短編小説
無題

作:紫音


 赤い遮光カーテンの編み目をかいくぐって夕日が入り込む薄暗い部屋で、私は或る男の訪問を受けた。
 オスカー・ワイルド以前のイギリス紳士ふうの身なりの初老の男であった。ドアには錠が下ろされていた筈だが、といぶかしむ私をよそに、彼はコツコツと奥に入ってくる。
 「ああ、靴は脱いで頂けると嬉しいんですが。といって強制はしません。」
 私は背中にあったブランデーの空瓶を確認した。男は靴を片方だけかぽっと脱いでみせた。

 「貴女は私の良心に強制しました。」
 そして、得意気ににやりと笑って、つまんだ靴を鼻先で揺すって見せた。
 「どんな良心です。」
 私はこの男の酒臭と胃液臭に気付き、むかむかしていた。
 「私の愛する女性に対して紳士であろうとする良心です。」
 「愛」
 私は蓮っ葉な女のようにハッと皮肉な溜め息を吐いた。そして、男を見上げて更に詰問してやろうとして、この男の異常に確信を持った。黒か、蜂蜜色か、銀灰色か判らないが、(というのも、余りに暗い部屋であるため)とにかく彼のもじゃもじゃの頭髪からにょっきりと角が一本生えているのである。凝視するうちにそれは、立した男根にしか見えない張型であり、紐で顎に括り付けてあるモノであることが分かった。私は言い知れぬ恐怖から、最終的にはこの男を殺さずにはおれないだろうことを憂慮した。
 男はしかし、そんな私には頓着せずにうっとりと喋り出した。
 「天に星、地には花、人に愛です。私は生まれてこの方ずっと、愛のテーマの下に喜び、苦しみ、怒り、涙してきたのです。そして今宵、祝福されたこの夕べ、私たちは神々のように大らかな愛を交わし、永遠の愛を契るのです・・・。」
 「ちょっと待って下さい。それじゃあ貴方はこの私に結婚を申し込みに来られたというのですか。」
 「ああ、貴女が望むなら、私たちの誓いに結婚の名を冠することも可能でしょう。」
 私はまじまじと男を視線でしつこくなぞった。
 「神々の云々は結構ですが、貴方は誰なんです。私のことを前から知っていたのですか。ぶっちゃけた話、私は貴方をキチガイだと思っています。」
 男はすこし身を引いて、たじろいだように弁解を始めた。
 「貴女がこのドラマティックな私の演出に当惑されているということは実に遺憾です。貴女は私について大変誤解されている。キチガイなど、私の最も軽蔑する輩です。私は貴女の敬虔な崇拝者。貴女の事は全て知り尽くしています。無論、それが盲目的な恋の成せるほほえましい誤解であることも承知の上で。」
 私は訳が解らなかった。
 「貴方はともかく、私は貴方なんか知らないんです。私の身の安全が保証される迄は、ちょっと縛らせてもらいますよ。」
 私は押し入れからぼろぼろの麻縄を取り出す。
 「当然の仕打ちでしょうな。だが、愛しい貴方に縛られる・・・。ちょっと興奮するシチュエーションだ。」
 私は、注意深く(男が暴れだしたらいつでも空瓶で痛恨の一撃をお見舞いできるようにして)男の体を海老反りに縛り上げた。男は頬を上気させて、事が終わるのをおとなしく待っている。
 「初めての逢瀬から、まだ小一時間も経っていないのに、もうSMにうち興じている。なんと貴女は大胆な恋人なのか・・・。」
 私はこの狂人の恍惚としたつぶやきに癇癪を爆発させ、その間抜け面を蹴り上げた。その拍子に顎紐が解け、おぞましい張型が床に転がり落ちた。そのぺたり、という音に私は殆ど憐憫を覚えそうになった。しかし男の鼻血に再び嫌悪の情が湧きあがる。
 「何処の馬の骨から引っこ抜いて来たのか知りませんが、これはどうしたんです。」
 私はそのグロテスクなまでに精巧な張型を、さもけがらわしそうにつま先でつついた。
 「それは私の、えぐり取られた男根です。」男は苦しげに呻いた。
 「だって、貴方はさっき私と結婚したいと仰ったではありませんか。結婚を申し込む前に男根をえぐられているなんて、どういうおつもりなんですか。どこの馬鹿が・・・。」
 私は口をつぐんだ。湿った、重苦しい空気が二人の間を満たしている。私はひどく苛立たしかった。すると男はだらしなくへへと笑った。
 「それは私のえぐり取られた男根ですが、えぐり取られていない男根もあります。」
 私は吹き出した。
 男もえへへと笑っている。
 本物の馬鹿だ。
 「よろしい。私はプロポーズを受けましょう。縄も解いてあげますよ。」
 ちらりと男を横目で見やると、なにやら遠い目でうなだれている。私は続けた。
 「但し、貴方が何か危害を加えようとするならこの瓶で貴方の脳天をざくろにすることに躊躇はありません。」
 うなだれたままの男の黄濁とした目に光が宿った。
 私はもくもくと縄をほどく。
            ・・・
 男は身じまいを直し、正座をした。しかし、片方だけ靴を履いたままだ。その上、何の意味があるのか不可解な例の張型を顎に結わえ直した。
 「鳥帽子みたいですね、それ。」
 「私のことはお構いなく。それより、貴女の話を聞かせて下さい。最愛の母上を亡くされたばかりか、場末の盛り場で春をひさぐに至るまで落ちぶれた貴女の話を!」
 私は又吹き出した。私の母は元気で、今頃は鼻唄まじりに洗濯でもしているだろう。それに私は売春婦になった覚えはない。しかし、余りにも男の眼差しが真摯なので、私の方が不謹慎な気がして、適当に話を合わせることにした。笑いを堪えるため、あらぬ方を見つめながら。
 「ええ、母が非業の死を遂げた冬、私はまだ、五歳になるかならぬかでしたわ。ひどく寒くて、孤独でした・・・。それでも生きねばならぬ辛さ故、薄汚い男どもに身を委ね・・・いつしかドブ川の水の味に慣れてしまったんですの。善悪など問う残酷な神など、この私には遠い存在ですわ・・・それがどんなに・・・。」
 フッと目を男の上に戻すと、男はマントの下で密かにいかがわしい手の上下運動をしているではないか。畜生、人を小馬鹿にしやがって!と、思わないでもなかったが、無視した。
 話の路線を変えてやる。
 「でも、十八になった頃、私は、さる上客の手引きでまっとうな道を歩む幸運に恵まれましたの。新聞配達婦になれたのです。配達中よくぱくった新聞を読んで政治の勉強もしましたわ。」
 「政治!」
 突然男は息を荒げた。手の動きは痙攣したようにスピードを増す。
 「その時の・・・ジ・・・時事問題なんて覚えていますか・・・」
 男の目はらんらんと輝き、半開きの唇から卑猥な舌先がちろちろ這い出す。私は陵辱されたような気分になってきて、しどろもどろに答えを探す。
 「ええと・・確かそうね・・・不景気で・・・あの・・・銀行なんかが潰れたとか潰れなかったとか・・・。」
 男は絶叫した。「銀行が潰れる!!!」
 そしてぶるぶると身を震わせた。どうやら果てたようだった。それを確認するや否や、電話のベルが部屋に鳴り響いた。陶然と中空を見つめている呆けたような男を放っておいて、私は受話器を取った。
 「モシモシ」
 「お疲れさまです。10分前です。Mコース60分、2万円もらってきて下さい。」
 こうしてSM嬢のけだるい一日は更けてゆく。



FIN


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