非幻想異端的日常
2008年 9月 1日 (月)
 Reの主演の近藤さんがひさびさに西から上京してくるというので、Reのスタッフを集めて軽く飲み会をした。彼はこないだの打ち上げに参加できなかったので、そのかわりのプチ打ち上げのようなものである。
 集まったのはテステス助監督、やっさん、俺、そして近藤さんの四人。場所は歌舞伎町・東通りの中華料理屋。Reの制作中、よくこの近くのルノアールで会議をやって、その帰りにここでめしを食ったのだ。
 近藤さんは来週、演技の勉強にニューヨークに旅立つ。成長した彼とまたいつか映画を撮れるのが楽しみだ。

 三時間ほど飲んで食ってから、近くで大縁会がやっていたので、四人を引き連れ合流。
 今宵の大縁会は大人数で、盛りあがっていた。俺は楽しくて、カメラを回して皆を撮影していた。

 大縁会の後、ドラゴン監督と初めて知り合った俳優さんとゴールデン街の談SINGシネマで飲んだ。その初めて知り合った俳優さんというのが、俺がちょっと手伝った知り合いの自主映画に出演していてびっくりした。

2008年 9月 2日 (火)
 クライアントがホームページ制作費を払わないので、いついつまでに払わないと制作したホームページをいったん削除しますと警告しら、スイマセンきっと払いますと言っておきながら、期日までにとうとう入金がなく、ホームページを削除しようと思ったら、なんとサーバのパスワードが変えられていた。見事な確信犯じゃないか。また人に裏切られた。
 幸い、万が一パスワードを変えられていてもホームページが削除できるよう細工をほどこしていたので、とりあえずペナルティを負ってもらうことは叶ったが、しかし入金がなければこの問題は真に解決することはない。相手は金に困っているからと釈明するが、そんなこと言ったら俺だって深刻である。借金はまだ掃いて捨てるほどあるし(本当に掃いて捨てられたら楽だよな)、次回作の制作費だって稼がにゃならん。
 実は同じように入金が滞っているクライアントが他にも複数あったりする。そろそろこんなバカな茶番は終わりにしようじゃないか。

2008年 9月 3日 (水)
 六本木デー。

2008年 9月 4日 (木)
 深夜零時に池袋にて撮影。こんな時間から撮影なんて初めてだ。
 実はこないだ撮影にきてくれと依頼があり、次にスケジュールがとれるのは2週間先ですと言ったら、そんなに待てないので、深夜でもいいから時間とってくれと言うので、こんな時間になったのである。
 設備が揃わなくて場所を移動したりしてて撮影がはじまったのが深夜1時。それからまったり、モデルさんと話しをしながら2時間ほどカメラを回し続け、途中休憩も入れて結局おわったのが朝の4時近くだった。ずいぶん時間かかったが、楽しかった。でも編集、かなり大変そう。
 近くのインド料理でフィッシュバターマサラカレーを食って帰った。

2008年 9月 5日 (金)
 最近ホームページを作った「ライフ・スタイル研究所」(名前は研究機関みたいだが、心と身体の健康を考える家庭料理教室である)でスリランカ風チキンカレーをごちそうになり、レシピも教わった。今度作ってみよう。
 ここにくる度に食に関するためになる知識をいろいろ教わるので、食生活が変わる。お料理を通して健康的な食生活を学びたいというかたは、ぜひここのレッスンを受けてみてはいかがでしょうか。

2008年 9月 6日 (土)
 鼻金。

2008年 9月 7日 (日)
 冷蔵庫に一昨日炊いた冷たい十六穀米ご飯がたくさんあったので、スーパーで炒飯の元とドライカレーの元を買ってきてミックスして十六穀米ドライカレー炒飯(ようするに具の多いドライカレーである)をつくって食った。これでも一応、ひさびさの料理であった。

2008年 9月 8日 (月)
 休日だが、休日じゃなかった。

2008年 9月 9日 (火)
 仕事だったが、仕事にならなかった。

2008年 9月 10日 (水)
 暇じゃないが、暇だった。

2008年 9月 11日 (木)
 デビッド・リンチ監督の「インランド・エンパイア」を見た。
★★ 三時間もあって、忙しくて最初から最後まで一気に見る暇がなかったので、毎日少しづつ見て、とうとう三週間くらいかかってしまった。わりと前半におもしろいシーンがたくさんあって、それまで見たところまでのおもしろいシーンをくり返し見ながら先に見進めていたので、こんなに時間がかかってしまったのだ。結局この映画の前半のシーンは十回以上見ていて、後半のシーンになるにつれて見てる回数が少なくなり、最後のシーンは一回だけしか見ていないという、非常にバランスの悪い観賞っぷりだったが、後半はあまりおもしろくなかったので、まあよい。
 前半のテレビに出演するシーンとか、変なおばさんが引っ越しの挨拶にくるシーンとか、リハーサルのシーンとか、人間関係の微妙なズレを増幅してシュールな映像表現に昇華させるようなリンチ独特の作風が最高におもしろくて、ひさびさにリンチ・イズムを楽しめた気がする。思えば高校の頃に大ファンだったリンチ映画から遠ざかって久しい。
 ところが後半、この映画は破綻する。いや、これを破綻と呼んでいいのか疑問だが(いいわけない)、デビュー作の「イレイザー・ヘッド」がちょうどこんな感じで、前半はシュールな雰囲気の中にもまだストーリーが追えたのだが、後半はもう何がなんだかわからなくなり、ただ支離滅裂な映像の羅列となる。
 「イレイザーヘッド」は大好きな映画だったが、これはイマイチついていけなかった。前半がおもしろすぎただけに、後半の無意味な完全シュール化現象が浅く薄っぺらなものに思えてしまったのもしれないし、単にリンチの作風に飽きただけかもしれない。昔のリンチに比べて映像にどことなくキレがなくなってきた気もする。
 ノーラ・ダーンの演技はとてもよかった。その他のキャストも皆すばらしかった。なにげに渋いカメオ出演があって、エンド・クレジットでただ座っているだけのナスターシャ・キンスキーとか、裕木奈江とか、随所に意外な顔ぶれが楽しめる。
 ちなみにリンチによれば、この映画の内容をひとことで表すと“woman in trouble”なんだそうだ。それじゃまったくわかんねえよ。説明までシュールだ。

2008年 9月 12日 (金)
 有名(らしい)なピアニストの方からインターネットの企画の問い合せがあり、打ち合わせに行ってきた。場所は歩いて二十分くらいの近所だった。八十歳以上の高齢で尚も夢を追い求める素晴らしい方で、背筋もしゅっとしていて自らをアナログ人間と称しながら大変理解力もあり、実に話しが早かった。しかし企画の実施は2010年なのでゆっくりでいいらしい。
 それにしてもダイヤルアップってものを数年ぶりに見たな。

 用事があって川越の実家に帰って母とデニーズでめしを食った。母はもうすぐ長期でアメリカに行ってしまうらしい。家族にもいろいろあるようだ。

2008年 9月 13日 (土)
 カレーを食うときはいつもクミン・ライスを炊くのだが、最近クミン・ライスにも飽きてきたので、ターメリック・ライスをつくってみた。普通に米を磨いで、ターメリック・パウダーをふり、カルダモン・シードをひと粒、塩を少々、バターをひとかけ入れて、普通に炊くだけだが、これがうまいので、ここ数日毎日カレーばかり食っている。
 ちなみにクミン・ライスの場合はターメリックとカルダモンのかわりにクミン・シードをぱらぱらと入れるだけだ。ご飯にこれっぽっちの細工を施すだけでカレーが数倍うまくなるし、クミンやカルダモンは消化を助ける要素もあるので、からだにも良い。
 カレー本体がレトルトというのが珠に傷だが。

2008年 9月 14日 (日)
 数日前、何かを食べていた衝撃で前歯にバキッとヒビが入った。舌で触れるとヒビ割れの部分が凸凹して違和感があるので今日、爪楊枝でつついたら、右三分の一くらいがぽろりとかけて落ちた。鏡を見ると前歯に5ミリほどの隙間が空いて情けない顔になったが、カケラを歯の元の位置に戻すと難なく納まり、普通にしていれば落ちないし、そのまま普通に食事もできるし、見た目も完全無欠の前歯と見分けがつかないので、とりあえずこのまま生きてゆくことにした。

2008年 9月 15日 (月)
 連休なのでこの隙にとっとと終わらせなければならない動画編集の仕事を片付けてしまおうと思ったら、平日にやりきれなかった仕事が残っていたので、それをずっとやっていた。このぶんだと新作の脚本にとりかかれるのはいつのことか、先が思いやられる。
 休日なのに一日中家にいるのは虚しいので、スーパーに行き(ほとんど外出のうちに入らないな)カレーの材料を買ってきて、ひさびさにカレーを作った。ターメリック・ライスはちゃんと作って肝心のカレーがレトルト・カレーばかりでは中途半端だと思って。
 材料は骨つきの鶏肉、トマト、椎茸、バター、玉ねぎ、白ごま、そしてカレー粉とホール・スパイス。椎茸を水でもどし、白ごまをすり、鶏肉をカレー粉でマリネして表面だけ焼く。玉ねぎとトマトはいい加減に細かく切る。鍋の底にサラダオイルを入れてホール・スパイスを香りがたつまで炒め、すぐに玉ねぎを入れて炒める。玉ねぎが少しよれっとしてきたら、トマト、椎茸、水を入れ、しばらく煮る。具がやわらかくなってきたら椎茸は除いて(そのものを食うのは嫌いなのだ)、白ごま、カレー粉、塩を入れ、また少し煮てから仕上げにガラムマサラと白ごまとバターを入れて、完成である。こないだ教えてもらったスリランカ風チキン・カレーを俺なりにアレンジしたのだ。食ってみたら、少しスパイスを入れすぎて辛かったが、まぁうまい。しかしこれはもはや、スリランカ風とか関係なかろう。
 仕事も九割方終わった。明日は動画編集に入れるだろう。脚本はこの連休中は無理そうだ。

2008年 9月 16日 (火)
 連休二日目。午前中はランドリーで洗濯をし、昨日作ったカレーを食い、動画編集をした。かなりの量があるので、なかなか進まない。結局、夜までかかって粗編集が半分も終わらなかった。
 夜は残った仕事を最後まで終わらせた。休日はだらだらと仕事三昧ではい、終了〜。

2008年 9月 17日 (水)
 映画「犬神家の一族」を見た。市川崑が2006年に自分でリメイクした新しいほうである。
 いっとくが、俺は旧作も見ていないし、原作も読んでいなかった。スケキヨだのアオヌマシズマだの、名前は知っていたが、それがどんなストーリーに登場するどんな人物なのかはさっぱり知らなかった。そんな白紙の状態からの観賞である。
★★★ 旧作は見ていない俺でも、いやだからこそとも言えるが、この映画の併せ持つ昭和から引きずってきたものと新しく取り入れたものとのバランスはなかなか楽しかった。最新の映像美と現在の俳優たちを使ったキャスティングは間違いなく21世紀の映画だが、その内容は、音楽や効果音の使い方、沼から足だけ突き出ているショットに代表される定番の惨殺シーン、そして石坂浩二演ずる金田一耕助の活躍ぶりなど、あえて今の時代に逆行した、昭和の香りをそのままに生かした演出である。
 こういう作品にこそ巨匠の神業が浮き彫りになるものだ。若い監督の作品には見られない、味のある人物描写やストーリー展開が見ていて心地よかった。例えば松坂慶子と奥菜恵が親子を演じていたのだが、このふたりが親子だけに微妙にキャラが似ていて、こういう繊細な演出を難なくできるのがやはり巨匠の巨匠たる所以なのだと思う。それにしてもこのふたりは登場シーンこそ少なかったが、実にうまかった。
 その他、豪華キャストはどれも世界にはまっていて素晴らしかったが、意外にも深田恭子がよかった。彼女は女優としてすっかり天然ふわふわキャラが板についており、一見このドロドロとした横溝ミステリーの世界には軽すぎて合わなそうに思えたが、なかなかどうして、どことなくシャープな魅力をたたえたあの瞳がしっくりとマッチしている。もともと彼女の瞳にはどこか完全な天然キャラというだけでは片付けられない奥深い魅力を感じていたのだ。それがこういう形で横溝ミステリーの世界にリンクするとは思わなかった。もちろん他のキャストと比べて軽くはあるのだが、好きな女優なので気にならない。むしろ松嶋菜々子の存在感が要求されるレベルからして軽かったような気がする。
 ミステリーとしては特にびっくりもしなかったし、納得もしなかった。やはりこの映画は、ホコリ臭い昭和の香りの中で、犬神家の一族のめんめんが遺産に目をギラギラさせたり、ドロドロとした愛憎劇を繰り広げたりする様を味わう作品だといえよう。

2008年 9月 18日 (木)
 五反田で打ち合わせとお食事。新橋で集金と説明。銀座で挨拶とプチ集金。そして渋谷。
 夜、テレ東を見ていたら撮影したことのある女王様が三人そろって出演していた。

2008年 9月 19日 (金)
 俺はサドマニアという、日本で初にして唯一のサド侯爵の研究サイト(ファンサイトと言い換えても可)をつくっているのは最近では忘れ去られた観のある周知の事実だが、最近スピリチュアル占い師のあたる♪ちゃんと話しをしていて、どうやら俺の前世か、もしくは俺を守ってくださっている方の前世がサド侯爵と関係があるらしいということがわかってきたそうだ。
 そこでサド侯爵に興味をもったあたる♪ちゃんが図書館でサド侯爵関連の書籍を注文したら、あちらの世界にいるサド侯爵の魂からメッセージを受けとったらしい。
 その内容が非常に興味深いのでここに掲載してみる。

 「私が拘束を強いられた生活の中で作り上げたものは皆、『人から自由を奪った結果に生じる事』として発表したかった。抑圧の結果としての爆発」

 そして、現在サド侯爵の文学が広く世界中に受け入れられている事実に関して以下のようなことをおっしゃっている。

 「性的描写や作風についてばかり論じられているのは不本意だが、興味深い。
 世の中に、時代に向けて、波紋のもとを投げたかったのだ。
 毒蜂の一刺しのように、権力にひざまづいている奴等を嘲ってやりたかったのだ。
 抑圧された思想も民衆も、もっと随所で爆発すべきだったのだ。
 あの頃の私は、誰の中においても一番抑圧されている部分は、性の自由だと感じていた。」

 とのことである。“現在”のサド侯爵の言葉として実に的を得ていて、興味深い内容ではないか。サド侯爵を知っている方には、どれも最近サド侯爵を初めて知って図書館に書籍を注文したばかりの女性が語れる内容ではないことはおわかりいただけるかと思う。
 いっそサドマニアに掲載しようかと思ったが、長らく更新をさぼっていて久々の更新がスピリチュアルでは妖しすぎるので、とりあえずこちらに掲載してみた。
 現在サド侯爵の魂は治安の悪い国にいて、そこの人々が何とか亡命して存在の痕跡を残してほしいと陰ながら応援しているらしい。あと芸術等の各分野にも応援している男達がいるそうだ。“男達”というところがサド侯爵らしくてまた興味深い。
 あとサド侯爵とゲンスブールは何かしら関係があるとのことである。

 以前、宜保愛子がベルサイユ宮殿を訪れてマリー・アントワネットを霊視してその生の声を伝えたり、名前は忘れたが誰か霊能者がテレビで天草四郎の死の真相を霊視してたりと、よくそういうのがあるが、スピリチュアルが科学的に証明されたら歴史の解明に大きく役立つことだろう。しかし本来スピリチュアルな視点とは物事を科学的な視点とは別の視点として捉える働きなので、スピリチュアルと科学は同じ次元で論じられるべきではないし、スピリチュアルが科学で証明されることも永遠にないのだろう。
 というわけで、本日の日記はサド侯爵の文学を読んだり彼について書かれた資料に当たったりして、サド侯爵を歴史的に研究するのとはちょっと角度を変えて、別の視点からサド侯爵の精神に触れてみようという試みである。ぜひ右脳で読んでいただきたい。

2008年 9月 20日 (土)
 映画「キサラギ」を見た。1年前に焼身自殺したアイドル・如月ミキの一周忌に集まった5人のファンたちが如月ミキの死の真相に迫ってゆくという一室劇である。やられた。この映画にはやられた。
★★★★ 基本的に俺は映画は、いや芸術は、ディテールにこそその神が宿るものだと思っている。映画で言うと、行間である。行間とは、ストーリーには描かれていない、登場人物の人間性であり、人生である。ストーリーは行間をのせる器のようなものだ。だから俺は最近の映画によくある、行間がまったく描かれておらず、ただ映像でストーリーを説明しただけのような映画が大嫌いだ。もちろんストーリーも大事だが、ストーリーだけでおもしろい映画などいくらおもしろくてもたかが知れてると思っていた。
 ところが、だ。この映画はどうだ。行間は最悪である。登場人物はただストーリーを説明するだけの記号のようなキャラ設定で、まったく魅力が感じられず、会話だけで進むストーリー展開はひたすら騒がしくて、耳障りな喧嘩とただストーリーを説明するだけのセリフが延々と続くのみ。
 普通ならアホらしくて途中で見るのを止めるところだが、これが非常におもしろくて、一気に最後まで見てしまった。なんて巧妙な脚本なんだ。まるでジグソーパズルのピースをひとつひとつはめてゆくような絶妙なストーリー展開。人間性を無視して、ストーリーだけでこれほど魅せる映画もなかろう。
 何よりも巧妙なのは、謎がひとつ解けるごとに、不自然な違和感がひとつ増えるのだ。「なるほどそうだったのか。しかし待てよ、ちょっと変だな…」と思っていると、後に浮かび上がる新たな事実でその違和感は解消される。しかし代わりにまた新たな違和感が生まれる。そしてその違和感が解消され…といったペースで、三歩進んで二歩下がるかのように、次第に如月ミキの死の真相が明らかになってゆき、とうとう最後にジグソーパズルのピースがすべて埋まるのだ。
 さらに巧妙なのが、謎が解明されてゆく過程で、じわじわと如月ミキというアイドルの人間性が浮かび上がってくることである。この映画に行間が描かれている部分が唯一あるとすれば、そこだけだが、その巧妙さは他の演出のズサンさを大目に見て有り余るほどだ。
 エンディングの如月ミキの歌を聴いていたら、この映画がずっと追い求めていたものは、如月ミキの死の真相なのではなく、如月ミキという人間そのものだったのだと、しみじみそう思えてきた。そうか、このエンディングの映像がジグソーパズルの本当の最後の1ピースだったんだな。
 この映画のエンディングは賛否両論あるが、ジグソーパズルの最後の最後の1ピースとして、俺はとてもしっくりきたので、とてもいいと思う。それよりせっかく完成したジグソーパズルをまたぐちゃぐちゃっとしやがったようなエンディング後のオチがバカだ。

2008年 9月 21日 (日)
★★ 「演歌なアイツは夜ごと不条理(パンク)な夢を見る」のDVDを見た。これは1992年に日本テレビで放映された全5話のTVドラマである。そのあまりのカルトで過激な内容に、一度も再放送されたことがなく、ずっと幻の作品だったところがこの度やっとDVD化が実現し、話題になっているというので、借りて見てみたのだ。脚本は松尾スズキ(一部、宮藤官九郎)。主演は竹中直人。四ヶ月前に「大人計画」に入団したばかりの阿部サダヲ(当時二十歳)も出ている。
 確かにやたらカルトな内容で、大量殺人、覚醒剤、レズ、黒魔術、近親相姦、スキャナーズ、サンゲリア等、アイテムをあげたら切りがない。思えば松尾スズキって、「恋の門」とか「クワイエットルームへようこそ」とか、俺はもともと映画専門の人間なので、当たり障りのないテーマを扱った映画をメインにこれまで彼に接してきたのだが、もともと彼の本質はダークであり、ジョン・ウォーターズの初期作品ばりにバッドテイストなのだ。演劇「キレイ」なんて、カニバリズムあり、戦争あり、死体の山ありの、タイトルからは想像もつかないグロい作品だったではないか。俺が彼を好きになったきっかけであるテレビドラマ「恋は余計なお世話:なに怒ってんの深津ちゃん、しのぶ全然分かんないスペシャル」とか、最高傑作だと思っている映画「恋の門」などは、ダークな趣向を呑み込んで、ただひたすらシュールな言葉と奇妙な人間観察力だけを炸裂させたいわゆる一般向け作品だったのだ。「クワイエットルームへようこそ」なんて舞台こそ精神病院だが、彼が本気で蛇口を全開にしたらあんなもんで済むわけがない。
 特にこのドラマは1992年の作品だけに、まだ松尾スズキ独特の言語感覚が完成されていないのか、ダイアローグが普通っぽいので、余計ドロドロした気持ち悪さが全面を支配している。見ていてこんな不快になるTVドラマもない。なんとなく初めて松尾スズキの本当の作風がわかったような気がした。彼は本当はキチガイ群像劇の大御所なのだ。危ない人なのだ。一般の人は近寄っちゃいけないのだ。クワイエットルームにでも隔離しないといけないのだ。またこの本性をいつ表すかわかったものではない。そういえば、彼が責任編集をつとめる季刊誌「hon-nin」で彼が連載している小説も、こんな感じだ。自分のテリトリーで文字だけの媒体なら文句をつけるやつも少ないとばかりに、密かにその狂気を炸裂させているのである。
 惜しむらくは16年前にリアルタイムで何気なくつけたテレビでこの番組を発見して最初に触れたかった。さぞや強烈なトラウマとして頭に残ったに違いない。このDVD化はそんな不幸な体験をしてしまった人が、十数年ぶりにトラウマを再確認するための映像であり、その後の精錬された松尾スズキ作品に接して満足していた者が今さら初めて見てもどうせいっちゅうのか。
 「ヘアスプレー」を見てジョン・ウォーターズのファンになった者が今さら「ピンクフラミンゴ」を見ても気持ち悪いだけなのと同じである。

2008年 9月 22日 (月)
 Reのヒロインを演じた椿琴美さんの劇団がスウェーデン大使館でスウェーデンの芝居をやるというので見にいった。もちろん椿さんが出演するのを期待していったのだが、あいにく彼女は怪我をして降板になってしまい、俺にとってメイン不在の芝居鑑賞であった。
 それにしてもツッコミどころの多い芝居であった。70年代とか60年代とかそのくらいの時代のヨーロッパが舞台なのに、なぜか俳優さんがTシャツを着ていたり(後で関係者に「あれはギャグですか?」と聞いたら違うとのことだ。他の登場人物がいかにもその時代の雰囲気の衣装を着ていてひとりだけTシャツを着ているのはかなりおかしな光景にみえたが、それは俺が演劇を知らないだけで、演劇の世界ではそういうアバウトなことはよくあるのだろうか?)、セリフが外国の戯曲をそのまま直訳したような日本語としておかしな言葉だったり、まあいろいろあった。俺はインド映画が好きで、ツッコミを入れて楽しむのは芸術の鑑賞法としてはまっとうな手段のひとつだと思っているので、とにかく今日もそれなりに楽しめた芝居鑑賞であった。
 芝居の後、レセプションパーティーがあって、ドリンクと軽食が用意されていた。俺は椿さんに挨拶をして、後の予定が詰まっていたのでさっさと退散した。

 池袋で撮影があった。
 こないだの撮影がかなり長時間に及んだため、未だに編集が終わっていない。思えば最近、回を重ねる毎に凝ってゆく傾向にあり、編集が面倒になってきている。
 今日は初心に返って、あっさりと終わらせた。手を抜いたわけではないよもちろん。

2008年 9月 23日 (火)
 ひさびさにアットホーム社の小池社長とお会いして、ちょっとミーティングしてからめしを食った。新しく取り扱うようになった媒体についての打ち合わせだった。ちなみにアットホーム社も小池社長も仮名である。これまではI社のK社長と書くところだったが、なんとなくアルファベットを使うと字面が味気ないので、これからは適当な名前をつけることにしたのだ。尚、面倒臭いのでいちいち(仮名)と断ったりはしない。だいたいここの日記じたいが虚構なのだからいいのだ。
 そう、事実が書いてあっても虚構は虚構なのである。

 ギャオでアメリカ映画「デンジャラス・ビューティー」を見た。サンドラ・ブロック主演。
 感想は特に無い。

2008年 9月 24日 (水)
 池袋の碧プラニング社で集金。帰りに西新宿のインド料理ジンナーでチキンマサラをテイクアウトして帰ってあらかじめ炊いてあったターメリックライスにかけて食った。前より少し味が落ちているような気がしたのは、テイクアウトだったからだろうか。

★★ アメリカ映画「アイランド」という映画を見た。マイケル・ベイ監督。出演者では、登場は少ないながらも重要な役でスティーブ・ブシェミが出ている。あとヒロインのスカーレット・ヨハンソンは良い女優さんだ(画像)。内容は普通のSF映画である。
 最初のほうでジョージ・ルーカスの「THX-1138」みたいな近未来風の日常が淡々と描写され、近未来の世界観を描いた社会派SFかと思ったら、いきなり話しは外の世界へ飛び出し、これまで描かれていた世界は実は人間社会などではなく、ただの部品工場だったのだと気づかされる。そこで生活していた主人公たちは人間でさえなく、かつての仲間たちが部品として用を果たしてすぐ廃棄物のように殺されてゆくところを主人公が目撃するシーンは背筋が凍る思いがした。しかし同時に、これって今まで使い古されたSF映画の古典的設定じゃないかと、CGはいくら進歩しても未だにこういう古臭いいかにもSFって感じの映画を性懲りもなく作り続けているのかアメリカはと、少し呆れる思いもした。
 この設定で昔の映画なら、後半あたり退屈なドラマがダラダラと続くのが定番だ。今まで生きてきた場所と違った世界を初めて知った驚き、戸惑い、そして新しい世界での自己のアイデンティティを取り戻す闘い、などなど。しかしこの映画は現代のハリウッドらしく、そのほとんどをドタバタ・アクションで埋めている。しかもかなりバカバカしい。まるでトムとジェリーとか、バックスバニーのアニメみたいなありえないアクションの連続で、途中からアホらしくなった。
 大金つぎ込んでこんな古臭い設定の映画をアクションでごまかして今でも作り続けるアメリカの映画産業のアホな一面を象徴する映画だった。などと、かなり酷いことを書いているが、決してつまらなかったわけではなく、飽きずに見れたし楽しめるところもあったし、むしろ見終わったあともこうしてバカにして余韻を楽しんでいるのだ。

2008年 9月 25日 (木)
 仕事の帰りに近所を歩いていたら、うまそうなエスニック料理レストランでランチバイキングがやっていたのをみつけた。まだお昼になってなかったのでお客がひとりもおらず、思わず吸い込まれるように入ってしまった。最近スーパーのお惣菜しか食ってなかったので、ひさびさのご馳走を前に理性を失い、端から料理を皿にかきいれ、ガツガツ食いまくった。炒飯、カボチャのカレー、ココナツ風味のチキンカレー、ナン、キャバブ、煮込み、野菜炒め、サラダ、クラゲのスープ、焼きビーフン、ゼリーみたいなデザート、チャイ、コーヒー、その他もろもろ。千円でお腹がパンパンになるまで食い、そこから十分も歩いて家に帰るのが辛かった。しかし今日は朝からちょっと調子が悪かったのだが、スパイスの効果か、すっかり気分がよくなった。

 アメリカ映画「A.I.」を見た。スティーブン・スピルバーグ監督。日本の資料には「スタンリー・キューブリック原案」とクレジットされているが、ちょっと違う。原作があって、キューブリックが映画化を企画していたのを、キューブリックが「これはキミが映画化しなさい」とスピルバーグに薦め、キューブリックの死後、スピルバーグがその言葉を受けて実現させたものである。日本のクレジットはそれらふたりの巨匠のやりとりを「原案」というルーズな言葉に凝縮させてしまっているだけなわけだ。
 物語は未来版ピノキオで、人間の心をもったロボットが、本当の人間になるために青い妖精を探して旅をするロードムービーである。
 俺は人間の本質は肉体ではなくその“心”にあると思っている。肉体は心の属性でしかない。主人公のロボットであるデイビッドが既に人間の心をもっているのだとすれば、彼は既に人間である。いわば彼が獲得しようとしていたのは、表面上は“人間の肉体”であると同時に、世間の人々の通念でもあると言えるのではないか。彼は人間の肉体を手にすることは出来なくとも、世間が彼を人間であると認めてくれたら、彼は人間になったと言えるのである。そして彼にとっての人間社会とは、彼に愛する心をインプットした母のみに他ならない。だからこの映画のラストはこうなるのだ。スピルバーグはいつも、納得のいくラストを用意してくれる。そういう点で、この映画のラストはハッピーエンドだと言っても間違いではない。めでたし。めでたし。
 がしかし、この映画の俺の感想はここで終わらない。むしろここからが本番なのだ。
 もっと根本的な問題として、デイビッドは果たして、本当に人間の“心”をもっていたのだろうか。心とは、いったいなんだろう。ここで俺の愛の解釈が浮上する。
★★★ はっきり言おう。俺は“愛”という言葉が嫌いだ。愛とはそんなキラキラ輝く美しいばかりのものではないし、ぽかぽか暖かいだけのものでもない。愛は即ち“執着”でもあり、それは即座に憎悪に変わる根をもっている。愛によって人は人を傷つけたりもする。人間の心の本質は闇である。だから俺は最近の映画が愛、愛、愛、愛と、愛の美しさばかりを能天気に連呼する傾向に辟易している。それというのも、ようするに愛なんだ、愛こそすべてだ、みたいなオチの映画がちょっと多すぎないか最近?
 話しは変わって、この映画のタイトルの「A.I.」は「Artificial Intelligence」の略、意味は「人工知能」である。つまりデイビッドの心は高度に発達した人工知能の結果でしかないのだ。ここがひっかかる。知能とは、どこまでいっても知能でしかない。ところが最近の傾向として、知能を高度に発達させてゆけば、それはいずれ人間の心に近いところまで到達すると考えられている節がないだろうか。人間性の複雑な言動も、外から与えられる影響に対する反応の集積として捉えれば、確かに莫大な情報量とそれに対する反応の膨大なパターンをプログラムとして積み重ねてゆけば、心に近いものを人工的に作ることも可能となろう。しかしそれはどこまでいっても本当の人間の心とは程遠いものだ。デイビッドの心と呼ばれるものは、所詮、高度にプログラミングされたコンピューターが擬似的に作り出した“心モドキ”であって、本当の心ではない。
 だからデイビッドの心モドキには、本物の人間の心のような、闇がない。だから彼は二千年経っても、変わらず母の愛を恋い続けることができるのである。当然だ。彼の頭のコンピューターに愛をインプットしたのは他ならぬ母自身なのだから。この映画の主人公に感情移入が出来ないのも当たり前である。この物語の本筋は、プログラムをインプットされたコンピューターが目的を失い、宇宙人に実行処理を施されるまで二千年間プログラムをループし続けただけの話しなわけである。
 この映画は“心の無い愛”を描いた物語として、俺が普段から抱いている愛という言葉の白々しさと嘘臭さを見事な映像で図らずも訴えてくれた、佳作であった。確かに普段から白々しい愛を描くのを得意とするスピルバーグにしか出来ない映画だと思うし、この映画の監督をスピルバーグに委ねたキューブリックの慧眼は大正解だったに違いない。

2008年 9月 26日 (金)
 押井守の「立喰師列伝」を見た。
 アニメ監督である押井守は実写映画も撮る。しかしこれは、アニメでもなく、実写でも無く、その両方でもあり、どちらでもない。ひとことで言うと、実写の紙芝居映画である。しかし紙芝居といってもストーリーもセリフもストーリーもほとんど無いに等しく、ただ伝説を語るナレーションが延々と続くのみ。まったくとんでもない映画だ。
 「うる星やつら」のテレビアニメでも、延々とナレーションが続く(チェリーの声だったな)巻があった。「いったいこのナレーションはいつまで続くのだ」と思っていたら、そのままずっとナレーションだけで三十分の放送時間が終わって「ギャフン!」となるという、実に視聴者の意表をつく画期的なエピソードに思えたが、それをすっかり押井守の手の内がわかっている今になって、一時間四十四分の上映時間すべてナレーションでやられても、意表をつかれるとかより、最初の十分で「おいおい、またかよ、勘弁してくれよ…」となるのは当然である。
 この映画はそんな観客の反応をきっちり想定した上での暴挙なのか、それともまさか、本気でおもしろい映画を作っているつもりなのか、押井守の特殊な感性はまったく常人の理解を超えている。俺はなんとなく、押井守は「これはおもしろいぞ、ククク…」とほくそ笑みながら喜喜としてこの脚本を書いている光景が頭に浮かんでくる。あの…押井さん、これ、おもしろくないですから。そんなあなたが怖いです。
★★ この言語感覚は例えば映画版「パトレイバー2」のような、登場人物の渋い会話の形でだったらぜんぜんついていける。ちゃんとストーリーが展開してゆくからだ。しかるにこれは、あくまでも戦後の日本史をパロった時代背景を舞台に、「月見の銀二」「ケツネコロッケのお銀」「哭きの犬丸」「冷やしタヌキの政」「牛丼の牛五郎」「ハンバーガーの哲」「フランクフルトの辰」「中辛のサブ」8人の立食いの達人たちの伝説を淡々と語っただけの映画だ。うまそうに食い物を食べるシーンもなければ、次の過程に期待を馳せる物語もなく、味わえる役者の演技もない。退屈な映像美と、達人の偉業ともいえない立食いへのこだわりと哲学を大仰に語ったユーモアがあるだけ。それを文章にして読んでもじっくり読まねば理解するのは難しいような熟語をふんだんに使った文語調のナレーションで切れ目なく一時間四十四分聞かされた日には、もう観客を鉄壁でシャットアウトしたようなものではないか。
 しかし、まったくダメな映画ではない。2回目は少しこの言語感覚に馴れてきておもしろくなるし、夜これを流しっぱなしでベッドに入るとよく眠れる。冗談ぬきで、映画を見終わったにもかかわらず、不眠症対策でまだしばらく借りたままにしておこうと思ったほどだ。
 それにしても押井守はこんな映画をまたほとぼりが冷めた頃に作るんだろうな。

2008年 9月 27日 (土)
 フランス映画「エイリアン vs ヴァネッサ・パラディ」を見た。
 たまに、絶対におもしろくないとわかっていて、あえて見たくなる映画というのが存在する。この映画がそうだ。なんだこのタイトルは。このバカなタイトルを聞いて、おもしろいと思う人はいない。しかしまた、見たいと思わせるZ級のノリに満ちた、どことなく懐かしい響きをにおわせるタイトルでもある。ようするにフランスの人気歌手ヴァネッサ・パラディを主演にしたエイリアンもののホラー映画である。
 もう見る前からすべてを知り尽くしたような気分で、ただ好奇心のみを胸に、見始めた。
★★★☆ ところが、だ。冒頭の期待を煽るカメラワークと、最初に出てきたフランス語のなかなかカッコいい原題「ATOMIK CIRCUS」を見て、気分がすぐに変わってきた。「あれ、この映画、ひょっとしたらおもしろいかもしれない…」と。で、最後まで見たら、おもしろかった。びっくりした。
 最近のホラー映画のように、味気ないCGばかりが前面に出た作りと違って、手ぶれやジャンプカット(ただフィルムが飛んでるだけか?)を多用したカメラワークで臨場感をもりあげている。ここがまず好感がもてる。しかもなかなかうまい。二束三文のホラー映画によくあるじれったいバカな男女の恋愛や思わせぶりな時間かせぎもなく、普通に人間はきっちり描きながらテンポよく話しは進む。余計な説明もなく、いきなりエイリアンは地球にやってくるし、唐突に登場人物がエイリアン・ハンターだったりする。この手のホラー映画はある程度、細部がいい加減でも怒られないというシチュエーションを逆手にとり、省くところは省いて、無駄がなく、ただバカな殺戮とヴァネッサ・パラディの色気を純粋に楽しめる作りになっている。そして何よりも、八十年代のホラー映画に耽溺した俺としては、あの頃のノスタルジーを感じさせるノリに満ちていた。ひとことで言うなら「よく出来たトロマ映画」といったところであろうか。
 ひさびさにヴァネッサ・パラディの元気な姿を見れたのもよかった。俺のヴァネッサ・パラディとの出会いは二十年前ほどにさかのぼる。二十歳そこそこだった俺は、初めて訪れたフランスで、ふと近くのラジオから流れてきたヴァネッサ・パラディの「Marilyn et John」に耳が釘付けになった。知り合ったフランス人に、「この声の子は誰ですか?」と尋ねると「これは去年かそこらデビューしたヴァネッサ・パラディという十六歳の新人アイドル歌手で、まだガキだが彼女の『Joe le Taxi』という曲がイギリスでヒットチャート1位になったほど人気のある歌手なんだぜ」と教えてもらい、早速メモしてカルチェラタンの小さなレコードショップに買いにいった。今でもこのファースト・アルバムは彼女の最高傑作だと思っている。数年後、二度目にパリに行ったとき、ちょうど彼女の初主演映画である「Noce Blanche」が公開していて見にいったが、どうせしがないアイドル映画だろうと思って見てみたら、いきなりヘアヌードをさらしていて「さすがフランス!」と腰を抜かした。しかしそのボディは今にしてみるとまだ幼かった。あれから二十年、すっかりオトナになったヴァネッサ・パラディを、こうして八十年代風のZ級ホラー映画で見ることになるなんて、感慨深いものがある。この映画は、ホラー映画とヴァネッサ・パラディという、ふたつのまったく異なるノスタルジーがひとつに合流した、俺にとって特別な作品なのだった。
 オチは意味がわからなかったし、考える気にもならないが、ありきたりじゃなくてホッとした。最後の最後まで良い意味で期待を裏切る映画であった。

2008年 9月 28日 (日)
★★★ ギャオで勝新太郎の映画「座頭市物語」を見た。三隅研次監督。勝新の有名な座頭市シリーズの第一作である。
 三隅研次の映像美をひさしぶりに見たが、いや〜、本当に素晴らしい。又、勝新太郎の映画を俺はこれまでほとんど見たことがなかったのだが、改めてじっくり見てみると、本当にうまい。この押さえのきいた演技は、タランティーノ作品によく出てくる俳優マイケル・パークスを思い出す。こういう演技のできる俳優さんがもっと増えないものかな。

2008年 9月 29日 (月)
 今日は代々木公園で「ナマステ・インディア」が開催されている。日本における最大のインド・イベントだが、俺は朝から忙しく仕事をしていて、夕方やっと区切りをつけて出掛けた。歩いて行った。
 もう終わる頃で寂しくなっているかなと思いきや、まだ結構もりあがっていた。友人の携帯に電話したがつながらないので、ひとりで回った。思いの外あれこれ目移りしてしまって、いろいろ買ってしまった。ちょっと足りないチャクラを補いたかったので黄色いインド布を一枚、見たことの無い種類やいつも買ってる種類のものが安かったのでレトルトのインド・カレーをいくつか、わざわざこの日に買う必要は無いが切れていたのでオピウムとデニムのお香をたくさん、一番お目当てだったインスタントのチャイを三缶(自宅と事務所とバイト先にそれぞれ置いておく用)、などなど。
インドのスウィーツ 腹が減っていたので出店でドーサを食った。ドーサとは南インド料理の軽食で、売っていたのが北インド料理のマハラジャだったので味は期待しなかったが、意外と素人舌には本格的な南インド料理っぽい味だったのでやたらうまかった。デザートにわけのわからない揚げたスナックみたいなのにオレンジ色のやたら甘いシロップをかけたスウィーツ(画像)を売っていたので買って食ってみたら、とても甘くてうまかった。この後、大縁会があったのでそれだけで我慢したが、本当は果てしなくインド料理をむさぼり食っていたかった。
 ステージでインドのダンスなどもやっていたが、後の予定があったのでさっさと切り上げて新宿に向かった。

 紀伊国屋の前で愉快さんたちと待ち合わせ、大縁会に参加。
 いつもながら参加者にムラのある飲み会で、先月は十数人の大人数で女性もたくさんいたのだが、今日はオッサンばかりが四人ぽっちだった。
 ひさびさに気分で日本酒を飲んだら珍しく酔っぱらってしまい、放送禁止用語を連発して後になってから反省した。
 今日はナマステ・インディアで買い物しすぎてしまったので、ゴールデン街は行かずにおとなしく帰った。

2008年 9月 30日 (火)
 渋谷。ムルギー。

 ポール・ニューマンがお亡くなりになった。
 歳とってからの彼の映画というと「ハスラー2」ばかりが有名だが、俺は珍しく悪役をやったコーエン兄弟の「未来は今」がもっとも印象に残っている。
 それにしても惜しいのは、死ぬ前に一度でいいからタランティーノの映画に出てほしかった。


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