「………速水?」 自分の上にのしかかっているように見える速水の頭を見て、滝川は戸惑いながら言った。 頭の下の感触はふかふかと柔らかい。自分の部屋の煎餅布団とはえらい違いだ。 体のあちこちがひりひりと痛む。擦り傷切り傷の痛みだ。 速水は自分の顔のすぐ近くに顔を近づけて、動きを止めている。 これはどういう状況なんだろう、と滝川は困惑した。 「………ごめんね。起こしちゃった? 滝川」 速水はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ――滝川は一瞬、呆けたような顔をして速水を見つめた。 「ガーゼを取り替えようと思ったんだけど。痛かったかな。具合はどう? 熱はない?」 「…………ない、けど…………」 それよりお前、いったいどうしたんだ? その問いを滝川が口にのぼらせる前に、速水は優しく滝川の額に手を当てた。 「熱はないね。さすが、よく訓練してるよ、滝川。怪我したって言っても深刻なダメージはほとんどないもの。鍛えられた体がダメージを吸収してくれたんだろうね」 おかしい。 おかしすぎる。何で今日の速水はこんなに愛想がいいのだ? 確かに自分は速水に実はさほど嫌われてないかも、などとこっそり思ってはいたが、これはそういうレベルの話ではない。 今まで戦場以外では速水はずっと自分を無視してきた。なのにこれはいったいなんだ? 初めて会った頃に戻ったような――いや、それよりさらに愛想がいいというか、優しいというか。 嬉しいというよりも怖くなったが、さすがに『お前何か企んでるのか?』などという失礼な問いを発する気にはなれず、その次に聞きたいことを口にした。 「……俺、いったいどうしたんだ? 何でお前と一緒にいるんだ?」 「戦闘から戻ってきて家に帰ろうとした時、新市街に滝川がぼろぼろになって倒れてるのを見つけたんだよ。怪我してるみたいだったから、僕の家に連れてきた」 「……今何時?」 「二十二時三十二分」 「そっか……」 自分はどれくらい街をうろうろしていたのだろう。よく覚えていないけど、何時間かはずっと泣きながら歩いていたような気がする。 そのあとあのチンピラたちに捕まって、殴りかかってきたのを―― ざわっとその瞬間の感情がよみがえってきて、滝川は反射的に自分の体を抱き締めた。 怖い、辛い、悲しい、気持ち悪い、そんな気持ちの渦。そしてその根っこにある、自分に対する嫌悪と呼ぶのは生易しいほどの強烈な嫌悪。 消えたい。このまま消滅したい。自分という存在をこの世から抹消したい。 でもそれも怖い。自分が消えたら自分はいったいどうなってしまうんだろう。それに自分はまだ、ほんの少ししかちゃんと生きてない。なのにあっさり消滅するなんて、あんまり惨めで、馬鹿馬鹿しくて――それで、もうどこにも、動けなくなる……。 「滝川」 ぐい、と体を起こされて、背中に手が触れた。 ――速水の手だ。 速水の手は優しく自分の背中を撫で下ろしてくる。何度も何度も。ゆっくり、労わるように。 少し呼吸が楽になって、おずおずと速水を見上げると、速水は優しい、安心させるような笑顔で自分を見下ろしていた。 「速水……」 「滝川。どうしたの」 どうしたの。 その言葉の中に、ひどくいろんな気遣いがこもっているような気がした。 自分の様子を単純に心配する気持ち、辛い気持ちを吐き出してもいいよと許してくれるような感覚、無理には聞かないからねというような心遣い。 速水が自分を気遣ってくれる、話を聞いてくれる――そう思うと滝川はなんだか泣きたくなって、のろのろと口を開いていた。 「……だから、俺は人殺しだって、思ったんだ。簡単に人も想いもを殺してしまう、人殺しだって……」 滝川は語り終えて、口を閉じた。 全部話した。戦場で見たあしきゆめ≠フ話も、舞と話したことも、街で絡まれた時のことも、その時々の自分の思い――もう戦いたくないと思ったことも、何もかも。 こんなに話して迷惑じゃなかっただろうか。こんなこと、自分で解決しなくちゃいけないことなのに、全部ぶちまけちゃってよかったんだろうか。軽蔑されないだろうか。どきどきしながら速水の顔を見た。 速水は、静かな顔で滝川を見つめていた。その落ち着いた表情からは内心の気持ちはうまく読み取れない。 緊張に耐え切れず話しかけようとしたとき、速水が先に口を開いた。 「滝川。滝川は、自分の死ぬ時のことを考えたことがある?」 「え?」 話が飛んで一瞬わけがわからなくなったが、数秒かけて言葉が脳に到達したので慌ててうなずいた。 「う、うん。あるよ」 最近はほとんどなくなっていたが、一ヶ月くらい前まではよく考えていた。自分は死んだらどうなるんだろう。誰か一人くらい泣いてくれる人いるかな、死ぬ時って痛いかな、とかそんな埒もないことを。 滝川の言葉に、速水は微笑んでうなずいた。 「僕もあるよ。滝川のそばにいると、いつも僕は自分が死ぬ時のことを考える」 「へ? お、俺?」 きょとんとする滝川を優しい目で見つめつつ、速水は笑った。 「うん。自分はどんな風に死ぬんだろう、自分の死は何か意義があるんだろうか、死ぬ時誰かの役に立てて死ぬんだろうか、とか……そういう無駄なことをね」 「……無駄?」 「無駄だろう。だって死んじゃったら僕はその後のことは何もわからないんだから。もう何もできなくなった後のことを考えてどうするのさ。無駄以外のなにものでもないだろ」 「…………」 「君のそばでは、僕はいつもそんな無駄なことばかり考えているよ。考えても無駄なこと、どうしようもないこと、非効率的としか言いようがないことをね」 「…………ごめん」 他になんと言えばいいのかわからずただ謝った滝川に、速水はくすっと笑ってみせた。 「でもね。僕はそんな僕が、あまり嫌いじゃないんだ」 「………え?」 滝川が顔を上げると、速水はやはり優しく微笑んでいた。包み込むような目でこちらを見て、ゆっくりと語りかけてくる。 「無駄、不必要、ロス、厄介もの――そんなものを抱え込むようになった自分が、それほど嫌いじゃない。無駄って言えば人間が生きるってこと自体果てしない無駄の生産工場さ。存在効率で言えば人間なんかに生まれないほうがいい。―――でも、僕は人間として生きたい。人間として生まれてきてよかった、今はそう思えるからね」 「速水……」 「滝川。君はきっと辛いと思う。ものすごく辛いんだろうと思う。僕にはその気持ちは全部はわかってあげられない。他の誰にだってそんなことはできない。……でも、だからって君がその気持ちを抱えていていけないということはないんだよ。その気持ちにどう決着をつけるのかは君が決めることだ。――それが君の生きるってことだと思う」 「…………」 「あがいて、迷って、悩みまくって。そうして人は生きている。戦場のど真ん中でもそんなことを考えてる場合じゃなくても、人は感じて考え、惑う。だったらせいぜいしっかり生きて≠竄驍オかないだろう? あがいてあがいて、あがいた末に何か道が見つかることを期待して、さ」 「………はや………」 「滝川。君はみんなを守りたいと思ってるんだろう」 滝川はこくんとうなずいた。 「戦うのはいやで、いやで、怖くてしょうがなくても、それでもみんなの前に幻獣が現れて襲ってきたら戦うだろう?」 うなずく。 速水は微笑んで、滝川の頭をぽんぽんと叩いた。 「それなら君は戦っていける。戦いたくないって思いながらも戦って生きていける。理不尽なこと、いやなことに決着をつけて納得するためにそれまで生き延びることができる。そういうことを何とかすることができるのは生きている人間だけなんだってことを、忘れなければね」 「…………うん…………」 滝川はうつむいて、涙がこぼれそうになったのをごまかした。 まだ気持ちに決着がついたとは言えない。また戦うことができるかわからない。戦場に行ったらまた錯乱したり逃げ出したりしてしまうかもしれない。 でも、自分はそういうものと向き合っていける、いきたいと思えた。こんな気持ちを持つことが間違っているわけじゃないって言われて、ちょっと心の中が暖かくなった。また頑張ろうって、そう思えた。 速水はまたぽんぽんと滝川の頭を叩いて、笑い声を上げた。 「なんてね! 滝川、お腹空いてない? 何か暖かいものでも持ってこようか?」 「……いいよ、俺、もうちょっと寝るから」 本当はさほど眠くはなかったのだが、速水と顔をあわせているのが気恥ずかしくて滝川はそう言った。速水と今食事なんかしたら食べながら泣いてしまいそうだ。 速水は笑ってうなずいて、ベッド脇のいすに座った。どうやら自分が眠るまで見守ってくれるつもりらしい。 子供みたいでひどく照れくさかったけれども、どこかが暖かくなるような気もして、滝川は布団を引っかぶって目をつぶろうとした。 ……と、その前に、おずおずと布団から顔の上半分だけを出して速水に訊ねた。 「速水」 「なに?」 「……お前、何でこんなに俺に優しくしてくれんの?」 速水の微笑んだ顔が一瞬硬直した。 だが、すぐにまた柔らかい表情に戻って、優しく滝川の頭を撫でる。 「そんなことは、いいから」 微笑んで、囁く。 「今は―――ゆっくり、おやすみ」 目をつぶっているうちにまた眠気が押し寄せてきて、滝川はゆるゆると眠りの世界に引き込まれていく。 夢見心地に、低く優しい声で誰かが歌っているのを聞いたような気がした。聴いたことのない歌だ。 それは子守唄だった。滝川は知らなかったが。 知らなかったけれども、その歌は耳に心地よくて、気持ちを静めてくれるようで、時々下ろされる手の温もりがあんまり暖かくて―― 滝川はその歌を無意識に繰り返しながら、眠りについた。 ねんねん ころりよ おころりよ ぼうやは 良い子だ ねんねしな ぼうやの おもりは どこへ行った あの山 越えて 里へ行った 里の 土産に 何もろた でんでん太鼓に 笙の笛 |