或るオトナの一日

by 週刊文学文芸編集長


 「分別盛り」とは正しい日本語なのだろうか?
30代も半ばに差し掛かると「君ももう分別盛りなんだから」とか「あなたも分別盛りと言われる年齢じゃあないですか」などと言われるようになる。はて、おかしな言葉だなあと思ったのは私ばかりではあるまい。「分別のつく年齢」「分別のある大人」と言うのなら意味はわかる。しかし、この「盛り」というのはどうして付いているのか?分別に盛りというのがあるのだろうか?
「盛り」という言葉には、生命の発露のような力強くそして少しエロティックな響きがある。花盛り、女盛り、なまいき盛り、日本盛は良いお酒。また、「盛りのついた犬みたいに」とか言うと、少し下世話だが、その性欲の強さがよく表現されていて非常に明快な意味を持つ。おそらく「オナニー盛り」などという言葉は辞書には無いだろうが、その意味は極めて明白である。ニキビ顔の中・高生の姿を誰もが容易に思い描く事が出来る。
しかしながら、「分別盛り」という言葉は少し変だ。何が変かと言えば、「分別」という理性的な単語に連続して「盛り」という肉情的な言葉が控えているからである。この2つは明らかに同居していてはいけないよ大家さん、と思うわけである。
そもそも「分別盛り」とはどんな状態を差すのか。大手食品メーカーに勤務する36歳の私には、明らかにその渦中にありながら、どうしてもピンと来ない。と、いうより納得がいかないのだ。
私の年齢になって、まあ人並みに結婚もし、マンションも買い、子供も小学校へ通い出し、会社でもなにがしか申し訳けなげなりにも役職や肩書きが付いてくると、当然一方では、金が要る、ノルマも上がる、なまいきな部下は付く、身体に無理もきかなくなる、ストレスは溜まる、といった具合に、とても「分別」なしでは生きられない。「分別」とは堪え忍ぶ事と同義であり、ただただ自らの欲を捨て、煩悩を押さえ込んだりなだめすかしながら生きて行くことだ。最早学生時代に感じていたはずの社会への矛盾も怒りも、もうどうでもよくなり、ただ無心にタイムカードへ向かって出勤し、お小言をもらい、小言を言い、神経を削ったり千切ったりしながら仕事をこなし、がっくりと落ちた肩にベージュのコートを引っかけて、何杯かビールを引っかけて、帰って寝る、の繰り返しだ。何か気晴らしをしたいと思っても、なかなか分別のない行動はできない。「分別」は私を縛り付け、蹂躙し、労働を強いるのみである。
もう少し経って40代50代になれば、落ち着いてくるらしい。若いと自分を思っているうちは、「自分にはもっと大きな仕事ができるんじゃないだろうか?」とか甘い夢を見ていることもあって、なかなか人生に対する諦観も出来ていないが、もう少し年齢を取れば、いろいろな事を自然に諦められるようになって、当然煩悩も減れば苦しみも減るものであるらしい。今がもっとも頑張りどころ、つまりは「分別盛り」というわけだ。
「分別盛り」はその他の盛りモノと異なっていて、受動的であり消滅的である。その根元的正体が我慢と忍耐だからだ。他の盛りモノが解放のベクトルを持っているのに対して「分別盛り」は監禁のベクトルを持っている。全ての煩悩を己の胸三寸に留め、決してキレず、決して逃げず、ただ黙々として現状を受け入れる。これが「分別盛り」といわれる大人の常識なのである。
そしてそのようにして「分別」を己のモットーとしていると、何故だか不思議なことに私に「分別盛り」という言葉ともうまく同居できそうな気がしてきた。いくらかマゾヒスティックに、自らの運命を受け入れる事で、敢えて積極的に分別のある大人であらんという気持ちが湧いてきたのである。分別は社会の常識であり権威に他ならない。その権威を味方にする事は、たとえそれがどんな下層階級の権威であれ、何も持たない者よりは多くの社会的な権利と信用を獲得できる事なのだ。だから分別をかざすことは正に天下の宝刀。常識的な判断と冷静な態度。正に大人の男、ジェントルマンなのである。
もしも仮に貴方の目前で若いご婦人が倒れようとしていたら、当然の事ながら彼女を支えてあげるべきである。手を差し延べ、危機から救出してあげるのが分別のある男性の常識というものだろう。たとえこのご婦人が、まずい面の上に更にウンコを塗ったくったような山姥ギャルで、倒れそうになった原因があの危痴害じみた厚底ブーツにあったとしてもだ。
山手線のホームから階段を降りていた時の事である。私はその少女の小脇に駆け寄ると素早く彼女の二の腕を掴んで、バランスを取った。彼女はもう片方の腕を2度振り回して事なきを得た。瞬間的に掴んだ少女の腕が存外に柔らかかったので、私は何か触れてはいけないものに触れたような気がして、彼女がバランスを戻したのを確認すると素早く手を引っ込めた。彼女は掴まれていた腕を引っ込めると私に向き直った。
当然、私は感謝の言葉を期待する。するだろう?「そういう靴は危ないよ」なんて一言注意をしてその場を去る筈だった。しかし次の瞬間、私には信じがたい言葉がこの少女から吐かれたのだ。
そのガングロメイクの醜い顔を更に歪ませると、少女はこう叫んだのだ。
「いてーなジジイ!何さわってんだよ!変態!」
信じられなかった。少女はもうそそくさと階段を下りている。徐々にこみ上げてくる怒りで頭から脳味噌が噴火しそうだった。私は追いかけてそのケツを思いっきり蹴ってやろうかと思った。彼女は顔面から真っ逆さまに落ちるだろうが、知ったことか!と。私のどこが変態だというのだ、この糞女!だれがお前なんか好きこのんで触るか!
実際に追いついたのは階段から随分と離れた場所だった。私はその頃には馬鹿馬鹿しくなり、足を止めた。分別のある男が何を怒っているのだ。最近の若い娘なんてあんなものだ。いちいち腹を立てていては余計なストレスが溜まるだけだ。私は雑踏の人波に身を任せて歩き出した。
すると二〜三歩歩き出した靴の先にピンク色の定期入れを見つけた。拾い上げるまでもなく先刻の山姥のプリクラが目に入った。あの少女のモノだ。悪い事は重なる。なんでまたこの私がコレを発見してしまうのだ。この上、私に定期まで届けさせようというのか?定期を届けてやったら、今度はまたどんな礼を言われるのだろう。「盗んでんじゃねーよストーカーおやじ!」とでも言われるのだろうか?
駅員に渡して帰ろう。私は改札の脇の窓口に進むと駅員に定期を渡した。駅員は20代と思しき背の高い男で、無言で受け取ると傍らに投げ捨てるように放り出した。その仕草にあまりに不誠実な印象を持ったので、一言だけ付け加えた。
「あの、ちゃんと届けてやってくださいね」
「いや、通知はしますが取りに来てもらうことになりますが」
これもまたぶっきらぼうな言いようだ。この様子だと、落とし主が手にするまでにつまらない時間が経ちそうだ。その間、彼女は定期を使えないのだ。まあ、私の知ったことではないが。
私は窓口を離れて帰路を急いだ。しかしどうも釈然としない。分別のある、分別盛りの私としては、どうも釈然としないのだ。相手がいかなる態度に出ようとも、一度やりかけた親切は最後までやるべきではないのか。歩きながら考えていたらいつの間にか私は、もとの改札脇の窓口へ戻ってきていた。
「先ほどの定期なんですが、やはり私が本人に返そうと思うんですが」
駅員はいぶかしげに私を睨んだ。私はこんなにもこの見知らぬ男からにらみつけられないとならないような何かをしたのだろうか?駅員は「ちっ」と面倒臭そうに舌を鳴らすと、先刻の定期を私に向かって投げ出した。私が受け取ると、またもや彼は私の身体を下から上へなめるようににらみつけた。何という不愉快な扱いだろう。一こと言ってやりたかった。「あなた、その態度はないんじゃないですか?」しかし、この台詞は言葉にならずに消えた。こんな場所で若い駅員と口論をして何になるんだ。ヤレヤレと我慢をしてしまえば、それで済む事じゃないか。私はコートのポケットに定期をしまい込むと、今度は本当に踵を返し家路についた。
家に帰ると、妻も子供たちももう寝ていた。このところ残業が多いせいで家族と食事がとれない。食卓に用意された(私たち夫婦同様)冷めきったシチュウをすすっていると、妻が起きて来てカードの請求書を放り出した。なぜ、人にものを渡すために、放り出すようにする奴が多いのか?私にはまったく理解できない。
「今日、帰り道で酷い女子高校生がいてねえ」
私が話しかけても、妻はまるで聞いていない。ふーん、でも、へえ、でもない。
「明日職場で懇親会があって遅くなるから、子供たちはお母さんのところで預かって貰うように、あなたから言ってほしいんだけど」
「ああ、わかった。いやあ、ホント酷い女がいてさ」
「それじゃあ、おやすみなさい」
結局、妻はちょっと顔を出してすぐにまた寝てしまった。私は今一度拾った定期をまじまじと観察してみた。住所と学校名、名前、年齢、電話番号も書いてある。時計を見上げると10時を廻っていた。常識的に考えて分別のある大人が他人様に電話をかけてもよいという時間ではない。まあ、お袋ならまだ許されるだろう。私は受話器を上げると、妻に頼まれた用件を伝えるために母に電話をかけた。5回ほどコールしたところで、眠そうな声のお袋が出た。
「あ、かあさん? おれ。あのさ、啓子が明日職場で何か飲み会あるみたいでさ、、、」
途端に凄い剣幕で機関銃のような攻撃が始まる。
「進ちゃん達預かってくれってんじゃないんだろうね。だめだよ明日は。大体、啓子さん何で働きになんか出なきゃなんないのよ。あんたがシッカリしてないから、、、」
うちの嫁姑は仲が悪いなんて代物じゃない。もう直接には会話もしないほどだ。だからお互いの勝手な言い分は全て私が仲介役になっている。冗談じゃない。俺は仕事から疲れて帰ってきたところなんだ。なんでお袋に怒鳴られなくちゃいけないのだ。
「じゃあ、啓子と直接やってくれないかな」
「冗談じゃないわよ。あんたが伝えて頂戴。明日は都合があるのよ。ちょっと父さんの様子が変でねえ、困ってるのよ。」
私の父は呆けている。2年ほど前から、少しよくなったり悪くなったりを繰り返している。本人が病院へも行きたがらないので、病状もわからないのだが、恐らくアルツハイマーだろう。
「なに?またフラッと何処かへ行っちゃうの?」
「もう、ステテコ一枚でこの寒空に出てって、おしっこ漏らしながら歩くのよ。わたしもう、ご近所に恥ずかしくって恥ずかしくって、、、ううう、、、」
母はまだ怒っているうちはいい。泣き出したらもうどうしようもない。
「敏のところで何とかしてもらいなさい」
敏行(弟)のところか。正直、弟の面倒にはなりたくない。やたらに恩着せがましく、しかも私の家庭の事情をうるさく詮索するからだ。自分の劣等感を、私に対する敵対心へと挿げ替えて、何かと対抗意識を剥き出しにしてくる。非常に煩わしく、うっとおしい存在なのだ。自分より5つも年上の(私より3つも年上の)、地味だがしっかりものの女と結婚した。弟の嫁は母との折り合いもよく、共謀してうちの啓子に割の合わない事を押し付けたりする。おっとりしているが腹黒く意地の悪い女で、私は大嫌いだ。それでも母の泣き言に延々と付き合わされるよりは、弟に頼んだほうが幾らかはマシというものだ。
私は母との電話を切ると、敏行のところに電話をかけた。
「あら、こんばんはお義兄さん」
この年増女におにいさんと呼ばれるのは正直ぞっとしないものがある。私は手短に事態を説明すると、慇懃に子供達の事を願い出た。
「わたしは構いませんよ。うちの人はもう寝てしまっているから、明日の朝話しますわ。お宅もお家を建てたばっかりで大変ですのねえ」
うちは家を建てたのではなく、マンションを買ったのだ。啓子が聞いていたらキイーとなって悔しがった事だろう。この女はこういうことをサラリと言ってのける。自分達は一戸建てを買ったので、事ある毎にその差をほのめかす。私にはどうでもいい事だったが、妻達にとっては大変なヒステリーの根源になっていて、そのためにコチラの神経まですり減らされる。
だがまあとりあえずは、明日の子供達の落ち着き場所を確保した。ビールを飲もうかと冷蔵庫を開けると、オレンジジュースしか入っていなかった。とても喉が乾いていたのでオレンジジュースでもいいから飲みたかったが、多分これは娘がアテにしているもので、下手に口をつけると泣かれてしまう。仕方なく水道をひねってカルキ臭く生ぬるい水を一口飲むと、寝室へ向かった。
寝室は真っ暗で、妻の恐ろしいイビキが聞こえる。このイビキを聞くたび、私の結婚したのはこの女だったのか信じられなくなる。
「ママ(子供が生まれてからうちはもっぱらママ、パパだ)、寝ちゃったかい?」
 暗闇の中で寝間着に着替えながら、私は妻の肩を少し揺すぶった。
「もう、寝てるわよ」
煩そうに答えた。寝ているはずなのに何で答えるんだ。
「明日、おばあちゃんのところじゃなくて、敏おいちゃんのところに2人泊まることになったから」
「嫌よ!!わたしそんなの!!!」
がばっと身を起こした妻が電気をつけながら叫んだ。
「何言ってるのよ、冗談じゃないわ。あの子達、この間も春子おばちゃんの料理の方が美味しいって言って私の作ったものにケチをつけんのよ。勝手にゲームボーイは買い与えちゃうし、絶対にダメよ。明日はおかあさんのところ預けて頂戴ね。なんとかしてよね。お願いよ」
自分の要求だけ叩きつけてさっさと布団をかぶって寝てしまった。ふざけるんじゃねえ。どいつもこいつも勝手なことばっかり言いやがって。
「わかったよ。明日の朝もう一度お袋に電話してみるよ」
私は電気を消して横になった。
翌朝、私は7時に目を覚ますと、7時20分には朝食のテーブルについた。妻は早くお袋に電話白しろとばかりに、子機を突き出した。私は子機と新聞を持ったままトイレへ逃げ込んだ。
「ひろくんとねえ、しずかちゃんねえ、ゴーゴーファイブのショー観に行ったんだよ。」
子供達の声が聞こえてきた。
「じゃあ、日曜日連れてってもらうようにパパにお願いしなさい。」
「パパー、パパー!」
叫びながら子供達はトイレのドアをガンガン叩いた。うるさいっ!!
「わかったわかった!連れて行くよ」
「わーいやったやったあ」
「わーい、お兄ちゃんよかったね」
やっと静かになった。
子供達が出かけていったのだろう。
トイレから出ると妻も出勤の仕度をしていた。
「わたしも早いんだから、ちょっと早くしてよ」
私も背広に着替えるとベージュのコートを羽織る。何気なしにポケットに手を突っ込んで、あっと思い出した。そうだ、この定期をとどけなくっちゃいけないんだった。
「おかあさんに電話してくれた?」
「あ、ああ」
半ば追い出されるように家を出ると、私はトボトボと駅に向かって歩き出した。
ホームへ着くと、電車を待つ間に定期の電話番号にかけてみることにした。どうしてもお袋のところに電話をする踏ん切りがつかない。親父の面倒を看ていて精魂尽き果てているところへ、確かに餓鬼ども二人を送り込んだのでは可哀そうだという気持ちもあったが、朝っぱらから癇癪を聞くのが嫌だという方が主な理由だった。とにかく私は、やりかけた親切を最後まで貫くべく、定期の持ち主に電話をかけたのである。
学校というのは何時から始まるものだったのか?もう何年も前に学校とは無縁となっていた私には、全く思い出せなかった。時計は8時15分を回っていた。ひょっとしたらもうこの時間本人はとっくに登校してしまっているかも知れない。だとしたら私はかえってお節介をしてしまったということになる。駅に届けてさえいれば、彼女は定期を落とした旨を駅員に話し、今頃は受け取れていたのかも知れないからだ。
コールが10回を超えた。家族も全員家にいないのだろうか。私が諦めて電話を切ろうとした瞬間に、相手が出た。
「はい、エンドウですが」男の声だ。
「あの、遠藤久美さんのお宅でしょうか?」
「ええ、久美は今留守ですが、どちら様でしょうか?」
少し相手がコチラを怪しげに思ったような気がした。私は慌てて結論を言った。
「私、遠藤久美さんの定期を偶然に駅で拾いまして、、」
途端に相手の声の調子が変わった。やはりさっきは警戒していたのだ。当たり前だろう。若い娘に男から電話がかかってきたのだから。声から察するに、年配の感じだ。恐らくは父親だろう。非常に感じのよい、大人の対応であった。私は内心ほっと胸を撫で下ろした。電話の向こうのお父さんは、「これからお仕事でしょうから、職場の近くまでまいりましょう」とまで言ってくれたのだ。私は遅刻するのを半ば覚悟していて届けようと思っていたので、非常に助かりますと、その提案に甘えることにした。
午前中いくつかの仕事を片付け、地下の喫茶店にランチでも食べに行こうと思っていると、内線電話が鳴った。
「遠藤様という方から、お電話がかかっております」
「ありがとう、出ます」
電話の相手は思ったとおり、朝ホームで会話したお父さんだった。しかしこの人は勤めに出ていないのだろうか?それとも自営業だろうか?
「今朝ほどはどうもご丁寧にお電話をいただきまして。今、御社の地下まで来ているのですが、コチラでお待ちしていた方がよろしいでしょうか?」
流石は社会の大先輩である。私のような若輩に対しても、相手の都合を優先して昼時の最も時間のある頃合を選び、会社の窓口まで来てもらっても構わなかったのに、わざわざ近くから電話をくれたのだ。
「わざわざいらしていただいてすみません。あの、地下の公衆電話からおかけですか?その近くにMondという喫茶店がございますので、え、あはい、そうですソチラです。ソチラで1〜2分程お待ちいただけますか。私はグレーの背広に紺のネクタイをしております」
地下に下りてみると、Mondの前でカーキ色のジャンパーを着た中年男性がコチラを見ていた。
「遠藤さんですか?」と少し会釈を加えながら話し掛けると、ジャンパーの男性はニコリと微笑んで会釈を返し、
「はい。お宅様は大西さんですね?」
私も「はい、お電話した大西です」と名刺を差し出した。遠藤氏は私の名刺を両手で受け取ると目を通し、また何やらナルホドといった感じで会釈を繰り返した。
数秒間、不思議な間が訪れた。遠藤氏はなんでMondの入り口で待っていたのだろう?私はてっきり中でコーヒーでも飲んでいるかと、、、はっ、とその時自分が恥ずかしくなった。なんという気の利かない事を私はしてしまったのだ。
「よろしければ、中へどうぞ」と私は促した「私が出させていただきますので」
「いえいえ、そういったわけには」と遠藤氏が手を振った。そうなのだ。私が定期を拾っているのだから、私がコーヒー代を出すのはおかしい。しかしせっかくもコチラの事情を察して会社まで取りに来てもらったのだから、定期を渡してそれではさようならというわけにもいかない。しかし喫茶店へ誘えば、割り勘にせよ余計な金を相手に使わせてしまうことになる。私は少し途方に暮れていた。
「ここの喫茶店はうちの会社の経営でして、社員が使うぶんにはナニでして」
ささやかな嘘であった。
「そういうわけなので、ささ、どうぞ」
遠藤氏は「そうですか、それでは」と、私の開け放ったドアの奥へ進んでくれた。ふう。
私達は入り口に近い4人席を選び、二人同時に席についた。私は遠藤氏が自分の好きな物を頼みやすいように、一番安いホットコーヒーを避けて、600円のカフェオレを頼んだ。しかしながら、彼は450円のホットコーヒーをオーダーする。流石だ。
「いやあ、」と口火を切ったのは遠藤氏の方である。「お恥ずかしい話なんですが、只今名刺を持ち合わせておりませんで」
見ると、私の名刺がテーブルにシッカリと置いてある。またしても私は顔を赤らめた。
「これはすみませんでした。どうぞ、お納めください」
「それでは」と遠藤氏は私の名刺に一礼し、懐に収めた。そのまま彼は反対側の内ポケットを探ると、未記入の茶封筒を取り出し、静かにテーブルの真中に置いた。
「失礼かとは存じましたが、この度のお礼をさせていただきたく、どうぞお納めください」
恐縮してしまったのは私の方である。私は慌てて定期を取り出した。しまった。裸で持ってくるのではなかった。しかしもう遅い。私は少し申し訳けなげに両手で定期を差し出した。
「お待ちください。先ずはコチラをお確かめになってください」
遠藤氏はまるで表彰状でも受け取るかのように定期を受け取ると、
「はい、間違いなく娘のものです。あの馬鹿たれが」
「あの、こちらの封筒はどうぞお仕舞いになってください。私は大層な事をしたわけではありませんから」
「いえ、そうは参りません。落し物ですから最低でも一割。それにいくばかりか気持ちを添えさせていただきました。はした金でございます。どうぞお納めください」
うーん。涙が出るほどに素晴らしい男性だ。あくまでもしなやかでソツがなく、物腰しも柔らかで礼節に徹している。凄い。凄いよアンタ。私は心の中で感動に震えていた。
「なんだか申し訳ないようですが、、、」そう言って私が封筒を受け取ろうとすると、無愛想なウエイトレスが飲み物を持ってきた。ここの店員は以前から思っていたのだが非常に態度が悪い。「失礼します」の一言もなく、ダンとコーヒーを置いたので、遠藤氏の頼んだコーヒーはソーサーの中に少しこぼれた。普段なら私は黙して語らない。しかし遠藤氏の手前、そうはいかなかった。何しろこの喫茶店はわが社の関連だと言ってしまったのだ。これは遠藤さんに対する、私自身の非礼になってしまうじゃないか!
「君、ちょっと気をつけてよ。ソーサーの中に中身がこぼれてるじゃないか!」
ウエイトレスは呆気に取られたように私を見つめ、フンというように遠藤氏のコーヒーカップを持ち上げ、ソーサーとカップの底を台布巾で拭き始めたのだ。流石に私はあきれかえった。
「新しく淹れ直して来てよ。そして今度は静かにテーブルに置いてくださいね!」
一瞬、ウエイトレスの彼女は物凄い形相で私を睨み付けた。私も負けじとにらみ返した。彼女は観念したのか、ソーサーごとカップを取ろうとしたその瞬間、
「いや、私はこれで結構」遠藤氏はそういうとウエイトレスの手を手の平で押し戻した。
「どうもありがとう」と更にウエイトレスにお礼を言うと、さっさとブラックのコーヒーに口をつけてしまったのである。
「申し訳ありません。全然教育マニュアルが徹底していませんで、本当にお恥ずかしい」
「いえいえ、とても美味しいですよ、こちら様のコーヒーは」
私はコーヒーの味などわからないが、ここのコーヒーがそう大して美味しくないだろう事は容易に想像がつく。つくづく遠藤氏の人間性に敬意を感じるだけである。
年齢は50代の中頃だろうか?白髪が混ざっているが髪は全く薄くはなっていない。顔の彫りは浅く、日本人的な面立ちだが、ロマンスグレーという言葉がぴったりと合う。カジュアルウエアがまるで雑誌広告に出てきそうな、正に初老の紳士である。カップを持つ指を立てるでもなく、薬指のリングも嫌味ではなく、美味しそうに音を立てずコーヒーを飲む。
「煙草を吸ってもよろしいですか?」私が上着のポケットから半分だけマイルドセブンライトを引き出して見せると、「どうぞどうぞ」と笑顔で灰皿を寄せてくれた。
「遠藤さんは、煙草は、、」と相手にすすめる姿勢をとると、顔の前で手を振り、
「もう10年程前に止めました。どうぞ、お気になさらずにおやりくだい」
うーん。何もかも完璧だよ、この人。
「さあ、私はそろそろ、、」コーヒーを飲み終えた遠藤氏が言った。「この度は本当にご親切に、有難うございました。」
「あ、いえいえ」私は何かこのままこの人物と別れてしまうのが惜しいような、不思議な感覚に捕らわれた。何か話題を提供しなくては。あっ、そうそう。
「しかし、お綺麗なお嬢さんで、、」
「え?」
しまった。まずかったか?ガン黒で上げ底の娘を、父親が快く思っているわけがないのだ。
「うちの娘をご存知なんですか?」
そうか。定期を拾ったと言っただけで、その前後の話をまるで説明していないのである。しかしあの事件をどう説明したものか?私は迷った。ありのまま話してはまるで父親に告口をしたようで気持ちがすっきりしない。
「いえ、ちょっと見かけただけなんですが、私の前を歩いていらっしゃったもので、定期を拾った時に、プリクラシールが貼ってあったものですから、ああ、あの娘さんが落としたのだなと、、」
「ああ、そうでしたか。いやいやお世辞を仰らないでください。実に奇怪な格好をしておったでしょう?あはははは」
「あはははは、いえいえ、流行に敏感な年頃でいらっしゃるから、、、」
うー。我ながら難しいところに話を振ってしまったなあ。
「どうしてあんな娘になってしまったのか。あれの母親が他界してから、男手ひとつで育ててきたのが悪かったのかも知れません」
なんだか湿っぽくなってきてしまった。しかし遠藤氏が話すと、サラリとしていて後味も残らず、何故か普通に聞こえるので不思議だ。
「それは、さぞかし大変でしたでしょう。そうですか、しかし人間は外見ではありませんからねえ。本当はとても優しい、心の清らかな娘さんなんでしょうねえ」
いや、あのウンコドブスに限ってそりゃあない。見たままのウンコドブスだろう。しかしここはこうでも言わなきゃ収拾がつかない。しかし、この遠藤氏のような人格者の娘が、お礼のひとつも満足に言えないような非道い女に育ってしまうとは、世の中は無常である。甘やかされて育ったのだろうか?母親の代わりはできないという遠藤氏の負い目が、何処かで彼女の我侭を叱れずに来てしまったのかも知れない。
「ひょっとしてうちの娘が何か、失礼な事をしたのではありませんか?」
遠藤氏は人の感情を読み取るのが上手なのかもしれない。私が特に厭味もなく言ったはずの台詞に、その裏側にある真実を直感的に感じ取ったのだろうか?
彼は私の顔を覗き込んで、さあさあ正直に言ってごらんと言わんばかりに、私の答えを待っているのだった。
「いやあ、実を言いますとね、、、」昨晩、妻にも聞いて貰えなかった。およそ誰にも言う機会はないだろうと、諦めていた愚痴である。変態と罵られた時のショックと悲しさ、悔しさ、辛さ、その全てが開放されることなく、私の中で静に朽ちて行こうというその途中で、思いもかけずに最高の聞き手を得たのだ。判っている、ああ判っているとも。どんなにこの人の心が広くても、実の娘の悪口を淡々と聞ける訳がない。喋ってはまずい。喋っちゃ行けないのだと何度も思い返したが、気が付くと全てを話してしまっていた。喉に刺さった小骨が取れたような、なんとも清々しい気持ちが押し寄せた。目の前がクラクラと回転し、深呼吸すると生き返った様な気分になった。ああ、ついに言ってしまった。
「、、、、いてーなジジイ、何さわってんだよ、変態、、、、とそう娘が言ったのですか?」
遠藤氏の声は震えていた。私は後悔はしていなかった。むしろこの人物を尊敬するが故、口先三寸の誤魔化しで本心を偽る事の方が、余計に失礼な事だと思ったのだ。そして自分の娘が如何に人情を欠いて育ってしまったのか、ハッキリと知るべきなのだろう。残酷な事かも知れないが、これは私の誠意でもあった。
「すみません、、、」私は謝った。彼が自分が責められているように感じるのは、予想の出来る事だったからだ。
「いえ、、、本当の事を言ってくださって感謝します。 、、、、しかし、、、正直なところ、ショックです」
「お察しします」
「なんとお詫びしたらよいのか、、、」
「いえ、その場で叱らなかった私も、社会人として失格です。子供たちは、自分の子他人の子分け隔てなく、社会の大人が導いてやらなくてはならないんです。それを怠った私も大人失格です。ただ自分の感情にだけ執着して、子供の言ったことに腹を立てていたなんて、とても恥ずかしい」
ちょっと格好をつけてしまった。しかしこの時は本当にそう素直に思えたのである。少女の悪行を告発し、父親の弱り果てる姿を見て、吸飲が下がった。ささやかな復讐が遂げられた後の、飽和された感情だけが心地よく私を包んでいた。
「私だからまだ良かったのかも知れない。最近は変な奴が多いですから、怨まれでもして大変な事にもなりかねません」
私は意地悪く追い討ちをかける。遠藤氏はテーブルに頭を擦り付ける様にして震えていた。泣いているのか?ちょっと追い込みすぎたかも知れない。
「どうぞもう、お顔をお上げになってください」
「小学校までは、明るくて優しい子だったんです、本当に。中学に入ってから夜帰宅時間が遅くなって、悪い仲間も出来てしまってね。私は仕事で殆ど構ってやれなかった、、、」
はっと時計を見た。昼休みは終わっていた。それほど腹も減っていないし、昼食を抜く事はしょっちゅうだったからまあいいのだが。
「あの、、、、私はそろそろ仕事に戻らなくては、、」
時計を見ながら私が言うと、遠藤氏は急に真顔になり、私の手を取った。急に触られたので私は判断に苦しんだ。
「あの、今日お会いしたばかりで変に思われると何なのですが、もし宜しければ帰りにうちに寄っては頂けませんでしょうか?いや、馬鹿な事をお願いしているのは百も承知なのですが、是非、娘と私と3人で食事をして欲しいんです」
「はい?」
遠藤氏の不思議な提案に、一瞬私は驚愕した。「どういう事でしょうか?」
遠藤氏は私の手を開放すると、今度は胸の前で手を合わせ、続けた。
「娘があのようになってしまったのは私の責任です。しかし、元は本当に素直で優しい良い子だったんです。どうか一言私は娘に直接非礼を詫びさせたい。定期のお礼をきちんと言わせたいのです。私は親として今まで逃げてきていたのかも知れません。本当は親として、子供がしたことの責任をしっかりと取らせなくてはならなかったのかも知れません。私は今日、アナタとお話していて気がついたのです。大したご馳走は作れませんが、是非、帰りに我が家へ遊びにいらしてください。お願いします」
遠藤氏の真剣な眼差しに打たれ、私は承諾した。なあに、仕事で遅くなる事もよくあることだ。食事は外で済ませると一言電話をいれれば済むことだし、電話をいれなくても啓子は勝手に食べて勝手に寝るのだ。私にはどうせ、冷め切ったシチューが一杯残されているだけなんだ。
「わかりました、遠藤さん。私も一言、娘さんにしっかりと申し上げましょう。ありがとうが言えないのは駄目だよ、と。」
「ありがとう、大西さん」満面の笑顔でこう言うと遠藤氏は最寄駅から自宅までの道筋を紙ナプキンにボールペンで書き、私に手渡した。
それから二人は席を立った。私は真っ先にレジへ急いだ。職場も近いし毎日来ているのだ。それは店員もよく知っている筈だ。私の顔も覚えているだろう。名刺をさっと渡して後で払いに来る事にすれば済むはずだった。それをまた、この融通の聞かないウエイトレスは、さっきの復讐のつもりなのか何度も聞き返す。
「は?どういうことですか?」
「だから僕は上のビルの平和食品に勤めてるんだ。後ですぐに払うからちょっと今だけ顔パスみたいにして欲しいんだよ。」
「もう少し大きな声でお願いします」
くそっ
「だからあ、、」と小声でもう一度ウエイトレスに話し掛けたその時、
!!
この瞬間は心臓が止まるほどドキッとした。後ろから誰かに肩を叩かれたのだ。振り向くと遠藤氏が「わかってますよ」というシタリ顔で小さく頷いていた。
「一緒で」と言って遠藤氏は手を伸ばすと2千円をレジに置いた。そして更に肩に手を回して首の根元を馴れ馴れしく掴んできた。
取るに足りない小さな嘘ほど、ばれた時に恥ずかしいものはない。ましてや、もうわかっている、皆まで言うなというサインを受け、「本当はこの喫茶店はうちの会社と何の関係もないんです」と真実を告白する権利さえも剥奪された。こんなに屈辱的な事はない。形勢は一瞬にして一転してしまった。そして遠藤氏にしてみれば若造である私を、彼はまるで甥っ子にするようなスキンシップで接することで、間違いのないものに確立したのである。
こんな些細な事で、ちょっとした嘘で、ここまで逆転される筋合いではない。あんたの娘が転びそうになったのを私は助けたのだ。その私を、あんたの間違った教育によって育った糞娘は、変態呼ばわりしたのだ。それなのにこうして定期を拾って渡してやったんだぞ。それを忘れるなよ!
喫茶店から数歩歩いたところで遠藤氏は肩から手を外すと、今度は笑顔のままシェイクハンドを求めてきた。
「いやあ、今日は大西さんとお知り合いになれて本当に良かった。今晩お待ちしております」
年配の人によくいるのだが、親愛の情を示すためなのか、自分の握力を誇示して優劣を知らしめようとしているのか、彼は思いっきり強く手を握ってきた。私は「利用する人される人」という本の表紙を思い出した。
仕事が終わって会社を出る頃、私はひどく憂鬱な気分になっていた。喫茶店Mondを出るときのあの遠藤氏の馴れ馴れしさを思い出すと、まるで上級生に金をもってくるよう命じられた虐められっ子のように、暗澹たる気持ちになった。
「はあ」
意味もなくため息が出た。何だか良くない事の起こりそうな予感がした。そしてこの悪い予感は、この後確かに現実のものとなるのである。
遠藤家は、郊外の建売が林立する住宅地にあった。一戸建てとは言っても1階2階併せて70平米程だろう。これよりも大きな家だったなら、特別に運のある人か悪人に違いない。しかしこの大きさの家を持つものは、働き者で善良で、模範的な市民に違いない。そして家を持たないものは、普通の怠け者達である。これはとても偏った意見だろう。しかしこの遠藤家を観ていると、沸沸とそんな気さえする。かつてはバラが咲き、子犬がはしゃいでいたに違いない小さな庭は、雑草と粗大ゴミで覆われ、玄関先もひさしく掃除するものがいないのであろう、薄汚れて蜘蛛が潜んでいる。
主婦という大切な機能を、ある日突然にもぎ取られた、悲劇の残像であった。そして娘が中学校からグレ始めた。典型的な家族崩壊のモデルルーム。
「やあ、どうも、よくいらっしゃってくれました。お待ちしていたんですよ」
遠藤氏は相変わらず良識的で知性的な笑顔で私を向かい入れた。フィッシャーマンセーターの上からエプロンを付け、握手した手が僅かにしっとりと湿っていた。料理の最中らしい。短いフローリングの廊下を経て、彼はリビングへと向かった。
「お邪魔いたします」
私は靴を揃えるとスリッパに履き替え、彼のあとを追った。リビングにはピアノがあった。今はもう弾かれることもないのであろう。鍵盤のふたの上には横積みになった文庫本やお菓子の缶、薄汚れた人形などが無造作に置かれている。
遠藤氏は私を居間のソファーに座らせると、隣続きのダイニングキッチンへと姿を消した。
「大西さんはすき焼はお好きですか?」
キッチンから遠藤氏の声が響いた。私は彼に聞こえるように「はい」と答えた。
「恐縮です。何かお手伝いいたしましょうか?」
「いえいえ、野菜切るだけですから」
やがて彼は大きな皿に野菜を載せて、食卓へと運んできた。
「久美いーっ!」二階の方へと顔を上げ、遠藤氏は叫んだ。「久美、降りてきてお客さんに挨拶しなさい」
返事はない。
「おい、返事くらいしなさい。もう食事だぞー」遠藤氏は繰り返し娘を呼んだ。「しかたのない子ですね。今、連れてきますから。おい、久美―っ」遠藤氏はそう叫びながら包丁を片手に、階段を登っていった。
私はテーブルに置かれたご飯茶碗や並べられた箸を、何とはなしに眺めていた。4つづつある。ひとつは明らかに客用の、柄の無い無地の茶碗。そして正月用の割り箸。多い分は久美の母親の陰膳に違いあるまい。客が来たことも珍しい事なのだろう。この寂しげな食卓で、父と娘は何年もの間、何を思いながら食事をしていたのだろう。
それはそうと、遠藤氏と娘は一向に降りてくる気配がない。私は少し心配になって階段のすぐ下に行くと、二階へと聞き耳を立てた。
「あたし、ヤダ。出たくない」
「何言ってるんだ。久美の定期を届けてくれた人なんだぞ。お礼ぐらい、、」
「ヤダ」
「聞き分けの無い事をいうんじゃない。今日は特別に今半の肉を買ってあるんだ。いっしょに食べよう。さあ」
「ヤーダ」
「ほら」
「ヤーダってば」
やれやれだ。なんで私はこんな事に巻き込まれてしまったのだろう。ああ、これも人助けの内だろう。彼のような堅実に真面目に生きてきた人が、人生の荒波と精一杯闘っているところなのだ。何か私に力になれることがあれば、人間として手を貸してやるぐらい、当たり前の事だ。もうしばらく、やりかけたお節介を貫いてみるまでのこと。
私はひとりリビングに戻ると、どっかりとソファーに腰をかけた。ふと気がつくと、リビングテーブルには私が拾った定期が無造作に放り出してあった。そもそもこれさえ拾わなければ、こんなおかしな事にはならなかったんだが、、、。
私は今一度定期を手にとって、しげしげと眺めてみた。
えっ?
私の視線はその瞬間一点に集まり、凍り付いて動かなくなった。
平成2年、1月30日から一ヶ月
どういうことだ!これは10年も前の定期じゃないか!!
状況が理解できない。頭の中が真っ白になった。次の瞬間、二階からどすんどすんという物凄い物音が!
咄嗟に遠藤氏が包丁を持っていたのを思い出し、私は青ざめて階段へ向かった。ほぼ同時にどんどんどんどん、と凄い勢いで何物かが階段を降りてきた。
「き、君は、、、」
全身を真っ赤な血で染めた、ガン黒茶髪の化け物が、私の眼前に出現したのだ。それはもう、この世のものとは思えない、悪鬼の如き形相であった。手には包丁を握り締め、その包丁にはベットリと血が染み付いている。この化け物も体を数カ所切られていて、ドクドクと血が流れていた。
「何見てんだよジジイ」
化け物が口を開いた。地獄から聞こえてきたような、おぞましい声だった。私は声ともならない声を漏らしながら、床に転がった。腰が抜けてしまったのである。両腕で全身を支えるが、どうしても立ち上がれない。喉の奥から悲鳴にならないひゅーひゅーという空しい叫び声を上げながら、私は玄関まであとずさった。
「ひひひひひっ」ガン黒茶髪の化け物は、私の恐怖を知ると面白がって包丁をかざして来た。
「ぎゃー」悲鳴らしい悲鳴をようやく上げられたとき、私の背広はズタズタに引き裂かれていた。このままでは殺される。確実に殺される。
振り下ろされた包丁が、間一髪私の頭をかすめて柱に突き刺さった。化け物は尚も、危痴害じみた笑い声をあげて包丁を引き抜くと、更にもう一撃を振り下ろしてきた。私は玄関にあった靴を無我夢中で投げつけた。その片方が相手の頭を直撃し、化け物に少し隙ができた。その僅かな時間で私はかろうじて腰を上げると、今度はリビングを抜けて庭の方へと逃げ込んだ。直ぐに追いつかれてしまったが、ソファーを蹴り飛ばしたのが運良くも化け物の足元を狂わせた。反撃に出ない限り確実に殺されると悟った私は、思いきって包丁を持つ手に飛びかかった。私の目の前で包丁がギラリと光った。最早これは少女の持てる力ではない。化け物の顔が私の顔に近づいてきた。ギラギラとした瞳は最早正常な人間のそれではない。私は左腕で包丁を持つ手を押さえると、右手で化け物の髪の毛を引っ掴んだ。その瞬間、ズルリと頭皮がずれ落ち、私の右手に茶髪だけが残った。
(カツラ!?)
何かフザケた漫画のモンタージュ写真を見ているように、私はその時目に映った奇怪な光景を、暫くの間現実とは思えなかった。巴投げという技なのだろうか?柔道など知らないが、相手の腹部を蹴り上げた途端に、背後の庭に面したサッシ窓が派手な音を立てて割れ、化け物はその中に埋もれて、動かなくなった。
え、遠藤さん、、???
近所の住民が物音を聞いて群がってきた。
「どなたか警察を呼んでください!!」私は叫んだ。呻き苦しむ化け物を見下ろすと、やはりそこにはコギャルのメイクをした遠藤氏がいた。
私は呆然として立ちつくした。何も考えられなかった。何かを結論付けるにも、何一つ現実感を感じられない。どれぐらいの時間が経っただろうか、気がつくと横に警官がいて、しきりに「大丈夫ですか!?」と連呼している。
「へ?」と私はようやくその存在に気づいた。
「お怪我はありませんでしたか?」
「たっ、大した事は、、。それよりこれは一体、どういうことなんですか?」
「遠藤周一、精神病院から4日前に姿を消しまして、もしや彼の家だったこの空家に戻っているのではと、コマメに観に来ていたんです」
「あっ、二階に娘さんが、、、娘さんは無事ですか?!」
「彼の娘は10年前に亡くなりましたよ、交通事故で。奥さんを亡くされたばかりで、立て続けに娘さんまで。彼が発狂したのは丁度その頃でした」
それから後、私は1時間ほど警察署で事情を聞かれた。あんなに普通の、
分別のある中年男性に見えたのに、本当はその心の中に、想像も絶する闇が潜んでいただなんて。
私は昨日から今日にかけての出来事の一部始終を話した。しかし警察の話の中でどうしても信じられない事がたったひとつだけあった。
「それは、遠藤が一人で喋っていたんですよ。多重人格者は同時に別の声色で人格同士会話することもあるんです」
「いえ、それは違います。確かに私は、階段の下で、2人分の声を聞いたんです。ひとりは若い女の声、もう一人は遠藤さんの声でした」
警察の取調官は、やれやれとあきれたような顔をして、
「今日はもうお疲れでしょう、お帰りになってゆっくりとお休みください」と、ようやくのこと解放してくれたのである。
警察からの帰り道、私は何か大切な事を忘れているような気がしてならなかった。久美という女子高生は本当に存在しなかったのだろうか?ひょっとすると子供が親に対して愛情と尊敬の念を抱くように、親も子供に対して何か畏敬のような感情を持つものなのではないか?そうして、私達は子孫を残して生きて行くのかも知れない。あの遠藤周一という男の人生は、ある時点から子供の為にだけ存在するようになった。だから彼は父親としてのアイデンティティだけを残して、そっくりわが子のアイデンティティを継いでしまったのかも知れない。なんと薄っぺらな人間なのだ。そんな親なら、親である以外に人間でない親なら、子供は恐ろしくて親になどなれないじゃないか。
私はまだ、子供達の為にだけ存在しているわけではない。子供達が可愛いのは事実だが、親には親の人生があり、私には私の人生がある。そうだ、私の子供達もそういう私が育てるからこそ、いずれかは親になることが出来るのだ。
私の子供達、、、、?、、、??
いっけねえ!!!子供達は!!
私は妻との約束をすっかり忘れていた自分に気づいた。今日はお袋を説得して泊まらせなくてはいけなかったのだ!
時計はもう9時を回っている。子供達は玄関の前で寒さに震えながら泣いているかもしれない。ひょっとしたらお腹がすいて何処かで倒れているかも!
私は大急ぎでマンションに向かった。駅からは全速力で走った。走った。
走った。
すると、どこからか、ゴーゴーファイブの主題歌を歌うわが子の声が。
二軒先の街灯から薄っすらと三つの影が現れた。
「親父、、、」
子供達が、私の父と手を繋いで楽しそうに歩いて来た。
子供達が私を発見して駆け寄ってくる。
「あ、パパだーっ。パパー」
「パパー」
私はホッとして少し涙腺がゆるんだ。
「パパー。今日ねえ。おじいちゃんとデニーズでご飯食べたんだよお」
少し遅れて父が歩いてきた。
「この大馬鹿者めが。我が子をほったらかしにしおって。それでも親か」
私はこの夜、25年ぶりに親父の拳骨をもらった。


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