夢魔
MIN:作
■ 第11章 計画9
1階のリビングでは、稔が美香に催眠を掛け、幼児退行させていた。
産まれた頃からの記憶を、ユックリ丁寧になぞり始める。
本来人間の脳は、様々な事を記憶している。
人によっては、母親の胎内にいた頃の事まで、記憶している。
ただ、その記憶を、認識していないだけなのだ。
認識しない記憶は、人の表層に現れる事もなく埋没し、ただの情報として追いやられる。
稔は、その情報をかき集め、繋ぎ合わせ1つの記憶に戻す事に掛けては、ずば抜けていた。
自分の記憶野を一瞬で駆けめぐり、情報を引き出す能力が有って、初めて感じる感性で言葉を操り、作業を行う。
0歳の美香は、父親を認識し、感覚的に仲間と判断していた。
1歳の美香は、梓を自分を保護する者と認識し、信頼を向けていた。
2歳の美香は、美紀を妹と言う種類の弱者だと、認識していた。
3歳4歳5歳、美香は徐々に、生活の中で、笑い、怒り、悲しみ、楽しみ、あらゆる基本的な感情と、規律、常識、道徳、それらの、社会的通念を覚えて行った。
この頃の美香は、今とは少し違い人の後ろに隠れるタイプでは無く、2〜3番手で世話を焼くタイプだった。
どちらかと言うと、庇護欲が強く、頭の回転の速いタイプで、男の子と喧嘩になる女の子を、なだめたりするタイプだった。
それが、6歳の夏に何かに塗り込められるように、その姿を変えた。
人の後ろに隠れ、自分からは一切要求せず、ただ指示に従う。
盲目で従順な羊のように、変わって行った。
6歳の夏から、美香の欲求は、ピアノしか無くなっていた。
ピアノだけが、唯一の心の安寧。
そんな、状態に変わっていた。
その頃の小学校での記憶は、希薄な物だった。
友達の名前、教師の名前、その他自分の周りに居る、数人の大人の名前。
全部で、20人程の名前、それだけしかなかった。
それが、8歳になると、急激に増え始める。
それこそ、怒濤のように友人、知人の名前が溢れ始めた。
稔はこの、美香の記憶のパターンを知っている。
美香に語りかける、稔の表情が能面のように、無表情になっていた。
稔は、美香にリラックスして、眠るように指示する。
深く、深く、母親の胎内に居る時のように。
稔は美香を眠らせると、梓に向き直り
「梓、今から8年前、美香の側で、何か事件は有りませんでしたか?」
梓に問い掛けると、梓は記憶を巡らせ、稔に答える。
「8年前ですよね…その頃確か実家の近所で、幼女暴行犯が捕まりました…」
梓がポツリと呟くと、稔は梓に向かい
「その犯人の容貌は、解りますか?」
続けざまに、梓に質問する。
稔の、余りの言葉の鋭さに、事態の重さを感じた梓が、真剣に記憶を探し始めた。
「確かメガネを掛けた、小太りで…オタクって、良く新聞報道されていました」
梓の答えに、稔は頷くと、暫く考え込み
「梓…今から、起きる事は、恐らくショックを受ける筈です。梓が知らなかった事は、罪では有りません。むしろ、自分の中に押し込めた、美香を誇りに思ってください」
稔は、そう言うと、美香を5歳からの退行催眠状態にした。
そして、美香の記憶から全ての事実を引き出した。
6歳の美香に起きた悲劇、それを知らなかった母親。
稔の誘導する声に、涙しながら、自分のトラウマを吐露する美香。
その話を、滂沱の涙を流し、震えながら聞き入る母親。
そして、それらの記憶を握りつぶすように、小さく丸め、水に溶かすように薄めていく、稔の言葉。
稔は、その後もう一度、6歳から8歳までを追体験させ、美香の心を塗りつぶしていた、記憶の澱を薄め追いやった。
それから、8歳から16歳まで一気に記憶を洗い出した稔は
「ここから先は、目覚めた後に見せて貰います…。どう成っているかは、私にも解りませんが、性格は多少変わっている筈です。本来の美香の性格に…」
梓にそう告げると、美香に眠るように命じる。
催眠を解いて、美香に目覚めるよう、指示すると美香の瞳がユックリ開く。
美香は目を開き、瞼を2・3度開け閉めすると、梓の方を見詰め
「ママ…」
小声で呟く。
梓は、目に涙をたたえ、愛娘を見る。
美香は、稔に視線を向け、焦点を合わせる。
稔が美香を覗き込み、質問した。
「僕が誰か解りますか?」
稔の質問に、美香はニッコリ笑うと
「稔様…解りますとも。だって、私を救ってくれた、大切なご主人様ですもの」
稔に向かって、答えた。
稔は美香の身体から、センサー類を外しながら
「今の気分はどうですか…?」
美香に優しく質問する。
美香はベッドに横に成ったまま、形の良い額に皺を寄せ、顎に人差し指を当てて、何かを探るように思考を巡らせ
「何か、心の中が軽いって言うか、スッキリした感じがします」
ニッコリ笑いながら、稔に答える。
梓は今の美香の仕草を見て、涙が溢れ出す。
美香が今行った動作は、今でこそ見ないが、幼い頃、梓を真似して、考え込む時に美香が取っていた、仕草だった。
(こんな…こんな、変化にさえ、気付いて居なかったなんて…私は、一体何を見てきたの…母親失格ね…)
梓が顔を押さえ、泣き崩れそうになるのを、堪えている。
稔はそんな梓の耳元に、しゃがみ込み
「さっきも言いましたが、仕方の無い事なんです。梓には罪はありません…」
そっと、優しく囁いた。
梓は反射的に顔を上げ、稔を見詰めて抱きつきかけたが、すんでの所で思い止まる。
奴隷のルール[許可無く主人に触れてはならない]を思い出したからだ。
稔が梓を見詰め、ニッコリ笑って頷き、許可を与えると、梓は飛びかかるように稔に抱きつき、その腕の中で号泣した。
そんな、梓の背中に布団から起きあがった、美香が抱きつき
「ママ…大丈夫…? 泣かないで…」
心配そうな顔で覗き込みながら、梓を気遣う。
その仕草も、話し方も稔の記憶する美香と、全く変わらない。
(ん〜っ…ひょっとして、美香は根っから、従順…)
稔は首を傾げて、自分の予想が外れた事が、不思議だった。
■つづき
■目次2
■メニュー
■作者別