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0. 人物紹介&あらすじ
▽主人公
◆小鳥遊 車(超人人間妖怪ドリルマン/暴走者/超大規模破壊妖術)

▽妖怪ネットワークヴァルハラ≠ゥらの登場人物
◆千住 南(天狐/ネットワーク後見人/超越者)
◆カエデ・グスタフ・クスノキ(戦乙女/ネットワークリーダー/超絶お嬢様)
◆田宮 龍之介 (天才剣士/一見昼行灯/超常剣術)
◆ライアス(ゴーレム/無敵の執事/絶対防御能力)
◆オリス・エラール(時計の付喪神/妖具的金時計/時間操作)
◆川村 一樹(ワタリガラス/化け烏交渉人/無限口車使い)
◆久喜 真意(袖引き小僧/ロリ系男の娘/心の袖≠操る)

▽ゲスト
◆旧き火神(火神/いずれ誰かと出会うはぐれ妖怪/大規模火炎操作)

▼ あらすじ
 かつて妖怪ネットワークヴァルハラ≠フ一員だった妖怪、小鳥遊車。彼は精神の崩壊に伴い、妖怪としての熱暴走死を迎えようとしていた。
 それを肯んずることのできないヴァルハラ≠フ妖怪たちは、彼の精神を昇華させるため、一人の火神に車と命懸けの戦いをしてくれるよう願う。彼の妖怪としての存在を解放し、精神を昇華するために。
 その火神は条件付でその願いを受けた。広大な異空間の中で炎とエネルギーの飛び交う戦場が幕を開ける――
 超人人間妖怪ドリルマン、小鳥遊車の最後の日を描いた小編。



 ――暗い裏路地。そこに一人の男が倒れている。
 汚泥と垢にまみれたその顔は、力なくうなだれ、生気というものがない。医術の心得のある者ならずとも、その男の死期が目に見える場所へ近づいてきていることは自然と知れただろう。
 その男はそのことを自身で熟知しているのだろう、ぐったりと顔を伏せまったく動く様子がなかった。ただ棒のように倒れ、息をするのも大儀だというように、ただひたすらに訪れを待っている。
 なにを、と問われれば、男は「変化を」と答えただろう。
 男はこの国でも有数というほど長い年月を生きてきた。生の喜びも、苦痛も、悲嘆も、快楽も、およそありとあらゆるものをすでに味わいつくしていた。
 お前はとうに生に飽いているだろう、と知人に言われたことがある。その時男はにやりと笑い、「まだ世界が焼き尽くされる光景を見ていない」と返したものだが。
 確かに、考えてみれば、男にとって、己の生でやり残したことと言えば、世界を焼き尽くすことぐらいしかなかったのだ。
 男にとって、生とは燃焼することだった。自身を、その周囲を燃やし尽くすことだった。
 つまり、男の中にある火種が燃え尽きれば、男の生は終わる。単純な理屈だった。
 死にたいわけではない。まだ自分を殺そうとする相手が現れれば全力で殺し返そうとすることはできただろう。実際に殺し返せるほどの活力が男に残っているかどうかは怪しかったが。
 ただ、死に抗わなければならない理由もこれといってないのも確かだった。
 だから男はただ身を伏せ、ひたすらに待っていた。なにかを。自分が行動を起こすに値する理由が、天から降ってくるのを。
 ――と、ふいにトン、と、男の鼻の先に一人の少女が降り立った。
 美しい少女だった。栗色のようだが、光の加減によっては金色にも輝く髪を無造作にポニーテールにまとめ、引き締まった体を味気ない黒のセーラー服に包んでいる。吊り目ぎみの瞳は非常に深く野生的で、叡智をたたえながらも野生の狩人のような冷徹な輝きを含み、全体の野生の獣のような印象を強めていた。
 その少女は、淡々とした表情で男を見下ろしたかと思うと、にやりと笑った。
「まだくたばってなかったか、迦具土もどき」
 男はのろのろと顔を上げると、その死期を目前にしてさえぎらぎらと光る瞳で少女を睨み上げ、吐き捨てた。
「失せろ、クソ狐。てめぇなんぞに時間使うほど、俺は暇じゃねぇ」
 少女はくくっ、と喉の奥で笑い声を鳴らす。
「そんな死にかけの状態で、よく吠える。神≠ノかけられた呪いの、解く端緒すら見つけられない分際でな」
「失せろと言ったはずだ、クソ狐。てめぇとお喋りする気分じゃねぇんだよ」
「悪いが俺はお前とお喋りしたい気分なんだ。俺に挑むたびにこてんこてんに負けて『覚えてろよー!』だなんだと三下の台詞を吐いて逃げ出してくれた迦具土もどきのお前とな」
「……殺されてぇのか」
 ぞろり、と男の体が地を這うようにうごめくが、少女は鼻で笑った。
「無駄に囀るのはやめろよ、坊主。できやしないとお前が誰よりわかってるはずだ。全盛期ならまだしも、今のお前が俺とやったら瞬きもしないうちに体を引き裂かれてお前の負けさ」
 確かに、それは誰より男自身が理解していることだった――が、男はくくっ、と笑い声を返す。
「……試してみるか」
 そう言ってずずっ、と蛇が鎌首をもたげるように上体を持ち上げてみせる。実際、たとえ腕力敏捷力耐久力、すべてが全盛期とは比べ物にならないほど落ち込んでいるとしても、そう簡単に負けてやるつもりはなかった。
 その様子を冷徹な獣の目で観察したのち、少女はふ、とわずかに口の端を笑ませて告げる。
「――もし全盛期の力を取り戻させてやる、と言ったら?」
 一瞬男の目がぎらりと輝く――がすぐにはっ、と男は鼻で笑った。
「おとといきやがれ、クソ狐。こちとらてめぇに借り作るほど落ちぶれてねぇんだよ」
 だが、少女は寸毫も動揺せず続ける。
「むしろ、貸しを作れるとしたら?」
「……なに?」
「お前の力を借りたい、と言ってるのさ」
 にぃ、と笑ってみせる少女の表情を、男はしばし全霊で探る。少なくとも男に見破れるような嘘やごまかしをする気はない、と確信してのち、低く呟いた。
「……話してみろ」
 少女はごくあっさりとうなずき、話し始める。
「ヴァルハラ≠チてネットワークを知ってるな? 俺が面倒を見てるネットワークだ」
「……一応はな。てめぇがガキどもの面倒を見るだなんぞと聞いた時は、ついにとち狂ったかと思ったが」
「ふん。……その中に、一体の妖怪がいた。なかなか面倒な奴でな、年のわりには強い力を持ってるんで手に終えん。俺も何度も手を焼かされたものだ」
「てめぇがか? てめぇならそんな奴は即行死ぬ寸前まで痛めつけて躾けてるだろうが」
「だから死ぬ寸前まで痛めつけても同じことをやるんだよ。……そいつの妖怪としての名はな、超人人間妖怪ドリルマン≠ニいった」
「ふん……最近やかましく囀る変身超人妖怪どもの一体か。しかし妙な名前だな、超人人間妖怪? 語義が矛盾してるぞ」
「そうさ。そしてそこが、あいつの崩壊≠フ原因となった」
「……なんだと?」
「あいつはその妖怪としての成り立ちから普通とは違っててな。超人として改造された人間の妖怪≠ネんだよ。つまり、そもそものベースが人間なんだ。そのくせ、超人で妖怪。これがどういうことか、わかるか?」
 男は顔をしかめ、端的に答えた。
「キャパシティオーバー、バーンアウト」
「そうだ。精神と能力と妖力のバランスが取れずに、暴走して自滅する。もともとあいつの妖力の構成はひどくピーキーな代物だった、超人人間妖怪ということを差し引いてもな。偏りすぎた妖力は、持ち主を破滅に導く」
「てめぇが言っても説得力はねぇがな……」
 男の呟きを少女は無視した。
「その上あいつは妖怪としての成り立ちの関係上、暴走する正義の妖怪≠チて烙印を妖怪としての根源に深く刻まれててな。これがどういう結果を導くか、わかるな?」
「火薬倉庫で花火するみてぇなもんだな。あっという間に爆発炎上だ」
「そういうことだ」
「そんな奴よくネットワークに入れたな。下手すりゃ人間どもにも被害が出ただろうに」
「下手しなくても出まくったがな。本人が正義の妖怪をやると言って、ネットワークリーダーがそれを受け入れたんだ、俺がどうこう言うことじゃないだろう」
「は……それで人間を守るネットワークの後見人とは笑わせてくれるぜ、このクソ狐」
「氏子はちゃんと守ってるからいいんだよ。……で、そいつは暴走して犠牲を出す、ということをくり返してな。それに対する罪悪感、暴走しないようにしなければという重圧感、自己の妖怪としてのアイデンティティ、周囲の妖怪との軋轢、そういうものに悩まされ、苦しんだあげく……」
「精神崩壊。妖怪としての存在の存続も危うくなっている」
「そういうことだ」
 は、と小さく男は嘆息した。想い≠ゥら生まれる妖怪にとって、精神の変調というものは人間以上に存在を危うくさせる。妖怪の精神規制はそれこそ存在の根源に関わるものが多いし、それに反する行動を取らされ続けた場合のストレスは甚大だ。それこそ身を裂かれるような苦痛にさいなまれて、自己の消滅という結果を容易に導こうとする。
その妖怪の素性からして変調の機会はより多かろうし、その際の苦痛はより大きかろう。崩壊は避けえぬことではなかったかもしれないが、容易に避けれるものではなかった、ということだ。
「……で、本来なら殺して生まれ変わらせる、という選択肢しかなかったんだがな。実際、あいつは前にもそうして生まれ変わらされてるらしいし。ネットワークメンバーの一人が、それに待ったをかけたんだ」
「待った? どんな」
「待ったというより、方法の改定を求めた、と言うべきだな。このまま殺しては、そいつの心が救われない、と言ったのさ」
「救われない? なにを見当違いな」
「ところがあながち見当違いなことでもなくてな。……そいつの妖怪としての存在の根源には暴走する正義の妖怪≠ニいう烙印が押されている。それをこの機会に打ち消し、ないし軽減するべきだと言ったんだよ。同じことをくり返さないためにもな」
「どうやって」
「そいつの精神を昇華すればいい、と。そいつの精神の根源には正義≠ニいうものに対する絶対的なまでの信仰がある。それに楔を打ち込むことで精神の在りようを変えよう、とな」
「……具体的には?」
「そいつは『正義は勝つものだ』と思っている。ま、実際あいつはほとんどの、それこそ反則のような奴ら以外には負けたことがないしな。その観念をぶち壊す。それも反則的に勝つんじゃ駄目だ、あいつの力をすべて出しつくさせた上で、正面から正々堂々と戦ってそれでも勝てない、負けた、と思わせなきゃならない」
「……お前が戦ってやりゃあそれですむんじゃないのか?」
「俺はあいつにすでに超越者認定されてるから駄目だとさ。人間がイージス艦に喧嘩売る気にならないのと同じでな、あいつと同じ土俵で戦える奴じゃないと駄目なんだ」
「確かにお前の妖力明らかにチートだからな」
 男の発言を少女は無視した。
「で、俺の知り合いの中で一番適役だったのがお前なのさ。お前は無駄にでかくなれるから、耐久力も阿呆らしいほどある。攻撃力も相当だ。戦い方も熟知してる。まず間違いなくあいつに真正面から戦いを挑んで勝てる、とな。それにお前言動とかいろいろ悪っぽいし。納得したか?」
「……俺の妖力を取り戻す当てについてまだ話を聞いてねぇぞ」
「ああ、それは簡単だ。この前面白い妖具を手に入れてな。なんでもその存在の因と果の流れを操ることで、その存在が過去、ないし未来に得た、得るものを即座に得させるとかいう代物で。使い捨てだそうだからここぞという使い道を探していたんだが、こういう使い方にならまぁそこそこ価値はあるだろう」
「ケッ……結局あのクソ神の呪いを解くことにゃならねぇんじゃねぇか」
「まぁな。だがお前がこの提案を受け容れ、力を得るなら、その呪いを解く、生を燃やす火種に会うまでの時間を稼ぐことができる」
「……なぜそんなことがわかる」
「俺のネットワークにはスクルドの生まれ変わりがいてな、そいつが予言したのさ」
「スクルド……? あいつ死んでたのか?」
「さぁな。だが実際に生まれ変わった奴にしろ、スクルドの生まれ変わり≠ニいう存在にしろ、その存在ができると知っていることはできる。そうだろうが」
「ふん……」
 男は口元を吊り上げ、しばし考え――すぐにやめた。どうせ今はやりたいと思うこともない。それになにより、一瞬でも面白そうだと思ったのだ。ならば後先考えずに燃え上がるのが男の本来の性。
 にぃ、と笑って男は告げた。
「いいだろう。乗ってやるぜ、その話」

 少女の創った異空間で、男とその妖怪は向かい合った。
 変身妖怪らしい不自然な体、存在が崩壊しようとしていることを示す不自然な歪み。精神の不安定さを表す荒い呼吸を、傍らの小さな妖怪が懸命になだめている。
 男はふん、と笑った。顎をしゃくる。少女がうなずき、小妖怪の姿がふっと消え、彼方の他の観客――ネットワークの妖怪たちのところに運ばれた。
 既に妖具は使われた。体調は十全、舞台は万全。ならば、することはただ一つ!
「脳味噌ブッ飛ぶまで遊んでやるぜ、かかってきな小僧ッ!」
「グォおオォルァあぁァアあぁアっ!!!!」

戦い・導入

「……こういうことは、あまり体験したくはなかったわね。仲間の葬送の観客、だなんて」
 髪をいじりつつ、こんな時でも優雅な挙措で息を吐くカエデを、気遣わしげにライアスが労わる。
「無理をなさることはないのですよ、お嬢様。本来ならお嬢様が関わるようなことではないのですから」
 かつての仲間であろうとも、カエデを害するものはライアスの敵だ。それ以上に、理性を失った車を前に攻撃せず放置する、という選択肢は防御役たるライアスにとって選びたくはないものだった。
 なにせ、通常の相手ならば無尽ともいえる防御・耐久能力を誇るライアスだが、唯一斬ったり刺したりする以外の妖力・妖術からはダメージを受けてしまう。その攻撃にも本来ならば圧倒的なまでの防御力を誇っているが、車はその防御力をさらに飛び越えて圧倒的な火力を誇っているのだ、焼け石に水にしかならないだろう。
 ライアスの防御妖術も車の攻撃の前ではダメージをある程度軽減する程度にしか役に立たない。桁外れの耐久力を持っていても巨大化してすら下手をすれば一撃で落とされる、とライアスにとって車はいろいろな意味ですさまじく相性が悪い相手なのだ、相手するのに神経質にもなるし、これまで翻弄された経験のせいもあり、彼の行為がもたらした結果についてあまり寛容にはなれない気持ちもあった。
「まぁまぁまぁまぁ、そう目くじらを立てんでも。そりゃまぁいろんなことがありはしましたが、縁があって同じネットワークに属することになったんです、送る時ぐらい心静かに看取ってやりたいじゃあないですか」
 川村が烏の姿で器用に肩をすくめつつ言う。その烏そのものの瞳からも飄々とした声や語調からも、容易に心境をうかがわせはしなかったが、川村のその言葉は確かに、別れ行こうとする仲間を素直に悼むものだった。
「それは……そう、ですが」
「それに、ここまで来たんです、いまさら投げ出すのも阿呆らしいでしょう。もし車さんが暴走したら、攻撃される前に止められる可能性が一番高いのはカエデさんでしょうしな」
「それはそう、ですが……」
「心配しないで、ライアス。大丈夫よ、私は」
「お嬢様……」
「それに、私はネットワークのリーダーなんですもの。こういった場で矢面に立つのが、リーダーの役目でしょう」
「……はい。ならば、僕は全力をもって、そのお力添えをさせていただきます」
「頼りにしているわ」
「しかし、真意の計画が本当に成功するのかどうかはボクたちにはわからないことだからどうでもいいとして」
「おうおう、相変わらずさすが言うことが違いますなぁ」
「千住さんの連れてくる相手が車に勝てるという保証はあるのか。千住さんが手を出せば一瞬でかたがつくとしても、それだとわざわざ集まった意味がなくなってすさまじい徒労感を味わうことになると思うんだが」
 川村に茶々を入れられながらも、冷然とした口調でオリスが言い切る。
オリスは車の去就自体に関わる気はなかった。いつ暴走するかもしれない妖怪をネットワークに入れるという行為の是非についての意見はあったが、本人が望みカエデが許したのだ、自分が口を出すことではない。
 それが実際に暴走し元に戻らなくなったから殺す、というならば最初から殺しておけば無駄な被害も出ず手間も省けたのではないか、という意見も持ってはいるが、すでに一度告げたことなのでいまさらくり返す気はない。カエデが決断し、ネットワークの総意もそう決まったのだからそれについてどうこう言う気もなかった。ただオリスは無駄な行為が嫌いなので、一応訊ねてみただけだ。
 それなりに長い付き合いのある相手である車との別れに際し、オリス自身がどう思っているかは別として。
「……まず間違いなく、勝てる、と思います」
 淡々と告げたのは、田宮だった。田宮はこの場所――千住の創り出した異空間の中に入ってからまったく口を開かず目を閉じていたので、カエデはわずかに驚いて目を瞬かせる。
「ほほう。その根拠は?」
「千住殿のお言葉から察せられるその火神の能力が正しいとするならば、たとえ車が全力で妖術をぶつけようとも、殺すまでに十発以上は必要になる。対し、その火神が全力で攻撃を放ったならば、よほど運が悪かったとしても車が一撃を放つ間に車の生命力を八分の一は削れます。ならば、車が勝つ道理はありません」
 からかうような口調で訊ねてみせる川村に、田宮は変わらぬ淡々とした調子で解説した。その語調に乱れはなく、淀みもなかった。それこそ天気の話でもしているかのようなごくあっさりとした声音だ。
「ほほぉ……さすが天才剣士。戦術についても専門家ですな」
「からかわれませんよう。曲がりなりにも戦場に立ったことのある身であれば、誰もが自然のうちに得る理屈です」
「その理屈でいきますと、田宮さんやカエデさんが車さんと真正面から戦って、勝てる可能性はどれほどなんでしょうな? 外注せずに身内で方をつけられるなら、それに越したことはないと考えちまうんですけどねぇ、私なんかは」
 川村の真面目なような、おどけたような、飄々として感情を読ませない問いにも、田宮はあくまで淡々と答える。
「私にしろカエデ殿にしろ、極めて厳しい戦いになるでしょうね。なにせ力の暴走した今の車は、一撃でも喰らえば蒸発するような妖術を溜めなしでどんどんと撃ってくる。まず先手を取り、一瞬の間に全力の攻撃をできる限り叩き込んで、それでも車の生命力を削りきれるかは五分五分でしょう」
「なるほど、それで外注に同意なさった、と」
 さらりと放たれた川村の言葉に、田宮は初めて表情を笑むような形に動かした。苦笑のような、自嘲するような、あまり明るくはない形にではあったが。
「いえ……真意の言葉に理を感じただけですよ。私は車の求める相手ではない、と」
「剣士としてそれに納得なさった?」
「いえ。かつて、車と共に戦場に臨んだものとして」
「……ほほう」
「奴がどのような相手を求めているかくらいはわかります。どのように戦い、どのように散りたいと思っているのかくらいのことは。……曲がりなりにも、私は車を、朋友と思っておりますのでね」
「そうですか……結果をあるがまま受け容れる、と。これは、余計なことを申し上げちまいましたな」
「いえ。……お心遣い、感謝します」

 小鳥遊車は、荒い呼吸をくり返しながら、ひたすらに目の前の空間を睨んでいた。身を引き絞られるような激痛に堪え、気を抜けば消えそうな意識を奮い立たせ、全身全霊を込めてひたすらに。
 ――倒す、斃ス、たオす、タオす、倒ス、斃す倒すタおすタオす倒ス!
 悪を倒す。悪を消す。正義を行い、弱きものを守る。自らの存在はただ、そのために。
 ――正義せイぎセイぎセいギ正ギセイ義せイ義正ぎ正義セイぎせイギ正義!
 正義。自らが存在する限り、全霊をもって行使せねばならぬもの。
 もうすぐ悪がここにやってくる。倒すべきものがやってくる。そう自分の袖をつかんでいる小さな少女が教えてくれた。
 少女を守る。弱い者を守る。守られるべきものを守り悪と戦い倒す。それが自分のなすべきこと、正しいこと、存在意義にして存在理由。
「車お兄ちゃん、大丈夫?」
 気遣わしげに少女が訊ねる。それに(たいていの者には安らぎよりも脅威を感じさせるであろう妖怪の姿で、ぎらぎらと瞳を輝かせながらではあったが)笑顔を作ってうなずいてみせる。弱いものに心配をかけてはならない。自分は弱い者を、守るべき者を、その心ごと守らねばならないのだから。
 少女は不安そうにではあったがにこり、と優しく微笑んで、きゅ、と車の袖の辺りをつかむ。するする、と腕を這う少女の指は、優しく心地よく、車の心をいくぶんなりとも落ち着かせた。

「……車お兄ちゃんが正義の味方≠ネら、僕のこと、ちゃんと守ってくれるよね?」
 にこり、と笑って言う少女に、震える体を押さえつけて大きくうなずく。そんなことは当然だ、自分はそのために存在する。
それにまた笑みを返した少女の指がさらに袖の辺りを滑る。その頼りなげな動きに、その言葉が少女のいくつもの感情とともに深く車の中に刻まれる。そう、この少女を守れなければ、自分は『正義の味方ではない』。
「グ……ウ、う、ウ」
「大丈夫、車お兄ちゃん?」
 そっと握りこんだ拳を包んでくれる少女に、瞳をぎらつかせながら全身の力を振るってうなずく。その行為に、少女はにこり、とまた柔らかく微笑んでくれた。

「……しかし、なにもわざわざ我々が車さんから離れなけりゃならないこともないような気がしますがな。この距離だと車さんが暴走すれば、少なくとも真意くんは車さんをなんとかする前に消し飛ぶと思うんですが」
 ここに集まった真意以外のネットワークメンバーは、車と真意から五百m以上離れた場所に陣取っている。車が暴走しても被害を被らずにすむ場所ではあるが、暴走を止めるにはやりにくい間合いだ。
「真意本人が場所を分けていた方がいい、と言ったからな」
「それはまたどういうわけで?」
「図式を単純化したいんだとさ。正義の味方、守るもの、悪い敵。それに他の要素を入れると車に負荷がかかる、と」
「それはまた、やっかいな……おや」
 川村がわずかに首を傾げる(烏の姿なのでわかりにくくはあったが)。
「千住さん、いらしたようですよ」
「む……」
 川村の言葉通り、この異空間を創り出した大妖、千住はいつの間にやら車のそばに降り立っていた。かたわらに一人の男を伴っている。
 自力で立つ体力もないのか、念動の術で浮かされている男は、汚泥と垢にまみれて汚らしく、今にも死にそうなほどに衰弱して見えた。

「……あの方が、車さんの相手ですか? 大丈夫なんでしょうか、ずいぶん衰弱してらっしゃるようですが」
「ええ……なんでも、日本神話の迦具土より古くから存在する日本でも有数の火神だそうだけれど。そういうようには見えないわね」
「まぁ、世紀が変わる時の『神様』との大戦の時に、神様直々に衰弱の呪いをかけられたそうですからな、そこらへんはしょうがないんでしょう」
「妖力が減衰する呪い、だったか。普通なら存在すらあっという間に危うくなるだろうに、むしろよく耐えていると言うべきかもしれないな」
「妖具で復調させる、ということでしたが、あの状態からどう……むっ!」
 どぉっ! と唐突に巻き起こった風に、カエデたちはわずかに身を揺らした。男たちのいる場所で莫大なエネルギー量の上昇気流が巻き起こったせいで、空気の流れが乱れたのだ。
男たちのいる場所で、なにか明々と輝くものがある。それはゆっくりと、だがどんどんとその大きさを増し、上へ、横へとその体積を伸ばし――最終的に体長七十m近い炎の巨人となって、ようやくその成長を止めた。
カエデたちもさすがに息を呑む。ここまで巨大な妖怪とは、さすがにほとんどお目にかかったことがない。
「すごい、ですね……話には聞いていましたが。実際見ると圧巻です」
「なるほど、あれだけの巨体ならば耐久力も桁違いでしょうなぁ……」
「……みなさん、ご注意を。車が反応を始めました」

 現れ妖具から光を浴びるや、唐突に、それこそ生まれ変わったように、炎の巨人と変化した男は、さらにどんどんと巨大な姿へと変わっていった。通常の生物にはありえざる、見上げても頭頂部が見えないほどの巨体。
 車は震えた。これが、敵なのか? 悪なのか? 自らの倒すべき相手なのか? 『倒していい』存在なのか?
 飢えた獣のように息を荒げながら巨人を睨む車に、巨人は大笑した。周囲数百mに響き渡り、空気を斬り裂いて震わせる大音声で。
『こいつが正義の味方≠ゥ? こんなひ弱そうななりでよく抜かしたもんだ』
 ――ざわり、と体中の細胞が総毛だった。

『正義だなんだとやかましく吠えるわりに、身の丈があまりに小さすぎるぜ。心根も根性もひ弱そうな男だ、これじゃあお得意の『弱い者を守る』だのなんだののくっだらねぇお題目も守れやしねぇだろうになぁ』
 ――敵。こいつは敵だ。正義を馬鹿にした。正義の味方を馬鹿にした。許せない。許してはならない。倒すのだ。斃さねば。倒す倒さねば斃す倒セ斃せタオせたオセタおセ斃セ、消滅するまで――
『どうしたよ、小僧。世紀の大悪党が挑発してやってんだぜ。それでもかかってこれねぇのかこの腰抜け。てめぇのご自慢の力、悪党を目の前にして使わねぇでどうすんだ、あぁ!?』
 正義を行使せねば。正義の力を振るわねば。正義で正義でセいギで正ギで悪を倒せ斃セたオせタオせ倒セ斃せ倒せタおせタオせ倒せ!
 ぎゅるるぅぅん、とベルトが回転する。思いきり体を捻る。体に溜め込まれた捩れが、正義の力が、悪を倒すため振るわれる。
 拳を握る。少女の手はもうはるか彼方だが、それでいい。そうだ、自分の拳は、悪を倒すために存在する!
 にやり、とはるか天頂で悪の巨人が笑った気がした。それに向かい車は、全力で拳を突き出す。
『脳味噌ブッ飛ぶまで遊んでやるぜ、かかってきな小僧ッ!』
「グォおオォルァあぁァアあぁアっ!!!!」
 どんな敵も残らず薙ぎ払う、必殺のドリル砲≠ェ放たれた。

戦い・伯仲

 どっごぉぉぉぉぉん!!!  ボゴォォゥッ、ズジャズジャガッ!!
 五百m先でぶつかりあう、圧倒的なまでのエネルギーのぶつかり合いを全員声もなく眺めた。閃光とともに五百mを巻き込んで薙ぎ払うすさまじいエネルギーの奔流、はるか高空から放たれる爆炎と炎の爪。それらが一撃でも掠れば、ここにいる妖怪たちのほとんどはまず生き残ることはできないだろう。
「……すさまじいですね」
「確かにな。どちらの攻撃も半端じゃないエネルギー量だ。車は言うに及ばずだが、火神の方も相当とんでもない」
「あんな戦いの中に巻き込まれようもんなら、私なんぞはあっという間にお陀仏ですな。くわばらくわばら」
 実際、恐ろしいほどの力のぶつかり合いだった。
 車は五百mにわたって通常存在する物体ならばどんなものも蒸発させるほどのエネルギー量を持つ妖術を放ち、それに対し火神は妖術としての威力はその数分の一でしかないものの車の周囲を丸ごと包む爆炎の妖術を放った上で、その巨体を巧みに動かし、十m以上先から妖術の撃ち合いの間に幾度となく燃える足の先端で蹴りを仕掛けている。
 双方戦車だろうが戦闘機だろうが一瞬でぶっ飛ばせるほどの攻撃を互いに放ちつつ、まだ少しも倒れる様子がなかった。

 車は身を震わせるほどの驚愕をもって敵である悪の大巨人を見つめた。確かに敵は大きい、大きいが――自分の全力のドリル砲を受けてなぜ、ここまでぴんぴんしているのだ。
車が全力でドリル砲を放って倒れなかった妖怪はほぼ存在しない。そしてその倒れなかったものは千住のような、明らかに『倒す倒されるという段階を逸脱している』化け物のような妖怪ばかりだった。こいつからはそういう匂いをまるで感じない、つまり倒せるはずの妖怪なのに。
しかも今車は妖術の直後に飛び蹴りを放ったのだが、今の感触、おそらくまるで効いていない。どうやらこの敵、恐ろしいまでに頑丈なようだ。
 しかも攻撃も相当に強烈なものだった。最初の炎の妖術はうまくかわしたと思ったのに思ったより範囲が広く、まともにはくらわなかったのにダメージを受けてしまった。それも、もちろん自分には及ばないにしろ相当に強烈なものだ。
続く蹴りもかなりに苛烈だ。車の体より大きな足の最初の二発はかろうじて受け流したが、最後の一発をもろに食らってしまった。
 胴体にぶち込まれたその一撃は、並みの妖怪ならば数回死んでお釣りがくるほどの強烈な衝撃を伝えてくる。車ですら十発ももらえばお陀仏だろう。
 この間合いはまずい、と車の戦闘者としての経験が告げる。普通ならば妖術の撃ち合いには最適の間合いだが、敵は悪の大巨人、あいつにとってはこの距離は一足だ。
だんっ、と地面を蹴る。超人人間妖怪ドリルマンはその跳躍力も並ではないのだ、瞬時に五百m近く後方へと飛び退った。
 この距離ならば相手の妖術は届くか届かないかというあたり、しかも自分は人間並みの大きさなので妖術を当てること自体ままなるまい。だが今の自分にとっては相手は外すのが難しいほどの巨体だ、まず間違いなく全力の一撃をぶち込める。
敵も間合いを詰めてくるだろうが、まず自分の跳躍力の方が大きい、こうしてロングレンジからの射程外攻撃でかたをつける!
 そうしてドリル砲の発射モーションに入りかけ――気づいた。敵の大巨人が、少しも間合いを詰めてこない。
 ぎっと相手を睨む。車の目がぎらりと光り、五百m彼方の敵の顔を捉える。
 敵の大巨人はにやにやと笑っていた。はるか頭上から。こちらを馬鹿にするような、性の悪さを感じさせるにやにや笑いで。
 すい、と手を前に突き出し、くいくい、とこちらを招く仕草をする。かかってこい、とばかりに。そしてとんとん、と頭を、一番弱い部分を指で叩いてみせる。
 車は、その仕草の意味を正確に理解した。
 ここに当ててみろ、と奴は言っているのだ。動かないから、当ててみせろ、と。お前なぞの貧弱な火力では、それでも俺を倒すことなどできないだろう、と。
 ――瞬間、脳味噌が沸騰した。
 だんっ! と全力で地面を蹴る。大きく大きく飛び上がり、一息で敵の懐へ――大巨人の肩の上へ飛び乗る。
 ぐりん、と大きく体を捻り、一瞬でエネルギーを臨界まで高め、拳に込めて解き放つ。――近距離拡散モードで、だ。
 ドリル砲は普通に撃てば五百mの射程を持つが、近距離拡散モードにすれば距離は縮む代わりに七mもの広さに拡散する。敵の頭の大きさは、七m弱――間違いなく脳の中身を妖術の範囲に呑み込める!
 自分の拳は正義の拳、自分はその力をひたすらに全力で高めてきた。それを侮辱されるということは正義を、自分そのものを馬鹿にされることだ。
 脳を吹き飛ばされても笑っていられるか試してやる――食らうがいい、どんな敵も打ち倒してきた正義の鉄槌!
「ドリル………砲ぅぉぉぉぉおっ!!!」

 どっごぉぉぉん! と巨人の頭から響いた爆音。圧倒的なエネルギーの奔流に、空気が歪み、捻じれ、凄まじい風圧となって吹きつけてくる。
ヴァルハラ≠フ面々はそれぞれ、必死に体勢を整えようと身をよじる。体重の軽い者には吹き飛ばされかける者もいるほどの猛烈な豪風――
 その中で端然と、まるで風が存在しないかのようにたたずんでいた田宮は、ぼそり、と小さく呟いた。
「――しかし、それでもまだ届かない」

 車は、今度こそぽかん、と口を開けた。目の前の光景が信じられなかった。
 至近距離で、全力で、脳味噌直撃コースでドリル砲をぶちかましたはずだ。どんな物体も蒸発させる、無敵の必殺技を放ったはずだ。だがそれでも、敵の巨人はいまだその炎を赤々と燃やしたまま、こちらを向いてにやり、と笑ってくる。
 ぞっ、と背筋が冷える。車は、それを一瞬恐怖だと思った――が、直後に爆発的に腹の底から湧き上がったエネルギーに理解する。
 それは、歓喜≠セった。
 この敵は、車が全力でやってもなかなか倒せない。何発も何発も、敵の攻撃をしのぎ、全力の一撃を当てていかねばならない。
 つまり、『自分はもっと強くなっていい』。周囲への被害、世界のバランス、この拳を振るうことが本当に正しいのか、そんなことをいちいち考えずひたすらに強く、力を追及していっていい。なぜなら、ここにこうして目の前に、倒すべき巨悪がいるのだから。
 正義の味方は負けてはならない。だから自分はこうして全力の拳を、もっと強く、もっと強くと極め、振るっていい。今自分は悪を倒すために、正義の拳を振るっている! 自分は――
「グルァァァああアァあぁアァあァッ!!!」
守るべき者のために戦う正義の味方≠セ!!!!
 ――そうして歓喜と共に拳を振り上げた瞬間、車は宙に放り出された。
 一瞬の混乱。だが即座に、敵が素早く身を退いたため体から振り落とされたのだと知る。即座に全身のバランス感覚を駆使して空中で体勢を整える――が。
 ゴゥッ!!
 敵の口から吐かれた爆炎が、着地する前に車を捉えた。続いてガズゥッ!!! と苛烈な勢いをもって、敵の炎の鉤爪が車の脳の真芯を捉える。
『全力で勝負するってこたぁな――』
 激痛。あぁ。そんな、こんな、簡単に。周囲がどんどんと暗くなる。自分はまだ、やれるのに。こんなことが、あっていいのか。だってまだ、始まったばかりで。自分はまだまだ、強くなる、強くなれるはず、なのに。意識が、薄れ――
『いつ負けて死んでもおかしくねぇってことなのさ。勉強になっただろ、坊主?』
 ――最後に視界に残ったのは、敵の巨人のしょうもなげな笑いだった。

戦い・終幕

「終わった……よう、ですね」
 ライアスの言葉に、ふぅ、と揃って全員が息をついた。短い時間で終わった戦いではあったが、その飛び交うエネルギーには確かに全員の心胆を寒からしめるものがあった。
「あそこまで見事に入ったならば、累積した傷からしても生き残れはしないでしょう。車は、間違いなく死んだでしょうね」
 淡々とした口調で告げる田宮の言葉に、しばしその場に沈黙が下りる。たとえ処刑せざるをえない成り行きであるとはいえ、仲間である相手の死の知らせは、やはりヴァルハラ<<塔oーたちの心を暗澹とさせるだけのものがあったのだ。
「……これでとりあえずこちらのすべきことは終わり、ということでしょうかね?」
「そうなる……」
「待て!」
 鋭くオリスが叫ぶのと、ずどぉんっ、という地面を大きく蹴る音が響いたのとはほぼ同時だった。
「体が消えていない、車はまだ生きている!」

 ずどぉんっ、と周囲数十mにわたって土煙が舞うほどの力で地面を蹴り、車は跳んだ。はるか高空、敵巨人の上方へと。
 余剰妖力をすべて解放してかろうじて命の火を保った。ならば敵を倒さねば。全力の一撃を振るわねば。自分は弱いものを守る正義の味方なのだから!
 敵の姿以外は目に入らない。一撃を放つ後方に、守るべきとかつて誓った仲間がいることなど気づかない。今世界に居るのは目の前の敵、それのみ。
 空中でベルトが回転を始め、その回転の力が伝わるままに体を捻り、全身の力を拳に込め――
「ドリルっ……」
 ざすっ。宙を飛んでいた車の体は、吹き飛んで頭部で地面に縫い止められた。
 それは槍だった。鋭く輝く銀の槍。それが車の死角を衝くような角度で飛び、車の目を貫いて脳に突き刺さったのだ。
「……おいたはダメよ、車くん」
 ふわ、と戦乙女が舞ったのが、視界の端に映った。
 それでも車はふら、ふらと全身の力を振り絞り、槍が刺さったまま上体を起こし、敵に向け、攻撃をしてきた者に向け攻撃を放つ――が、中途半端な体勢から放った半端な攻撃は、砂の巨人の築く壁と体に阻まれた。
「お嬢様には、指一本触れさせません。……もちろん、それがあなたにでも」
 ふら、ふらと槍の刺さった重い頭を振りながら、それでも車は立ち上がる。戦わねば。敵を全力を振るって倒さねば。なぜなら自分は正義の
 ――ぎゅ、と唐突に、ひどく小さな手が車の拳を握った。
「もう、いいんだよ、車お兄ちゃん」
 優しい声。少女の声。かつて守ると誓った存在の声。
「もう、車お兄ちゃんは戦わなくていいんだよ。もう休んでいいんだよ」
 柔らかい声が、指が耳を、脳を、袖を滑り、車の中になだれ込む。
「だって、僕は生きてるんだから。大悪党につかまっても、生きてるんだから」
 悪。正義によって倒されるべき存在。自分はそれを倒せなかった。正義の味方でいてやれなかった。――なのに、なぜ、この少女は、
「もう、車お兄ちゃんは正義の味方≠ナいなくてもいいんだから――自分の生き方は自分で決めて、いいんだよ?」
 こんなに、哀しいくらい優しい顔で笑っているのか。
 ああ――もう。俺は。悪に負けた俺は。仲間のことも忘れた俺は。
 車の脳裏に、心の芯に、一気にすべてが回想された。正義、悪、なすべきこと、罪、償い、責任、情熱、想い、自分自身で責任を負う生の選択――
 俺はもう、正義の味方≠カゃないんだ。
 それを認識した瞬間、一筋バイザーの下から涙が流れた、と思うや車は消滅していた。体すべてが塵へと返り、心は空に消え世界に散った。
 残ったのは、ただ、固く結んだ自分の拳を、その上からそっと包み込んでくる、かつて守ると誓った、優しい子の手の感触だけ。



「さって! 終わった終わった、ということで!」
 ぱん、と音を立てて天狐の少女が柏手を打つ――や、二百平方qはある異空間の中がすべて満開の桜の景色に変った。どこまでも続く満開の桜に、桜吹雪が怒涛のように舞う。
 のみならず、ぽぽぽぽぽぽぽんっ、と瞬時に山のような贅を尽くした酒食が並べられる。少女の桃源郷を創り出す妖術によるものだろう。この異空間の中は、今どんな者にも対応する幸せな空間≠ノなっているのだ。
「宴会するぞ、お前ら! せっかく久々に異空間創ったんだ、全員腰が抜けるまで飲みまくるぞ!」
「おおっ、待ってました!」
 烏の妖怪がわっとばかりに囃すのに、空気を読んだのか単に自分の意志か、戦乙女の少女も大きく笑顔でうなずいた。
「そうね、宴会しましょうか! ライアスもオリスも、今日は最後までちゃんと参加してね?」
「はい……お嬢様がそうお望みならば」
「……やれやれ」
 ゴーレムと時計もめいめいうなずく。仲間の死を見たせいか性格的なものか、それぞれ明るい顔を見せはしなかったが、素直に人の姿になって戦乙女の少女の隣に席を取った。
「私は酒は苦手だと……」
「まーまーいーじゃんいーじゃん、気は心だって! ソフトドリンクで乾杯しよっ」
 渋る剣士を袖引き小僧が引っ張って席に着かせる。その表情は先ほどの涙ながらの説得が嘘のように明るい。まぁ先ほど一筋流した涙も演出だろうと思ってはいたが。
「で、お前はどうするよ? 食ってくってんなら馳走してやってもいいが?」
 天狐の少女の声に、男はふん、と鼻を鳴らした。
「冗談じゃねぇ、てめぇと仲良く宴席囲むなんざ死んでもごめんだ」
「やれやれ、嫌われたもんだ。ならなんかお持ち帰りでもするか? 桃源郷の掟は知ってるだろ?」
『望んだものをひとつだけ持ち帰れる』という掟はとうに周知のことではあったが、首を振る。
「いらん。帰る、外に出せ」
「帰ってどこへ行く」
「ふん……久々に炎が勢いを取り戻したんだ。燃え盛るだけ燃え盛るさ」
「炎ってのは燃え盛ったあとには燃え尽きるもんだぞ? 火種を投入しなけりゃな」
「誰に言ってやがる」
「やれやれ。……なら人の大きさにもどれ、そこまででかい姿だと出し入れが面倒だ」
「ああ」
 体を縮めている間に、小僧っ子たちがわらわらと寄ってきて頭を下げる。
「火神さん、ヴァルハラ≠フリーダーとして仲間を助けてくれたことにお礼を言います。ありがとう」
「このご恩へのお返しはいずれ。なにかご用があれば新大久保の聖ユネスコ学園をお訪ねください」
「…………(無言でぺこり)」
「火神さん、ほんとーにどーもありがとーございましたっ!」
「いやはや、さすがお見事なお手並みでした。願わくば、あなたさまが炎々と燃え続ける篝火になるようこっそりお祈りさせてもらいますよ。拝火教にね」
「お力、感服いたしました。……感謝を」
 次々向けられる感謝の言葉に、男は面倒くさげに手を振った。
「ああ、いい、いいそんなのは。こっちにも思惑があって喧嘩に乗った、そんで勝った、それだけだ。俺のことはいいから、てめぇらは今は思う存分宴会してろ」
 仲間との一番いい別れ方は宴会に限ると、大昔から決まっているのだから。

「おお、お前にしちゃ珍しくいいこと言うじゃないか。ほらほらお前ら食って飲んで騒げ、俺はちょっとこいつを送り届けるからな」
 天狐の少女の言葉に、小娘と小僧たちは顔を見合わせ、こちらにもう一度頭を下げてからとっとと宴会を始めた。盛んに飲み、食い、歌いだす奴もいれば脱がせだす奴もいる、太古の昔から続く宴の光景が見る間に広がる。
「よし、じゃあこっちに来い」
「ああ。………、ん」
 男は一瞬、わずかに目を瞬いた。杯を手にし、すでにほんのり頬を染めた袖引き小僧が、こちらに横顔を見せた格好で、すいと宙に手のひらを伸ばしたのだ。
 その上にふわ、と桜の花びらが一枚乗る。それを少女でも少年でもないものは、ただ静かに微笑んでそれを眺め、小さく口を動かす。
 その唇が『また会おうね』と呟いたことを、男の目は正確に読み取った。
「おい、なに見てる?」
「ん……いや。そうだな。……一個持って帰らせてもらうぞ」

 男は自分が倒れていたのと同じ裏路地に立っていた。だがすでに男は両の足でしっかりと大地を踏みしめ、手のひらの中には桃源郷から持ち帰ったものがある。
「……桜が死の花だってのは、いつ頃から定着したんだっけか」
 手のひらの中の桜の花びらをためつすがめつし、そんなことを呟く。
 別に、大した理由があって持ち帰ったわけではない。ただなんとはなしにあの子供の行為の意図が理解できただけのこと。
 手はその中にいろんなものを握ることができる。武器も持てれば道具も持てる、夢を描く筆も持てれば誰かに送る花束も持てる、桃源郷のものを持ち帰ることもできれば誰かの手を握ることもできる。
そういった幾多の選択肢がある中で、あの男はなにも持たず、ただ自らの拳を握り続けていたのだという――ただそれだけの話。
「……ハッ」
別に同情する気はないしそんな筋合もない。あの子供と違ってそれを悼む気もない。ただ、自分も手を握ってもいいと思う誰かを世界の中に見つけられるのには、まだまだ時間がかかるのだろうと、そう思っただけのことだ。