唇の彩り
by つぶら

 欲しいものがあるの。
 そう、少女のようにねだったら、あなたはきっと笑うだろう。
 それでも、欲しいものがあるの。
 今、私の隣で安らかな寝息を立てながら、月明りに照らし出されているあなたの、青い唇。

 キスをしないセックスというものがあることを、半年前、生まれて初めて知った。
 吉原の遊女じゃあるまいし、今時そんな人いるわけないでしょう、と思っていただけに、いざ自分がそういう人と出会ってしまったことは、なんというか一種のカルチャーショックを受けた。
「既婚者に多いのよ」
 そう、私に教えてくれた友人は今、不倫の恋に苦しんでいる。彼女は何故だかお父さんみたいに年上の男性にばかり恋をしてしまい、私はそんな彼女を「きっとお父さんに愛されたかった人なんだろうな」と、よくある援助交際の本みたいな精神分析をしながら見守っていたのだけれど、まさか自分がその彼女と同じ立場に立たされるなんて、思ってもみなかった。
 私は恋をしている。けれど、その人は既婚者ではない。
 その人には好きな人がいて、片想いでも自分の気持ちは裏切りたくないからと、どんなにせがんでも唇を許してはくれなかった。そしてそれがそのまま、彼との関係を始めるに当たっての、唯一の約束になった。
 ばかげている。ナンセンスだ。
 そんな風に考えてるくらいなら、最初から寝なければいいのにと思うけど、もし本当に彼がそういう人だったら、現在の私と彼の関係も存在していなかったわけで、そう考えると悔しくても我慢するしかない、今のところは。
 けれどこうやって、キスは無くても関係を続けていけばいつかは情が移って、これが恋だと錯覚してもらえるかもしれない。なんて、浅はかな望みを抱いている私は、多分彼よりももっとオロカなのだろう。
 まったく、女というのはなんて業が深い生き物なのだ。それでも、しょうがない。女と生まれてしまったからには。
 私は私のまま、この形を持って生きていくしかない。

 隣で寝ている彼を見ながら、いつも考える。
 寝ている間に唇を奪おうか、と思う度に、いつも。
 弱い私の心を慰めるように、叱りつけるように。
 身体だけでもいいと言い聞かせながら、それでも唇が欲しいと思うのは、やっぱり唇には、何か特別な意味があるんだろう。
 だけど、約束を破ったら、そこで私たちはおしまい。
 だから、キスをすることより、関係を続けることの方が、ずっと大事だ。
 だって、そうしたらいつかは好きになってくれるかもしれないでしょう? そう言い聞かせるために。
 本当は、いつかなんて絶対こないってこと、とっくに分かっているのだけれど。
 ここにいない人より、隣にいるほうがずっと確かなのに。なのにどうしてこの人の心は、ここにないのだろう。
 そこまで考えて、気がついた。今、何かとても恐ろしいことを考えてしまったような気がする。
――いつかなんて絶対こない?
 そんなこと、考えていたんだろうか、私は。
 月明りに淡く照らし出されている彼の寝顔を見ながら、私は再び私に問いかける。
――いつかなんて絶対こない?
 私の問いかけに、胸の奥が凛と鳴る。すーっと頭が醒めていくのを感じた。
 ああ、そうだ。本当はずっと、ずうっと前から気づいていたんだ。ただ、その事実から目をそらしていただけで。
 いつかなんて、絶対こない。彼が彼女を嫌いになることはまずないし、彼が私を好きになることは恐らく、ない。それは、好みとか相性とか寝たとか寝ないとかそういう理由のあることではなくて、多分初めから決まっていたのだ。
 運命、みたいなもの。世の中にはお互いに惹かれあう関係が必ず存在するように、ただ一方がどうしようもなく惹かれてしまうだけの関係も、きっと存在する。そうじゃなかったら、片想いなんてありえないことになってしまう。
 その事実から、ずっと目を背けてきた。駄々をこねる子供のように、無いものねだりを繰り返してきた。
 ばかみたいだ。ありもしない未来を信じて、半年も約束を守りつづけるなんて。知っていれば、最初から無理にでも奪っていたものを。
 ひっそりと笑う。あんまり自分がばかみたいで、今更泣くに泣けないから。
 そして本当に今更だけど、そんな私の想いにも気づかず寝ている彼の顔に、そっと唇を近づけた。
 柔らかな、だけど確かな手応えを感じて、私は少しだけうれしくなる。
 これで最後だから。明日には、あなたの隣に私はいないから。
 もう一度唇を近づけようとした時、ふいに友人が教えてくれた、もうひとつの話を思い出した。
「唇は、上唇は特に情を表すから、だから遊女は仕事の時は、上唇には紅を塗らなかったんだって」
 最後まで私を愛してくれなかったあなたに、ならば私の情を刻みつけよう。
 私は彼の上唇にそっとくちづけると、そのままぎりりと唇を噛んだ。
 痛みで彼が飛び起きる。
「何やってんだ、お前!!」
 さあ、これで本当にお終い。これから繰り広げられるであろう会話を想像して、泣く代わりに、私はうっすらと笑みを浮かべた。
 彼は自分に何が起こったのかを確認するため、慌てて部屋の明かりをつけた。月明りとは比べ物にならないくらい、彼の姿がはっきりと浮かび上がる。
 蛍光灯の明りの下、彼の上唇は、まるで情夫と会う時の遊女みたいに、血で真っ赤に染まっていた。



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