優等生の秘密
アサト:作

■ 56

 ぐったりとその場に崩れ落ちる聡子を気遣いながらも、京介は淡々と身なりを整えていた。
「……朝から、こんなに出さなくてもいいじゃない……妊娠しちゃう……」
 上気した顔で恥ずかしそうに、聡子は呟いた。脚の間から流れ出る精液を指ですくいながら、困ったような表情を見せる聡子が、京介は愛しくてたまらなかった。
「そろそろ、二人目できても問題ないだろ? 深雪もしっかりしてるし、俺達も、まだ30代前半だし。」
「それは、そうだけど……恥ずかしいわ、朝から、こんなに乱れたなんて……」
 聡子はそう言い、よろめきながら立ち上がった。指についた精液を舐め取りながら、聡子は京介をとろんとした目で見つめた。
「それに、こんな格好じゃ、京介を見送れないじゃない……」
 まるで新妻のような言い分に、思わず頬の筋肉が緩んでしまう。京介は優しく微笑みながら、聡子の頬に口付けした。
「すまなかった、次から気をつける。」
 京介は聡子の髪を優しく撫でると、優しく抱き寄せた。そして、聡子の唇に軽く口付けをして、家を出た。そんな京介の背中を見つめる聡子の目は、さっきとはうって変わって、冷え切っていた。
「妊娠なんて、するわけないじゃない……」
 低い声で呟いて、膣内に残った精液を指でかき出す。何の未練も、想いの欠片もなく、ただ淡々と、あふれ出る液体をティッシュに吸い込ませ、ゴミ箱へ投げ入れる。
 結婚してからというもの、聡子がピルを飲まなかった日はない。京介は、大学に通っている間は避妊を心がけていたが、就職し、収入が安定し始めた途端、全く避妊をしなくなったのだ。確かに、もう一人養える余裕はあった。だが、聡子はこれ以上京介と自分の間に命が誕生することを望んでいなかった。勿論、京介にその事を悟られるわけにはいかなかったので、妊娠しづらい体質になってしまったと嘘をつき通していた。仕事が忙しかったこともあって、京介はその言葉を不審に思うことなく、鵜呑みにしていた。
 そんな京介を、聡子は心の中で嘲笑っていた。全て、自分の思い通りに動いた事の安心感からか、京介は以前ほど周囲の変化に気付かなくなっていたのだ。少し観察すれば、聡子が全く妊娠しない理由ぐらい、以前の京介ならすぐに気がついたのに、今はそれすら気付かない。
「あと少し、あと少しよ……京介、貴方に、信じていた者に裏切られる苦しみを教えてあげる……」
 聡子はその美しい顔に、冷たい笑みをたたえていた。

「それじゃ、こないだのテスト返すぞー。」
 深雪のいる教室では授業が始まっていた。教壇に立つのは、深雪のクラスの担任で、数学教師の柏木だ。年齢は京介達と同い年だが、どこか幼く見える顔立ちをしている。街で大学生に間違えられたことを気にして、老けて見られようと黒ぶちの伊達眼鏡をかけているが、それでも京介より若く見えると深雪は思っていた。
 だが、その優しい笑顔や、生徒のことを真剣に考えてくれる態度から、生徒達からの人気は高かった。また、未婚ということもあってか、本気で柏木に恋心を抱く女子生徒も少なくはなかった。
「真田、よく頑張ったな、満点だ。」
 柏木はそう言って、深雪にテストのプリントを渡すと、にっこりと微笑んだ。その笑顔に、深雪は僅かに頬を紅く染める。
「あ、ありがとう、ございます。」
 ぎこちなくそう答えて、深雪はそそくさと席に戻る。何を隠そう、深雪も柏木に恋心を抱く女子生徒の一人だったのだ。だが、物静かな深雪はその事を誰にも打ち明けていない。態度でばれそうなものだったが、深雪は人見知りが激しく、誰に対しても恥ずかしそうな言動をするので、周りには全く気づかれていなかった。
「さて、全員に返し終わったところで、大事な話するぞー。」
 柏木はそう言って、黒板を軽く叩いた。その軽やかな音に、テストの結果でざわついていたクラスがしんと静まり返る。
「皆分かってると思うけど、これから受験本番だ。今回の成績を参考に、将来に向けて今やるべき事が何なのか、しっかり見据えて欲しい。」
 眼鏡のレンズ越しに見える柏木の目は、真剣そのものだった。生徒のことを本当に考えてくれている事が分かる、優しい目だ。そんな目に惹かれたのかもしれないと、深雪はその目を見つめながらぼんやりと考えていた。
 実際、柏木は生徒に対していつも真剣だった。手のつけられない不良と呼ばれ、他の教師から厄介者としてしか見られないような生徒でも、真剣に話を聞き、相談に乗る。その為、普段なら接点のない他の学年の生徒からも、柏木はいつも話しかけられていた。
「……で、前に知らせたと思うが、今週末は三者面談だ。だいたい、2年の終わりで決めた希望通りだと思うが、気が変わったとか、今回の成績で希望進路がちょっと危ういとかいう奴は、早めに先生かご両親に言っておくように。」
 その言葉に、教室内が少し騒がしくなった。
「あのなぁ。毎年一人はいるんだぞ? 三者面談の時になって初めて、俺は別のとこ行きたいって言って、大喧嘩する親子。」
 柏木の言葉に、クラス中から笑いが起こった。柏木は、場の空気を和ませることにも長けていた。深雪は、そんな柏木にどんどん惹かれて行っている自分に気づき、少し困惑していた。

「先生、あのぅ……」
「ん? どうした? 真田。」
 授業が終わり、教科書類をまとめていた柏木を、深雪は呼び止めていた。
「進路のことで、相談があるんですが……」
「……そうか、じゃあ放課後、生徒指導室に。」
「はい。」
 用件だけ伝えるときでも、柏木はその優しい笑顔を絶やすことはなかった。深雪は顔から火が出ているのではないかと気が気ではなかったが、やはり周囲の者は深雪の異変に気付いてなかった。
「柏木せんせー、私も進路のことで相談がー。」
「私も私もー。」
 スカートを短くして、化粧をした女子数人が、無邪気に笑いながら柏木に抱きつく仕草を見せる。
「こらこら、お前らはもっと成績上げないと、どこへも入学できないぞー。」
 変わらず、優しい笑顔で言いながら、柏木は器用に彼女達の腕をかわす。柏木が彼女達に触れられなかった事に、深雪は胸を撫で下ろしていた。そして、そんな自分に気付いて、益々混乱してしまう。
(私、本当にどうしちゃったんだろう……前は、こんな事なかったのに……)
 自分の中の感情に、深雪は戸惑っていた。
(母さんなら、分かるのかな、こういう気持ち……)
 そんな事を考えながら授業を受けているうちに、あっという間に放課後になっていた。
 生徒指導室のドアをノックすると、
「どうぞ。」
と、柏木の穏やかな声が聞こえた。その声に、弾む心を抑えながら、深雪はドアを開けた。
 少し狭く、日当たりも悪いその部屋は、少々圧迫感を覚えさせるものだったが、柏木がいるという安心感からか、深雪はそれほど不安を感じてはいなかった。
「で、進路の相談って何だ? 真田。」
 言いながら、柏木は深雪に椅子に座るよう促した。深雪はそれに素直に従う。
「お前の成績なら、どこの高校にだって受かるぞ。」
「分かってます、分かってるんですけど……」
 深雪はそこまで言って俯いた。何かを言おうとして口を噤んだままの深雪を、柏木は心配そうに見つめる。
「真田、大丈夫か? 何か、悩みでも……」
「私……先生の事が、好きなんです。」

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