葬儀の日

by 茶封筒



 宗佑おじさんが死んだ。五十四歳だった。
 宗佑おじさんは長女である祖母の最後の弟で(祖母の兄は病気で死に、あとの何人かの弟は戦争で死んで。祖母のたったひとりの妹は二度目のお産の際に死んだのだ)。静かで大人しい性格の人であった。イギリス文学を愛し、砂糖とミルクの入っていないコーヒーを四六時中飲んでいた。(彼の死の原因である胃ガンは、それが原因なのかも知れない)
 彼は。習慣なんだ、と薄い唇を横に広げる形にすると、いつもたいていは黒くて甘みのないコーヒーを飲んでいた。そして、傍らの妻を心の底から愛していた。髪の長い、線の細い、歳を取ってもいつまでも体型の変わることのない若々しい妻。彼女はおひな様の三人官女の真ん中によく似ていた。昼間のカーテンみたいにゆれるように笑う妻。
 妻の名前はゆかこおばさんと言った。彼女の子宮はハート形をしていて、下側が尖ってしまっていて。子供が宿らない体なのだと、祖母がかつてなにげなく漏らしたことを聞いたがある。そんな症例があるのかどうかは別として、確かに、ゆかこおばさんには子供ががいなかった。
だからだろう。小さな私は祖母に連れられて、宗佑おじさんの家にやってくると。ひどく歓迎を受けた。宗佑おじさんは滅多に楽しそうにすることのない表情をやわらげ、私の傲慢なそぶりをひどく面白がった。積み木の、円形のにんじんを切ったような形だとか、三角柱や三角錐、菱形なんかが私は大嫌いだった。あれは、積み上げて何かを形作るにはあまりにも向いていなかった。うまくいかずに積み上げたそれらをなぎ倒すと、ゆかこおばさんは新しい新居の真新しい柔らかい木の、フローリングが傷つくと悲鳴を上げたが、宗佑おじさんは逆に大喜びした。
 いいぞ、いいぞ。もっとやれ。 
 私は手を止めて宗佑おじさんを思わずじっと見つめてしまった。
 宗佑おじさんの口角は、そんなとき見たこともないほど上にあがっていて。ゆかこおばさんの目と口は醜い皺をつくっていた。
 でも宗佑おじさんは気がつかない。

「中学の制服は便利ね」 
 喪服がいらないもの、と母が私の耳あたりのほずれた髪を撫でる。髪は母と私と、黒いゴムで縛ってまとめた。モスグリーンで構成されたブレザーの制服は、多少葬儀の場には場違いな気もしたが、黒だけの喪服よりもおそらく私に似合っていただろう。古い家の中で、母の細い眉が目の前を忙しそうに移動する。時折現れては、その前髪をピンで留めなさい、だとか。おとなしくしてね、だとか。言ってはまた消え去る。
 祖母もまた長女で喪主であったから、同じようにぱたぱたと忙しそうにしていたが、急に私の座る小豆色の座布団の前にくると。すとん、と座った。 
「どうしたの?」
 私が言うと、祖母は丸い背をさらに丸めて静かに押し黙った。それから、少し口元をかみしめて。私を見た。そして、祖母は私を大きく、見据えた。
「宗佑はさやちゃんのことが可愛くて仕方がなかった」
 と祖母は普段は重い瞼の中に隠れている黒々とした黒目の部分で言った。私は、もちろん知っている。と思った。
「わかってる」
 祖母は深く頷いた。しっとりした絹の黒い着物の上の、膝の上に手が置かれている。
「宗佑は沙耶ちゃんのことが可愛くて仕方がなかった。ゆかりさんに子供ができなかったから。さやちゃんが来るとどうしょうもなくなってしまった。さやちゃんが可愛くて仕方がなかった。……だからね、難しいと思うけど。送り出してやりなさい。それが後に残されたものの役目だからね」
 祖母はそれだけ言うと、すっくと、年に似合わない力強さで立ち上がり、母やら親戚の女を手伝いに、また挨拶をしにか。さっさと行ってしまった。
 すとんと、ふすまが閉まる。
 祖母は、私の。二回目のわかっている、を待たなかった。

 ゆかこ叔母さんは、私の我が儘に。大抵いつもほとんどうんざりしていた。いつも。
 たとえば。タイヤでできた重くて高い位置にあるブランコは足で漕ぐことができなくて、押して欲しいと、他の大人達がしてくれることを当然のように頼むと。どんな形をしてもブランコなのだから自分で漕ぎなさい、といってまったく相手にせず。でも、他の大人達のように日陰でベンチに座って見ている、ということもまたなかった。足の届かないブランコを、いかに自分で漕いで楽しむか、ということを私がやろうとしているところを、太陽の下のぎらぎらした場所で白い肌に汗を流しながら、じっとそれを監督していた。そしてまた、そうしたときに、諦めて私が他の遊びをしようとするのを、ゆかこおばさんは全く許さなかった。それでも、どうしても足のつかないブランコを人で遊ぶのが無理だと物理的に何度も試して解ったと言い、私が別のところに行きたいと、何度も頼むと。ゆかこおばさんは、ふん、とひとつ鼻を鳴らして言うのだ。
 だらしないわね。
 お人形さんみたいな顔で、ひどく下品にそういうと。じゃあ次は何で遊ぶの、と私を問いつめた。ままごと、などと安易な答えも、ゆかこおばさんは許さなかった。鉄棒、滑り台、登り棒、などという答えを好んだ。でも、いつも綺麗な高そうなスカートとパンプスを彼女ははいていて。こんな格好じゃ無理なのよ。わかるでしょう、と微笑んで。けして一緒にそれらをすることはなかった。でも、共働きを続けたがった母や年老いても看護婦を続けた忙しい祖母に変わって、主婦であるゆかこおばさんが私の面倒を見ることを断ることは、まったくなかった。祖母や母がときおりそんなゆかこさんに、迷惑ならべ別の所に預けても全く構わないのよ、とゆかこおばさんに提案したりすることもあったが、ゆかこさんはがんとして、私子供が大好きですし、さやちゃんのことが好きだし、実際うまも合うんです、などと言って。受け付けなかった。
でも、確かに私も。私もまたゆかこおばさんのことは嫌いではなかった。むしろ思い出せばあまり良い思い出がないはずなのに、どちらかといえば私はゆかこおばさんのことが好きだった。
 宗佑おじさんよりもずっと。

「お棺に入れる本は、さやが選んできなさい」
 ずいぶんお世話になったのだから、と父が言い。私は宗佑おじさんの書斎のいかつい本棚の前に立つことになった。宗佑おじさんのいかつい本棚は、それに相応しく埃の溜まりやすそうないかつい本ばかりだったが。ちっとも痛んだり埃がたくさん積もっていたりしなかった。どれも古めかしかったが。どれも同じようにひとつも痛んでいないケースと、本と、中に皺のないしおりまでが、きちんと納められている。
 宗佑おじさんの大事な本達。
七歳の頃、私はこれらで自分で育てた朝顔の花の押し花を作った。分厚い本の間にティッシュをひいて。そっと朝顔を置いて。本を注意深く閉じる。少しでも間のティッシュだとか朝顔がおれてしまったらたちまち台無しになってしまう。それをしないように、厳粛にそれらを行うことが、私は妙に好きだった。できあがった押し花よりもずっと。
 高い本に朝顔の花の染みでも付けたらどうするの、落ちないのよ。
 とゆかこおばさんは怒ったが。宗佑おじさんは、静かに首を振っただけで。私にそれを全面的に許した。冷たい木の床の上にふたり、宗佑おじさんとあぐらをかいて。作業した。胡座のかきかたを私に教えたのも宗佑おじさんだ。
 そうじゃないだろ、こっちにこちら側の足を上にするんだ。
 胡座をうまくできない私を、おじさんは世にも楽しげに見つめていた。
「さやちゃん」
 振り返ると、ゆかこおばさんだった。黒い髪をひっつめて、黒いワンピースを着ていた。細身のゆかこおばさんにはとても似合う。このひとは洋服を着こなすのが実にうまい。
「あのひとのお棺に入れる本決めた?」
 まだ、と私が首を振ると。ゆかこさんはただ頷いて見せた。
「なんでも変わりゃしないわ。死んだ人のお棺に本なんか入れたってそれが死んだ人の魂についていくなんて、有り得ないもの」
 ただの気持ちよ、気持ち。
 ゆかこさんはそう言って、また部屋を来たときと同じくらいあっさりと出ていった。
 しばらくして私は、いかつい本棚の中からはっと目に付いた二冊だけ本を抜き出して。その部屋を後にした。宗佑おじさんの愛した本棚。

「神秘の島にしたの?」
 そう、と私は母の言葉に頷く。神秘の島。上下巻。ジュール・ベルヌの馬鹿馬鹿しいほど現実味のない、とても明るくポシティブな漂流生活をえがいた本だ。もっと難しい本にすればいいのに、という顔を母はしながら。さやちゃんが選んだならきっと宗佑おじさんもお喜びになるわ、などと言った。
「さやちゃんの思い出がいっぱい詰まっているのですものね」
 と母が言い、すぐに近くの親戚の所に話をしに行ってしまった。
 私は遠くにいるゆかこおばさんを見る。ゆかこおばさんは泣いてもいなければ笑ってもいなかった。ただ、おひな様の真ん中の三人官女みたいに静かに人々の中でそこにいた。誰かと話している。これっぽっちも揺れずに。
 ふとぼんやりしているあいだに、出棺することになったようだった。言われたとおりに、生の花を人々は入れていく。生の、美しいひとつの傷をもたぬ白い花が、人々の手で入れられた。お棺の中は天国みたいに綺麗にコーディネートされていた。美しい胸腺をかく百合も。広がる菊も。みんな。
 私はその他に例の二冊の本もお棺に入れて、ゆかこおばさんさんを見た。ゆかこおばさんは私の隣の隣で。白い横顔で、宗佑おじさんの眼鏡を入れていた。宗佑おじさんと一緒に燃やされようとも、けしてその先までついていけないだろう眼鏡。白い手がお棺から離れる。記憶がふっと頭をかすめる。
 つゆくさにしなさい。
 宗佑おじさんの本を汚したくも、また宗佑おじさんが許した私の行為を止めることをしたくなかったゆかこおばさんは、つゆくさをどこからか、ある日突然何の前触れもなく、たくさん摘んできた。覚えている。ゆかこおばさんのジーンズ姿を見たのはあの日が最初で最後だった。汗と草の汁とにおいで汚れたシャツも。つゆくさの花の色素は着物の下書きに使うくらいアクが無くて、残りにくいものなのだ、とくどくどとしつこく説明しながら。今度からこれを押し花にしなさい。色も綺麗だし、本も汚れないなんて画期的じゃない。と。白い横顔で。小さい私にビニール袋一杯のつゆくさを押しつけて。こちらを見もせずに。
 また、私は続けて思い出す。あの日。積み木を崩した日。いくらゆかこおばさんにフローリングが傷つくから、と言われても。延々と積み上げては破壊し続けた私を、宗佑おじさんは全面的に許した。ゆかこ叔母さんが新居のために選びに選び抜いたフローリング。宗佑おじさんは私を全面的に許して、積み木を取り上げんばかりのゆかこおばさんを厳しく咎めた。お前、小さい子供のすることにいちいちキイキイ言うな。つまんないこと言うなよ。
 ゆかこおばさんは、それを聞くと。大きくにっこりと笑って。キッチンに入り。突如、洗い物をし始めた。
 宗佑おじさんはひとしきり私を構った後で。彼なりに気がついて多少心配になったのか。宗佑おじさんは私に、ゆかこおばさんに何か甘いものでも貰ってくるように、と頼んだ。ゆかこおばさんが新居を建てる際に選びに選び抜いた、やわらかい卵色をしたタイルの貼られた、ゆかこおばさんの場所であるキッチンへ。
 葬儀はどんどん進んでいく。ゆかこおばさんの白い横顔は、釘が打たれ。火葬場について。坊主がお経を読み。ごうごうと音のする場所に消えていっても、崩れることはなかった。あの日も。キッチンで洗い物をしながら、ひとつも崩れない横顔。洗剤を付ける、丁寧に濯ぐ、水を切る、それをふきんで拭く。それらをひとつひとつとても愛して真剣にこなしていたゆかこおばさんの横顔。 
骨が骨壺に納められて、箸で祖母とともに骨を納めるゆかこおばさんも、納め終わった骨壺を抱えるように持つゆかこおばさんも。持ち帰った後の仏壇の前に手を合わせて座るゆかこおばさんも。
 ゆかこおばさんは、いつもみんな同じ横顔でそこにいた。
 
 がやがやとうるさい大人達の集まる仏壇のある部屋をさけて、仏壇のある部屋の横のふすまを閉めてできた、四畳半に避難していると。急にすっとふすまが開いて。ゆかこおばさんが入ってきた。
「元気?」
 手にはオレンジジュースの一リットルパックが握られてる。汗をかいていて、未開封だ。 ゆかこおばさんは私の隣に座ると、それをおもむろに開けてぐいぐいと飲み干した。飲み干し途中で、一息つくと。
「あの人のこと好きだった?」
 とゆかこおばさんはこちらを向かずに言った。
 好きではなかった。私という個人を見ずに、子供、という形態だけで好きだと大声で言える男のことを。ありありと誰かを傷つけて気付かないでいる男のことを。私はちっとも好きではなかった。昔も今も、最初から。あんなに良くして貰ったのにそれは変わらない。
 でも。
「好きでしたよ」
 と私は言った。なるべく明瞭に聞こえると良いなと思った。
「とても好きでした。とても優しくしてもらいましたから」
「そう」
 ゆかこおばさんは、休んでいたオレンジジュースを飲み干すことをまた始めた。白い首が動き、オレンジジュースを飲み込んでいった。全部一滴残らず飲み干してしまうと、ゆかこおばさんは目をつぶった。深く深く目をつぶり、息を止めた。
 このひとは、一緒に燃えてしまうことで死んだ魂についていくことができるなら、一緒にきっと何にも迷わずに、燃えてしまっただろう。と私は思った。私は中学生で、世界のことをたいして知りもしなかったが、それだけはありありと解った。
 飲み干された紙パックが、ゆかこ叔母さんの手からするりと落ちて軽い音を立てた。甘いオレンジジュースのにおいが四畳半に広がっていた。ふすまの向こうでは大人達のざわめきがひっきりなしに聞こえている。






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