シミュレーター
 滝川はゆっくりと深呼吸した。
 吸って、吸って、吸って。吐いて、吐いて、吐いて。
 吸って、吐いて、吸って、吐いて。吸って、吸って、吸って、吐いて、吐いて、吐いて。
「……よし」
 汗ばむ両手をごしごしとズボンで擦って、シミュレーターのハッチを開けた。
 中は様々な機器が所狭しと並べられていて、人が一人やっと入れるくらいのスペースになっている。
 それを見ただけで胸から頭にかけてが焼けてくるように熱くなったが、滝川はむりやり唾を飲み込むとシミュレーターの椅子に座った。
 口の中がからからに渇いている。心臓の鼓動がやけに早い。
 胸から首にかけてはひどく熱いのに、頭のてっぺんから後頭部にかけてと背中のあたりは氷を押し当てられたように冷たい。
 体中の細胞がざわめいているような気分だったが、滝川はできるだけゆっくり深呼吸をくりかえすと、ハッチに手をやり全力で勢いよく閉めた。
 ――瞬間。
 バタンと音をたててハッチが開いた。
 滝川が顔だけを外に突き出し、口を下に向ける。
「う……うぶ……うげえええ………」
 滝川は吐いた。食事をしたのは四時間あまりも前になるので、食物の消化吸収効率も強化された第6世代クローンの自分の胃には胃液しか残っていない。
 それでも滝川は吐いた。
「うげ、げぼ……うぶえええ………」
 数分間胃液だけをやたらに撒き散らして、ようやく吐き気がおさまった。
 ガツン、と頭をシミュレーターのふちに叩きつけた。そのままぐりぐりと押しつける。
「ちくしょう……どうして……どうして……どうしてこうなんだよお………!」
 滝川の目には涙があった。吐き気のせいで出てきた生理的なものというだけでないことは、自分でもわかっていた。
「どうして俺は……できねえんだよ……!」
 怖い。
 どうしようもなく怖い。
 狭いところに入ると、体中の細胞が拒否反応を起こす。体も心も頭の中も、必死になって逃げ出したいと叫ぶのだ。
 ここから出してほしい、ここにはいたくない、それしか考えられなくなる。
 いや、考えることすら既にできない、体が勝手に逃げ出してしまうのだ。
 ……なんでこんなに怖いのか、自分でもわからない。ただとにかく嫌で嫌で嫌で、怖くて怖くて怖くて。誰か助けてと、叫びたくなる。
 滝川は脱力して、シミュレーターのふちにもたれかかった。
 何度こんなことをくり返しただろう。
 この小隊に来る前にいたところでは多人数同時接続型のシミュレーターを使っていたのでほとんど意識しなくてよかった。
 この小隊で使っているのが個別型の小さいシミュレーターだと知ったときには少しぞっとしたが、どうせすぐに終わるしとたかをくくっていた。前にいたところで、あと一回テストに合格すればいいところまでは進んでいたからだ。
 初日、さっそくシミュレーターに向かい、胸のあたりになんとなく不穏なものを感じながらも思いきってシミュレーターのハッチを閉じてみた。
 そうしたら吐いた。
 吐きながら必死にハッチを開けた。その場には幸い誰もいなかったので、自分の吐いたものをこっそり片付けることができた。
 それからは人がいない時間を狙ってシミュレーターを使うようになった。
 誰にも知られたくなかった。
 シミュレーターのハッチを閉められただけでゲロ吐いたなんてひどくカッコ悪いことだし、だらしない、と叱られるんじゃないかと思ったし、なぜか知らないけどなんとなく怖かったから。
 滝川は涙を拭いて、深呼吸をして、今度はゆっくりハッチを閉めてみた。
 かちゃりと音がして、ハッチが完全に閉まった。
 ―――暗い。狭い。誰もいない。
 自分の周りは真っ暗だ。
 闇がこちらに向かい迫ってくる。壁が自分を取り囲み、押しつぶす。
 自分はもうここから出られない。誰も出してくれない。
 閉じ込められてずっと暗い闇の中で壁に囲まれ押しつぶされるずっと一人で壁に闇にみんな食われる自分がみんな消えていく――
 吐き気。
 今度もギリギリで間に合った。もうまったく吐くものもないのにげえげえ胃液じみたものをシミュレーターの外に吐く。
 さっきより時間はかかったものの、だんだんと気分が落ち着いてきた。頭をさっきと同じようにふちに押しつけていると、ひとりでに言葉が漏れてくる。
「俺……駄目なのかな……」
 パイロットになろうなんて考えるのが無茶だったんだろうか。
 でも俺はパイロットになりたい。
 小さい頃からずっと憧れてたんだから。
 巨大ロボットのパイロット。強くてカッコイイ、みんなの人気者。
 ずっとずっと、なりたいと思ってたんだから。
 滝川は顔を上げて肩越しにシミュレーターの中を見た。
 でも怖い。
 どうしようもなく怖い。
「どうすりゃいいんだよ……俺……」
 頭を力なくシミュレーターのふちに擦りつけた。

 ……あったかい。
 なんだろう、これ。
 自分の体が動くのが見える。左手を静かに接続機の上に載せた。なんで勝手に動いてるんだ俺の体?
 大丈夫。
 耳元で声が聞こえてきて、滝川はぼんやりしたまま振り返る。
 そこには誰もいない、でも声は聞こえる。
 大丈夫、心配しないで。
 自分の体がシミュレーターを起動させる。
 私がついているよ。
 耳元で声が囁く。いったい誰なんだろう。
 その時はっと気づいた。こんなにあったかいのは誰かが自分のそばにいるせいなのだ。
 これは、誰かの体温の暖かさなんだ。
 シミュレーターのプログラムはどんどん進んでいく。
 俺は、いつ誰かの体温を感じたことがあっただろう。
 覚えてないな……。
 その思考を最後に、滝川の視界は闇に沈んでいった。

 滝川はシミュレーターの椅子の上ではっと目を覚ました。いつのまにか眠っていたらしい。
 夢を見た気がする。
 自分がシミュレーターを起動させてその中でばったばったと幻獣を倒していく夢だ。
 ただ、最後――滝川は身を小さく震わせる。
 プログラムを終えたシミュレーターのビューに自分の顔が映っていたのだが、その目が妙だったのだ。
 まったく意思というものが感じられない、まるで植物人間かロボットみたいな――
 滝川はぶんぶんとかぶりを振った。そんな夢、覚えていたって嫌になるだけだ。
 滝川はシミュレーターの機器に向き直った。もう一度だけできるかどうか試してみるつもりだった。
「え………」
 滝川は目を見張った。
 シミュレーターのモニターに、Youhei Takigawa Proglam clear″という文字が表示されていたのだ。
「……嘘、マジで?」
 何度見てもモニターには自分が士魂徽章を得るための試験に合格したという情報しか映っていない。データを確認してみても、DNAまで間違いなく自分のデータだ。
「マ……マジかよ……」
 滝川はぐっと拳を握った。握って、開いて、握って、開いて。そしてふいに天井を振り仰いで叫ぶ。
「やったぜ―――っ!」
 叫ぶだけでは収まらず、ばべんばべんとシミュレーターの椅子を叩きまくった。なんだよできたじゃねえかちくしょうめ、などと言いつつ手足をばたつかせる。
 これで、パイロットになれる。そう考えると体の中から泡がわ――っと沸いてくるようで止まらない。
 ひいひい言いながら一人で暴れて、落ち着いたのは五、六分は経ってからだった。
 落ち着いてから、ふとひとりごちる。
「……でも、なんでだろ」
 自分は確かに眠っていた。ということは、自分は眠りながらシミュレーターのハッチを閉めシミュレーターを起動し試験をクリアしたと言うのか? 馬鹿な。
 でもそうとしか考えられない。多目的結晶によるパーソナルデータの確認は間違うことは絶対にない。つまり間違いなく自分が多目的結晶を接続し、試験をクリアしたのだ。
 ……夢で見たように、体を誰かに勝手に操られたとか?
 少し気持ち悪くなってきて、ぶるぶる頭を振って立ち上がった。
 考えるのはやめよう。とにかく、自分は戦車技能資格を手に入れたんだから。これでパイロットになることができるんだから。
 足早にその場を立ち去ろうとして、ふと滝川は足を止めた。さっきの夢の中で自分の体は誰かに操られたように勝手に動いていた。だが、同時になんだかひどく暖かい、体温のようなものを感じていたような気が……。
 滝川はしばらくぼうっとその場に立ちそれがなんだったのか考えていたが、はっと気づいてハンガーの外に走り出した。


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