ティアーズ・2
 わかってる。
 本当はわかってる。
 俺のこんな気持ちはただの甘えだって。みんな我慢してるんだから、俺も耐えなくちゃいけないんだって。
 ――――でも、わかってるけど、俺は――――ただ、本当に嫌だったんだ。
 滝川はだあだあ涙をこぼしながら病院を飛び出し、街をうろついていた。一つの場所にとどまっていたくなかった。
 俺は自分を英雄だとは思ってなかったけど、それなりに一人前になってきたかな、くらいは思ってたんだ。師匠に言った言葉はホントだけど、やっぱりそれなりにアルガナ獲ったっていうのは自信になったし、戦場に出たての頃からずっと続いているプレッシャーも耐えられるようになってきたし、自分でも自分のことけっこうやるじゃんって思えるぐらいの実力つけたと思うし。
 でも、本当は――全然そうじゃないんだって、あの夢をみてわかった。
 あの夢。強烈なリアリティと感情を呼び起こしたあの夢。
 ただの夢かもしれない。でもあの夢の中の言葉を自分は否定できなかった。
 あいつの言ったように、自分が本当は信じられない他人の気持ちがほしいってだけで頑張ってきたとは思いたくないけど。まだあんなことを気に病んでるなんて考えたくないけど。
 でも、嘘だって胸張って言えなかったんだ。
 それはすごく情けなくて、本当に今まで頑張ってきたことが全部パーになっちゃったみたいな気がして。
 そこに人の思いが人を殺す、その両方の感情を感じさせられた。
 あれは幻獣だ、ってなんとなくわかった。幻獣は人の想いでできてるんだ、という考えはすとんと滝川の中に入ってきた。自分はどこかでそれを知っているような気がしていた。
 すごく嫌だ、って思った。
 自分は何度も戦場を経験して、死の恐怖なんか乗り越えてるつもりだった。もちろんいつも――舞と一緒に――生きて帰るつもりではいたけど、死ぬ覚悟はできてると思っていた。
 でも。そういうレベルの話ではなく。人が殺し合う時の感情に同調して、滝川は心底、『殺し合いって嫌だ』と思ったのだ。
 誰かが誰かの生命を絶つ。人一人の人生を終わらせる。誰にもそんな権利ないはずなのに、生きていた人を殺す。
 死ぬっていうこと。もう何も感じられなくなる完全な消滅。それは本当に大変なことで、惨いことで、恐ろしいことだ。それは今までの自分も何度も考えた。人が死ぬっていうのはひどく怖いことだっていうのは分かっていたつもりだった。
 だが、滝川が一番嫌だと感じたのは、そういうものすごく大変なことが『当たり前』に行われていることだった。
 どの人にも人生があったはずだ。喜んだり泣いたり怒ったり、親に叱られて傷ついたり友達と遊んで楽しいって思ったり好きな人のことを想ってドキドキしたり、そういう気持ち、生きてきた歴史をみんな持っていてその人は代わりが効かないかけがえのない存在のはずなのに。
 今まで自分はちらりとそんなことを考えても『仕方ない』って思ってきた。自分たちはそういう時代に生まれたんだって。
 でも、自分は殺される時の感情をつぶさに経験して――あれを仕方ないで済ませるなんて、そんなことがあっていいのかと思ったのだ。
 そういう時代だから、戦争だから、だからあんな風に人が消滅するのが『仕方ない』のか? 死にたくない死にたくないって喚いて神様に祈って、できること全部やってもやっぱり駄目で死ぬときのその絶望――その底知れない慟哭を『仕方ない』で片付けてしまえるのか? そんなことをしてしまったら、命っていうものが大切だなんて、どうして言えるんだ?
 それでどうして、生きていけるだろう。
 命を大切にしないで、どうして自分の人生を大切にできるだろう。
 ――――でも、本当はそれも自分の甘えだってわかってる。そういう気持ち全部、他の奴らは乗り越えてるんだろう。だってどんなに嘆いたって嫌がったって幻獣は襲ってくるんだから。戦わなけりゃ本当に死んじゃうんだから。
 ただ――――。滝川はまた泣いた。
 ただ、俺はそういう気持ち、ちょっとでもわかってほしかったんだ。俺の感じた気持ち、ほんのちょっとでいいから伝えたかったんだ。
 ――――――芝村に。
 これも甘えなのかもしれない。俺のわがままなんだと思う。笑っちゃうくらい図々しいお願いなんだと思う。
 だけど、好きな奴に自分が本当に哀しいんだ、辛いんだってことを、世の中が間違ってるって思ったことを、せめて知っておいてほしかったんだ。そうでないとこの世で自分が一人なんじゃないかなんて馬鹿なこと考えちゃうから。
 でも。
『そなたの内省に付き合うほど私は暇ではないぞ』
 滝川はうつむいて、ボロボロ涙をこぼしながら歩いた。
 全部くだらない甘えだって、自分の思ったことなんて全部馬鹿馬鹿しいって言われた気がした。あっさり拒否されたって、そう感じてしまったんだ。
 それは間違ってないと思う。そう言われたら返す言葉なんてない。
 でも、自分は舞も自分を好きになってくれてると思っていた。だから、自分の気持ちを、それが正しいか間違ってるかは別にして、受け入れてくれると思ったんだ。そういう気持ちがあることぐらいは、認めてくれると思ったんだ。
 けどそんなの思い込みだった。舞は自分のことなんか横に立つパートナーとしても認めてくれてなかったんだ。弱いところを見せたら、あっさり拒否されるぐらいの付き合いでしかなかったんだ。
 だから『行きたくない』って言ってしまった。こんな気持ちで、芝村を後ろに乗せて戦うなんてできない。
 甘えだって分かってる――でも、絶対できない。
 自分は芝村に気持ちをわかってほしいなんて本音絶対言えない。この想いまではっきり言葉で否定されたら――芝村を好きだって気持ちまで、否定されてしまう気がするから……。
 もうどうしようもなくやるせなくて、泣きながらうつむいてひたすら街を歩いた。

 どん、と体が何かにぶつかった。
「っんだテメェ! どこ見て歩いてんだ!?」
 乱暴な声。滝川はのろのろと顔を上げた。
 自分より少し年上の、だが恐らくは学兵。あからさまに柄の悪い男たちが三人いた。
 普段なら謝っただろうが、今は誰かと言葉を交わす気になれず、滝川は彼らを無視して横を通り抜けようとする。
 その通り道を塞がれた。
「オラ、シカトしてんじゃねーよコラ。ちょっと顔貸せテメェー」
「ナニ? こいつもしかして泣いてんの? ハズーッ!」
「怖くておもらししちゃいまちたか〜? 悪い子でちゅね〜」
 うるさい。
 放っておいてくれよ。俺は、今自分で自分がわけわかんないんだ。
 またうつむいて逃げ出そうとする滝川に、声が上がった。
「待てよ。こいつ5121小隊の滝川陽平じゃねえか?」
 びくりとして足を止める滝川。男たちは大声で勝手なことを話している。
「おい、滝川って、あの滝川か? 芝村の誰かと一緒にアルガナ獲ってた?」
「間違いねえよ。テレビで見たのと同じゴーグルだもん。こんなもんつけてる学兵なんて普通いねーよ」
「へえ、いいじゃん。階級千翼長だっけ? いい人と知り合いになっちゃったな〜」
 うるさい。
 今の俺にはそんなことどうでもいい。好きなだけ罵りゃいいだろ。俺は罵られて当然の奴なんだから。
「そんじゃお近づきの印にさー、いま持ってる金全部出してくんねぇかなぁ?」
「アルガナの英雄さんが泣きながら街歩いてたなんて知られたくねえよなぁ? 出してくれるよなー金。お友達だもんなぁ?」
 うるさい。
 お前らの声なんか聞きたくない。俺は――あいつの、芝村の声が聞きたい。
 でも俺にはもうあいつのそばに行く資格ないんだ。声も聞けない。顔もまともに見られない。
 だってこんなに泣くほど俺は弱いんだもの。
「おいコラ聞いてんのか? 金出せや金!」
 ――そう言って男の一人が軽くパンチしてきた時、滝川は別にどうこうしようと考えていたわけではなかった。
 頭の中は舞や夢で見たことでいっぱいで、男たちなどほとんど眼中にも入っていなかったのだ。
 だからどう、ということもなかった。ただなんとなく、体が動くままに動いただけだ。
 ただ自分より背の高いその男の殴ってきた腕を引きつつ水月に肘を入れ、頭が下に降りてきたところに回転させた拳を叩きこんだだけだ。
 なんということもないつもりだったが――男は鼻血を吹き出して呻き声も上げられず昏倒した。気絶しながら口から汚物を吐き出した。
 ぎょっとしたのは他の男たちだけではなかった。滝川も心底驚いていた。
 なんだこいつ? なんでこんなに隙だらけなのに俺に殴りかかってくるんだ? あんなのろくさいスピードで。それになんて脆いんだ。今のは体の反射行動にすぎない。体に触れられたから払った、その程度のもの。これじゃあ殴り倒そうと思って殴ったら、あっさり死んじゃうんじゃないか?
 そこに考えが至った時滝川は愕然とした。
 ――俺は人を殺せるんだ。ものすごく簡単に。
 体が勝手に動くのに、ほんの少し殺すつもりで力を加えれば。
「な……なにしやがる、テメェ!?」
「ぶっ殺すぞ、オラァ!」
 他の男たちが殴りかかってくる。だが滝川は呆然と突っ立って動かなかった。
 やろうと思えば、というより反射行動を押さえこまなければそいつらを一瞬でぶちのめすのは簡単だっただろう。殴りかかってくる腕を取って骨を折ることも懐に飛び込んで足を砕くことも喉仏を潰すことも蹴りの一発も入れて内蔵を破裂させることも簡単にできた。
 そしてその事実がひどく恐ろしかった。俺は人が殺せる。というより体が動くのをなんとか抑えないと簡単に人を殺してしまう。
 今まで培ってきた力と技は、そのまま人殺しにも使えてしまう。
 ――第一、幻獣を殺す技は即ち人の想いを殺す技だ。
 それに呆然として、思いきり顔を殴られても少しよろめいただけだった。
 男たちは錯乱して滝川を突き倒し袋叩きにする。顔を頭を腹を腕を足を蹴って蹴って蹴りまくる。
 滝川から見ればはっきり言ってなっちゃいない蹴りだったが、滝川はそれに文句をつけもせず蹴られていた。
 これは今日受けたショックの中でも有数のショックだった。――――自分は人殺しだ。
 滝川はまた泣いた。蹴られても滝川の鍛えられた筋肉に守られてダメージは受けなかったが、頭に一発まぐれ当たりがあってくらりと意識が遠くなる。
 考えてみれば戦場に行かなければ自分の代わりに人を死なせるという意味で人殺し、戦場に赴けば人の想いを消すという点で人殺しだ。俺はどっちにしろ人殺しじゃないか。
 滝川は泣きながら虚ろに笑った。そこをまたさらに蹴られまくる。
 ――遠のく意識の中で、滝川は男たちが悲鳴を上げるのが聞こえた気がしたが、よくはわからなかった。

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