蒐集

by BAXX



 生きてはいない。つまりは死んでいるという状態が一体如何(どう)いう状態なのか。言葉の上では解ってはいるものの、それは畏(おそ)らく理解というものの範疇(はんちゅう)を大きく逸脱し、程遠い位置に居る事だろう。要するにそれは解っていない事と変わらない。だからそれが真実如何いう状態に在るものなのかということは解らなくても構わない。と僕などは思ってしまう。然し、僕達人間が幾ら構わない、如何でも良いと想った所で、哀しいかな人間はそれを判断する事が出来てしまうのだ。
 生きている 死んでいる
 死んでいない 生きていない
 これらの判断基準は一体何だと云われれば、それは主に呼吸であったり脈であったりと、様々な物理的要因、詰まる所、一般人で計り知れる程度の医学的知識、もっと云ってしまえば人間の生活範囲内の生と死の常識からである。然し、精神面から生と死を判断出来るかと問われれば、それは出来るような出来ないような、非常に曖昧模糊(あいまいもこ)とした応えしか出来ず、明確な回答は出来ずに返答に窮して閉口してしまうばかりである。だから本当の意味として、生と死を判別することは人間には不可能なのでは無いのだろうかとすら想ってしまう。肉体(ぶつり)的には死んでいたとしても魂魄(せいしん)は生きているやも知れぬのだから。
 だから実際僕達が本当に判別できることは有機(いち)か無機(ぜろ)か、その程度なのだろうと想う。
 そんなことを考えながら僕は自分の部屋を見渡した。
 もう幾つ在るのか解らない。
 数える気二もならないくらい
 壁は仮面でびっしり埋まっていた。
 別に僕は蒐集者(コレクター)ではない。だから勿論これらの仮面は蒐集物(コレクション)等では無かった。然し、棄てもせず部屋に飾ってしまっているのだからきっとこれらは蒐集物であり、僕自身、もうすっかり蒐集者なのだろう、と随分淡朦朧(うすぼんや)りと想っている。
 それにしても、仮面の表情、形式、面相は様々な物である。
 怒っているもの、笑っているもの、泣いているもの、困っているもの、激昂、微笑、号泣、困惑、在りと凡百(あらゆる)面体が其処に在った。
 半年前の事だ。家の郵便受けに普段は来ないような少し大き目の封筒が入っていた。差出人は解らない。僕は淡鬼魅(うすきみ)悪く思いながら、兎にも角にも封を切ってみようと思い至り、それを開いてみることにしたのだった。すると中には仮面が一枚。これは愈愈(いよいよ)鬼魅が悪かった。然しこれこそが僕とこれら壁一面の仮面の最初の邂逅(かいこう)であったのだ。勿論始めは随分と訝しんだし、誰かの悪戯であろうと高を括って居たのだが、徒(いたずら)に棄てる気にもなれなかった。昔から縫い包みだの傀儡(かいらい)だのというのは人の面体を持つが故、魂を持つ、命が宿ると云われ続けて来た。だから無闇に棄てれば祟る。そうも云われている。ならば仮面も吝(やぶさ)かでは無かろうと判じたが滅多矢鱈に御炊上(おたきあげ)に出してしまうのも何だか畏ろしかった。そうして思案しながら、何と無く仮面を凝視してみたのだが、これが拙(まず)かった。
 ほっそりとして、ゆるりとした曲線を描く様に垂れ下がった眼、微笑む程の大きさにしか見えぬのに、にんまりと笑った口、笑い皺からぷくりと膨らんだ頬、まるで阿亀(おかめ)の様な面体にも拘らず、日本のそれとは大いに様式の異なったその面には実に愛嬌が在った。
 そして壁に架けてみると、それは随分と具合が良かった。要するに気に入ってしまったのだ。何とも単純なものである。
 そうこうしてあくる日を迎えると、郵便受けには前日同様また封筒が入っていた。封も同じならあば中身も同じ。当然の如く中には仮面が入っていたのだった。が、然し今回のは前日のとは違っており、表情も違えば形式もまた異なった物だった。それに加え、その日のそれには前日には入っていなかった手紙が同封されていたのだった。手紙といっても、本当にそれが手紙であると断言して良いのかと逡巡してしまう様な実に小さな紙切れである。そして文面にはたったの一言
 『御気ニ召サレタデシヤウカ』
 僕はそれを読み仕事場の女性達の顔を愚相した。きっと僕のことを好いていてくれる娘が居るのだろう。昨今女性は強くなったと言われるが、恥も恥じらう奥ゆかしきも世に残ろうなどと勝手迷妄するに至ったのだ。それならば宛名が無くとも頷(うなず)けよう。然し哀しい哉(かな)、反面己でも気が付いていた。それは臆病にも薄鬼魅悪く、物好きにも仮面に興味を持った僕のそれが有らん限りの言訳だと。要は仮面が欲しかったのだ。そうしてその日の仮面も案の定僕は壁に飾った。
 それからというもの、仮面は殆(ほとん)ど毎日のように家に届いた。然し手紙が同封されていたのは後にも先にもあれが最後である。今日も仮面は送られてきたが無論手紙は入っていなかった。
 然し一体誰が何の為に。
 その疑念は消えることは無かった。
 流石に鬼魅が悪い。とも想う。
 それでも──
 仮面を飾ることは辞めなかった。
 それならばやはり僕は蒐集者(コレクター)である。
 それにしても仮面とは不思議な物である。それは明らかに無機物であると判断出来るにも拘(かかわ)らず、実に有機的な『表情』というものを感じ取ることが出来る。その眼からは時に、視線すら感じてしまうような事さえある。
 先刻夢想した通り、僕ら人間は有機と無機の判別が出来る筈であると僕は想っている。
 有機と無機は裏と表。凡(およ)そ逆さの物であると想う。然し仮面にはそれらが混在している。ならばそれは有機か……無機か……。
 矛盾の紡ぐ魅力
 その不可思議な魅力にすっかり憑かれてしまった僕は、今日届いた仮面をまた──
 ──壁に飾ることにした。

                    *

 十月十日。本日モ定刻ヨリ鑑賞会ヲ開始。男ハ居ナカッタ。何処ニヘカ出掛ケテイル様子。午後八時半。男帰宅ス。湯ヲ沸カシ始メル。『トランジェスタラヂオ』ノ電源ヲ入レテ『ダイアル』ヲ廻ス。如何ヤラ『アンテナ』ノ周波数ガ巧ク合ワヌ様子デ、不快ナ音ヲ發テルラヂヲニ大分苛(いらだ)ツテイルヤウダ。暫(しばら)クシテ男ハラヂヲヲ諦メ電源ヲ切ルト、頃合良シトバカリニ湯ガ沸イタ。藥缶(やかん)ノ蓋(ふた)ガカタカタト鳴ツテイル。男ハ瓦斯焜炉(がすこんろ)ノ火ヲ止メ、茶ヲ入レルト、燐寸(まっち)デ煙草ニ火ヲ点ケ茶ト一緒ニ呑ミ始メル。ソシテ男ハ自分ノ坐ツテ居ル右横ニ置イテ在ル紙包ヲ取リ、中ヨリ雑誌ヲ一冊取リ出シテ読ミ始メル。午後八時四十五分。雑誌ハ随分ト如何(いかが)ワシイ雑誌ダ。読ミ耽ル事十分。時刻ニシテ午後八時五十五分。男ハ何憚(はばか)ル事無ク、自慰行為ヲ開始シタ。男ノ表情ハ苦悶ニモ似タ快樂ノ様相ヲ体シ……──

                    *

どくどく
  どくどく
 心臓の音が妙にはっきりと聴こえる。
くすくす
  くすくす
 何処かで嗤(わら)い声が聴こえた。心音と嗤う音が不均衡に混じり合い、実に不愉快な旋律の調和をみせる。
 故に、気持ちが悪かった。
 だが、気持ちが悪いのは安にその所為ばかりでは無い様だ。
 何だかぐにゃりとした寒天状の液体とも個体ともつかぬ様なものが僕の躰を覆ってある。
 ああ、夢だ。
 漸(ようや)く其処に想い至る。そしてすっかり眼を閉じている自分を認識する。
 夢ならば……
 そう、夢ならば閉じた瞳を開けば済む筈だ。夢は終わる。
どくどく
  どくどく
くすくす
  くすくす
 この不愉快な音も感触も、皆消えて無くなる筈だ。
 だから──眼を開く。
 部屋がぐにゃりと寒天のように歪(いが)んで居た。
 嗤い声は大きくなった。
 心音は早く、とても速くなっていた。
 夢は終わってなんかいなかった。
 是(これ)は現(うつつ)だ。
 夢では無い。
 必死で辺りを探り、至る所を手で掴(つか)もうとするが、皆ぐにゃりぐにゃりとまるで蒟蒻の様に僕の手から逃げて行く。
 僕を覆っていた不快なものは、僕の部屋だったのだ。
 生き物のように蠢(うごめ)く部屋の壁、壁に飾られた仮面達もまた歪んでいる。
 仮面の眼は燐燐(りんりん)と輝いている。
 視(み)ている。
 観られている。
 止めてくれ。視ないでくれ。観ないでくれ。
くすくす
  どくどく
 止めてくれ。嗤わないでくれ。
 ──。
 違う。部屋じゃない。歪んでいるのは僕の部屋なんかじゃあない。
 真実歪んでいるのは
 僕の心臓だ──
 ──其処迄が夢だった。
 僕は今眼が醒(さ)めた。
 東雲(しののめ)の光が窓から入り込み僕を刺している。もう部屋は歪んでなんぞいなかった。何時もの通りの僕の部屋だ。布団は寝汗でじっとりとしていたが、それ以外は何も変わらない。何時もの通りの僕の部屋だった。
 昨日の晩は早く寝た。仮面を飾って風呂に入ったのが十時半。日の出方からみても畏らく今は大分早い時刻であろう。
 時計を探す。
 見当たらない。
くすくす
 笑い声……
 慌てて辺りを見廻す。
 何も無い。誰も居ない。
 気の所為だろう。
 気が付くと心臓はどくどくと早く蠢いていた。
 これじゃあ夢と変わらないじゃあないか。
 僕は不愉快な気を晴らす為、外へと出かけることにした。

                    *

 あらぁ、お久し振りですわ。お元気でいらっしゃいました?あら、そうですの。そう謂えば最前からお顔の色が余り宜しくないようですわ。如何(いかが)なされたのかしら?
 夢?どんな夢を?
 まぁ、何て畏ろしい事かしら。厭な夢ね。それで今迄散歩をなさって?そうですの。でもそんなに歩いてらしたらさぞやお疲れになった事でしょう?ああ、それでこちらへ。何か飲み物でも頼むといいわ。
 所で、今日のこれからの予定は如何なさって?お体の加減が宜しくないのでは下手に動きたくはありませんものね。いえいえ、別に何でもありませんわ。また今度具合の宜しい時にでも……。え?いえね、実は私(わたくし)行きたい所があるんですの。でもとても一人では……。実はサァカスに行きたいのですが、お相手してくださる方がいらっしゃらなくて。そうそう、半年程前から興行を打ち始めた。前々から行きたい行きたいとは思ってたんですけど……。でもまた今度に──え?本当ですの?そんな、でも、宜しいんですの?お体の調子の方もおありでしょう?そうですか。それではお言葉に甘えることに致しますわ。ああ、嬉しいわ。それならば今晩七時に件(くだん)のサァカスのテントの前で。
 ではまた後ほど──。

                    *

 朝の不愉快な夢を見て外に出てから、もう五六時間は裕に過ぎていることだろう。もうすっかり日は高くに昇っている。何時までもふらふらと歩いていた所で詮も無い事は知れていた。それでも如何にも自分の部屋に戻ることは憚られた。今帰ってはとても厭な気持ちになることは目に見えていたからだ。そうして如何しようかと考えあぐねた末に馴染みのミルクホールへ行くことにしたのだった。
 其処は馴染みとは云うものの、もう最近はめっきり足を運ぶことも少なくなり、店からみれば何ヶ月か振りの来店ということになる。今更馴染みもへったくれも無いものだとも思う。
 店の中は少しだけ混んでいて、気分も手伝ってか妙に息苦しく感じられた。そうしてそう大きくもない店を、少しだけ歩いて座席を物色していると、顔見知りの婦人が居た。婦人は目が合うとこれもまた少しだけ吃驚(びっくり)した表情を見せてから私の方へと近付いて来た。
 「あらぁ、お久し振りですわ」
 婦人が妙にわざとらしく言ったのが気になったが、別段如何する事も無く、何と無く世間話がてらに今朝から今迄の経緯を話してみた。
 この婦人、殊(こと)に仲が良い友人という訳でも無く、以前この店によく来ていた頃の唯(ただ)の顔馴染だ。目尻の一寸(ちょっと)吊り上がった、中々いい女である。然し残念なことに──と言って良いのかも解らぬが──名前以外は何も知らない。 年齢は愚か、既婚者なのか独り身なのかさえも知りはしない。然し服装やら装飾品から見るに、ある程度の家柄であるように見受けられるがやはりこれも推測の域を出はしない。
 そんなことを淡朦朧(うすぼんや)りと考えながら会話をしていると、話は何時の間にか『今日のこれからの事』に変わっており、少し慌て気味に話を合わせた。如何やら婦人は私を何処かへ誘おうと思っているらしかったが、僕の体調を気にしてか話を止めようとした。こんな事になるなら朝からの話なぞするのじゃあ無かったと、やや後悔したものの取り敢えず会話を繋ぎとめた。如何やら婦人はサァカスへ行きたいらしかった。現金な物だ。僕の今迄の不快感は払拭された。こんないい女に誘われたとあらば断る理由は無い。だから一も二も無く二つ返事で誘いを受けることにしたのだった。婦人の行きたがっているサァカスというのは半年程前に興行を打ち出した、この辺では一寸有名なサァカスだ。半年前も同じ場所でやっているのだから人気があるのだろうと想う。僕も話しだけは聞いた事が有った。そうして午後七時にサァカスのテント前と約束し、婦人は店を出て行った。
 それを合図するように頼んだ珈琲が卓上へと運ばれてきた。
 そさくさとコーヒーを飲乾し、僕は自分の部屋へと帰ることにした。
 帰り道、ミルクホールの珈琲の味が何時までも口の中から消えることがなかった。

                    *

 七時を過ぎた。
 外はすっかり日暮れて、風が少しだけ出始めていた。もう十月ともなると流石に外気は寒い。
 ひょおう
 薄手の外套(がいとう)の襟を立てる。
 テントの前には働き蟻が如く行列がすっかり出来上がって居た。然し、不思議なもので蟻のそれとは違い、列の楔(くさび)の一つ一つ、一人一人、表情や面相が見て取れる。こうも十把一絡げとなってしまっては判別出来そうも無いものだが、意外と解るものである。
 まるで僕の部屋の仮面の様である。
 漠然とそう想った。
 然し、生きた仮面達の群れに婦人の姿は無かった。
 もう三十分も過ぎている。幾ら何でも遅かった。すっぽかされでもしたのだろうか。
 「サァサァ、いらはい、いらはい」
 そうこうしている内に如何やらサァカスは開幕した様子だった。テントの入り口の方で一寸法師が呼び込みを叫んでいた。これだけの列を目の前にしての呼び込みは、一体意味が有るのか無いのか、甚(はなは)だ怪しいものである。

 サァサァ いらはい、いらはい
 そこな御婦人
 サァカス団がやって来たよぉ
 一度御覧になっては如何です
 希代の魔術師達に到来、大マヂックショウ
 吾(わ)がサァカス団が誇る随一の格闘家が戦いますは百獣の王たる彼の獅子(ライオン)にござぁい。さても畏ろしき大決闘
 さて、畏ろしき心地の御後のお口直しおば、露西亜(ろしあ)より来る金髪美人娘のエロティックレビュー
 そしてそして、今宵の目玉
 駅なぞは語るは涙聞くも涙、見るも哀れな当代切っての奇異なる生き物
 傀儡娘(マネキン)のサクラで御座い
 手も足も無く
 在るは頸(くび)と胴と謳(うた)
 サクラが唱うは哀しき郷里の唄に御座います
 如何か聴いてやって下さいましな
 いらはい いらはい

 呼び込みの声に合わせるように蟻の群れのような人の群れは皆、テントの中へと吸い込まれて行く。これを見ていると呼び込みも意味があるのかと想ってしまう。そうこうしている内に人の群れは遂に皆テントの中へと姿を消した。それでも婦人は来なかった。
 「旦那は御覧にならないんでやすか」
 そうして僕が特に興味も無く惚けたように人の列の在った場所を眺めている、不意に後方から声が在った。後ろを振り向くが誰も居ない。
 「旦那、此処です。此処で御座いやすよ」
 声の方角に合わせて一寸下を見ると、其処には先刻の呼び込みの一寸法師が居た。
 「申し訳御座いやせん。あたしがこんな身なばっかりに少し驚かしちまったようでやすね」
 こんな身とは一寸法師のその身丈の事であろう。声などは大人のそれと何も変わらないのに身長だけが異様に小さい。聞けばそうした病があるという。医学に明るい訳ではないから詳しくは知らない。
 「所で旦那はサァカス御覧にならないん御座いやすか」
 そういえばこの一寸法師は最初からそう僕に尋いていた。
 「いや……」
 何と応えて良いかも解らず、中途半端に口篭(くちごも)るようにして返答すると、一寸法師はそれを察してか無視してか言葉を進めた。
 「あたしはね、こんな風に呼び込みなんざぁして居りやすが、一応このサァカス団の団長なんでやすよ。今日も満員御礼。嬉しいじゃあ御座いやせんか。だからね旦那、嬉しいついでに旦那の分の料金、今日は戴きやせん。ですから見てって下せぇな。それでもし、気に入ってくれたんなりゃあ話は早ぇ。今度は御足を払って見にきて下せぇな。如何でやす。こりゃあ見なきゃあ損でやしょう。それにねえ、旦那……」
 一寸法師は随分と野卑た口調でそこまで捲し立てると一旦語を止め、含んだ。そしてやけに湿度の高い視線でじっとりと僕を見かけてから語を続けた。
 「実はね、此処はサァカスだけじゃねえんでやすよ。別に隠すような話しじゃあねえから云っちまいやすがね。此処にはね、あたしの蒐集物(コレクション)が展示してあるんで御座いやす。それが如何したってお顔なさってやすがね、これが驚いた。評判が良いんでやすよ。だからね、あたしが自分で云っちまうのもなんでやすが、そちらの方も一見の価値が在ると想いやすぜ。旦那」
 一寸法師はそう云い終わるや否やひょこひょこと妙な足取りでテントに向かい、早く来ねえと幕ぅ降ろしちまいやすぜと言って私を急き立てながら中へと消えていった。
 「蒐集物……」
 気になった。
 婦人は如何する。
 待つべきか、待たぬべきか。
 喩(たとえ)ばもし僕が此処で待っておらずとも、居なければテントの中へと来る筈であろう。僕ならばそうする。ならば中に居るも外に居るも一緒……。
 僕は己の中で妙な小理屈を必死で捏ねる。本当は先刻の一寸法師が云っていた蒐集物が気になって仕方が無いのだ。そんな事は己のことであるから良く解った。それでも少しでも自分の仕様としている行為が正当な行為であると言える理屈が欲しかったのだ。縦令(たとい)そんな事が無意味なことであると解っていても。人の性(さが)だろう。
 そうして僕は漸(ようよ)うとテントの内へと足を踏み入れた。
 ばさり
 同時に布のはためく音がした。入り口の幕が降りたのだ。音を聞いた瞬間、もう婦人のこと等如何でも良くなってしまったような気分になった。
 如何やら僕は今日の最後の客に選ばれてしまった様だったから。

                    *

 「さぁて、皆様、幻想との再会の門、我等サァカス団の送る取って置きのショウ『Cardinal night(緋い夜)』へようこそ。本日最初にこの舞台(ステェジ)へ上がりますは、当代切っての腕利きマヂシャン。現実と空想の混在する幻想の世界を、とくと御堪能あれぇ」
 サァカスはまるで僕の都合とは関係無しに始まってしまった。無論そんな事は当たり前の話しで、何十人何百人と客が居る中、その中のたった一人の客の為に開幕時間を変えるサァカスなどでは商売として立ち行かなくなってしまう事必至だろう。
 司会進行は先刻の一寸法師だ。今舞台ではマヂックショウが行われているらしい。
 興味が無かった。
 手品などという物は、如何に奇術の魔術の秘術の等と騙(かた)れど、所詮は何(いず)れもタネの在るもので、蓋を開ければ何の大した事は無い。届いた歳暮の匣(はこ)を如何に興味を持って期待せども中身は絶対に変わりはしないし、蓋を開いてしまえば中身には大抵落胆する。それは匣を開けずに置いておく事によって起こり得る、現実の枠組みを超えた想像が織り成す奇異なる魅力と好奇心による幻想だ。手品はこれと一緒だ。だから興味があって初めてその幻想は成立する。だから興味の無い僕などは……。
 はぁ……
 思わず欠伸(あくび)が漏れた。そして此処に訪れたことを少しだけ後悔した。婦人に誘われたのを良い事に、妙な期待などして……
 とんとん
 そんな事を考えていると、その僕の気持ちでも汲み取りでもした物か、不意に後方より肩を叩いて僕を呼ぶ者が在った。
 「旦那」
 振り向くとそこには先刻の一寸法師。如何やら暫(しばら)く出番が無いようだ。一寸法師が云うには舞台の袖から観客席に来れるのだそうだ。如何したのかと尋(き)くと、一寸法師は掠れるような声で喋り出した。
 「旦那は如何やら相当眼が肥えちまっている様でやすね。へっへっへ。こんな陳腐なショウなんかじゃあ満足出来ないと見える。ここは一つ──」
 一寸法師は妙に太短い右手の親指で舞台袖の方を指差した。
 「あちらであたしの蒐集物の方を御覧になさりやすかい」
 一寸法師は下品な顔つきでにやりと笑った。
 興味が湧いた。
 何か得も謂われぬ好奇の念が津波のように騒騒と心中を駆け抜けた。僕の頭の中で先刻の匣の定義が中て嵌る。だからきっと見てしまえば何の事は無い。大した事は無い筈だ。然しそれでも、興味が湧いた。期待してしまう。期待してしまう。ならば、ならば……
 「それじゃあ行きやしょうか」
 如何やら僕は自分でも気付かぬ内に返事を返してしまって居た様だった。

                    *

 カツリ カツリ
 跫(あしおと)の妙に響く場所だった。
 本当にこれがテントの中なのかと疑いたくなる程だ。
 疑いたくなるのはそれだけではない。
 辺りは瞼(まぶた)を閉じたが如くの暗闇だ。
 だから前を向いて歩いているつもりでは在るが、真実それが前を向いて歩いているのか如何かも解らなくなる。時折、自分が歩いているのでは無く、背景の闇が僕の歩調に併(あわ)せて蠢(うごめ)いているのではないかという錯覚さえ覚える。
 「あの部屋でやすよ」
 不意に一寸法師の下卑た声が聴こえて、其処で初めて一寸法師と一緒に居たような感覚を認識する。そしてその言葉を受けて部屋を探すが、何処を探しても闇ばかり。かろうじて辺りの闇より少しだけ深い闇になっている場所を見つけたが、本当に其処でよいのだろうか。其処には一寸法師の気配も感じられた。ならばやはりあっているのだろう。
 「この、部屋……」
 特に意味も無く語を紡ぐ。
 「そうで御座いやす。こちらにあたしの蒐集物が眠っておりやす」
 がちゃり
 僕が示唆(しさ)した場所とは少し違う所で扉が開く。
 きっとそれは、開けてはならぬ戸だ。
 そう想う。
 それでもむくむくと興味の感触が僕の胸で膨張するのを止められない。
 「こちらへ」
 一寸法師が云った。
 そして歩を踏む。
 部屋──真黒だ。
 何も無い。唯の暗室。
 何だ、やはり大したことなど無かった。それどころか、この室には何も無い。きっと僕は騙されたのだ。匣の蓋はやはり、幻想という名のオブラートに包んだままが良かったのだろう。僕は酷くげんなりして少し憤りを見せて一寸法師に語を向けた。
 「何だ。この部屋には何も無いじゃあありませんか。君は僕を莫迦(ばか)にしているのかね」
 すると一寸法師は吐息の感覚だけでにやりと厭な嗤いを浮かべて云った。
 「おやぁ、旦那にはアレが見えませんかね」
 云われて僕は、ゆっくりと具に部屋を見渡した。そして同時に全身を耳にしてあたりの気配を聞き取った。
 はぁはぁ……
 ぶつりぶつりと部屋には無数の小さな穴が開いていた。そこから漏れる光、生活臭、そして吐息。
 「これは……」
 「しっ」
 僕が言葉を発すると、一寸法師は黙るようにと牽制(けんせい)する。そして殆(ほとん)ど吐息のような掠声で

 ──覗いて御覧下さいやし

 と云った。
 僕は腫れ物に触るが如く実にそっと穴に己が瞳を近付けた。
 眼球がゆっくり光を認知する。
 その速度に併せるように脳内で色彩が弾ける。
 そして脳が次第に躰に恍惚を走らせる。
 漸く視点が定まり、穴の中の空気や背景を視認出来るようになり始め、僕は目睫(もくしょう)に広がる壮絶な光景をやっと理解するに至った。
 酷く長い一瞬だった。
 それはきっと、僕自身が理(ことわり)を解することに対して起こした拒絶反応。
 穴の中には見てはいけない日常があった。
 日常風景
 座卓(テーブル)
 箪笥
 電気スタンド
 普通の部屋
 そして
 普通のベッド
 そのベッドの上には実に普通の肌色のモノが二つうねりを上げている。
 婦人だった。僕と待ち合わせの約束をしたあの婦人が、見知らぬ男と交わっている。
 何だ、始めから婦人は約束通り待ち合わせの時間には来てたのじゃあないか。
 場違いにそんな事を想った。
 はぁはぁ……
 婦人の吐息が何故か酷く近くで聞こえる。
 僕は視線を外せない。
 そして
 ある種絵画的にも見えるベッドの上の肌色は
 僕を見た。
 眼が合った。視線と視線が交差する。
 婦人は見られていることを識(し)っている。
 「これがあたしの、蒐集物で御座いやす」
 一寸法師の言葉で、僕は崩れた。
 気が狂ったように、部屋にある無数の穴という穴凡てを覗いた。
 様々な部屋
 憚(はばか)りへ行く者
 料理をする者
 ラヂヲを聞く者
 煙草を吸う者
 様々な人
 様々な日常が其処にはあった。
 この暗室には

 他人の感情が蒐集されていた。

 そして最後の穴を見る。
 誰も居ない。
 見覚えのある部屋。
 部屋の壁は沢山の仮面で覆われていた。
 僕の──部屋だ。
 そして、僕の視線は僕の覗いている穴の、丁度向かいにある仮面から発せられていた視線と交差した。
 そうか、其処から見ているのか。
 僕は何故だか急に自分の部屋に帰りたくなり
 気が付けば脱兎の如く暗室より駆け出していた。

                    *

 僕が部屋に戻ると、其処には何時もと変わらぬ日常が待っていた。ベッドも箪笥も壁に飾られた仮面達も何一つ変わらない。
 ぐるり
 唯違うのは、部屋には今まで無かった無数の視線が棲(す)んでいた事だけだった。
 湯を沸かす。
 僕もこの部屋に見合った日常を装うためだ。
 トランジェスタラヂヲの電源を入れる。
 巧(うま)く電波が入らない。
 苛苛(いらいら)した。
 だからラヂヲを止める。
 日常だ。
 茶を煎れよう。
 そして落ち着こう。
 これから起こる事の興奮から震える手で燐寸を擦る。
 やっとの想いで煙草に火を点(とも)す。
 時計を見やる。
 八時四十五分
 サァカスから帰って来る途中、慌てながら雑誌を買った。
 今、八時四十五分に、雑誌に手をやる。
 どくり どくり
 ぐるり ぐるり
 見ている。観られている。
 ぐるり ぐるり
 ぞくり──
 そうして僕は、蒐集者の蒐集物の一つになった。






UP


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