非幻想異端的日常
2006年 3月 1日 (水)
 内田百間(この漢字しか出ない)の随筆集を読んでいたら、「地獄の門」という短編があった。ご存じの通り地獄をテーマにした小説を書かねばならぬので、どれ参考までに、百鬼園先生の地獄とは如何なるものかと読みはじめたら、金に困ってついに高利貸しに借金をしに行く話であった。
 わかりやすすぎて参考にもならない。

 地獄といえば、早くも作品の投稿がひとつあった。順調なすべりだしである。

2006年 3月 2日 (木)
 世界は様々なメッセージに満ちている。この世に偶然はなくすべてが必然であると考えれば、万物はすなわちメッセージの集約であり、“意味”のメタファーであると言える。今日そんなことをしみじみ思わせるある事件が勃発した。この出来事を意義あるものに生かせるかどうかは、それを受け取るわれわれがそれをどう人生で生かし状況を先に進めるかにかかっている。感触としては、いま一歩のところで中途半端に終わりそうだ。いかんともしがたい。

2006年 3月 3日 (金)
 外出のついでにC社でヤボ用を済まそうと近くから電話したら、D社のI社長がちょうど来ていたらしく、受話器の向こうで声がした。
 「近くにいるので伺ってよろしいですか?」と先方に聞いたら
 「ええーっと…」とちょっと迷って「D社のI社長がちょうど出るとこですので、会わないように気をつけていらしてください」と言われた。
 見るとC社の事務所からD社のI社長が出てくるところだった。
 俺はさっと物陰に隠れ、D社のI社長の姿が雑踏に消えたのを確認してから、C社の門をたたいた。
 D社のI社長とは暫く会ってなかったので挨拶したかったが、C社はうちとも取引しているのをD社のI社長に知られたくないらしいので、仕方がない。
 そんなちょっと汚いオトナなひとコマ。

 それにしても二日連続バッドタイミングな出来事勃発である。
 これも偶然ではなく必然なのだきっと。

2006年 3月 4日 (土)
 今日は特別なことが何もなかったので、書くことがない。
 仕方が無いのでどうでもいいことを書こう。


 俺の人生は数ヶ月おきに誰かしらと血液型の話で盛り上がるという暗黙の法則があるが、法則通り、本日数ヶ月ぶりに誰かと血液型の話で盛り上がった。
 A型の人間にとって、O型の人間とうまく付き合うコツは、B型的思考を参考にするとかなり効果的であるという意見が出て、大変共感した。また、A型はB型より強く、B型はO型より強く、O型はA型より強いという説もあり、これも精神的な主導権という意味では、信頼性の高い見解である。
 そんなことをつらつら話し合い、久しぶりに血液型についていろいろ考える機会を持った。最後にはたと気がついた。AB型はどこへ行ったのだ。
 考えてみたら、人と血液型の話をして、ほとんどAB型の話題が出た試しがない。謎の血液型だ、AB型。


 ボールペンはビジネスマンの必須アイテムだが、最近コンビニとかでボールペンを買うのに困っている。理想は赤と黒の二色、これに青が加わるのは許容範囲だが、最近のボールペンは何故かこれに緑が加わった四色が多く、それでなければ黒一色で、二色か三色のものが一向に見当たらない。またはボールペンにシャープペンが付いたものまであったりして、余計なものをゴテゴテ付け足さなくていいから、シンプルに赤と黒のボールペンをコンビニやキヨスクでも売って頂きたいものだと思う(文房具屋には当然ある)。

2006年 3月 5日 (日)
 まったり午後起き、暇なので外出。新宿西口のガード下で安いうな丼を食い、歌舞伎町の喫茶店でコーヒーを飲み、漫画喫茶で「プルート」を読んだ。プルート、初めて読んだみたが思ったより面白い。
シムソンズ 漫画喫茶の後、タダ券で映画を見た。たいして観たい映画がなかったので、適当に選んで「シムソンズ」という映画を観た。カーリングという競技の実話をもとにしたスポ根映画だった。あらゆる意味で俺にとってなんでもない映画で、とりあえずタダ券でよかった。

2006年 3月 6日 (月)
 最近スカイプでリトアニアの十五歳の女の子と仲良く話している。日本の音楽が好きで、日本の音楽をあまり聴かない俺はよくわからないのだが、Dir en greyとかいうバンドの京とかいうのが一番好きなんだそうだ。
 日本のバンドというと俺は筋肉少女帯くらいしか知らないので、「踊るダメ人間」とか「暴いておやりよドルバッキー」とか「高木ブー伝説」などのmp3ファイルをせっせと送ってやったら、「筋肉少女帯のファンになりました」と返事がきた。それはよかった。
 いつか日本に留学したいらしく、さらに願わくば日本にずっと住みたいのだそうだ。ならば日本で外人タレントとしてデビューしてはどうかと提案したら、かなり本気でその気になっていたようだった。がんばってほしい。

2006年 3月 7日 (火)
 仕事で銀座に行ったついでに東京駅まで歩いて久しぶりにお気に入りの南インド料理ダバ・インディアでランチを食った。ランチにしては1200円とちょっと高いが、6種類くらいカレーがついてて、普段そこらにころがっている北インド料理とは違ってあっさりしていていくらでも食え、すぐ腹が減るのでまた食いたくなる。今日も食後数時間たったら腹が減ってその後一日中またダバ・インディアのカレーが食いたくて仕方が無かった。ほとんど麻薬だな。
 金がなくて最近ロクなもの食ってないが、たまには栄養のあるものも食わないといかんという話である。

2006年 3月 8日 (水)
 金がなくて鼻血も出ない。まあ長い人生、こんな時期もあるかな。

2006年 3月 9日 (木)
 川越に行き、母と会う。

 明後日から痔の手術で入院するのだが、世話好きな母が入院に必要な衣類やら用具やらを用意しておいてくれたというので、とりに行ったのだ。最初は自分で前日くらいに適当に用意するつもりでいたので、大変有り難い。
 母という存在はいくつになっても母である。

 ついでに最近墓参りをしてなかったので、ご先祖様に墓参りをしてきた。
 先日会社に俺の不在時にいきなり父から電話があり、「墓参りに行け、バカ息子」と社員に伝言を残すという暴挙を行なったので、気になっていたのでちょうどよかった。父も相変わらずだ。

豚テキ ついでにステーキのどんで食事。母おすすめの豚テキというのを食ったらトロトロで激ウマだった。俺は牛肉は嫌いでなるべくなら一生食いたくないとさえ思っている男だが、豚肉は大好きなのだ。しかしこんなうまい豚肉料理は食ったことがない。

 ついでにユニクロにも寄った。

 ついでに実家に寄りパソコンの不具合というか不可解を解決し、ついでに最近産まれたアメリカ在住の妹の赤ちゃんの写真や動画をとくと見せてもらった。利発そうな、なかなか可愛いガキで、これでは俺がオジサンになってしまうのも無理ないなと、しみじみ思った。

2006年 3月 10日 (金)
 明日から入院である。手術は土曜日である。

 今日はバタバタと西新宿、銀座、六本木と外回りがあり忙しかったが、それでも夜は早めに仕事を終わらせ、片付けやら準備やらにあけくれた。部屋を大掃除したらえらいゴミが出た。

 病院は我孫子である。やたら遠いが、とりあえず最初に行ったクリニックで紹介されたところがそこだったので、あちこち回るのも面倒くさいのでそこに決めた。

 入院期間は一週間から十日くらいである。一応iBookを持って行くので、入院中も出来る限り通常通り仕事をするつもりだ。本もたくさん持った。DVDはまあ、我慢しよう。

 そういうわけで、切ってまいります。

2006年 3月 11日 (土)
 朝7時に起きて、支度して、病院に向った。片道1時間。遠い遠いと思ってたが割とかからない。我孫子駅から無料バスに乗り病院に着くと、手続きを済ませ、病室に案内される前にレントゲンやらあれこれ検査をさせられた。仕方ないので午前中はボストンバッグかかえて検査室を回った。
 ついでに看護婦さんにケツの毛を剃られた。

 その後、病室に案内された。四人部屋。普通こういう状況では同室の患者どうしでコミュニケーションが行なわれるものだが、なぜか他の三人のベッドはカーテンがピッタリ閉じられ、雑談する雰囲気がまるでない。ましてや肛門科の専門医院なのだから、全員同じ痔仲間じゃないか。
 暫くカーテンを開け放しにしていたが、じきに阿呆らしくなって俺も閉め切った。まあ個室と変わらないから気楽でよいな。

流動食 昼食は素うどん。夜は流動食(画像参照)。明日は手術当日で、一日絶食だそうだ。食うことが三度のめしより好きな俺にはかなり辛いかと思いきや、手術だし、入院だし、あれこれ食いたいなどと思いをめぐらす気持の余裕がなく、不思議と平気でいられた。
 ちなみに流動食は、チキンコンソメスープみたいなのと、砂糖入りの麦茶みたいなのと、フルーツジュースみたいなのだった。

 ラウンジに本棚があり、自由に病室に持ちこみ読んでいいというので、持参してきた本は読まず、ラウンジの本棚から片っ端から読んだことのない作家の本を適当に持ってきては、読んでいた。そして十ページほど読んで、つまらなくて本棚に戻し、また適当に違うのを持ってきては、十ページくらいでまた投げる、というのを延々と繰り返していた。そのうち新井素子のエッセイ集でやっと止まり、ずっとそればっか読んでいた。新井素子は初めて読んだが、なかなか良いな。ちょっと考え方が好きではないのが残念だが、いつか小説も読んでみよう。
 それにしてもつまらない本は多いものの、このそれほど大きくない(いやかなり小さい)本棚に、どおくまんの「熱笑!花沢高校」が全巻あるのは非常に感心なことである。

 そんなこんなで、我孫子の病院での夜はふけていった。明日は手術だ。

2006年 3月 12日 (日)
 痔の手術、当日。

 朝五時半に起こされ、液状の下剤2リットルがでんと机の上に置かれた。これを一時間半で飲み干し、腸の中を空にするようにとのこと。本を読みながら、言われた通りぐびぐびと、ピッタリ一時間半かけて飲み干した。
 お腹がぐるぐると鳴りだし、トイレに駆け込む。座るやいなや、けつから、ぶりぶりというより、シャーッと完全に液体となった状態で、汚物が噴出した。2リットルすべて放出したかと思うほど大量に出た。
 トイレを出てすっきりした顔で本を読んでると、看護婦さんがやってきて、「お通じ何回ありましたか?」と聞くので「一回です」と答えると目を丸くしてもっと出して下さいと言う。もう全部出たっぽいんですがと返答すると、最低三回は出さないと、浣腸しなければならないと宣う。慌てて、本を読みながら二宮尊徳のごとく、病室の前の廊下を行ったり来たり歩きながら、セカンドウェーブが押し寄せるのを待った。
 正直、これはきつかった。俺は十四歳の頃から、二十年以上に渡って痔とつきあってきた。よって一日に二回以上大便をするとおしりがヒリヒリしてしまうので、どんな下痢のときでも、ギリギリまで溜めて、一度に出すという習慣が本能的に身に付いてしまっているのだ。例え2リットルの下剤を飲んだからと言って、こんな短時間に三回もお通じが出来るものではない。
 歩きに歩いて、羽織っていたフリースを脱いでお腹を冷やすようにしたりして、何とかセカンドウェーブを呼び出すと、トイレに駆け込み、またさっきと同じように、シャーッと放出させた。さっきの数分の一の量だが、思ったよりは出た。
 再び病室に戻り本を読んでいると、看護婦さんがやってきて、「出ましたか?」と聞くので二度目が出ましたと答えると、じゃあトイレのウォシュレットで肛門を刺激して何とか三度目を出してくださいと言うので、言われた通りトイレにまたがり、ウォシュレットで肛門を刺激してみたら、ほんの一瞬だけシャッと、ヘアスプレーを一回シュッと押したみたいなのが出た。看護婦さんに報告すると、とりあえず三回出たということにして、何とかオウケイが出た。
 浣腸は無事、まぬがれた。

 手術は午後3時頃。午前中は点滴と大腸内視鏡検査である。
 大腸内視鏡検査はこの機会についでにやるよう勧められ、ついでだから受けてみることにしたのだ。ポリープや大腸がんとか、ないとも限らない。
 点滴の途中で検査室に呼ばれ、ズボンを膝までおろした状態でベッドに寝かされた。そこでいきなり注射をされた。するとみるみるうちに頭の中がボーッとしてきて、いい気持になり、ふわふわと半分眠っているようなハイになった状態で、内視鏡が肛門から侵入してきた。内視鏡が大腸をずるずると通ってゆくのは痛くて気持悪かったが、注射のお陰で気持よく、ぜんぜん不快ではなかった。いやむしろ、あの注射をしてくれるならもう一回やってもいいとさえ思った。
 検査結果は異常無しだった。異常無しという結果が出ると、途端に検査に支払ったプラス●千円の料金が勿体なく思えて来るのは何故だろう。そりゃあ異常アリ、よりは無しの方がよかったが、無いんだったら、最初から受けなきゃよかった。●千円だって大金だ。なんてことを考えている俺は貧乏性ではなく、本物の貧乏である。

 まったり本を読んでいると、だんだんと手術の時間が近づいてきた。ずっと新井素子を読んでいたが、手術間際になると、いつのまにか老子を読んでいた。

 善く行くものは轍迹なし
 善く言うものは瑕謫なし
 善く数うるものは籌策を用いず
 善く閉ずるものは閂なくして、開くべからず
 善く結ぶものは縄約なくして、解くべからず

 なんて言葉が心に染み渡る。
 激励の携帯メールが彼女や占い師のあたる先生や三国志仲間から届き、大腸検査のときにされた注射の余韻でまだボーッとした頭で読んだ(ずっと後で読み返したら、ほとんど初めて読んだみたいだった)。

 「手術の時間です」
 と看護婦さんに呼ばれ、ベッドに乗せられ、そのままガラガラと寝たまま手術室へと向う。ふと看護婦さんに質問する。
 「あのう。さっき大腸検査のときに頭がボーッとする注射されたんですけど、あれ、いいですね」
 「あ? 鎮静剤ですね」と看護婦さん。
 「あれ、痔の手術のときもやってくれるんですか?」
 「さあ……どうでしょう?」
 知らないのかよ。
 「やってくれるといいなあ……なんて思うんですが」
 「じゃあ先生に頼んでみます。頼んだらやってくれるんじゃないでしょうか」
 なんて会話をしてたらアッという間に手術室に突入した。横向きに寝かされ、腰椎麻酔をされる。思ったより痛くない。
 「患者さん、鎮静剤希望でーす」
 と背後でさっきの看護婦さんの声が聞こえる。よかった。ちゃんと言ってくれてる。
 うつむせに寝かされ、下半身がジーンと暖かくしびれてくるのがわかった。
 そんなこんなで、いきなり手術がはじまった。
 おい。待て。鎮静剤は? まだ打ってないよね? まださっきみたいに頭がボーッと気持良くなってないよ。まだ頭はっきりしてるよ。…なんて思ってる間に、お尻をザクザク切り刻む感触が伝わってくる。麻酔が効いているとは言え、それなりには痛い。ちょっとお。鎮静剤はあ? あの気持いいボーッとするやつ打ってからにしてよお。頼むよお。ヤクだ。ヤクをくれええええええええええええええっ!!!
 なんてことを頭の中でわめいているうちに、手術は終了した。なるほど、鎮静剤は打ってくれなかったが、このフェイントは同じような効果があったかもしれない。
 「はい、手術は終わりましたよ」
 背後で医者の声がする。「切り取った痔核ご覧になりますか?」
 「貰えますか、それ?」と質問し返す俺。
 「いや、それはできませんけど、見ますか?」
 「じゃあ見せてください」
 目の前に看護婦さんの手に銀色の四角い皿のガーゼの上にそっと乗せられた、三つの肉のかたまりが差し出された。いつも合わせ鏡の向こうに見ていたあの、俺のけつから突き出ていた小鬼たちが、切り離され、そこにあった。親指の先ほどの大きな塊がふたつ。小指の先ほどの小さな塊がひとつ。
 まるで痔の親子のようだった。

 再び病室に寝かされた俺は、そのまま夜までだらだらとテレビを見たり居眠りしたりしてすごした。麻酔の副作用で頭痛・吐き気が起こる可能性があるというので、明日の朝8時までは身体を起こしてはいけないと言われていた。トイレは尿瓶がベッドの横に置かれていた。
 夜9時ちょっと前、「おしっこ出ましたか?」と看護婦さんが聞いて来るので「まだです」と答えると、10時までに尿瓶で上手に用をたさないと尿管を入れることになるとタイムリミット付きで強迫された。びびって慌ててからだを横にして尿瓶でおしっこをした。上手にできた。
 心配していた尿管も、難なくクリア。

 深夜、手術跡が痛くて目が覚めた。痛くて眠れず、困ってついにナースコールで看護婦さんを呼んだ。寝ていた所を起こされ、不機嫌そうな顔した看護婦さんがやってきた。
 そのあまりの不機嫌そうな顔にびびった俺は、恐る恐るけつが痛くて眠れないことを訴えると、不機嫌ナースはベッド横の机に置いてある白い袋を指差し、この痛み止めの薬は全部飲んだんですか、と聞いてきた。痛み止め?
 痛み止めの薬があるとは知らなかった。説明を聞き逃していたらしい。不機嫌ナースにお詫びを言い、薬を飲んだら暫くして痛みが納まり、その後はぐっすり眠れた。ちなみに噂に聞いていた腰椎麻酔の後遺症の吐き気だとか頭痛はカケラほどもなかった。

 とりあえず手術は本日、無事終了した。しかしまだ難関が残っている。
 痔の手術は手術そのものと同じくらい、その後の経過が大変なのだ。
 まずは第一関門突破、である。

2006年 3月 13日 (月)
 術後一日目。

 昨晩は麻酔の後遺症の恐れがあるからと、ベッドから身を起こしてはいけないと言われていて、かなり窮屈な思いをしたが、めでたく今朝8時に許可が出て、ベッドから起き上がり、普通に動けるようになった。けつは痛いが、それ以外は調子良い。
 食事は昼食からやっと五分粥が出た。おかずに魚やらほうれん草やらあって、みそ汁もついてたりして、貪るように食った。きっと目の色も変わっていたに違いない。
 暇な時間は居眠りするか、ひたすら本を読んでいた。新井素子を読み終わり、またラウンジの本棚からあてすっぽに読んだことのない作家の本を持ってきては、投げる、のくり返しを再開した。次に目が止まったのが古井由吉の随筆。納得のいく思考と渋い大人の文章が心地よく、脳を刺激した。

苺 午後、いきなり六本木のクライアントのTさんが現れた。お見舞い第一号である。「お見舞い行くよー!」とは言っていたが、まさか本当に来てくださるとは思わなかった。お土産に「博多あまおう」なる苺を持ってきてくれた。ありがたくて涙が出る。

 深夜、1時半ごろ目が覚めた。手術跡が痛くて眠れないのだ。
 痛いと言ってもむちゃくちゃ痛いわけではなく、かすかな鈍痛がするだけだが、ずっと切れ目なく延々と痛み続けたら、睡眠に差し支えるものだ。例えばこの十倍の痛みでも、一瞬ならぜんぜん我慢できる。
 まるで昨日切り捨てた痔の親子の怨念が、じわじわと臀部の痛みから聞こえてくるようだった。なあ、二十年のつきあいじゃないか。邪魔になったから見捨てるなんて、酷いよお。俺たち親子を見捨てないでくれよお。お前に見捨てられたら、俺たちどうやって生きていきゃいいんだよお。
 俺は両手を合わせ、「どうか安らかに成仏してください」と痔の親子に向って心の中でつぶやいた。
 すると、不思議とスーッと、痛みが治まってくるような気がした。
 …なわけはない。

 だいたい、なんで最初の一日しか頓服用の痛み止めを処方してくれないのだ。次の日だって痛むだろう、普通。余程ナースコールを押そうかと思ったが、昨晩の看護婦さんの不機嫌そうな顔を思い出すと、恐くて押せなかった。
 そのまま朝まで一睡もできなかった。
 読書がえらくはかどった。

2006年 3月 14日 (火)
 術後二日目。

 今日からもう普通食で、間食も許可が出た。朝食も普通の御飯が出た。久しぶりのまともな食事に感激し、貪るように平らげた。食後に昨日六本木のTさんがお土産にくださった苺を食った。甘くて死ぬかと思った。
 寝不足で、朝食後はこんこんと眠った。点滴で起こされ、点滴をしたまま、手術についての長い日記を書いた。

 何度か便意をもおし、便器にまたがったが、出なかった。
 痔は手術そのものより術後の排便の方が痛いのではないかと予想される。
 未だ一度も出ていないだけに、恐くてしょうがない。
 恐いのに、食欲は鬼のようにわいてくる。

 昼食は御飯と焼肉だった。牛肉は便秘になるという固定観念があり、恐くて全部食えず、ここの食事を初めて残した。
 今日から外来の診察があり、先生に便がなかなか出ないことを訴えると、間髪を入れず「出ます! 出ますから安心してください」と威圧的な口調で言われ、無理矢理納得させられた。

お菓子 三時頃、母が見舞いにやってくる。キットカットやコアラのマーチや和菓子を持参してくれ、貪りるように食いまくった。
 昨日の苺もすべて食い尽くした。よく食う。
 夕食は御飯と魚だった。やはりすべて平らげた。
 夕食後、母は帰っていった。
 俺は仕事を再開しつつ、キットカットを貪り食った。食い過ぎだ。

 久しぶりに風呂に入った。さっぱりした。
 体重を量ったら、なぜか入院当日より2キロ増えていた。
 これがリバウンドってやつだろうか。

 夜、便意をもよおし、トイレに駆け込むと、少し出た。
 肛門を針が通るような痛みが走り、薬をつけてそのまま横になった。
 手術より遥かに痛い、術後の排便。先が思いやられる。

 早く癒えよ、傷。

2006年 3月 15日 (水)
 術後三日目。

 朝食はご飯とみそ汁とおかずと、牛乳だった。パンに牛乳ならわかるが、ご飯とみそ汁に牛乳は飲めない。どういう組み合わせなのだ。わけわからず、食後のデザートがわりに、昨日母が持ってきたコアラのマーチを肴に、牛乳を飲み干した。

屋上 食後、病院を散策。屋上を発見。外の空気を吸いながら、我孫子ののどかな景色を眺め(画像参照)つつ、屋上をぐるぐる歩き回った。歩き回るに屋上は狭すぎるが、さっき看護婦さんに外を散歩できないかと申し出たが却下されたので、現状ではこれで我慢せねばなるまい。先月入院していた友人が退院したとき「やっと娑婆の空気を吸えた」と漏らしていたが、言い得て妙。

 歩き回ったせいか、めでたく便意を催し、トイレに駆け込みまたがると、実に絵に描いたような快便。術後初めてのまともな排泄である。めでたい。めでたいが、けつの痛みときたら、そらすさまじい。傷口が張り裂けるような痛みかと思いきや、むしろ傷口にしみるような痛みだった。文字通り傷口に糞を塗りたくったような痛みと言おうか。そのままだが、それが痛みの度合いを伝える表現としては最も正確なものに思える。

 午後診察があった。医者曰く。
 「浅野さんはかなりデカかったから、ちょっと心配なので、少し長めにいてもらいましょうか」
 というわけで、入院期間は当初の一週間より伸びる雲行きである。長くて十日間と言われていたが、すると退院は日曜日だろうか。
 あとこれも言われた。
 「かなりデカかったから、あちこち肉がたるんでて、完全になくなることはないでしょうけど」
 まあこれは当然であろう。十四歳の頃から二十四年、育て続けてきた痔だ。あれほどざくざくと山脈のようにけつの穴の回りに盛り上がっていたものが、大きな塊ふたつみっつ切り取っただけで、完全に消滅するとは思えない。初めて痔が発生した初期の頃くらいの状態に戻ったという程度なのかもしれない。
 結局、俺は一生痔なのだ。痔も世代交代の時期だったのだ。
 しかし新しい世代はこれ以上育てるわけには、いかない。
 結婚もさせないし、一児をもうけさせたりも、しない。

 夕方、いきなり看護婦さんがやってきて「面会の方がお見えになってます」と宣った。この時点でもう誰か解った。こういう唐突で尚かつ仰々しい登場の仕方をする人物は、ひとりしかいない。
 「きみか。まあ座りたまえ」
 ちょうど夕食を食べ始める所だった俺は、ヤナギマチを椅子に座らせ、とりあえずめしを食いはじめた。食いながら、病院の事、病院の食事の事、我孫子の事、第十回幻想異端文学大賞に彼が投稿した作品の事などをとりとめなく話し合った。
 食後、雑談をしながら、院内を散歩した。夜だったので喫茶店も閉まっており、屋上も出れず、あまり面白い散歩はできなかった。俺も重たい下半身を抱え、あまり調子が良くなかったので、彼は早めに、タクシーで帰っていった。

 夜、激痛と闘いながら、二度目の排便。乙女の出産と比べたらこれしき、と自らに言い聞かせながら、耐えた。

 夜、1時くらいに目が覚め、けつも大して痛くないのに眠れず、朝まで本を読んだりiモードを見たりベッドでもだえたりして、明け方6時頃、やっと眠れた(もちろんすぐに起こされた)。

2006年 3月 16日 (木)
 術後四日目。

 朝食はご飯とみそ汁とおかずと、やはり牛乳。勘弁してほしい。

 毎朝必ず体温を計るのだが、かならず36.9〜37.5度の間だ。
 やたら平熱高いんだな、俺は。初めて気がついた。

 午前中、彼女から「お見舞いに来れない」とメール。昨日から吐き気がして体調が悪いとは聞いていた。その体調を訴える文章に「つわりみたい」と書かれ、さらにまた次の行に「生理がなかなか来ない」と書かれており、死ぬほど驚く。
 その後のメールのやりとりがどうも話がかみあわぬので、よくよく話してみると、「つわりみたい」とは単に体調が悪く吐き気がする状態を「つわりのようだ」と客観的に描写しただけで、それとは別に「今月は生理が遅めだなー」とただ独り言のようにつぶやいただけで、つまりはこのふたつのフレーズの間にいっさい関連性はなく、また思わせぶりなことを言った自覚もまるでなく、まったくの偶然だったということが判明した。
 なんてややこしいメールを送るんだ。

 そう、うちの彼女は重度の天然である。これまで天然と呼ばれる種類の乙女を何人も見てきたが、彼女ほどのレベルは初めて見た。新宿駅で西口だと知ってるはずなのにぬけぬけと東口から出たり、エレベーターでボタンを押さずにずっと立ってたり、自分でメールで質問したことを忘れてて返ってきた返事のメールに狼狽したり、具体例をあげたらきりがない。
 今日もお見舞いにくる予定だったのだが、見事に自分が病気で倒れていたりする。

 午後、母がお見舞いに来た。ユーハイムのバウムクーヘンを買ってきてくれた。食った。うまかった。

 診察。昨日と違う先生で、今日の排便の様子を観て、明日あたり退院の日程を決めましょうと言われた。「昨日の先生にはちょっと長めに入院する方向だと言われたんですが」と訴えると、「昨日の先生は執刀した人だったからでしょう」とのこと。言われてみれば痔は手術も診察もだいたい背を向けてするので、いつも医者の顔が解らず、誰が誰やらという感じである。
 とりあえず頑張って排便すれば、退院が早まるのかな。

 ラウンジの本棚を物色し、「釣りキチ三平」を見つけて読む。実は初めて読んだ。連載当時も少年マガジンは開いても、1ページも目を通したことがなかった。なんと、思ったより面白い。動き、方言、物語、キャラ、すべてが魅力的で、わりと読ませる漫画である。

 夜、術後三度目の排便。前回より痛みのレベルは-1くらいさがったが、まだ激痛の範囲である。

2006年 3月 17日 (金)
 術後五日目。

 いつになったら退院できるのか。いい加減に娑婆の空気を吸いたくなってきた。

 午後、診察。いつ退院できるのか聞くと、「そうですねえ。18日か19日あたりで」と言われた。納得してそのまま退散したが、後で18日と19日、どっちなんだと疑問に思った。その場で気がついてすぐ聞き返せばよかった。バカだ。

 下の売店で週刊モーニングを買い、読み、ラウンジの本棚に寄付した。

 妹からいきなり「お見舞い電報」なるものが届き、病院のホームページからオンラインで入院患者に電報が送れることに気がついた。
 試しにミクシィの日記で宣伝してみたら、ありがたいことに友人たちから素敵な言葉がドドッと届いた。どれもそれぞれの人間を象徴するような個性的な文章で、退屈な入院生活がひとときうるおった。
 この場を借りて、お礼申し上げますm(_ _)m

 iBookを持ち込んで仕事をしているが、しかし異常にはかどらない。原因はネットが遅いことと、食事が三食でること。
 俺はお腹が弱いので、食後すぐに仕事をするとお腹が痛くなる。どうしても食休みが必要になり、一食で軽く2〜3時間のロスになる。三食もとってたら一日の活動時間の半分は食事と食休みに費やすことになり、大変効率が悪いのだ。

 夜、術後四度目の排便。前回より痛みのレベルはさらに-2くらいさがって、ようやく激痛の範囲を脱した。それでもかなり痛い。

2006年 3月 18日 (土)
 術後六日目。今日は大して書くことがない。
 退院はめでたく明後日の日曜日と決まった。
 仕事も読書も相変わらずはかどらなかった。
 体重を量ったら入院当初より3キロ太った。
 夜はなぜか1時間くらいしか眠れなかった。
 釣りキチ三平の作者は祖母の知人だそうだ。

2006年 3月 19日 (日)
 術後七日目。今日は身内の乙女が二人も見舞いにおいでくださった。

入院中 まず昼、彼女が見舞いに来た。やっと病気が治り、最終日にギリギリすべりこみセーフという形でのおめみえである。ちょうど昼めしの時間で、彼女もそれを計算に入れコンビニでおにぎりを買ってきたので、一緒に食った。食後、院内を散歩。屋上に行って、外の空気を吸いながら、語り合った。青空の下で彼女の笑顔は、いつもと違うさわやかさにあふれていた。お土産はうまい棒。

 夜は妹の静香がやってきた。本当に来てくれたとは。ありがたい。お土産は週刊スパ(なんでやねん)。画像は静香撮影。

 明日は退院だ。

2006年 3月 20日 (月)
 退院。あるいは出所と言い換えるか。

 起床。私服に着がえ、荷物をまとめる。朝食。ラウンジで「熱笑!花沢高校」を読みながら会計の時間を待つ。第三巻の途中まで読んだところで放送があり、受付にむかい、会計をすませ、晴れて自由の身になった。

 とりあえず外に出た。日曜なのでシャトルバスは出ておらず、タクシーも見当たらないので、とりあえずぼちぼち歩きはじめた。なかなかタクシーは通らず、我孫子駅はかなり遠い。退院したばかりで重たいバッグみっつ抱えて駅まで歩くのはやはり無理があると悟り、病院まで戻って携帯でタクシーを呼んだ。

 久しぶりに吸った娑婆の空気は思いのほか新鮮で、たかが一週間のあいだ浮世を離れていただけなのにこの感覚はなんだと驚いた。人の群れがやたらモノ珍しく目に映り、自由にどこにでも行けることが無性に嬉しい。
 なるほど、一週間ほどの浮世離れでこの感覚を味わえるのだとしたら、精神の鍛錬次第ではこの感覚をなんら外部からの刺激なく、自発的かつ自在に引き出すようになることは可能であろう。脳内麻薬の放出方法の呼吸の一端をつかんだ気がした。

 そんな無意味なことを考えつつ、なつかしの事務所にたどり着いた。郵便受けの中も机の上も紙の山。それを右から左へとかきわけ、何とか腰を落ち着けた。

 まだ午後1時半だった。

 とりあえず発芽玄米を炊き、コンビニで買い物をし、めしを食い、DVDを見、レンタルビデオ屋に行き、排泄し、消毒し、半身浴をし、薬をつけ、本を読み、執筆し、お菓子を食い、薬を飲んで、夜は2時前に寝た。

2006年 3月 21日 (火)
 退院後、初仕事。

 朝7時半に起き、シャワーを浴び、誰もいない事務所に出社した。快気祝いに赤飯を炊いた。かつて、よくけつから血を流し、人から「女の子の日」だとか囃されたものだが、その回復を祝して赤飯を炊くというのも皮肉なものである。まあ単に赤飯が好きで食いたかっただけだ。
 暫くしてつぶらがやってきた。

 たまっていた仕事を午前中のうちにパッパと終わらせ、お昼、赤飯を食った。食いながら、Yahoo動画でゼンダマンを見ていた。意外といま見ても笑える。


 午後、便意あるいは恐怖という名の生理現象をもよおした。
 現在の俺にとって、排便は仕事以上の大仕事である。その作業工程を説明してみよう。ただし、食事中の方、汚い話が嫌いな方は読み飛ばして頂ければと。
 (1)まず、便意をもよおする。
 (2)準備段階として、風呂桶にお湯をためはじめ、痛み止めの薬を飲む。この際なるべく水を多めに飲み、腸を蠢動させ、排便を極力スムーズに行なう為の配慮を忘れない。
 (3)タバコを一本吸いながら、下腹部をさすりさすり、部屋をウロウロ歩き回る。少しでも便の通りを良くする最善の配慮である。別の言葉でこれを強迫観念とも言う。
 (4)トイレに突入。必須アイテムは、軟膏、消毒薬、ガーゼ、本、そして携帯である。
 (5)便器にまたがり、携帯で時間を見ながら排泄。いきむ時間は5分以内。これ以上経過したら、例え便意が残っていても、中断する。
 (6)局部を石鹸とお湯で丹念に洗う。おしりは清潔に。
 (7)半身浴。肛門の血流を良くする為である。本を読みながら、十数分浸かる。
 (8)局部をよく拭いた後、消毒し、軟膏をつけ、ガーゼをあてがい、パンツを履く。
 (9)ベッドにうつ伏せになり、痛みが引くのを待つ。これがなかなか引かず、30分〜1時間くらいは横になり唸っている。

 以上、排便で軽く1〜2時間はかかるのだ。それでもなかなか回復しないので、最後はまだわずかな痛みを残したまま、日常生活に戻らなければならない。
 斯様な状態なので、いまだ「手術してよかったなあ。スッキリした」という気分を味わっていない。そう思えるまであと1〜2週間くらいはかかるだろうか。
 戦いはまだ、続く。


 夜は2時前に寝た。服役生活でしみついた生活のリズムがある程度定着したようだ。この調子でいこう。

2006年 3月 22日 (水)
 退院して前線復帰したと思ってたらいきなり祭日。
 第十回幻想異端文学大賞に投稿する地獄小説の執筆にとりかかったが、どうものらないのでDVDで映画を見たり、彼女とネットマーブルの野菜村というゲームで遊んでたりしていた。

山の郵便配達 本日鑑賞した映画は中国映画「山の郵便配達」。最近このての中国の田舎映画にはまっている。
 インド映画もそうだが、発展途上国の田舎映画の世界は、埼玉に生まれ東京を活動拠点とする俺のような人間にとって、想像を絶する習慣や常識そして情熱にあふれていて、得体の知れない魅力を感じる。
 手紙のいっぱい詰まったリュックを背負い、山から山を越え、二泊三日かけて田舎の村村に手紙を届けて回るという過酷な仕事を何十年続けてきた父と、その後を継ぎ山の郵便配達人として新たな人生を歩み始める息子の、世代交代を通して描かれる親子愛、そして行く先々で手紙を待ち望む田舎の人々の人間模様、それらをとりまく厳しくも優しい大自然の風景。なによりも純粋で奥深いドラマなのだ。
 願わくばチャン・イーモウあたりに撮ってもらいたかった。最近、同種の映画でスゴいものを観すぎてしまった。ちょっと残念なのだ。

2006年 3月 23日 (木)
 下痢をした。痔の手術をしたばかりの身にあるまじき事態である。しかし思ったより大事には至らなかった。だいぶ回復しているようだ。肛門よ、恐るるなかれ。という天の声が聞こえたような気がした。下痢もまた、天意である。

2006年 3月 24日 (金)
 キャラメルコーンのバナナ味が新しく出ていたので、買ってみる。金が無くて困ってて毎日食事は一食のみしかも500円以内とか言ってる身なのに、困ったものだ。
 食ってみたら、甘ったるくてあまりうまくなかった。キャラメルコーンは好きだが、元祖以外はあまりうまいと思った覚えがない。ピーナツも入ってないし。
 そんなことはどうでもいいから金返してくれ。

 それから幻想異端文学連盟掲示板がイタズラが多いので書き込みを一時休止にした。最初、書き込みフォームを表示させないようにしといたが、尚もイタズラの書き込みが続々投稿されるので、ログファイルのパーミッションを書き込み不可に変更せねばならなかった。手の込んだことしやがる。
 とりあえず暫くは言いたいことのある方はミクシィの方でお願いします。

2006年 3月 25日 (土)
夕陽のガンマン セルジオ・レオーネ監督の「夕陽のガンマン」を見た。クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフ主演。これぞマカロニ・ウエスタンの真骨頂であり、醍醐味である。感想など書く必要もない。いや、書けない。マカロニ・ウエスタンとしてハマりすぎたキャストとストーリーと演出。これだけで解る人は解るし、解らない人は見るしかない。文章で伝えることは不可能である。つまりは感想など無用ということだ。
 それにしてもリー・ヴァン・クリーフのカッコいいこと。見直した。


 最近経済的に危機である。俺の人生でこれほど金に困った時期もおよそなかった。原因は俺の意地もあれば、怠慢もあるし、甘さもある。結局は俺の内面的な問題なのだと言える。

2006年 3月 26日 (日)
メガネと私 普通のメガネを買った。俺はメガネが大嫌いなので、ずっと薄いサングラスか使い捨てコンタクトレンズを着用していた。サングラスはプライベート用で、コンタクトは仕事用である。その使い捨てコンタクトがなくなった。新しく補給しようにも金がない。月曜日に接客がある。そこで妥協ということになった。
 なるべくセンスのよいものを選び被害を最小限に食い止めようと、彼女を同行させ選んでもらった。金が無いのでもちろん激安店の5千円くらいのものを買った。試しに一日かけてみたが、新しいメガネは視界が狭く、肩が凝る(画像参照)。


 菊の門が痒くてしょうがない。痒いということは、手術跡が治りかけているということだ。つまりは良いことである。至極痒いという普段なら不快な感覚が、回復に向っているという肯定的で好ましい意識により、まったく不快ではなく、掻きたいけど掻けないというジレンマにも繋がらず、痒いのに事実上痒くないと同じという崇高な精神状態にまで昇華している。ささやかながら精神が肉体を超越したひとコマである。

2006年 3月 27日 (月)
 無気力を絵に描いたような一日だった。理由は金がなく精神的な余裕を失っていること、週末なのに仕事で休息をとらなかった事、昨晩夜ふかしし今朝寝坊して生活のリズムを失いかけていること、下痢をして昼食にインド料理を食い損ねたこと、等があげられる。
 スーパーで買い物をし、インドカレーを作ったり、夜は少し執筆をしたりしたが、最悪ではなかったがそれほどうまくはいかず、無気力状態から脱するには至らなかった。慰めにネットで人と話す気にもならず、虚空を見つめる瞬間が目立った。
 夜はタランティーノの「キルビル」を見た。先日セルジオ・レオーネの西部劇を見た余韻によるものである。唯一生きている実感を得られたひとときだった。いや、スーパーで買い物をしている時、霜降り和牛の試食をした時も、生きている実感を得られた。こんな時に限って嫌いな牛肉に癒されるとは、何やら情けない。

2006年 3月 28日 (火)
 府中。六本木。近所。

2006年 3月 29日 (水)
 本ばかり読んでいる。ニコチン中毒はほぼ完治したが、活字中毒は悪化する一方である。何かを読んでいるととりあえず落ち着く。読書は金がかからなくてよい。

2006年 3月 30日 (木)
表札 一階のエレベーター前にある我が社の表札が風化して、ほとんど見えなくなっていたので、新しく作った。社の経営が悪化したから表札まで消えそうになったのか、表札が霞んできたから社の業績も霞んできたのかわからないが、時間があるならとりあえず形から改善してゆくのも手である。その前に風呂場の排水口の詰まりとか、汚れた流し台とか他にもやることあるだろうと突っ込みが入りそうだが、それらもそれはそれでそのうちやる。
 表札に使ったイラストレーターのファイルを探していて、前に仕事で作ったホームページのファイルとかいろいろ見つかって、懐かしさに暫く読みふけった。この頃はひとりでがんばっていたなあ、としみじみ想いをめぐらす。あの頃の仕事にかける情熱を今は失ってしまったのかというとぜんぜんそんな気はしないのだが、何かが変化し、何かが惰性となっていることは確かだった。
 最近つらつら“状態”とは“変化”なのだと気がついた。物事は常に何らかの形で変化し続けるものであり、その変化の仕方がつまりは状態なのである。よって純然たる状態は状態にあらず、変化し続けることによって状態は常態として保たれるのだ。だから肝に銘じておくべきは、前もそうだったから今回も同じで良いと考えるのは、既にそうであることを否定するのと同じであり、ひいては存在の否定であるとも言える。同じであるために、それがそれであるために、自分が自分であるために、新しい形態を求め、変化し続ける。それが人間であり、人間性なのである。
 そんなことを考えながら、新しい表札をとりつけた。面倒くさいので前回と同じデザインである。

2006年 3月 31日 (金)
 最近夜は2時か3時に就寝し、朝は7時か8時か遅くとも9時には起きて午前中から仕事をする生活が続いている。入院生活の余波である。かつて朝の7時に寝て昼過ぎ起きる生活を続けていた俺が、とんでもない変化だ。これがかなり具合がよろしい。
 よく朝早く起きると一日が長く感じるというが、本当に物理的な意味で一日が長くなっているとしか思えないほど、物事が片付く。以前は手帳に書き記しておいたその日の予定が二三必ず次の日に持ち越しになったりしていたのに、今はそれらがすべて暗くなる頃には終わり、余った時間で次の日の仕事にさえとりかかれるまでになった。
 今まで夜行性だの夜型人間だのデカルト(寝坊だったらしい)だの言ってたのが阿呆らしい。人生、早寝早起きに勝るものはない。同じ年月を生き、出来るだけ効率良く多くの事を成し遂げんと欲するならば、早寝早起きは三文の得以上の価値があろう。これから残り五十年の人生、ずっとこれでいこう。
 この数ヶ月の俺の生活の変化はすさまじい。煙草をやめ(限りなく節煙に近いが)、痔の手術をし、昼型の生活に戻った。こうなると現在の経済危機も、天から意図的に仕組まれた何らかの生活改善のきっかけなのではないかと思えてくる。いや、実際そうなのだ。わかっている。つまりはパイプの詰まりを治せということだ。


戻る
wwwnikki ver 0.641(20020410) (c)AuSYSTEM 2002