株式会社キューブ

by ザッピー浅野


 私の名前は鹿野昭太郎。都内の某大手一部上場企業に通うサラリーマンだ。
 今の会社に入社してかれこれ13年になる。大学を卒業して、最初は地元の中小企業に一年ちょっと勤めたのだが、そこで立ち上げた雑誌の広告企画が今の会社の部長(現取締役副社長)の目に止まり、ここに引き抜かれて来た。もともと出世などに興味はなかったが、持ち前の要領の良さとスマートさでとんとん拍子に出世し、とうとう今年、特別企画宣伝部の課長に任命された。
 この度の私の就任劇の裏には、この春の人事異動の事が大きく関わっているというもっぱらの噂だが、詳しいことは何も聞かされていない。何でも、新しい事業部を設立する為に幾つかの有力なスタッフチームを編成し直す必要が有り、私はそこの一チームの重要なポストに配属されるらしいのだ。課長就任は、それに備えての底上げということらしい。どう言った形になるにせよ、これらの動きの背後には、我が「株式会社キューブ」が現在社運をかけて進めている洗脳プロジェクト“全人類立体化計画”が、実現へと大きく駒を進めるための要素になっているのは確かだ。
 まあ何処の部署に配属されても、巧くやれる自信はある。私は周囲の全体的な状況を把握し、いち早く未知の環境に適応する能力に長け、如何なる仕事に於ても最大限の実力を発揮する自信がある。それに、何と言ってもバックに黒崎取締役副社長がついている。黒崎副社長は次期社長の最有力候補だ。彼に付いている限り、将来の私の取締役の座も約束されたようなものだろう。
 私が現在所属している特別企画宣伝部は、会社のイメージを世間にアピールするという重要な仕事を受け持っている。単にコマーシャルや広告の企画・製作といえば簡単だが、我々の企画ひとつで世間の我が社に対する印象が決まってしまうのだから、一般的な視点においては我々が株式会社キューブそのものを作ってると言っても過言ではない。これはこれで非常にやりがいのある仕事だった。
 この部署での私の最大の功績は、ここ数年間に渡ってインターネットを中心に展開して来たPRプロジェクトだろう。趣味で学生の頃からパソコン通信に精通していた私は、早期からインターネットに注目し、ネットを使った世界規模のPRプロジェクトを立ち上げ、軌道に乗せた。100ページにも及ぶ膨大なデータ量と、有名タレントなどをイメージキャラクターとして起用した大々的な公式ホームページはインターネットの普及と共に画期的な成果を齎し、企業PRページの草分的存在となった。近年ではゲーム業界や映画製作にも着手し、ハード面とソフト面の融合にも新境地を切り開いている。勿論、すべて私のアイデアだ。
 そんな私がある日、久しぶりに黒崎副社長に呼ばれたのは、私が課長に就任して一月と経たない三月上旬のある晴れた肌寒い午後1時20分だった。
 「失礼します」
 「入れ」
 私は黒崎副社長の美人秘書の顔と、スーツの上からでもはっきりと解るなめらかなボディの曲線美を横目で拝むことを忘れずに、副社長室のドアをくぐった。副社長は葉巻きを吸いながら自分の机に腰を降ろして本を読んでいた。私の顔を見るなり、
 「おう、まあ座れや」
 と言って煙りをもああと吐き出した。
 「なあ鹿野君、君が先月課長に就任された本当の理由を知ってるかい?」
 「はっ」
 何と答えたら良いのかちょっと迷った。新事業部の開設の件は噂で聞いている。しかしそれがどこまで信憑性があるものか確信がない。仮に事実だとして、その情報は私の耳に入っていても良い情報だろうか。私が少し言葉に詰まっているのを見て、副社長の方から言葉を切り出した。
 「……まあある程度は君の耳に入っていることと思うが、今度我が社に新事業部が新設される。そこに新たなる君の活躍の場が用意されているという訳だ。今度の新事業部の核となる重要なポストだ。現在本社の人員縮小可能な部署で、この仕事を任せられる人材は君しかおらんかった。ところが、肩書き的には君はまだ係長だった。新事業部の幹部に抜擢するには経歴の点で少々無理がある。まあ、我が社の社風は基本的には実力主義だから問題はないのだが、一応、他の同クラスの中間管理職の連中との摩擦も考えて、一旦役職を一段階引き上げてやったと、こういう訳だ」
 「はっ、ありがとうございます」
 私は深々と頭を下げた。副社長の推薦がモノを言ったのだろう。
 「それで、具体的な話に入るが、あ、まあいいから座りたまえ」
 副社長は机の引き出しを開け、書類を取り出した。「今度開設される新事業部と言うのが、こいつだ。まあ言ってみれば、無垢な若者達を騙くらかして我々の計画に必要な螺子や釘を大量生産しようというものだ」
 「とすると、やはり新たな宗教団体ですか」
 私はソファーに腰かけながら、聞き返した。株式会社キューブには系列子会社として、複数の宗教団体を経営している。中でも大きいものになると全国で数十万人の信者を抱える大規模なものもあり、また警察や世間の目をそらす為のダミー団体のような役割を果たしているものもある。それらはテレビ等でちょっとした犯罪組織まがいの扱いを受けて報道されているので、御存じの方々も多いことと思う。
 普通、新興宗教が母体となって、数々の株式会社を経営している例は多々あるが、我が株式会社キューブはその規模の大きさも含めて、少々特殊なケースを敷いていた。つまり会社がその経営の一環として、複数の宗教団体を運営することにより、その企業方針に叶った人材を育て、洗脳し、引いては社会情勢そのものを動かしているのだ。
 「いや、宗教ではない」
 副社長は首を振った。「それなら既に我が社の事業のひとつの柱として軌道に乗っているだろう。今更その為に新事業部設立など意味がない」
 まあ、それはそうだ。
 「こいつを見たまえ」
 副社長は、机の引き出しから取り出した書類をコントロールよく私の前のテーブルの上に放り投げた。カラー刷りのA3二つ折りのパンフレットだ。表紙面には“阿弥陀義塾”のロゴが楷書体で大きく縦書きに印刷してある。その向こうにはきらびやかな近代的な建造物が朝日を受けて輝くように聳え立ち、希望に溢れた笑顔を浮かべて若者達が歩いている。中を開くと、その建物の内部と思しき廊下や教室、授業風景の写真が並び、半分以上のスペースを細かい文字でびっしりと文章が印刷してあった。
 「これは、全国的に最大の規模を誇る中学・高校生対象の進学塾では」
 「そうだ。少々梃子摺ったが、ようやく買収に成功したのだ。これからは我が社が阿弥陀義塾を影で操り、我が社の計画に相応しい人材を育ててゆく期間として利用してゆくことになる」
 「それにしても……進学塾の経営とは、意外ですね」
 「鹿野君、これからの塾経営はビジネスなのだよ。“教育”という概念はもう古い。これからの塾の教師は“聖職者”ではない、“ビジネスマン”だ。同様に“生徒”を生徒だと思うな。我々の“カモ”だと思え」
 私は副社長の言うことに少々疑問を感じた。塾経営を我が社の収入源として確立させ、同時に我が社の計画に必要な人材を育てる機関として利用する、確かにそのアイデアは素晴らしい。しかし、副社長の言う様に簡単にいく仕事であろうか。
 我が社は今まで宗教団体に代表されるように、学校や社会に自分の居場所を見つけられず、自己のアイデンティティを失った若者達の心の隙間に取り入る形で事業を展開してきた。又、ゲーム開発や映画制作・コンピューター・出版業界等、メディアを通して常に流行を扇動し、大衆文化の中心を創り上げて来た。
 これらに比べて、進学塾とは今まで我々が仕切って来た土俵と余りにも違いはしないだろうか。進学塾の生徒、ましてや名門の阿弥陀義塾と言えば、各地の優秀な進学校の生徒ばかりが集う教育機関である。今まで我々が扱ってきたタイプとは全く別種の若者達の巣窟で、今まで通りの成果を期待できるものだろうか。
 「かなり、リスクは背負う事業だとは思いますが…」
 私は不安を隠しきれなかった。副社長は葉巻きの煙りを口から立ち昇らせながら、
 「新事業と言うものはどんな事でもリスクは背負って当然だよ。だからこそ、君のような優秀な人材にしか任せられないのだ」
 と強い口調で言う。ちょっとやそっとの金額では、天下の阿弥陀義塾を買収することは不可能だ。なんだか、私は巨大な責任を一人で負わされたような気がして、胃が痛み出した。
 「具体的に君の仕事の内容だが」
 私の懸念などは何処吹く風とばかりに、副社長は話を進める。
 「阿弥陀グループが我が社の傘下に入ったと言っても、表向きは今まで通りだから、各支店に大幅な人事異動はない。阿弥陀義塾の各支店の大まかな構成は、まず最高責任者として塾長が一人いる。その下に経理、総務、講師数名がいて、阿弥陀義塾の正社員はここまで、あとは非常勤講師が数名と、書類整理などのアルバイトが一人いるかいないかだ。講師の数は支店の大小によってまちまちだが、小さいところでは経理と総務が一人で兼ねている所もある。我が社からはこの中からどれかひとつのポストに、各支店一人づつ人間を送り込もうと考えている」
 私は一気に展望が暗くなってくるのを感じていた。蓋を空けてみれば、そう言うことだったのだ。
 「そこでいよいよ君の配属先だが、君には阿弥陀義塾の中枢機関である東京本社の副塾長という名目で、来月から勤務してほしい。表向きは阿弥陀の系列会社からの天下りということで手配してある。そういうことで、よろしく頼むよ」
 すべてを話し終った副社長は、一仕事終えた満足感に酔いしれながら、葉巻きを吸った。既に部屋中煙りだらけで靄が立ち篭めている。一日中机に座って葉巻きを吹かしながら、部下にあれこれ命令するだけでいいのだから、全く楽な仕事である。
 「頑張りたまえ。事業の展開次第ということになるが、恐らく5,6年以内にはまたキューブの本社に戻って来てもらうことになろう。その時は君の念願の部長の椅子を用意しておくよ」
 本当だ。出世コースには興味がないはずの自分だったが、やはり出世しないことにはサラリーマンとして報われない。
 「有り難うございます。頑張ります」
 私は胃の痛みを堪えながら、副社長にもう一度深々とお辞儀をした。

 こうして私の阿弥陀義塾副塾長としての第一日目は、当然の如くやって来た。具体的にここで私は何をやるのか、全く知らされていなかった。どんな仕事を与えられるにせよ、最終的に成し遂げるべきことは変わらない。すべては私の行動力に一任されている。
 私は東京代々木に門を構える阿弥陀義塾東京本社の、たかが塾とは思えないような尊大なガラスと大理石ばりの正面玄関をくぐった。
 「あの、本日よりこちらに赴任してきました鹿野と申します」
 受付の女性は恭しく私に挨拶すると、塾長室への径路を教えてくれた。私は普通の人間から見ると、相当な威圧感を醸し出すオーラの如きものを放っている。受付嬢がそれを敏感に感じ取っているのが見て取れた。
 塾長は50代と思しき痩せぎすの冴えない男だった。牛乳瓶の底の眼鏡をかけ、灰色になった髪をだらしなく七三に分け、よれよれのスーツを着ている。
 「やあよく来てくれましたね。塾長の渡瀬と申します」
 塾長の渡瀬はおっとりとした口調で自己紹介をした。握手をする手は酷くひからびていて、自分の精気を吸引されそうな気さえする。私は自分がえらく艶のない職場に来てしまったことを悟った。
 渡瀬塾長は私がここに配属されて来た理由を淡々と語りはじめた。
 「貴方に来てもらったのは他でもありませんです。最近の学生達の心の迷いというのかな、精神の混乱ぶりは貴方も知っておりますね。少年犯罪、ナイフ殺人、援助交際、暴力、オヤジ狩り、こういった現象は年々加速度的に増加の一途を辿っています。我が塾はとりわけ優秀な生徒ばかりを扱う進学塾だったもんだから、こうした現状に対する対処が遅れ気味でしてね。ところがここもそう呑気に構えてもいられなくなって来た。うちは進学塾と言っても生徒一人一人の自主性を尊重した自由な塾風だから、精神的にあまり追い詰められるような生徒はいなかったんですが、それでもデータは明らかにそう言った現代病を持つ生徒の数が増えてきている事実を示してきております。例えば、昨年一年の全国の阿弥陀義塾の生徒で親を殺害したのが21人、援助交際が発覚した者が36人、登校拒否になった者が126人、薬物所持で捕まったものが53人といった状況で、これらは一昨年のデータより倍近く多い」
 「はあ……」
 「まあ問題はうちの塾以外の、学校とか親とか友達とか、そういったところにあるんでしょうが、だからと言ってうちは勉強だけ教えてあとは知らぬ存ぜぬを気取っている訳にもいかないですしね。塾と言っても一応は教育機関ですから、そういった心の部分へのケアも含めた上での教育ですからね。そこで貴方のような人材が呼ばれて来たという訳です」
 なるほど、そういう建て前になっていたのか。
 「貴方は確か…阿弥陀グループ系列の教育カウンセリングセンターにいらしたそうですね。その後、独立して埼玉県で進学塾を設立、ところが不況のあおりを食らって昨年閉鎖、そういった所を、会長の推薦でこちらに呼ばれて来たと、こういうことでしたね」
 「はい、そういうことです」
 そういうことらしい。
 「まあ経歴的にも申し分ないし、私ももうすぐ定年だから、丁度いいですな。今の講師はアルバイトも正社員も含めて、どうもビジネスライクな輩が多くてね。塾とは言えども教育機関なんだという自覚がどうも足りなくていけない」
 私は少々不安になってきた。私は本当に、5,6年でキューブの本社に戻れるのだろうか。
 「それでは、とりあえず皆に貴方の事を紹介しましょう。後は今日の所はのんびりして下さい。授業とかその他の具体的な所は、明日からということで」
 渡瀬塾長は立ち上がった。私は愕然とした。どうやら私も実際に講師として授業を教えなければならないらしい。
 「では、私に付いて来て下さい。皆に紹介します。えーと、貴方の担当できる科目は英語と歴史でしたよね。後でテキストをひととおり渡しますよ。なあに、基本的にはみんな頭のいい生徒ばかりだから、適当にテキスト通り解説してくれれば結構です」
 やっぱり私も講師をやるのだ。私の知識なら中学・高校生ごときの授業など朝飯前だが、それにしても本社の情報の不届きさには頭が来る。
 しかしこれも出世の為だ。私は渡瀬塾長の皺だらけの背広の背中を見詰めながら、何がどうにでもなれと胸のうちで呟いた。

 やはり天下の阿弥陀義塾最大規模の東京本社だけあって、働いている人間達も千差万別だった。私は一通りの講師・従業員連中に紹介されると、授業で使うテキストと阿弥陀義塾に関する各種書類を渡され、最後に自室に案内された。私の自室は事務室の隣で、ドアを通して直接行き来出来るようになっている。
 その日は私はずっと自室に隠り、ひたすら書類に目を通した。特に興味深いような物はなかった。つまらないありきたりの教科書に、ありきたりの案内書、規則、名簿の類いばかり。それらをざっくばらんに眺めながら、私は一日中、株式会社キューブの洗脳プロジェクトに向けて、何から手を付けたらいいものか、思考をめぐらした。
 私は夜10時ジャストの終業時間に、塾長室のドアをノックした。
 「ああ、鹿野さんですか。今貴方の所に寄るところだったです」
 渡瀬塾長はコートに袖を通しながら、私を見た。
 「今日の所はもう帰っていいですよ。私ももう帰るところですんでね」
 「塾長、今日はお忙しいですか」
 「今日? いや別にこれと言った予定はありませんですが」
 「お近づきのしるしに如何ですか、食事でも。色々とお話もありますので」
 私の言葉に、渡瀬塾長はあっけにとられた顔をした。
 「あ…ああ、そうですね。でも今日はちょっと家族と約束していましてね。明日か明後日ならいいですよ」
 「少しだけですよ、塾長。一時間だけ、付き合って下さい。私はこれでもまだ独身でして、一人の家に帰るのが辛いんですよ」
 冗談めかして、私はそう言った。独身と言うのは本当だった。妻とは数年前から別居生活を続けていて、昨年ようやく正式に離婚が成立したばかりだ。
 「さあ塾長、今日は私がおごりますよ」
 私は塾長の腕を引っ張るように歩き出した。少々強引な形になってしまったが、仕方がない。それに、こんな男に気を使っていても始まらない。引退間際の、棺桶に片足を突っ込んだゾンビ塾長など、鼻くそほどに扱ってやっても問題はない。このような男がこの全国に53ケ所の支店を持つ阿弥陀義塾を総括する本社の長だと思うと意外な気もするが、所詮は講師あがりの雇われ経営者だ。立場としては私の方が圧倒的に強い。彼もそれを暗黙のうちに了解しているから、私には逆らえないのだ。
 我々は新宿の繁華街まで行き、適当な居酒屋に入った。
 「塾長、まあどうぞ」
 私は渡瀬塾長のおちょこに冷酒を注いだ。
 「塾長の仰るその、学生の現代病というんですか、そういったものに対して、我々はまずどういった側面からアプローチしていけばいいとお思いですか」
 「そうだな、まず講師一人一人に自分が教育者としての自覚と、熱意を持ってもらうことでしょうかな」
 酔って呂律の回らない口調で言う。
 「それには問題がありますよね。塾と言うものは本来、生徒に勉強を教えるだけのものでしょう。塾生同士の交流とか、そういったものは何もありません。学校みたいに運動会や遠足がある訳ではないし、日々の生活にしたって、給食などというものはないし、休み時間は教科書を読んでいるか、前後の授業の予習復習をしている生徒がほとんどでしょうし」
 「しかしね、学校の怠慢を誰かが気が付いて、誰かが救いの手を差し伸べねば、このままでは日本は破滅ですよ。この腐敗した日本の学校教育の改革は、私の最後の使命だと思っておりますです」
 渡瀬塾長は酔って真っ赤になった頭をグラグラ揺らしながら、やっとの事で聞き取れるような不明瞭な口調でごにょごにょと喋った。
 一応の理想は頭にありながら、ただ言っているだけで人生が終ってしまったタイプの典型だった。御大層な理想はあっても、それをどう実現するかは一秒も考えたことがない。だから聞かれたことには最もらしい抽象的な事しか答えることができない。そんな自分自身に気が付くことさえなく死んでゆくのだろう。
 「塾長、話は変わりますが、塾生は毎日9時になるとぴったり帰ってゆくのですか」
 「いや、遅くまで勉強してゆくものはいますよ。テスト前とか。それに突き合わされる講師も大変ですよ。解らない所はとことんまで徹底したがりますからね、今の生徒は。今の学生は皆一筋縄ではいきませんからね」
 「遅くなった場合、食事等はどうしているのでしょう」
 「さあ……それは塾に来る前に食べてくるとか、隣にコンビニがありますので、そこで何か買ってくるとか、それは生徒それぞれじゃないですかね」
 「なるほど。講師や他の生徒と食事に行ったりということは」
 「いや、他の一般の生徒を扱っている塾はしりませんが、うちでは基本的に人間関係というものはありませんよ。みんな勉強しに来ているだけです」
 「なるほど。また話は変わりますが、テキストはずっと同じものを使っているのですか」
 「テキストは……ええ、毎年改正版はでますが、基本的には同じものを使用しています。ただ数学とか英語とか、近年文部省で大幅に省略された項目がありましたので、去年のテキストはかなり大きな訂正がなされましたが」
 「なるほど。まあどうぞ」
 私は塾長のおちょこに冷酒を注いだ。必要な事は大方聞いてしまった。そろそろ帰ろう。
 「塾長、そろそろ終電ですから、出ましょうか」
 「あ、ああ。そうですね。いやあ、飲んだな久しぶりに」
 我々は居酒屋を出た。通りはまだ、星の数ほどの若者やサラリーマン達で賑わっている。キャバクラや風俗店のネオンが瞬き、その間を渡瀬塾長は気持ちよさそうに歩いていた。
 「この通りはいかがわしい店が多いですね、本当に。こういった風俗施設の氾濫というか、そう言った事も今の日本の若者達の秩序を乱している原因でしょうな」
 「全くですね」
 私は適当に相槌を打った。
 この通りの風俗店の大半は、実はキューブの系列だった。表向きは2,3の系列に分かれて独立している形になっていたが、水面下で我が社の傘下ということで繋がっている。5,6年前池袋・新宿・渋谷を中心に都内で50店鋪前後の風俗店のグループを経営していたが、一斉に税務署に潰されて以来、グループ分けを細かくすることにしたのだ。
 「へへへ、実はですね、鹿野さん、私、行きつけの店が一件あるんですよ、ほら、あの店なんですがね、なかなか若くて可愛い子がいるんですな」
 そう言って、渡瀬塾長はひとつのネオンの看板を指差した。“ファッションヘルス・ノストラダムス”と大きく光る文字が見えた。私は苦笑した。あの店は確か、私の同期の礪波という男が管理している。彼は入社当時風俗部門と広報部門ということで離ればなれになったが、例の大量粛清の後一時本社の内勤に回され、近頃また現場に復帰したのだ。もうかれこれ半年も会っていない。元気だろうか。
 「いやあ、男は幾つになっても、若い女がいいもんなんですよねえ。うちの学生がこんなものに興味をもつのは甚だ困ったことですが、我々大人にとっては、ある種あり難い存在ですな。いやいや、聖職者とは言っても、所詮は男ですからねえ。はっはっは」
 私は何も答える気にならず、ちょっと苦笑いしただけで黙った。
 そして私は渡瀬塾長が無事電車に乗り込んだのを見届け、一人で帰った。

 「もしもし、お電話ありがとうございます。ノストラダムスでございます」
 「もしもし、礪波か。私だ、鹿野だ」
 「鹿野? おお、久しぶりだな。どうしたんだよ。阿弥陀義塾に行ったんだってな」
 「いやね、君に頼みたいことがあってね。君宛に郵便を送ったんだが、届いているかね」
 「ああ、そう言えば来てたな。何だいありゃ。汚いオジサンの写真が入っていたが」
 「そのオジサンだがな、君の所の店によく来ている客らしいんだが、覚えているかい」
 「ああ、覚えているよ。月に一度ぐらいかな、必ず予約して、同じ子を指名して来るんだ。こいつがどうかしたのか?」
 「いやね、その男をちょっと始末してもらいたいんだよ。殺してもいいが、失脚させるだけでもいい。実は阿弥陀義塾東京本社の塾長なんだよ。あと一年弱で定年なんだが、それまで待てなくてね。早めにいなくなってくれると仕事がやり易い」
 「オッケー。今、こいつがいつも指名する女の子…サクラちゃんって言うんだが、いるからちょっと聞いてみるよ、ちょっと待っててくれ」
 電話が保留になり、音楽が流れる。暫くして、礪波の声。
 「もしもし」
 「おう、どんな感じだ」
 「このオッサン、いつもしつこく本番を強要してくるらしいよ。今度来た時、サクラちゃんに大声出させて騒ぎにしてやるよ」
 「ちょっと待て。あまり派手にやると不味いぞ。マスコミに嗅ぎ付けられると、うちの塾の評判が下がって、返って私の仕事がやり難くなる」
 「もちろん、俺のところもヤバいよ、最近、警察がうるさいしね。だからこのオッサンに反省文を書かせて、取り押さえた時の写真を同封して、君んところに送ればいいだろ」
 「それでいい。さすが君は話が早いな。じゃお願いするよ。で、どうだい、そちらの調子は」
 「まあまあだよ、この業界だけは不況のあおりも少ないしね。今度高円寺の方にも新店を出すことになった。今流行りのデリヘルってやつだ」
 「そうかい、まあ頑張れよ」
 私は受話器を置いた。

 授業終了のベルが鳴り響いた。
 「先生、ちょっといいでしょうか」
 「何だい、徳山君」
 「今日の授業なんですけれども、どうしてもここのところが解らないんです」
 「どれどれ」
 私は生徒の広げるテキストのページを覗き込んだ。一週間前にもこの生徒に直接説明した部分だった。私は同じことをもう一度噛み砕いて説明しなければならなかった。
 私はこの手の生徒が苦手だ。毎日のように、授業が終ると解らない事を生真面目に質問してくる。頭が悪いという訳ではないのだが、どうも理解力がズレている。そもそも“理解”という言葉の意味を根本的にはき違えている。理解するということは、物事の全体を把握するということに他ならない。部分的な要素を解明するのはその材料でしかないのだ。それをひとつの角度に固執するあまり、一向に全体の把握に近付けない。全体像を念頭に置いていないから、逆に要素の理解の能率も悪くなる。個々の要素は全体を把握する材料としてとらえるという事を知らないから、ひとつの要素から他の要素を理解を導き出すという概念がない。だから要素すべてを孤立した対象物として徹底的に理解しようとする。
 こう言ったタイプの脳から他の人間には見られない視点が生まれ、それが歴史的な発見や新しい概念の創造に繋がることもある、それは確かだ。ソクラテスもエジソンも皆、このタイプの人間だったのだろう。しかし、これからの人類にこの手の人間は不要だ。近年の人間の精錬された脳は、コンピュータの力を借りて、更にあらゆる可能性と分散化した情報化社会を複雑に営んでゆくことだろう。
 農業から工業へ、商品から情報へ、力から頭脳へ、手作りから大量生産へ、単純から複雑へ、そう、“複雑”こそ人類の未来を究極の理想郷へと導く重要なキーワードである。我が社の“全人類立体化計画”、それはビジネスを超えた哲学的プロジェクトなのだ。
 私は生徒の無意味な質問責めから解放されると、副塾長室へと向かった。つまらない授業も間もなく最後だと思うと、とりあえず今の所は一生懸命教えてやろうと言う気になる。
 部屋に入ると、私の机の上に、早速一枚の封筒が届いていた。私はほくそ笑んで、封を切るのを待たずに渡瀬塾長を自室に呼んだ。


 「……という訳だ。君には申し訳ないが、そう言うことで頼むよ」
 私の前には、渡瀬塾長、いや元塾長が項垂れて座っている。目の前には、彼がパンツ一枚の情けない姿で写っている写真と、彼直筆の始末書が置いてあった。
 “私はこのお店の規則に反し、女の子に本番を強要しました。ごめんなさい”
 と書いてある。
 「最近の風俗店は本番を強要した客を見せしめとして、写真をとって一筆書かせて、店内に貼っておくらしいですね。よかったですよ、マスコミに嗅ぎ付けられる前にうちの手に渡って。とりあえず、クビにならなかっただけでも儲けものですよ。僅かだがちゃんと退職金もでますしね。いや、後の事は御心配なく」
 渡瀬は一言もしゃべらずに、下を向いている。
 「それでは、忙しいのでこれでお引き取り願えますか」
 渡瀬は何も言わずに、その場を立ち去った。

 半年後。

 阿弥陀義塾の仕事もようやく軌道にのって来た頃、私は久しぶりに本社の黒崎副社長に呼び出された。阿弥陀義塾の塾長に就任して以来、初めての事だった。
 「おう、元気だったか。まあ座れや」
 黒崎副社長は相変わらず豪快な物腰で、葉巻きを吸いながら、大きな煙りを吐き出していた。
 「この半年間、君は実によくやった。さすがわしの見込んだ男だ」
 「ありがとうございます」
 私は深々と頭を下げた。
 渡瀬塾長を失脚させ講師業から解放された私は、急ピッチで阿弥陀義塾の改革に打ち込んだ。まず全国で使用しているテキスト全教科を一新させ、また各支店にすべて食堂を新設した。学力別のクラス分けを強化し、出来る生徒はどんどん上に引き上げ、出来の悪い生徒は容赦なく脱落させる制度を確立した。脱落した生徒はうちの系列会社である新興宗教やその他の団体が受け皿として控えていた。事業的にも今年の3月の卒業生の進学率は例年を大きく上回り、今年度の入塾者数は前年の倍の数値を記録した。もちろん、これほどの短期間で生徒が一気に頭が良くなったという訳ではない。本社では長年広報関係の仕事を担当して来た私だ、新入生の勧誘などは本来の実力の見せ所だ。進学率のアップに関しては、大学側への先行投資といった裏があったことはここだけの話しだが。
 「どうだ、当初の予定より少し早いかもしれんが、そろそろ戻ってくる気はないか」
 「は、本社にですか」
 副社長の唐突な提案に、私は言葉を失った。念願の本社への復帰であったが、ようやく阿弥陀義塾の仕事が軌道に乗って面白くなってきた所だ、抵抗がないと言えば嘘になる。
 「今度の仕事で、君は誰よりも我が社の意向を理解し、新しい事業を能率良く立ち上げてくれる人物だと言う評価がなされた。社長もいたく喜んでおられる。阿弥陀義塾は君がしっかりと下地を作ってくれたから、このまま他の者に任せてしまっても大差はなかろう。実は、我が社の貿易関係の部署が今手薄でね。こちらを君に任せてしまおうと言うことになったんだ。これは社長との相談の上に決まったことなんだが、どうかね。引き受けてくれるかね」
 お断り致します、とは口が裂けても言えまい。
 「貿易関係というと、具体的には」
 「うむ、実は今度アムステルダムからヘロインの輸入ルートを開拓することになってね。いままでヘロインと言えば、香港からのものが主流だったんだが、アムステルダムでとり扱っているものの方が割安なんだ。丁度香港からのルートが妖しくなって来たところだったんで、これを機会に新たなルートを開こうということになってね。あそこはマリファナも上質のシンセミアが揃っているから、一緒に輸入すれば一石二鳥だろう」
 「マリファナなら日本でも栽培しているのでは」
 「需要に供給が追い付かないんだよ。同時に今まで南米から輸入していたコカインとLSDのルートの方も見直そうと言う事になってね。ここで薬物関係の輸入部門の総括を管理してくれる部署を社内に設置しようということになったんだ」
 私は戸惑いを隠しきれなかった。キューブの事業は大まかに言って、表の事業と裏の事業に大別される。そして表の事業に携わるものは表のまま、裏の事業の人間は礪波のように最後まで裏というケースが普通で、表の事業に携わっていた者が裏の部署に回されるとか、その逆のケースは滅多になかった。今さら私に薬物関係の輸入をやれとは、あんまりだ。
 「まあそう落胆するな。薬物と言っても、基本的には事務処理がほとんどだから、君の後ろに手が回ることはない」
 それは解っていた。実際に輸入・販売に携わっているのは正社員ではない、系列の暴力団や各種グループの末端の人間のみだから、私に危険が及ぶことはなかろう。ただ、この仕事を私がやる必然性が果たしてあるのだろうか。
 「どうだね、鹿野君、引き受けてくれるね」
 「解りました。頑張ります」
 そう答えるしか私に生きる道はなかった。満足そうに微笑み葉巻きを吸う副社長。
 「有難う。じゃ、2,3日中に阿弥陀の方は撤退してくれたまえ。具体的な指示はその後で出す」
 「解りました。失礼します」
 私は会釈をして、部屋を出ようとした。
 「あ、それから鹿野君。手術の手配は一週間後に取ってあるから。忘れないでくれたまえ」
 「はい、一週間後ですね」
 私は自分の顔の前回の整形手術の跡を撫でながら言った。

 “特別販売推進部 部長”これが私に与えられた新たな肩書きだった。
 課長に就任してから僅か一年あまり、異例の部長昇進である。今までにない広く快適な仕事場を与えられ、秘書も一人つけられた。私の仕事は表向きには本社で展開しているコンビニ・チェーンの商品販売の管理であり、秘書もこれを信じている。
 仕事を続けている内に、わざわざ私に裏の事業を任せられた訳が解ってきた。末端の暴力団や輸入業者が薬物や金をピンハネし、統率が乱れ分裂しかかっていたのを、表の事業での建て前で再び統率しようということだったのだ。
 私の指示に従って裏の現場で動く特殊部隊が数名いる。連絡は私のアイデアで、週に一度礪波の店で客として入店した際、個室で行われた。
 新宿に行くと時々阿弥陀義塾の生徒とすれ違ったが、誰も私だと気付くものはいなかった。
 数カ月と経たないうちに、私の管理する薬物の輸入・販売は倍近くの売り上げを記録した。需要と供給は上がっていないはずなので、それだけ末端で動いていた者がイカサマをやっていたという事だろう。
 その間、私の指示で現場の相当の人間が悪事を暴露され、死に至った。
 いつしか裏の世界との背中合わせの仕事に、私は今まで味わったことのないスリルと快感を覚えはじめていた。


 「株式会社キューブ特別販売推進部の鹿野部長さん、ただちに在庫管理室までおいで下さい…」
 私は火をつけて一分も経過していない煙草を揉み消し、倉庫へ向かった。
 こんなところで呼び出しアナウンスとは珍しい。というより、普通は有り得ない事態だ。
 ここは表向きは食料品の輸入在庫管理センターだが、大量の菓子パンやインスタント食品の袋の中身が何かは、本部の人間なら分かっているはずだ。確かに私のいた控室は携帯の通じない場所だったが、こんなヤバい職場で誰もが聞こえる館内アナウンスで、会社名と役職と個人名を発声することなど、裏の事業に携わる企業関係者のやることではない。
 それに私は、そのとき少しばかり尋常ならざる身体的及び精神的状況にあった。つまり今日の分の入荷状況を確認し、あらゆる手続きを終え、あとは着替えて帰宅するだけの状況にあった私は、控室でちょっと一服、アムステルダムから輸入したての上質のシンセミアをキメていたところだったのだ。入荷した商品がトンだ紛い物でないか、確認するのも重要な仕事のひとつだ。いいシンセミアだった。見た目は恐らくほとんど変わらないが、私の脳にはかなりの濃度のTHCが充満していた。
 こういう非常識な呼び出しをかける場合、社外関係者の来訪に対して、倉庫管理センターの現場の下っ端の人間が行ったという可能性が高い。しかも緊急事態のようだ。状況に巧く対応できるだろうか。できるとは思うが、一抹の緊張と不安は禁じ得ない。
 私は短く深呼吸をしてから、在庫管理室のドアを開いた。
 中は静まり返っていた。食料品の箱が密集して積み上げられている以外に、目に入るものはない。
 「鹿野です。お呼びですか?」
 私はしっかりとした口調でそう言った。返事をする者はいない。
 「……?」
 何かの間違いだったのだろうか。
 そのとき、背後でドアが閉まり、ガチャリと鍵が掛かる音がした。
 私は瞬間的に振り向いた。
 ドアの前に、一人の人間の影があった。
 「誰だ?」
 私は落ち着いた口調で言葉を発しつつ、全身の筋肉に鋭い緊張を走らせた。
 「鹿野君、久しぶりですね」
 目の前の影がしゃべった。聞き覚えのある声だ。男はゆっくり、こちらに歩いてくる。その手には、拳銃が握られていた。
 「貴方は・・・・」
 男の顔がはっきり認められた。それは意外にも、もう二度と会うことはないと思っていた、よく知っている男だった。
 「渡瀬さんではないですか」
 私は微笑んで、出来るだけ爽やかにそう言ってみせた。
 「お久しぶりですね。いやあ、よく私が分かりましたね」
 私は手を頬にあて、鼻の骨膜の下にプロテーゼを挿入した微かな傷跡をさすりながら、ゆっくり目の前の男に近づいていった。
 「それ以上、近づくと撃つです!」
 渡瀬は黄色い歯をみせて唸るように叫んだ。私はしなやかに両手を挙げて、止まってみせた。こんな男に支配的な態度をとられるのは反吐がでる思いだったが、殺されるのはもっと反吐が出でる。 「鹿野さん、探したですよ。いろいろ調べさせてもらったです、貴方のことを」
 「ほう、私のような平凡なサラリーマンなどに、どんな興味が?」
 「いやいや、なかなか面白かったですよ。『株式会社キューブ』ですか。単なるコンビニやレストラン、マルチメディア、コンピューター関係のコングロマリットと認識しておりましたが、何かと裏は複雑なようですね。……貴方が密かにそんな大企業の部長さんだったとは、いやはや、立派なもんです」
 「大したことではありませんよ。不景気ですしね。所詮はサラリーマン、明日にもリストラされぬとも限らない身です。かの阿弥陀グループ総裁として名を馳せたのは過去の事、今ではこんな冴えない倉庫と事務所を行ったり来たりと、今さらながら販売の最前線に回されて、慣れない業界で四苦八苦の毎日ですよ」
 『阿弥陀』という言葉を聞いて、渡瀬がぴくりと反応した。
 「鹿野さん……あなた、私をはめましたね」
 「何のことでしょう?」
 「しらばっくれてもダメです。あのヘルスがキューブの直営店だというのはもう調べがついてるんですよ」
 こんなとるに足らない男に、どうして天下のキューブの裏事業に関する情報が調べられたのだろうか。私は不思議でならなかった。
 「貴方が私を失脚させて、阿弥陀義塾の総裁の座についたことは明白です。お陰で私は悲惨でしたよ。もうすぐ定年だったってのに。家族にも白い目で見られ、家にもいたたまれなくなって、今ではアパートで一人暮らしです。妻にも離縁されて、少ない退職金も底を尽きました。後はホームレスにでもなるしかない状況です。でもね、貴方をここで殺して、自分も死ねば、それはそれで満足です。少なくとも新宿中央公園のベンチで段ボールにくるまって余生を暮らすよりは、はるかに愉快な最期です」
 渡瀬は拳銃を握り絞めた右手をまっすぐのばした。目の高さまで挙げられた銃口からは、次の瞬間にも弾が飛び出しそうだったが、私の心は不思議と落ち着いていた。この男が私を殺すような人間には思えなかった。
 「渡瀬さん、その前にひとつだけ聞かせてくださいよ。私の正体と、キューブの裏事業の事をどうやって調べたんですか?」
 「ふふっ、知り合いに興信所に勤めている人間がいましてね。最初は貴方の正体を探って、何らかのしっぽをつかんでやるつもりでした。たかが進学塾のトップの座を、権力欲のみでああまでして乗っ取るような方にも見えませんでしたからね。ところが調べていくうちに、貴方の背後にある巨大組織・株式会社キューブの存在が大きくクローズアップされてきた訳です」
 「やだなあ渡瀬さん、うちの会社をフリーメーソンみたいな秘密組織かなんかと勘違いしてませんか」
 私は笑った。笑うしかない。
 「とぼけるんじゃないです! 貴方の会社が単なる営利目的だけの団体ではないことは明白です。なんですか、“全人類立体化計画”ですか。それがあなたたちの最終目的らしいですね。あなたの会社の事業は裏も表もすべて調べつくしましたが、その計画とやらは、名前だけしか解りませんでしたよ。どんな恐ろしい計画なのかは知りませんが、名前からして、世界征服みたいなもんでしょう」
 「世界征服みたいなもん……ですか」
 今度は笑う気力もおきなかった。
 「渡瀬さん、もうひとつ質問していいですか?」
 「話をそらさないで下さい」
 「いやね、どうして私が貴方をはめたと思ったんですか?」
 「簡単なことです。いつもは内緒で本番やらせてくれるサクラちゃんが、いきなり騒ぎだしたんです。これはオカシイと思ったです」
 「ああ……なるほど」
 「さあ、無駄話はやめて、そろそろ死んでもらいますです」
 渡瀬は拳銃を震わせた。「そう、この引き金を引く前に、ひとつだけ教えて下さい。株式会社キューブの、“全人類立体化計画”とは、なんですか? さあ、答えるです!」
 「そうですね……ひとくちで説明できるものではありませんが、いってみれば、“地ならし”ですよ」
 「地ならし?」
 「そう。全人類を、ひいては地球をね。あらゆるメディア、情報ネットワーク、教育機関、宗教を通して、全世界の人々をコントロールするんです。そして我が社が規定した来るべき“審判の日”までに、全人類の六分の一を北極に集めます」
 「ほ、北極に?」
 「そうです。そして、また別の六分の一を南極に。別の六分の一を日本に、別の六分の一をアメリカ大陸に、別の六分の一をヨーロッパに、残りの六分の一をユーラシア大陸に集めます。つまり、全人類を六等分するわけです」
 「それで…」
 「それでですね、我が社が考案したキューブ・ダンスという踊りがあるんですが…これは、今若い女性の間で流行っているパラパラの足版みたいなもんでして、足を使って、こう、地面を踏みならすように踊るんですよ」
 そういって、私は足をとんとんと動かして踊ってみせた。私の足の動きに合わせて、渡瀬の頭が左右にカクカク揺れている。
 「このキューブ・ダンスを、全人類に一斉に踊ってもらいます」
 渡瀬は口をぽかんと開け、何も言わずに聞いている。
 「つまり、こうやって、地球を四角くしてしまうという壮大な計画なんです」
 「な……な……なんという……」
 渡瀬は銃を持つ手を震わせ、言葉をつまらせた。「そのような恐ろしい計画、この私が許しません!」
 「私ひとりを殺しても、事態は何も変わりませんよ」
 「そんなことはないです。あなたの組織のしっぽはつかみました。これを世間に公表すれば、株式会社キューブは終わりです」
 「そううまくいきますかね」
 「いきますです。あなたの頭をフッ飛ばして、その後で、あなたの会社のアタマもフッ飛ばして、それで、終わりですよ。ははは」
 「ははは!」
 とりあえず、私は笑った。
 渡瀬も笑った。
 倉庫に、複数の人間の笑い声が響いた。
 それらの笑い声を遮る様に、
 銃声がした。
 私は銃声のした方を振り向いた。
 麻袋を積み上げた棚の影から、煙り立ち上がる拳銃を握り絞めた、黒崎副社長が姿を現した。肩を揺らして、まだゲラゲラ笑っている。
 「うひゃひゃ、鹿野君、なかなか面白かったぞ」
 「副社長。出てくるのが遅すぎやしませんか? 危ないところでしたよ」
 私は初めて横目でちらりとだけ、鼻から上が見事にフッ飛ばされ、肉汁と血泡を放泌している渡瀬の亡骸を見やり、黒崎副社長に視線を戻した。
 「いや、君達の会話があまりにも面白いので、思わず耳を傾けてしまったよ」
 「面白かった……ですか」
 「ああ、そいつのボケぶりが。君は、相変わらずユーモアのセンスがいまいちだな」
 そういって黒崎副社長は拳銃で渡瀬の死骸を指した。
 「はあ。申し訳ありません」
 なんだか無性に悔しかった。副社長は葉巻きをくわえて百円ライターで火をつけた。
 「それで、どうして私が狙われていることが?」
 「系列の調査サービス会社に我が社の裏事業と君の経歴についての調査依頼があった事が解ったので、数日前から依頼人であるその男をマークしていたのだよ。調査を受けたのが末端の調査員だったので、上層部に辿り着くまで時間がかかってね。ギリギリだったが、まあ、結果オーライということで。今頃はその調査員にも手が届いていることだろう。データも多分、残らん」
 私は指の先で、吹き出す汗をぬぐった。やはり系列会社の人間だったのか。第一、部外者が、ここまでキューブの裏事業を調べられる訳がない。しかし、これだけ情報が漏れるまで上が気が付かなかったとは、我が社の管理体制はちょっと問題ありすぎだ。
 「それにしても、副社長が直接、手をくださなくても」
 「今日はたまたま居合わせたんだよ。なかなか拳銃で人撃つ機会もないしね。そう、くれぐれも社長には内密にな。というより、キューブの裏事情が一般に漏れかかったこと事態、知られてはまずい」
 「居合わせた? ここに?」
 私の問いに、にやりと笑う副社長。
 「いいのが入ったんだってね。何と言っても、シンセミアは新鮮が一番だからね。さ、自然の恵みを胸いっぱい吸い込んで、めしでも食べに行こうか。今後の打ち合わせもあるし」
 私ははっとして腹に手をあてた。そう言えば、シンセミアの効きのせいで、すさまじく腹が減っている。
 「いいですね。御一緒させていただきます。それはどうします?」
 「清掃係はちゃんと手配してあるよ。さあ、何を食べるか?」
 我々は、倉庫の扉の近くに横たわっているそれを、靴を汚さないように気を付けて跨いで外に出た。
 株式会社キューブ設立以来最大最悪且つ矮小な危機は、こうして無事に事無きを得たのであった。

 数カ月後、社長が交通事故で帰らぬ人となり、黒崎副社長が社長に就任した。エレベーター式に私も取締役となり、総合的なフィールドで手腕を発揮することになった。
 今度のテーマはインターネットと他のテレビ・ラジオ・出版等のメディアとの融合である。
 世界に濫立する検索サイトを統一することにより、インターネットをひとつのシステムとして総括する。そしてテレビ等の電化製品やあらゆる通信機器の標準機能としてインターネットを取り入れる。もちろん、それらのベースとなるのは、我が社が開発し、既に世界標準OSとなりつつあるANTI-NATURE(アンチネイチャー、又はアンチナチュールと発音)である。
 近い将来、あらゆる情報、経済、コミュニケーション、娯楽の手段がインターネットと言う媒体を通してひとつのラインで統一されるであろう。
 テレビ、ラジオ、ゲーム、ビデオ、映画、書籍、辞書、ショッピング、これらを分け隔てる概念は、WWWに納められている広大なデータを如何に引き出し、活用するかの手段でしかなくなるのだ。
 株式会社キューブは、血管や神経の様に張り巡らされた情報ネットワークを統合する、いわゆる地球の脳髄の如きファンクションとして、人類の輝かしくも充実した複雑な未来を先導してゆくのである。
 人類が人類を超越する時代はすぐそこまで迫っている。
 そのとき、バーチャルの地球は、どんな形をしていることだろう。


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