comic market 1xx
「………うーん………」
 閃は軽く額を掻いてから、手の中に握りしめた一振りの刀を見つめた。現在入院中の閃ではあるが、個室でほぼVIP待遇を受けている関係上、病院の人間が閃の持ち物に文句をつけてくることはない。なのでこの刀も病室に運び込み、この一週間で何度となく向き合っているのだが、どうにも納得のいくまで向き合うことができなかった。
 一週間前、四物家の分家屋敷で戦い、斬り殺した妖怪、剣鬼が閃に与えた一振りの刀。煌によれば、妖気は感じない、つまりおそらくは妖具ではない。芸術的に優れているということもない。実用重視の拵えと、なにより耐久性を重んじているのだろう刀身。高い技術を適切に行使して作り上げられたとおぼしき、実用品としての真っ当な刀だ。
 だが、閃はこの刀に、それだけではないなにかを感じていた。これまでの一生刀を振り続け、何体もの妖怪と斬った張ったをしてきた人間の直感、としか言いようがないものなのだが、なんとなくこの刀は、現在まだなにかを隠している、という気がしていたのだ。
 刀が隠す、というか隠れるように作られている、という言い方が適切なのだろうが。いうなれば封印がかけられているようなものだ。あの剣鬼が施したものかどうかはわからないけれども。妖術は基本的には、かけた妖怪が死ねば即座に解けるものだ。だが妖具作成者であったあの剣鬼は、通常の妖力妖術の範疇外の技術を有していたという可能性も、決して否定できるものではない。
 どうしたものだろうな、と閃は一人考え込む。剣鬼の言うままに使ってしまうという選択肢は取らないにしても、なんとか不審な部分の始末をつけないことには、手放すこともできない。なにせ相手は所持者の殺意を増幅させ人殺しをさせるような刀を打つことができる刀鍛冶だ、何の気なしに手放した結果、大量の犠牲者が出てしまうという可能性もそれなりにありえる。
 つまり、誰かに預けることも、売りつけることもかなわず。すでに愛用の刀を持っているのに、もう一本、それなりの長大さを有するこの刀を持ち歩かなくてはならないわけだ。
 刀の替え時ではあるんだけどな、と閃は小さくため息を吐く。閃のように日本刀で斬った張ったをする者にとって、刀というのは基本的に消耗品だ。もちろんきちんと手入れをして長く使えるよう気を配るべき物ではあるけれども、現在の刀剣加工技術では、どんな強い衝撃を受けてもすり減りもしない刀、というのは製造不可能なのだから。妖怪の熾烈な攻撃を受け流す、自分のなくてはならない護りの手でもある刀は、もちろん衝撃をできるだけ受けないよう大事に使ってはいるけれども、いつかは買い替えなければならない代物だ。
 前回の剣鬼との斬り合いで、今使っている愛刀にも相当の負担をかけてしまった。できることならそろそろ交代させてやりたい。馴染みの刀鍛冶に渡せば、ただ捨てるのでなく、素材のリサイクルもしてくれる。もちろんそれなりの費用はかかるので、金が余っているわけではない閃としては、新しく刀を購入する費用を節約できるならそれにこしたことはない、のであるが。
 自分の命を預ける武器に必要なのは、一にも二にも信頼性だ。この素性の知れない刀に、そんな気持ちを抱くことはできない。
 まぁ仕方ないか、と嘆息しつつ、閃は剣鬼から渡された刀を背中に背負って、たすきで固定した。自分の荷物(着替えなど、当然ながら必要最低限のものだ)が入ったバッグを左手に持ち、腰にはいつものように愛刀を差して、病室の外へ抜け出るべく一歩を踏み出す。
 とたん、病室の扉が勢いよく開いて、見慣れた顔が病室へと飛び込んできた。いつもながらににこにこと元気な笑顔を浮かべた園亞は、閃がいつでも出れるというか、完全に外出する態勢を整えていることに驚いたのか、わずかに目を瞬かせる。
「わ、閃くん、すっごく早いね? 退院って、昼までにしてくれればいい、って先生言ってなかった?」
「……おはよう、園亞。園亞の方こそめちゃくちゃ早いな。まだ八時だぞ。よく病院内に入れたな」
「え、だって先生に昨日、早めに来て閃くんが退院する準備手伝ってもいいですか、って聞いたらいいよって言われたし」
「……………そうか…………」
 閃は深々と息をつく。どうやら今回もまた、園亞と会うことなく気づかれることなくこっそりと別れを告げる、という作戦は失敗に終わったらしい。
 部屋の外へ出た。園亞は閃と並ぶ格好になって、にこにこ笑いながらあれこれと話しかけてくる。退院の手続き自体は四物家の家令がすでに済ませてくれているのだそうで、園亞を無理やり振り切らない限り、閃に残る選択肢は、『園亞と一緒に四物家に向かう』以外に残されていなかった。

 四物家の長屋門の脇の潜戸を抜けるや、待ち構えていた家宰や使用人の方々に頭を下げられてしまった。頭を下げる角度も早さも揃えられていて、それこそパレードかなにかのように美しいのが、閃にはひどい冗談を言われているかのように感じられてしまう。
「お帰りなさいませ、お嬢さま、草薙さま。草薙さま、退院おめでとうございます。お戻りをお待ち申し上げておりました」
『お帰りなさいませ、お嬢さま、草薙さま。草薙さま、退院おめでとうございます』
 使用人の人たちは声まで揃えて、自分の退院を寿いでくれる。当然ながら閃としては、居心地の悪さを感じるばかりで、申し訳ない気持ちしか浮かばない。
「いや、たかだか一ボディガードに、そんな風に頭下げなくていいですから……立場としては皆さんと同じでしょう?」
「ですが、旦那さまより、草薙さまに対するお嬢さまのボディガードの依頼は取り下げられたとうかがっておりますが」
「っ………!」
 そうだ。当たり前だ。もはや犯罪組織にして悪の妖怪ネットワークである〝白蛇〟はほぼ活動を停止した。園亞はもちろん四物家のご令嬢である以上、これからも朝な夕なに無法者に狙われ続けることだろうが、それについては四物家に以前から雇われていたボディガードたちで十分対応できるはず。つまり、自分がここにいる理由は本当に――
「草薙さまは、このたび正式に、お嬢さまの許婚になられた、ということでしたので、こちらとしても相応の振る舞いをいたさぬわけにはまいりません」
「………はっ?」
 口があんぐりと開くのがわかった。待て、なんだそれは。確かに自分は四物家の分家屋敷に向かった際、分家屋敷の掟に邪魔されず園亞を護るために、一時的に園亞の許婚という身分に収まったのは確かだが――
 いや、待て。孝治の言葉を思い出してみると、孝治はあれやこれやと自分を納得させるため、譲歩させるために言葉を費やしてはいたけれども、『ことが終わったあとには許婚の関係を解消する』とは、確か一言も言っていない。むしろ、今回の一件をきっかけに、正式に許婚になってほしいとまで言っていたはずだ。
 つまり、少なくとも内々では、閃と園亞が許婚であることが、公然の事実として扱われるわけで――
 おそるおそる、ちらりと園亞の顔を見ている。園亞は、(やはりというかなんというか)そんなことまるで考えもしていなかったようで、屋敷に帰ってきた時の笑顔のまま、顔をぼっと赤くして硬直している。どうしろというんだこれを、と叫びたいような気持になりながら、ぶっきらぼうに家宰である定岡に問いかけた。
「……俺は、どこに寝泊まりすればいいんです? 仮にも許婚という……その、結婚を前提にした関係である男が、園亞の部屋の近くにいちゃ、道義的にもまずいでしょう?」
「いえ、旦那さまからは、以前より草薙さまが使われていた部屋をそのまま使っていてほしい、とうかがっております。草薙さまに対するボディガードの依頼は取り下げておりますが、それでも草薙さまはお嬢さまを危機から護らずにはいられぬだろう、と」
「…………」
 それは、確かに間違いはない。きっちり行動を読み切られていることに、内心ほぞを噛む。
「ですので、部屋も、お食事も、入浴やその他プライベートに深く関わることについても、これまでと同様でかまわない、と旦那さまからは仰せつかっております。むろん、お嬢さまが拒否されれば別ですが……」
「……どうする、園亞? これまで通りなんて嫌だってことでも、俺はかまわないけど?」
 むしろ言ってくれ、という想いで発した問いに、園亞はまだ硬直から解放にされていないながらも、赤く染まった顔をふるふると動かし、首を横に振った。
「えと、ううん、いいよ、別に? 閃くんがやじゃないんだったら、私もこれまで通りなのが一番うれしいし……」
「………そうか」
 まぁ、予想していた返答ではあった。だからといって、その色づいた頬や恥じらう瞳に、気分が重くならないわけでは全くないわけだが。

 自室――以前と変わらず、園亞の隣の護衛用の部屋で、閃は深々とため息をついてベッドに座り込んだ。久々に、病室以外――常に監視されているわけではない場所で息がつけるのだから、剣術の稽古でもするのが当たり前なのだろうが、疲労感がずっしり身体にのしかかって、そういう気分にもなれない。それに実のところは、病院でも室内用の稽古くらいはこっそりできていたのだし(VIP待遇だからか、医師も看護師もできる限りこちらの要求を受け容れようとしてくれたようで、稽古がしたいという閃の願いも『身体に負担がかからない範囲でなら』と経過を見つつ許諾してくれたのだ)。
 どうしたもんかな、と思わず頭を抱える。孝治が自分と園亞の許婚関係を少しでも長く続けるために、あれやこれやと外堀を埋めたり手管を駆使したりしているからといって、本来なら閃が気にする必要はないのだ。閃には寄る辺がないが、だからこそ失うものもない。なにをされても気にすることなく、自分を縛ろうとするものからは離れてしまえばいいだけのことなのだ。
 だが、今閃は自分自身を鑑みて、自らのうちに『園亞を泣かせたり、落ち込ませたりしたくない』という想いが在ることを否定できない。これまでさんざん懊悩して、それだけはなんとか受け容れることができた。むろんだからといって閃が自身の生き方を変えることはありえないが、自分の生き方がどうとかそういうのとは別のところで、自分のごくシンプルな感情、心境として、園亞が泣くのはいやなのだ。
 だがそれでも、閃の生き方から考えれば、他人を抱え込むというのはリスクが大きすぎる上に、周囲にも相手にも迷惑しかかけないことは明白だ。だから園亞と許婚になるなど言語道断だし、仕事を終えた以上さっさとこの家を立ち去った方がいい、という考えが間違いだとはまるで思わない。
 それなのに、自分の中には鮮烈なまでに、『園亞を泣かせたり、落ち込ませたりしたくない』という想いが息づいているのだ。閃はあれこれ無駄なことを考えるのは好きではないし、自分自身を脊髄反射で行動した方がマシな結果に終わることが多い世界に生きている人間だと考えている。だがこれまで、園亞と関わるようになってからもう本当にあれこれ嫌というほど思い悩んでしまったのは、自分の中にこの相反する二つの感情が、同じくらいの強烈さと切実さを持って存在するせいなのだろう、と今になってはっきり理解できてしまっていた。
 どうすればいい。どうするのが正しいんだ。どうすれば、なにもかもが一番いい結果に終わる。どうすれば、園亞を泣かせずに、この家を立ち去ることができるんだ? どうすれば――
 渦巻く想いを処理しきれず、頭を掻きまわしながら呻いていると、唐突に端末が呼び出し音を発した。反射的に手に取ると、画面には『時田渉』という名前が表示されている。ふぅっ、と思わずため息をつき、渋々ながら通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『おーっ、ひっさしぶりだなー閃。夏休み楽しんでるぅ?』
「お前俺が入院してる時に一度見舞いに来てるだろ……来なくていいって言ったのにもかかわらず……」
『あっはっは、いやだってさ、あの閃が入院とか、普通に考えてなんかとんでもねーことが起こったんだって思うじゃん? そんなんきっちり事の次第を見極めとかねぇわけにゃいかねぇだろ!』
「だから俺には守秘義務があるんだから、仕事の中で遭遇したトラブルを部外者に言うわけにはいかないって言ってるだろ……それなのにしつっこく食い下がってきて……それより、なんの用だ」
『やー、別に用ってほどのこっちゃねーけど……単なる遊びの誘い。遊びっつーか……バイト半分なんだけどさ』
「バイト半分……?」
『あのさー、閃。コミケとかって興味ねぇ?』
「……なんだそれ」
『うん、予想してた通りの反応ありがとな。まぁ要するに……自主制作した創作物の、即売会? ってやつかな?』
「創作物……?」
『閃、一応聞いとくけど漫画ってもんについては知ってるよな? いや怒んなって、念のために聞いてみただけなんだから。けどさ、そういうガチで有名なプロ中のプロって漫画描いてる人たちの陰にはさ、漫画が好きでもプロになれなかった人たちや、そもそもプロになれないってわかってるしなる気もないけど漫画を趣味で描くのは好き、って人たちが、プロの何百何千倍って数いるのはわかるよな? 閃ならさ』
「……それは、まぁ」
『そういう人たちが……まぁまれにプロだけど遊びで描きたい、って人たちがお忍びで参加することもあっけどさ、描いた漫画やら小説やら、他にも写真集やら画集やらを、本にして、儲けにならない程度の値段でほしい人たちに分ける、ってイベントなわけ。まぁ大手中の大手って人たちの中には、儲けだけで生活できる、してるってのもいるらしいけど、そういうのは本当ごく一部だしな」
「つまり……自分で創った作品の、フリーマーケット、ってことか?」
『ま、そんなもんかな? フリマっつーにはだいぶ大規模だけど』
「大規模? って、どのくらいなんだ」
『えーっと、一日の参加者が、去年でだいたい二十万くらい?』
「にじゅ……!?」
 思わず絶句する。それはもうほとんどひとつの都市の総人口とか、そういうレベルではないのか。東京都内にも、それ以下の人口しか有していない市というのがいくつもあったはずだ。それが一日でひとつのイベントに押し寄せてくる、などとは――
「……どれだけ大きな場所でやるイベントなんだ」
『大きな場所っつーか、あそこだよ、国際展示場。あそこで夏と冬に三、四日かけてやるわけ。二日って年もあるけど』
「いくら国際展示場だって、一日にそんな数が押し寄せてきて対応できるわけないだろ!?」
『だからまぁ、列に並ばせて入場制限して、なんとかかんとかやってるわけ。言っとくけど、マジででかいイベントだったら、こんくらいの数別に珍しくねぇからな? まぁ、基本個人の趣味のイベントでここまででかい代物ってーのは世界にもそうそうねーだろうけどさ』
「そうなのか!? いや、それは当たり前だろうけど……とんでもない話だな……」
『んだからさ。そーいうとんでもねーイベントに、売り子として参加しねーかって、俺はお前を誘ってるわけよ』
「………売り子?」
『俺の叔母さんがさー、そーいう……まぁ、趣味で漫画描いてる人でさ。今回売り子が捕まんねーから困ってるって聞いたんで、バイト代払ってくれんなら売り子やるよ、っつったわけ、俺。叔母さんのとこでなら、何度かその手のバイトやったことあるし。まーバイト代っつっても身内価格だから、一時間五百円換算で一日五千円とか、その程度なんだけど。そしたらさ、今回は合同スペースだからあと二人ぐらいまでなら大丈夫だから、誰かいないか、っつわれたんでさ。とりあえず、真っ先に閃に聞いてみようと思ったわけ』
「売り子、って……俺はそんな経験微塵もないぞ」
『そー難しく考えんなって、あくまで個人の趣味で参加して運営されてるイベントなんだから、売る方も買う方もプロの技なんて求めてねーんだからさ。中学生とか、小学生とかが、参加する親の手伝いして働く代わりにお小遣いもらう、っつーのもフツーにあるイベントなんだぜ? ……まぁ、閃は四物の護衛っつー仕事があんだから無理だろうとは思ったんだけどさ。一応真っ先に聞いとかないと後悔するなー、って思ったもんだから……なんで、無理だったら断ってくれて全然いいからな? そっちの都合がよかったら考えてくれ、ってぐらいの話で……』
「……わかった。行くよ」
『………へっ?』
「その、コミケ? に、参加する。いつ、どこに行けばいいんだ」
『へっ? え、あ………マジ、で?』
「別に冗談を言ってるわけじゃない。いつ、どこに行けば……」
『ちょっ、まっ………マジでぇ!!? いやいやいやおいおいおいちょっと待てよマジかよ、いや嬉しいっつかコミケに参加する閃とかレアすぎて絶対見てぇとは思うけども! 四物の護衛はどーしたんだっ!?』
「……護衛の仕事は、終わった」
『……へっ?』
「終わったんだ。俺が護衛を受けた理由に関するごたごたは、とりあえず前回かたがついた。だから、俺はもう園亞のそばにいる必要性がなくなったんだ」
『なっ……ちょっ……まっ……待て! おい待て! ちょっと待て! とりあえず閃! お前今どこにいる!?』
「……四物家の屋敷だけど」
『へっ……四物の家にいんの?』
「ああ……今はな」
『っ……とりあえず動くな! そこ動くなよ!? 今からそっち行くから、ぜってぇ屋敷から動くんじゃねぇぞっ!』
 言うや通話を切る渉に、思わず小さくため息を吐く。そう、渉がこういう反応をすることはある程度想像がついていた。それなのに、正直に現状を打ち明けてしまったのは――もちろん、閃はごまかすのが下手だから正直に打ち明けてしまった方がマシだというのもあるが、たぶんそれ以上に、誰かに相談したい、と思っていたせいなのだろう。
 相談する相手として渉が適当かどうかは自信がないのだが、少なくとも、自分の中の屈託を、笑い飛ばしたり蔑んだりすることはないのではないか、と思える相手ではある、と感じたので。

「………つまり。閃の仕事は、もう完璧に終わり、ってことなのか?」
「ああ。ここでの仕事はな」
「学校はどうすんだ。四物学園に、通い続けられるのか?」
「られる、じゃなくて通い続ける理由がない、だな。俺はもともと園亞とはまるで関わりのない場所で仕事をしてたわけだし。ここでの仕事が終われば、元の生活に戻る。それだけだ」
「………そっかぁー………」
 四物家屋敷の、閃に与えられた部屋で、膝をつき合わせる格好で話していた渉は、あからさまにぐったりとして、絨毯の上に突っ伏した。
「……どうした」
「どうしたっつーかさー……いや、そりゃこういう日がいつか来るだろうってのはわかってたんだけどさー……寂しいなーとか、悲しいなーとか、またつまんねー生活に逆戻りかーとか、そーいうもろもろがどわってきて、めっちゃ気分落ちてるってだけ……」
「………そうか」
 そうはっきりと言われると、こちらもなんとも返しようがない。渉が自分を気に入っていることはいかな閃でもわかっているが、それをこんな風にストレートに表現されると、どうにも、こう。
 絨毯に突っ伏したまま、黙り込む閃を見上げる格好で、渉は苦笑する。
「閃が照れてるとこ見たら、普段ならぜってーめっちゃ冷やかしてたし、テンション爆上がりだっただろうけど。今はその元気もねーや。ごめんな」
「それは謝るところじゃないだろ……」
「はは、そーだな。……いつこっから出てくんだ?」
「……できるだけ早く……と、思ってるけど」
「そっかぁー………」
 再び顔をうつむけて、しばしぐりぐり絨毯に顔を押しつけたのち、渉はばっと体を起こしてぱんっと頬を叩いてみせた。
「よっし! 落ち込んでてもしかたねーよな! いつかはこういう日が来るってのはわかってたんだし! それならそれで、別れる前にありったけ思い出作っておかねーとな!」
「っ……」
「あ、つかよ、俺より問題は四物だよな。どーすんの、お前? このまま四物ともサヨナラしちゃうわけ?」
「………それは………」
「あー、なる。本当はサヨナラするべきだ、と理性では思ってっけど感情が別れがたいっつってる状況なわけな。りょーかいりょーかい、ならそこらへんのイベント周りは完全に四物に任すわ。っつか、お前と四物でなんとかする問題だしな、横から茶々入れるわけにもいかねーし」
「っ……そ、れは」
「じゃーけどせめてさ、今週末は俺につきあってくれよな? コミケの叔母さんが参加する日が今週の土曜だから、今日と明日と……あと日曜日も一緒に遊ぼうぜ! 土曜日も遊びてーくらいだけど、一緒にバイトするっつー経験も捨てがたいしな!」
「……言っておくけど、俺と遊んだって、別に面白くもなんともないと思うぞ。第一、今俺は悩みを抱えてるわけだし、お前の相手をしてやれる余裕が……」
「あーいーいー、別に相手してくれる期待とかしてねーから。単に俺が勝手に思い出作りてーだけだから。っつか、むしろそれって俺の甲斐性の問題じゃね? どんだけ閃を面白がらせられるかっつーさ」
「いや……俺は別にお前に面白がらせてほしいわけじゃ……」
「っし! じゃーとりあえず、渋谷まで出ようぜ! 夏休みだから人多いだろうけど、一緒に街うろつけるような機会もうねーだろーし! で、明日は遊園地! 男同士で悪ぃけど、パンピー中学生が遊ぶとこの基本くらいは押さえとかねーと!」
「……わかったよ。だけど本当に、お前を面白がらせられる自信ないぞ?」
「うぉ、素直ぉ! 俺意外と閃に好かれてんだな! もう会うこともねーんだからって思うと親切にしてくれちゃうとか、そこまでの好感度稼げてるとか自分で思ってなかったわ!」
「っ………」
「っし、じゃーさくっと渋谷行っちゃうか! こーいう風に閃と思い出作りできちゃうとか、初めて会った時どころか今でもだいぶ信じられてねーけどさ!」
 せかせかした動きで立ち上がり、部屋を出て行く渉を、苦笑を浮かべながら追う。あくまで明るく、狂騒的なまでにはしゃぐ渉が無理をしているのは明白だったが、それをいちいち言い立てるほど閃も無情ではない。閃がその辺りに気を使ってしまっていることは、間違いなく渉なら見抜けてしまっているのだろうが。
 まぁ、貸しも借りも必ず返すのが閃の流儀だ。これまでの学生生活の中でも、今回閃の悩みを笑いもせず口出しもせず素直に聞いてくれたことについても、自分は渉には借りがある、と閃は思っている。まず、もう会うことはないだろう相手なのだ。せいぜいつきあって、借りを返してやるしかないだろう。閃の感情については園亞に任せると言い切られてしまった以上、閃の悩みを解決する役には立ってもらえないのだろうけれども。
 ……そんなことを考えながら一緒に街へ繰り出して、頻発したトラブルの始末に奔走する羽目になったり、翌日の遊園地は遊園地であちらこちらへ連れ回されたりまたもトラブルに遭遇したりして疲労困憊した結果、『今後渉に気を使って遊びの誘いを受けたりは絶対にしない』とこっそり誓う羽目にも陥ったりしたのだが。

「っはよー閃! 今日は一緒にバイト頑張ろーなっ!」
「お前……よくまぁ平然とそんなことが言えるな。昨日俺をどんな目に遭わせたか忘れたのか」
「や、昨日なにがあったかはよく覚えてっけどさ、あれ別に俺のせいじゃなくね? 遊園地行ったからには行ける限りのアトラクション制覇すんのは当然だし、閃が絡まれたり逆ナンされたりしたのだって閃のせい、っつっちゃうと気の毒だから、閃の背負ったカルマのせいじゃん?」
「それ別に言い換えてないだろ……! 俺が言ってるのは、女性に声をかけられた時に、俺のことをあれこれ相手に言いたい放題言った上で、自分一人だけ逃げ出したことを言ってるんだ! あのあとどれだけ俺が苦労したか……!」
「やー、だってさ、ヒーローがパンピーに逆ナンされるとことかおいしさしかねーじゃん? そんなんかぶりつきで見たいと思うじゃん? どうせ見るんだったら飲み物とつまむものとかあったらさらにサイコーじゃん? まぁ最終的には助け舟出したし、ちゃんと閃の分も飲み物やつまむもん買っといたんだから、勘弁してくんね?」
「ぐぬっ……今後は一切! あんなところにはついていかないからな!」
「はは……今後は、か。……っつかさ、閃すっげーしどろもどろだったけど、あーいう風におねーさんに逆ナンされる経験とか、そんなにねーの?」
「は? ……まぁ、普段は女性が大勢いるような場所には行かないからな。チンピラに絡まれることはちょくちょくあるけど……そういう場所が俺の基本的な仕事場だし……」
「や、チンピラが絡んでくることがちょくちょくあるって、その時点でだいぶおかしくね? いっくら治安の悪い場所だからってさ、チンピラの方もポン刀持ってる学生相手に、わざわざ絡みに行こうとか考えねーだろ?」
「そうか? 俺は基本的に、外出したら少なくとも一回、普通は数回はチンピラに絡まれるけど。ああいう連中は、日本刀を持っている程度で物怖じしないってことじゃないのか?」
「いやいやいやいやいやいや。だいぶおかしいからなその話。常識みてーな顔で言うとこじゃねーから。まーそれも閃の背負ったカルマのせいって考えると、そーいうこともあるのかなっつー気もしてくっけどさ。……ま、それはさておき、さっさと移動すっか。待ち合わせは国際展示場駅の改札前だから」
「わかった。……だけど、ずいぶん朝早くから集合するんだな。まだ七時だろう? 国際展示場駅まで行っても、まだ八時にはならないくらいだと思うんだが」
「ま、万が一にも遅刻になったりしねぇようにっつー雇い主からのお言いつけだかんな。万が一にも遅刻されたら半年の労力がパーになるわけだし、そりゃ失敗しねぇよーに必死にもなるだろさ。っつか、コミケの参加者としちゃ遅めの方なくらいだぜ?」
「は!? なんだそれ、始発で来る人が大半だとでもいうのか!?」
「大半とまでは言わねーけど、相当な割合いるのは確かだぜ。前日から近所のホテルに泊まって列の構築が始まったらすぐ並べるようにしてるっつー人や、あらかじめめっちゃ前から高い金出して駐車場の予約して車使って似たようなことしてる人とかいるし。っつか、コミケって徹夜、っつーか朝の決まった時刻から前は来場厳禁、って明記してあんのに、何度回を重ねても前日から並ぶ徹夜組っつーマナーのなってねぇ奴らが列の先頭占めてるからな」
「は!? なんでそうなるんだ!? 禁じていると明記していることをやってる奴らなら、強制退場させればいいのに!?」
「そりゃ理屈はそうなんだけどさ、それやるには人手も法的強制力も足りねーの。最低限のガードマンさんたちは雇ってるけど、大量の徹夜組を散らそうと思ったら、その程度じゃどうしたってイベントが壊されかねないようなトラブルに発展するし。それよりはマシだろうって判断して、渋々ながらいやいやながら、徹夜組ともなぁなぁの関係を続けるしかねーわけよ」
「……………」
「そもそも一応会社の体裁は作ってあるにしろ、基本的にはコミケのスタッフってボランティアだからな。文化祭とかと同じノリ。そんな人らに怪我させたら次回から人やってこなくなるし、できる限り全力で安全幅取るしかねーわけよ。世界でも随一って言っていいだろう巨大同人誌頒布イベントは、『ちょっとやってみたい』っつー気持ちで参加するアマチュアが大半っつー構成のスタッフさんたちで運営されてんだからな」
「本気でか……? こう言っちゃなんだが、それでよくここまで回を重ねられてきたな……もう百回越えてるんだろう、確か?」
「ははっ、ほーんと、これもある意味コミケ七不思議だよなー……お、電車来たぜ」
「………。………、!? な、なんだか、異様に、人が多くないか!? 次の電車を待った方が……」
「あー無駄無駄、これ全部コミケの客だから。コミケから客が引けるまでずっとこんな調子だから。向こうの駅から帰ろうとしたら、駅の中に入るまで数時間突っ立って並びっぱなしとかフツーにあるから」
「はぁぁ………!? い、いくらなんでも、むちゃくちゃすぎないか、イベントの規模が……!」
「まー、曲がりなりにも世界一の同人誌頒布イベントだかんな。世界中からオタクが集まってくる祭でもあるわけだし。売ってるもんはほぼ同人誌オンリーっつー地味な祭りだけど」
「これを地味というのはあまりに無茶がすぎる気がするが……」
「まー心配すんなよ、俺それなりの回数参加してっから、どの駅からどう電車に乗ればスムーズに座れるかってくらいはわかってっから。リードしてやるって」
「そ、そうか。それは、頼む……」
 そんなことを二人で喋っているうちに、電車は国際展示場駅にたどり着いた。電車の中にみっちりと詰まった人々が、いっせいにわっと吐き出されて、狩場に放たれた猟犬のごとき勢いで、早足でずかずかと駅の外へと進んでいく。その勢いと気迫がまずすさまじく、閃は思わず自分で腰を引かせてしまった。
 駅の外は外で、相当に広い駅構内も、駅前の広場も、すべてがみっちりと人で満ち、先に歩を進めるだけでも汗をかかなくてはならないほどだ。いよいよ天高くへ上り始めた夏の太陽が、厳しい陽射しをかんかんと投げかけてきているのも不快指数を向上させている。息をするのも苦しいほどの人いきれ、なんてものをプライベートで体験する羽目になるとは思わなかった。
「おっ、あそこあそこ、あの人あの人。おーい、由加里ちゃーん」
「あ、渉くん! 待ってたよぉ、渉くんに限って遅刻とかはないと信じてたけど!」
 そう笑顔で告げた女性は、渉の叔母とは思えないほど若々しい人だった。おそらく渉の両親どちらかの、相当年の離れた妹なのだろう。渉同様の丸眼鏡が、そのふっくらとした顔によく似合っている。
「で、えっと、こっちの子が友達? えっと、名前なんだっけ?」
「草薙閃、と申します。今日一日、どうかよろしくお願いいたします」
 そう言って深々と頭を下げると、渉の叔母は少しばかり戸惑った表情になって、渉と閃の顔を交互に見比べた。
「えっと……草薙くん? って、ずいぶん礼儀正しい子なんだね?」
「まーなー、閃ってぶっちゃけ、半ば以上二次元から飛び出したよーなキャラ属性してっから。基本いつでもどこでもポン刀持ち歩いてっし、しかも実際にそのポン刀使うし、財閥のお嬢さまの家に住み込みの護衛とかやっちゃう奴だし」
「お前な……」
「えっ……ちょっ、それ、マジで!? マジで二次元じゃない!? えっ、なにそれ、そんな生物この世に本気で存在するの!?」
「そーだろそーだろー、俺も初めて会った時はもーチョー興奮したわ。由加里ちゃんにも一度は会わせたいと思ってたんだよ」
「って……っていうかさ……く、草薙くんって、なんかすっごいカッコよくない!? なんかもう立ち姿が凛としてるっていうか、武士っぽいんだけど!? 顔もアイドル級に整ってるし……え、なにこれマジで、マジでこの子私の好きなようにしていいの!?」
「はっ?」
「由加里ちゃん、言葉省略しすぎ。由加里ちゃんの、好きなように選んだ服を渡していいの、だろ?」
「そ、それはわかってるけどっ、でもけどっ、私の作った服をこんな、武士系キャラの服ならどんなのでも似合っちゃいそうな子に着てもらえるとか、なんかもう作り手冥利に尽きすぎるんだけど……!?」
「……おい。待て、渉」
「へ? なんだよー閃、怖い顔しちゃってー」
「これはどういうことだ。お前、黙ってたな? このアルバイトをすると、奇妙な服を着せられるってこと」
「き、奇妙って……は、反論はできないけど……」
 由加里という名前らしい渉の叔母がなにやらぶつぶつ口の中で呟いているが、それを気にする余裕はない。渉をぎっと睨みつけ、鋭い口調で言い立てる。
「お前、俺を騙して、いいように弄ぶつもりだったのか? どうなんだ? はっきり答えろ」
「んなわけねーじゃん。だって、由加里ちゃんには、閃が嫌がるかもしんねーよ、嫌がっても俺説得とかしねーよ、ってはっきり言っといたし」
「えっ……」
「う、うん。渉くんにははっきりそう言われたけど……」
「当然ながら、バイトの雇い主だからって、この服を着てって頼みを断られた相手に無理やり着せる権利なんて持ってるわけねーし。だから、閃が嫌なら断りゃすむことだろって思ったから言わなかっただけだよ。俺、なにがなんでも閃とバイトして思い出作りたかったから、閃にちょっとでも気の進まなくなるような材料与えないように、って情報隠してたのは確かだけどな」
「ぐっ……」
 そう言われると、少しばかり非難しにくい。実際、着たくない服を着せられそうになったとしても、嫌だと断ればいいだけの話なのだ。それがアルバイトの仕事に必要だというのでもない限り文句なんてどこからも出ないだろうし、そうなると『少しでも閃が拒否感を抱くような情報を与えないように』という渉の言い分も、そこまで道に外れたこととはいえなくなってしまう。
「で、でもぉ……その、私としては、是が非でも、コスしてもらいたいなー、とか思っちゃうんだけど……! 顔と体型をざっと伝えられただけだったから、適当な衣装を何着か持ってきただけにしろ、その中でもうこれ着てほしいっ! ってくらいに似合っちゃう衣装とか、いくつもあるし……! 大正浪漫的少年軍人とかっ、素直クール系暗殺者男子とかっ、ほんっとに、いろいろ……!」
「いや由加里ちゃん、近い近い。言っとくけどこいつ俺と同じでガチのDCだから、セクハラで訴えられたら基本由加里ちゃんの負けだよ?」
「わ、わかってる、わかってるんだけどっ! あのね、その、私なりに、ホントに一生懸命作った衣装だから……似合う人に着てほしいし、着たところを見たいっ! って思っちゃうの……! ど、どうかな、駄目かな? こ、コスしてくれれば売り子としても客寄せになるだろうし、バイト代弾んじゃうんだけど……! お願いできないかなっ!?」
 渉に間に割って入られながらも、必死の形相で懇願してくる由加里に、閃はしばし眉を寄せたものの、結局すぐに観念して息を吐いた。自分は曲がりなりにも売り子として働くためにここに来たわけだから、客寄せになる、仕事の一環として頼みたい、というのなら、頑固に拒絶する方が理不尽というものだろう。
「わかりました。公序良俗に反しない範囲ならば、できる限りご要望に従います」
「うっひょぉぉっ! ほ、ホントに!? マジで!? 私のお願いした通りの服着てくれるの!? ちょ、ま、もう、これ……サービスが、神すぎる……!! もしかしてマジで二次元から降臨なされた存在ですか!?」
「由加里ちゃん由加里ちゃん、良識良識。社会人としての常識働かせような。DC相手に妙齢の女性がその勢いで迫るのアウトだから」
「あ、うっ、ご、ごめん、つい我を忘れて……いやでもあの、本当にありがとう……! 今回持ってきたのって、行き違いやなんかで着てもらう予定だった人に着てもらえなかった衣装が大半なの! それがこんなカッコいい子に、しかも現役のDCに着てもらえることになるなんて……本当、なんていうか、込めた想いが浮かばれるっていうか……! 本当にありがとうね!」
「いえ……俺でお役に立てるなら、なによりです」
 正直唐突に渉が制止に入るほどの勢いで猛り狂うのには面食らうが、それでも本当にここまで、それこそ目尻に涙を浮かべるほどに喜んでくれるのならば、閃としても手を貸すことに拒否感はない。今日は渉につきあうと約束した日でもあるし、逆らうほどのことではないだろう。
「……ただ、由加里さん……とお呼びして、よろしいのでしょうか?」
「は、はいっ! ……いやあのえっと、一応こういう場なんで、ペンネームで呼んでくれるかな……? 渉くんにも、甥ってこともあるけど、基本知り合いになりうる相手がいるところでは名前じゃなく、ペンネームで呼ぶよう言ってるんで……あ、これ、そっち系の名刺ね」
 差し出されたデザイン性の高い名刺には、SNS各種に使用するアドレスを添えて、ペンネーム(ユーリカ嬢島、と書いてあった)がでかでかと記されている。趣味での活動になんで名刺がいるんだろう、と訝りながらも、素直に受け取って問いかけた。
「……では、ユーリカさん。その、今日は趣味で描かれた漫画を頒布する会、とうかがっていたんですが」
「えっ……は、はい、うん。まぁ……そうだよ?」
「それなのに、なぜ奇妙な服を着る必要が? むしろ、奇妙な服を着た人間が売り子をやっていては、お客さんが胡散臭がってよりつかないのではないでしょうか? というか、先ほどユーリカさんが作られた服だとうかがいましたが……趣味で漫画を描かれているのに、洋裁も並行して行っておられるのですか? お体の方も大変でしょうし……それではどちらも中途半端なものになってしまいませんか?」
「………え……っと。渉くん、あの、この子って………?」
 ひどく眉を寄せながら、閃ではなく渉に問いかけた由加里に、渉はにやにやと笑みを返す。
「言っただろー、半ば二次元から飛び出してきてるって。別にタイムトラベラーみたく機械が使えないとかはねーけどさ、DCの一般常識とか風俗とかサブカルチャーとかに関しては、マジで前時代的っつーか、知ってることの方が僅少ってレベルなんよ、こいつ。今回はユーリカちゃんがそーいう相手に常識教える立場になるわけだから、この道二十年超の先輩として、いっちょがしっとびしっといい感じの教授をお願いしますぜ?」
「ぅっ……くっ……た、大役だけど、確かに曲がりなりにも二十年この道を生きてきた人間として、ガチの素人さんどころか時代錯誤レベルで知らない相手に、まともな教育もせずに祭の中に放りだすとか、断じて見過ごすわけにはいかない……! それにそーいうシチュって創作的にもオタク的にも燃え上がるものがあるのは確かだし! わかった、その大役、請け負いましょう!」
「わーわーさっすがユーリカちゃん、この道二十年の大作家ー」
「適当なおだて方しないの、プロでもないのにたかだか二十年続けてるくらいで大作家扱いされるわけないでしょうが、ペーペー……って言えるほど若くはないけど、雑魚もいいとこだよ。あと、なんの予備知識もなしにコミケ当日にこっち系の常識まるでない子を連れてくるっていう暴挙については、あとでしっかり教育させてもらうから」
「げっ………」
「さ、いつまでもここに溜まってたら交通の邪魔だし、さっさと行こっか! 周囲に迷惑のかからないよう、流れを崩さないように早足でね!」

 四物学園の体育館がいくつも入ってしまうほど広い道の隅から隅まで、みっしりと満ちた人が詰め込まれ並ばされているという道を通り抜け(自分たちはサークル参加――頒布する側なので並んでいる人たちとは別の出入り口を使うのだそうだ)、会場内に入る。国際展示場の広々としたホールに(ホールごとの敷居がすべて取り払われているため、さらに馬鹿広く感じる)、これまた隅から隅まで簡素な折り畳み机と椅子が並べられていた。
 由加里たちは慣れた足取りで歩を進め、並べられた机でできた囲いの中に入る。その端っこが由加里たちの席らしく、いくつも積み上げられた段ボールの蓋を開けると、由加里は歓声を上げて中に入っていた小冊子を取り出し、幸せそうな顔でほおずりしてみせた。
 そして椅子を並べて一息つく――と思いきや、閃は由加里にどんっ、とやたら分厚く(辞書並み)、大きい(ルーズリーフ並み)、普通の日常生活ではまず出くわすことのないだろうほど重い冊子を手渡してきた。
「さ、まずはこれ読んで」
「…………、あの……、これは?」
「コミケカタログ。最初の方に、イベントの諸注意が書いてあるから。初心者さんはまずこれを読むのが一番わかりやすくて伝わりやすいからね」
「…………、全部、ですか?」
「いやいやいや、カタログって言ったでしょ? 基本的には、これはイベントのどこでどういうことをやっているか、どういうものを売っているか、ってことを説明したカタログだから。諸注意は最初の方に書いてあるから、とりあえずはそこだけでいいよ」
「そ、そうですか………」
「あ、でも全部通しで読んだ方がより伝わりやすいのは確かだから、読みたかったらどんどん読み進めてくれてかまわないよ?」
「いえ、その、とりあえずは諸注意だけ読ませていただきます………、え? あの、カタログ、ですか? このイベントは趣味の創作物を売るイベントなんですよね? つまり、このカタログに、会場中で売られているものが、すべて載せられている、と……?」
「うーん、一応そういうことになってはいるんだけどね。なにせ冬から夏だと、八ヶ月くらい間が空くからねぇ。申し込みが二~三月くらいだから、申し込んだジャンルとは全然別の作品描いちゃう人もフツーにいるし。っていうか、そもそもカタログに載せられるスペースって限られてるからねぇ。お目当てのサークルさんがいればSNSをチェックした方が正確な情報仕入れられるけど……ちょうど合間ぐらいに始まった作品とか、ドマイナーだったりする作品に転んだ時は、もう隅から隅まで人力チェックすることにもなりかねないんだよね。webカタログなら検索はできるけど、検索漏れがあるからなー」
「………そ、そうですか………」
 思っていたのとは違う情報を大量に返され(趣味の活動でこんな大きなカタログが用意されるほど大量の作品が集まっている、ということに驚いただけだったのだ)、どう反応していいかわからなくなって、沈黙するしかなかった閃は、とりあえず椅子に座って言われた通りにカタログを読み始めた。分厚く、重く、ページをめくりづらい冊子ではあるが、文章自体が読みにくい、ということはないため(大きな冊子の隅から隅まで使う勢いで大量に文章が書かれているため、げんなりはするが)、読み進めること自体に苦労はなかった。
 とりあえず、このイベントの趣旨と意義、前回の規模、近年の状況の推移とそれに伴う規則の変遷などを一通り頭に入れて、顔を上げると、もう由加里の姿はどこにもない。気配が消えたのは感じ取っていたので驚くことはないが、自分たちのような中学生アルバイトだけを残してどこに行ったのか、と自分の隣で座っている渉に視線を向けると、渉はにやっと笑って説明する。
「ユーリカちゃんなら挨拶回り。ユーリカちゃんってば長くやってるだけあって、そこそこ人気あって顔も広いし、なにより本人がコミュニケーション大好きおしゃべり大好きなタチだから、イベント開始前に新刊持って一通り挨拶回りに行くんだよな」
「それは、いいけど……俺たちは、なにをしていればいいわけなんだ?」
「んー、更衣室開くのが十時半からだからなー。開場も同じ時間で、その時にはサークル参加者はいったんスペースに戻ってなきゃダメだから、とりあえず待機だな。開場したら更衣室へ向かうってことで。まー人の波には気をつけなきゃだけどよ、そこらへんはスタッフの誘導に従ってればいーから」
「人の波……?」
「前に言っただろ? 一般参加者の列の先頭占めてんのは徹夜組の連中だって。そいつらが最初に向かうのは、ほぼ企業ブースだろーからこっちにはそこまで関係してこねーだろうけど、そーいう奴らはマジ早く買うことに命懸けてっからな。途中に障害物があろーとも、足を止めずにひき潰していくし。閃の運動神経で巻き込まれるってことはねーだろうけど、あそこまで大量の人間がすげー速さで迫ってくるって、なかなかの迫力だし圧力もすげーからな。できるだけ巻き込まれねーように回避してかなくちゃならないわけ」
「………なんというか………」
「ま、閃の人生の中での体験としちゃ、なかなかレアだろ? 日本国内の人口比率からいったら、先頭歩いてる奴だろーと、閃ほどのレアさじゃねーだろうけどさ」
「………そうか?」

「………これ、着るのか?」
「ん? 別にそれほど風変わりな衣装じゃねーだろ? ぱっと見は」
 確かに一見普通の学ランというか、黒の学生服っぽく見えはするものの、そのところどころに派手な刺繍やら飾りやらが縫い込んであり、ちょっと見れば明らかに普通じゃない制服だというのはわかると思うのだが、今閃が言いたいことはそれではない。
「………今、夏だぞ? なんでどこからどう見ても冬服を持ってきてるんだ?」
「あー……そーいう衣装が先にあって、それを着てほしいっていう需要が先に立ってるせいで、着る側の着心地とか暑さ寒さなんかは後回しにされてるから?」
「え……つまり、この暑いのにこの冬服を着込め、と? 本気か?」
「あー、まー確かにそこらへんの確認は取ってなかったなー。コスプレっつったらどんな状況だろうと快適性無視して着たい服着るってーのが常識になってたから………ま、着たくねーんだったら別にいいぜ? 俺からユーリカちゃんに言っとくし。ユーリカちゃんも閃が嫌っつーのに着せたりはしねーから」
「…………」
 そういう言い方をされると、なんというか反応に困る。単純に我慢できるかどうかということだったら、単に暑い中冬服を着込むという程度、耐えられないわけもない。ただ、暑い中でわざわざ冬服を着込む、という状況の理不尽さというか、それにいったいなんの意味があるのか、ということに今一つ納得できないものがあるというか………
 なんにせよ、考え込まなくてはいけないほどの話とは思えなかったので、閃は無言で着替えを始めた。渉もにやっと笑みを送ってきたあと、同じように着替えを始める。今日は眼鏡ではなくコンタクトにしているので、眼鏡の保管場所に気を配る必要はないようだった。
「………これ、帽子もかぶらなくちゃ駄目なのか?」
「ダメに決まってんじゃん。それなかったら着る意味なくなるし」
「? なんで?」
「んー、設定的に?」
「………渉の服は、俺のと色違いなんだな。大丈夫か?」
「まー暑いは暑いんだけど、これも仕事だしなー。その分の給料はしっかり払ってくれっから。それに閃の衣装の隣に俺の衣装が並んでねーと、ユーリカちゃん的には画竜点睛を欠く感じだろーし」
「? なんでだ?」
「んー、順列組み合わせの主張兼客引き的に?」
「……………」
 やはり意味がわからない。が、客引きのために重要、ということならば、曲がりなりにも販売員として働きに来ている以上、文句を言うわけにはいかない。手早く着替えて更衣室を出て、由加里が一人で待っているだろう席に向かう。
 が、その途中で、思わずぎょっとした。
「……なんだか、ものすごく人が増えてないか!?」
「そりゃそーだろ、もう開場してんだもん。まーみっちり列に並んだ人間をちょっとずつ入れてるわけだから、一気に大量の人間が増えることはねーにしろ、会場まで来る途中で道見たろ? クッソ広ぇ道いっぱいに人並んでたじゃん? あそこにいる人らが全員会場に入ってくるんだぜ? しっかもあそこの道だけじゃなくて、会場周辺の安全に通れる広い道はあらかた使ってんだろってくらいに人詰め込んでるし。開場から間がねーったって、フツーにこんくらいは人増えるよ」
「よ、予想してなかったわけじゃないが……」
「むしろこんくらいでホッとしたね、俺は。場合によっちゃ、人が群がりすぎてにっちもさっちもいかなくなって交通止めになって、何時間もスペースに戻れない、っつー可能性もあったわけだから。言っとくけど、本格的に人が入ってきたら、会場中が通勤時間の電車くらいに込み合うからな」
「あの広い会場全部がか!?」
「屋内のみならず、会場内の通路とか、広場とかまでもな。トイレも死ぬほど混むし並ぶぜ。あ、だからって水分補給控えるとか腹になにも入れないようにするとかはアウトだかんな。夏にこんなクッソ暑ぃ服着てそんなことしたら、フツーにぶっ倒れて救護室送りになるっつークッソ迷惑なことになっから。基本働いてる人みんなボランティアなんだから、周りにできるだけ迷惑かけず、自分の面倒は自分で看るのが鉄則。まー閃の場合は俺が無理やり連れてきちゃったみてーなもんだから、俺が面倒看るけどさ」
「いや、別に自分の面倒は自分で………」
「別に閃が自分の面倒看れねーとか言ってるわけじゃねーって。単に、ここの常識は俺の方が知ってるってだけ。よく知らねーことはよく知ってる人に素直に教えてもらう方がいーだろー?」
「…………」
 正論ではあることを言われて、閃は反論の言葉に迷い黙りこむ。閃は閃なりにどんな状況でも戦えるだけの心構えと訓練を積み重ねているつもりではあるが、場の常識を知っているのと知らないのとでは立ち回りに大きな差が生まれることも事実。渉が詳しくその常識を教えてくれるというのなら、素直に教えてもらった方がいいに決まっている。
 だけどこいつに素直に教えてくれと頭を下げていいものか、などとちらりと頭によぎる思考をため息ひとつで吹き飛ばしつつ、どんどんどんどんどんどんどんどん人が増えていく会場を歩いて、元居た席まで戻る。自分たちが席を出た時同様、何冊もの冊子が積み重ねられた机の後ろで、椅子に座って通路を眺めていた由加里は、閃と渉の姿を見て、ぱっと目を輝かせた。
「二人とも似合うー! なにそれすっごいさすが現役DC、もうまんまだよそのまんま! うっわーやばっ、私の推しが息して歩いてるーっ! 実在してるーっ! しっかもそれが私の作った衣装でとか、やっばいこれ嬉しすぎるでしょ!」
「へっへっへ、だっろー? さすがにメイクにまでは手ぇ出してねーけど、閃はもともと剣術やってるしなー。姿勢もいいし体幹とかもう人間か!? ってレベルだから」
「うっわ、ちょ、もー、なにそれマジ二次元!? って感じの設定ありがたすぎるんだけどー! あっごめんね草薙くん、一人で盛り上がっちゃって!」
「………いえ」
「渉くんも似合ってるよぉ、しかもさすが親友ってだけあって草薙くんの隣にいるのがめちゃくちゃしっくりくる感じがもう………! 供給助かるー!」
「どーいたしましてー、なにせ俺らマブダチだからー。バイト代ちゃんと弾んでくれよな?」
「うんうん、いっくらでも払っちゃう! あーもうこれ一刻も早く写真撮りたい! データとして残したい!」
「いやダメだろ、会場内は基本撮影禁止。コスプレ撮影は指定の場所で。鉄則だろ?」
「うんもちろんわかってる、しかもこの時間帯にコスプレ広場まで行くとか、帰ってくるまでどのくらいの時間がかかるかわかったもんじゃないしね。それにこれもう私的には私が邪魔っていうか、この二人の姿をスペースに来てくれた人みんなに見てもらいたいレベルだし………うん、それじゃやっぱり、最初は二人で店番しててくれる? 二時間ぐらい買い物したら戻るから!」
 二時間!? 買い物に!? とぎょっとする閃を気に留めた風もなく、渉は笑顔で由加里にうなずいてみせる。
「オッケオッケ、りょーかい。ゆっくり回ってきてよ。俺らちゃんと二人で売り子してっからさ」
「うんよろしくねっ! じゃあ、草薙くん、またあとでっ!」
「………はい」
 いや二時間もこんなところで買い物とかなにするつもりなんだ? と思いつつも、さすがに雇い主に根掘り葉掘り聞きほじるわけにもいかない。席を出て買い物とやらに向かう由加里を見送って、入れ替わりに机の後ろ側に入り、渉に従って売り子の席に着いた。
「ま、売り子っても別に難しい要求とかされねーから。アマチュアなりに、お互い不快にならないよーにしよーね、っつー心構えは持ってよう、ってくらいで。まぁクソ暑い中で本の値段間違えずきっちり計算する能力とか、予想外に列が伸びても慌てずうろたえずスタッフさんと協力してなんとかする能力とかは必要かもだけど」
「………って、いってもな。俺は正直、客商売だからって理由で、面白くもないのに笑顔とか、浮かべられる気がしないんだが」
「あーだいじょぶだいじょぶ。閃の場合は役柄的にむしろそっちのがイイから。むしろ不愛想万歳。まー偉そうな態度取るとか、人に不快な思いさせたら駄目だけど、一般社会レベルの礼儀正しさ保ってるんなら、ちょいぶっきらぼうな方がぜってー受ける」
「受ける………? なんだそれ」
「おっ、一般参加者そろそろ増えてきたな。ユーリカちゃんって、大手ってわけじゃねーけど、そこそこファンいるから、わりと早めに客来るかもだから、準備しとけよ?」
「………ああ、わかった」
 いまひとつ納得はできないながらも、仕事だというのならばそれを優先するしかない。いつ客が来ても対応できるように身構える―――が、そんな閃の意気込みに反して、話しかけてくる客は一人もいなかった。
 というか、遠巻きにして、ちらちら見られながらひそひそと話をされているのだが。しかもなにやらやたらニヤニヤしたり、目をきらきらさせたり、やたらばたばたしたり、と挙動不審なことをしている女子や女性たちばかりに。通路を歩いている女性たちのみならず、机の内側に座っている女性たちからもだ。
「………渉。なんで周りの女性たちが、俺………というか、俺たち、か? を見ているのか、わかるか?」
「あー、そりゃ客引きの副産物ってやつだよ。お客さんの目を引くように、客受けのいいカッコしてるわけだから、そりゃ客から注目も集めるって」
「お客じゃない人たちからも集めてるんだが」
「カタログに書いてあっただろ? コミケじゃ全員が参加者で、『お客様』っつー、『金を払ったから優遇される人間』はいねーって。つまり、売る方も参加者で、本を買いに来てる客でもあるんだよ。買いに来てる客の目を引くカッコだったら、売る方の人たちの注目も集めてとーぜんなわけ」
「そうか………」
 とりあえず納得したところ、遠巻きにしていた女性たちの中から、意を決したように二人組の女子が歩み寄ってきた。渉が待ってましたとばかりにタイミングよく「どうぞ見ていってくださーい」と朗らかな声をかけ、閃は自分が下手に媚びた声を出しても見苦しいだけだろうと仏頂面のまま沈黙を守る。
 その女子たちは、机の前に立ち、小声で「どうするどうする」「いっちゃういっちゃう?」などと囁き交わしたのち、自分たちに声をかけてきた。
「あっ、あの、それって、彷タクの誠司と蒼さまですよねっ?」
「はい、そうですよ。今日もそのカプの新刊出てます」
「あっ、じゃあその新刊五冊お願いしますっ! ……で、えっとそのっ、あつかましいかもなんですけどっ、ぽ、ポーズと台詞のリクエストって……アリですかっ!?」
「あー、今日はコミケですし、あんまり混雑招くようなことしたくないんですけど………」
「あ、そ、そうですよねっ。すいません………」
「んー、でも、ちゃんと始発で来てくれた人が、真っ先に買いに来てくれたってことで、一度だけ、あなたたちにだけ、小さい声でね。感想も送ってくれてる読者さんですし、大サービスで。写真も動画もアウトですけど、いいですか?」
 きゃぁっ、と小さくはしゃいだ声を上げてぺこぺこ頭を下げる女子たちに、渉は笑顔で「リクエストはどんな感じで?」と問いかける。
「え、ぇっとそのっ、どうするリンちゃん、どのシーンにするっ?」
「や、やっぱ一度だけっていうんならあの結婚成立シーンで……!」
「だよねだよね、やっぱそこやってもらいたいよねっ! じゃ、じゃあそのっ、十一巻112ページの、二人の和解のシーンで………!」
「あー、あそこね。了解です。閃、ちょっと耳貸して」
「? ああ」
 素直に耳を寄せる。その仕草さえもやたらと目をきらきらさせながら見つめられているのだが、悪意は感じないので眉を寄せながらも放置した。
「………って感じの台詞言って、指突きつけてほしいんだけど。できるか? 実際は刀突きつけてるわけだけど、コミケって長物禁止だからさー」
「……言うことはそりゃできるが。それになんの意味があるんだ? なにをしてほしいのかさっぱりわからないんだが」
「あー、まー演劇の1シーンを簡易再生、みたいな感じで」
「演劇って……俺に演技なんてできないぞ」
「わかってるって、閃嘘っこってなるとやたら固くなるし。だから俺に普通に言ってくれりゃいいから」
「わかった」
 うなずいて、座っていた席から立ち上がる。渉は座ったままだ。それに向けて、すっと指を突きつける。本当は刀を突きつけている、というのが頭に残っていて、刀なしでも自然と姿勢と手の形は刀を持っている時と同じになった。
 さっき言われたままの台詞を口にする。わりと閃としては違和感がないというか、渉がろくでもないことをしでかした時に言いそうな気がしないでもない台詞だったので、自然と語調もそんな感じになった。
「俺に従え。斬られたくなければ。今ここでうなずくのなら――今後、俺の前で二度と頭は下げるなよ」
 実際ろくでもないことやらかして首を突っ込んできたとなれば、今後二度と謝るようなことするなよ、くらいのことは言いたくなるだろうしな、と思いつつ、小声で鋭くそう告げる。や、目の前の女子たちは声を揃えて『き……』と大声を上げそうになってから口をふさぎ、その恰好でぎゅんぎゅん身をよじる、という奇怪な反応を返した。
「………えーと、どんなもんでしょう? リクエスト、応えられましたかね?」
「! ! ! ! はいもちろんっ! あの、あのっ、ほんとに、ほんとに、ありがとうございますっ!」
「感動しましたっ! あのっ、もしかして演劇とかやってらっしゃる方なんですかっ? 劇団所属とかっ?」
「え? いや………」
「あー、すいません、そこらへんは一応詮索なしで。こいつの家庭の事情の関係上。同じコミケ参加者として、気持ち汲んでやってもらえませんか? お願いします」
「! わかりましたっ、もう絶対言いませんっ! 自慢しまくりたいですけど、それも控えるようにしますからっ!」
「あのっ、ぶしつけなこと言うかもですけどっ、気持ち、すっごいわかるんで! がんばってくださいっ、応援してますっ!」
「は? はぁ………」
「あ、あの、でもそのっ、SNSとかで、ゆりか亭さんですっごいお似合いのコスしてる人たち見かけた、くらいだったら呟いてもいいですかっ? もちろん身バレに繋がるような情報とか絶対出さないんで!」
「いいですよ、そのくらいなら。ありがとうございました、これおまけです、体調気をつけてくださいね」
 渉の渡した個別包装の塩飴を受け取って、二人組の女子は深々と頭を下げて去っていった。閃が女子への対応に追われている間に、渉は品物の受け渡しと代金の受け取りと売買の記録をすませてしまったらしい。さすがこのアルバイトの経験者、そつがない。
 が、渉は渉で閃の振る舞いに衝撃を受けたらしかった。少しばかり驚いたような顔で、口の端を吊り上げ、こちらを向いて訊ねてくる。
「おっでれーたな。閃って、正直に告げてるって意識さえありゃ、フツーに台詞も言えんだ。マジで役者級の迫力だったじゃん」
「別に台詞は言ってない。お前にも言うかもしれない台詞だから言ったんだ」
「………へっ? それって、どういう………」
「一応、基本的にはお前はそういうことをしないだろうと信じてはいるが。調子に乗りやすいから、完全には信じきれないというか。俺の仕事に首を突っ込んで妙な真似してきたら、刀を突きつけて脅すくらいのことはするかもしれないからな」
「あー………あー、そゆことね。オッケオッケ、基本的には信じといてくれて嬉しいぜ」
「ああ」
 一瞬言葉が切れる。その合間を狙ったかのように、ばっと周りの女性たちが席に押し寄せてきた。混雑して混乱が起きるかと思いきや、女性たちは速やかかつスムーズに二列に並び、机の上に並べられた冊子を次々手に取って、こちらに差し出してくる。
「あの、これとこれとこれください」
「新刊二冊ください」
「新刊と、前回の新刊の再版あります? それとユーリカさんは………」
「はい、千五百円です、ありがとうございます。これおまけです。はい、千円です、ありがとうございます、これおまけです。新刊は五百円です、前回の新刊の再版は四百円です。計九百円です。それとすみません、サークル主は現在買い物中でして………」
 押し寄せる人の群れを、渉は適切に、かつスピーディにさばいていく。閃にできることは、渉に指示されるままに本を準備したり何冊も買われた時に袋にまとめて入れたり、という雑用くらいしかない。
 ただ、その間にもずっと、閃(と、渉)には、相当な熱量の視線が降り注ぎ続けていたので、この格好は確かに客引きになっているんだろうな、と納得したのだった。

「たっだいまー! もしかして、混雑対応させちゃってた!? ごめんね、売り子初心者さんに負担かけちゃって!」
「いえ………」
「おっかえりー、ユーリカちゃん。スケブいくつか預かってるぜー。差し入れとか手紙とかはそっち、あとまた会いに来るって人の名前はそこに書いといたから。列対応は基本俺らでできるけど、もう一人お客さんと話せる人がいた方が早く列さばけるから、悪ぃけど手ぇ貸してもらっていい?」
「了解、ありがとね! はい、新刊ですね、一冊五百円です! ………」
 一時は通路の相当先まで長々と伸びていた列も、由加里が戻ってきて渉と共に列をさばき始めてから三十分ほどで、ほぼ完全にさばききることができた。正直一時はどうなることかとひやひやしていたのだが、渉と由加里の接客技術は大したもので、もはや通路いっぱいに数えきれないほどの人が行き交う中、長々と伸びた列にも、見事に対応してくれたのだ。はっきり言って閃は、雑用程度のことしかできていない。
 だがまぁ列に並んでいる人も近くの通路を通り過ぎる人も、自分たちにしっかり目を留めて、目を輝かせたりひそひそこそこそと囁き交わしたり、列に並ぶ気のなさそうだった人が決然と列の最後尾についたりするところを何度も見ていたので、(この服を着た)自分にも一応客引きという役目は果たせていたようだが。
 会場からだいたい二時間半。並んだ客をほぼすべてさばききり、段ボール数箱にぎっしり詰められていた冊子もそのほとんどを売りきって、ようやく息がつける状態になった閃は、深々と深呼吸した。少なくなってきているとはいえ、今だ通路に数えきれないほどの数行き交う人々の、物理的圧力と湿気のせいで、心地いい深呼吸とは言い難かったけれども。
「二人ともありがとう~、おかげで列ちゃんとさばけたよ! 普段はこんなに列ができることとかないんだけどねぇ……やっぱり二人のコスの客引き効果、すごいよね!」
「いえ、俺はお客さんへの対応ではまるで役に立てませんでしたから。少しでもそういう方面でお役に立てればなによりです。どうぞお好きに使ってください」
「いやいやむしろそれで正解だから! 人との交渉は誠司に任せて、背後でひそやかに暗躍するとか、キャラ解釈的に大正義! なにより誠司と蒼が二人で店番とか、それだけでもういろんなものが滾りまくりだから、全然問題なし!」
「は……はぁ、そうですか」
「とにかく二人ともお疲れ~。もう残ってる本も少ないし、もしまた列ができたりしてもすぐ終わっちゃうだろうから、二人とも見てきたいとこがあったら見てきていいよ?」
「いえ、売り子を仕事として請けた以上、きちんと最後までやらせていただきます」
「いやまぁ、その気持ちはありがたいけども………この暑さで、その衣装着込んでるわけだし、体力的にもきつくない? まぁ会場内はどこに行っても人がいるからまずゆっくり休むなんてできないけど……外の日陰とかだったら、まだ少しは涼しいよ?」
「いえ、体力の削られる環境には慣れているので。どうぞお気になさらず」
 それに、見てきたいところと言われても、カタログを一読した限りにおいては、見て回りたくなるような場所が見つからなかったのも確かなのだ。このコミケという場所は、創作物の頒布を中心とした表現の場。在り方は様々だろうが、どんな人間も自身の心を、創作意欲を形作り他者に伝える、あるいは受け取る、その快感を求めてやって来ているのは間違いないはず。ならば、人との関わり合いなど、これまでずっと斬って捨ててきた、自分などがいていい場所でもないだろう。
 それで間違いないはずなのにな、と閃は一瞬遠い目になる。これまでずっとそうやってきたのに、今自分は当然のように、人の輪の中に繋がれている。本来はたまたま護衛の仕事を請け負っただけの関係で終わるはずだったのを、当たり前のように人間同士の関係に変えてしまう少女がいたから。
 妖怪なのにこの上なく人間的な少女のことを思い出し、ぼうっと宙を見つめていると、目の前に渉が水筒とおにぎりを突き出す。
「昼飯買ってきてやったぜ~。ま、昼飯にしちゃちっと遅いけど。水筒は俺が準備しといたドデカ魔法瓶、氷のしこたま入った麦茶入りな。水分補給と栄養補給はきっちりとな、まー俺が言わなくても閃ならしっかりわかってんだろーけど」
「………いや。悪いな」
「どーいたしましてっと。俺にできることなんてこんくらいだしな。あとどんだけ時間あんのかわかんねーけどさ、できることくらいさせてくれよ」
「ああ………」
 こいつにもなんのかんので世話になってるよな、と改めて思いながら渉に視線を向ける。まぁこのアルバイトも、渉に世話になった恩返しにということで請けたわけだから、閃なりに借りを返済中ということではあるのだが。こういう風にしおらしいことを言われると、もう少しなにかをしてやらなくてはならないような気分になってしまう。
 ただそんなことをまともに口にできるわけがなかったので、閃にできるのはただ自分も昼食を食べ始める渉を、一瞬じっと見つめることだけだったのだけど。
「………っ、…………っ、…………っ………!!」
「ユーリカちゃーん、悶えたいのはわかったからさ、もーちょいちゃんとわかんないよーに隠そうぜ? 閃はマジでそっち系に縁のない浮世離れ系男子だかんな? ちゃんと猫かぶって、大人の皮かぶってくれって」
「っ………、いや、うん。わかってるよ? 大人としてちゃんとそこらへんはわきまえてるよ? 現実の、しかもこっち系に縁のない子に腐れた思考とか断じて披露しちゃダメだよ、そんなの常識、トラウマになりかねないしね、良識としてそれは厳守するよもちろん。………でもこれはさぁぁ………! 私の今の最推しの二人がわかり合った会話くり広げてんだよ!? じっと切なげな視線向けてんだよ!? そりゃ悶え喜ぶでしょ普通! 本来なら全力で喚き騒ぎ叫んでるところだよ歓びで! このくらいの反応はせめて許してほしいと切に願うというか………!」
 なにやら小声で囁き交わす渉と由加里の会話を、意識的に耳に入れないように注意しながら(雇われている以上、雇い主の個人的な会話はできるだけ耳に入れないようにするのは常識だ)、ぼうっと宙を見つめる。やらなきゃいけないことは山ほどあるはずなのに、園亞にどう別れを告げるかも自分はまだ決めきれていないのに、こんなところでぼうっとしている自分に、少しため息をつきたくならないでもない。
 でもこれも間違いなく自分のすべきことの一環だ。立つ鳥跡を濁さず、別れる前に貸しも借りもきちんと清算しなければならない。それは閃なりに、数多の出会いと別れをくり返す中で設定したルールのひとつだ。そのくらいのことはしなければ、自分のわがままを貫き通して妖怪を狩る自分は、自分を心配してくれた人たちに胸を張れないと思った。
 だから、園亞に対しても、閃なりにきちんと貸しと借りを清算しなくてはならない。けれど、園亞に自分がきちんと借りを返せる自信は、正直なところあまりなかった。
 彼女はいつも当然のように笑って、閃のこだわりなど軽やかに無視して、いいやむしろ気づくことさえなく、いくらでも手を貸してくれるから。命懸けで自分を助けてくれてきたから。閃が園亞を助けたことも、閃なりに園亞を護る役に立てたと思ったこともあったが、最初はまるで実戦経験のない少女でしかなかった園亞が閃のために戦いに身を投じた覚悟に比べれば、そのどれもがあまりに軽いものに思えてしまう。
 園亞の想いに。彼女の笑顔に。自分などがいったい、なにを返すことができると―――
「あれっ、閃くん?」
「………―――!!?!?」
 閃は仰天してばっと声の方に顔を向ける。そこに立っていたのは、間違いなく、園亞だった。今朝も四物家の屋敷を出る時(かなりの早朝ではあったが、園亞も基本的に朝は早いのだ)挨拶をした、今自分と同じ屋敷に暮らしている、許婚ということになっている少女。
 あまりに突然にちょうど頭の中に思い浮かべていた少女が出現したので、これは本当に現実なのかと疑いたくなるほど仰天してしまったが、渉からするとさすがにそこまで驚くことでもないらしく、軽く目を見開きながらも軽い調子で声をかける。
「あれ、四物じゃん。こんなとこで会うとか奇遇だな。多田に誘われたん?」
「あ、うん、詩織ちゃんと、佳奈ちゃんに。暇なんだったら一緒に行かない? って。今日部活休みだったし、閃くんもアルバイトに行っちゃってたし」
 園亞の答えにはっとして、ようやく園亞の隣に女子―――四物学園で何度も顔を見た女子生徒が二人立っていることに気づく。そのうち一人はクラスメイトだ。園亜とちょくちょく話しているところを見かけたことがある。その時の印象通り、おしゃべり好きの子のようで、渉に視線を向けられてにぎやかに喋りだした。
「だってさぁ、コミケの常連サークルさんで、クラスメイトがしょっちゅう売り子やってるとか、そんなレアな事態あたしらだけの胸に収めとけないでしょ! 偏見ない子ならできる限りたくさんの相手に知らしめたいって思うでしょ! まさか草薙くんも一緒だとは思わなかったけど!」
「っていうか草薙くん? って呼んでいいのかな、話すの初めてだけど………あの、すっごいそのコス似合ってるね! 蒼さまだよね、そのコス!?」
 多田の隣の大人しそうな眼鏡の少女(クラスが違うこともあり話したことは確かにないが、顔は見たことがあるし、多田の友人らしいということも知ってはいた)に、最初はおずおずと、次第に食いつくように詰め寄られて、閃はわずかに気圧されながらも、「………ああ。そうらしいな」と答えた。渉の影響もあるし、カタログを読んだり気になった点を由加里に教えてもらったり押し寄せたお客の会話で漏れ聞いたりで、コスというのがコスチュームプレイという特殊な衣装を着て楽しむことで、蒼さまというのがこの衣装の名称だということくらいは理解しているのだ。
「だよねっ! あの、なんかホントもう、感動するくらい似合ってるから! なんかもう、学校でも見てたけど、その武士系って感じの雰囲気がもう蒼さまにピッタリすぎて………!」
「だよねだよね、もうすっごいハマりコスだよね!? 時田の誠司くんもなかなか似合ってるし! そんな二人が並んで売り子やってて、中の人もちゃんと友達とか、もうこれすごすぎない!?」
「はいはーいお前ら、いっくらそこそこ人が引けた時間帯だからって、あんま大声出すなー。周りのサークルさんに迷惑だから。あと他のお客にも迷惑だから、あんまサークル前に溜まらない。長話したいんならちゃんとたむろしてもいいって決められてるとこでな」
「あっ、ご、ごめん………じゃあ、あの、新刊三冊ください」
「あ、あたしはこっちの既刊も。前回買い逃しちゃったから、今回買えてよかったー!」
「お、運よかったな。ちょうど多田の一冊で新刊完売。ありがとうございました!」
「え、マジっ!? うわっ危なかったーっ、楽しみにしてたのにここのサークルさんの新刊買えなかったら最悪だった! 今度からもっと早く来た方がいいのかなぁ」
「んー、今回はまぁけっこうな勢いではけたからな。基本、ユーリカさんはけっこう多めに刷るから、基本新刊が即日完売とかまずないし。実際、今回は閃のコスで客が大量に集められたところある」
「え、ホントに!? 草薙くん、すっごいね! あーでもわかる、草薙くんホント雰囲気あるし! そりゃ初見でもちょっと寄ってみたくなっちゃうよー」
「だよね、ホントにすごい似合ってるもんね………! あ、あの、もしよかったらなんだけどっ、原作の蒼さまと誠司くんの和解シーンとか、蒼さまの血を流しながらの演説シーンとか―――」
「はいはい、原作再現系の仕事はお断りしてまーす。他のお客さんには真っ先に来てくれた人にサービスとして一回だけしかやってないんだから、示しがつかねーだろー? あとさっきも言ったけど、あんまサークル前に溜まんな」
「後ろにお客さんがいないんだったら、おしゃべりするくらい別にいいよ? まぁ、ずっと居座られたりしたら困るけど」
 にこにこ微笑みながら自分たちの会話を見守っていた由加里が声をかけると、多田とその友人(名前は佳奈というらしいが姓がわからない)はびくっとして、「あっじゃああたしたちはこのへんで」「すいませんでした、おしゃべりとかしちゃって」とぺこぺこ頭を下げながら立ち去ろうとする。
 園亞はそのあとを一瞬追いかけようとするも、ちょっと考えて、二人に声をかける。
「あのね、詩織ちゃん、佳奈ちゃん。私、ちょっと閃くんとお話したいから、ここで別れちゃってもいい?」
「えっ」
 突然の発言にぎょっとするも、多田とその友人は目を瞬かせつつも、二人で顔を見合わせ、なにやら二人で納得した様子でうなずいて、「じゃあここでお別れね、今日はありがと、つきあってくれて」「人多いけど、ちゃんと帰れるよね? 困ったことがあったら電話してくれていいから」と告げて退散していく。
 それを見送ってから(できれば園亞と話す際にはできるだけ余人を交えないようにしたいのだ)、園亞に向き直り、真面目な表情を作って告げた。
「園亞、悪いけど、俺、今は一応仕事中だから。仕事を放り出して私語というか、おしゃべりをするわけには………」
「気にしなくていいよー? 今日は草薙くんには、すっごい働いてもらっちゃったし。めちゃくちゃ助かったしね。ちょうど好きなところ見てきたら? って言ってたところだったじゃない」
「と、雇い主さんがおっしゃっております」
 にやにやとこちらを見ながらまぜっかえす渉に一睨みをくれて、じっとこちらを見ている園亞に向き直り、できるだけ真摯に説得を試みる。
「というか、今じゃないと駄目ってわけじゃないだろう? 今日帰るところは同じなんだから、屋敷で話をすれば………」
「うーん………できれば、今話しときたいかなぁ。迷惑だったら諦めるけど、雇い主さんがいいよ、って言ってくれるなら」
「いや、あのな園亞」
「だってさ、閃くん。閃くんさ………私と、お別れしようとしてるんだよね?」
「……………!?」
「うぉー、急展開。一気に愁嘆場の香りがしてきました」
「渉くん、友達が大変なのに、助けてあげなくていいの?」
「ま、この一件に関しちゃ俺は四物の味方なんで」
 呑気に話している渉たちに舌打ちしそうになりながら、「………わかった。話そう」と答えて立ち上がる。背後から視線が向けられるのを感じながらも、午前よりはだいぶ人の少なくなった通路を、(カタログに走るの厳禁、周りに迷惑をかけないこと第一と書かれていたので)早足になることなく歩き出す。
 ホールを出ればそれなりに店もあるとカタログには書いてあったので、そこを目指そうかと思ったのだが、出入り口にはまだわんさと人が溜まっていた。これは時間がかかるか、と眉を寄せていると、園亞がなにやら一人うんうんとうなずいてから、軽く周囲を見回し、小さく息を吐き出す。
 ―――と、思った次の瞬間には、閃は、自分と園亞以外誰もいなくなったホールの中に立っていた。
「! これは………」
「えっとね、ツリンが、私がここに遊びに行くって言ったらいろいろ手伝ってくれる、って言い出して。ここで会った人と話をするんだったら、目立たないように細工して、人払いの妖術の異空間に入れてあげる、って言ったの。ここは人が多いから、そうしないとまともに話もできないでしょう、って」
「………そうか」
「うん………」
 うなずいてから、園亞は幾度か深呼吸をして、それからばっと顔を上げてこちらを見つめ、真正面から問うてきた。
「あのねっ、閃くん。閃くんは………私と、お別れしようとしてるの? 私のこと、ほっぽっといて、どっか行っちゃったり、するつもりなの?」
「………なんで、そんなことを?」
「えっとね、ツリンがね、最近閃くんとあんまり話せてないなぁって言ったら、いろいろ教えたり、一緒に考えたりしてくれて。そうしてくと、なんか、閃くんはもう、私とお別れするっていうか、どっか行っちゃう準備をしてるんじゃないかなぁ、って思えてきちゃって。だから、その、それって本当なのかなって、聞きたかったって、いうか………」
 閃は思わず深々と息をつく。やはり、ツリンの誘導か。人を疑うことを知らない園亞が、自分の行動に自発的に不審さを感じるというのは不自然だろうと思っていたが、あの性悪で異常なまでに頭の回る大妖怪がしゃしゃり出てきたならば、騙し合い探り合いで閃が勝てる道理もあるまい。
 それに、園亞がこう聞いてきたのならば、閃は最初から、正直に答えると決めていたのだ。
「………そうだよ。そのつもりだ」
「………、そっかぁ………」
 園亞はしゅん、と悲しげに眉を寄せてうつむく。必死に悲しみに耐えている、というその表情に、閃の心臓は罪悪感で痛んだが、それでも、ここで嘘をつくわけにはいかない。
「それって……私が、正義のヒロインとして、ダメダメだったから? 私が、役に立てなかったせい?」
「違う、そうじゃない………園亞の力は、充分以上に役に立ってくれてた。これまでだって、園亞がいなかったら俺が死んでいただろう事態も、一度や二度じゃなかっただろ。だけど……俺は、何度も何度も言ってきたけど………園亞を護れるほど、強くないんだよ」
「そんなこと………これまでだって、閃くん、私のこと何度も護ってきてくれたじゃない」
「いいや、俺が園亞をまともに護れたことなんて、一度だってないって言っていいくらいだ。それくらい、俺はなにもできていない。これまで対峙した妖怪が、どいつも真っ先に俺を狙ってきたから、園亞が狙われてこなかったっていうだけで。………園亞が、俺と一緒にいたら、いつ死ぬことになるかわからないって、正直思う」
「閃くん………」
 顔を上げ、潤んだ切なげな瞳で、園亞がこちらを見つめる。その視線に、当然胸は痛む。園亞を嫌いになったわけではない。護りたい、大切にしたいという想いにも嘘はない。だがそれでも、だからこそ、思うのだ。『園亞を自分の人生につき合わせるわけにはいかない』と。
「以前………俺、園亞に、『できればまだ一緒にいたいと思う』って、言ったよな? 覚えてるか?」
「うん………」
「その言葉に、嘘はない。まだ一緒にいたい、っていうその気持ちがなくなったわけでもない。だけど―――俺は昔、誓ったんだ。悪い妖怪をすべて倒すことを」
「うん………正義のヒーローに、なるって言ってたもんね?」
「それで園亜は、それを助ける正義のヒロインになるって言ったよな。………園亞に、その能力がないって言ってるわけじゃない。園亞の魔法は俺にとってはこの上なく強力な援護になるし、それだけじゃなくいろんな局面でものすごく便利なものだとも思う。街中じゃ使えないことも多いそうだけど、それでも充分以上に強力な技術だ。正直、園亞がいてくれた方が、俺の生き延びる確率はずっと上がる、っていうのも確かだと思う」
「なら………なんで?」
 じっ、と今にも泣きそうな瞳で問うてくる園亞。そんな、誰もが優しくしてあげたいと思うだろう子に、閃は心中の、ずっと抱えてきた屈託を、それこそ身を割くような痛みと共にぶつけた。
「俺は、園亞に、なにも返せない」
「え………」
「俺は、自分の人生を、すべて悪い妖怪を倒すために使うと決めた人間だ。それ以外のことに目を向ける余裕なんてないし、むしろ意識的に投げ捨ててきた。だから………園亞が、俺に、なにを求めてるか、ちゃんとわかってるわけじゃないけど。それでも、なにもわからないってわけじゃない。だから、言える。………俺は、この先一生、結婚とか、家庭を作って子供を育てるとか、そういうことを、するつもりがないんだよ」
「…………!」
 大きく目を見開いて固まる園亞に、言葉を次々叩きつける。自分がこの世の誰より価値のない最低の存在だという襲いくる感情と戦いながら。それでもこれがお前の義務なのだと、必死に自分に叩き込み、口を無理やり動かして。
「俺の人生には、戦いしかない。悪い妖怪に倒されて終わるにしろ、万に一つの幸運を拾って寿命が来るまで生き延びるにしろ、俺は自分の持っているすべてを使って、死ぬその時まで悪い妖怪との戦いに明け暮れると思う。刀が振るえなくなっても。身体が動かなくなっても。目も見えない、耳も聞こえない状態になっても、必死に自分にできることを探して、戦い続ける」
「……………」
「俺の人生は、それでいい。俺は人生をそう使うって、ずっと昔に決めたんだ。だから、園亞。園亞が、俺に、なにを求めてるとしても………俺は、園亞に、なにも返すことができないんだよ」
「……………」
「これまでは、なによりもまず、孝治さんから請けた仕事を果たさなきゃならなかったし………園亞にこれまで何度も助けてもらったし、迷惑もかけたから、その借りを全部返すまではって、園亞のそばから去ることは考えてなかった。でも、四物家の分家屋敷で、園亞にちょっかいを出す連中や、〝白蛇〟の連中についても、無事片付けることができて………ある程度は借りを返すことができた、って確信できて………俺は、園亞の前から去る時機を、うかがうようになったんだ」
「……………」
「園亞への借りを、完全に返せたとは思ってない。これからも園亞や、孝治さんや玲子さんから助けを求められれば応えるつもりだ。だけど、いつもそばにいて、ずっと護っていたところで、たぶん園亞への借りを全部返すことはできない。俺は園亞のそばにいても悪い妖怪と出会えば倒そうとするだろうし、きっと園亞はそのたびに俺を助けてくれるだろう。借りは際限なく積み上がっていく。それなら、困った時に使える助けの手として自分を使ってもらうことで、効率よく―――無駄なく、園亞への借りを返せると思ったんだ」
「無駄………」
 呆然とした顔で、ぽつりと呟く園亞に、震える唇を無理やり動かして告げる。自分なんか死んでしまえばいい、もう口が利けないよう殴り倒してしまいたいという、強烈な衝動に無理やり見ないふりをして。
「そうだ、無駄だ。俺は、園亞の隣で、無駄な時間を、もう過ごしたくないんだ」
「っ――――」
 園亞の潤んだ瞳から、ぽたりと涙が滴り落ちる。心臓がずぎん、と、釘を打たれたように痛む。それでも必死に自分を叱咤して前を向く。自分の意志で始めたことだ、逃げるなんて絶対に許されない、許してたまるかと虚空を睨みつける―――
 と、唐突に、ぼぉりっ、と、なにかが砕けるような音がした。
「!? 誰だ!」
 即座に反応して刀を抜き、身構える。園亜と対峙する苦痛から逃げたいがための反応、でしかないとは思いたくない。それに実際、ツリンによって招き入れられた人のいない異空間の中で、自分たち以外の立てる音がする、というのが異常事態なのは間違いなかった。ツリンのかけた妖術を破るのではなく、その異空間に潜り込むなど、相当特殊な妖力なり妖術なりを持っている妖怪の仕業としか思えない。
 そしてその妖怪がこちらに対する敵対者でない可能性なんて、普通考えられない。体中に駆け巡る激情をすべて警戒心と闘争心に変換し、驚いて固まる園亞を背中にかばいつつ、音のした方を睨みつけていると、すぐにばりぼりぼりばりっ、となにかが砕ける音がやたら大きく響いた。
 というか。閃は眉を寄せる。これは、普通に考えて、せんべいを食べている時の音なような………?
「いやぁ、すまん。若い男女のやり取りに口を挟むとか、無駄だし無粋だし迷惑だろうと思って、とりあえず話が落ち着くまで待っていようと思ったんだがな。正直な話、この状況でばりぼりせんべいを食いながら茶をすする、という欲求に耐えかねて。一度はやってみたかったんだ、若い子たちの色恋沙汰を肴にせんべいを食いつつお茶、とか」
 そう甲高い(ただし、明らかに男性の声だ)で答えるや、声の主はぶぅんとこちらに飛んできた。―――そう、飛んできたのだ。虫のような背中の羽根を、ハエや蜂のように忙しなく動かして。
 そいつは相当に奇妙な姿をしていた。やたらと小柄、というか見た目女児向けの人形程度の大きさしかないのだが、全体的なフォルムとしては、青く丸い球を二つ重ねた形。というか、閃ですらも知っている超有名な漫画作品の、二十二世からやってきた猫型ロボットにそっくりだ。ただし背中に虫のような(妖精のような、ともいえるのだろうが、たとえ大きさ的には合っているとはいえ、この相手にそういう形容は似つかわしくないだろう)羽根が生えていて、それで飛行しているようだが。
 そしてその顔の部分に、眼鏡をかけた中年男性が乗っている。なかなかに強烈な姿だったが、閃はあくまで警戒を解くことなく、低く問うた。
「何者だ。どうやってここに入ってきた」
「いや、まぁ、そうだな。どうやって、と聞かれると、『コミケの魔法で』としか答えようがないんだが………」
 にやっ、と笑ってみせる相手に、閃は鋭く問いかけを続ける。
「目的はなんだ。お前は妖怪だな。妖怪が俺たちになんの用だ」
「うーん、そうだなぁ。じゃあまず、改めて自己紹介から始めようか。………私はコミケの精。コミケに対する人々の想いから生まれた、コミケを護り、祝福する……ま、妖精みたいなもんだ」
 またもにやりと笑う怪しげな妖精? に、驚いて涙を止めていた園亞が、ぽんと手を打って叫ぶ。
「あ! コミケの精、って私詩織ちゃんと佳奈ちゃんから聞いたことある! コミケを守護して、災いから護ってくれる的な言い伝えがあるんだよね?」
「………そんなものがあるのか」
「うん、台風直撃するところだったのを逸らしたり、天気予報では大雨だったところを晴れにしてくれたり、他にもいろいろ。コミケが毎年無事に開催されるのはコミケの精が護ってくれるからだ、みたいなのがあるんだって」
「うん、まぁそうだな。ただまぁ私の力は不安定というか、コミケに向ける人々の〝想い〟を集めて、それを力の源にした上で、基本的にはあくまで偶然なんとかなる程度の現実の改変しか施すことができないので、いつもいつもなにもかもから完全にコミケを護れるわけではないのだが……それでも、最低限これだけはできる、ということはある。そのために普段私は〝想い〟を貯めこんでいる、ともいえるな」
「……なんだ、それは」
「うん。それは妖怪からコミケを護る、ということなんだ。妖怪がその、人間たちの認識には存在しない力でもってコミケに大きな影響を与えようとした場合、私は貯めこんだ〝想い〟の力を全力で振るい、現実を改変できる。たとえ本来なら術を破らなければ不可能な、形成された異空間への侵入なんてことも、できてしまえるということさ。そのくらいのことができるのは、コミケ当日、会場内に限られるけどね」
「―――! ………、この異空間を創った妖怪は、別にこの即売会になにか影響を与えようとしてるわけじゃないと思うが」
 閃は一瞬驚きに目をみはりながらも、あくまで真っ向からコミケの精を見つめ言い返す。コミケの精はふるふると、仕草だけは可愛らしく首を振って、中年男の声で答えた。
「いやいや違う違う、そっちじゃない。私が言ってるのは、別口だよ。コミケに参加し、参加者という立場を得ながら、内側からコミケを崩壊させようとしている妖怪たちがいる。私はコミケの精として、コミケを護る妖怪として、彼らには断固とした対応をせねばならない」
「つまり……あんたは、戦力として俺たちに力を貸してもらえないか、頼みに来た、と?」
「戦力というと少しばかりアレだが、まぁそうだな。私にはほとんど妖怪としての戦闘力がない。こういう風に妖怪関係のトラブルがあった時は、参加者なりなんなりから手伝ってもらえる相手を見繕うか、さもなければうすーい縁を頼って力を貸してもらえる妖怪を呼び出すしかない。なんでまぁ、君たちのように参加者としてこの場に現れた、強い力を持つ妖怪なり、それを伴った人間なりに、向こうが実力行使に出てきた時の抑止力として手伝ってもらえると非常にありがたいのだが、どうだろう? 私にできることならば、できる限りのお礼をさせてもらうぞ」
「………わかった。俺はかまわない」
 うなずくと、コミケの精は眼鏡の奥で目をぱちぱちと瞬かせた。
「え、いいのかい? いや私は頼むからうなずいてほしいなぁ、という想いをこめて頼みを持ちかけたわけだけど、この状況で君だけうなずく、というのは男の子としてどうなんだろう? 君、もしかして他人に滅私奉公するのに人生を費やしちゃうタイプかね?」
「………そういうわけじゃない。俺は単に、自分の誓いに従って行動してるだけだ」
「うーん、それってだいぶ他人にいいように使われかねない生き方だと思うんだが。個人的には、若人にはあくまで自分のために人生を謳歌してもらいたいと思うんだがなぁ。まぁ、そういう風に一度決めたことにこだわっちゃうのも若いからこそ、って気はするけども」
「あんたは俺に手伝ってもらいたいのか、もらいたくないのか、どっちだ」
「手伝ってもらいたい。申し訳ないが、お願いできるかな?」
「わかった」
 うなずいて、段取りを話し合おうと進み出る――が、コミケの精はすいと視線を園亞に向け、声をかけた。
「それじゃあお嬢さん、園亞ちゃんだったか? は、どうかな? 手伝ってくれるかね?」
「―――おい!!」
 閃は思わず怒鳴りつけたが、コミケの精はあくまで涼しい顔だ。口元に笑みを浮かべたまま、ぽかんと自分を見つめている、まだ瞳が濡れたままの園亞に得々と言ってのける。
「もちろん無理強いはしないけど、万が一荒事になった時に頼りになるなら大歓迎だぞ。もちろんきちんとお礼をするし。心配しないでくれ、こういう時のために想いを貯めこんでるんで、ちょっとした奇跡くらいなら起こせる力はあるんだ」
「えっ……奇跡………ですか?」
「うん奇跡。まぁ私っていう妖怪が『コミケを護ってくれる不思議な力』っていうものに対する想いというか祈りというかから生まれたものだから、基本妖力があいまいというか、あんまりはっきりした形にならない方が多いんだ。だからその分、困っている人や悩んでいる人に、ベストマッチの奇跡を送ることくらいならできるぞ。まぁ、もともと私大妖怪ってわけじゃないし、起こせる奇跡もそれ相応ではあるんだが」
「……………」
 園亞は考え込むように一度うつむいてから、うんとうなずいて顔を上げ、答えた。
「私も、お手伝いします」
「うん、ありがとう。……じゃあ、移動しようか。この異空間は、どのくらいもつのかな?」
「え、ええと、どのくらいだったっけ………?」
「……十五分」
「そのくらいか。じゃあしかたないな、術をかけた妖怪さんにお願いして、一度術を解いてもらって、目立たないように人ごみの中を通り抜けて相手を見つけて話をして―――」
「下手な挑発はしなくてけっこう。無意味で無駄だわ」
「っ!」
 ひょいとどこからともなく、園亞のそばの机に飛び乗って尻尾を揺らすツリンに、園亞が少し驚いたような声を上げる。
「あ、ツリン。来てたんだ?」
「近くにいなければ、いつどんなタイミングで術を解除するべきかもわからないでしょう? 心配しなくても基本的には口出しはしないつもりだったわよ。よそから嘴を挟む奴がいなければ」
「いやぁ申し訳ないな、でも私としても必死なんだ、私の存在意義がなくなるかどうかの瀬戸際だし。だからその分、できる限りこの子たちにも、あなたにもお礼はするつもりだぞ?」
「私にはけっこう、あなたのような子供にお礼をねだるほど落ちぶれていないの。その分は園亞にあげてちょうだい。……あなたという妖怪の能力のほどが見えた以上、主に仕える者としてはこう言わざるをえないわね」
「? ツリン、それってどーいう意味?」
「この妖怪は信用しても大丈夫だろう、って意味よ。……さ、行きましょう。こっちよ。その妖怪とやら、どうやら向こう側の館内で騒ぎを起こす気みたいだから」
「え、ツリン、なんでわかるの?」
「私を誰だと思っているの? その程度の探知系の術の心得もなしに、賢者だなんて顔をしていられるわけがないでしょう。会場内の妖怪の存在はあらかた調べたけど、騒ぎを起こすつもりがあるのはその妖怪だけのようだしね」
「へー、そんなにたくさん妖怪さんがいるんだ。やっぱり有名なイベントなんだね、こみけって」
「まぁ、規模が大きければ訪れる人も増えて、その中に妖怪が入り混じる確率も増えるのはごく当然の話でしょうしね。人間を一万人適当に集めればだいたいその中に一体は妖怪がいるのですもの。この会場にも一日で軽く十体以上は妖怪がいる計算になるでしょう。たいていは人間の娯楽に馴染み深い、人間に近しい妖怪が来ているのでしょうから、基本的にはそうそう問題は起きないのでしょうけどね」
「まぁ、毎年五十体以上の妖怪が来ていれば、その中に一人二人は問題児が混じるのもよくあること、というやつだ。基本的には、人間に馴染み深い妖怪というのは、人間でいうなら善人に近い、まっとうな価値観とおおむね誠実な人格を兼ね備えた存在が多いんだがね。若い妖怪は人間と一緒で、激情を抑えるのが苦手な子が多い」
「あなたも妖怪の中では充分以上に『若い子』の部類でしょうに」
「ま、私は明確なモデル人格があったからな。……そろそろ妖術が解けるかね?」
「ええ。ちょうどいいタイミングね」
 自分たち以外誰もいないやたら広い通路(さっきここいっぱいに人が詰まっているところを見たばかりではあるのだが)を通り抜け、ホールとホールの間の通路(これまた広い。さっきここも人で満ちていたが)を抜けて、話ながら大きな柱の裏側の、狭苦しいスペースに入りこむ。ここならば確かに人はいないだろうな、と納得したのだが、人払いの術が解かれて喧騒が戻ってくるや閃の視界に入ったのは、その狭苦しいスペースにまでみちみちに人が詰まっている(出っ張った部分を椅子の代わりにして休憩しているらしい)光景だった。
 ぎょっとするより早く、ツリンの瞳がぎらりときらめいた、かと思うや閃たちの周囲をぐるりと白い壁が取り囲む。おそらく、術が解ける瞬間を誰にも見られないように幻覚を張ったのだろう。閃も周囲の状況を見れたのは一瞬のことだ、周囲の人間は誰も彼もうつむいて本を読んでいる人ばかりだったし、おそらく誰にも見られていない。
 さすがの早業というやつだな、と少しばかり感心した顔をツリンに向けたのだが、ツリンは猫の姿であからさまに鬱陶しげな顔をこちらに向け、またぎらりと瞳をきらめかせたかと思うと、声に出すことなく心の声で告げてきた。
『心の中だけで応えなさい。それじゃ私は、姿を消させてもらうから』
『……やっぱり自分が前面に立つつもりはないってことか』
『立つ理由も、必要性も、意味も意義もないでしょう? この幼い妖怪の依頼を請けたのはあなたたちであって、私はあくまで善意で少しばかり主に手を貸しただけですからね。人払いの妖術を使ってあげるだけでも、充分以上というものではなくて?』
『そうだな、そう思う』
『………あなたにそんな風に素直になられても、私としてはなにも嬉しくはないのだけどね。まぁいいわ、口出しする気はないし。せいぜいあなたはあなたの誓いを護りなさいな、正義のヒーローさん。それがあなたに残された最後の意志なのでしょう?』
「―――――」
 今の自分にはまるで意志が残っていない、と言わんばかりの言葉を残して、ツリンは瞬時に姿を消した。と同時に再び閃たちの周りから喧騒が遠ざかり、異空間に入ったのだ、と悟らされる。
「さて………準備はいいかね? あちらさんもきちんと異空間に招待されているようだ、あまり時間はかけたくない」
「ちょっと待ってくれ。武器を準備する。ここで三十秒間待っててくれ」
 言うや閃は走ってホールの中に入り、いつものように尻を露出して煌を現出させる。炎の巨人の姿で現れた煌は、仏頂面でぽいぽい、と持っていた刀を閃に投げつけてきた。
「刀を投げるなよ! ……それに、こっちの刀は使わないって言っただろ」
「知るかよ。いっくら使わなかろうが、持っててもそこまで邪魔になるもんじゃねぇだろうが、てめぇで持ってろ。俺がこんなもん持ってたら両手が使えなくなるだろうが」
「………わかったよ」
 渋々答えて、剣鬼の刀を背中にたすきで縛りつける。このコミケという即売会では、長物は断固として持ち込み禁止だということで、煌に持ってもらっていたのだが、どうやら思いのほかストレスを溜めさせてしまったらしい。
 急ぎ足で園亞たちのところに戻り、「待たせた」とだけ告げて、コミケの精のあとに続いて、出てきたのとは反対側のホールに入る。こちらもさっきのホールと同程度の広さがあるのだとしたら、人が誰もいなくなってすら、目的の妖怪を探すのは一苦労なのではないかと思っていたのだが、幸いというべきか、ホール内を見渡してすぐに、自分たちが入った入り口からさして離れていない通路に、一見人間に見える男が一人立っているのが見えた。
 コミケの精のあとについて、警戒しながら近づく。向こうもこちらに気づいているようで、心底憤懣やるかたない、という顔をしてこちらを睨みつけてきた。
 コミケの精は、二mほどの距離をおいてその妖怪と対峙し、困ったような声で告げる。
「前回も言っただろう? コミケという場を壊そうとする者には、コミケに参加してもらうわけにはいかないんだ」
「ふざけるな。場を壊すだと? それならなんでお前は、あんな代物を容認しているんだ!」
 その男は、スポーツマンというか、典型的な高校球児、と言いたくなるような容姿の持ち主だった。いがぐり頭に無地のシャツとデニム生地のズボン、という飾り気のない恰好。肩幅も広く、身体の厚みも相当なものがあって、外見年齢自体は大学生、ことによると社会人になって少し経った頃、ぐらいにはいっているのかもしれないが、その服装や身だしなみへの無頓着さが、年若い、スポーツ以外に興味のないスポーツマンという雰囲気を醸し出している。
「君がショックを受けた気持ちがわからないわけではない。自分の思いのままに、自由に創作できるということは、自分の欲望をほとばしらせることと同義ともいえる。他人が見てぎょっとするような作品を創る人も多いだろう………だが、それでも、コミケというものは、〝場〟であるべきなんだ。この理念は創立当初から変わっていない。世界中の人がどれほど嫌悪するような作品であろうとも、その創作意欲とそれを形にした作品を受け容れる。それがコミケの魂だ。あれは駄目だこれは駄目だと口出ししては、創作の裾野がしぼんでしまう。まぁもちろん、法律の範囲内での話ではあるが」
「だからって、あんな代物を許していいのか!? 原作を捻じ曲げるどころじゃない、その魂すらも穢している! 原作の登場人物たちの心情にも、純粋な魂の通い合いにも触れることなく、薄汚い欲望をぶつけただけの代物じゃないか! あんなもの……あんな本、俺は絶対に認めない! 存在だって許すべきじゃない! あんなものがこれ以上この世にあっては、原作に向けられた〝想い〟が………原作で描かれたスポーツに対する〝想い〟すらもが歪んでしまう!」
「ううむ、君の言いたいこともわかるがな。暴力によってその意思を押し通そうというのは、テロリズム以外の何物でもないぞ? 君の愛するスポーツや、スポーツに対する〝想い〟、原作への〝想い〟が、訳知り顔の連中に好き放題玩具にされることになるだろう。同じようにスポーツや原作を愛する人々すらもが、一時後ろ指をさされることにもなりかねない。暴力で意志を押し通すのは、少なくとも現代社会では、それもやむなしと考えられかねないほどに罪の重い犯罪なんだ。君は、君や君の同志たちが、そんな扱いを受けてもかまわないというのかね?」
「脅す気か、貴様……つくづく下劣な卑劣漢め……」
「いや脅すとかじゃなく、そういうことにならないように、落ち着いて話をしよう、という話でな………」
「くどい! これ以上の会話は必要ない! 前回のようにお前に言いくるめられるのはもうたくさんだ! 俺は今度こそ、なんとしても、為すべき正義を遂行させてもらう!」
「……閃く……煌、さん。あの、なんであの人、あんなに怒ってるの? 私ぜんぜんわかんないんだけど………」
「俺が知るかよ。けど、別にかまわねぇだろ、なんでも。あのクソ猫の妖術だっていつまでも持つ代物じゃねぇんだ。とっとと殴り合いに持ちこんだ方が話が早いぜ」
 素直にうなずくのもどうかとは思うが、正直同感だった。
 ―――懸命に覚悟を決めて、決死の想いで始めた話に水を差されて、閃としては滾るものを抑えかねていたのだ。コミケの精から頼まれたのは、あくまで荒事になる際の抑止力であり、妖怪を滅する実働戦力ではないし、相手も話を聞く限りではそこまで悪い妖怪ではなさそうだが―――今にも暴れ出しそうなこの妖怪を、刀で殴り倒すぐらいのことは許されてもいいはず。
 進み出て刀を構える閃に、ようやく気づいたらしいスポーツマン妖怪は、ぎっとこちらを睨みつけて低く声を漏らす。
「邪魔をする気か。刀の妖怪だかなんだか知らないが、痛い目を見たくなければすっこんでいろ」
 妖怪だと思われていることに眉を寄せつつも、閃はぎろりと睨み返して言い返す。こんな奴が現れてこなければ、少なくとも園亞と話をつけることは可能だっただろうに。
「それはこっちの台詞だ。どんな事情があれ、楽しんでいる人がいる催し事を、自分が気に入らないからって理由で台無しにしていいなんて考えてる浅はかな奴が、偉そうな口を叩くな」
「っ! 貴様っ………!」
 スポーツマン妖怪はこちらを睨み据えながら、背中からするりとバットを抜く。バットを使っての殴り合いが本領なのか、と閃はちらりと意外に思った。妖怪でそんな風に自分の体以外の道具を使って戦う奴は、それほど多くないはずだが、よほどバットが身に馴染んでいるのか、それとも別の理由か。
 なんにせよ、少なくとも、閃にとってはくみしやすい相手に違いない。たとえ武器を振るう腕力やら、刀を体で受けた時の防御力やらが常識外れであろうと、剣術の範疇の動きだけで相手ができるなら、閃はそんじょそこらの妖怪には負けない自信がある。
 ともあれ、実戦に際してよそ事を考えているなどそれこそ命取りだ。じり、じり、と間合いを詰めていく閃に対して、スポーツマン妖怪は遠慮会釈なしに突撃してきた。
「おおおぉっ!!」
 全力で振り回すスポーツマン妖怪の金属バットを巧みに捌きつつ、的確に反撃していく。この妖怪のバットを振り回す腕は、悪くはないが格段に優れているというわけでもない。閃がフェイントを交えつつ反撃していけば、あっさり痛打を与えられる程度だ。
 というか、この妖怪、普通の妖怪より相当に防御力が低い。まだ年若い妖怪なのかもしれない。別に目を狙っているわけでもなく、やっているのは刀の背で殴りつける峰打ちもどきなのに、殴られた箇所にあっさりあざができていく。この分では、やろうと思えば、脳に刀を突き刺して、一瞬で殺すなどという真似も、できなくはなさそうだ。
 だが当然ながらそんなことをする気はないし、してもしょうがない。自分は曲がりなりにも、話し合いの抑止力として連れてこられた人間だ。それにこの妖怪の技が拙い、防御力が低いというのならば、それは手加減がしやすいということ。こっちを殺そうとしてくる相手を動けなくなるまで手加減して殴りつけ続けるのは、本来なら相当な難事だが、この妖怪相手ならそこまで難しいことではないだろう。
「ぐっ、ぬっ! うおぉぉぉっ!!」
 しかし、この妖怪、なかなか力が強い。人間と同じ大きさの妖怪が有することができる、基本的な腕力体力の限界というものが妖怪にはあるのだが(それを脱した妖力を有している妖怪もいないではない)、その限界値には達しているだろう。その力で金属バットを振り回されれば、当然ながら人間の頭など一瞬のうちにはじけ飛ぶだろうし、振り回している金属バットの方にも相当な負担がかかるはずだ。
 そして、それを受けさばいている刀にも、当然ながら重い負担がかかる。
「っ………」
 怒濤の攻撃をさばきながら、相手の態勢を崩して一撃を入れる。その手順によどみはない。おそらく、この妖怪が動けなくなるまで的確に続けることはできるだろう(閃の体力は相当に消耗することだろうが)。
 だが、刀への負担が思ったよりだいぶ厳しくなってきている。もともと前回の剣鬼との戦いで、相当負担をかけてしまった刀なのだ。ずっと入院していたことと、退院後渉との遊びに付き合わされてしまったことで、替え時を逃してしまった形になっている。
 それでも、普通の妖怪との戦いならば、そこまで刀に負担がかかりはしなかっただろう。閃は刀の負担を逃すやり方に長けていると自負しているし、そもそも普通の妖怪との戦いならば、目に刀を突き入れて脳を穿つのが基本になるし、相手も積極的に肉弾戦をしかけてくる連中ばかりというわけではない。
 だが、今回の戦いは。相当な剛力の相手との武器戦闘、相手の武器は金属バット、その上相手を一瞬でも早く殺すという戦いではなく、手加減して相手を叩きのめすための殴り合いとなれば、刀に負担がかかるのも当然だ。ここまでの長期戦を、刀にとって不自然な峰打ちもどきという形で、妖怪にしては防御力が低かろうとも鎧並みの固さを有する皮膚の上から殴りつけるように振るう、という経験など、閃のこれまでの人生では一度もない。
 的確に、優勢に戦いを進めながらも、じりじりと火であぶられるように焦りを累積させ続けることしばし。しだいに足元をふらつかせるようになりながらも、まるで退く様子を見せぬまま、「うおぉぉっ!」と渾身の力を込めて振るわれたスポーツマン妖怪の金属バットを受けた刀は、ついに、ぽっきりと折れた。
「…………っ!」
 悔しさと申し訳なさに唇を噛む。刀を振るう者として、獲物を壊すなど、言語道断と言うほかない。たとえ三流の剣道教師であろうとも、そんなことをしでかした生徒には懲罰を与えるだろう。まさに一生の不覚というべき大失態だ。
 だが、それでも、自分は戦う者。どれだけの不覚を取ろうとも、命ある限り戦うのが仕事だ。どれだけの恥をかこうとも、それを戦いの中で取り返し、為すべきことをしなくてはならない。
 だから、逡巡は、たぶん一瞬にも満たなかった。
 手にした刀を落とし、背中に負った剣鬼から渡された刀を一瞬にも満たない時間で引き抜く。そしてそのままの動きで即座に斬りかかる、というように見せて敵の体勢を崩し、生まれた隙に刀を叩きこむ。相手はそれを受け損ね、ぐはっ、と息を吐いてよりふらつきを大きくした。
 ―――だが、そんな数瞬の間にも、閃は強烈な違和感を覚えていた。
 なんだこれは。おかしい。不利じゃない方におかしい。閃の振るう刀が、普段より明らかに冴えている。
 のみならず、相手に打ちつけた刀の威力も異常だ。普段より明らかに、いくぶんか増している。
 刀としてどれだけ鋭利か、などという問題ではない。今自分がやっているのは刀の峰で殴りつけるという、刀本来の性能を無視した無理な動きなのに、自分の技は普段より明らかに冴え、相手に与える打撃も尋常のものよりはるかに増しているのだ。
 それは、どんな状況でも確実な勝利をもたらすような劇的な変化ではなかっただろうが、基本的には自分の刀の腕しか頼るもののない、閃の戦いには大きな助けになるのも確かだった。鋭さを増した剣閃で、重みを増した威力で、幾度も幾度もスポーツマン妖怪を叩きのめし―――
 いよいよ足元が危うくなってきたところに、脳天にぼこりと一撃を入れたところで、スポーツマン妖怪は気を失い倒れた。油断なく残心する閃の前で、コミケの精はぷぅんとそのスポーツマン妖怪に近寄り、様子をうかがってから息をつく。
「とりあえず、暴力に訴えはしたものの、騒ぎを起こさずになんとかできた、か。この子が問題を起こす子の中では大人しかったのも運がよかったな。これなら、専門家の教育を受ければ、なんとか問題ないレベルに持っていけるだろう。専門家には一応もう連絡してある、もうすぐ会場に着くだろう。この子が気絶してる間に、この子を引き取ってもらえるはずだ」
「……………」
「さて………それでは、君たちにお礼をしたいところなのだが」
 こちらに向き直ったコミケの精は、いくぶん怪訝そうな顔をして閃を見やる。
「なにやら、いささか気にかかることがあるらしいね? お礼の前に、先にそちらの問題を片付けないか? 集中できない状態でお礼をしても、あまり集中できないかもしれないからな。それじゃあお礼をする甲斐もない」
「気にかかる、というか。……あんたが聞いても、どうしようもないことだと思うぞ。別に刀に詳しいわけでもないんだろう?」
「ふぅん? その刀に、なにか妙なことでも?」
「ああ。この刀を振るう時、妙なことがあった。明らかに、普段より技が冴えてるんだ。それだけじゃなく、刀を振るった時の威力も普段より上がっていた。刀の峰で殴りつけるっていう、刀として明らかにおかしな動きをしてるのに、だ。正直、こんな刀、今まで触ったことがない」
「……ふぅん? なにかいわれのある刀なのかな」
「いわれ、というか。この前倒した、剣鬼―――妖具としての刀を打つことを生業としていた鍛冶師の鬼が使っていた刀なんだ、これは。だから、なにか特別な力があってもおかしくはないとは思うが、妖具ってわけじゃないみたいだし………」
「それなら、まぁ。答えはひとつなんじゃないのか?」
「えっ……わかるのか!?」
「いやわかるっていうか、単に想像しただけなんだが。その刀、マジックアイテムなんじゃないのか」
「………は? まじ………?」
「マジックアイテム。魔法の道具。使用者の技術と、相手に与えるダメージを引き上げる魔法がかかってるんじゃないのか? まぁ実際のところは専門家に見てもらわないとわからないけども」
「………魔法っ!?」
 仰天して目を見開く閃に、コミケの精は苦笑して首を傾げる。
「いや、そんなに驚くことなのかね? 魔法がこの世に存在するっていうのは間違いない事実なんだろう? それなら別に魔法の武器があっても、全然おかしくない話なんじゃないのかな?」
「い、いや、だけど………」
 いくらなんでも、そんなおとぎ話みたいな話が。いや、そもそも妖怪という存在がおとぎ話同然の代物であるとはわかっているのだが。だがあまりに都合がよすぎるだろう。いや、妖怪という特異点、時にあまりに都合のいい偶然や悪運を引き寄せる存在と関わっていれば、驚くほどのことではないのかもしれないが。いやしかしそれでも、だけど、だからといって。
 煩悶する閃をよそに、コミケの精は園亞に、軽い調子で声をかける。
「というかだね、魔法についてなら、お嬢さんが専門なんじゃないのか? お嬢さんがその刀を見てくれれば、なにかわかるんじゃないのかな?」
「っ………!」
「えっ……! あっ、えっと、そのっ………」
 園亞はびくんと震え、わたわたと慌てたのち、決死の面持ちで、勢いよく閃に頭を下げてきた。
「ごっ、ごめんね、閃くんっ! 私っ、魔法の道具のこととか、そういうの、全然知らないの! ツリンにも、全然習ったことなくって……教えてもらってるのは、魔法の使い方ばっかりで……どんな魔法がかかってるかとか、そもそも本当に魔法がかかってるのかどうかとか、そういうのを調べる魔法っていうのも、習ってなくって………」
「………いや………」
「で、でもねっ! すぐにツリンに教えてもらうから! そういうの調べる魔法があるっていうのは、ツリンに教わってるから! だから、そのっ……」
 一度ためらうように言葉を切ってから、目を閉じて奥歯を噛みしめ、決死の表情で頭を下げる。
「も、もうちょっとだけ、うちにいてっ、くれない、かなっ! お、お願い、だからっ! わ、私のこういうお願いとか、閃くんには、ほんとに、迷惑なんだっていうのは、わかった、けど、でもっ………」
 震える声で。今にも泣きそうな声で。涙に濡れているとすら感じてしまえそうな、園亞らしからぬか細い声で。
「このまま………こんなに簡単に、お別れになっちゃうのって。あんまり……あんまり、さみしいって、思うんだ………」
「っ……………!」
 ぐっと、思いきり奥歯を噛みしめる。血が吹き出そうな勢いで掌に爪を立て、全力で握りしめる。そうしなければ激情に耐えきれず、暴れ出してしまいそうだった。
 園亞にこんな顔はさせたくなかった。こんな泣きそうな声は出させたくなかった。そんな園亞に似合わない表情を、断じて浮かべさせたくはなかった。だからこそ、自分はこれまで、園亞と向き合うのを先延ばしにしてきた。
 でも、どうしようもないじゃないか。自分は誓った。生涯を悪の妖怪の討滅に捧げると、自分の人生はそのために消費すると誓ったのだ。それは本当の本気で、心の底から、魂の底からの誓いだった。それをなかったことにすることは、あの絶望と憤怒を忘れることは、断じてできない。
 だから、結婚も、子供も、幸せな家庭も、自分には一生縁がないものだ。そう決めて、それでいいと心の底から思って、これまで生きてきたのに。いまさら、なにもかもを忘れて、都合よく女の子の求愛に応えるなんて、自分にはできない。
 だから、閃は首を振り、このまま別れることを告げ、園亞の前から立ち去った。園亞は泣きそうな顔で、今にも涙をこぼしそうな瞳で、「そっか」と告げて、さようなら、今までありがとうと頭を下げてくれた。
 それからも閃は、ひたすらに妖怪と戦い続けた。幾度も重傷を負ったが、そのたびに以前のように煌の妖術で癒してもらいながら。どうしようもないほど強い妖怪と相対した時には、やはり煌に手伝ってもらうことにはなったが。何年も、何年も。何十年も。
 長い年月を経て、閃が体の衰えを感じ始めた頃、煌に「もうお前が妖怪を倒すのは無理だ」と宣告された。弱い妖怪ならばなんとかなるだろうが、真の悪の妖怪、弱い妖怪を従えて巨悪を成すような妖怪を討滅することは、どう転んでもできないだろう、と。
 ついにその時が来たか、と、閃は案外さばさばした想いでその言葉を受け容れた。自分の人生は、最初の誓いのままに使われた。悪の妖怪を滅ぼしきることなど、まるでできはしなかったけれど、最初に誓ったように、自身の絶望と憤激のままに決めたように、『悪の妖怪をすべて倒す』という、達成しようのないお題目のために、自分の人生を無事消費しきることはできたのだと。
 無駄で無意味な人生だっただろう。だが、それでも、自分に悔いはない―――
 というのは、正直な気持ちだとはいえなかった。自分の中にも、確かに未練はあった。人生でただひとつの、ただ一人の、かつて隣にいてくれた少女に対する情が。
 愛と言っていいのかはわからない。恋と断言できる自信なんてかけらもない。けれど、間違いなく他の人間とは違う、特別な感情ではあった。自分の無駄で無意味な人生に、唯一存在したかもしれない意味だったと思う。
 悩み、考えた末に、閃は煌に少し待ってもらい、かつて自分が暮らした街、暮らした屋敷に向かった。いまさらなにを、と自分でも思うが、もうすぐ自分は死ぬのだ。魂が迷わないように、未練をすべて断ち切っておくのは人としての義務だろうと思ったし―――それに、死ぬ前に最後に、こんな無意味な人生を送った自分ですらも、生きる意味を感じることができたほどの、あの少女の明るい笑顔を再び見てみたい、というのも正直な気持ちだったのだ。
 そして、閃は四物の本屋敷へと向かい―――そして愕然とした。そこに屋敷なんてものは、跡形もなかった。とっくのとうに取り壊され、別の小さな家が何軒も立てられていたのだ。
 閃は必死に調べた。四物コンツェルンはどうなったのか。あの少女は、今いったいどこにいるのか。
 そしてわかったのは、コンツェルンの総帥夫妻はとうに亡くなり、残された少女はコンツェルンに有する権利を、相応の値段で売却したこと。そして、その天文学的な金額をすべて寄付し、自分はボランティア活動に従事するようになったということだった。
 ボランティア活動といっても、専門的な知識もない、後ろ盾もない、使えるような金銭もない彼女にできるのは、組織の中で使い走りとして、家賃や食費にすら事欠くような給与しかもらえない類の仕事に従事することだけだったという。
 それでも彼女は常に朗らかで、明るい笑顔を振りまき、どんな人にも優しく接し、蔑まれても鬱陶しがられても態度を変えなかったそうだ。まともな報酬も得られない、誰もが嫌がるような仕事しか与えられなくても。どんどん生活が困窮し、病を得て倒れることになっても。まるで変わらず、明るい笑顔を保ち続けたと。
 なぜそこまでするのかと、同僚が訊ねたことがあったそうだ。いかに福祉の仕事といえど、自分の身を省みず滅私奉公していいわけがない。病の時にまで明るい笑顔を振りまいて、いったいあなたはなにを得ようというのかと。
 彼女はやはり明るく笑って、「私はいいことをするの」と答えたのだそうだ。
「私は昔、正義のヒーローを好きになったことがあってね。でも、その人は、自分は正義を為さなくちゃいけないから、結婚とかは考えられない、って私を振ったの。私は正義のヒロインになってついていく、って言ったのにね。だから、私、決めたのよ。今度その人と会えた時に、あの人が私のことを連れていきたい、って思ってくれるように、最後の最後までいいことをし続けようって」
 馬鹿な話だ。そんなのは、一人の男のために人生を棒に振ったというだけの話ではないか。たかだか一時期一緒にいただけの相手に対して、そこまでの労力を払って、その男が振り向いてくれる保証もない。そもそも、その男に人生を懸けて振り向かせるほどの価値があるというのか。一人の人生を費やすほどの価値がある男なんて、世界のどこにもいるはずがない。そう告げた同僚に、彼女はやはり笑って答えたという。
「そりゃ、あんまり賢いやり方じゃないのはわかってるけど………あの時感じた気持ちに、嘘はつきたくないもの。その気持ちだけで、これまでの人生、ずっと走り通してきたんだもの。それでもあの人が振り向いてはくれないだろうっていうのはわかってるし、私の人生は、無駄で無意味なものになるのかもしれないけど………あの時の気持ちのために自分の人生を費やすことができたんなら、私は少なくとも、やりきったんだって気持ちで死んでいけるわ。あの時の気持ちを、誓いを、裏切ることだけはなかったんだって」
 愚かな女だ。本当に腹の立つ、鬱陶しい女だ。あの女は本当に、会う人会う人誰も彼もに、心底嫌われていた。周り中から嫌われながら、自分一人だけは満足そうな顔をして、無一文で死んでいった。そう忌々しげに告げて、その同僚は閃の前から立ち去った。
「………あ………」
 そんな、ことが。
「あ、あ、あ………」
 あって、いいのか。
「ああ、あああ、あああああ………」
 あの子が。あんなに明るい笑顔を振りまいて、時には鬱陶しがられながらも、家族からも、友達からも、愛されていたあの子が。無一文で、孤独のまま、周りから嫌われながら、死んでいった? なんで、そんなことが。そんなことがあっていいわけがない。
 それが、すべて、子供の頃に出会った、正義のヒーローへの想いからくるものだった、と? ふざけるな、そんな馬鹿な話があるものか。そいつはあの子が人生を費やすような価値なんてまるで持ってない、どうしようもなくつまらない男だ。幼い頃の思いこみを後生大事に抱え込んで、人生を無駄に、無意味に費やした、どうしようもない、愚か者の―――
『あの時感じた気持ちに嘘はつきたくない』―――『最初に誓ったように、自身の絶望と憤激のままに決めたように』。
『その気持ちだけで、これまでの人生、ずっと走り通してきた』―――『自分の人生は、最初の誓いのままに使われた』。
『私の人生は、無駄で無意味』―――『無駄で無意味な人生だった』。
『やりきったんだって気持ちで死んでいける』―――『達成しようのないお題目のために、自分の人生を無事消費しきることはできた』。
『あの時の気持ちを、誓いを、裏切ることだけはなかった』―――『それでも、自分に悔いはない―――』
「ああああ、ああああ………ああああああ…………!」
 自分は、なんて。なんて、ことを――――!!!
「………そんな絶望が、お前の最後の肉の味か」
 低い声が、自分の影の中から聞こえた気がした。
「それなりに長ぇことつきあってきたわりに……つまらねぇ味になったなぁ」
 そう思った次の瞬間には、燃え盛る顎が閃の頭にかぶりつき、ぐしゃり、と音を立てて嚙み潰す。
 そうやってごくあっさりと、閃は死んだ。紙細工が破れるように簡単に、なにも成し遂げることなく。ただ、一人の少女を不幸にしたという絶望だけを、魂に刻まれて。

「っ………!!!」
 そう思った瞬間、閃が立っていたのは、相変わらず人っ子一人いない、国際展示場のホールの中だった。
 数瞬呆然としてから、ようやく気づく。さっきまで自分がかけられていたのは、白日夢の妖術だ。かけられた者は文字通り白日夢を見ている状態に陥り、一瞬で何十年もの人生を経験することさえあるという。だから、さっきまでの、自分の人生も、死も、絶望も、ただの幻でしかなかった、ということになる。
「……………」
 それでも、閃はばくばくと、死ぬ気の戦いを終えた直後のように早鐘を打っている心臓を、そっと押さえた。確かにあれは夢なのだろう。今となっては、人生の中でなにが起き、どんな経験をしたのか、もうはっきりとは思い出せなくなっている。
 だが、それでも、感じた想いだけはたとえようもないほどリアルだった。もう妖怪を倒せなくなったと言われた時の、諦観と独りよがりな満足も。園亞の人生を知った時の、絶望と悲嘆も。自分のせいで園亞の人生は不幸な形で終わってしまったのだと知った時の、自分を消滅させたくなるような、自分などこの世に生まれてこなければよかったのだと叫びたくなるほどの自己嫌悪も。―――自分の人生とその終わりを、客観的に見つめた時に、それがどれだけ無様か、どれだけ醜悪か、どれだけ自分のことを案じてくれる相手を悲しませ、絶望させるかという自覚も。
 震える手で口元を覆いつつ、ゆっくりと周囲を見回す。真っ先に目に入ってきたのは、虫のような羽根を生やした、人形程度の大きさの、二十二世紀猫型ロボットのフォルムを有した中年男性―――コミケの精だった。
「………、さっきの、夢を、見せたのは、あんたなのか」
 できるだけ声が震えないように、懸命に腹に力を入れたものの、果たせたかどうかは自信がない。コミケの精は、にこにこと笑顔を振りまきながら、あっさりと首を振ってみせた。
「私がどういう夢を見せるか、選んでいるわけではない。私が見せられるのは、術をかけた対象が思い悩んでいることに対する、ひとつの可能性だ」
「可能性……?」
「うん。ある意味、背中を押してあげる夢を見せるとでもいうのかな。術をかけた相手が、思い悩む未来について、この先起こりうる可能性のひとつを、私の夢は見せる。ただ、いくつかの条件はあってな。まず、夢に登場する存在は、キャラクター設定をいじることはできない。当人の性格とか、言動とか、譲れないものとか趣味嗜好とか、過去とか夢とか誓いとか。そういうものは当人のものから変えることはできないんだ。まぁ、だからこそ起こりうる可能性のひとつを見せることができる、ともいえるな」
「…………」
「次に、状況、シチュエーションについて。これはちょっと特殊な限定というか、術をかけた時点での、人類社会で起こりうる可能性のある状況しか私の夢は見せられない。状況のステージを変えることは―――現代ものなのにいきなりファンタジー作品のシチュを持ちこむ、みたいなことはできないってわけだな。まぁ、この世界、妖怪は間違いなく存在するわけだし、妖怪がその力を存分に振るって現実を改変すれば、たいていのシチュは再現できるしで、あんまり強力な限定じゃないけど」
「…………」
「最後に、これもまぁけっこう特殊な限定だと思うんだけど、術をかけた相手にとって、ではなく状況を俯瞰した立場から眺めた場合に、話が面白く転がるような展開の夢しか私は見せることができない」
「………どういう意味だ」
「私はコミケの精だからな。まぁもちろん人と人との、〝想い〟の交流や、写真や人形等の芸術的創作物も範囲に含まれてはいるんだが、基本的には漫画や小説、創作作品にまつわるイベントの精だ。だから、使える力もコミケを守護するものを除けば、創作作品に関係するものが多くなる。私が見せる夢は、いくつもの創作作品で何度も描かれてきた白昼夢―――対象の人生を、『作品として』面白い方に転がすために背中を押す代物なんだ」
「………俺の人生は、誰かに、面白がられるためのものじゃないぞ」
「もちろんそれはわかってる。誰の人生だってそうさ。だけど、どんな人間の人生も、鑑賞し間を埋めて作品として面白がってしまう、というのも人間の持つ業のひとつというわけでな。そういう創作者としての、鑑賞者としての業とも深く関わる私の力が、そういう代物になってしまうのは妖怪としての性質上、どうしようもないとしか言いようがない」
「…………」
「それに、別に君がどんな夢を見たか見られるわけじゃないんだしな。少なくとも顔つきを見る限り、相当ひどい夢だったのは間違いなさそうだけども」
「……………」
「でも、これで一応のお返しはできたんじゃないかな?」
「………は?」
「言っただろう、最初に。手を貸してくれればちゃんとお礼はすると」
「あれが……お礼、だって?」
「うん。だって君、この子を捨てた先にある人生を見たんだろう? それがどんなものだったか私にはわからないが、相当ろくでもない、かつ骨身にしみる夢だったのは確かなようだ。それは、君の自己認識と、君の抱くこの子に対するイメージが正しければ、間違いなく起こりうる可能性のひとつだよ。もちろん、その可能性にたどり着くと決まったわけじゃない、同じ道を行くにしても、やり方次第でどうとでも未来は変わるけど―――少なくとも、自分の気持ちを押し通すことが、君の〝夢〟見た未来に続いているかもしれないと考えると。自分の正しさを確信することは、できなくなるだろう?」
「…………、…………」
「ま、もちろん、これで完全に借りた力のお返しになったと考えてるわけじゃない。私に力を貸してほしいことができたなら、いつでも連絡を取ってくれたまえ。もっとも、私はコミケ開催日以外は、コミケに関わることを除けば小妖怪程度の力しか持ってないんで、あんまり役に立つことはできないだろうけど」
 そう言って背を向けるコミケの精に、閃は一瞬逡巡するも、結局ぐっと奥歯を噛みしめてから、見えないのは承知で頭を下げる。
「ありがとう。礼を、言っておく」
「どういたしまして。思春期の少年少女のお役に立てるなら、望外の喜びというかなんという私得、ってなものさ」
 意味のよくわからないことを言って姿を消すコミケの精を見送ってから、閃は小さく深呼吸し、園亞の方へと向き直る。なにを言えばいいのか、わかっているわけじゃないが、少なくともなにも言わないわけにはいかない。
 が、とたん目に入った園亞の顔は、真っ赤だった。というか、ただでさえ赤く色づいていた園亞の顔が、閃と目が合った瞬間真っ赤に染まったのだ。さすがに驚いて目を瞬かせる閃に、園亞はわたわたと慌て、恥ずかしくてとても顔が見れないと絵に描いている顔で、全力で閃から視線を逸らして告げる。
「あっぁっあのっ! 閃くんっ! わっわっ私っ、あのっ! べっ別にっ、本気でそんなことばっかり考えてるわけじゃなくてっ!」
「………は?」
「あのねっ、そういうこと、全然考えなかったって言ったら嘘になるけどっ! ホントに、あそこまで、その、そういう感じのは、あんまり、考えたことなくてっ! だからっ、そのっ、へ、変な子だとか、えっ、エッチな子だとか、そこまではその、お願いだから考えないでほしいっていうか………!」
「え………エッチ?」
「…………っ! ごっごめんね閃くんっ! わっ、私、先に家帰ってるからっ!」
「あっ、いや、園亞―――」
「まっ、また明日っ! また明日話そっ!? あっ、明日になったら、私忘れっぽいからっ、だいたい忘れちゃってると思うからっ!」
「――――」
 数瞬その言葉を噛みしめ、閃はうなずいた。また明日。また明日会える。自分たちの間に、未来がある。その言葉は、確かに、閃の中に強烈な安堵を呼び起こしたのだ。
「わかった。明日な」
「うっうんっ、また明日っ! きょっ今日はっ、私先に寝てるからっ! じゃあねっ!」
 そう言って走り出し、無尽のホールから外に出ていく園亞を見送り、その姿が見えなくなってから、小さくため息をついて、折れた刀を拾った。散らばった破片も集めて、鞘の中に詰め、布で包んで縛る。魔法の刀ではないか? という疑惑の生じた剣鬼の刀と一緒に、煌に渡したあと、煌に背中を向けてズボンを下ろす。妖怪の姿のまま、にやにやと自分たちを見つめていた煌が、くっくと心底楽しげな笑い声を立ててからかってきた。
「わざわざ俺を引っ張り出しておきながら、あんな木っ端妖怪の相手をしろってのかと、正直ここで暴れ出してやろうかと思ってたんだがな。ここまでの見物を見せられちゃ、そういうわけにもいかねぇわな。どんな夢見たのかは知らねぇが、なかなかひでぇ顔してるじゃねぇか。園亞はずいぶんと違う夢見たみてぇだけどな」
「………煌、うるさい。とっとと入れ」
「ふん? 俺には言い返せるってか。ま、そんな顔になるほどなんだ、ろくでもねぇ終わりを迎えたのは間違いなさそうだからな」
「だから、煌、うるさい。早く入れ」
「へいへい。ま、これだけは言っとくぜ。とりあえず、明日の朝は園亞の家で迎えることになりそうじゃねぇか。お前はそれが、さほど嫌でもなさそう、っつぅより嬉しそうだよな?」
 ぎっと閃が功を睨みつける前に、煌はいつもの〝よりどころ〟に入りこむ。一瞬の体温を上げる熱に耐えたのち、閃はズボンを上げて、深々と息をついた。
 ―――本当に、自分は。ぐだぐだと悩むのに、向いてはいないというのに。

「おう、お帰り、閃! 四物は?」
「………先に帰るそうだ」
「ふーん」
 ごくあっさりと告げて、渉は視線を元通りに、通路の方へと戻す。由加里は席を外しているようだった。客も今のところ来ていない。まぁ、来たとしても、売る冊子がほとんど残っていない状態なので、あまり要求には応えられないだろうが。
 閃も、渉の隣の椅子に座って、同様に視線を目の前に通路に固定する。あれこれと心が動揺することがあったのは確かだが、というかまだその動揺から回復できてはいないのだが、それでも一度引き受けた仕事を果たさないというのは、閃の流儀に大きく反しているのだ。
 しばし二人とも黙って通路をじっと見ていたが、ふいに渉が口を開いた。
「あー、そうだ。閃、明日遊ぶっつってた約束だけどさぁ」
「………なんだ」
「あれ、なんだったら、キャンセルってことにしてもいーぜ」
「……どういう風の吹き回しだ。お前、昨日からあれこれと明日の予定を話してたと思うんだが」
「ん、まぁ、閃とサヨナラするってんなら、できるだけの思い出残しとかねーともったいなさすぎるしさぁ、少なくとも明日まではつきあってもらう気満々だったんだけど。少なくとも、あともうちょっとぐらいは、一緒にいれるかもって感じだし、そんならそれで、お前がそんな風に青春の悩みにどっぷり浸ってる時に、余計な茶々入れたくねーじゃん? 相談相手ならいくらでもなるけどさ」
「っ………」
「さっすが四物だなー。あんな覚悟決めた顔した閃、あっさり揺るがしちまうとかさ。その上、四物とまだ一緒にいれるってことに、ほっとしたみてーな気配もないでもないし? 昔から言われてっけど、妹の力っつーのはホント大したもんだっつーか……ま、ダチとしちゃあ、やっぱ女にはかなわねーのかってちっと面白くねー気もしねーでもないけど?」
 にやっと笑ってみせる渉の足を、机の下で軽く蹴り飛ばす。「いっち!」と大げさに呻く渉に、小さく、低く、通路を睨みつけたまま閃は返した。
「―――ほっとけ」
 その返事からなにを受け取ったのか、渉は珍しく、ほうっと安堵したような顔で息をつき、にやっと笑って、閃の隣でその笑みを崩さないまま、また通路へと視線を固定する。結局二人でそんな風に、由加里が戻ってくるまで黙って並んで店番をしていたのだが、閃としては実際それくらいしか反応のしようがないのも確かだった。
『ほっとしたみてーな気配もないでもないし?』
『さほど嫌でもなさそう、っつぅより嬉しそうだよな?』
 自分がわかりやすい人間なのは、昔からわかっていたことではあるが。本当に、なんというか、『ほっとけ』ぐらいしか返す言葉が思いつかない話なのだ。

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キャラクター・データ
草薙閃(くさなぎせん)
CP総計:260+120(未使用CP26)
体:15 敏:18 知:14 生:15(60+125+45+60=290CP)
基本移動力:8.25+1.75 基本致傷力:1D+1/2D+1 よけ/受け/止め:9/18/- 防護点:なし
特徴:カリスマ1LV(5CP)、我慢強い(10CP)、戦闘即応(15CP)、容貌/美しい(15CP)、意志の強さ2LV(8CP)、直情(-10CP)、誓い/悪い妖怪をすべて倒す(-15CP)、名誉重視/ヒーローの名誉(-15CP)、不幸(-10CP)、性格傾向/負けず嫌い(-2CP)、方向音痴(-3CP)、ワカリやすい(-5CP)
癖:普段は仏頂面だけど実は泣き虫で怖がり、実は友達がほしい、貸しも借りも必ず返す、口癖「俺は悪を倒すヒーロー(予定)なんだぞっ!」、実は暗いところが怖い(-5CP)
技能:刀26(56CP)、空手、柔道18(4CPずつ8CP)、準備/刀18(0.5CP)、ランニング14(2CP)、投げ、脱出16(1CPずつ2CP)、忍び17(1CP)、登攀16(0.5CP)、自転車、水泳17(0.5CPずつ1CP)、軽業18(4CP)、コンピュータ操作、学業14(1CPずつ2CP)、戦術13(2CP)、追跡、調査13(1CPずつ2CP)、探索、応急処置13(0.5CPずつ1CP)、生存/都市、英語、鍵開け、家事12(0.5CPずつ2CP)
妖力:百夜妖玉(特殊な背景25CP、命+意識回復+1ターン1点の再生+超タフネス+疲れ知らず(他人に影響+40%、自分には効果がない-40%、人間には無効-20%、肉体ないし体液を摂取させなければ効果がない-20%、オフにできない-10%、丸ごと食うことで永久にその力を自分のものにできる(命のみ丸ごと食べないと効果がない)±0%、合計-50%)88CP、フェロモン(性別問わず+100%、人間には無効-20%、オフにできない-30%、意思判定に失敗すると相手はこちらを食おうとしてくる-50%、合計±0%)25CP、敵/悪の妖怪すべて/たいてい(国家レベル/ほぼいつもと同等とみなす)-120CP。合計18CP)

旧き火神・真なる迦具土・煌(こう)
CP総計:3010(未使用CP3)
体:410(人間時50) 敏:24 知:20 生:20/410(追加体力、追加HPはパートナーと離れると無効-20%。250+275+175+175+156=1031)
基本移動力:11+2.125 基本致傷力:42D/44D(人間時5D+2/8D-1) よけ/受け/止め:13/18/- 防護点:20(パートナーと離れると無効-20%。64CP)
人間に対する態度:獲物(-15CP) 基本セット:通常(100CP)
特徴:パートナー(200CPの人間、45CP)、美声(10CP)、カリスマ3LV(15CP)、好色(-15CP)、気まぐれ(-5CP)、直情(-10CP)、トリックスター(-15CP)、好奇心1LV(-5CP)、誓い/パートナーを自分の全てをかけて守り通す(-5CP)、お祭り好き(-5CP)、放火魔(-5CP)、誓い/友人は見捨てない(-5CP)
癖:パートナーをからかう、なんのかんの言いつつパートナーの言うことは聞く、派手好き、喧嘩は基本的に大好きだが面倒くさい喧嘩は嫌い、パートナーから力をもらう際にセクハラする(-5CP)
技能:空手25(8CP)、ランニング17(0.5CP)、性的魅力30(0.5CP)、飛行22(0.5CP)、軽業、歌唱、手品、すり、投げ21(0.5CPずつ2.5CP)、外交20(1CP)、英語、中国語、仏語、アラビア語、露語、地域知識/日本・富士山近辺、探索、礼儀作法、調理19(0.5CPずつ5CP)、戦術20(4CP)、動植物知識19(2CP)、言いくるめ、調査、鍵開け、尋問、追跡、家事、読唇術、生存/森林、犯罪学18(0.5CPずつ4.5CP)、毒物、歴史、嘘発見、医師、催眠術、診断、鑑識17(0.5CPずつ4.5CP)、手術、呼吸法16(0.5CPずつ1CP)
外見の印象:畏怖すべき美(20CP) 変身:人間変身(瞬間+20%、パートナーと離れると無効-20%、合計±0%。15CP)
妖力:炎の体20LV(120CP)、無敵/熱(他人に影響+40%、140CP)、衣装(TPOに応じて変えられる、10CP)、超反射神経(パートナーと離れると無効-20%、48CP)、攻撃回数増加1LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。25CP)、加速(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、疲労5点-25%、合計-75%。25CP)、鉤爪3LV(非実体にも影響+20%、妖怪時のみ-30%、合計-10%。36CP)、飛行(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。20CP)、高速飛行5LV(瞬間停止可能+30%、妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-20%。80CP)、高速適応5LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。13CP)、無言の会話(妖力を持たない相手にも伝えられる+100%、人間にも伝えられる+100%、よりどころの中からでも使える+100%、パートナーのみ心の中で会話できる+25%、パートナーと離れると無効-20%、合計+305%。21CP)、闇視(パートナーと離れると無効-20%、20CP)、オーラ視覚3LV(35CP)、飲食不要(パートナーの精気が代替物、10CP)、睡眠不要(パートナーと離れると無効-20%、16CP)、巨大化34LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、疲労五点-25%、合計-75%。85CP)、無生物会話(30CP)、影潜み1LV(パートナーと離れると無効-20%、8CP)、清潔(パートナーから離れると無効-20%、4CP)、庇う(パートナーのみ-75%、5CP)
妖術:閃煌烈火50-24(エネルギー=熱属性、瞬間+20%、扇形3LV+30%、気絶攻撃+10%、目標選択+80%、妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると使用不能-20%、手加減無用-10%、合計+80%。540+8CP)、闇造り1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計+700%。16+2CP)、炎中和50-24(瞬間+20%、パートナーと離れると使用不能-20%、合計±0%。100+8CP)、炎変形20-24(瞬間+20%、パートナーと離れると使用不能-20%、合計±0%。60+8CP)、治癒20-20(病気治療できる+10%、毒浄化できる+40%、瞬間+20%、パートナーから離れると使用不能-20%、合計+50%。90+8CP)、閃光10-18(本人には無効+20%、瞬間+20%、パートナーから離れると使用不能-20%、合計+20%。48+2CP)、幻光1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計700%。8+2CP)、火消しの風1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計700%。16+2CP)、感情知覚10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。16+2CP)、思考探知10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。32+2CP)、記憶操作10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。40+2CP)
弱点:よりどころ/閃の尻の痣(別の価値観を持つ生き物、一週間に一回触れねばならない、その中に姿を隠せるが痣が隠されると出られない。-30CP)
人間の顔:容貌/人外の美形(35CP)

四物園亞(よもつそのあ)
CP総計:670(未使用CP0)
体:11 敏:13 知:10(呪文使用時のみ23) 生:12/62(10+30+200+20+25=265CP)
基本移動力:6.25+1.25 基本致傷力:1D-1/1D+1 よけ/受け/止め:6/-/- 防護点:5(バリア型-5%、-8で狙える胸元の痣の部分には防護点がない-10%、合計-15%。17CP)
人間に対する態度:善良(-30CP) 基本セット:機械に対して透明でない(80CP)
特徴:意志の強さ1LV(4CP)、カリスマ1LV(5CP)、後援者/両親の会社(全世界的な組織(全世界的超大企業四物コンツェルン)/まれ、15CP)、朴訥(-10CP)、正直(-5CP)、好奇心(-10CP)、そそっかしい(-15CP)、健忘症(-15CP)、誠実(-10CP)
癖:自分は普通だと思っている天然、口癖「え、えっとえっと、なんだっけ?」、口癖「私だってそのくらいできるんだから」、胃袋が異空間に繋がっているとしか思えないほど食う、超ドジっ子属性(-5CP)
技能:バスケットボール13(2CP)、学業10(1CP)、軽業11(1CP)、投げ10(0.5CP)、水泳12(0.5CP)、ランニング10(1CP)
呪文:間抜け、眩惑、誘眠、体力賦与、生命力賦与、体力回復、小治癒、盾、韋駄天、集団誘眠、念動、浮揚、瞬間回避、水探知、水浄化、水作成、水破壊、脱水、他者移動、霜、冷凍、凍傷、鉱物探知、方向探知、毒見、腐敗、殺菌、療治、解毒、覚醒、追跡、敵感知、感情感知、嘘発見、読心、生命感知、他者知覚、思考転送、画牢、恐怖、勇気、忠実、魅了、感情操作、忘却、偽記憶、光、持続光、闇、闇操作、ぼやけ、閃光、透明、赤外線視覚、鷹目、透明看破31(1CPずつ53CP)、大治癒、倍速、飛行、高速飛行、瞬間移動、瞬間解毒、接合、瞬間接合、再生、瞬間再生、精神探査、精神感応、不眠、完全忘却、奴隷30(1CPずつ12CP)
外見の印象:人間そっくり(20CP) 変身:なし
妖力:魔法の素質10LV(180CP)、追加疲労点30LV(90CP)
妖術:なし
弱点:行為衝動/悪い妖怪に襲われている人間がいたらその人間を全力で助けずにはいられない(-15CP)、腹ぺこ2LV(-15CP)、依存/マナ(一ヶ月ごと。-5CP)
人間の顔:普通の中学三年生、容貌/魅力的(5CP)、身元/正規の戸籍(15CP)、財産/貧乏(15CP)、我が家/古い屋敷(15CP)