楽園

by つぶら



 目が醒めると、隣に女が寝ていた。
「起きたの?」
 蒲団から半身を起こすと、女が声をかけた。
「ああ、」
 応えて呼びかけようとしたのだが、ずっと前からそこに居たような気がする
女の名前が、けれど如何しても思い出せない。
 私が思い出せないでいるのを見抜いたのか、女が云った。
「思い出せないの?」
 女は哀しそうに俯くと、はらはらと桜の花びらを零した。
「早く、私の名前を思い出して頂戴」
 女は云う。
 私は何とか思いだそうとするのだけれど、その部分だけが丁度、まるで霞が
かったみたいに曖昧模糊としている。どうにかしてそこまで手を伸ばそうとす
るのだけれど、早く早くと女が急かす度に、その靄靄としたものはするりと私
の手から遠ざかり、如何にも掴み取ることができないのであった。
 ふいに、焦れた女が私の方に腕を伸ばしてくると、その指先がごつごつと節
くれ立った樹の枝に変わっていた。
 怖くなって思わず突き飛ばすと、また女の双眸から花びらが零れる。
 其の侭見ていると、みるみるうちに女の髪が伸び枝を形作りやがて枝の先か
ら小さな花芽が芽吹いて桜の花を咲かせ始めた。
「貴方が思い出さないからよ」
 そう云いながらも滑らかだった女の体躯は、次第にごつごつした樹の幹へと
変わっていき、やがて立派な桜の樹になった。
 かつて女だったものと私は、そのまましばらく見つめ合っていた。
 窓から射し込む光を受け、花びらを散らしながら、桜は悠然と聳えている。


 目が醒めると、隣に女が寝ていた。
 女の体躯はいつもと同じ様に、白くて、すべらかな曲線を湛えていた。
 私は何故だか解らないけれどそのことに無性にほっとして、手を伸ばしてつ
るんと丸みを帯びた乳房をまさぐると、その先端に口づけをした。
 途端に女は、ごつごつとした桜の樹に姿を変えていた。
「起きたの?」
 桜色の声で女が云う。
 いつの間にか、部屋中に桜の匂いが経ちこめている。噎せ返るようなその匂
いにくらくらとして、思わず窓を開けようと近づくと、
「だめよ」
 女の枝に引き留められた。そのまま私を抱き寄せる。節のある指が身体に刺
さるのが、酷く、痛い。
「やめろ」
 思わず怒鳴りつけると、女は枝を解いてはらはらと花びらを零した。もう何
万回も見たその姿にうんざりして、
「そういうのが厭なんだよ」
 私が云うと、女はなおも泣き続ける。
「私のせいじゃないのに」
 聴こえるか聴こえないかというほどの小さな声で、桜が云った。その一瞬だ
け、女が桜から女に戻る。云い終えた途端、女はまた桜になった。
「私のせいじゃないのに」
 耳元で繰り返される言葉は、降り頻る花びらの音と相俟って奇妙に甘く響き、
まるで愛を囁かれているかのような気持ちがした。女の声がりんりんと響き続
ける。声が鳴り、声が止み、その度に女の姿は萎み膨らみする。私のせいじゃ
ないのにわたしのせいじゃないのにワタシノセイジャナイノニ。
 何かを云い返してやろうと思ったけれど、急に何もかもが莫加々々しくなっ
て、止めた。
 窓の向こうに、鳥の羽ばたきが聴こえる。ちらりと目をやると、既に鳥の姿
は無く、後には残された白い羽と青い空と、遠くに映る菜の花畑が見えるだけ
だった。


 目が醒めると、空はまるで夜のように暗かった。
 実際には女の繁らす花々が、天井から窓から全てを覆い尽くしているだけだ
った。
「起きてたのか」
 声をかけると、女が振り返った。その動きだけでもう、部屋の中はいっぱい
の桜の匂いに満たされる。
 何だか息が詰まるような感じがしたので、窓を開けようと近づくと、窓は、
まるでただの飾りであるかのようにびくともしなかった。
「もう、出られないのよ」
 女がそっと囁く。
「その花は無くならないのか」
 私が訊くと、女はさあと首を傾げて笑うばかりだった。笑っているのに、泣
いていないはずなのに、花は不思議と散り続けている。さらさらと。はらはら
と。そうして少しずつ部屋を、花びらでいっぱいに埋めてゆく。
 うんざりして横になると、花びらの冷やりとした感覚が皮膚を包み込んだ。
 一掴みつかんで、口の中に入れると、口いっぱいに桜の匂いが広がった。
 もう一掴みつかんでは、また口の中へ放りこむ。そのまま勢いがついて、私
はどんどん桜を喰べる。何とかして目の前からこの花を消したくて、私はむし
ゃむしゃと喰べつづけた。けれど、喰べても喰べても花びらは減らない。
 桜の花びらに飲み込まれて、私はもう、溺れそうだ。


 目を醒ますと、視界は一面の黄色に覆われていた。
 身体を起こすと、そこには今にも滴り落ちてきそうに湛えられた青空と、羊
のようにのびやかに曖昧に漂う雲と、そして、そよぐ風に微かに、当たり前の
ように控えめに揺れる一面の菜の花畑があった。
 私はその穏やかな光景に、思わず我を忘れて見入った。
 菜の花の香を運ぶ気持ちのよい風が、耳の辺りを吹き抜けてゆく。目の前を
ひとひらの蜜蜂が通り過ぎる。目いっぱいに伸びをして、菜の花の香りの風を
吸い、吐き出す。あまりにも満ち足りた光景に、もうこれ以上望むものなど、
無いような気がした。
 なのに、どうしてだろう。その光景は穏やかで穏やかで、あまりに穏やか過
ぎて、胸の奥に微かな痛みを覚えさせる。
 ふと振りかえると、見覚えのある窓が見えた。何時見たのか、何処で見たの
かすら思い出せなかったけれど、私は確かにその窓を知っていた。如何してだ
かその窓は一面が桜色に染まっていた。
 桜色に染まった窓は、先程覚えた胸の痛みをよりはっきり、くっきりと浮か
び上がらせた。一刻でも早くその窓から目を逸らさなければ、胸の痛みは明ら
かにそう訴えているのに私はその窓が恐ろしくて、懐かしくて、何故だかどう
しても目を離すことができない。
 すると、窓を見ているうちに、あるひとつの名前が胸をよぎった。その名前
は、今目を掠めている桜の窓よりもずっと懐かしく恐ろしく、私の胸をきりき
りと締め付けた。
 如何して、今まで忘れていたのだろう。
 あれは。あの女の名前は――。


 目が醒めると、かつて女であった桜の樹はまだ寝ていた。
 桜の樹の姿をした女は私の手には余り、どうにも抱くことができない。せめ
てひと思いに絞め殺してやろうかとも思うのだけれど、女が桜の樹の姿では、
何処が首やらも判らない。
 窓の外を眺めやると、そこには太陽の光を受けた菜の花が、金色に輝いてい
た。
 せめて女があの花のようであったら、そう思いながら見つめていると、ふい
に背後から声をかけられた。
「また見ているのね」
 そう女に云われた途端に、自分がもう百年も前からずっと、こうしてあの菜
の花を見つめ続けてきたような気持ちがした。
「思い出せないのなら、それでもいいのよ」
「そんなことは――」
 云いかけて私は、自分が再び女の名前を失っていることに気がついた。女は
全て見透かしているとでも云うかのように、さわさわと枝を揺らして幹を翳ら
せる。
「思い出せなくてもいいから。だからせめて、抱いて頂戴」
 桜の樹の女は云う。桜の花びらをぽろぽろと零しながら、女が云う
 私はその要求に如何しても抗うことが出来なくて、そろそろと両腕を女の幹
に回した。ごつごつとした幹の感触が、頬に心地よい。思わず、桜の肌に頬ず
りをした。皮膚が裂け、赤い血が吹き出してくる。構わず、そのまま女の体躯
にしがみつく。
 私の髪を、頬を、女から降ってくる桜の花びらがしずしずと濡らしていく。
 すると、女の涙が私の肌に触れる度、その部分が次第次第に桜色に変わって
いった。そうしてあという間もなく、桜色の薄い皮膚がほろほろと私の身体か
ら剥がれ落ちていった。肌は、跡から後から零れ落ちてゆく。かさかさと、ひ
そひそと、耳にも届かないほどの微かな音を立てながら。
 ふいに脳裏に、先程の窓の向こうに見た菜の花の姿が甦る。明るい日差しの
中でそれは力強く、確かに、輝いていた。きっと幸せとは、あの菜の花のよう
な色をしているのだろう。
 次から次へと降ってくる花びらに応えるようにまた、私の皮膚もひとひら、
またひとひらと薄紅色に剥がれ落ちてゆく。なのに、押し当てた瞼の裏側に感
じる女の幹の痛みは不思議と心地良くて。
 桜に抱かれながら、何処にも往けぬままに、このままゆるゆると朽ちてゆく
のも悪くは無いと思う。




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