善行は一週間前まで毎日通っていた尚絅高校の校門をくぐりながら、苦笑していた。戦争に勝つためと熊本に兵を出すよう中央のお偉方を必死に説得しているうちに、熊本の幻獣勢力はみるみるうちに減少、今や消滅も時間の問題となっている。 あの学校の仲間たちのためと必死になっていたのが阿呆らしくなってくる。お偉方もこの状況で援軍を出す必要があるのかね、などと皮肉ってくる始末だ。 それもこれも、滝川が――絢爛舞踏という計算外の戦力が存在したからだ。 滝川の戦闘力は送られてくるデータを見るだけでもわかる。凄まじいの一言。同じ戦場の味方を一兵も損なうことなく、敵幻獣を全て撃滅する。彼さえいればこの戦争に勝てると言われるほど、どこの兵士たちにも圧倒的に彼は英雄視されていた。 思っていた通り、彼はまさしく、絢爛舞踏だった。 そして――これもある程度予想していたことではあるが、彼は上層部から徹底的に警戒されるようになった。 その圧倒的すぎる戦闘力だけでさえ上層部に警戒されるには充分だというのに、彼は、どうやら上層部に対して敵意を抱いているようだ、という報告まで上層部に届いたのである。 なんでも演説しろという命令を無視して啖呵をきり、そこにいた兵士を全員叩きのめして勲章を投げ捨て帰ってしまったらしい。 その戦闘力を利用しない手はない、だがこちらにその牙を剥こうものなら大事だ。むろん監視はつけているが、それだけでは不安でしょうがない。 しかも滝川は芝村に連なるものだという情報もある。監視役が消されない保証はどこにもない。 自分がここに戻ってきたのは、そんな理由だ。 滝川の監視、できることなら篭絡。場合によっては粛清。それができそうな手駒は滝川と学生生活を過ごした自分しかいなかったというわけだ。 善行は、熊本を含めた九州に関東軍から兵を回すことと、その指揮権を条件にそれを引き受けた。 むろん、素直に滝川をどうこうしようなどと考えているわけではない。滝川の意思を確認する必要はあるだろうが、善行は滝川の人格に多大な変革がない限り彼は自分やその周りの人間が被害をこうむらなければ他者を攻撃することはないだろうと理解していた。 とにかく、今は滝川に会わねばならない。 わずか一週間で戻ってきた自分を、滝川は、みんなはどんな顔をして迎えてくれるのだろうか。奇妙な高揚感と不安じみた感情を味わいながら、善行は校舎裏を通ってプレハブへ向かう。 ちらりと時計を見て、HRには間に合わないかな、と思った時―― ごうっ、と風を切るような音が聞こえた。 あれは――士翼号の移動音だ。 まさか、出撃か? 慌てて善行は走り出し、校舎はずれに出て――絶句した。 グランドに今まで見たことのない幻獣らしきものが浮いている。大きさはさほどではないが、その青黒い左右非対称な醜い身体は、なにかひどく禍々しいものを感じさせた。 それに、なにより、あの後頭部であろう場所にあるものは―― 「……狩谷、くん?」 プレハブ校舎屋上に駆け上ると、そこにはすでに5121小隊の全員が首を揃えていた。 ――滝川を除いて。 「善行!?」 階段を駆け上る音に何事かと振り向いた原が、驚きの声を上げる。 「どうも。お久しぶりです」 「とぼけたこと言ってるんじゃないわよこのひょうたんなすび! いつこっちに帰ってきたのよ!?」 「今日です。それより、あれは――」 善行がグランドに目をやると、原は苛立たしげに髪をかきあげる。 「とんだ時に帰ってきたものね。もう周囲十kmには避難勧告が出てるわよ」 「……あれは、なんなんですか?」 「さあ? ……一組の子たちが言うには、狩谷くんらしいけどね」 「……なんですって?」 近くにいた石津がひどく真剣な顔をしてくるりとこっちを振り向き、石津にしてはずいぶん大きな声で言った。 「……あれ……狩谷……くん、よ……」 「……どういうことです」 「……黒い……月……魅入られ……て……幻……獣……になった……の。彼の……絶望が……舞踏と……出会っ……て……形になっ……たのよ……」 「……どういう意味だか……」 「……今朝、滝川が芝村に話しかけていたところに割り込んで、なにやらわけのわからないことをわめいたかと思うと、急にあの姿に変わっていったのです。変わりながら窓からグランドに飛び出して、それからずっとああしてあそこに……」 若宮の半ば呆然とした口調に、善行はその言葉が真実であることを悟った。若宮のこんな声は、今まで一度たりとも聞いたことがない。 「しかし……狩谷くんは……あれはなぜ動かないのですか。一体なんのためにあれは……あんな姿に……」 「そんなもの知るわけ……」 「……待っているのだ」 来須がいきなりそう口を開いた。周囲の視線が一斉に来須に集まる。 「自分の戦う相手を。自分と相対する唯一の存在を待っている。あいつと戦える、唯一の存在を」 「それは、つまり……」 ずごうっ、と風を切る音がして、一瞬プレハブ校舎に影が落ちた。 その影は舞うような動きで軽々と移動し、グランドの向こう側にすっと降り立つ。 思わずといったように茜が呟いた。 「滝川……」 両者は相対したまましばらく――というよりかなりの時間動かなかった。田代が生唾を飲み込みながら震える声で言う。 「なにやってんだ……あいつら? 滝川も士翼号まで持ち出してきて、なんにもしねえのかよ?」 「待っテいるのダと、思いまス」 小杉が彼女がこんな声を出せるのか、と驚くほど固い声で言った。 「周囲カラ人がいなくナルのを、待っテいるのダと……」 「馬鹿な……滝川はともかく、幻獣がそんな配慮をするはずない」 「……あいつはその戦闘能力を全開にした滝川としか戦えない。そうしたいとかそれを求めるとかいうのではなく、そうできているのだ」 「なにを……」 なにもかもわかっているかのような来須の言葉に茜が反論しようとしたとたん、中村が叫んだ。 「滝川が動いた!」 その通り、士翼号はすうっと動いていた。いつもと同じ滑るような動きで幻獣――狩谷に迫り、右手の大太刀を叩きつける。 狩谷はそれをかわそうともしなかった。大太刀は目にも止まらぬ速さで狩谷に突き刺さり、切り裂く。 だが狩谷は消滅しなかった。ただのろのろと、頭とおぼしき部分を士翼号に向けた。 ―――そしてその瞬間、視界がホワイトアウトした。 「………っ!」 「なに? なにが起きたの!?」 回復した視界に移ったのは、狩谷と――消滅した町並みだった。 壊れたとかいうのではない。ただ、狩谷の頭――人間の狩谷の頭ではない方のものが向いている先にある町並みが、数kmにわたってきれいに消えていた。 全員、思わず絶句した。 「なに……? なにが、起きたすか?」 震える声で呟く森に、岩田が平板な口調で言う。 「あれは通常の武装ではありませんね。N.E.Pと同種のもの――時間軸を操作して存在そのものを根源から否定する兵器です。N.E.Pは幻獣のみにその効果を限定していますが、あれはありとあらゆる物体に効くらしい。――あの兵器の前ではどんな堅固な装甲だろうと意味がないですね」 「じゃ、じゃあ、滝川くんは……!」 卒倒しそうなほど顔を青くして言う田辺に全員一瞬静まりかえったが、遠坂がはっと左方向を指差して叫んだ。 「士翼号が、あんなところに……!」 士翼号はこちらから見て大きく左方向――右側に大きく移動していた。消えてしまったわけではないと知り、一同ほっと息をついたが、すぐに壬生屋が叫ぶ。 「士翼号の、左腕が!」 「……左腕をもっていかれたか」 「完全にはかわせなかったようですね」 士翼号の左腕は見事に大太刀ごと消滅していた。断面は綺麗な平面になっており、それが数m右にずれていたらコクピットも消滅していただろう。 思わず息を呑む隊員たち。だが士翼号は怯みも見せず、再び狩谷に向かって跳ぶ。 士翼号の方向を向いた狩谷の後ろに降り立ち、斬りつけた。狩谷が士翼号の方向を向くのに機を合わせるようにしてすうっと死角に入り、また斬りつける。 「……なるほど! あの攻撃を出させないよう、あれが自分の方向を向いている瞬間が一瞬たりともないようにしてるのか! なんて……なんて技術だ……」 「技術とかそういうレベルの話では……!」 ふいに、狩谷が全く予備動作なしにいくつもの光弾を放った。青い十数個の光弾は、とてつもない速さで士翼号に突き刺さり、装甲を突き破り、ダメージを与える。 士翼号は大きく後ろに跳び退って間合いを取ったが、すると今度は細く赤い光の帯がカッと腕らしき場所から放たれ、士翼号の足を貫いた。 「なんだ、あれは!? 普通のレーザーじゃない、身をかわした滝川を追っていったぞ!?」 「……ホーミング機能を備えたレーザー? そんな馬鹿なものが」 「レーザーなんだったら煙幕を張るなりなんなりして防げねえか!?」 「……無駄です。あれは普通のレーザーではない。士魂号の腕にある精霊手と同じ、精霊を操り武器とするもの。煙幕など役には立ちません……さすが最強の幻獣。破壊能力だけでなく、遠距離も近距離も自由自在というわけですか」 「お前……なにわけのわからないこと」 「なんて破壊力なの……流れ弾が当たっただけで地面が吹っ飛んだ……」 「……! 滝川がまた動くぞ!」 士翼号はすう、と狩谷に近寄った。その動きは足を攻撃されてさっきまでのものより確実に鈍いものであったが、それでも大太刀を突き刺そうとする。狩谷は即座に青い光弾を放った。 だが、士翼号はすすすと機体を動かしてそれを避けた。狩谷は次々と光弾を放つが、その全てを紙一重でかわし、移動し続ける。 そしていつの間にか士翼号は狩谷を大太刀の間合いに入れていた。 ずばっ、と一撃して、即座に移動する。狩谷は次々と光弾を放つが、その全てが地面に、あるいは空中に散華した。 「馬鹿な……機体を追尾してきてるというのになぜかわすことができる?」 「……間合いだ。狩谷は当たるを幸い光弾を撃ちっぱなしにしているが、滝川はその光弾の攻撃範囲内からぎりぎり身をかわしている。いかに追尾性能があるといっても限界はある、その限界を見極めて機体を動かしているのだ」 「………まさか………さっきの攻撃だけでもうあの光弾の間合いを見切っちまったっていうのか!?」 「………化け物だ。二人とも………」 士翼号は絶えず移動しながら、狩谷の攻撃の間をぬって大太刀を狩谷に突き刺している。少しずつではあるが、確実にダメージを与えていた。 「………やめて」 ぼそり、と誰かが呟いた。 「やめて、やめて、やめて!」 叫びだしたのは――加藤だった。 「やめて! なっちゃんを――なっちゃんを殺さんといて! なっちゃんは、なっちゃんは、悪い子やない! なっちゃんを殺さんといて!」 ほとんど錯乱したかのように絶叫する加藤。 それを隊員たちは恐れるように見やっていたが、やがて田代がおずおずと言う。 「……加藤。あいつは――狩谷は、幻獣だったんだぜ。俺だってなにがどうなってそうなったのかわかんねーし、納得いかねえところはあるけどさ……あのまま放っといたら、俺たちだって……」 「それでも!」 加藤はパニックに陥ったかのように首を振る。 「あれは、なっちゃんや! ウチの、なっちゃんや! 死ぬなんてイヤや、死んだりしたらウチも生きてられへん! お願いやから――」 加藤は絶叫した。 「殺さんといてぇっ!」 ―――その瞬間、士翼号の動きが止まった。 隊員たちが呆気に取られる暇もなく、その機体に何十発もの光弾が突き刺さる。 装甲が吹き飛び、右腕も折れ、足の先がどこかへ消え――士翼号は、その場に、ゆっくりと、くずおれた。 『滝川ぁっ!』 何人もの隊員たちの声が唱和した。だがコクピットの大きくへこんだ士翼号からは――誰も脱出してくる気配もなく、ぴくりとすら動く気配もない。 自失したようにへたりこむ加藤の胸倉を、田代が掴んだ。 「加藤……満足か? お前の言う通り、滝川は狩谷を殺さずに、代わりに自分が殺されたぜ」 「ちゃう……ちゃう……ウチはそんな……」 呆然と首を振る加藤を、田代はぐっと掴みあげる。 「お前の言ってたことはそういうことだろうが! 殺さなけりゃこっちが殺されるんだぜ! 幻獣なんだぜ、狩谷は! 俺たちの敵だ!」 「ちゃう……ちゃう……なっちゃんはそんなことせえへん……」 ひたすら首を振る加藤に、田代はカッとなって叫んだ。 「お前その目で見てんだろうが! 狩谷は滝川を殺したんだぜ!? 仲間を――人間を、滝川を殺したんだ……!」 「違うよ」 凛とした、おそろしく硬度の高い、澄んだ声。 ――それは速水の声だった。 「滝川は、あんな奴に殺されたりはしない」 全員に注目されながら、速水はひたすら今まで見たことがないほど透徹した眼差しを士翼号に――滝川に向けた。 「だって……現に……」 「滝川は生きてるよ。まだ生命を感じる。確かに、だいぶ死にそうではあるけどね」 その言葉に目をむく周囲にかまわず、速水は続ける。 「滝川はあんな奴に殺されたりしない。あいつは――滝川は、最初は弱い奴だった。幻獣が怖くて、周りの人間が怖くて、努力しても報われないのが怖くてずっと逃げてきた奴だった。――でも、あいつは変わったんだ。自分の意思で。誰よりも弱かったあいつが、血を吐くほどに苦しみながら、誰よりも強い人間に変わったんだ。――弱かった頃の希望を、ずっと持ち続けたままで」 速水はいったん目を閉じてから、カッと見開いて叫んだ。 「そんなあいつが、ちっぽけな絶望しか持ってない奴なんかに、なにがあろうと負けるわけがない! あの程度の奴を死に逃げさせたりもしない! あんな奴の絶望なんか吹き飛ばして――勝って、救って、めでたしめでたしで終わらせて戻ってくるさ!」 今までにないほど、真剣で、本気で、気迫のこもった言葉――。 速水のその言葉に静まり返った周囲の中――ののみが一歩前に出た。 そして、空を見た。 手をさし伸ばす。 「むかしといまでないどこかがわかったのよ。それはみらいなの」 「もういちどたつのよ。たちなさい。なっちゃんをたすけるの。ばんぶつのせーれーがどうか、しらない。うんめーがどうだかわかんない。ぶとうがどうとか、きいてないっ。でも、よーちゃんは、たちあがるのよ。のぞみがそう決めたから。それが、せかいのせんたくなのよ。のぞみがきめたの。せかいは良くなるのよ。ぜったいに」 ののみはすうっと息を吸い込み、叫んだ。 「たちなさい!」 ぎし、とわずかに士翼号が動いた。 「たちなさい!」 折れた右腕で刀を掴む。 「たちなさい!」 ぼろぼろの機体で、一本足で、刀を杖にしてよろよろと―― 「……がんばれ」 新井木が、小さな声で言った。 「がんばれ」 前を見据えて、声を出す。 「がんばれ!」 声を嗄らして、絶叫した。 他の隊員たちも、叫び始めた。力を尽くして戦おうとする滝川に向けて。 「気合入れろ滝川! お前の強さはそんなもんじゃないだろ!」 「滝川くん、うち、そっだら程度の攻撃でわやになるよな整備してねっす!」 「……お前は、まだ、終わっていない!」 「滝川、根性出しなっせ!」 「がんばれ」 「…がんば…れ!」 「がんばれ! 負けるな!」 「がんばれぇっ!」 それぞれ必死に叫ぶ―― 瀬戸口は、それを後ろから見ながら一人呟いていた。 「滝川。お前の愛、みんなに届いてたぜ」 呆れるぐらい自分のことでいっぱいいっぱいのくせに、弱いくせに、みんな幸せになってほしいっていう子供っぽい我侭を心の底に持ってることを。 言葉にできなくても、うまく伝えられなくても、みんなの心にちょっとずつ届いてた。 畏れられても、敬遠されても。 変わらないお前がいること、みんなわかった。 「……世界を動かすのは、ガキって言われてる奴の思い込みか」 すうっと息を吸い込んで、叫ぶ。 「がんばれ! 滝川!」 よろよろと動き出した滝川に、狩谷は時間軸操作攻撃を放つが、滝川は転がってそれをかわした。 次いで青い光弾を放つも、滝川は一本だけの足で動いて避ける。 赤い光の帯はコクピットギリギリの当たっても動きに支障のないところで受ける。 ぼろぼろになりながら、死にそうになりながら、滝川は刀を振り上げた。 「…戦えているじゃないか…。最強の幻獣と…」 ずっと黙り込んでいた舞が、そう口を開いた。 揺れる目で、潤む瞳を抑えながら、滝川を見据える。 「…お前は、本当に、自分自身の力と意思で、今のお前に変わったのだな。血を吐きながら、涙を流しながら、舞踏となって戦うものとなったのだな」 舞は滝川を睨み、滝川に向けて、腹の底からの大声で叫んだ。 「いけぇ! 陽平!! ヒーローだろうがそうでなかろうが、そなたは私のカダヤだ! 大事な話があると言ったからには、死んでも、生きて私のところに戻ってこい!」 朗々とした、どこまでも響き渡る声で、顔をきっと上げて命ずる。 「そなたが積み上げてきた力と技の数々は! この一戦のためにあったのだ! 自分と、狩谷と、全てのために! 必ず最後は勝ってこい!」 |