既視夢

by 週刊文学文芸編集長


 ブランコの軋む音がする。
 何処か近くに公園でもあるのだろうか?風に揺れてわずかに軋むブランコの音で、僕はようやく長い酩酊状態から意識と呼べるものを取り戻した。僕の意識。僕は思考している。此処はどこだろう。
 ようやく神が天と地を創造し、僕は何処かの床の上に仰向けになっていることを自覚した。自分が寝そべっているのは古く茶化た畳の上だった。天井はコンクリートの壁。亀裂が数本、縦に走っていた。足の先に見えるのは金属製の扉、頭上の窓には鉄格子が填められていた。部屋の隅に簡易式の便器があり、蓋が閉まっていて即席の筆記机になっている。その上に、便箋と鉛筆が丁寧に並んで乗っていた。
 ああ、と僕は自分の置かれた状況を思い出した。そうだ、僕は囚人なのだ。此処がどこなのかは僕にはわからないが、成る程そうだった。此処は僕の部屋として与えられた3畳程の大きさの独房。何故僕がこんなところに閉じこめられているのか?そんな事は僕にはわからない。知っているのは先生だけだ。そう、先生は。どこだろう先生は。ああ先生。先生に従っていれば大丈夫なんだ。
 今は何時頃なんだろうか?この部屋に時計はない。鉄格子から射す光は西日のように感じるが、この部屋の方位がわからない。でもひどく眠いので、明るくなるのか暗くなるのか、確かめる前に眠ってしまいそうだ。先生を待とう。今の僕にはそれしかできない。先生だけが頼りなのだ。先生が来れば全てわかる。何故僕がこんなところに閉じこめられているのかも、いつから僕が此処にいるのかも、此処へ来る前僕が何をしていたのかも、そして僕が誰なのかも、何もかも。
 あれ?
 またあの感覚だ。僕は前にも同じように天井に走っている7本のひび割れを見つめながら、先生のいいつけを思い出そうとしていた事がある。1週間ほども前の事だろうか。それとももっとずっと前か。自分の事も満足に思い出せない僕が、自分の顔も覚えていない僕が、先生の顔だけは鮮明に思い出せる。まあるい小さな頭にロイド眼鏡。その奥でギョロット光る両の眼。先生早く来てください。早く。もう僕の瞼は強烈な睡魔に抵抗できない。そういえば僕は先生と何か、大切な約束をしたような気がする。絶対にこれだけは忘れまいと、強く心に誓った事があった、気がする。
 それは何だ!何だ!!何だ!!何だ!!何だ!!何だ!!何だ!
 このことを思いだそうとすると頭が割れるように痛んだ。息の詰まるような強烈な吐き気と、脳髄の痛みで、僕はまたすぐ、失神するように眠ってしまった。

 

 数時間も眠っていただろうか。夢を見た覚えはない。否、夢というものは目覚めてしまうと大抵は忘れてしまうものなので、見たのかも知れない。そう言えば、自分には全く夢の記憶というものが無い。さっき見た夢の記憶も、数年前に見た夢の記憶も、子供の頃怖かった夢の記憶も、全然無い。ハタシテ夢とはどういうものか、それはわかる。それは知っている、つもりだ。
 先生はまだ来てくれない。外はすっかりと闇に閉ざされたようだ。さっき射し込んできたのは、やっぱり夕日だったのか。そうなら、今僕は西を枕にしているんだろう。でももしかしたら、眠り込んでいた時間が数時間よりもっと長くて、あの陽の光は朝日だったのかも知れない。そうなら、僕の頭は東を向いているんだろう。僕は一体、どれだけ寝ていたのだろう。確かなものがなにもない。この部屋には、日時を確かめることのできる暦や時計も、自分の顔を見るための鏡も、方位を知ることの出来る磁石もない。
 待てよ……、そうだ!
 便箋と鉛筆がある。少なくとも記録を取ることは出来るじゃないか。人類は記録することから文明を築き上げた。記録こそが、万物の霊長たる人間にだけ与えられた偉大な力だ。僕はゆっくりと上体を起こした。目の前で赤い牡丹の花が幾弁も咲き乱れた。鼻の奥から頭のてっぺんへ向かって鈍痛が襲いかかった。静かに深呼吸すると、今度は心臓の脈動が全身の血管を畦くらせた。僕は呻きに似た長い排気を終えると、机兼便器に向かって這い寄った。
 部屋には照明といえるものが一切なかった。僕は思いっきり瞼を見開き、暗黒の中に輪郭を求めた。便箋はやがて、薄ぼんやりと白く、まるで幽霊のように、四角い燐光のようにキワドクモ、僕に居場所を示した。手を差し伸べると、距離の感覚が暗闇に騙されていたのだろう、爪先が強く紙面を突いた。僕は久しく実体の感触を忘れていたことに気づいた。手の平をひたりと紙面に付けて、紙の感触を楽しんだ。
 これは驚いた。何か書いてある。
 僕が触れているのは、まっ更な紙じゃない。指先が、筆圧によって生じた細かい起伏を感じている。なんということだ。キット僕が書いたに違いない。いつ書いたのだろう、思い出せない。だが書いたのは僕に違いない。他に誰が書くというのだ。多分、これを書いたときの僕は、今さっき僕が考えたように、記録を取ろうとしたのだ。どうやら、僕の頭は目下空っぽで、記憶力がまるっきりアテにならないのだ。僅か数時間前の事すら覚えていることが出来ないのだ。僕がコンナ所に閉じ込められている理由も、僕の記憶障害の治療の為かも知れない。
 僕は自分が何を書いたのか、それが無性に知りたかった。一体この便箋には何が書かれているのだ。数時間前の僕は、数時間後の、この現在の僕にむけて、記憶に代わるものを残しているのだ。そこには僕の名前や、此所に閉じ込められるに至ったいきさつが書かれているのかも知れない。僕は便箋に半面を押し付け、目を凝らしてみた。しかし網膜に映ったのはただ、闇に蠢く魑魅魍魎。僕の眼球の裏側に廻りこみ、イヤラシク旋動する人間の顔をした蛆虫。此奴等が無数に僕の眼球に群がり、赤いミクロの舌をチロチロと出しながら、黒目を濁らせていくのだ。
 (何も見えない)(何も見えない)(何も見えない)
 蛆虫達はみな口々に(何もみえない)と繰り返し、苦しみもがいて全身を震わせた。奴等の腹は震えるたびに膨れ上がり、ぱんぱんになった腹が黄緑色の液をぶちまけて破裂すると、中からはまた無数の目も開かぬ幼虫が這い出し、同じように繰り返す。かくして、僕の黒目はすっかり裏側に回されてしまうのだ。
 何時間そうやって粘ったのだろうか?僕は未だ、一文字も読むことが出来ないでいた。そもそも光の完全に遮断された場所では、何も見える筈がない。光の素粒子が目に飛び込んでくる事を、見るというのだ。夜が明けるのを待つ方がいい。ただ一つ気がかりなのは、僕はまた眠っている間に、何もかも忘れてしまうんじゃないか、ということだ。眠ってしまわないとしても、今の僕には、長い時間の経過と戦うだけの記憶力が具わっているのだろうか?こうして筆をとっていても、ここまで書いてきて、何を自分が書き終え、何をまだ書いていないのか、さっぱり判然としないのだ。何度も何度も同じ事を、ヨッパライのようにドグラマグラしているのかも知れない。
 絶対に書き残しておかなくてはいけない事柄は、何度も重複しようと繰り返し同じ事を書くはめになっても絶対に書き残したと信じられるまで書き続ける他はないだろう。こう言うと、これを読んだ未来の僕は疑問を抱くかもしれない。何故、読み返さないのか?と。自分が何をどこまで書いたのか、自分の書いたものを読み返してみればいい。
 僕は読み直さないのではない。読み直すことが出来ないのだ。
 夜が明けて、この部屋に光が差し込むまで、あとどれぐらい時間があるのだろうか?何もみえない、漆黒の闇の中で、僕はこの手紙を書いている。なにか活動していないと眠り込んでしまいそうだからだ。手探りで、一度書いた上から加筆しないようにと、そしてなるべく行間を平行に保つように、神経を使いながら。
 何も判らないこの部屋の中でも、いくつかの事はわかる。それは僕が、眠ってしまうと眠る前の記憶を全て忘れてしまうという、精神病か何かを患っているということ。そしてどうやらこの病気の治療のため、僕はこの独房に入れられているらしいと言うことだ。
 そして、、、、
 そう、これだけは書いておかなくてはいけない。繰り返し同じ事を書くことになるかも知れないが、これだけは何回重複しようと、書き留めておかなくては。
 それは、X I M X I I V I XI IVI.....

XIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVI

 この手記を読んでいる頃、私は私の持てるありとあらゆる記憶を失ってしまっているだろう。丁度、夢から覚めてしまうと、夢の中での出来事をそっくり忘れてしまっているのと同じように。
 私はその事に対してさしたる恐怖を覚えないようになった。そもそも人間は死んで生まれ変わる際に、前世の記憶を全て失ってしまうのだから。私は輪廻という古代仏教における大発見を信じる。文明がさらに進化して、輪廻というものが科学的に証明される時代が来れば、人生というものに対する新たな思想が生まれるだろう。人は闇雲に死を恐れ、死というものを己の想像力の範囲でおぞましい姿へと変えてしまっているだけなのだ。本当の「死」とは、私達の想像を遥かに超越した感覚なのに違いない。あの方が現代科学の論理性をもって、その事を証明して見せてくれたのだ。私は、あの方の実験台として、人類の未来永劫たる貢献者に選ばれた事を誇りに思う。あの方は私の先祖代々受け継がれた奇怪なる血脈の絆を、みごとに断ち切ってくれたのだ。
 あの方とは、正木敬之/九州帝国大学医学部名誉教授の事である。私達から「死の恐怖」を取り除き、永遠の時間を与えたてくれたお方である。私が正木先生にお会いするに至った経緯は、昭和19年師走、陸軍士官学校を特別修学した私が、九段の参謀本部へ出頭した時から端を発する。
「呉村一馬(くれむら・かずま)少尉、只今出頭いたしました!(最敬礼)」
「うん、御苦労」参謀本部長直々の面会に、私は事が緊急かつ機密、かつ重要な任務への就任命令であることを察知した。「戦況は今、非常事態とも言うべき激戦下にある。貴官も当然懐中に決心の念アリと思うが、恐れ多くも(!)天皇陛下の神軍として、華々しく若き命を戦火に散らせるに相応しく、またこの機を逃しては報国の機再び無しと思うが、ドウカッ!」
「はっ!既に我が心中決しておりますっ!」
「貴官に、東部33部隊への配属を命ずる!」参謀本部長殿は指令書に判を押すと、私に差し出した。
東部33部隊と聞いて、私は全身の血が凍るような痺れを感じた。配属先は陸軍中野通信研究所。軍属と言えども、その内部で何が行われているかを知るものは少なかった。上級士官候補生の私は、士官学校や士族のレセプシオンに於いて、おぼろげながらも33部隊の噂を聞いた事がある。そこは、秘密戦の為の秘密戦士養成機関、則ち軍事探偵の養成を目的とした機関である。躊躇する暇は与えられない。私はうやうやしく指令書を受け取ると、参謀本部を後にした。
 陸軍中野学校、表向きは東部33部隊に着任した私は、すぐに満州の陸軍大連映画研究所に行くよう命じられた。全てがもうずっと前から計画されているような、とんとんとしたものだった。2週間の船旅は私の大脳を朦漠な酩酊状態に陥れた。遺伝なぞというものは、まるでアテにはならない。私には乗り物に対する抵抗力がまるでなく、特に船は駄目だった。海軍士官を父に持つ身としては、大変不幸な事だ。父は一人息子の私を海軍に入隊させるのが夢だったのだ。その父も10月に連合軍の駆逐艦に沈められた。シブヤン海での海戦だった。爆弾16発、魚雷14本を食らってあっという間に海の藻屑と化したのだ。厳しい父であった。しかし優しい父でもあった。この命果てるとも、必ずやせめて一太刀の深傷を、ニックキ鬼畜米英に負わせてやらねば父の弔いになりますまい。私に流れる軍人の血は、いつも父を慕っていた。たとえ妾の子ではあっても。
 正月は大連で迎える事になりそうだな、と私は思った。船の中で母に書いた手紙をハルピン駅で投函すると、一路大連までは鉄路と自動車での、陸路の旅である。大連は緻密に設計された放射状都市。軍部のある中央の一角に、「大日本帝国陸軍大連映画研究所」はあった。表向きは戦時記録映画の編纂所という事になっていたが、その実、「陸軍機密通信媒介研究所」つまり暗号の傍受と解読、開発を司る中野学校の分校であった。わたしはここであの方に初めてお会いした。元九州大学医学部教授、現在名誉教授であり、我が国における精神病理学の第一人者である正木敬之博士、そして彼のもうひとつの顔が、陸軍機密通信媒介研究所所長という肩書であった。軍の階級では大佐になる。もっとも彼には意味のないことだっただろう。帝国陸軍は、彼の持つ特殊技術と専門知識を見逃さなかったのである。内地では、彼はアナーキストとして巣鴨に拘置されている事になっている。一部には獄死したという噂もあったが、まさか私も海を渡って訪れた大陸で、この名前を聞こうとは露程も思ってみなかった。赴任した私はすぐと所長である正木博士を訪れた。見るからに全く軍人らしくはない。まあるい坊主頭にまあるい縁の眼鏡をかけ、中国の宮廷服を着た小さな老人は、大きな机の上にひょこんと顔を出して待っていた。一瞬、フトこの人の顔に見覚えがあるような気がした。確かに以前、この人の顔を見た事があるような。
「君が呉村君だね」
「呉村少尉、只今赴任いたしました!」
「成る程、骨相学というのは大したものだね。遺伝的な特徴はまさしく君が呉村君だと物語っているようだな、ハッハッハッハ」何が可笑しいのか大きな口を開けて大笑いするこの小男に対して、この時点で私は奇怪な印象を受けるのみであった。私の体は船酔いと長旅の為に疲労の限界に達していた。高笑いを不愉快なものに感じ、私は博士の笑い声を遮るように言った。
「自分は、遺伝というものを信じません!」
 博士は少し驚いたのか、さすがに笑うのをやめ、私の顔を真顔で睨み付けた。
「遺伝は好む好まざるなしに、人間の宿命なのだよ」眼鏡の奥で、ぞっとするような恐ろしい瞳が光るのを見て、私は怖気上がった。彼はなおも話を続けた。「その眼、その鼻、その耳、その口、その顎、その額、全て呉(コー)一族の末裔である事を意味している」彼は机の上に3枚の写真を並べた。「呉承宇(コー・スンウ)呉一郎(くれ・いちろう)呉羽茂吉(くれは・もきち)、吾輩が今までに捜し出した貴重な血脈じゃ」
 その3人の顔には明らかな類似点が見い出せた。有り体に言うと瓜二ついや瓜三つだ。そしてこの私も四つ目の瓜と呼ぶに足る容貌を備えている。馬鹿な!私は担がれているのではないかと疑った。3枚とも私の写真ではないのか?
「はっはっはっはっはっは」またしても博士は高笑いをはじめた。「今日は疲れているんだろう?君の部屋へ案内させよう、ゆっくり休むがいい」博士はパンパンと両手を叩き、「レイファ」とドアーの向こう側にいる誰かを呼んだ。隣室のドアーが開いて中華服の少女が現れた。私は彼女の顔を見て衝撃と当惑に見舞われた。眩い程の美少女なのである。髪の結い方も化粧も日本のものではない、なのにどこか懐かしい表情があった。年令は私よりも幾つか下だろう。多分16か17、まだ何処かあどけなさを残しながら、娼婦のような妖艶な眼差しで私を見つめていた。博士は流暢な(というよりもむしろ生まれ育った国の言葉であるかのような)中国語で少女に何やらを指示した。少女の名前を呼んだのだろうか?また「レイファ」という単語が何度か使われていた。彼女は無言で頷くと、私に向かって斜めに深々と頭を下げた。
「レイファといいます。日本のなまえは正木麗花(まさき・れいか)、麗しい花と書いてレイファです」少したどたどしい日本語で、少女は自己紹介をした。
「吾輩の娘じゃよ、彼女の母親は日本軍に殺された。吾輩が養子として育てたのだ」正木博士はそう言うと少し照れくさそうに視線をそらせた。
「お部屋に案内します、哥哥」麗花は私の元に歩み寄り、まるでダンスをねだるかのように手を取った。傍らに置いた私の鞄には必要最低限の衣類と旅道具しか入ってはいなかったが、それでも女性が持つには十分に重い物だった。彼女はいとも軽々と持ち上げると、廊下へ通じるドアーを開けた。民間人を軍施設に入れる事はたとえその家族であってもままならない筈である。正木博士という人は、私のような一下士官には想像も付かないような、とんでもない特権を与えられているに違いない。
 私達は寄り添うようにして廊下に出た。水仙の甘い香りが少女の体から放たれ漂っていた。なんと清楚で、またなんと甘美な香りだろう。その時の私の姿を、壮絶に海に散った父が見たら嘆き悲しむことだろう。鼻の下は伸びきり、父の仇伐ち、軍人の本懐も何処へやら、まるで雲の上で小躍りしている阿呆な兔のような、実にだらしなくも情けない顔を曝していたに違いない。しかも軍人としてあろうことか、幼婦女に荷物を持たせ、前を先導されているのだ。
「自分は赤子ではありません!」私は麗花の手を振り切ると、タッと彼女より前に歩み出て、ひったくるように鞄を奪いかえした。彼女は手を振り解かれた事がショックであったのか、鞄をひったくられたのにびっくりしたのか、私の予想を上回る悲嘆の表情を見せた。私は瞬間的に自分の愚かな見栄を呪った。
「すみません」私は彼女の顔を覗き込むように腰を落として謝った。「自分はそんなつもりでは」
 麗花はいきなりこわい顔をしてさっさと歩き出した。ヤレヤレ今度は怒らせてしまったようだ。麗花がぷりぷりと早足で案内してくれた場所は、陽当たりの良い南側の部屋であった。私は鞄を放り出してベッドに飛び込んだ。スプリングの効いた上等のクッションである。麗花も部屋に入ると後ろででドアーを閉め、日射しの強い窓にレースのカーテンを引いた。室内が心地よいメッシュの涼しさに満ちた。
「先程は失礼しました、自分は悪気があったわけではありません。ただ、、」貴女があまりに美しいので戸惑ってしまっただけなのです、とは言えなかった。膨れっ面をした麗花には、先程までの妖艶さはなく、だだっ子のように無邪気な少女の可愛らしさがあった。私は少し気持ちを和ませた。
「哥哥、莫迦ね」麗花がポツリと喋った。
「君、さっきも言いましたね、ゴゴ。ゴゴとは何ですか?」
「哥哥(ゴゴ)は、お兄さんの事」少し機嫌を戻したのか、麗花は歯を見せて微笑んだ。その笑顔は太陽の様だった。
「自分は貴女の兄ではありません」
「はい、知ってます。でも、老大は、あなたをわたしの親戚と言いました。親戚のお兄さんですから、哥哥と呼んでいいです。哥哥と呼ばれてはこまりますか?」
「それで、構いません」私は彼女がまた、つまらない事で気を損ねたりしないように、この事にはこれ以上こだわるのをやめることにした。何と呼ばれようと別段、構わないじゃないか。
「申し訳ないが長旅で疲れているんです。少し眠らせていただけないでしょうか?」私はベッドの上で目を閉じながら言った。しばらくして、彼女が部屋を出て行くのがわかった。私が眠り込んだものと思ったのか、彼女がことさらにドアーを静かに閉めるのがわかった。
 博士は何故、私を麗花の親戚だと言ったのだろうか?私には当然中国に親戚は居ない。麗花は中国人ではないのか?しかし美しい少女だ。そして美しいばかりではない。あのふとした横顔は、私を言い尽くせぬノスタルジーに誘う。確かに何処かで以前、私はあの少女に会っていたような気がするのだ。あの水仙の匂い、もどかしくも懐かしい、甘美な忘却に私は身を捩った。そしていつの間にか深く熟睡してしまったのである。

 目を醒ますと、朝日が東の空から穏やかな大陸の夜明けを披露していた。いかん、私はあのまま眠り込んでしまったのだ。軍服も着替えずにだ。何と言う不覚だろう。懐中時計を開けると、午前7時を回っている。何と言う事だ!ここには起床ラッパはないのか!?
 私は大慌てで飛び起きた。足下を見てもう一度慌てた。そして私は我が眼を疑った。何と!麗花が床に倒れているのだ。しかも、一糸纏わぬ全裸である。近づいて耳を澄ませると寝息が聞こえた。私はホッと胸をなで下ろしたが、それにしても何故彼女はこんなところに寝ているのだ。しかもこんなあられもない姿で。よく見てみると、私は軍靴を脱がされ、腰のベルトを外され、胸元も緩められていた。彼女がやったに違いない。私は慌ててサーベルを探した。部屋のどこにもサーベルらしき物は見当たらない。何と言う不覚!
 ドアーを叩くノックの音に、私の心臓は破裂しそうに高鳴った。私は咄嗟にドアーのノブを強く押さえると、「はい」と裏返った声を上げた。
「おはよう、正木だ。よく眠れたかね」
「はい!今朝は申し訳ありません」私はドアー越しに応えた。
「ははは、構わんよ。良く眠っておったので夕食にも起さなんだ。ハラは減っておらんかのお」
「はっ只今着替えをしたのち、直ぐに出頭いたします!」
「そうか。朝食の用意が出来ている。食堂で待っておるぞ。ゆっくりといらっしゃい」
 私はこの時、この場所についてタッタ一つの事がわかった。ここには規律も規則もない。ここは軍隊じゃない!一体私は何をしているのだ。いや、正確には一体私にここで何をさせようというのだ。
 私はもう一度部屋中を捜しまわった。しかし私のサーベルは無い。何と言う事だ。もしも帝都であったなら、サーベルを装着せずに出歩くだけで軍法会議にかけられるところだ。そうだ、麗花、彼女なら知っているかも知れない。私は椅子に掛けられた中華服を取ると、彼女の上にかけて身体を優しく揺さぶってみた。
「麗花さん、麗花さん」
 麗花は眠た気に眼を擦ると私の顔を見上げ、「哥哥」と一言呟いた。
「麗花さん、どうかお願いだから服を着て下さい。そして、私のサーベルが何処にあるか、もしも知っていたら教えてください。私 の サ ー ベ ル」
「サーベル?」彼女は不思議そうに首を傾げた。通じていないようだ。私は手真似で長い棒のような物を腰にあてる仕種をした。
「ああ、わかりました、サーベル。老大が持って行きました」
 何だと!?
 私はサアっと青ざめた。鞄の中をひっくり返し「南部」の所在を確かめた。「南部」もそこには無い!
 どう言う事なのだ!私は初めて怒りを覚えた。なぜ本官が捕虜のような扱いを受けねばならないのかっ!怒りに沸騰する頭を鎮めるため、私は深呼吸をした。麗花はその私の挙動に何やら恐怖したのか、服を着るとサッとドアーの外に消えた。この時の私には、正木博士に指揮権を与えている事が不当であると判断された。そうか、もしかすると私の任務はそれを調査する事なのかも知れない。そうだったのか。そうとわかれば、此所で起きている事を一部始終探り出し、内地へ帰還した際には有りのままを詳細に報告してやる。正木は指揮権を濫用して、いたいけなる少女までをも慰安婦として酷使しているのだ。
 私は急いで軍服の姿勢を正すと、食堂へと向かった。長い廊下は中庭を中心とした回廊づくりになっていた。ここまで来て私の足は釘付けになってしまった。信じられない光景がそこに展開されていたのである。中庭の中央には巨大な仏頭がかしがって放置されていた。その周りには、何やら不可解な行動をとる数人の男女がいた。上半身裸の農作業らしき動きを見せている白髪の老人、その傍らには老人の作業をニコニコと微笑みながら見守る青年、また、老人の耕す仮想の畑に、瓦片や竹串などをあたかも稲のように植え付けようとしているソバカスの少女、この少女は時折り、自分の行動に満足できない様子で癇癪を起こし、信じられないような力で竹串を引きちぎっている。また、反対側の煉瓦塀に向かって、ひとりの男が何やら辻説法のような事をしている。その後ろには、子供の紙細工のような王冠を冠った白塗りの年増女。その年増女をまるで女神かなにかを拝むように礼拝している中年の髭男。この男の周りでいつ止むともわからないパドゥドゥを繰り返している三つ編みの少女。肩を組み中庭全域を歩き回っている二人の男。着物の虱を神経質に捕っている太った老婆。時折この老婆が着ている物を全て脱いでは、バタバタとそれをハタく。それを見て中庭の全ての人物がわずかの間大笑いする。しかし直後にはまた再び、全員がそれぞれ判で押したように同じ行動を再開するのだ。まるで実験演劇の舞台のように、男女は決められた行動を忠実に再生していた。私は我が眼を疑った。この人達は一体何者なのだ。
「面白いかね?」急に声をかけられ、ギクリとして振り向くと、私の横には正木博士の小さな躰があった。「遅いので迎えに来てしまったよ」
「博士、これは一体、、、」
「彼らは丁度天体がバランスを保って引き合うように、完結した小宇宙を構成しているのだよ。吾輩の研究の成果物だ。芸術作品、オブジェといってもいいだろうねえ。前は狂人解放治療場というタイトルだったが、最近モットスバラシイのを思い付いたんだよ。ドクター正木エンジンというのはどうかね」
「ドクター正木エンジン?」
「そう、精神性の永久機関なのだよ。マア、凡人のオツムでは分からんかも知れんがね」正木博士はゆっくりと歩き出した。後を追って私も歩き出した。中庭の光景に圧倒され、先刻頭に上った血は全て引いてしまった。先ずはあまり逆らわずに状況を窺うのが得策だろう。私はそう考えた。
「彼らは役者なんですか?」
「マア、人生が芝居だと言うのなら、そうも言えるだろうね。ところで呉村君、君の武器は全て預からせてもらっているよ。ここでは必要なかろう」
「それは困ります。第一軍事規定が、、、」
「軍事規定?それもここでは必要ない」
「失礼ですが博士、あなたはここで何をしようとしているんですか?」
「それはこれから説明するよ。君は大切な協力者なんだからね」
 私達は話しながら回廊をぐるりと巡り、大食堂の扉を開いた。食堂の内部は真っ暗で、窓には暗幕がかけられている。私達を待ちかねたかのように、食卓についた数人の男女がこちらを向いた。その中には麗花の姿もあった。
「何処でもいい、席につき給え」正木博士は言った。何処でもと言われても、空いているのは麗花の隣だけだった。
「博士は?」
「吾輩は映写機の準備があるのでね。ちょっと失礼するよ」博士は食卓の傍らに置かれた映写機の後ろに陣取った。成る程この部屋を真っ暗にしているのは映写をする為だったのだ。私は促される通りに麗花の隣に腰掛けた。麗花が私を見て微笑んだ。
「サアテお立ち会い!」博士のかけ声で、銀幕にパッと四角い光が写し出された。「空前絶後の活動大写真、浪漫とスペクタクルの大巨遍、題してアンポンタイムポカンのはじまりはじまり〜。弁士は小生、正木敬之が務めまする〜。さあ、皆さん御一緒に、3、2、1、0、タ〜イムポカ〜ン!」

 

活動大写真 アンポンタイムポカン

音楽 軽快なタンゴが全編に流れる。バンドネオンとバイオリンの二重奏。
オープニング バイオリンの音が軋んでブランコの揺れる音となる。

字幕 アンポンタイムポカン 監督/脚本 正木敬之
映像 暗闇からフェードイン。刑務所の独房のような部屋。一人の男が目を覚す。
弁士 ブランコの軋むような音で突如目を覚したこの男、われらが主人公アンポンタンマンであります。
字幕 ここはドコダ
弁士 アレレ?悲しきかなアンポンタンマン。目覚めたココがドコなのか、はたまた自分が誰なのか、全く記憶がないのであります。
映像 頭をかかえる男。首をかしげる。激しく首を振る。
字幕 ぼくはダレ?今日はいつ?
弁士 癲狂院か刑務所か、あれこれ悩むアンポンタン。
映像 視点が変わり、男の足が男の視点で映される。足の向こう側には便器に蓋をした机、その上の便箋と鉛筆がクローズアップされる。
字幕 便箋と鉛筆
映像 男、ポンと手を叩いて何やら思い付いた様子。
字幕 そうだ!
弁士 激しくひらめくアンポンタンマン。何やら名案があるようであります。
映像 便箋に駆け寄る男。鉛筆を持って先をちょっと舐める。
字幕 未来の自分に手紙を書こう。
弁士 成る程過去がないのなら、過去を書いてしまえばよい。次に目覚めるその時にゃ、キット歴史が残ってる。
映像 便箋のアップ。男、文字を書こうとして止める。便箋を顔に近付けて凝視する。
字幕 あれっ、何か書いてあるぞ
弁士 彼が気付いた事はと言えば、一枚前の便箋に、確かに書いた跡がある。それが証拠にこの紙に、くっきり残った凹凸が、動かぬ証拠というわけだ。
映像 男、独房の扉を叩く。
字幕 一枚前の紙を返せ!
弁士 誰が書いたか明白だ。過去のぼくが、今の自分に、宛てた手紙があったはず。誰が取ったか盗んだか、返してくれよと叫びます。
映像 男、ちょっと疲れて、怒ったまま肩で息をしながら小休止する。次の瞬間に表情が一変して明るくなり、またポンと手を叩く。
字幕 そうだ!
弁士 またまたイイコトひらめきました。
映像 鉛筆の芯の腹を便箋に擦り付けて塗りつぶしてゆく男。便箋から文字が浮かび上がる。満足げに頷く男。
字幕 これで読めるぞ
弁士 この手があったさざまあみろ。これで過去から自分に宛てた手紙が読めるというものです。ぼくがどうしてココにいる。そして一体ぼくはダレ。すべての謎がとけるのです。
映像 ふむふむと頷きながら便箋を読む男。次第に眉を上げ、驚きの表情に。
字幕 そうだったのか!
弁士 なるほどなるほどそうだったのか。これですべてがわかったぞ。
映像 再び男、独房の扉を叩く、今度は便箋を鉄格子から差し出し、叫んでいる。
字幕 聞いて下さい!全部思い出しました。
映像 視点変わって独房の外側。なんだなんだ、どうしたんだという感じで、看守のような人物が2人、独房の扉に駆け寄り、便箋を受け取って顔を見合わす。
弁士 過去がわかったアンポンタンマン。先生ドコダと騒ぎます。先生に会ってこれを見せれば、ぼくはここから出れるはず。
映像 看守が男を独房から連れ出し、男の両脇に立って何処かへ連れ去る。男、満悦の表情。
字幕 先生に合わせてやる
映像 シーン変わって取り調べ室のような場所。男は正木博士と向き合って座っている。正木博士は便箋を読み、読み終えると男に投げ付ける。
字幕 こんな馬鹿な話があるか
映像 正木博士、人間の脳みそを大きなガラス瓶から取り出して、男に見せる。
弁士 ところがどっこい先生は、全く相手にいたしません。やっぱりお前はまだだめだ。頭の取り替えやりましょう。
字幕 新しい頭と交換しよう
映像 男、恐怖に顔をひきつらせて大きく首を横に振り続ける。看守が無理矢理男を両脇から立たせる。
字幕 いやだ!たすけてくれー
映像 男、看守2人に両側から押さえられ、引き摺られて何処かへ運び去られる。その後を正木教授がついて行く。
弁士 あわれアンポンタンマンの運命やいかに。これにて一巻の終わりでございます。
映像 暗転。
音楽 バイオリンの音が再び、ブランコの揺れるような軋んだ演奏になる。

 映写機が止まって沈黙が続いた。何処が浪漫とスペクタクルだったのか定かではないが、私には衝撃的な内容であった。というのも、この映像が私にとって強烈な既視感を起こさせるものだったからだ。映画の最中、私はずっと強烈な既視感の渦中にあった。具体的に言うと、これらは全て以前私が体験した事のような気がしたのだ。しかしそんな体験をした憶えはさらさらないのだ。不思議な事だが、ただ強烈にそういう気分になったのだ。そして決定的に私を震撼させたのは、映画のの中に登場した男の顔が、私の顔と同じだった事である。似ているというレベルの話ではない。ほぼ全く同じ顔という他はない。鏡を見ているようだった。
 麗花がそそくさと暗幕を上げに立ち上がった。暗幕が上がり、部屋に十分な日光が差し込むと、姿の見えなかった食卓の参加者がその全貌を曝け出した。この時私は更に異常な光景を目撃することになる。その参加者は、3人が3人とも私とそっくり全く同じ顔をしていたのだ!
「如何でしたかな?映画の感想は」正木博士が口を開いた。「これは活動写真仕立てになっていますが、ある精神科学応用実験の実録映像なのです。と言っても初めから順を追ってお話しないと、皆さんはお解りになりますまい。ズバリ申し上げましょう。この陸軍機密通信媒介研究所の主たる目的は、ロシア革命直前に開発された暗号『ドグラマグラ』を解読する事にあるのです。
 御存じの通り、我が大日本帝国は明治27年、日露戦争に於いて圧倒的な勝利を納めました。しかしその背後に、日本軍の軍事密偵の活躍があった事はあまり知られてはいないのです。折しもロシアでは、長い皇帝による圧制が、各地に反政府地下組織を作る結果に至っていたのです。日本軍の軍事密偵は、ロシア共産党に情報工作を試行し、労働者階級を革命へと煽り立てるという謀略戦術を用いたのです。ロシア軍が極東の戦線に於いて大日本帝国に完敗することは、ロシア共産等にとっても、理想の新国家を建国する上でよい足掛かりになります。また、ロシア不平党の党首シリヤスクと手を組み、スウェーデン、フィンランド、ポーランドなどの地下組織、反政府勢力と接触することで、反政府運動の地下組織や秘密結社、革命党諸派の統合を計ると共に、莫大な工作資金を彼等の武力設備に注ぎ込んだのです。つまり大日本帝国陸軍は、ロシア革命を全面的に援助し、大帝国ロシアを内部からボロボロに崩壊させることで、日露戦争を勝利に導いた。これが歴史書には語られていない、真実の日露戦争の裏舞台なのです。
 現在ソビュエト連邦は、我が国の脅威となっています。ソ連共産党の密偵ゾルゲが処刑されたのは今年の11月、まだ記憶に新しい事です。ゾルゲは日本がソ連に進出する機会を探っていたのです。ソ連にとっても三国同盟調印以来、ナチスドイツに並んで大日本帝国は、彼等の脅威の対象となっているということです。
 ですが革命直後の一時期、ソ連共産党と我が国の関係は先般の理由により、かなり親和的なものでした。我々帝国陸軍と黎明期のソ連共産党は、実はある秘密の合同作戦を実行していたのです。これは最高機密事項になりますので注意してください。それというのは、ロマノフ王朝が何処かに埋蔵したと言われる、莫大な遺産の発掘調査です。」
 何と言う事だ!ソ連軍と我が陸軍が、機密に実行していた合同作戦!それが、あの伝説のロマノフ家の隠し財宝の発見だと!?しかしそれと先程見せられた精神科学の実験映像と、一体どんな関わりがあるというのだろう。
「皆さん、驚かれた御様子ですな、はっはっはっはっは。
 さてそれでは、皆さんが恐らく疑問に思っておられる、先程お見せした実験映像とロマノフ家の遺産との関係を御説明いたしましょう。我々大日本帝国陸軍とソ連共産党は、およそ3年の歳月を費やして、ある文書を手に入れました。入手の経緯は長くなりますので割愛させて貰います。言語学者や記号学者、暗号解読の権威等による分析の結果、この文書はロシア語は勿論の事、他のありとあらゆる言語ともまったく異なった文字と文法によって記述されている事が判明しました。ただ、古代ヘブライ語系文字のパターンで、『ドグラマグラ』と発音出来る事から、仮にこの文書を『ドグラマグラ』と命名しました。発見の経緯からして、大凡この文書の内容が、ロマノフ王朝の遺産について書かれたものであるのは間違いないという状況でした。
 早速、様々な方面から何百人という学者が、この文書の解読に取り掛かりました。しかし何たる事か、ソ連側も日本側も、この文書の解読に携わった人間達が、ことごとく発狂もしくは何らかの精神障害をきたすのです。この為一時解読は中断してしまいました。2国の合同調査もいつの間にやら頓挫してしまったという訳です。
 そこで吾輩、正木敬之の登場と相成ります。お恥ずかしい話だがね、阿呆陀羅経で全国を行脚しておった時にお縄になってしまったのだよ。軍人は阿呆たれだの兵隊は犬死にだのとやっていたからねえ。もしご希望があれば、その時に配っていた冊子を進呈してしんぜよう。勿論お代はタダだよ。」
 正木博士は本当につかみどころがない。彼は「一億玉砕火炎地獄」と書かれた印刷物を懐中からやおら取り出すと、高く掲げて見せた。
「エヘン。話を元に戻します。お縄になったこの吾輩に、何とも名誉な不名誉な、陸軍大佐の肩書が頂けたそもそもの理由とは、何の事はない、タダちょっと酔狂で『読んだらキチガイになってしまう文章と言うのをシットルカネ?』と憲兵にヨタを言ったのが悪かった。暫くは九州大学医学部教授と軍事機密研究者の掛け持ちだあ。そのうちにアレヨアレヨと盥回しだ。気が付いたらヤレ、死んだ事にされたり投獄されたりで、結局専業軍事技術者。ここでこうして皆さんに活動写真を見せておると言う次第。はっはっは。
 サアサア、そろそろ本題だア。何故に吾輩があのような実験をしているかと申しますと、吾輩の永年の研究であるところの『心理遺伝』の学説に、お陰様で新たなるサンプルが登場したのです。それが『ドグラマグラ』です。読めばもれなく狂人となれるこの文書。はてさてどういう仕掛けになっておるのかと首を傾げてみたところ、ああなんだそうだったのかと気付いたのです。『読めば狂人になる』則ち『狂人が読めば正しくなる』。なんで今までこんな簡単な事に誰もが気付かなかったのでしょう。やはり吾輩のオツムの出来は、ボンクラソ連の学者連、オトボケ日本の博士連とは根本的に格別なのでありましょう。
 名案だと思いきや、吾輩の患者に見せたが何の反応もない。解読どころか見ようともしないのであります。そもそも狂人というものは我がままなもので、己に関係ないことは全く眼中にないのです。逆に、自己への関心というものは、狂人ならずとも非常に捕らわれやすいものです。自分は何処から来て、何処へ行くのか。己を知る事が正に書くのエクスタシィなのです。吾輩は何とかこの文書を、患者自身が書いたモノだと思い込ませるよい方法はないかとあれこれ思案するうちに、巧い方法を思い付いたのであります。それが先程お見せしましたるところの映像でございます。
 被験者には一時的の記憶障害がある患者を選びます。脳の構造とは不思議に出来ておりまして、新しい記憶は『かいば』という場所で作られて脳の内部へ内部へと時間と共に移行してゆくのです。記憶障害のある患者は脳の一部に欠陥があるので、ある場所から更に古い深い場所へ記憶が移動出来なくなっております。丁度橋が落ちてしまった山道のようなもので、どんどん新しい記憶が迫ってくるために、古い順に記憶はこぼれ落ちてしまうというわけです。個人差は多少ありますが、一日経過するともう、昨日の事を何も覚えていないといった症例はままあるものです。こうした患者を時計も暦もない密室に閉じ込めて、便箋と筆記具だけを渡します。患者は必死になって自分の記録を付けはじめます。最初の1日2日は勝手にやらせておいて、3日目ぐらいに例の文書『ドグラマグラ』を彼が書いたものと差し換えておくのです。通常健常者がこれを見つけても、見た事もない文字の、知らない言語の文書ですから読もうと努力しはしません。しかしある種の狂人には、これを恐ろしい読解力を以て読んでしまう事があるのです。そして自分が書いたと思い込むので、続きを書くつもりになり、ひいては解読文が彼の手によって作出されるという仕組みです。どうですか?中々素晴らしい方法でしょう?実際この方法で過去何回かは成功に限り無く近付いたのです。呉一郎という患者は、九州大学医学部に於ける実験で、この方法により前代未聞の奇書を書き上げました。現在、吾輩の手許に長篇短編種々様々な、患者による『ドグラマグラ』解読書が集められています。中でも韓民族呉家の末裔に遺伝する『殺人性変態性欲』の『心理遺伝』には、どれも共通の因子がある事に気付きます。呉一族の患者が創出する解読書には、皆あらゆる点に於て共通点が見いだせるのです。この共通因子を解析してゆくことにより、必ずや暗号の真解に辿り着くと吾輩は確信しておるのであります。
 ここに集まっていただいた方々は、このシステムの被験者になる素質を十分に備えています。いや、君達をおいて他にはないと考えます。
 君達の任務に関する説明を終わります。何か質問のある方は?」
 同じ顔をした私達4人は、同じ表情の顔を見合わせた。私以外の3人も(あろうことか)私と同じ軍服を着用していた。この3人は役者か何かで、私は大掛かりな罠にはまっているのだろうか。彼等もまたそれぞれが、そのように感じているかのごとく、猜疑心と警戒の眼差しを私達それぞれに対して向けているのである。三面鏡の中を覗き込んだ時のような、実際異常な光景だった。
 正木博士の話も、にわかには信じがたい。何か質問があるかと言われれば、それは山程もあった。呉一族について、狂人の作文に秘宝の在り処が記されているという根拠について、その他いろいろだ。その中で最も重要かつ関心のある質問は、私が記憶障害を持っていないという事を、博士がどう考えているのかだ。他の3人はいざ知らず、私は物覚えは悪い方ではない。士官学校の成績がそれを証明してくれるだろう。私には、博士が彼の実験の被験者として欠く事ができないとする要素が備わっていない。山程ある質問の中から今最初に質問したいのはその事である。私はゆっくりと腕を挙げた。ほぼ同時に、他の3人も手の平を博士に向けながらゆっくりと腕を挙げる。気味の悪い程のシンクロナイズ。 正木博士は、自分から最も近い一人を指差して質問を促した。
「では質問します。最初に断わって置きますが、自分は記憶障害のある患者でもなければ、他の精神障害もありません。実験の被験者として、自分は相応しくないのではないですか?」
「いやいや、君は立派に私の患者ですよ。記憶障害もある。丁度12時間でそっくり頭の中身がリセットされてしまうんだよ」
 私そっくりの彼は反論する。
「しかし自分は、12時間前の事も、昨日の事も1週間前の事も1年前の事も全部記憶しております」
「くっくっくっく」正木博士は含み笑いを堪えると、食卓の天板の裏からサーベルを取り出した。はっと私は思った。それはまぎれもなく私のサーベルだった。「では、逆に吾輩から君達に質問するが、このサーベルは誰の物かな?」
「それは自分のであります」私は咄嗟に応えた。私の声が幾重にも重なって聞こえた?そうではない。他の3人も同時に同じ事を言ったのである!
「あっはっはっはっはっはっは」博士が堪えきれずに大笑いをした。「これは、吾輩の物だよ」そう言うとサーベルを鞘から少し引き抜き、刀の腹にある彫銘を見せた。正木敬之とあった。
「君達は全員、自分の事を呉村一馬という陸軍少尉だと思い込んでおる。しかし実際は違うのだ。それぞれ別の名前があり、呉村一馬という人物とは別の生い立ちがある。いやいや、陸軍士官の軍服は4着分、なんとかかんとか調達したんだがね、サーベルだけは吾輩のしかなくてね。」
 そんな馬鹿な。あのサーベルは私の物だ。私は正真正銘の呉村一馬である。他の3人も皆、自分を呉村一馬だと思っていると言うのか?しかし誰も、ここに居る4人は誰も、呉村一馬ではないというのか?馬鹿げている。私は誰が何と言おうと呉村一馬なのだ。ハハア、こういう仕掛けを作って人格を崩壊させるのが、この正木というペテン師のテクニックなのだな。似たような男を探してきて整形したのか?私そっくりの人物を3人もこしらえ、こんな猿芝居を演じさせて、一体目的は何なのだ。私を精神病患者にして、何を企んでいるのだ。
「君達、覚えているかね。5才の頃、親戚のおじちゃんに連れられて浅草に寄席を見に行っただろう。演談中、噺家の首が一瞬グルリと360度回転した。誰か人に喋った事があるかね?」
 すっかり忘れていた幼少期の奇怪な体験を、私はハッと思い出した。そう、あれは目の錯覚か何かの見間違いだと、今まで自分に言い聞かせていた事だった。あまりに幼かったので演目も噺家の名前も覚えていない。ただそのまん丸の顔とマアルイ縁の眼鏡と、かん高い声だけは記憶している。そして演目の途中でその卵のような頭がグルリと回転したのだ。幼い私は腰を抜かす程驚いたのだが、周りの大人達は何も気付かなかったように笑い転げていた。誰にも喋った事はない。信じてもらえないと思ったからだ。
 そうだ!思い出したぞ。私はこの正木という老人を、出会った時からずっと、何だか見覚えがある顔、聞き覚えのある声だと思っていたのだが、この時初めて、以前何処で彼を見たのかを思い出したのである。そう、彼はあの時の噺家だ!
「記憶と言うものはね君達」と正木博士。「何十年という長い間の思い出であろうとも、一瞬にして植え付ける事が出来るのですよ。まだ、わからないのか、鈍い奴らだ。君達の記憶は、全て吾輩が与えたものなんだよ」
 頭の中が真っ白になった。懐中時計の音だけが、チッチッチッチと次第に大きくなってゆくのが聞こえた。私は自分の心臓でも取り出すかのように、懐中の金時計を鎖で手繰り出した。午前10時を回っている。額の汗が目に入り、ひどくしみた。ローマ数字の文字盤が二重に重なってボンヤリとする。フト他の3人を覗くと、3人もまた、懐中から金時計を出して、他の3人の懐中時計を眺めている。
 朦朧とした頭で、私は考えた。一体博士は、私にどうしろというのだ。
「君達はもう既に十分に実験のお手伝いをしてくれているよ」まるで私の心に呼応するかのようなタイミングで、正木博士が言った。「さっきお見せした活動写真の主人公も、実は君達自身なんだ。君達はつい昨日大連に着いたつもりでいるが、実はずっと前から吾輩の手中に居る。」
 心臓が早鐘のように鳴った。金時計の針の音は、もう耳を塞がざるにはいられない程の大きい音になった。これが悪夢なら、早く覚めてくれ!
 正木博士は、懐中から「南部」を取り出した。口元は笑みを浮かべている。彼は自らのこめかみに銃口をあてると、静かに引き金を引いた。私は見るに見かねてギュッと目を閉じた。
 鼓膜をつん裂くような銃声!
 長い長い耳鳴りが続いた。目蓋の裏で金時計の文字盤が縦横無尽に現れては消える。II、III、X、VII、XI、VI、I、V、IX、IVXXI IVI.....

XIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVIXIIVI

 目が覚めたときには、婚約者の麗花は死んでいたんだ。あの朝に見た夢は、本当に不思議な夢だったな。俺が戦争中の士官学校卒業生だなんて。
 最初は寝ているだけだと思っていたんだ。その前日に俺達は遅くまでおきてたから。昼ぐらいまで寝かせてやろうと、それぐらいにしか思ってなかったんだ。本当に殺した事なんて憶えてないんだよ。
 死んでいるんだとわかった時はびっくりしたよ。どうして警察に電話しなかったかって?どうしてかな?俺にもわかんねえ。でも死んでるんだったら裸にしてもいいよなって思ったんだ。そう、指一本触れさせてくれなかったから麗花は。やっと俺のアパートに来てくれてさ。今日はできるなって思ってたからさ。でもアイツ先に寝ちゃって。勇気なくて中々切りだせなかった俺も阿呆なんだけどよ。でも先生。俺このまんま、童貞のまんま死刑になっちまうのかなあ。そう思うとあん時が女の裸を生で見た、最初で最後って事ダヨナ。
 なんで10日間も死体と一緒に居たかって?それもよくわかんねえんだ。気が付いたら警官がどかどか入ってきてさ、10日も経ってたなんて後で知ったんだよ。死因は絞殺だったっていうことも後で知ったんだ。本当に俺やってないんだよ。信じてくれるよね、正木先生。
 そうだ。この間テレビの時間に、正木先生そっくりの人を見たよ。中国の考古学者で、蘇 普程(そ・ふてい)っていう人だよ。中国読みだと、スープーチンて読むんだって。なんでもさ、凄いお宝を発掘したんだってさ。本当にそっくりだったな先生に。
 先生、俺恐いよ。先生は仏教の教戒師だから、「生命は永遠だから、前世の記憶は全部無くしてるが、必ず君は君としてまた生まれ変わる」なんて言うけど、死んだ事ないだろ?

 死刑囚が人生で最後に聞く音って知ってる?ブランコが揺れて軋む音なんだってさ。本当は死刑台の踏み板が外れて揺れている音なんだけど、子供の頃に公園で乗った、ブランコの音に聞こえるんだって。誰も生きて返って来た奴はいないから、どうせ眉唾な話だけどさ。


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