染められる…
黒鉄:作

■ 3

 あれから数日、由香は夜が来るたびにあの忌まわしい約束を意識しないではいられなかったが、どうしてもそれを実行する気にはなれなかった。あの男はそのうちきっと自分にまた接触してくるはず……そう思うだけで怖くて、毎日が陰鬱だったが、それも日がたつにつれて次第に薄れていき、1週間もする頃には、もしかしたら、あれっきりの悪戯だったのかも、と楽観的に考えられるようにもなってきた。そうこうしているうちに、1学期の終業式も終わり、長い夏休みが始まった。

「ふう、今日も暑いなあ……」
 夏休みが始まって3日目、いつものように朝の8時から勉強を始めた由香は、自分の部屋で問題集に取り組んでいた。同級生の多くは塾の夏季講習に通っていたが、由香はこれまで自分でしっかり勉強に取り組めば、塾なんて行かなくてもちゃんと学校の勉強についていけると思っていたし、実際、そうやって真面目に勉強したおかげで、成績は常に学年トップを維持していた。

 ピンポーン…玄関の呼び鈴が鳴らされ、誰か訪問者が来たことを告げる。両親はとっくに働きに出ていたので、家に一人残っている由香がはーい、今行きます、と明るい返事をして階下の玄関に小走りに出て行くと、玄関には誰もいず、廊下の板張りの床に小さな箱が置かれていた。
「なんだろう……宅配便の人が置いていったのかしら…? でも、宅配便なら、サインをもらわずに帰るわけないし……」
 小首をかしげながら廊下に置かれた小さな箱の上に書かれた文字を見た途端、由香の心臓は止まりそうになった。そこには、あの封書と同じように、由香宛のものであることを告げる宛名が書かれているだけだったのだ。これ…あの時と同じだわ……。

 震える手でその小さな箱を取り上げ、部屋へと戻っていくと、その箱を机の上に置いて、しばらくじっと見つめた。こんなもの…開けずに捨てればいいのよ。そう、あの時はつい見てしまったけど、このままどこかに捨ててしまって……。
 何度も同じ結論に達しながらも、体が固まったように椅子に座って、その箱を見つめたまま、しばらく時が経過した。やっぱり捨てよう! そう思って立ち上がろうとした瞬間、目の前の箱の中から、ヴーヴーと唸りが微かに聞こえてきた。
「な、何? 中に入っているのは…携帯電話?」

 由香自身は携帯をまだ持っていない。友達の多くが持っている中、中学生の間は携帯は持たせない、という両親の方針で、どうしても買ってもらえないのだ。友人の携帯がバイブレーションする時の音と同じその振動を耳にすると、箱の中身が何かはすぐにわかった。そして、その着信を示す振動が、早くその携帯を手に取れ、と由香に命じているのも…。

 それでも由香がまだ箱を開けるのを躊躇していると、バイブ音がしつこく何度も鳴る。もしこのままこれを無視してどこかに捨てたら……あの時の男が怒って、前回私を脅したようなことを実際に実行するかも……そう思うと、あの時感じていた陰鬱な気持ちが再び由香の心に暗い影を投げかけ、やがて根負けするように由香はその箱を開けてしまった。中に入っていた携帯電話の執拗な呼び出しに、あのおぞましい男の執念を感じて、携帯を持ち、通話のボタンを押してしまう。
「もしもし、やけに出るのが遅かったじゃないか。さっきからずっと呼び出してるのはわかっていただろう?」
 携帯から流れ出て来た声は、やはりあの男のものだった。二度と聞きたくないと願っていた男の声。やっぱり私を諦めてくれたわけではなかったんだ……不安と緊張に押しつぶされそうになりながら、由香は小さな声で答えた。
「ご、ごめんなさい……あ、あの…まだ私につきまとうんですか? お願いです、私、もういやなんです! ほおって置いてくれませんか?」
「はあ? 何寝言いってるんだ、お嬢ちゃん。これからの長い夏休み、たっぷりと楽しんでいかなくてどうするんだよ。もうあれから2週間ほどたったよな。ちゃんと約束は守ってるかい?」

 約束、という言葉に、ドキッ! として携帯を落としそうになる由香。結局、あれから一度もあの約束は果たしていない……。
「あ、あの約束は…その…す、済みません…勉強とか色々と忙しくって……」
「ふうん、つまり俺との約束は守る気になれなかったってわけだ。俺も舐められたもんだな。中学2年生の小娘にそんなに軽く見られるとはなあ」

 男の声音がガラリと変わり、低い不機嫌な声になった。怒っている……その声を聞いた由香は、びくっと身をすくめるようにしてその声を聞いた。
「わかった。お前がそうやって俺との約束を反故にするんなら、俺もやってやるよ。ほら、これをこれから、お前のオヤジの職場に電話して聞かせてやろう。どんな顔して聞くか、見てみたいもんだよなあ?」
 そう言った男の声に続いて、あの時の忌まわしい由香自身の声が、携帯から流れてくる。

[か、川原…由香は……これから毎晩…あなたの…作品…ううっ…使って…お、お……オナニーを…練習…しておき…ます……]

「ひっ…!! や、止めて! お願いです、止めて下さい! 私が…私が悪かったです…約束を守らなかった私が……ごめんなさい、許して下さいっ」
 必死に謝る由香に対して、男の声音が変わり、勝ち誇ったような声がそれに応える。
「ふん、本当に悪かったと思っているんだな? それじゃ、勉強をさぼった報いとして、これからサボったぶんだけ復習してもらおうか。いいな?」
「わかり……ました。で、でも…復習って…何を……?」
「復習っていったら、その言葉通りさ。俺の作品を読めよ。ほら、箱の中に無線式のヘッドセットが入ってるだろう? それを耳に装着して読め。ああ、そうだ。気分を出すために、俺の作品通りの服に着替えてくれよな」

 作品通りに着替え? 2週間前にその読んだその作品の内容は、まだ鮮烈に由香の頭に残っている。たしか…学校の制服で…しかも、下着はつけてないって……由香自身、とても気に入っている学校の制服を、男の欲望のために使われる、と考えただけでも虫酸が走る思いだが、今は男の怒りをまた招かないように、精一杯のことをしないと……そう考えると、由香はわかりました…とつぶやくように言って、男の言う通り、室内着を脱ぎ、下着までも全て脱いで、クローゼットに直した夏服を身につけていった。

 素肌に直に着る白のセーラー服の感触は、自分がなにかとても無防備にされたように感じてしまう。着替えた後に椅子に座り、ヘッドセットをつけて、声を出す。
「言われた通りにしました……下着をつけずに…制服を着ています」
「本当か? お前は、俺にばれないと思ったら、結構嘘をつく女だっていうことはわかっているからな。それじゃ、確かめてやるとするか。携帯をテレビ電話モードにしな。やり方は、箱の中にメモで入れてあるぜ」

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