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27) ジューン・ブライド

阿部からはその後もお誘いのメールが来たが、こちらは自分の馬鹿さ加減に呆れてしまったので丁重にお断りした。自分が応じなくとも、阿部ならば相手に困らないだろう。翌週、嵯峨は海外出張から帰ってきたが、あの夜の事にはお互い触れることなく日が過ぎて行った。真相を突き止めたところで誰も幸せになれない事が、暗黙の了解のようになっていた。

会社の移転先は工業地帯で環境があまり良くなかったため、電車で数駅離れた住宅街に引っ越した。家賃相場が高いので部屋が狭くなったが、一人で住むには十分だった。以前よりもずっと近くなった嵯峨の家には、嵯峨が週末に東京にいる時だけ泊まりに行くようになった。

会社では、長引く不況と円高の影響で業績悪化に歯止めがかからなくなり、大規模なリストラが行われることになった。幸いにも自分は今回のリストラ対象にはならなかったが、同期の鈴木は所属部署が「発展的解消」となったため、本社機能のある品川に異動した。

嵯峨が自分の部署の部長だったのは1年にも満たない間だったが、鈴木はその後も嵯峨の特命係のような部署に所属していたため、仕事上では自分よりもずっと嵯峨との付き合いが長い。同期の佐倉と結婚して子供にも恵まれ、世間から見れば真っ当な家庭を築いている鈴木から、会う度に「お前はどうするつもりなんだ?」と言われるのが煩わしかった。

ある日、鈴木から突然「嵯峨さんの美人秘書がお前に興味あるそうだから」と言って、勝手に週末の食事会を設定されてしまった。鈴木が自分の事をどんな風に話したのか知らないが、秘書嬢はぜひお会いしてみたい、と乗り気だったらしい。最近ではゲイ仲間以外の知り合いと食事に行くことすら珍しくなったが、嵯峨の秘書がどんな人物なのか見てみるのもいいだろうと思った。

仕事を早めに終えて品川の鈴木のオフィスに出行き、鈴木の仕事が終わるのを待った。オフィスでは知っている顔もちらほら見かけたので、挨拶したりして暇をつぶした。やがて「お待たせ」と鈴木が姿を見せた隣には、すらりとした長身の女性がにこやかに立っていた。鈴木はメールでこの女性を自分に紹介したいような事を匂わせていたが、鈴木のいつになくウキウキした様子を見て、紹介する云々は口実である事は一目瞭然だった。

嵯峨の秘書の一条は30代前半で、ヨーロッパに10年以上在住経験があり、3か国語が話せる才媛だ。長い髪をきちんと纏めたヘアスタイルと姿勢の良さがバレリーナのような雰囲気を醸し出している。育ちの良さを感じさせる優雅な物腰と落ち着いた態度により、見た目の若さとは裏腹にずっと年上の女性の風格がある。この女性にお似合いなのは自分などではなく、嵯峨みたいな地位の人間じゃないかと思った。少なくとも世間的にはそれが当然の感覚だろう。

週末なのでどこも混んでいるでしょうからと、一条がオフィスの最上階にあるレストランを予約してくれていた。昼間は社員食堂だが、夜は夜景の見えるレストランバーとして社員に解放されていることはテレビ番組で見たことがある。刑務所と呼ばれている工場の食堂と比べると、同じ会社の施設とはとても思えなかった。雰囲気の良い店で夜景を見ながら飲む黄金色のワインは、久々に優雅な気分を味わせてくれたが、同時に口も軽くしてくれた。

「鈴木君は、僕に一条さんを紹介したいそうなんですけどね、一条さんみたいな素敵な人には、僕みたいな平社員より、嵯峨さんのようなセレブがお似合いじゃないかと思うんですけど…」
「何言ってんだよ、年が離れすぎてるだろ。一条さんから見たら嵯峨さんなんて『パパ』だよ、ねえ一条さん」
「いえいえ、たまに冗談でそう言われる事がありますのよ。でも、残念ながら、嵯峨さんにはいいヒトがいらっしゃるらしくて」
うふふ、と笑いながら一条は優雅にグラスのワインを口にした。

「ええー? 本当ですか? 僕には全然想像つかないですよ!」
「これオフレコなんですけれど、以前テレビの取材に来られた某有名女性キャスターの方が、嵯峨さんが独身だと知った途端、熱心にアプローチして来られたそうなんです。それで嵯峨さん、自分には離婚してからずっと付き合ってる大事な人がいるからってお断りされたとか」
「そんなの社交辞令に決まってるじゃないですか。大体、そんな有名人が嵯峨さんみたいなサラリーマンのオッサンと…」
「おいおい、サラリーマンったって、俺らとは天と地の差だろが。へー、でもどんな女性なんだろ。前の奥さんみたいに外人なのかなぁ。まあ、間違っても絶対うちの社員ではないだろうけど」
「私がどんな方ですかってお聞きしましたら、その方はツンデレで天然で危なっかしいから放っておけないんだって仰ってました。愚痴りながらも、その方が可愛くて仕方がないって、嵯峨さんのお顔に書いてありましたわ。うふふ」
自分はあまり話したくない気分だったが、二人が喋り続けてくれたおかげで、小恥ずかしい話まで聞かされた。そして一条はこうつけ加えた。
「私、落ち着いてそうに見えて、実は物凄くおっちょこちょいなので、周りの人から天然だって言われてますの。なので、私には、自分をグイグイとリードしてくれる人が必要なのかもしれません、嵯峨さんのような…。周防美さんもそういうタイプだとお見受けしますけども、いかかでしょう?」
うふふと笑いながら、また優雅にワインを口にした。この女性なら嵯峨がゲイだということは見抜いているだろう。そして、嵯峨と自分の関係にも多分気づいているに違いないと思った。

お食事会は2時間余りで終了した。
「こちらにいらっしゃる際には、ぜひご連絡下さいね」
と一条が言い、携帯番号とアドレスを交換して別れた。
「あんなにお上品な言葉遣いの女性と食事した事ないから緊張しちゃったよ」
「俺は別の意味で緊張したけどな、お前が酔っぱらって変な事言わないかとか。でも俺はさぁ、あのふんわりした雰囲気で癒されるんだよな。毎日家に帰ると彼女とは正反対のタイプのがいて、それはもう全然くつろげなくて…」
「結局、僕に彼女を紹介したかったんじゃなくて、自分が癒されたかっただけなんだ」
「そんな事ないさ。でも、一条さんは断り方もお上品だったよな。お前がエロ王子だってことを一目で見抜かれたのかもしれん」
「他にも色々見抜かれてると思うよ」
「他にもって?」

その後、鈴木と居酒屋で2次会をし終電近くまで飲んだ。翌日は土曜日だったので、品川からそう遠くない鈴木の実家に久々に泊めてもらうことにした。第二子を妊娠中の妻の佐倉が子供を連れて実家に帰っているため、鈴木も実家に帰っているらしい。入社当時はよく泊まりに来ていたこともあり、鈴木の母親が懐かしがって大そう喜んだ。気が強い息子の嫁とは馬が合わないらしく、「周防美さんが嫁に来てくれたらよかったのに」と真顔で言われた時には、苦笑いをするしかなかった。

翌朝、鈴木の母が張り切って作った豪華な朝食を頂いた後、電車を乗り継いで自宅に戻った。昨晩は少々飲みすぎたらしく、軽く頭痛がするのでジムには行かず、家でおとなしくすることにした。夕方になり、冷蔵庫に食料が何もなかったので、買い出しに行くことにした。

外はまだ明るく、公園に植えられている青い紫陽花が西日に照らされて紫色っぽく輝いていた。少し歩くと、晴れているのに突然雨が降リ出した。狐の嫁入りという言葉を久々に思い出した。傘を持っていなかったので、先にコンビニで傘だけ買ってから、少し先のスーパーまで歩いた。買い物を済ませて店を出ると、ゴミ箱の影で何かがうごめいているのが見えた。覗き込むとそれは、ガリガリに痩せた仔猫だった。一匹で震えていて、手を差し出すと頭を擦り付けて来たので、どこかで飼われて捨てられたのだろう。暫し中腰で猫を見つめていると、店の奥からダンボール箱を持った店員が出てきた。
「お客さん、ここで猫に餌やったりしないで下さいよ」
そういうと、猫を掴んでダンボール箱に入れた。
「あのう、その猫どうするんですか?」
「これ? 明日保健所に引き取って貰いますけど、何か?」
この店員とは話し合う必要もなく、その箱を持ち帰った。

家に帰って、事の顛末をお局の坪井にメールした。
保護猫を何匹も飼っている坪井からは、すぐに電話がかかってきた。
「周防美さんその仔飼うの? 自分で面倒見れないのだったら拾わない勇気が必要よ」
と厳しい言葉が返ってきた。
「もちろん、責任持って飼わせて頂きます」
「周防美さんのマンションって、ペット可なの?」
「違いますけど…でも直ぐにペット可に引っ越します」
電話を切った後、すぐに坪井から、仔猫のためにこれからすることの指南メールが来た。

仔猫は痩せてはいるが病気というわけでもなさそうで、缶詰の餌をガツガツ食べるとどこかに隠れて出てこなくなった。坪井の指示通り、その夜はそっとしておいてやることにした。明日は朝から動物病院へ行って…と計画を立てていると、嵯峨から電話がかかってきた。
「パパ、お久しぶり」
「私はお前のパパじゃないぞ」
ゲイ友が年の離れた男の事をパパと呼ぶのでつい言ってしまったが、嵯峨はそう呼ばれるのを本気で嫌がる。
「何ですか、嵯峨専務?」
「来週急な出張が入って、半月位帰って来れなくなった。暫くエッチできないから、今夜泊まりに来ないか?」
「悪いけど、明日午前中に病院に行かないとだめなんだよ」
「どこか悪いのか?」
「僕じゃなくて、猫」
「お前ネコじゃないか」
「言うと思った。実は今日、仔猫拾っちゃったんで、病院に連れて行こうと思って」
「優しいお兄さんだねぇ。雨の日に拾ったっていうのがベタな話だけど」
「尊い命にベタもクソもないだろ」
「で、その猫お前が飼うのか?」
「飼うよ。でも坪井さんに今すぐペット可の部屋に引っ越せって言われて困ってるんだ。引っ越し先見つかるまで、崇の所で預かってくれない?」
「悪いけどそれは無理」
「えー、何で?」
「何でって、うちにはすでに一匹、通いの大きな白いネコがいるじゃないか」
「…じゃあ、その大きなネコも一緒に預かるというのは?」
「一時預かりは、情が移った時に別れが辛いからねえ」
「その時は…2匹とも引き取ればいいじゃん」
珍しく嵯峨が少し間を置いた。
「ふーん…とうとう私のお嫁さんになる気になったか」
「うん、パパ」
「パパはやめろ」

長年、何度も話し合って一向に決まらなかった同居話は、猫一匹の登場であっけなく片が付いた。もっと早く同居していたらどうなっていただろうか、などと考えたところで何も始まらない。嵯峨と自分が出会った時と同じように、全てはタイミングなのだ。色々考えていたら眠れそうになかった。いつのまにか出てきた仔猫が座布団の上に座ってこちらを見つめていた。座ったままうつらうつらし始め、やがて眠気に耐え切れずころんと横になった。真夜中を過ぎても雨は降り続いている。すやすやと眠っている猫の頭を撫でながら、梅雨が明ければ待っているであろう、新しい生活に思いを馳せた。

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