楽園の底
なすの子:作

■ プロローグ3

 ロイド眼鏡の老人は口を開いた。
「やはり、君は異界の住人なんだね」
 老人はひとが良さそうな朗らかな表情のまま、悪魔に話しかけた。
「いかいのじゅうにん…?」
「そう。今まで君が生きていた場所は、この世界ではないということだ」
 悪魔は形容し難い不安に襲われた。
「どうしてそんなことがわかる?」
「君のその赤い目は、私達の世界にはないからだ。そして決定的なのは、先程君が口にしたスープに関わることだ」
 思わずスープに目をやる悪魔。
「このスープは特殊な鶏肉を出しに使っている。鈍鳥(にびどり)という鳥の肉だ。鈍鳥と名付けられているその鳥は、古(いにしえ)に枝分れした、我々と同じ祖先をもつ動物なのだ」
 老人は悪魔を見ながら話を続けた。
「この鳥は別名、牢記鳥(ろうきちょう)とも呼ばれる。伝承では、我々が忘れてしまった文明や古来の使っている言語において記憶していると言われる」
 悪魔はスープを口にしてから、この世界で言葉が話せるようになったことを反芻した。
「伝承の一説では、異界のものに言葉を授けるとも聞く。また、我々の世界では赤子は異界からのビジターという宗旨がある。だから私たちの種族の風習には、赤子に鈍鳥の肉を磨り潰したものを与えるというものがある」
 悪魔は少女を流し目に見た。少女は老人から事情を知らされていないようで、当惑した様子だった。
「君はいわば、赤子と同じ存在だ。年は、15歳のハミネと同じくらいに見えるが、語学は赤ん坊に等しい」
 老人は顔を曇らせた。
「いや、失礼だったね」
 唐突に悪魔は老人を指差した。
「おまえは…?」
「ん? 私の名前かい? そういえば、名前を言いそびれていたね。私はカイエという者だ」
「かいえ」
 悪魔は老人に指を差しながら反復した。
「そうだ」
そう言って老人はにこやかに微笑すると、椅子から立ち上がった。
「今日はもう遅い。君は私の家に泊まっていきなさい」
 老人は悪魔に言った。少女は椅子を立ち上がると、悪魔の傍らに寄った。
「ねえ。カイエおじいさん。このひとに名前を付けてあげましょうよ」
老人は椅子をテーブルに仕舞うと、悪魔を見ながら腕を組んだ。
「そうか…。確かに、いつまでもキミと呼ぶわけにはいかないな」
 老人も悪魔の側に歩み寄って、悪魔と視線を合わせるように膝を屈める。
「君はどんな名前がいい…?」
 老人が悪魔を見る。少女も悪魔の顔を差し覗く。
「おれは、ハミネがつけてくれればいい」
「えっ!?」
 悪魔の言葉に、少女は突拍子もない声を上げた。
「わたしが付けちゃっていいの?」
 悪魔が少女に対して頷く。少女は悪魔の反応を見て、自分の顎に手先を添えた。
「そうだなあ…。ううん」
 少女は、しばらく無言で考えた後、閃いたように手を打った。
「そうだ。トルスなんて、どうかな!?」
 少女は悪魔と老人を見回しながら言った。
「うん。いい名だ」
 老人は頷く。悪魔も頷いた。悪魔が頷いたのを見て、少女は悪魔と両手を握り合う。
「よろしくね。トルス」
 名前を得た悪魔は、今まで生きていて初めて笑ったように見えた。

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