ザ・デプス
 ……ひどく、暗い場所だった。
 滝川はそこをふらふらと、時々足をもつれさせながら歩いている。
 ひどく頭が重かった。なんでこんなところにいるのかとか、なんで自分は歩いているのかとか、そういうことを考えることすらおっくうで、ただひたすらのろのろと歩いている。
 と、自分の周りにふわふわとぼんやりと赤く光る小さな玉があることに気付いた。それらは全部で二十個ぐらいの数で、上下左右にふわふわと頼りなげに漂っている。
「………なんだ、これ」
 なんとなく呟いてその光球に手を伸ばそうとした時、声が聞こえた。
『やっと気付いてくれた? いつまでも壁の向こうでウロウロしているから少し退屈してしまったよ』
 はっと驚いて慌てて左右を見回す。しかしあたりはどこまでも暗がりが広がっているばかり。人の姿はどこにも見えない。
 しかも、なぜかその声をどこかで聞いた事があるような気がして、少し安心し、安心してしまったことでまた不安になって、滝川は叫んだ。
「誰だよ! お前、誰だ!? どこにいるんだ!」
『君にとっては誰でもいい存在なのは確かだよ。どこにいるかという質問については――少し答えるのが難しい質問だね。ただ、ある意味君のとてもすぐそばにいる、とは言えるか』
 滝川はわけがわからなかった。ただ、なぜか猛烈に不安が高まっていくのを感じた。何か――取り返しのつかないことをしてしまいそうな、押し潰されそうな感覚。
「わけわかんねーこと言うなよ! 俺をここから出してくれよ! 俺をここに呼んだのは……お前なんだろ!?」
『そうとも言えるしそうでないとも言える。きっかけを作ったのは私だが、ここにやってきたのは君自身の心のせいだ。君が声″を聞いたからだよ』
「………声?」
『そう』
 滝川はふいに眩暈に襲われてふらついた。そう、確かに自分は声を聞いた記憶がある。
 歌のような、咽ぶような。でもやはり泣き声というのが一番ぴったりする声。
 それが聞こえて――次の瞬間、自分はここにいた。
「……お前、誰なんだ?」
『言っただろう―――君にとっては誰でもいい存在だよ。それよりも―――セカンドステップだ。その赤い球に、触れてごらん』
「え?」
 滝川は少したじろいだ。
「……なんで?」
『触れてみればわかる。………君は、すでに壁を突破しかけている。だからこそ声が聞こえたんだ。それは、君のその動きを加速させるものだよ』
「……………」
 滝川は、小刻みに震えながらぷるぷると首を振った。
「俺、触りたくない。こんなもの」
『触るさ。君の行く道はそこにしかないんだから』
「……………」
 滝川は、もう一度首を振ったが、それはさっきよりはるかに力がこもっていなかった。
 赤い光球を見つめる。そのひどく鮮やかな赤は、強烈に滝川の印象に残った。
 指が自分の意識を無視して、すうっと持ちあがる。ぶるぶる体を震わせながら、滝川は赤い光球に――触れた。
「……………!」
 ―――溢れた。
『あいつが死んだのはおれのせいじゃないおれが悪いんじゃないおれはただ命令通り任務を遂行しただけだ見捨てたわけじゃない命令した奴が悪いんだおれがやったんじゃないだからおれを見るなそんな目で見るな俺は悪くないんだ見るな見ないでくれ見るな見るな見るな見るな見るな』
 言葉、感情、意識。そういうものを全て含んだ言語化できないもの――人の心の奔流。
 強烈な他人の心の波――ひどく暗い、憎しみと後悔にまみれた心の流れに、滝川の意識は飲み込まれかけた。
 ―――その瞬間、指が離れる。
 ぜえぜえと荒い息をつきながら、滝川は喉を押さえた。
「………なんだ……これ……?」
『あしきゆめさ』
「……あしきゆめ?」
『そう、人が生きる時生まれる……暗い絶望と嫉妬のゆめ―――』
 滝川はきっと中空を睨んだ。
「これがなんなんだよ!? わけわかんねーよ! お前一体何考えてんだ!?」
『―――君のことさ』
「は?」
 あっけに取られて口を開ける滝川に、声は少し笑んだようだった。
『―――だから、知っているんだ。君の中のあしきゆめの存在を』
「……なに言ってんだ?」
『深く。君の心の奥深くまで沈んでいってごらん』
 声が言う――と、滝川の周囲がさらに暗くなっていった。体が沈んでいく感覚があった。赤い光球の群が上へと昇っていくように見える。
「なんだ……なんなんだ……?」
『君の心の底を見つめてごらん―――』
 ぽーん。足が何かに触れた感覚があって、闇の中に波紋が広がった。
 ぽーん。ぽーん。波紋は別の場所でまた波紋を起こし、滝川の周り中を波紋で包んでいく。
 そして―――
 ざぶん!
 波が押し寄せてきた。体の下から上へ。
 暗い波はあっという間に滝川の体全体を覆いつくし、体の中にまで入り込んできた。波に浸され、飲み込まれ―――
「……………!」
 滝川は一瞬息を詰めて、絶叫した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
『いつもは見ないふりをしてごまかしている君のゆめ――でも、なかったことにしようとしてもそれは変わらずにそこにあるんだよ』
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 閉じ込められたもう誰も出してくれない闇に押し潰される食われる自分が消えるでも誰もそれに気付いてくれない放っとかれたまま痕跡も残さず潰されて消えていく。
 狭いところに入った時の気持ち――いや違う。
 初めて―――母親に閉じ込められた時の気持ち。それが滝川の体を満たした。
『普段は君は忘れている。忘れたふりをしている。狭いところが怖いのも、何でかわからないふりをしている。―――でも、本当は知っているんだ。自分は母親に閉じ込められた時の恐怖をまだ忘れられていないのだということを』
 滝川の精神は恐慌状態に陥っているのに、声は遠慮会釈なく滝川の中に入りこんでくる。滝川は頭を抱えこんで必死に振った。
「違う! 違う違う! あれはそんな大したことじゃない!」
『君の母親は君を狭くて暗い場所に閉じ込めた。そしてそのまま忘れてしまった』
「あれは俺が悪かったんだ、俺のせいなんだ、俺がバカだったから……! 俺がバカなことばっかりやってたからかーちゃんは怒ったんだ、当たり前のことなんだよ……!」
『そうじゃないことを君は知っている。そういうことにしておかないととても傷ついてしまうから。罰として閉じ込めて飢え死にしかけるまで放置する? そんな当たり前があるものか。……君が何より怖かったのは暗闇じゃない。君が怖かったのは自分の母親が、自分に、気まぐれで閉じ込めてそのまま忘れてしまう程度の関心しか持っていないということだ』
「違う……違うんだよ……俺が悪かったんだ、俺のせいなんだ、かーちゃんは悪くないんだ……!」
 耳をふさいで頭を振る。それでも声は滝川の中に響き、痛烈な言葉を浴びせた。
『母親が――ひいては周りの全てが自分を愛してくれていない。それが怖かったんだろう、君は?』
「違うんだよぉっ!」
 滝川は闇の中に突っ伏した。目から涙がぽろぽろ零れ落ちるのがわかった。
 声は容赦なく続ける。
『君の母親は君を愛していなかった。君は望まれた存在ではなかった。君はそのことに深く傷付いていたのだけれど、知らないふりをして明るく振舞った。そうしたら親が、他の誰かが、自分を好きになってくれると心の底で決めつけて。そう思わないと生きていけなかったから。動けなくなるくらい、寂しかったから』
「違う……違う……!」
『―――そしてその想いが、いまだに君を支配している行動理念だ』
「え……」
 泣きじゃくりながら中空を見上げる。当然、そこには何もないが、声は静かに続きを言った。
『君がヒーローに憧れていたのは、ヒーローになったら誰かが好きになってくれるかもしれないと思ったからだ。英雄になれば褒めてもらえる、自分を受け入れてもらえると思ったから。だから君はパイロットになりたかった。……他に何をやっても、誰からも振り向いてもらえなかったから』
「ち……ちが……」
『訓練をし始めたのも一番の理由はそこにある。誰かに褒めてほしい、好きだと言ってほしい……ただ、それだけの理由だ』
「そんなんじゃない、そんなんじゃ……! 俺はただ頑張らなくちゃって思って……!」
『……でも、君はそうして得た好意を、本当は信用していない』
「…………!」
 滝川は絶句した。声はそれを気にも止めていないように続ける。
『訓練をしたから、たくさん幻獣を倒したから、勲章をもらったから。そういうことで得られた好意はもし自分がしくじればなくなってしまうのだと思っている。君は他人の好意というものを心底信じることができない。裏切られるのが怖いから。英雄になっても、君は本当は怯えている。得たものをなくすんじゃないかと怖がっている』
「違う……違う、違う……!」
 いやいやと首を振る滝川に、声はとどめの一言を告げる。
『なぜなら君は、母親にすら愛されなかった、人を本当に信じることのできない自分には、好意を寄せられる価値なんかないと知っているのだから』
「やめて……やめてくれよぉっ!」
 滝川は顔を押さえてすすり泣いた。
 ――もう、わけがわからなかった。この声の言っていることが全て正しいのか、間違っているのか。ただ、とにかく感情をめちゃくちゃに揺さぶられて、ひどく―――辛い。
『……それが、君のあしきゆめ。そして今の君を動かしている力。他人の命よりも何よりも、本当は信じられない他人の好意が君はほしかった。……奇妙な話だね、あしきゆめを殺すものの原動力があしきゆめだなんて』
「………わけ……わかんねぇよぉ………」
 声がわずかに笑んだような気がした。
『……教えてあげようか。人を殺すのはあしきゆめだ。人のあしきゆめが人を殺している』
「なんだよ……わかんねぇよ………っ」
『じゃあわかるように……このゆめたちに教えてもらうといい』
 すうっ、と全ての赤い光球が滝川の体に降りてきた。滝川は驚いて身をかわそうとするが、一瞬遅い。
 赤い光球が、次々と滝川の体内に吸収されていった。
「!」
 滝川はびくん、と体を震わせた。
『いやだもう生きていたくない何もしたくない何かしたって何の意味があるっていうんだばかばかしい面倒くさい何もかももういやだでも死ぬのもいやだいやだいやだいやだ誰かどうにかしてくれ』
 そんな思いが。
『いやだ死にたくないなんで僕が死ななくちゃならないんだ僕は悪いことなんかなんにもしてないのに僕は戦いたくなんかなかったのにどうして戦わなくちゃならないんだ』
 そんな思いを、消していくのが見えた。
『どうせみんな死ぬんだ俺はそれを少し早めただけだ別に悪いことなんか何にもしてない俺は悪くない悪くない悪くない誰にも責められることなんてない俺のせいじゃない』
『どうせ死ぬなら戦って死んでやる殺してやる殺してやる殺してやる俺を馬鹿にした奴らを見返してやる死んで英雄になってやるでも本当にいいのか死んでしまって』
 そんな思いが絡みあい、ぶつかりあってお互いを消し去りあっていく。
 伝わってくるのはイメージだけだ。別に殺されるところが見えるわけじゃない。
 ただ、どうしようもない思いがどうしようもない思いを消し去っていく強烈なイメージは、滝川の心を思いきり揺さぶり、ひどく悲痛な、やるせない気分にさせた。
『もしかしたら、君のあしきゆめも……どこかで人を殺しているのかもしれないね……』
 声が遠ざかっていく。滝川はほとんどそれに注意を払うこともできず、泣いていた。
 今まで必死に頑張ってきて、でもそれは全部嘘かもしれなくて。
 そんな気持ちが人を殺すとか言われて。
 誰かの苦しい思いがまた誰かの思いを消していくのははっきりわかって。
 そんなひどいことがあっていいはずないのに、みんな死にたくない、生きていたいはずなのに、確実に思いが思いを殺していく。
 もうなにも思うことすらできなくなってしまう。嫌だと言っても、泣き叫んでも、どんどん、どんどん消滅させていく。
 そんなこんな全てが、ばかばかしいくらいどうしようもなくて、しょうもなくて、悲しかった。
 本当に、心底悲しくて、声を上げて泣いた。
 ――ふと、どこか遠くで子供の泣き声が聞こえたような気がしたが……すぐに滝川の意識ごと闇に消えていった。

 滝川はのろのろと目を開けた。体中が重い。なにか、ひどく苦しい夢を見ていたような気がした。
「……起きたか、滝川」
 その声に滝川はびくりとして、声の方を見る。
「…………芝村」

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