2006.06.09.

雨 宿 り
01
横尾茂明



■ 驟雨1

雨の中…銀杏並木の歩道を一人の老人が頼りなげに走っている。
老人はあたふたしながら通りの歩行信号を横切って路地裏に走り込み…とある軒下で留まった…。

老人は苦しそうに肩で息をしながら膝に両手を付いて動悸を静める…。
(ふーっ、苦しい、歳をとったもんだ…やれやれ雨とはなー…困ったぞ)

老人は顔だけ上げて軒下から路地を見通す…西の空が路地の軒先をかすめ僅かに青空が覘いていた。

(空は明るいのに雨とは…)

路地を激しく打つ飛沫が舞い上がり…淡い秋の日差しに白く煙って見える…。
(こりゃ驟雨だな…暫く待てば上がるだろう…)
(…しかしこの白い雨の情景…何処かで見たような気がするが…)

老人は白く煙る路地裏の淡い光りを見つめ…遠い昔を懐かしむように目を細めていく…。

(おお…そうだ、あの日の情景だ! あの帰り道もこんな雨だった…)
(たしか…神宮外苑で出陣学徒壮行会が催された数日前のことだったなー…)

(そう…あの日はたしか乃木坂の親戚を訪ねたんだ!)


日曜のその日、一郎は海軍飛行予備学生の13期学生になった事を乃木坂の叔父に報告に上がった日だった…。

叔父はお国のために一命を擲つ覚悟で戦って来いと言ったが…帰り際に叔母は小声で「帝大に入ったのに勉学もさせず…戦地に送り出すなんて…お国は一体何を考えてるんでしょうね…いいですか! あなたは絶対に死んではなりませんよ」と言い涙を零した…。

帰路…歩き出してから暫くしてパラパラと雨が降り出した、午前中はあんなに晴れていたのにと思いながら一郎は迷った、麻布の自宅まで一気に走るか或いは乃木坂に引き返すかと躊躇しながらも脚は自然と小走りに麻布に向かっていた。

小雨から本降りになったとき…もう戻れぬとあきらめ軒先を求めて路地裏に駆け込む。

雨の飛沫が白く煙る中…一郎は格好の軒先を見つけ飛び込んだ、(ふーっ、空が明るいのにこの降りようは何だろう…)

一郎は空を見上げながら腰の手ぬぐいで肩口の滴を拭ったが雨水は下着まで濡らして冷たかった、また下駄の鼻緒は泥に汚れ、砂を噛んだのか脚の指が痛かった。

下駄を脱いで軒先の外に出す、雨で鼻緒の泥を流しながら…先ほどの叔父と叔母の言葉を交互に思い出していく…。

一郎は海軍飛行予備学生になることを母には相談してはいなかった、だからこのことを叔父から母にうまく言って貰おうと今日は出かけたのであったが…とうとう母の事は切り出せず帰ってきてしまった。

「母さんにどう伝えようか…」

大佐であった父は第二次ノモンハン事件でハルハ川東岸においてソ連軍の攻撃で戦死していた、訃報を聞いた母は一郎に隠れて何日も泣いていたのを覚えている。

その時以来…母は一郎が希望していた陸軍大学への進学は頑なに反対した…。
結局母の願いで徴兵猶予のあった帝大の文科系に進学したが…それが後に学徒動員にかり出される結果になるとは母は思いもしなかったであろう…。

「どうしたものか…母さん悲しむだろうな…」

雨が小雨に変わってきた…肩口に染みた水の冷たさに一郎はふと我に返える。

(この界隈…初めてだな、家からこんなに近いのに一度も来たことが無いなんて…)

静かなたたずまい…軒先には色づきもまだ浅い楓の葉郡が揺れ…生け垣の隅にひっそりと咲いた野紺菊と駒繋の小さな花々が秋雨に濡れていた。

(このごろ…庭の手入れをしていなかったな…今年は内外ともめまぐるしく変動し花を見るなんて心のゆとりもなかった…山本長官の戦死…アッツ島守備隊の玉砕…南方戦線での相次ぐ撤退…イタリアは降伏するし…このさき日本はどうなって行くんだろう…)

突然…軒下奥の格子戸が開けられた…。

思いに沈んでいただけに一郎は飛び上がるほど驚き…振り返った。

「あのー…ここでは濡れますから、雨が上がるまでどうぞ中でお休み下さいませ…」
そこには色白の美しい女性が立っていた…。

振り返った一郎の顔を見た女性は驚いたように一瞬目を丸くし…驚きながらも頬を赤らめて目を伏せる…。

「いえ! とんでもない…勝手に軒先を拝借して申し訳有りません…すぐにご無礼しますから、すぐに…」

「そんなこと仰らずに…坊ちゃん…どうぞ中に入ってくださいまし…」

「えっ! 僕を知っているのですか…」

「ハイ…昔…麻布のお屋敷には何度も行っていますのよ…覚えておいででしょ?」

一郎は女の顔を見つめたが…咄嗟のことで思い出せない。

「坊ちゃんは…もうお忘れになったんですね…」

女は寂しそうにまた目を伏せる…そして独り言のように…

「黍稈細工…」とつぶやいた。



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