に思い出した。使っていないピアノがひとつだけある。
「前の家のピアノはちゃんとあるんです、ただ今とりあえず住む事になったのが父の会社の社宅なので、ピアノが置けなくて親戚に預かっててもらってて。でも再来月辺りには引っ越し直すからピアノもまた引き取るんですけど、先生、『あ、』って?」
「いや、えっと、」
 彼女の前だと僕は「いや、」だとか「えっと、」だとかばかり言っている。
 思い出したのは第二音楽室のことだった。この中学校は二十年ほど前まで一学年十クラスもあるような巨大なマンモス校だったのだけれど、あまりにも生徒が多くなりすぎてもうひとつ近くに新しい学校を作ったらしい。ここ近年の出産率低下などと重なり、今では当時と比べて生徒も半分以上に減っているが、建物はそのままなので使っていない教室がいくつかあるのだ。そのほとんどが物置にされており、第二音楽室も例に漏れず、今では音楽準備室その二として楽器などを置いておく部屋として使用されていた。そうはいっても、吹奏楽部などが使う楽器はすぐに取り出せるように音楽室の倉庫に入っているので、そこに保管しておくのは年に一回音楽祭の時だけ使用するマリンバだとか木琴、鉄琴、吹奏楽部のものとは別のティンパニーや大太鼓などだった。
「あるかもしれない、使えるピアノ。去年調律もしてあったはずだし、音の狂いはないと思うけど、」
「使っていいんですか、そのピアノ!」
「いい、とは思うんだけど、高柳先生と相談してみないと。それに、」
「それに?」
 僕はもうひとりの音楽教師――彼は合唱部の顧問だ、そしてなぜか吹奏楽部の顧問は中、高、大学と熱心にチューバを吹いていたという数学の教師だ――の顔を思い浮かべて、別に駄目とは言わなさそうだな、と考える。問題はその先生の反対ではなく、第二音楽室には鍵がかかっており、出入りする際には必ず教師が引率で付いていなければならないことだった。
  誰もこない部屋でふたりきり。
「……第二音楽室という楽器庫になっている部屋に、ピアノがあることはあるんだけど、生徒だけでの使用は認められていないんですよ」
「先生、に、付いていてもらっちゃ、駄目、ですか?」
「先生って?」
「新垣先生。駄目?」
 見つめられて首を傾げられて。駄目だと言うことができないまま、僕は喉を詰まらせる。
「僕にも仕事というものが、」
  なんて弱気な言い訳だろう。彼女も僕の気弱な返事を聞いて、一押しすればどうにかなると思ったのかもしれない。
「先生の時間の空いてる時だけでいいですから、お願い、ね、先生、音楽の先生がついててくれるんならすっごく心強いですから」
「心強い、って?」
「頑張れそうってことです」
  大きな瞳は水分をたっぷりと含んで僕の視線を捉えていた。瞬きをすれば泣いてしまいそうにも見えた。特定の生徒の贔屓になるのでは、と理性が頭の片隅で主張する。しかし、感情がそれよりももっと大きな声で僕を誘惑する。ほら、帰ってきたんだよ、生まれ変わってまき先輩が自分に出会い直すために、と。そんなことがただの妄想だということは分かっていた、分かってはいたけれど目の前にこれだけ先輩に似た女の子がいると、さすがに心が揺れる。
「……じゃあ、僕の時間が空いている時、そして君が引っ越してピアノがくるまでの期間だけだよ」
 自分が甘い顔をしているのが、鏡を見なくても分かった。
ありがとうございます、と彼女が嬉しそうな声を上げてぴょこんと頭を下げる。
 僕と彼女のピアノを挟んだ逢瀬――もちろんそれは僕が勝手に思っているだけだ――は、翌日から静かに始まった。


 白い指が鍵盤の上を撫でるように流れてゆく。
 東側の窓から向こうへ広がっている校庭から響いてきていた運動部の掛け声も、ゆっくりとピアノの音に飲み込まれてやがて聞えなくなる。青きドナウを弾いている彼女のすぐ近くで、僕はぼんやりと二年生の教科書を開いていた。ウィンナーワルツのこの曲はもともとピアノ演奏曲ではなく合唱曲として作曲されたのを、彼女は知っているのだろうか。
 クライマックスの、徐々に盛り上がり速度が速くなってゆくところで、不意に鍵盤から彼女の指がずれたようだった。本来楽譜にない音が引っ掛かるようにこぼれて、僕は座っていた折り畳みの椅子から立ち上がる。ぱらぱらと不協和音が響いて、曲はそこで止まってしまった。
「どうした、」
「いえ、右手が。ちょっと無理して弾きすぎちゃったみたいで、」
去年腱鞘炎やっちゃって病院に通ってたんですけどね、と彼女がこちらを向き、右腕をさすりながら笑った。
「どれ、」
 とっさに近寄り、その腕を取ってしまってから、はっとする。
「ええっと、」
 確かに手首のところが心なしか赤くなり、腫れているようにも見えた。一旦取ってしまった腕を放り出すわけにもいかず、僕は恐る恐る彼女の手首をさする。
「熱を持っていたら冷やさないといけないけど、本来は暖めた方がいいんだ、手首のサポータを持っている?」
「持ってます、多分家にあると……。先生の手、あったかいですね、」
 微笑まれて胸が高鳴った。間違えてはいけない、と心のどこかで警鐘が鳴る。ふたつの音が重なるように体内で響き、僕を膨張させる。間違えてはいけない、これは恋人だったあの人の手ではない、ああ、でもこの笑顔は、僕が恋したあの人の若い頃と同じだ、間違えてはいけないけれど、でも、でも。
「まき先輩、」
「……先生?」
 ここにいる誰のものでもない名前は彼女を多少怯えさせたのかもしれない。空いている左手を後ろに引き、当たった鍵盤が耳障りな音を響かせた。
「新垣先生……?」
「痛いだろう、可哀想に。こんな白くて小さな手なのに」
「先生、痛い、」
 彼女の手首をさすっていたはずなのに、僕の手はいつのまにかその腕を掴んでしまっていた。離さなくては、と思うのに身体が動かない。
「悪い、」
「先生……?」
「ちょっとだけ、」
「……『ちょっとだけ』?」
「……抱き締めてもいいだろうか、」
 生徒に何を、という気持ちはどこかで小さく認識しただけだった。あの日、恋人を失ってから僕は誰にも恋をしないまま生きてきた。他の誰も目に入らなかったからだ、他の誰にも興味は持てなかった。でも、本当は飢えていたのだろう、恋することに、誰かに触れるということに。
「変なことはしない、約束する、でも、」
 もしも僕が気持ち悪いなら今すぐ大声を出して逃げていいんだよ、と続けるだけの理性はあった。けれどそれは彼女のためではなく、あの人に似た顔が僕を嫌悪の表情で見るのに耐えられなかったという、自分のためだった。
 言ってから苦笑する、抱き締めてもいいだろうか、ということがすでに「変なこと」になってしまうだろうに、と。
「先生、なんで?」
 彼女は当たり前の疑問を口にした。でもその声は心なしか震えているようにも聞えて、僕は彼女を怖がらせているのだと胸が痛む。それなのに自分では止められない衝動として、今、彼女を、と思ってしまう。
「どうして? 逃げていいって、言われても先生、先生ものすごく哀しそうな顔してる……」
 おそるおそる近付いてきたのは彼女の左手で。白い指が、そっと僕の頬を撫でた。
「先生……?」
 ナイテイルノ、の意味が分からずに、けれども発せられたその声が引き金となって僕は自分でも想像していなかった強さで彼女の手を引いた。椅子が倒れて、いやに響く音を立てた時にはもう彼女は僕の腕の中にいて、しばらく小さくもがいていたけれどすぐに大人しくなった。身長差があるので彼女は僕の身体にすっぽりと覆われてしまう。抱き締める腕に力を込めるたびに、彼女の髪からやわらかな花の匂いがした。
 まき先輩、と僕は呟く。
 ぎゅうぎゅうと力を込めてしまうたびに彼女は微かなうめき声を上げたけれど、それ以外はじっとしていた。立ち尽くした恰好で、僕に抱き締められるままに。
 第二音楽室のカーテンは何年も取り替えていないので黄ばんでいて薄汚れていた。開けてある窓からの風が、閉められているカーテン――現在使用していませんという印として、使っていない教室のカーテンは年中閉めっぱなしになっている――をそっと揺らしている。グラウンドからはそれぞれの部活での掛け声が、第一音楽室からは合唱部の歌声が、その隣の家庭科室からは吹奏楽部の楽器の音が、ありとあらゆる生徒や教師達の生きている音が溢れ返っていてうるさいはずなのに、僕の耳には何も届かない。届くのは腕の中の彼女が呼吸をしている静かな音だけだった。
「先生、苦し……、」
「あっ、わっ、」
 我慢していたらしい彼女が小さな声で漏らした降参に、僕は慌てて腕を解いた。
「和原、悪かっ、た、」
「先生、まき先輩って誰?」
「――え、」
「誰? いつも私を見てその名前を言うでしょう、誰? 先生の先輩なの?」
「先輩、なんだけど、いや、」
 倒れた椅子を彼女がそっと起した。動揺しているのは僕の方ばかりで、向こうはどちらかというと冷静すぎるほど冷静に見える。
「じゃあ、先生の恋人? でも、どうしてそれなら私に今みたいなことしたの?」
「まき先輩は確かに恋人だったけど、」
「だった、って、過去形? 別れちゃったの?」
 最近の中学生はこういう状態に慣れているのだろうかとしどろもどろになっていたけれど、ふと彼女の手が握り締められて小さく震えているのが目に入った。気丈そうに見せているけれど、本当は怖いのかもしれない。それはそうだ、自分の倍以上の年の教師と使われていない教室でふたりきり、男と女で、しかも今僕に抱き締められてしまったばかりで。この頃怖い事件だってたくさんある、彼女が怯えているのも無理はなく、それでも弱いところを見せたら相手の嗜虐心をそそってしまうかもしれないと思って平気な振りをしているのかもしれない。
 ごめん、と僕は先に謝る。
予想していなかった展開なのだろう、彼女はぽかんとした表情になった。
誰かの視線を感じるような気がして、僕はそれが死んでしまったまき先輩のものだと思った。なにしてるの、と怒っているような。わたし以外の子をわたしだと思い込んで抱きしめるなんて、と呆れているような。ふたりは別々なんだ、ただ単に先輩が死んでしまった年数とこの子が生まれてきてから今までの年数が一緒で、顔や雰囲気や笑い方なんかがよく似ているだけで。生まれ変わりなんて、もしもあったとしてもだからといってまたその人に恋を必ずするものなのだろうか、僕はまき先輩と重ねることを理由としているだけで、和原優子という個人を僕は好きになりかかっているのかもしれない。
 すべてが勘違いの可能性だってあるわけだけれど。
「ごめん、」
 もう一度謝る。今のことを忘れて下さい、の意味ではなく、まき先輩に重ねて君を見て悪かった、の謝罪だったけれど、彼女には意味が分かるはずもない。
「……先生?」
 なんで謝るの、と、やわらかな声で聞かれて泣きそうになった、骨格が似ているからだろう、彼女は声までまき先輩に似ている。


 この学校における職員室とは、ただの会議用の教室でしかない。授業の教材も個人的なものもロッカーも必要なものも不必要なものも、それぞれの教師達はそれぞれの準備室に置いているからだ。音楽の教師には音楽準備室が、理科の教師には理科準備室が、数学の教師には数学準備室が。だから下手をすると同じ学校の教師なのに顔を合わせない人がいたりする日もあった。
「新垣先生、」
 職員室は滅多に使わないので、個人の机が割り当てられてはいるのだけれど自分の所有物だという意識は低かった。事務員の女性がお茶をいれてくれるその湯飲みが、また自分の持ち物ではなく家庭科室のものだというのもそう感じる一因になっているのかもしれない。
 声をかけてきたのは社会科教師の佐島だった。どこか陰湿な感じのする人なので僕は苦手としているが、そういう雰囲気は相手にも伝わるのか向こうも普段はこちらと距離を置いているのに、珍しく話し掛けてくる。
「ああ、佐島先生」
「こんな事は言いたくないんですけどね、」
 今日の職員会議もいつも通りの一週間予定が発表され、来週ある避難訓練ことについての話が教頭からあっただけだった。
「……なんですか、一体」
 プリント一枚で配布すれば五分もかからずに終わってしまうだろう内容を、教頭はぐだぐだと口頭で説明し、また、市役所の人間が先日飲酒運転で逮捕された件を関係もないのに持ち出して来て、先生方も公務員なのですからどうか飲酒運転だのそういう類のことで警察のご厄介になるのは、という話を四十分かけてだらだらとした。やっと解放されたので和原のピアノの為に第二音楽室へ、と思っていたのに、またもったいぶった喋り方をする佐島になど掴まってしまっている。今日は仏滅なのだろうか、と自然に眉が寄ってしまったが、そんな僕の表情にもお構いなしに彼は、まあ、だの、いや、だのと言っていた。
「あれですよ、ほら、あまり特定の生徒ばかり贔屓するのはどうかと思うということですよ」
「……何の話です?」
 和原のことだろうか。
「教師が教え子に猥褻な行為をして、なんて問題になったら、ねぇ、」
「……佐島先生、おっしゃってる意味がよく分からないのですが」
「いやいやいや、その、あれですよ、」
  佐島の目が泳いでいる。和原のことかと聞くのは墓穴を掘りそうだったから口にしなかった、代わりに、用事がありますので、と佐島の顔を見詰め返す。
「すみませんが失礼します、明日の授業で使う楽譜を印刷しないといけないもので」
 もちろんそんなのは嘘だった。嘘も方便というやつだな、と僕は自分で納得する。いやいやいやいや、と佐島はもう一度言い、ご苦労様です、などと口篭もりつつ言うと退散してしまった。
 同じ職場にいるからといって会社の全員と仲が良いわけではないように、同じ教師だからといって誰もが他の教師の気持ちが分かるわけでもない。苦手な人間は教師にも生徒にもいる。
 下手に嘘を吐いてしまったので、僕は鍵を借りて使いもしない印刷室へ一応足を運んだ。面倒臭いな、と思いつつ。


 白いふくらはぎを撫でるようにマッサージする。靴下は白い上履きに丸められてそっと入れられていた。青いラインの入った、二年生用の室内用シューズ。
 彼女はピアノの椅子に座って僕に足を差し出している。僕は跪いてその右足を自分の太股に乗せ、親指の腹でやわらかに押してゆく。それでも時々痛いところがあるらしく、できるだけ気持ちが良いだけにしてあげたいと望んでいるのだけれど、彼女の唇からは苦痛の声が小さく、小さく漏れた。
足のマッサージは慣れている。昔、よく恋人の足を揉んでやっていたからだ。社会人になってもあの人はバスケットを続けていた。けれども学生の頃と違い、それはストレッチやクールダウンを適切にせず、基礎体力をつけるためのトレーニングもなしでひたすらバスケットだけをやっているようなサークルだったので、彼女はよく僕に足のストレッチを手伝わせた。
 マッサージクリームを塗り込み、足の甲を伸ばし、足の裏をほぐし。
「こうやってあげてたの?」
「そう。あの人の筋肉はどちらかというと硬い方で、スポーツに向く筋肉じゃなかったみたいなんだ。でもバスケットが好きでね」
「先生はやらなかったの?」
「バスケット? うん、もう僕は中学で辞めちゃってた。吹奏楽でホルンを吹いていたんだ、そっちの方に興味が出てきちゃってね」
「ふうん。ねぇ、その人はそんなに私に似ていたの?」
「同じ顔だよ、同じ声だ、同じ魂……かどうかは分からないけれど」
 彼女は少し不服そうな顔をする。自分が誰かと同じだと言われるのが嫌なのだろう、その表情が僕を微笑ませた。
「僕が好きになったあの人と、同じ顔をしてる」
「先生の好きな人、綺麗だった?」
「鏡を見てご覧」
 素敵、と彼女が言った。椅子に座っているせいで、その声は僕の頭上から降り注ぐ。
 彼女を抱き締めてしまった次の日、何事もなかったように第二音楽室の鍵は開けられた。その次も、そのまた次の日も。なかったことにしてくれているのだろうかと思った四日目に、彼女は口を開いた。そのことについて。
 先生はどうして私を抱き締めたの、と。
 誰かに似ていたの、それは先生の過去形になっている恋人さんなのかしら、と。
 喋らないとずるい気がしたので、長い話になるけれど、と前置きしてから僕は話をした。彼女は黙って聞いていて、その日だけは第二音楽室からピアノの音がしなかった。
「健康そうな爪の色」
 僕は彼女の足を撫でる。彼女は嫌がらず、ペディキュアでも塗ってくれるの? とだけ言って笑った。足のマッサージの話をしたら、自分もしてもらいたいと言い出して、靴下を脱いだのは彼女からだった。来年で四十になるおじさんをからかうのが楽しいのかと不思議がったり、もしかして彼女は僕を好きになってしまったのかもしれないと勝手な想像に胸をときめかせたりもしたけれど、彼女の気持ちは分からないままだった。ただ、まき先輩には嫉妬のような、それでいて姉を見るような気持ちを抱いているらしい。
「他には? 他に先生の恋人さんだった人の話はないの?」
「なんでそう聞きたがるの」
「そういう年頃なの、人の恋愛話って楽しいもの」
「友達とすればいいだろう」
「駄目よ、友達となんてしたってつまらないもん、だってみんな子供みたいな恋愛しかしないのよ、憧れと恋と一緒にしちゃ駄目だってまだ知らないんだもの、そんな人達とは恋愛の話しないの」
「随分大人ぶって」
 笑ったら完全にむくれてしまった。
「先生、キス上手?」
「なにをいきなり……上手じゃないよ、それに君が生まれた時から今までと同じだけの時間、僕は誰ともキスしてないから、きっとものすごく下手になっちゃってるよ」
「ふうん、じゃあ先生、キスしようか」
 むくれさせた仕返しなのだろうか、彼女は僕を戸惑わせるように挑発的な顔をしてそんなことを言う。
「なんで上手じゃないと分かっているのにしたがる?」
「自分でキスが上手なんて言う人なんて信用できないから」
 彼女を少しずつ知るようになると、どこかまき先輩と印象が違った。運動は好きでも嫌いでもなく本を読むことの方が好きだとか、友達はそう多くないことだとか、まき先輩は年を重ねてもどこか子供っぽさを持っていたのに彼女はどちらかというと物言いだけでも大人びたものを好むところだとか。
 でも所詮は背伸びをしている子供だという強がりを全身から発していて、僕はそれに気付くたびにやさしい気持ちになる。
「先生をからかうのは感心しません」
「からかってないよ、私、先生のことからかってるの? からかってるように見える?」
「からかってるよ、来年四十になるおじさんをからかうもんじゃない」
「先生はおじさん? ちっとも見えないよ、まだ三十代に見えるもん」
「……まだ三十代だよ」
 そんなことよりキスしようよ、と彼女は誘う。唇もきっと処女のはずだ、そうでなければキスは雰囲気と相手を想うどうしようもない衝動に突き動かされないとしてはならない行為であると知っているはずだから、興味本位でキスをしようなんて言えるはずがないのだ。
 いいよ、と、それでも僕は答える。
 彼女にまき先輩の話をねだられる度にゆっくりと丁寧に話してしまうように。彼女にまき先輩の情報をすべて流し込んだら、記憶の眠りから覚めてまき先輩になるかもしれない、僕のくちづけで死人も目覚めるかもしれない、などと少女漫画さながらのことを少しだけ思ったりしながら。
 彼女の黒髪を縛っているゴムをはずす。髪はさらりと微かな音を立てるように肩のところで広がった。意思と好奇心の強そうな瞳に僕が映し出される。いけないことだ、と心のどこかで何度目だろう、警鐘が鳴り響く。
「嘘、本当は上手とか下手とかなんて分からないの……」
 ただ先生とキスがしたかっただけ、してみたかっただけ、と囁かれる甘い言葉に、酔わないでいられるはずがなくて僕は彼女との距離を縮める。開け放たれることを前提としていない第二音楽室の静かな空気がどうしようもない僕の熱で満たされてゆく。彼女がゆっくりと微笑んだ。
 重ねられた唇よりもふたりの間で押しつぶされた空気のほうがきっと甘かったことだろう。彼女の薄い胸が僕のシャツ越しに触れる、夏服は薄すぎて他のどんな洋服よりもいやらしい気がしてしまう。
 思わず腕をまわした、細い背中を力いっぱい抱きしめると忍び笑いのような切ないうめきのような、そんな声が彼女から漏れて、僕は狂おしい気持ちにさせられてしまい、余計に腕への力を込めてしまう。


 バッハのカンタータが流れる。パイプオルガンでは荘厳になりすぎるその曲達も、ピアノだとやわらかにどこか物憂げだ。
 彼女の指が意識を持った別生命のように旋律を刻んでゆく。音符はこぼれるように室内を満たす。
「先生、」
 たらららららたらららん、と、最後の音符達をゆっくりと弾き終わった彼女は、椅子の背もたれ側へ向いて僕に腕を差し出した。
「やって、」
「すぐに落とさないといけないよ」
「知ってる、」
「除光液の匂いがこもるよ」
「いいじゃないの、」
 先生、と、カンタータよりやわらかな声で呼ばれてしまうと僕の三半規管は甘く崩れ溶けてしまう。
 まき先輩が使っていたマニキュアは、十四年も前のものなので多少分離して固くなっていたけれど、そういうのは除光液を少し混ぜてやれば今まで通りに使えるようになるのだと、僕は彼女から教えてもらった。
「年代物のマニキュア」
 ワインではないので価値はまったくない、それでも彼女を喜ばせる桜色の小物。
「他の色はしなかったの?」
「まき先輩? しなかったね、あの人はオシャレの為じゃなくて爪の補強にマニキュア塗ってただけだから。綺麗な形をしていたけど、脆かったんだよ、爪」
「ボールが当たると割れちゃう?」
「まあ、それなりに。強いボールを受け損なったりすればね」
「わたしの爪と、どっちが綺麗だった?」
  まき先輩は不器用だったので、マニキュアを塗ってあげるのは僕の仕事だった。恋人的甘やかしだ、その話をしたら彼女も自分の爪にマニキュアを塗れとうるさく言った。一度やってあげたら今後もやってもらえるものだと思い込んだらしい。時々、ピアノの途中で僕にその作業をねだった。
「マニキュアした指でピアノ弾くのって好き。なんか手がいつもより綺麗に見える気がして」
「……君の手の方がまき先輩の手より綺麗だよ」
 甘皮をそっと押して指先を軽くマッサージして、小さな筆でマニキュアを塗ってゆく。彼女を喜ばせるための小さな嘘をつきながら。まき先輩と彼女と、どちらの手が綺麗だったかなんて僕にはなんとも言えない。
「本当?」
「本当」
「絶対に本当?」
「……君の手はピアノによく似合っているよ、しなやかで優雅だ、突き指なんて一度もしたことがないだろう、関節もまっすぐで、いつまでも触っていたい手だと思う」
「先生、演劇部にでも入ってたの? セリフっぽいよ、それ」
「演劇部に入ってたことはないけど、国語の教師はできるよ」
 国語って好きよ、と彼女が言ってくれる。でも音楽の方が好き、と付け足される。僕はマニキュアを塗ってやりながら彼女の声を聞いている。
「来月から冬服かぁ、ここの学校の制服って高いよね」
「もう全部揃えたの?」
「うん。コートも買っちゃった」
 ふうん、と僕は聞えるような聞えないような曖昧な呟きを返した。夏服のままでいるといいのに、と思ってしまう。白いブラウスからうっすらと透ける、まだ幼い胸を包んでいるブラジャーのピンク色が見える。紺色のプリーツスカートは冬も一緒なのだけれど、夏の方が断然活動的にそこから伸びる脚を美しく見せていた。
「先生の手、あったかい」
「男の方が体温高いんだろうね、女の人は冷え性の人が多いから。こら、まだ乾いてないからそんなに動かしちゃ駄目だ」
「いいよ、先生、先生は私のこと好き?」
「……なに、」
「好き? 私は先生のこと好きだよ」
「……ありがとう」
「ありがとうじゃなくて、先生は?」
 なんでそんなことを、と笑ってみた、茶化そうとしたからだ。でも上手くいかなかった。上手に僕は笑えなかった。
「先生、私に手を出さないんだね」
「手を出す?」
「セックス、……しないの?」
「なにを、」
 言うの、と驚いた声が出る。僕が驚いているだけで、世間の中学生達には大した単語でも意味でもないのだろうか、それは。
「……駄目だよ」
「なんで? わたしが子供だから?」
「そういうことを言い出されると、困るよ」
「どうして? ……私が先生のまき先輩じゃないから?」
「そうじゃない」
「じゃあ、重ねて見ちゃうから?」
「……違うよ、」
 否定の前に空いてしまった沈黙が彼女の表情を曇らせたことを、僕はちゃんと知っていた。でも、僕にも彼女をどうしていいのか分からなかった。性欲がないわけではない。彼女は中学生だけれど、別にそれが問題では――一般的に見れば問題なのだろう、自由恋愛だとしても犯罪になってしまう――ない。ただ、自分の気持ちがよく分からなかった。
「先生……、」
 マニキュアを塗ったばかりの手が、彼女の首元へ伸びる。ピアノの椅子から立ち上がり、僕に向き合う形で彼女の華奢な指が。
「なにを、」
 その行為の意味に気付いた時、彼女は静かに笑っていた。
 ひとつ、ひとつ、ブラウスのボタンが外されて、ゆく。
 彼女の手が震えていたのか、僕の目がかすんでいたのか、それともただ単に色あせたカーテンを揺らす風が僕らの間にも入り込んできただけか。
 最初は本当に意味が分からなかった。
 露わにされた、薄ピンク色のブラジャーはまだ膨らみの少ない彼女の胸を丁寧に包み込んでいて。
「……なに、を、」
 ブラウスが、脱ぎ捨てられる。
「先生、」
 目が、一点に集中してしまう。それも構わずに彼女はスカートのホックに手をかけた。
「いけない、」
「私の、」
「やめるんだ、」
「……名前をどうして呼んでくれないの?」
 どうして彼女はそこで微笑んだのだろう。僕はアルカデルトのアベマリアを聴いたような気がした。まだ五線譜がなかった時代に作られた、静かな教会音楽。あのハーモニーは今の彼女の微笑みにとてもよく似ていると、思った。
「先生、いっばい一緒の時間を過ごしていたりして相手が気になっちゃったりするのは恋ですか、それとも慣れですか」
 耳の奥が、アカペラのハーモニーで満たされている。
 誰かの視線を感じているように思えた、まき先輩なのではないかと僕は思った。笑ってしまいたかったけれど、上手く笑うことができない。先輩、もしも彼女が先輩なんだったらもうこんな悪戯やめてくださいよ、と笑いたかった。
 スカートのホックを半分だけ下ろして彼女がゆっくりと視線を上げる。そして大きく息を、鼻から吸った。その時、僕は彼女が時間をかけて瞬きをするのを、映画のスローモーションシーンのようにただ見つめていた。丁寧に下ろされた瞼が、また丁寧に開かれる。
 窓を震わすような叫び声が、次の瞬間僕の耳を劈いてそれはしばらく、やむことを知らないままでいた。

 きゃぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁああああああああああああっっっ!

 若い女の子の声だ、僕はただその叫ぶ人を目の前に立っている。
あまりの声の大きさに、感覚が麻痺したようだった。彼女の悲鳴を聞きつけてだろう、ざわめきの足音が近付いてくる。彼女は叫びながらどこか微笑んでいるようにも見えて、そのまま、僕に手を伸ばした。


 独身教師教え子に手を出す、昔の恋人に似ていたという理由で――などというニュースは新聞にも載らなかったしテレビでも流れなかった。その代わり、女子更衣室と女子トイレに隠しカメラを設置していた変態教師が捕まった。
 和原はずっとその変態教師から性的嫌がらせを受けていたらしい。そういえば佐島が彼女のクラスの副担任だったのを思い出した。
「週番でもないのに準備室に呼び出して、スカートとの丈とかねちねちねちねち言うの、それで太股触ったりしてきてたの、前の学校では知らないけどこの学校は個人的服装検査があるんだ、なんて言って。他の女子もみんなあいつ変態だって言ってたんだよ、休み時間になると女子トイレの前にべったりくっついたりしてて」
 そういう悪戯をされていたのは彼女だけではなかったようだった。何人かの生徒が同じような被害を受けていて、彼女は佐島が第二音楽室を覗いていることも知っていたらしい。
 あの日、彼女は叫び声を上げた後、僕に抱き付いてきた。言い逃れはできない現行犯逮捕だ、と観念していたのに、第二音楽室に駆けつけてきた数人の教師は佐島を捕まえていた。
 大丈夫ですか、の言葉に、彼女が泣き出す。佐島先生が、佐島先生が、とだけ繰り返して、僕の胸に顔を埋め、怖かったよぅ新垣先生、と泣き声で途切れ途切れにしゃくりあげた。演劇部はどっちだよ、と今なら彼女に言いたい。
 佐島の手にはデジカメが握られていて、そこには何人もの生徒のスカートを覗いた画像があったらしい。彼は僕と和原のことを喚き立てていたけれど、校内や準備室の机の中から隠しカメラだの写真だのが出てきて、彼の言い訳には何ひとつ誰も耳を貸さないままだった。
「あのおっさんにいなくなって欲しかったの、でも新垣先生好きなのは本当だよ」
「……それはどうも、」
 最近の女子中学生はこんなにも強いのだろうかと僕は呆れたような怖いような気持ちになってしまった。それよりちょこちょこと感じていた視線が佐島のものだったとは。天国のまき先輩の視線を良心が感じ取っている、などと勘違いしていた僕は大馬鹿者かもしれない。
「ごめんなさいだ……」
「ん? なにが?」
 なんでもないけどさ、と僕はため息をつく。あれから第二音楽室は使用されず――職員会議が連日行われたのと、精神的ショックを受けているはずだから、という理由で彼女がしばらくの間自宅待機になったからだった――、今日は合唱部が第一音楽室を使用しないので久々に学校へ出てきた彼女と職員会議から解放された僕はそちらのピアノを使わせてもらっていた。
 さっきまで弾かれていたのは別れの曲で、佐島に対するものだったら随分な皮肉だ、と僕は思う。
「なに? 私の顔、なんかついてる?」
「ついてないよ、それより曲の最後をゆっくりにする癖は直さないと駄目だよ、楽譜の記号にちゃんと従って。途中で感情的になりすぎる部分があるから」
「先生みたい」
「先生だよ」
「先生、キスする?」
「な……っ、」
  絶句させられた僕をおかしそうに見て、彼女が悪戯っぽく唇を持ち上げた。
「先生、私は誰に似てるって?」
「……君は似てない、誰にも似てないよ」
 まき先輩の生まれ代わりだとしたらとんだじゃじゃ馬だった。
「……誰かに似てなくても好き?」
 でも時々とてもしおらしい顔を見せる。それが演技だとしても、きっと僕は見抜けない。何を好き好んでこんなおじさんを、と思いつつ、でも僕も彼女自身に惹かれ始めている自分を認めないわけにはいかないので、その質問に対する返事はちゃんとしてあげようと、僕はその唇を奪うべくそっと、彼女に近付いた。






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