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「速水!」
 聞き慣れた呼び声に、速水は後ろを振り向いた。
 そこにいたのは予想通りの人間だった。校舎の階段を降りかけていた速水のところまで慌てたように走ってくる。
 滝川だ。
「なに? 滝川。僕これから仕事に行くつもりだったんだけど」
 小隊結成から一週間。速水の仕事熱心なのは既に小隊内では知れていることだった。
 それを反映してか、敵撃墜数は速水と芝村の駆る三番機が最も多い。
「あ、悪い。だったら忙しいか?」
「忙しいってほどじゃないけど。なにか用事?」
 用事がないなら後にしてくれ、という心積もりを裏ににじませながら、速水は軽く微笑んだ。現在無職の滝川は、暇なのか何の用事もないのに話しかけてくることが多い。速水は大抵の場合適当に相手してやっていたが、話しかける人によっては(無職のくせにやけに大きい態度のせいか無職なのに訓練よりお喋りしたがるせいか)怒られることもままあるようだった。
「いや、駄目ならいいんだけど。ちっと訓練に付き合ってもらおうと思ってさ」
「へえ?」
 速水は目をわずかに見開いた。
「別にいいけど。どうしたの、珍しいね。滝川から訓練しようって誘ってくるなんて」
 その言葉に、滝川はぷーっと頬を膨らませてみせた。
「なんだよー、その言い方。まるで俺が怠け者みたいじゃんか」
 まるでじゃなくてはっきりとそう言ってるんだけどな、と内心思いながら速水は微笑む。
「ごめん。それじゃあグランドはずれに行こうか。もう誰かいるかもしれないけど」
「よっし、行くか!」
 二人は一緒になって走り出す。訓練をする時には駆け足になってしまうのは、短期間ながらも叩きこまれた軍隊式訓練法のせいだろう。
 走りながら速水が滝川にたずねる。
「でもさ、本当に、なんで訓練しようと思ったの?」
 滝川も同じく走りながら、器用に頭をかいた。
「いいじゃん。なんとなくだよ、なんとなく」

 校舎はずれを急ぎ足で歩いていた茜は、ふいに肩をぽんと叩かれ驚いて振り向いた。
 そこにあったのは額にゴーグル、ほっぺにバッテン傷、頭には櫛も通していないような好き放題に跳ねた癖っ毛という見なれた顔だ。
「……お前か」
 フンと鼻を鳴らしてみせる茜に、滝川は少しばかりむっとしたように口を尖らせる。
「お前かってなんだよ。まるでお前に話しかけたのが悪いみたいじゃん」
「僕には無職の人間とかかずらわって時間を無駄にする気はないんでね。何の用だ」
 あくまで倣岸な態度を崩さない茜に、なんだよお前だって無職のくせにとかぶつぶつ呟いてから滝川は言った。
「訓練付き合ってくんねえ?」
 茜はは? というように口を開け、あからさまに眉をひそめた。
「馬鹿かお前。なんで僕がお前なんかの訓練に付き合わなきゃならないんだ」
「なんだよー、いいだろー。同じ無職なんだし付き合ってくれたって」
「僕は今定職を得るための根回しの最中なんだ。お前と一緒にするな」
 しっしっ、と手で追い払うような仕草をして立ち去ろうとする茜に、滝川がしがみつく。
「こ、こら。離せよ!」
「なあー、付き合ってくれよー。いいじゃんか、ちょっとくらいー。お前だって訓練はしなくちゃだろー?」
「しつこい!」
「なあなあなあなあってばー。頼むからさー、ニ時間だけ! ニ時間だけでいいから、一緒に訓練しようぜー」
 しばらくもみあうようにしながら言い合いを続けていた二人だったが、やがて茜が叫んだ。
「ああもう、わかった! やってやるよ、やってやればいいんだろ!」
「よっしゃ!」
 茜がそう言うや否や滝川は茜の服の裾を離してにかっと笑う。それをやや脱力した風に見ると、茜は尚絅高玄関に向けて歩き出す。
「祈りの泉でいいな?」
「おう! ほら茜、とろとろ歩いてんなよ。訓練する時はダッシュダッシュ!」
 もはや反論する気力も尽きたように、言われるまま茜は走り出す。走りながら、忌々しそうに滝川の方を向いて言った。
「まったく、どういう風の吹き回しなんだ? 訓練嫌いのお前が。どういうつもりなんだよお前」
 滝川は走りながらふんと鼻を鳴らして答えた。
「いいだろ。なんとなくだよ」

 味のれんで夕食を終え、小走りで正面グランドに戻っていく若宮が不意に足を止めた。誰かの呼びとめる声が聞こえたような気がしたのだ。
「……若宮さん!」
 今度ははっきりと聞こえた。若宮は後ろを振り向くと、予想通りの人間がそこにいたことにふ、と息をついた。
「なんだ、滝川?」
 既に仕事時間は過ぎてオフタイムに入っているので、自然口調は砕けたものになってしまう。
 走って若宮のところまでやってきた滝川は、はあはあと少し息を荒らげながら言った。
「あの、悪いんですけど。ちょっと訓練、付き合って、くれないかなって」
「訓練?」
 わずかに走っただけで滝川が息を乱したことに眉をひそめていた若宮は、ほ、と口をOの字に開けた。
「そちらの方から申し出てくるとは殊勝な奴だ。いいだろう、たっぷりしごいてやる。覚悟しておけ」
 うへ、と辟易した表情になった滝川にはかまわず、若宮は声を張り上げた。
「グランドはずれまで、駆け足ッ!」
「はいっ!」
 従軍経験の長さが違う若宮と滝川では、こういう時の迫力もけた違いに違う。耳元でとてつもなく大きな声を出されて、滝川は文字通り跳びあがって走り出した。
 玄関、ロビーを抜け正面グランドに降りる。足並みをそろえて走りながら、ふと若宮が滝川に言った。
「しかし、お前の方から訓練に付き合ってくれと頼んでくるとは正直思わなかったぞ。どういう風の吹き回しだ?」
 そう言われて、滝川は荒い息の中から搾り出すように言った。
「え、いや、その、なんと、なく。やっぱ、だって、訓練は、しなくちゃ、でしょ」
「結構な心がけだ」
 そう言うと若宮は走る速度を上げた。
「もっと速く走れ。俺より遅れたらセットメニューを増やすぞ」
「は、はーい!」
 滝川はぜえぜえと息を吐きながら、それでも速度を上げた。

 舞は今日の分の仕事を完璧と言っていいほどにこなし、家路についたところだった。現在の自分の体力では、これ以上やっても効率は上がらない。
 校舎はずれまでさしかかって、舞はふとフラフラと進み出てきた一人の人間に目をとめた。
 滝川だった。
 フラフラと、と言った通り、どうにもおぼつかない足取りで、顔を上げる元気もないのかずっとうつむいたままだ。今にも倒れるのではないかと思わせるような雰囲気があった。
 舞はその場に足を止めて、しばし滝川を見守った。もし倒れるようなら、整備員詰め所まで運んでやらなければならない。
 だが滝川は結局倒れることなく、フラフラとしたままこちらの方に歩いてきた。舞は滝川から視線を離すことなく、少し動いて道をあける。
 滝川がフラフラしながら舞のそばを通り抜けようとする――
 と、そのまま舞のほうへ倒れこんできた。
「うわっ!」
「……えっ、わっ!」
 どってんと音がして、二人はそのまま地面に一緒に倒れこんだ。倒れる途中で正気づいたらしく、滝川が慌てて起きあがる。
「ご、ごめん! 俺前見てなくって……って、あれ? 芝村……」
 一緒に倒れこんだ相手が舞だと気付いて、滝川はちょっと見嫌そうな、それでいて困ったような妙な表情をした。妙ではあるが、滝川がここで舞と出会ったことを歓迎していないのははっきりとわかる。
 舞は無言のまま立ち上がってポンポンと埃をはたきおとす。別になんの感慨も沸かない。自分が嫌がられるのは、別にこれが初めてというわけではない。
 滝川も黙って埃をはたく。しばし無言の時が流れて、埃をはたき終わった舞は無言のままその場を離れようと歩き出した。
「あ、あのさぁ!」
 ふいに滝川が声を上げた。この場には自分しかいないので、やはりこれは自分に話しかけていると考えるべきだろうと思い舞は滝川の方に振り向いた。
 滝川はうつむき加減の顔から見上げるようにしてこちらの方を見ていた。口をへの字に曲げて、ひどく嫌そうに、半ば睨みつけるようにこちらを見ている。
 嫌なのなら話しかけなければよかろうに、と思いつつ舞は先を促した。
「……なんだ」
 滝川はへの字になった口を開け、口の端をひん曲げたまま言った。
「わりぃんだけど、その……訓練、付き合ってほしいんだけど」
「……ふむ」
 舞は少し思考を巡らせた。今自分はさほど体力が残っているというわけではない。今訓練するとなると明日に疲れが残ってしまう可能性もある。それは端倪すべからざることではある。
 だが、しばらく考えてから、舞は首肯した。
「いいだろう」
「……へ? いいの?」
 意外そうに訪ねてくる滝川に、舞はうなずく。
「グランドはずれに行くぞ」
「う、うん……」
 少し戸惑ったような滝川に背を向けて舞は走り出した。滝川も慌ててついてくるが、やはりまだ足元がおぼつかない。
 舞は少しペースを落とし、滝川がついて来やすいようにしてやった。
 グランドはずれに着くと、舞は鉄棒に近寄って言った。
「運動力の訓練をする。まずは懸垂30回3セットだ。私からやるので、お前はカウントを頼む」
「うん……」
 滝川は言われるままに舞の横に立つ。舞はひょいと跳びあがって鉄棒をつかみ懸垂を始めた。

 舞の番が終ると次は滝川だ。滝川がぜえぜえ言いながらメニューをこなすと、舞がまた新しいメニューを言う。
 その度に滝川はうへえと言いたそうな顔になったり実際言ったりするが、舞の言葉に逆らうことはなく、一緒になってメニューをこなしていった。
 すべてのメニューを終えると、滝川はもう口もきけない様子でへたへたとその場にしゃがみこんだ。舞もさすがに疲れて座り込み、ふところからタオルを出して額の汗を拭いた。
 拭き終わると、そのタオルを滝川に投げてやる。
 滝川は反射的にタオルを受け取ったが、それが何かわからない、といった風にぼんやりとタオルと舞の顔を見比べている。
「汗を拭け。訓練後に体を冷やすと身体に悪影響が出る」
「へ? あ、う、うん」
 戸惑いながらも言われるままに汗を拭き、タオルを投げ返す。
「ありがと……」
「うむ」
 舞の返事に少し口の端をひん曲げたが、滝川は何も言わずに黙って座り込んでいた。
 舞も黙って座り、体を休める。
 しばしの沈黙が降りた。風が火照った体に気持ちいい。
 しばしの沈黙のあと、滝川がふと、口を開いた。
「……お前、聞かないんだな」
「なに?」
「おれがなんで訓練する気になったかって」
「……なんだそれは」
 やや呆れたように言う舞に、滝川は顔を少し赤くして身振り手振りを交え説明を始めた。
「いや、だってさ。今日おれが訓練に誘った奴らって、みーんな口揃えてお前が訓練しようなんて珍しい″なんて言うんだぜ。そりゃおれ訓練ってあんま好きじゃねえけどさ。でちょっとむかついてさ。それにお前なんかそういうこと言いそうじゃねえ? 嫌味っぽく、どういう風の吹き回しだー、とかさ……」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことを聞いてどうするというのだ」
 支離滅裂になりながら必死に説明する滝川に、舞は冷静な口調で言い捨てた。
「……んだよ、その言い方」
「当たり前の事を言ったまでだ」
「あーそりゃすいませんね。そりゃお前には俺が訓練するかしないかなんてまるっきり興味ないんでしょうよ」
 あからさまにムッとしてふんっと横を向く滝川に、肩をすくめて舞は言った。
「お前にはお前の理由があるということだろう」
「……なんだよ、それ?」
 舞の方を振り向く滝川にごく当然の事を言うように言う。
「訓練をするもしないも決めるのはその者自身だ。そして決めたからにはその者なりの理由がある。その理由を押し通すだけの覚悟があれば、他の者が口をはさむ必要はなかろう。お前にはお前の理由があって訓練しようと決めたのだろう。お前の理由はお前のものだ。それだけのことだ」
「………」
 今一つぴんと来ない顔つきで首をかしげる滝川に、舞は眉をひそめて言った。
「わかっておるのか? そなた自身のことだぞ」
「あー……いや……あんまりよくわかんねえ……」
「……まったく」
 舞は肩を一つすくめると、また黙り込んだ。滝川も口を閉じるが、今一つ納得のいかない表情だ。
 またしばしの沈黙があって、滝川がまた口を開いた。
「……別に、そんな大層な理由があったわけじゃねえよ、お前の言うみたいに」
 舞は黙っている。滝川も特に気にした風もなく、話を続けた。
「……たださ。なんか急に、ちょっと見えた″んだよな」
 滝川は頭の中で言うことを考えつつ話しているようでつっかえつっかえ喋った。舞は口を開かない。
「うーん……なんつーかさ、考えてみたらすっげー当たり前のことなんだけどさ。俺達ここで毎日学校行ってるけど、おんなじように学校行きながら戦闘やってる奴らって、すんげーたくさんいるんだろうなって思ったんだ。そのすんげーたくさんいる奴らがみんなして学校行って勉強したりメシ食ったり訓練したり戦ったりしてるんだろうなって。で、うわっそれってなんかすげえなー、って思ってさ……」
 舞はやはり黙っている。滝川は話し続けた。
「でさ。思ったんだけど、戦争してるわけだから、やっぱ死ぬ奴とかいるんだよな。学校行ってメシ食って訓練してた奴が、そんでその前はちっちゃい頃からとーちゃんとかかーちゃんとかと一緒に暮らしてやっぱメシ食ったり遊んだり他にもいろんなことしてた奴が死んで……えーと、なんつーか……いなくなるんだろうなって……」
 滝川は頭をぼりぼりと掻いた。考えを必死にまとめようとしているのか、顔をギュッとしかめている。
「うーん、そんで……なんか、よくわかんねーんだけど……なんか、すっげー怖くなったんだよ。生きてたやつが死んじゃったりするんだよなって、でもしかしたら俺とか小隊内の仲間とかも死んじゃったりするのかもしんないって、あーでも知らないどっかの誰かだったら死んでいいってワケじゃなくて、えーとえーと……うーん……俺、何が言いたいんだろ……」
 しばらくうんうん唸っていた滝川が、まだ顔をしかめながらも顔を上げた。
「そんな感じでさ。なんか、よくわかんねーけど、訓練とか……いろいろ、いろいろやっとかなくちゃって思ってさ。訓練とか俺すげー嫌いだけど。そんだけだよ。別にお前が言うみたいなすげー理由があったわけじゃねえよ」
 舞はまた肩をすくめ、言った。
「理由にすごいもすごくないもなかろう」
「は?」
「理由は行動の源となるものだ。それだけで必要にして十分であろう。お前は自らの為さねばならぬと感じたことを為している。言っておくが、お前のやっていることは正しいぞ」
「はあ……?」
「ついでに言っておくが。為さねばならぬことを為しているのはお前だけではないぞ。少なくとも私はやっている。自分が一人だとは思わんことだ」
「はあ……」
 やはりぴんと来ない表情で首をかしげている滝川にかまわず、舞は一方的に言いつのるとすっくと立ちあがった。
「それだけだ。私は帰るが、お前はどうするのだ?」
「あ、俺もうちょっと訓練してく……」
「そうか。ではな」
 舞は滝川がかなり疲労困憊しているのに気付いていたが、何も言わず滝川に背を向けた。
「……芝村!」
 グランドはずれから立ち去りかけていた舞は、後ろからかかった声に振り向いた。
「なんだ」
 滝川は座ったまま、かすかに頬を赤らめ、頭をぽりぽり掻きながら舞を見上げるようにして言った。
「なんか、よくわかんねえけど。なんつーか……その……サンキュ」
「……うむ」
 舞も何に礼を言われたのかよくわからないままにうなずいた。と、あることに気付き、ふ、と微笑む。
「なっ……なんだよ。何笑ってんだよ」
 滝川がさっきよりもさらに顔を赤らめて早口で言うのに、舞は軽く微笑んだまま答えた。
「お前にはよくわからないことが沢山あるのだな」
「……は?」
「よくわかんねー″というのを四回も言っていたぞ」
「なっ……」
 滝川がかーっと顔を真っ赤にしたかと思うと、大声で怒鳴り出した。
「うるせえ! 余計なお世話だ、バッキャロー! やっぱおめえなんかすっげーやなやつだ! バカ! さっさと行っちまえ!」
「妙なやつだな。私は単に事実を述べただけだというのに」
 舞は肩をすくめると、その場を立ち去った。
 自分ではまったく意識していないが、その口にはまだ少し微笑みが残っている。
「……本当に、よくわからん″奴だ」
 歩きながら小さな声でそう言って、舞は家路を急いだ。

 まだそれはただの一人の少年の想いでしかない。
 決意とも呼べない、子供の感傷、わがままでしかない。
 どこにでもあり、当たり前のように消えていく、無力な子供の叫びでしかない。
 だが、その想いは世界を変える。
 彼の感傷が、子供の思い込みが、彼自身を、彼の周囲を、世界を動かし、そして変えていく。
 まだただの一人の少年の想いでしかないが、その想いが全ての始まりとなる――
 かどうかは、まだ、分からないことである。


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