風と水と僕とその先

by 天野智史



僕はよく空を眺める。
自然風にあたるのが、とても好きだった。


マンションの6Fに住む僕は、必ず窓を開けて眠る。それが例え冬であっても。
タバコを室内で吸うため、換気の問題も確かにあるのだが、仕事が基本的に空
調の効いた事務所内での作業なため、眠っている間だけでも季節の温度を感じ
ないと感覚がおかしくなるのだ。
一度感覚が狂ってしまい、冬の誰もがコートを着て震えながら帰宅する中を、
Tシャツを着込み、長袖の厚手の安物のシャツだけで平気で外を歩いていた時
期があり、周囲にも気味悪がられた。
そんなわけで、「空調はけっこうやばい」と考え、今は必ず窓を開けて眠るこ
とにしている。個人的には、クーラーやヒーターをつけて眠るより数倍快眠が
できると思っている。


その土曜日は、朝の6時に目が覚めた。風が強い日だった。
新聞の見出しを読み、朝食にご飯と味噌汁を食べる。
インターネットに接続して、いくつかのサイトをチェックする。
だが、それが終わると、いきなりやることがなくなった。
何か好きなことをしようかと思ったが、つらつらと思いつくことをどれだけ浮
かべても、気持ちが浮くようなことは一つも浮かばなかった。
仕方ない、と思い、本棚から適当に本を抜き出して、ベッドに寝転んで読むこ
とにした。
朝の7時だった。


朝の10時に携帯電話が鳴った。
誰だろう、と思って着信を見てみると、ネットで知り合った医療事務をしてい
る女の子だった。ハンドルネームは『眠り猫』さん。ちなみに僕は『ジュージ』。
電話に出ると、もしもし、おはよう、今いい?と聞いてきた。
「いいよ、どうかしたの?」と僕は答えた。
「どうも最近、ストーカーがいる感じなの。どうしたらいい?」と、眠り猫さ
ん。
「ストーカー?」
「あのね、家の前に、最近タバコの吸殻がいつも落ちているの。それと、私宛
にラブレターがしつこく来るの」
「んー…実質的に何か被害とかある?」
「今のところないけど、でもなんか怖くて、誰に相談すればいいのかも分から
なくて…」
「ラブレターに消印はついてる?」
「あ、ちょっと待って……うん、ついている」
「んー…家の近所で、一日何本程度の吸殻があるの?」
「えーっと、いつも掃除しているのお母さんなんだけど、3,4本くらいだっ
て言っていたと思う」
「大体、何日くらい吸殻落ちているの?」
「ここ3,4日だって」
「眠り猫さんの家って住宅街にあるの?」
「うん、そう」
僕は少し考えてから、言った。「まだその段階じゃ、ストーカーがいるとは言
い切れなさそう、かな。むしろ、その可能性は低めに見ていいと思う」
「え? なんで?」
「ラブレターに消印がついているなら、ポストから投函したことになるよね。
でも、その送り主が家まで来ているなら、多分自分で直接郵便受けに入れると
思うことがまず第一。第二に、タバコの吸殻が3,4本となると、1本5分弱
で吸うと考えると、15分か20分ぶん吸うことになるよね。それはあんまり
長いこと張り込んでいる感じがしないな。あなたに思いを馳せている人がストー
キング目的でいるなら、詳しくないけど、多分もっと長いこといると思う。どっ
ちかというと、近所の誰かを何かの具合で待たなくちゃいけないっていう感じ
の時間だと思う。あと第三に、ストーカーさんだったら、多分多少性的な興奮
が高まっているはずなんだけど、そこでタバコ3,4本は少なすぎ。性的に気
持ちが高まっているなら、まったく吸わないか、逆にもっと多く吸うと思う。
まあ、事件に詳しいわけじゃないから、素人の個人的な推測になっちゃうけど」
眠り猫さんは、ちょっと感心したように、なるほど…と言った。
「どっちかっていうと、ラブレターが来た時期とタバコの吸殻が落ちている時
期が重なったから、そう思い込んじゃった、という感じ?」
「すごーい。よくそんなこと思いつくね、私なんかそんなこと全然思わなかっ
たよ」
「中学時代、推理小説読みまくっていたから。赤川次郎だけどさ」と僕は言っ
た。「まあ、この先、それでも変なことが続くようなら、いっそ警察に行った
方が早いと思うよ。ストーカー対策とか最近はけっこうやっているらしいし」
「うん、ありがとう。そうする。あ、そうだ、ジュージさん、ミネラルウォー
ター好き?」
「はい?」と僕は変な声をあげた。
「ミネラルウォーター。お母さんが会社で取引先の人から沢山貰ってきたの。
いっぱいあるから、少しおすそ分けしようかなーって。今のお礼も兼ねて。飲
んだけど、おいしかったよ」
「水とコーヒー大好きっ子の僕としてはありがたいけど」と僕は言いかけて、
少し考えた。「ちょっと聞きたいんだけど。その水貰ってきたのって、いつ?」
「ん? んー…先週だね。金曜日に貰ってきて、それから家にいるときは、よ
く飲んでいるよ。なんで?」
僕は少し考えてから言った。「あのー…考えすぎだとは自分でも思うんだけど、
ちょっと調べさせてもらっていいかな? 今日新宿あたりで会える?」
「うん? いいけど…」
「ごめんねー。で、そのとき、ミネラルウォーターと、家の水道水をペットボ
トルに入れてきて貰えるかな? 水道水はペットボトル一本でいいからさ。重
いもの持たせることになって悪いんだけど」
「うん、分かった。でも、なんで?」
「うーん…電話で話すと面倒だから、会ってから話すわ。とりあえず、新宿西
口に12時って大丈夫?」
「大丈夫。じゃあ、水持って行くね」
そうして、電話を切った。


12時。新宿西口。よく晴れた昼だった。
眠り猫さんは水道水とミネラルウォーターをペットボトルに一本ずつ持ってき
てくれた。
僕は礼を言い、昼食にサブウェイでサンドイッチとコーヒーを奢った。
食べながら、眠り猫さんは言った。「で?」
「あ、水の話ね」と僕は言い、説明をはじめた。「どこから話せばいいかな…
まず、水だけじゃなくて食べ物も込みの話をすれば。西洋のほうでも有名な言
葉があるんだよね。『偉大な思想は胃袋から生まれる』っていう言葉なんだけ
ど。まあ、偉大かどうかはこの際おいといて、食物と思考傾向、行動傾向って
現実的に相関関係あるんだよね、確かに。経験的なことを言えば、米を食べれ
ば比較的頭の回転や想像力が高まる、パンもそうだけど米よりも吸収がいいせ
いか早く高まって早く落ちる、短距離走的な傾向が来る。肉を食べれば攻撃性
と性欲が高まる、魚を食べても攻撃性はちょっと高まるけどもっとスマートな
感じかな。野菜は排出がよくなるせいか、割と穏やかになる傾向、卵・牛乳は、
頭と身体どっちも動かして気持ちが良くなる感じ。そういうの、なんとなく分
かる?」
一応は分かる、だって病院に勤めているんだから、と眠り猫さんは言った。
「で、まあ、水も一種のそういう傾向を生み出すものだと思うんだ、個人的に。
どちらかというと、行動以前の身体の中の流れのようなものに関係する傾向。
例えば、小学校時代の修学旅行で『水あたりに注意』みたいなことを言われる
し、僕も国内旅行の先で生水飲んで便秘とか下痢とかよく起こす人だから。頭
脳に関しては、例えばプログラムを書いているとき、体調にもよるんだけど、
ミネラルウォーターを沢山飲んでいるときとかは、そうでないときと比べて全
然効率が違う。ミスも半分になる場合もあるし、関係ないことを考えて意味な
く時間が過ぎることも少なくなる」
ふうん、と眠り猫さん。
「まあ、今回は眠り猫さんが一週間ミネラルウォーターを飲んでいるっていう
話だったから、もしかしたら今回のストーカー疑惑と何か関係あるのかも知れ
ない、と思ったわけです。ストーカー疑惑以外に、ミネラルウォーターを飲ん
で数日から、今まであまり現実で起こらなかったようなことが起こり始めたり、
それまであまり考えなかったようなことを考え始めたりする傾向が出ているか
も知れないと思うし、そもそも自分がその水を飲んでどういう傾向の考えや行
動が起こるのかを自分で飲んで調べておこうと思ったわけです。まあ、概要は
こんなとこ」
ふうん、と眠り猫さんは不思議そうに言った。「でも、そんなこと調べて、ジュー
ジさんはどうするの?」
「んー…多分、現実的なメリットっていうのは、殆どないと思う。気付くこと
も、現実的には瑣末なことだと思う。ただ、ちょっと知っておいたほうがいい
事柄だと思った。あるのはそれだけ」
眠り猫さんは複雑そうな顔をしていた。
「とまあ、そんなとこなんだけど。一応、その水を飲んで現実に起こったこと
の話を聞かせてもらえれば嬉しいんだけど、ダメかな?」
「別にいいけど…でも、今の話を聞いた感想を言っていい?」
「どうぞ」
「話としてはちょっと面白そうだとは思ったけど、私はそういうことをそんな
に知りたいとは思わないな。おいしい水をおいしいと思えることのほうが重要
なの。ジュージさんはきっと頭がいい人なんだと思うけど、頭が良すぎる人に
ならないほうがいいよ。頭が良すぎて幸せになれる人ってそんなにいないから」


家に帰ると、夕方の4時だった。
眠り猫さんの話をメモにとってきたのを読み返す。
・よく眠れるようになった。最近は深い眠りが多い。
・最初2日便秘になったけど、その後は快調。
・職場の男性と、少しよく話すことが多くなったかも。
・病院の受付をしているとき、人間観察をするようになった。
・汗の匂いがよく気になる。
・TVより本を読むことが多くなったかも。
僕はそれを読んで、果たしてミネラルウォーターがこういうことを起こしてい
るのだろうか、と考えた。そういう風に見れば、全てがそういう風に見えた。
水が良ければ身体の新陳代謝やバランスもよくなるし、そうなってくると行動
も上向いてくる。周囲からの印象も変わってくるだろうし、そうなると異性か
らも声をかけられやすくなる。多感傾向も見える気がする。本を読む傾向は、
一時的な内向的傾向だろうか。そこにおいては相関関係がもうひとつ弱い。
しかし、その考えは、よく考えてみるとこじつけにも思えた。いや、むしろ何
も知らない人から見れば、こじつけ以外の何者にも見えないだろう。こういう
妄想を真実と思い込んで進めていくと、やがて狂人になりそうな気がする。
僕は少し考える。この、推論なのか妄想なのか区別がつかないことを、どう捉
えれば現実的になるのだろうか? 多分このまま、ここから連想することをい
くら考えても現実的にはなれないだろう、何故なら終点は「ミネラルウォーター
が起こす現象」なのだから。
タバコを一本火をつけて、吸った。舌にタバコの味が染み付いていることに気
付く。止めたいけど止められないのだ。
一本吸い終わって、思った。「体験していないことを、体験者からの情報を元
にあれこれ空想しても、多分真実にはいきつけない。真実に近づきたかったら、
せめて出来る限りの体験をするしかないのだ」と。
そして思った。考えるのをやめよう、と。そして水を飲もう、と。
メモを引き出しに納めて、机から離れようとしたとき、ふと思いついた。「逆
にここに書かれているのは、ミネラルウォーターによって引き起こされている
現象ではない、と考えての可能性を探るとすれば?」
今までミネラルウォーターが原因だと思い込んでいたのを、すっかり消すのだ。
そうして考えるとすると? この現象は何が原因で起こったのか?
一分考えて、簡単な結論が出た。「眠り猫さんは、意識に出ている出ていない
は分からないけど、或いは相手がいないかも知れないけど、おそらく恋をして
いる・または性的に発情している」
多感傾向もその現れだし、異性と話しやすい傾向もそうだし、本を読むような
内向性傾向は本人の資質だろう(つまり、溜め込み易い傾向)、便秘は分から
ないので保留、背反するのは深い眠りだが恋をしているエネルギーが日中の活
動で表に出るなら深い眠りも起こりやすいはずだ。ストーカー疑惑に関しても、
性的に高まっていることが起因した自意識過剰が中心にあると考えれば大分分
かり易い。
そして、少なくともミネラルウォーターにおいての考えより、四十倍以上真実
味がある。
ふむ、と思った。最初の命題とは逆の命題を立てて考える、ということ。決し
て悪くない考え方だ。
そして、決まりが悪い気分になった。妙な思い込みから妙な結論に達したから
だ。
眠り猫さんにメールで「変な思い込みでした、すいません」と言いたがったが、
止めておいた。下手をすれば他人の恋の話に乗り込むことになりそうだし、そ
んなことはしたくないからだ。大体にして、恋の仮説も、僕の勘違いかも知れ
ないのに。
残ったミネラルウォーターと水道水を見て、まあ、これはこれで余計なことを
考えずに飲んでしまおう、と思い、冷蔵庫に入れた。
そして、その日は早い食事をして早い風呂に入って早く眠った。


目覚めた朝。ひどく蒸し暑かった。
風は吹いていない、部屋にはおそらく僕が寝ているときに発散した熱がこもっ
ている、Tシャツは汗臭い。
僕は昨日冷蔵庫に入れた水を、ペットボトルに口をつけて、直接飲んだ。ごく、
ごく、ごく。
一息ついて水をしまってから、気がつく。
甘い…?
砂糖等が入っている甘さではない、水自体が持つ不思議な甘さがあり、そして、
おいしいのだ。
飲んだ水のペットボトルを見ると「水道水」と書いてある。
水の味は、その管轄している水道局によって、割と大きく異なる。大学時代の
友人の家で、氷入りのコーラを出されたことがあるが、一口飲んでドクターペッ
パーのような薬の味がして驚いたことがある。匂いを嗅いでも、やはり薬の匂
いがした。原因は冷凍庫で作った氷だった。地域によって、水道水の味は異な
るのだ。
しかし、こんなおいしい水は初めてだった。硬水、軟水で分ければ、どちらか
というと軟水だが、個人的にはボルビックよりおいしいと思えた。炎天下に彷
徨った挙句に寺で飲む水のようなおいしさ。
まあ、今は炎天下は彷徨っていないけど、眠っている最中水分が抜けているわ
けだから、似たような現象が起こっているだけかも知れないが。
理屈はさておき、僕はこの水が気に入った。
そしてその後数日間、その水を愛飲することになる。


月曜日に出社する際、コンビニでミネラルウォーター2Lを買った。会社では
大概缶コーヒーを飲むのだが、なんとなく胃袋がもたれていたのだ。
会社で、あるデータをパソコンに入力している最中、妙に眠かった。全然すっ
きりしない。
午後になればいくらかすっきりするだろうと思っていたが、午後になってもすっ
きりしなかった。
ミネラルウォーターをごくごく飲んで、汗や排出を呼び起こそうと思っていた
が、どうにもそれにも繋がらなかった。水が腹に溜まっていくだけで、小便も
あまり出ないのだ。
意味もなくタバコを吸う量が多かった。
その日は早々に帰ることにした。


家に帰ると、だるかった。気温が高いので汗はかくのだけど、身体自体はあま
り熱を持っていない感じ。活性感がないのだ。
夏風邪の予兆か?とふと思ったので、風呂を少し熱めに沸かして汗をかくこと
にした。顔から吹き出る汗がどろりとした感じがした。
水を飲んで、僕は眠った。
夢も見なかった。


火曜日の朝は妙に風が吹いていた。
目が覚めたばかりのぼんやりした頭で外を見る。無数の建物が見える。そして、
何か胸に乾いたものを感じた。
なんで乾いた気分になるのかは自分でも分からなかった。
子供の頃から、ごくたまにこういう気分になるのだ。
新聞を読んで、食事をして、水を飲んで、それから会社に向かった。


晴天の霹靂だった。
出社すると、朝のミーティングがあるのだが、そこで社長から「この会社をた
たむ」と皆に通告された。
業績が思わしくないことがメインだったが、この先業績が上がる予兆もないの
も込みで、ダメージが深くならないうちに解散したほうがいいという結論に達
したのだという。
「とりあえず今週は残務整理をして欲しい。やることがなければ定時関係なし
で帰ってもいい。もちろん給料は出す。あと、会社としては次の就職先を斡旋
する力はないので、悪いとは思うけど次の就職先は自力でなんとかして欲しい」
事務所の規模は10人程度の小規模な会社なので、会社全体の状況把握は誰でも
簡単にできる状況だった。最近の仕事のとり方などに「傾向というものが存在
しない」ことは気付いていたし、変に仕事が多かったり、また少なかったりし
た部分や、役員会議も毎日行われているのを垣間見ていたので、僕自身も「何
かよくないことが起こるかも」くらいは思っていた。
周囲を見渡すと、皆複雑な気分といった顔をしていた。
そして、各自自分の身の回りの残務整理や、顧客への電話での挨拶などを行っ
ていた。


僕はデータ入力の仕事をざくざくと片付けていた。見込みではあと三日で片付
きそうだと思っていた。それ以外には、いくつかの書類ファイルを指定された
サーバにアップする程度の残務しかなかった。
会社が終わる頃というものはもっと忙しいと思っていたが、そして事実数人は
忙しそうにしていたが、僕は暇な部類の立場だった。
非常階段でタバコを吸ってぼんやりしていると、社長もタバコを吸いに来た。
しばらく僕達は無言でタバコ吸っていたが、やがて社長が声を出した。
「お前は、これからどうするよ?」と社長。
「んー…まずは知り合いに失業状況を言って、誰かを紹介して貰えたら紹介し
て貰います。ダメならそのとき考えます」と僕。
「ふーん…」と社長。
「社長はどうするんですか? これから」
「まあ、お前と同じようなもんさ。誰かに仕事を紹介してもらうさ。パソコン
の専門的なことは、お前らのほうが詳しいくらいだから、お前らが羨ましいよ」
「でも、どうせそのうちまた独立するんでしょ?」
社長が少し笑った。「そう思うか?」
「経営者の立場をそれなりに楽しんでいるように見えましたし、一回そうなる
といつまでも誰かに使われている身分では我慢できなくなるでしょうしね」
「まあ、そうかもな」と社長は笑った。「なあ、お前、会社がそのうちこうな
るって気付いていたか?」
「ええ。っていうか、皆それなりに気付いていたでしょう」
「お前自身、どうすれば良かったと思う?」
僕は少し考えてから言った。「僕が勝手に思うことを言わせて貰えば、仕事の
受け方に一定の方向性を持たせること、同時に自分達のスタイルを確立するこ
と、書類に関してもっと体力を使って作って客にナメられないようにすること」
「そうしてきたつもりだけどなあ…」
「表面的な部分でそうしているのは知ってますけど、内容的には僕には散漫に
見えましたよ。生意気に聞こえると思いますけど」と僕は言った。「仕事の内
容が散漫だと、皆の中で系統化が難しくなると思いますし、系統化が難しくな
ると仕事を高速にこなすことが困難になりますし。個人で請け負える仕事は、
実は似たような作業内容のものくらいだと思っています」
社長が、うーん、と唸った。
「一番いいのは、皆が会社におんぶにだっこ、みたいな意識を切り離させるこ
とが重要だと思います。いっそ全員個人事業主になってもらって、契約的な仕
事とお金の受け渡しをする、みたいな。大抵の人は引くかも知れないけど、何
割かはむしろそっちのほうが気合入る気がしますね」
「それは俺もそう思う」と社長。「いっそお前もそうなればいいんじゃないか?
 考え方としては向いているよ」
「まあ、少しは考えていますけどね。でも僕、寂しがり屋さんなので、そうい
う意味で組織向き」
そして二人で苦笑いした。


午後三時に家に帰ってきて、仕事を斡旋してもらえそうな人数人にメールを出
した。
一時間も経たないうちに、そのうち一人からメールが返ってきた。フリーで仕
事をしている女性だ。

>正社員じゃないけど、ちょうど人を紹介して欲しいっていう知り合いがいる
から、会ってみる?


僕は、会います、連絡先を教えてあげてください、とメールした。
間もなくメールの返事が返ってきた。

>電話番号とメールアドレス教えておいたから、今日か明日に連絡来るはず。
対応お願いね


了解、ありがとうございました、と返信した。
それから僕はネットで出ている求人を見ていた。SOHOでの契約型の仕事も見つ
けた。気になった求人を片っ端からプリントアウトしていった。
そうこうしている間に、携帯の電話が鳴った。
出たら、紹介してくれた人だった。
「はじめまして。ミズオカ様でしょうか?」と相手が言った。
「はい、そうです」言い忘れていたが、僕はミズオカだ。
そして挨拶し、自己紹介をし、今までの業務経歴をざっと話し、そして会う約
束をした。日にちは明後日に決まった。
「では、明後日の夕方5時に浅草橋駅改札で。私、野村と申します。よろしく
お願いします」と言って相手は電話を切った。
僕は一息ついて、タバコを吸い、窓の外を見た。窓の向こうの無数の建物。
風は相変わらず吹いていた。
僕のその気持ちは静かだった。僕の中で動くものが何もなかった。
何か考えが起こる前段階の、何かを感受している状態だ。しかし、感受として
は静か過ぎるため、何をどう思っているのか分からないのだ。
しばらくそうしていて、僕はふいと肩をすくめて、コーヒーを買いに行った。
この日に関しては、特に語るようなこともなく終わった。


次の日の朝には、眠り猫さんから貰った水を一本飲み干した。
新聞をざっと読んで、それから会社に向かった。
会社には全員出社していた。しかし、皆気が抜けたような動きだった。
僕はデータ入力するものをざくざく入れて、気が向いたらコーヒーを飲み、気
が向いたらタバコを吸った。
タバコを吸う非常階段で、先輩社員2人がなにやら話している。
あまり気にしないでタバコを吸っていたら、話し掛けてきた。
「ミズオカ君、再就職どうするの?」と先輩社員の川原さんが言った。
「今のところ、知り合いに当たっています。川原さんはどうするんですか?」
「んー…仲のいい取引先の人に話したら、お誘いは来ている」と川原さん。
「で、行くんですか?」
「うん…」川原さんはお子さんがいるので、あまり贅沢を言っていられる立場
ではないのだろうけど、本人はあまり良しとしている訳ではないらしい。
「花崎さんは?」
「オレは社長について行きたいんだけど…」と花崎さん。
社長と仲がいいのは知っていますけど、他人様にあんまり何かの期待をするの
もどうかと思いますよ、と思ったけど、口に出すのはやめておくことにした。
そして僕達は、黙ったままタバコを吸い、そして各自の机に戻っていった。


残務作業をしている間に、携帯メールにメールが来た。見ると、たまにチャッ
トで話す男だった。

>今日、うちで飲み会やるんですけど、飲みませんかー?

僕は少し考える。以前もこんな風に突然呼ばれたのだが、なんで僕を呼ぶのか
がいまいち分からないのだ。自宅飲みは安くあがるし、大して断る理由もない
し、けっこう色々話すのだが、何か腑に落ちない気分になる。
まあいいかと思って、OKの返事を出した。


仕事を定時までやって、待ち合わせの駅に行く。
しばらく経って、その男がやってくる。ネット上では、『緑の羊』という名前
だ。
会って適当なことを話しながら、料理の具材を買う。3品分くらいの材料を買
い、緑の羊の家に行く。
とりあえず緑の羊が持っている酒を飲み、緑の羊は料理を始める。自作の音楽
をかけながら。
今度会社が潰れることになってさあ、等と話していると、緑の羊は、ああボク
も会社辞めちゃいました、と話した。
「へ? なんで辞めたの?」と僕。
「いやあ、会社での営業売上で全国7位まで行っちゃって、そういう目標がな
くなったから辞めちゃったんですよ」
「ふーん…」と僕。「そういえば、今日は他に誰が来るの?」
「いや、何人かに声をかけたけど全員ダメで。今日はジュージさんだけです」
「はあ…」と僕。
「あ、これ出来ました。食べてみてください、多分おいしいと思うから」
食べて見ると、まあ、おいしい。つまみながらまた談笑した。
ボクはいつか自分の料理店を持つのが夢で、すでに調理師免許は持っているだ
の、中学だか高校のときに家から勘当されただの、特待生で学校に入って結果
を出すので人一倍苦労しただの、一時期精神科にかかっていただの、一時期ホー
ムレスだっただの、一回子供が出来てお父さんになるところで子供が病気で死
んじゃっただの、波乱万丈としか言いようがない人生だった。また、僕たちが
知り合ったチャットの裏事情の話にもなった。誰が誰を誘惑しただの、誰が誰
を狙っているだの、誰と誰が付き合っているだの、そんな話だった。
「なんでそんなこと知っているの?」と僕は聞いた。
「いや、僕が○○さんと付き合っているから」
「はあ…とりあえず面倒事はごめんだからね」
「分かってますよー」
その後談笑は続いていたけど、話せば話すほど僕は腑に落ちない気分になって
いった。酒で酔い気味にはなっていたが、あまりクリティカルなことはこの男
に言わないほうがいいな、という気分になっていった。
午後10時を回る頃、僕は明日も会社だから、と言って帰った。


酔っ払いながらも、緑の羊の話を思い返していた。そもそもなんでそんなに腑
に落ちないのか、と。
電車に座りながら、駅で買ったポカリをちびちび飲みながら反芻する。
そして、ふと気付く。そうか、一番言いたくなるのは「それは本当のことなの
か?」なのだ、と。
経歴を聞けば、中学か高校で勘当されたという。その当時の健康保険はどうなっ
ている? 学校も特待生で入っているなら、保護者の同意書などはいらないの
か? 大体、勘当された理由は? 会社で7位になったから目標がなくなった
から辞めた?仕事ってそんな遊び半分なものか? それで子供が出来たらお父
さんになろうと思いました?
チャットの交友に関しても、話の性質上、確認がとれないものしか存在しない
(確認なんか下手にとったら地獄の蓋を開けるようなものだ)。しかし個人的
に見て、そんな泥臭い雰囲気を特に感じなかったし感じない。一番ひっかかる
のは、付き合っている○○さんがそういうことに巻き込まれている話の最中、
緑の羊は感情的にならなかったのだ。態度としては「こっちは大人然としてい
るのに、周囲で迷惑かけてくる人がいて面倒くさい」という感じだった。
話される要所要所に関しての話は確かに通用するのだけど、全体的に見ると何
か変なものを感じるのだ。
話されたことが事実なら緑の羊は人間性の部分で問題があることになるし、嘘
だったらその時点で大分問題がある。意味もなく嘘をついて自分を飾り立てて
いるのか、意味のある嘘で煽動しているのか。
どちらにしても、あまり関わらないほうがいいな、と僕は思った。
そして、僕は眠り、家に帰った。
家で沢山水を飲み、シャワーを浴びて、そして眠った。


次の朝、ニュースで多国籍軍がイラクに向かう話を見ていた。
なんだか、皆が嬉しい平和な落ち方をしない話になりそうだな、とぼんやり思っ
ていた。
一つの国の自律機能を無視しているようにしか見えないし、一つの問題を皆で
大きな問題にしているようにも見えた。
そして、ぼんやりと新聞を読んだ。
読んでいると、用水路の流れる水を眺めているような、奇妙な錯覚を覚えた。
その感覚を換言すると、こういうことだ。
【何かが何かで何かになる。何かが何なのかは分からないけど】
一つも具体的な物事を語れていないけど、それが一番適切な言葉だった。
僕は水を飲み、会社に向かった。


その日、会社には3人欠勤していた。
僕は残務作業を完全に終わらせた。それをサーバにアップして、専務に「他に
何かやることありますか?」と聞いた。
ない、と言われた。「別にもう出社しなくてもいいよ、多分今週末、って明日
か、皆で飲んで、それでおしまいだろうから」
僕は、失業保険の給付の書類が来週に送られてくる確認をして、会社を出た。
そして、待ち合わせの浅草橋に向かった。


時間が一時間以上あったので、僕はドトールに入ってぼーっとしていた。
ガラスの向こうでは、幾多の人々が足早に歩いていた。
それをぼんやりと見ていたら、一体全体自分でも分からないけど「もう少しし
たら雨が降るかも」と思った。
そして、自分でもさらに理由は分からないが、ひどく落ち着いた気分になった。


待ち合わせ時刻に、野村さんからの電話が鳴った。
電話に出たら、目の前の電話を持っている女性が「ミズオカさんですか?」と
声をかけてきた。
そうです、と答えると、女性は「野村です」と名乗った。
顔の皺を見る限りだと50を超えているが、雰囲気は40過ぎくらいをイメージさ
せた。気さくな感じの女性だった。


多少の雑談をしながら僕たちは会社に向かった。
技術系のリーダーの人と、社長が出迎えてくれた。
履歴書と職務経歴書を渡して、僕は大雑把な自己紹介と職務経歴の説明をした。
それが終わると、社長が会社説明と欲しい人材の話をした。会社説明の際、そ
の業務内容がシステム製作・運用、企業内カウンセリングなどから始まって、
造園土木の設計だのビルの設計だのも行うことを話した。「最終的にお客様に
『良い』サービスをすることが我々の目的です」と言った。
とりあえず僕は「いっぱいありますねえ…」と控え目な感想を言ったが、「会
社を立てるときに事業内容として登録していいものを全部入れたんですよ」と
笑っていた。
その後様々な会社の展望を、少なくとも僕が目の前で聞く限りでは思いつきの
夢にしか聞こえなかったが、社長は言って、挙句「ミズオカさんはうちで一緒
にやっていただきたい」と結んでいた。
幾つかの会社としての懐疑的な部分や、人物としての懐疑的な部分を感じたが、
大きな話に乗らないようにすれば痛い目は見ないと推測して、「じゃあ、フリー
で外注的な位置付けでお願いします」と締めた。
終わる頃、夕立が降っていたので「少しここで休んでいきなさいよ」と野村さ
んに言われたが、急ぎの用もありますので、と言ったら傘を貸してくれた。


僕は傘を差し、駅に向かう中で、今の会社の話を反芻した。
会社が20人規模の会社で、そもそもそんな多種類の業種など請け負えないのが
普通だ。請け負えるくらいならどこの会社でもやっているし、普通のシステム
系の会社では、システム系の仕事の一部しか賄いきれないのが現実なのだ。そ
ういう意味で、今日会った社長は現実と言うものを知らないといって過言では
ないだろう。
また、「『良い』サービス」というのは危険だ。『良い』という言葉は抽象的
過ぎる。「これはこういう意味で良いサービスで、あれはああいう意味で良い
サービスです」と好きに言っていたら、まとまりも方向性もない。実務をする
側からすれば振り回されてつぶれて終わりだろう。
そして、社長の気質。思いつきの夢や願望を無責任に垂れ流すところを見るだ
に、実業務実作業は誰かに押し付けるタイプと見ていいだろう。言ったことを
自分でやるなら、そんな無責任な思い付きを口にしない。一言余計なことを言
えば地獄が待っているのだから。
せいぜい、と僕は思った、安い仕事を2,3個受けて終わりだな。
そして僕は家に帰った。


会社最後の日。
僕は出社し、会社の大掃除を手伝った。
掃除して、沢山のゴミを出して、最後に皆で近所の飲み屋に向かった。
色々な話を皆がしていた。大概が仕事の思い出話だった。僕は聞くともなしに
その話を聞きながら、日本酒を飲んでいた。
社長が、僕に言った。「お前、この会社に来て良かったと思っている?」
僕は答えた。「少なくとも、どの職場よりも面白かったですよ」
社長は苦笑いしていた。
僕は皆の手相を見て、皆の今後を占った。その最後に「ここの人たちはひどい
ことになるような運は持ってないですね」と締めた。
すると「じゃあなんで会社がこうなるんだよ」と突っ込まれ、「お前の占いは
当てにならん」と笑いものにされた。
飲み会が終わり、皆が電車で帰るとき、会社の技術の長の人と途中まで乗り合
わせた。
「これからどうすんの?」と技術の長は言った。
「まあ、適当に探します。野垂れ死にはしないとは思いますしね、とりあえず」
技術の長は言いにくそうに言った。「皆の手前言えなかったけど、俺、社長か
ら次の職場を斡旋されたんだよね」
「はあ…それで行くんですか? そこ」
「うん…」と答えて、それから言った。「いや、なんか悪い気がしたから、言っ
ておこうかなと思っただけなんだけどね」
つまり、建前では斡旋しないことを謳っていたけど、会社の一部の人には職の
斡旋を行っていたという話だ。
「んー…だからといって僕があーだこーだ言っても仕方ないですしねえ…。社
長が何考えているのかは分からないし、もう分かる機会もないでしょうから。
そんなの関係なしに僕は仕事探すだけです」
技術の長は苦笑いしていた。
僕が降りる駅につき、技術の長は、じゃあバイバイ、と言っていた。
「さよなら」と僕は言って、電車を降りた。
そして、僕は帰路についた。


失業状態になると、僕の中の時計は止まる。
食べることと眠ることと排便以外に何もしなくなる。
風が時々窓から強く吹くときがある。そんな折には、自分がこのまま風化して
ゆくように壊れていければいいのに、と思う。病人が一人死んでゆくように。
僕はそのように三日間をベッドの上で過ごした。


四日目の昼に、チャットに入った。知らない人が一人で何かを言っていた。花
鳥風月という、知らない名前だった。
ジュージ>はじめまして。ジュージと申します。
花鳥風月>はじめまして。花鳥風月と申します。よろしくお願いします。ジュー
ジさんは学生の方ですか?
ジュージ>いいえ、失業者です。
花鳥風月>大変失礼なことを聞いてしまいました。お許しください。
ジュージ>いえいえ、気にしないでください。時間帯から言えば、社会人は働
いている時間ですものね。
花鳥風月>私の知り合いにも失業なさっている方がいらっしゃいますが、色々
と大変な様子です。
ジュージ>僕はもしかしたらフリーで働くかも知れないですからね。失業保険
もすぐに出るし。今のところあんまり悲劇的ではないです。
花鳥風月>フリーというと、個人事業主のようなものでしょうか?
ジュージ>そうですね。または契約社員。
花鳥風月>素晴らしいですね。羨ましい限りです。
ジュージ>でも、社会の流れからして、そのうち正社員の人はごく一部の人だ
けで、残りは個人事業主ばかり、という時代が。
花鳥風月>そうなんですか? 私には社会の流れはよく分かりませんが…
ジュージ>年金システムの問題ですけどね。会社としては厚生年金払いたくな
くて当たり前ですし。少ない正社員で多くのフリーターを雇うほうがコスト安
いですし。
花鳥風月>年金ですか…。今時の仕事をしている方は、ちゃんと受給できるの
か不安ですよね…。
ジュージ>システム的に見れば、どう見てもそれだけで生活しようと思えば無
理がありますよ。きっと皆一生働くこと考えたほうがいいんだと思いますよ。
花鳥風月>世の中って大変ですね…。ジュージさんもフリーでやるということ
は、それなりの実力がある方なんですね。
ジュージ>いいえ、そんなものないです。適当に客を騙くらかして儲けようと
思っている小悪人です。
花鳥風月>そうなんですか?
ジュージ>ええ。

しばらくの沈黙があった。チャットの乾いたリロードの音だけが聞こえる。

花鳥風月>私は、実は占い師なんです。
ジュージ>はあ。そうなんですか。
花鳥風月>そのせいか時々、多少、カンが働くときがあるのですが、
ジュージ>はあ。
花鳥風月>ジュージさんは最近、水に関して何かございませんでしたか?

水?

ジュージ>…ええ、確かにあります。
花鳥風月>具体的にはどのようなことがありましたか?
ジュージ>知り合いに、水道水とミネラルウォーター、それぞれペットボトル
一本貰って、ここ数日飲んでいました。

またしばらくの沈黙。

花鳥風月>おそらくその水は良い水です。ジュージさんは近いうちに、自分の
本来性を見つけ出すことになることと思われます。場合によってはすでに見つ
け出しているかも知れません。
ジュージ>本来性。。。
花鳥風月>水というものは、生物に対して影響を起こす、もっとも基本的なも
のです。人の身体にも当然影響を及ぼします。
ジュージ>はあ。。。
花鳥風月>そして、自己の内側に影響を及ぼすことにより、自己の外側にも影
響を及ぼすものなのです。そして結果的には、自身にとってストレスの少ない
状況を選び作り上げてしまう、言わばそういう「流れ」を生み出すものなので
す。
ジュージ>よく分からないけど、そうなんですか。。。
花鳥風月>最近、外に出ていらっしゃいますか?
ジュージ>いいえ。ここ三日ほど引きこもっていました。
花鳥風月>おそらく、散歩に出かけられると良いと思います。
ジュージ>一応言っておきたいのですが。
花鳥風月>なんでしょう?
ジュージ>占いの料金を請求されても払えませんので。


チャットから落ちて、僕は再びベッドに潜り込んだ。
ここ数日のことを振り返る。
会社がなくなったことやら、色々な人と話をしたことやら、そんなことを。
耳に、音が張り付く。黒板を引っかくような、高くて不愉快な音。
それは、結果的に、誰も当てにできないし誰も信用しないほうがいい、という
ことだった。
その考えは、一つの石のような固まりとなって、そこにただ存在していた。
でも、と僕は思った。『それは最初から分かりきっていたことだ』と。『最初
から僕は誰かを信用しきってなんかいないのだ』と。
そして、僕はその先のことが出来なくなる。その石を目の前に、たった一つの
ことも出来ないのだ。それを拾い上げてどこかに捨てることも、別の場所に向
かうことも出来ないのだ。
耳に、無数の音が張り付く。無数の無機質な物体が起こすような音。
突然の悪寒。緊張。冷たい汗。
僕は布団に包まった。そして、目を閉じた。
時折吹く穏やかな風にすら、心地よさを覚えられなかった。
そして、様々なものから心を閉ざすように、そして死んでゆくように、僕は眠っ
た。


夕方の風が涼しい時間帯に、僕は起きた。さっきより、ほんの少し気力が涌い
ていた。
僕は散歩に出た。確かに、ここ三日引きこもっていたので、身体を少し動かし
たほうがいいような気もした。
僕は隣町の神社まで歩いた。空が赤く染まっている時間なのに汗がぼとぼと落
ちてくる。運動不足ではないはずだ。それなら会社に行っている間にもこうい
う汗をかくだろう。
しかし、それはあまり不快ではなく、むしろ気持ちが良かった。
犬の散歩の人を数人見かけた。突然匂いを嗅いでくる犬もいた。
赤く染まった雲をぼーっと見ながら歩いていた。そういえば、この時間帯に飛
行機雲は出来るのだろうか?と思った。記憶を探っても、夕暮れの飛行機雲と
いうものを思い出せなかった。
歩道を歩いて、大通りに出て、マンションの一角の路地に入り、そして細い道
を歩く。
神社に行き着く。神社の水道からひしゃくで水を汲んで飲む。賽銭を入れて、
いい就職先が見つかることを祈る。
祈っている間に、一人の女の子が神社に入ってきた。小学校高学年くらいだろ
うか。少し背が高めで痩せ気味。小麦色の肌。
こんばんは、と女の子は言った。こんばんは、と僕も返事をした。
女の子がひしゃくで水を汲んで飲もうとした。
「ストップ」と僕は言った。女の子は新鮮な水道水ではなく、そこに溜まった
水をすくって飲もうとしていたのだ。「新鮮な水道水飲んだほうがいいよ、溜
まっているのは下手をすれば腹壊すよ」
はい、と女の子は言って、水道水を出して飲んだ。とてもおいしそうに飲んで
いた。
「おじさんはお願い事したの?」と女の子は聞いてきた。どうやら人懐っこい
性格のようだ。
「したよー」と僕は答えた。
「何をお願いしたの?」
「いい就職先が見つかりますようにって」
「お仕事してないの?」
「うん。会社が潰れたの」
「大変だね」
「うん、まあね」
「なんか、元気がない感じがするけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「おじさん、板前さんになれば?」
「はい? 板前さん? なんでまた」
「板前さんっていつも元気そうだから」
僕はふと考えた。なるほど、板前さんで元気がない人って、あんまり見たこと
ないな、と。
「でも、今から板前さんはちょっと厳しいかもね。料理人の世界も、上下関係
は厳しいみたいだし。年齢もけっこう関係あるだろうし」
「そうなんだ。でも、おじさんは、元気が出る仕事がいいと思うよ。お金が儲
かる儲からないはおいといて」
「それはそうかも知れないね。考えておくよ。早く働いて、年金も納めておき
たいし」
「年金…年金問題ってもう誰にもなんとも出来ないんじゃ…」
「…それはそうかも知れないけど、払う立場のおじさんからすれば、なんとか
なって欲しいなあ…」
「だって、年金問題なんか解決しようがないし、解決しようっていう人の殆ど
は解決しようとしているんじゃなくて自分が儲けるために動いているんだと思
う」
「…決して否定はしないけど、小学生の時点でそこまで達観するのもどうかと」
「テレビとか新聞とか見ていれば、そんなの分かるよ、誰だって」
「頭がいいんだね、君」
神社の外を見ると、マンションが見える。その天辺に、くるくる回っている何
かが見えた。よく見ると、それは風車だった。2,3mくらいの、決して大きくな
いサイズの風車。大きさから言って、マンションの非常電灯くらいの電力を生
成しているのだろうか。
夕刻の空の赤と、くるくる回る風車。「あれ、いいね。あんなの初めて見た」
と僕は言った。
「うん、私もあれ好き」と女の子が言った。
しばらく僕たちは、それを見ていた。
そして女の子がぽつりと言った。「あれを作った人は、あれがきっと限界…」
僕は、女の子を見た。その瞳は、井戸を覗き込むような深い黒で、そして哀し
げだった。この子は、分かっているのだ。
「ねえ、」と僕は言った。「将来何になりたいとかあるの?」
「んー…農家で自給自足で暮らせたら、きっといいんだけどな…」
「きっとなれるよ」
女の子は笑った。


そして、僕たちはそれぞれの帰路についた。
ばいばい、と僕は言った。
ばいばい、と女の子も言った。
帰りの道を歩きながら、耳についた言葉を思い出していた。「元気になれる仕
事につけばいい」
それはいいな、と思った。そしてもう少し考えた。うん、確かにそれがいい、
と思えた。
具体的な仕事はまだ思いつかないけど、きっとすぐ見つかるような気がした。


眠り猫さんからその日電話が来た。
「ねー、聞いて聞いて、私、今日、彼氏ができたのー」
「あはは、おめでとー。そういやストーカーさんはどうなりました?」僕は言っ
た。
「ああ、あれ。あれからタバコも落ちていなくなったって。なんだったんだろ
うね?」
「気のせいだったんだよ、きっと」
「そうなんだー」
「あ、そうだ。ミネラルウォーターとかありがとねー。おいしかったよー」
「あ、どういたしまして。それで何か分かったの?」
「いや別に何も。会社がつぶれたり人間不信になったりはなったけど、多分あ
の水とは関係ないだろうし」
「大変じゃーん。それで仕事とかどうするの?」
「まあ、ぼちぼち探すよ」
「ふーん。頑張ってねー」
「頑張りまーす。むしろ以前より前向きに」
「あ。なんかいい感じ。今度神社に行ったとき、ジュージさんの就職もお願い
しておくね」
「あはは。ありがと」
「じゃあ、就職決まって落ち着いたらまた遊んでねー。またねー」
ばいばい、と僕は言って、電話を切った。
切ってから少し経ってから、あの水が僕の人生の流れを変えたのかな、と思っ
た。それから、まさかね、と思った。


次の朝に目が覚めたときも風が強かった。
窓の外の同じ風景を見た。無数の建物のある風景。
乾いた気分にはならなかった。街が、熱を持っているように見えた。
朝ご飯を食べて新聞を読んで、それから僕はハローワークに向かった。
マンションのエレベーターで、小学生と乗り合わせた。おはようございます、
と僕は言った。おはようございます、とその子も言った。
何かいいこと起こるかな、と思いながら、僕は駅に向かっていった。



(了)




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