もっと甘えて
ふと、カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいることに気が付いた。カルロスは鼻から小さく息を漏らす。
結局眠れなかった。眠るつもりがあったかといえば、そうでもないが。少し姿勢を変えると、安モーテルの古いソファのスプリングが煩く音を立てた。正面のベッドで眠っているブリストーの方を見遣る。目覚める気配はない。寝返りも打たず、静かに眠っている。眠りについてから、ずっと。うなされることもなかった。夢を見ているだろうか?悪い夢でなければ良い。眠っている間に、傷ついた体と心が少しでも癒されれば良い。
ブリストーを痛めつけてくれた愚物は、できることなら直ちに排除したい、とカルロスは考えている。頭の中では何度もシミュレートした。自分で手を下さず、ブリストーにも迷惑をかけず、安全かつ確実に排除する。その方法はいくらでもある。いくらでも思いつく。実行することも、リモコンのスイッチを押すみたいに簡単だ。けれど、それを簡単にできないのが現実の難しいところ。この件については、そもそもブリストーの意思に反するという点で躓いてしまう。儘ならないな、と思いながらカルロスは苦笑する。
思考を止めて、ぼんやりとブリストーを見つめる。今座っている位置からは、彼の寝顔は見えない。知る限りでは、顰め面で眠っていることが多いが、今はどうだろうか。覗きに行きたい気持ちを抑えて、他愛ない想像を楽しんでいると、そのうちにブリストーの体が動いた。そして、長い溜息が。カルロスは立ち上がり、ベッドの側に立った。ブリストーを見下ろす。彼は目を開けていた。まだ焦点の定まらない目で、宙を見ている。
「おはようございます」カルロスはベッドの端に腰を下ろした。
ブリストーがカルロスの方にゆっくりと顔を向ける。彼は二度、三度と瞬きをした。それから目が合ったので、カルロスは深く微笑んで見せた。
「明かりを点けても?」
「……あぁ」
ベッドサイドのライトを点けると、柔らかいオレンジ色が周囲を包んだ。弱い光だったが、それでも眩しかったらしく、ブリストーは微かに眉を顰めた。それから、上半身を起こす。今度は苦しそうに顔を歪めた。息を漏らして俯く。
「大丈夫ですか?」カルロスは訊いた。
「あぁ」
ブリストーの右頬には赤黒い痣が。首筋には別の赤い痕。シャツの下にも暴力の痕が隠れている。カルロスがこの部屋に入った時、ブリストーは意識を失っていた。暴力で犯された彼は、全裸で、傷だらけで、ベッドに放置されていた。ここまで酷い状態の彼を見るのは初めてだった。件の命令違反はあの上官を相当立腹させたらしい。
「奴は?」ブリストーが訊く。
「アレなら帰りましたよ。入れ替わりで俺がお邪魔しました」
「……よくここがわかったな」
「隊長のことなら何でもお見通しなので」
とは言ったものの、ここを突き止めるのにはほんの少しだけ苦労した。残念ながら、超能力を備えているわけでもなければ、高性能のレーダーを搭載しているわけでもない。ただの人間だから。ブリストーはその苦労を察したらしく、苦笑した。
「いつも世話をかける」
「いいんですよ。いつでも喜んで」
カルロスはブリストーの口元に指を寄せた。触れる寸前で、手を止める。
「あー…、今は触れない方がいいですか?」
「構わない」ブリストーの手がカルロスの指に触れる。そして、指を口元に導いた。「お前だから、安心する」
「よかった」
ブリストーの唇を、人差し指の腹でそっと撫でる。微かにかさついた感触。噛み切られた傷跡。温かい吐息が指をくすぐる。そのまま指を顎の方に下ろして、カルロスは自身の唇をブリストーの唇に重ねた。数秒。押し付けて、唇を離す。
「……もっと甘えてくれてもいいんですよ?」カルロスは囁く。
「十分甘えている」
「でも、もっと甘えていいんですよ?」
ブリストーの返事を待つ。
沈黙。
やがて、彼の口が微かに笑みの形を作った。
カルロスはその口に再び唇を重ねる。それ以上は言葉を紡がずに、ひたすらにキスだけを繰り返した。
(やっぱ俺じゃ、駄目、か)
甘えるとは、全てを曝け出してくれることだと、カルロスは思っている。
ブリストーはまだそこまでしてくれない。まだ哀の涙を見せてくれない。弱音を吐いてくれない。どんない傷ついても。どんなに苦しくても。今だって、辛いはずなのに。
(ちょっと悲しい……)
カルロスはブリストーから唇を離す。
泣きたい、と思いながら微笑みを作った。
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