クムラン・アーシュラム

by 赤池あすら

 クムラン【Qumran】
 死海北西岸にある遺跡。付近の洞穴群から発見された古代写本を所有していた共同体の住居址とされる。(広辞苑第五版)

 1 処女ヨセフと大工のマリア

 ジョセフィーヌは活発な娘で、アーシュラム(共同村)のどこにいても目立ったし、誰からも愛されていた。
 パン工房の娘である彼女は、毎日親の仕事を手伝って、アーシュラムのみなにパンを届けるのだが、途中で幼なじみの男の子と出会えば相撲をとるし、湖を見下ろす丘へ近づけば花畑を駆け回るし、みながその日のパンを待ちわびることなどしょっちゅうであったが、近所の婆がそのことで叱ったところで、恥じらいながら可愛らしく舌を出したりするので、誰も少女を憎まないのであった。
 クムラン・アーシュラムとここで呼ぶ村は、死海を望む丘に洞穴をうがってつくった村で、エッセネ派とも呼ばれる律法主義者たちが共同生活を営んでいる。誰もが共同生活のための職に就き、ただ淡々と生活しながらも、何事かを待っているのであった。

 年16になったばかりのジョセフィーヌは、無垢な少女であったが、同時におしゃまな子でもあったので、一応、好いた男などいた。大工の息子のリアムだ。この男は、もう25にもなるというのに、いまだに父親の跡をついで家長にならないので、アーシュラムの皆にはぼんくらと言われて馬鹿にされることもある。実際、なで肩の、ぼんやりした優男であった。
 ジョセフィーヌはパンの配達が早く終わると、リアムの家、洞穴の一室だが、そこへしょっちゅう遊びに行く。するといつもリアムの母がいて、羊織物を打っている。リアムはいつも父親と仕事に出ているのだ。
 「ね、お母さま。リアムさんは今日はどこへ行かれてるんですか」
 リアムの母親は、毎度のことながら、なぜこの少女がリアムにくっついて回るのか不思議で仕方がない。
 「今日は司長さんのところですよ」
 と教えてあげたが、いつも、こう教えてやったときの、少女の飛び跳ねんばかりの目を、理解しかねるのであった。
 「司長さん? わ、見にいっちゃお」
 とジョセフィーヌはリアムの母に礼も言わずに駆け出そうとする。
 「セフィーちゃん、リアムの仕事を邪魔しちゃ駄目ですよ」
 とたしなめるのだが、この少女はほとんど聞いていない。
 「はあい」
 と背中で答えてもう行ってしまった。

 アーシュラムの司長は、すなわち村の長、司祭、神官であった。権威がある。アーシュラムでもいちばん広い洞穴に住んでいて、一般の住人が軽々しく立ち入ることはできない。ジョセフィーヌは、リアムの知り合いだからと勝手に決め込んで、司長の家を覗こうと思った。わくわくした。もちろん、単に、リアムに会えるというのもある。洞穴の狭い、薄暗い道を、すばしっこく駆けた。
 司長の窟についた。窟の中で、松明がいくつか焚かれている。ジョセフィーヌは、ちょうどしたたかな猫のように、こっそり中をのぞき見た。司長が敷き藁に座っている。小さな村でも、ジョセフィーヌのようなパン工房の娘が、司長の姿を見る機会はそうない。年に四度のお祭りのときに、火を焚く司長を遠く見るくらいだ。老いているが、磨かれたガラスのような目からは、意志の厳しさの衰えを感じさせない。その前にリアムがいる。こちらは見慣れた朴念面だ。リアムの父親はいなかった。
 「リアム......文書を......うがち......窟に......」
 司長の声が、細く聞こえる。リアムはただ頷いている。
 (なんか、へんなの)
 ジョセフィーヌは、この場の気を、少女らしい勘で、それなりに読みとっていた。
 (遊びに来ました、じゃ叱られそう)
 と、必死に知恵を働かせて、汗をかきながら、しなやかな猫のように、司長の窟を逃げ出した。

 日変わって、朝のまだきに、ジョセフィーヌの家、窟に、リアムがやってきた。一家はその日のパンを焼いているところだった。
 「あらリアムさん、どうされました」
 ジョセフィーヌの母親が言うと、リアムは弱々しくも、
 「いえその...窯の修理はいらないかと...」
 などと言う。母親が笑って、
 「あら、この通り、今日もがんばってパンを焼いてくれていますわよ。リアムさんったら、どうされたんですの...あら...」
 そのとき、窟の送風口の掃除を終えたジョセフィーヌがやってきて、リアムが少女を食い入るように見つめるのだった。
 (リアムさんったら、唐変木かと思っていたら、案外と...まあ、あら)
 母親は、母親らしい喜びと恥じらいを感じた。リアムは確かに間抜けっぽい男だが、ともかく優しそうだし、まじめなことは知っているし、娘の夫に、悪くもないなどと思うのだった。ジョセフィーヌに、
 「リアムさんですよ」
 とうながすと、手を洗っていた少女は、顔を見上げて、
 「あ、リアムさん」
 と言うが、いつも彼女がこの男の顔を見たときのような歓喜がなかった。なにか戸惑っている。それを母親は、
 (あら...これは...この子、そんなませた子だったかしら)
 と、ふたりの間に、この数日中なにかあったなどと勘ぐった。
 (ともかく、リアムさんはこの子に用があるのだわ)
 と気を利かせる。
 「セフィー、リアムさんが窯の様子を見に来てくださったのよ。一緒に裏に回って、焚き加減を見てきてちょうだい」
 するとジョセフィーヌは、
 「でも、もう掃除はちゃんとしてきたもん」
 と反発する。母親は、これはいよいよ、とますます娘の純潔をすら疑いはじめる。
 「いいから行ってくるの。じゃないと、今日はおやつ抜きよ」
 とまで言う。
 しぶしぶ少女はリアムを連れて窯の裏口、送風口を覗きに行く。
 「ねえセフィー」
 狭い窟の中で、ふたりは寄り添って、小さな声で、話し出す。
 「なんです」
 「きのう、うちに来ただろう」
 「ううん、行ってない」
 「嘘つくことはないじゃないか。母上が来たって言ってたよ」
 「......」
 「それで、司長さんの家に行ったね」
 「......」
 「私は司長さんの家の壁を直しに行っていた。でもきみ、司長さんの家には、入ってこなかったね」
 「司長さんの家には、軽々しく入るなって、お父さんにも言われてるもの」
 「でも、入り口までは行っただろ」
 「なんでそんなこと知ってるの?」
 「司長さんの家は、お守役が、守ってるからね。窟に誰が近づいたかなんて、すぐわかってしまうさ」
 ジョセフィーヌはすっかり黙ってしまった。リアムは優しくそんなことを言うのだが、少女には、耐え難く恐ろしかった。
 「別にセフィーが悪いことをしたなんて言うんじゃないさ、そんなにこわがるなよ」
 それでジョセフィーヌは耐えきれずに泣き出してしまった。しゃくりあげて、涙をぼろぼろと、土に落とした。リアムはすっかり困ってしまった。
 「いや...あのねセフィー、私はきみを叱りに来たんじゃないんだ。その...私が司長さんと話していたことを、きみが聞いたのかどうか、聞きたいだけでさ...」
 リアムは偽りのない男だ。率直に聞いた。ジョセフィーヌの正直さも信頼してのことだ。
 「ううん...よく...聞こえなかった」
 泣きじゃくりながらも、ジョセフィーヌは、はっきりそう言った。
 「そうかい。それならいいんだ。その...恐がらせてすまない。そんなつもりじゃなかった...ごめん」
 リアムは少女がかわいそうだった。司長の守り役に言われて問いただしに来たが、こんなことはしたくなかった。なんとも申し訳ない気分になった。
 「ねえセフィー、いつでも私の家においでなさい。大工の仕事を見るのが好きなんだろ、いつでも仕事についてきたらいい。私が大工の仕事を教えてやってもいい。かわりに、きみは私にパンの焼き方を教えておくれよ。ああ、そうだ、相撲もとろう。一日3番、勝負といこうじゃないか」
 などと優しくあやしたので、ジョセフィーヌはようやく泣き止んで、
 「ほんと? うん、とろう」
 と微笑んだ。それでそれからリアムは、ほとんど毎日、ジョセフィーヌに大工仕事につきまとわれ、パン焼きを手伝い、少女と慣れない相撲をとって、近所の人々の笑い種になった。

 ジョセフィーヌは、リアムに、まったく正直に答えたわけではなかった。彼女は、よく聞こえなかったが、やはり、聞いたのだ。
 「文書を...窟に...」
 少なくとも、彼女は、あの日リアムが、司長の窟の壁を直しに行ったのではなく、そのことをリアムが隠したことを、知っていた。
    ★
 アーシュラムでは、男が年20にもなれば、妻をとり、父親の跡を継いで家長となり、父親は隠居する。男の通過儀礼にはまず割礼があり、ついで結婚と家の相続、それから隠居だ。隠居した年寄は、祭司となる。律法を守って禁欲し、時節ごとの祭祀を行う。アーシュラムの大事を合議する。説法し、医者のようなこともする。
 ところで、リアムは25にもなるのに、いまだ妻をとらず、家を嗣ぐこともしない。ひょうろくだから嫁の来てがないのだとか、意地の悪い連中となると、皮かむりだの、種なしなどと陰口をきいたりした。しかし、リアムが家を継がないのには、理由があった。これは司長と、リアム自身と、リアムの父親と、一部の元老だけが知っている秘密であった。
 三年前の夏だった。リアムは、父親に連れられて、司長の窟で、その密儀を受けた。
 「ヨハネス...」
 と司長は、リアムの父を呼んだ。
 「あれが、戻ってきおった」
 「こうも早く...いったいどこへ行っていたのでしょう」
 リアムの父は、すべてを知っているようであった。リアムには、この場が、なにか聖なる場であることだけは、飲み込めていた。ただ黙って、気を落ちつけていた。リアムは牛のように動ずることのない男だ。そこを司長は見込んでいるのかもしれないし、ジョセフィーヌは好いているのかもしれない。
 「ほほ、さあな。まあ、東方じゃろ。ペルシアか、もっと東かもしれぬ。なにしろ、わしの夢も届かぬところへ、逃げておったでな」
 司長は、老人らしからぬ、血色のよい笑い方をしたのを、リアムはよく覚えている。
 「だが昨夜、堂々と、わしの夢に現れて、頭から、油を流して、微笑んでおった」
 託宣は夢、もしくは、夢のような心地の呪術師に語られる。
 「ナザレびと、なにをするつもりでしょうか」
 「そういうことなんじゃろう」
 司長はまた笑った。頭に油を注がれるのは、救世主、または王である。ナザレの男は、司長に、それを見せつけたのだ。
 「愚かな男じゃ。わしには、復讐としか映らぬな。いかにあのナザレびとが正しかろうと、誤っていようと、わしの目に映るのは、混沌とした闘争だけじゃ」
 リアムは決して愚かな男などではない。アーシュラムにとって、イスラエルにとって、禁忌の人間が、いまどこからかやってきており、自分は、アーシュラムを守るために、なにかをしなければならないことを、とうに了解していた。
 「終末が...近いのですか」
 リアムははじめて口を開いた。終末には、破壊の王が、すべての不浄を焼き払う。そうしてはじめて、人間は、真の人間となる。
 司長は優しくリアムに笑いかけ、
 「終末か...ほほ、リアムよ、滅多なことを言うものではないぞ。おごるな。人の試練はまだまだ始まったばかりじゃ。おまえも、おまえの子も、そのまた子たちも、まだまだ忍ばねばならん。あのナザレびとなぞ、世界で延々と続く試練と比べれば、イスラエルの大樹の小枝がほんの少し揺れたくらいの、小さな地震にすぎぬ」
 「あれはここへ来るでしょうか」
 リアムの父がおそるおそるたずねた。
 「ふむ、いや来んじゃろうな。そんなに暇でもなかろうて。少なくとも、あれが生きておるうちはな」
 リアムの父はほっとしたが、リアムは、逆に、恐ろしくなった。司長にたずねた。
 「では、そのナザレびと、死ねばどうなりますか」
 「リアム...」
 司長は少しのあいだ沈黙した。目をつむり、息を整えた。
 「あれは、死ぬことが恐くはないのじゃ。死ぬために、戻ったのかもしれぬ。ゆえに禁忌じゃ。そうであるのに、エルサレムの馬鹿どもは、あれを放っては置かぬじゃろうな。まあ、じきに、死ぬじゃろう」
 もう一度、息を調節する。呼気をゆっくりと、鼻で味わう。そうしてから、司長は老体を起きあがらせ、すっくと地に立つと、リアムの前に行き、その目をしっかりと見据え、
 「リアムよ。秘儀を授ける」
 と吐き出した。リアムはただ拝跪する。司長は傍らに置いていた陶器の壷を取り上げる。中には、山羊の乳が入っている。
 「ナザレびとよ、汝はイスラエルを滅びから救うのかもしれぬ。それは認めてやろう。じゃが、クムランも生き延びるためには力を尽くす。油を受け、イスラエルの王になるが良い。じゃが、ここにクムランの王がおる。クムランの乳を受けたリアムがいるかぎり、汝とその徒党は、クムランに踏み込むことはできぬであろう」
 司長はそう祝詞を唱えながら、リアムのひたいに、乳を注いだ。
 それから司長はリアムに、ナツメヤシの葉の茎で織った、老人の手には余るほどの大きな箱を示した。
 「リアム、これをおまえに授けよう」
 司長が箱の蓋を開けると、そこには古い羊皮紙、またパピルスの本がぎっしりと入っていた。
 「これは...」
 リアムには、それがなんであるかは、すぐにわかった。秘儀として授けられる書ならば、当然、それである。
 「聖書である」
 司長が、祝詞のように言った。ここには律法がある。詩篇がある。イザヤ書がある。クムラン代々の司長たちが残した文書がある。
 「これはクムランの、イスラエルの宝じゃ。われらの祖霊はここにある。汝はこれを読め。読んで骨とせよ。これを保有し、隠せ。そして孫々に伝えよ。これがクムランの主たる汝の務めじゃ」
 リアムはただ拝跪した。宿命をただつつしんで受けた。

 リアムはアーシュラムから離れた崖、死海が美しく望める高所なのだが、そこに窟をうがち、聖書を隠した。もともと大工の息子だ、クムラン・アーシュラムでは大工と言っても、その仕事は土木工事のようなものだ。この種の仕事は慣れていた。
 それからリアムは、満月の夜だけ、人目を盗んでアーシュラムを抜け、この窟に来ては、月明かりで聖書を読んだ。また写しをとって、すべての文書の写本をつくるつもりであった。3年がすぎ、ほぼすべての文書の写本も完成した。あとは別の窟を掘って、そこに写本を埋めるのだ。

 2 離れがたきふたりのもとに

 リアムはパンの焼き方をほとんど覚えてしまった。ジョセフィーヌは窟の壁に用いる土の配合をすっかり覚えてしまった。ジョセフィーヌの母親は、リアムの母親と、茶飲み話に、婚約を臭わせては、喜んでいたりした。相撲は、リアムが本気でないせいもあるが、それにしても、勝ったり負けたりであった。
 満月の夜、アーシュラムを抜け出すときには、リアムは細心の注意を払った。足音はもちろん、呼気、体温すら静めて、すばやく駆ける。昼間、リアムをあなどっている連中が、このときのリアムを見たなら、彼の韜晦に憤るであろう。だが別に、普段リアムは、爪を隠したり、意識的に唐変木を演じているわけではない。まったく本来が、ぼんやりと物思いに浸るのが好きな、静かな男というだけである。ただ、この夜は違う。いわば、憑くのだ。クムランの、イスラエルの祖神が。リアムの、人間としての、イスラエル人としての生命力が、燃え立つのである。
 しかしやはりこの男はお人好しなのだった。あのときジョセフィーヌが、すっかり告白しなかったなどとは、ついぞ疑わなかったのだ。
 月明かりを避けるように、木陰から木陰へと駆ける影を、もうひとつの、もう少し小さくて、よりしなやかな影が、遠く離れて追っていく。
 ジョセフィーヌだ。
 (今日こそ、つきとめてやるんだから)
 少女なりに、堅い決意をしていた。実は満月の夜、リアムを追うのは、これで三回目だ。
 ジョセフィーヌは満月の夜、夢を見た。自ら槍を脇腹に刺した、骸骨の軍隊が、クムランに向かって、湖の岸を行軍してくるさまを見た。こわくて起きあがった。こわかったが、湖を見たくて外に出た。そうして、駆ける影を見た。すぐにわかった。リアムだ。
 前の二ヶ月は、見失った。翌日の朝、何食わぬ顔で、しかしくまのある目で、パン焼きを手伝いに来るリアムを、恨めしく睨んでやったものだ。
 直接問いたださないのは、どうせ教えてくれるはずがないという推量と、勝ち気さゆえだ。
 (きっと、すごいことなんだわ。きっと、ものすごいこと、してんだわ)
 少女はわくわくした。リアムは、家長に命じられて、アーシュラムのみなにも秘密で、なにかをしているのだ。それを知ってしまった以上、それがなんなのか、確かめないでいられないジョセフィーヌではない。リアムは、やはり自分が見定めたとおり、なにかたいへんな人間に違いないのだ。

 リアムは先々月から、人気の皆無な丘の側面で、写本を埋めるための、もうひとつの窟の掘削にとりかかっていた。潮風に長い間吹かれた土は、もろくて削りやすいが、崩れやすい。人ふたりがようやく入るほどの、細い横穴を掘るのだが、少しずつ掘っては木組みを入れて粘土で固め、そうしてからまた掘り進む。うつ伏せ、または仰向けに寝そべって、ノミと金槌を振るう。匙で土をかき出し、麻袋に詰めて外へ運ぶ。地道で、危険な作業だ。土がいつ崩れて、土に埋もれて窒息しないとも限らない。
 この窟も5メートルばかり掘り進んだので、ひとまず、すでに写本をここへ埋めてある。しかしもっと深く掘って、盗掘者を、完全に排除しなければならない。リアムは、この日も、ただ無心にノミを打ち、土を麻袋に詰めて、穴の外へ運んだ。
 リアムは重い麻袋を引きずって、足で体を滑らせながら、唸りながら、穴を這い出す。身を起こす。
 影が、月明かりに照らされた、無人のはずの丘に、人の形をした影が映っている。怪しんで見上げると、女だった。月光に、青く照らされた、女がいて、こちらをただ見つめている。微笑んでいるように見える。リアムは、土嚢を抱えたまま、立ち尽くしてしまった。
 (これは人なのか?)
 疲労に高揚したリアムの心は、そう疑った。人であれば、すなわち自分は窮地であるし、そうでなければ、自分は死んだか、あるいは、生の絶頂だ。
 ふたりは沈黙して見つめ合った。女のほうが、ゆっくりと、歩き出した。
 「リアムさん」
 声をかける。リアムは驚かなかった。ただ安堵した。この女の来訪は、彼に、いいしえない安心感をもたらした。彼は孤独だったのか。
 「セフィーか」
 リアムは笑った。
 「見てしまいました」
 少女はいたずらっぽく、意地悪そうに笑った。
 「やあ、隠し事というのは、必ず見つかるものなんだね。昔から、そうと決まっている」
 「ええ、そうですとも。神さまは、なんでもお見通し。セフィーにも、ときどき、秘密を教えに来てくれます」
 リアムがジョセフィーヌを見れば、木綿の服は泥だらけだし、手足も同様だった。よくこんな崖の上まで来れたものだ。
 「どうしてここがわかった?」
 「言ったでしょ、神さまが教えてくれたの」
 「夢かい?」
 「うん。恐い夢を見て、起きたら、リアムさんが、鼠みたいに、外を走って行くのを、見つけたの」
 「へえ」
 (この子...憑くのか)
 不思議なこととは思わなかった。女が神託を降ろすのは、クムランでも、まれにあることであった。
 (この子は、知らなければならないということか)
 そう思ってみた。そうだとするなら、残酷だ。この宿命は、無垢な少女には、重すぎる。
 「さあ、教えてください。リアムさん、ずっとなにをしているんですか」
 ジョセフィーヌはリアムの目をのぞき込む。リアムは沈黙する。しらばっくれることはできる。もっともらしい、例えば司長の墳墓を掘っているとか、そんなことを言えばいい。だが、なにかに駆られて、危険も省みず、一心にここまで来た、このあどけない、汚れのない少女を騙すのは、誠実ではないように思えた。それにここには、すでに聖書がある。聖化されている。聖地に悪徳を持ち込んではならない。純真な少女を、無惨に騙す気にはなれなかった。
 「大事な本を埋めている」
 そう答えた。自分はすでに秘儀を受けて、クムランを任された。ならば、己の心のままに振る舞うことだ。ジョセフィーヌに、すべてを教えてやりたかった。それは重大なことだが、クムランびとであるジョセフィーヌには、決して禁忌のものではない。むしろ、知るべきことだと思われた。
 「ご本?」
 「うん。大事な、私たちのご先祖から、長く受け継がれてきた本だ。ここには、私たちが生きるために必要なこと、生きる理由が書いてある。これがあって、これを読んだ人がいれば、私たちは、間違いがないのだ」
 「でも、どうして埋めちゃうの?」
 「この本が、盗まれないようにだよ」
 「だれが盗むの?」
 子供らしい無垢な質問には、それへの答えは、複雑すぎ、そして汚れすぎていた。なんと答えてやろうか、リアムは少し考えた。
 「さあ。いずれ、悪い人さ」
 「ふうん、じゃあ、リアムさんは、アーシュラムのみんなのために、大事な仕事をしているんですね」
 ジョセフィーヌは、無邪気に、上気していた。好いたこの男は、やはり、みなの言うような唐変木などではなく、アーシュラムの英雄となるべき男なのであった。少女は、わがことのように、誇らしかった。それを確かめたくて、ここまで来た。
 「まあ、そういうことかな」
 「すてきだわ!」
 ジョセフィーヌは、はちきれんばかりの笑顔になって、リアムの、土まみれの手のひらを、同じような、土にまみれて、乾いた、小さな手で握った。それは少女の誠意による、英雄への祝福であった。

 その夜はもう仕事にならないので、リアムはしかたなくジョセフィーヌと一緒に崖を下り、アーシュラムへ戻った。別れ際、ジョセフィーヌは、リアムにわびた。
 「邪魔してしまいました。ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げる。リアムは器の小さい男ではない。笑って、
 「いいんだよ。きみは、友達だから」
 と言ってやった。それでジョセフィーヌは照れくさそうに笑ったが、やはり、
 「でも、もう二度と、あそこへ行ったりしません」
 と、もう一度、頭を下げた。

 この様子を見ていた者がいた。アーシュラムを警護する守り目のひとりだ。守人は、アーシュラムにも数人しかいない。いずれも鍛えぬいた体術、遁甲術の持ち主だ。ちなみに、守人衆の長が、司長の守役を勤める、老練のアンデレだ。リアムとジョセフィーヌを目撃した者が、アンデレに報告した。アンデレは激怒した。司長にこの件を告げた。だが、司長はなぜか、したり顔に、ほくそえむのであった。
 「ほほ。どうやら、あの子が選ばれたらしいの。ま、あの子の他には、おるまいて」
 などと言う。アンデレは怪しんで、
 「どういうことでございますか」
 「命(めい)じゃよ」
 「あの娘が...」
 「リアムの子か。見てみたいの。それまで、この老いた体が、老いたクムランが、持つかどうかじゃが」
 そう司長は楽しげな顔をするのだが、アンデレには、にわかには信じられなかった。

 それでアンデレはリアムを丘の上の原に呼び出した。
 「あの娘に教えたな」
 問いつめる。リアムは観念している。守人衆に露見することは、わかっていた。
 「はい」
 アンデレはさっと顔を赤くして、髪を逆立てんばかりにした。
 「あんな小娘を、巻き込むつもりか!」
 「しかし、あのような場所で、騙してしまっては、よくありません」
 場所というのは、いわんや聖書を埋めた窟のことだ。つまりそこは、聖なる場所である。汚れてはならない。虚は汚れている。
 「うぬ...」
 「あれは、口の堅い子です」
 「ふん、ませた娘じゃ。まあおぬしには、ちょうどいいかもしれん」
 アンデレは、持っていき場のない、入り組んだ心境から、そんな嫌味を選んで言い、立ち去った。それから、アンデレは、ジョセフィーヌのことを口に出すことはなかった。もともと、守人の仕事の外のことだ。
    ★
 暑い日であった。ガリラヤ。ヨルダン川中流の、湖に沿うひなびた村に、ナザレからやってきた、10人ばかりの行者たちが立ち寄っていた。彼らは、エルサレムを目指している。
 村の入り口、低い、人よりも、ハイエナ避けのためにあるような土塀に、一行が近づくと、部落の守人がこれを見とがめて、
 「なにものだ」
 と問いつめる。先頭の、背の高い、髪も髭も長く伸びた男が、守人の目を見据え、
 「救いである」
 と答える。
 「なんだと?」
 守人がわからずに怪しむと、髭男は笑って、
 「ふふ、なに、しがない山伏どもさ。少しの食べ物と、風をしのぐ場所を、貸してもらえないかな」
 「馬鹿を言え。わが村は今年はひどい不作でな。山伏にくれてやるパンなど、ひときれも残っておらんわい」
 「へえ...それは不憫なことだ」
 「そうだ不憫なのだ。悪いな、湖で釣りでもするのがよかろう」
 「弱ったな、我々は、肉は食わぬのだ」
 「では木の実でも拾え」
 「それもいいが、もう少し、いい方法もある」
 男はそう言って笑う。背後の行者、どうやらこの長髪の男の弟子たちらしいのだが、彼らは、ただ沈黙して、突っ立っている。守人は、だんだん気味が悪くなってきた。と同時に、湖の漁師たちから最近聞いた、あるうわさ話を思い出していた。
 (ナザレの大工の息子が東から帰ってきた)
 「われわれにくれてやるパンはひときれもないと言ったね。だが、私は、パンをくれとは言ってないよ。貸してくれと言ったんだ」
 (そいつは湖の上を歩いた)
 「守人さま、パンがまったくないわけじゃないんだろ。なんなら、小麦の粒でもいいよ。ちょっとでいい、貸してもらえまいか。すぐに返すから」
 (そいつは不具を癒した)
 「なにその...パンを増やして、みんなで食べようと思うんだ。お礼に、この村の方々にも、パンを増やしてさしあげようと思うんだが」
 (そいつはパンを増やした)
 そこまで思い出して、守人は、歓喜してしまった。どもりながら、この行者にたずねるのであった。
 「あ、あんた...マシーアハだな!」
 マシーアハとは、「油を注がれた者」の意だ。神が使わした王、すなわち救世主だ。
 「いやその...」
 男は手で遮るようにする。
 「あんた、ナザレのヨシュアだな!」
 「うん、たしかに、私はナザレから来た、ヨシュアという名の者だが、しかし...」
 すると守人は、このナザレびとが呼び止めるのも聞かずに、村に向かって駆け出して、
 「マシーアハだ! 王だ! お迎えしろ!」
 とふれ回ってしまった。

 それでヨシュアと弟子たちは、盛大に歓迎されることになった。宴が催された。村人のほとんど全員が、マシーアハを一目見ようと、目を輝かせて広い野原に集まり、みなに葡萄酒とパンと果物が振舞われた。村の娘たちの歌と踊りが饗せられた。
 ヨシュアは失笑して、リンゴをかじりながら、弟子たちにささやいた。
 「やれやれ、これはたぶん、村に貯蔵された食べ物のほとんどすべてだ。どんなに食べてしまっても、どうせ私に増やしてもらえると思っているのさ。田舎の人は純朴なかわりに、欲望にも遠慮がなくっておもしろいね」
 弟子たちもこらえられずくすくすと笑った。
 さて歌と踊りが一幕終わると、くだんの守人、この宴の進行役のようなことを進んでやっているのだが、彼がヨシュアのところへやってきて、手をもみ合わせてもじもじしながら、
 「あの...マシーアハさま...」
 「よしてくれよ。私はヨシュアって名前を、親父にしっかりもらってるんだ」
 「その...ヨシュアさま...そろそろ...」
 「なんだい」
 「パンを...」
 「はいはい。増やすんだね。よし、さっさとやろう」
 面倒そうにヨシュアは起きあがり、目の前の篭から堅く焼かれたパンをひと切れ、右手につかむと、大きく息を吸い、止め、そして吐いた。それだけだった。
 ヨシュアの左手に、もうひとつ、パンが握られていた。
 「ああ...」
 守人が感激しているのにもかまわず、ヨシュアは、
 「みんなずいぶん食べたね。こりゃあたいへんだ。なにか、麻布かなにかあるかい。一気にいこう」
 とうながす。守人は涙をこすって、言われたとおりに、大きな麻布を調達してきた。草の上に広げた。
 「ようし、それ」
 ヨシュアはかけ声をかけ、パンをその麻布の上へ放り投げる。すると空中でパンがいくつにも分裂し、まるで爆撃機から爆弾が散布されるように、麻布の上に、どうどうと落ちていった。
 これには村人、あっと驚き、ついでやんやの大喝采と、号泣する女の声が続いた。
 「うーん、曲芸師というのも、けっこう楽しいものかもしれないね」
 などと、ヨシュアは弟子たちに冗談を言った。ヨシュアも弟子たちも、この宴を、それなりに楽しんだ。

 さてそれからヨシュアは土を盛って高くした座に座らされ、村人たちの質問を受けることになった。こちらのほうが彼の本職であるので、彼も熱心に、村人たちに説いていった。
 幾人めかの質問に、ヨシュアは、とまどった。その質問者は、こぎれいな白い木綿のローブを着た、ヨシュアと同年齢ほどの、つまり30ばかりの、小さな男であった。
 「ヨシュアさま。あなたは若い頃、どうしてナザレをお離れになったのですか」
 そう問うのだ。ヨシュアはしばらく沈黙して、困ったように、
 「え...個人的な話題かい...いや、ここのみんなに話すようなことじゃないよ」
 「当時、クムランへ行かれたと聞きました。かの地は閉ざされた聖地。なにをしに行かれたのですか。そこでなにがあったのですか」
 ヨシュアはこの男の目を見る。のぞき込む。気を探る。
 (ルチフェル...ではない。では...エルサレムの使いか。厄介なことをしてくれる)
 「かの地にはいまだ明かされぬ神の秘密の教えがあると聞きます。それを聞かれたのですか。聞かれなかったのですか。それを聞いていないとしたら、あなたは、誰に油を注がれたのですか。神ではなく、どこかの使い女にですか」
 (この宴を壊したくない)
 ヨシュアは村人と、弟子の様子を見渡す。さきほどまで幸福に満ちていたみなの顔が、怪訝そうな、あるいは、疑いを含んだ目になってしまった。
 (やれやれ、悪意とは、かくも強い。猜疑とは、かくも力がある。私ひとりには、とても手に負えぬな)
 ヨシュアは含み笑んだ。そうして口を開いた。
 「ないだいそれ。初耳だね。クムランなんて、行ったこともないね。たしかに、秘密の聖地だなんて噂も聞くけど、まあでまだろうね。あんなところ、ただのひなびた羊飼いがいるだけじゃないかい。あまり噂を鵜呑みにしないことだ。それにさっきから言っているが、私はマシーアハなんかじゃない。あいにく、つまらない山伏でね」
 「しかしクムランのことは、もう長く、語り継がれています」
 (しつこいな...)
 ヨシュアは短気なほうだった。短気というか、物事を即行い、即結果を見るのが好きなのだ。
 (いっそ、今日は曲芸師になりきるか)
 それでそう決めた。がばりと立ち上がる。憤怒する。
 「去れ、魔王よ! もはやいかなる悪魔もイスラエルびとを騙すことはできん! このヨシュアがここにいるかぎりな! みなのもの、魔王じゃ! そやつを打て! 打って村から追い出せ!」
 と怒鳴りつける。これにいきり立ったのが、田舎者らしい純朴な信心深さを身につけた守人である。
 「とんでもねえやつだ、マシーアハに食いかかって村のみんなをたぶらかそうなんざ、このわしが許さんぞ」
 と怒ると、樫の棒を手に魔王と呼ばれた小男に踊りかかり、村の他の男どもとともに、ヨシュアに言われた通り、村の外へとたたき出してしまった。
 しばらくざわめきがおさまらなかったが、守人が促して、宴が再開された。リュートが奏でられ、村の娘が歌い踊った。歌劇が始まった。

  遥かな 昔の
  誓いの まま

 娘が腕を振りながら飛び交う。
 「ヨシュアさま、あの」
 座っているヨシュアの傍らに近づいて、おそるおそるささやくのは、弟子のひとり、角張った顔の、イスカリオテのユダだ。
 「なんだい」
 ヨシュアはただ踊りを見、歌に聴き入っている。

  主はまします ふたりのもとに
  主はまします 月の下に

 娘が足を舞わして飛ぶ。
 「おそれがら...」
 ユダが続ける。

  離れがたき ふたりのもとに

 娘が体をのけぞらせ、空を仰ぎ、手をさしのべる。
 「クムランには...」
 ユダがそう言うと、ヨシュアは顔をユダに向け、その目をのぞき込む。睨むかのようだ。そうしてから、
 「黙れ。気分を害すな」
 と小さい声ながら、強く言った。ユダは目を伏せた。

  主は めぐみを 与えます

 娘は腕を抱えて目を閉じる。

 3 イスカリオテのユダはいかにして聖地を乱したか

 クムラン・アーシュラムへ入ろうという者は、死海に沿う唯一の崖道を、S字に延々と登らなくてはならない。それは死海岸から半日は要する、厳しい道のりだ。
 この道をあえて登るのは、日照りの年に呼ばれた、岸辺の百姓と、そのロバたちくらいなもので、商人も、旅人も、ほとんどここには寄りつかない。イスラエル人にとってクムランは、すでに伝説となりかけている。聖者たちが隠棲する桃源郷のように想像する者もある。
 だのに、この崖道を、麻袋を担いだひとりの、行者風の男が、陽に照らされ、潮風に吹かれながら、登っていくのだ。男は、何度も足を滑らせ、泥にまみれながらも、一心に、ただ登っていく。
 男は、アーシュラムへの崖道を、半分も登らないうちから、守人衆のひとりに発見された。アーシュラムから離れて、その周辺を警護する者だ。森を抜けて走り、守人衆の長であるアンデレに報告する。
 「馬鹿な。早すぎる」
 アンデレは思わずそうもらした。この老練の男は思い出す。10年ほど昔の、今日と同じような、風の強い、晴れた日にやってきた、眼光鋭い男のことを。百戦錬磨のこの男の、幾多の闘争のなかでも、あの若い男との戦いは、別格の強さで、彼の強靭な心に残り、影を落とす。それは、いかなる強敵にも打ち勝ってきたアンデレが、ただひとり、ついに勝ちきれなかった敵だからだ。
 (あの男なのか。そんなはずはない)
 アンデレは自分の初めの判断を疑った。
 (兆がない。唐突すぎる。あやつなら、司長さまに宣があるはずだ)
 アンデレは司長に知らせる。司長ははじめ目を見張るようにしたが、すぐにいつもの柔和な表情に戻って、
 「エルサレムか、やつの徒か、いずれ、不届きな小者に違いないわい。アンデレ、汝に任せる」
 と言うので、アンデレはかしこまって、アーシュラムの唯一の入り口、死海の開ける東の土塀に走った。アンデレは思い出す。
    ★
 はじめに兆があった。冬至の祭りのさなかであった。朝のまだきに、司長は、祭りを主宰していた。月桂樹の葉を焚いていた。太陽の新生を祝うので、アーシュラムのみなは、朝日を待つ。やがて司長は、再生した太陽が、西から登るさまを幻視する。驚いて司長はその太陽を直視する。すると司長の心は、谷間のさみしい部落へ飛んでいた。そうして、いばらの冠をかぶった、髪の長い若者に出会った。
 「クムランの大司教さま。おはつにお目にかかります」
 堂々とした青年であった。司長は戸惑いながらも、この青年と正対した。
 「なにものだ」
 「ナザレの大工のせがれです」
 「それが、わしになんの用だ」
 「クムランの聖書を見とうございます」
 「馬鹿を申すな。あれを読むことができるのは、クムランの長か、イスラエルの王だけじゃ。それとも、汝はイスラエルの王だとでもいうのか」
 若者は微笑んだ。
 「案外と、そうやもしれません」
 「豎子、おごるなかれ」
 「なりませんか」
 「ならぬ」
 「しかたがありません。無理にでも、見させていただきます」
 「奇態な妖術でか。主は、詐術のうちにはましませぬわい」
 「近く、クムランへまいります」
 そう言って、若者は歩き去った。司長はこの激しい幻視に耐え、祭りのさなか、仁王立ちに立ち尽くした。

 ナザレの若者、若き日のヨシュアだが、彼は、次の満月の日、崖道を登ってきた。守人衆が司長に報告する。司長はアンデレに命ずる。
 「大厄である。祓え」
 アンデレはうなづく。それは、殺してもよいという意だと、アンデレは了解した。
 アーシュラムの入り口で、アンデレとヨシュアは対峙した。はじめ、アンデレは、司長から大厄と聞いたとき、もっと覇気を全身にみなぎらせた、虎のような豪傑だと想像していた。しかし現れたのは、堂々とした長身ではあるが、細面の、やたらに若いというだけの、柔和な青年であった。
 だからというわけではないが、アンデレは、姿をさらし、ヨシュアと正面から向き合った。純粋に戦闘で勝とうと思えば、隠れ、背後をとるべきだ。だがアンデレの、闘士としての誇りが、熊のように、この敵と正面から出会うことを望んだ。
 「名乗れ」
 アンデレが言うと、青年はうなづく。
 「ナザレのヨシュアです」
 この言葉が空気に通った瞬間、すでにふたりは戦闘状態に入っていた。
 アンデレは歩いて近づいた。正面から近づいて、小刀をヨシュアに見せ、ひと振りに振りつける。消えている。アンデレは全身に気を張って敵の位置を探る。西である。飛ぶ。針が幾本も飛んで地に立つ。
 このいくつかの挙動だけで、ふたりの息はすでに荒くなっていた。
 「ふん、小僧、どこでそんな業を身につけた」
 アンデレがたずねる。このような若さでここまでの業は、常にないことであった。
 「ふ、あなたほどの方が、ささいな質問をなさる。主に集中すれば、自ずから、力は得られる」
 言いながら、ヨシュアのほうでも驚倒していた。
 (クムランの伝統、これほどまでとは...これは、かなわぬか)
 アンデレはいかずちのように走って刀を舞わす。ヨシュアは滑るように足をさばいて逃げる。背後をとらんとする。アンデレが懐中の吹き矢をふり返りざまに吹きつける。そのすばやいことはまさに電撃のようだ。続けざまに吹かれた矢を、ヨシュアは二本、右の腰のあたりに受けた。倒れる。
 (たまらぬ。この老人は、主の気を読むこと完全だ。かなわぬ)
 降参した。アンデレの目を見上げる。歩いてくる。刀が握られている。
 「殺すのですか」
 「そうせねば、なるまい。許せ」
 「まだ死ねません」
 「ここへ来たのが間違いだったのだ」
 「あなたはお強い。しかし、私はだれにも負けぬ」
 「問答はいらぬ」
 ヨシュアの首を狙って、アンデレが刀を振り下ろす。それで終わったはずだった。しかし、アンデレの刀は空を切った。ヨシュアは消えた。瞬間、アンデレは顔も、体も、すんとも動かさず、気を探った。どこにもいない。
 (遁甲...ではない。消えた...馬鹿な)
 隠れたのではなかった。ヨシュアは移動したのだ。

 聖書は、そのころは司長の窟の壁内に隠蔽してあった。ナザレびとの来訪によって、司長の窟は、6人もの守人によって守られていた。
 それは、空気から現れた。司長は足を組んで座っていた。見いだす。髪の長い、白いローブを着た、右の腰が血に染まった男を。
 「背徳の徒め」
 ざわめく守人衆と違い、司長は、静かにそう言った。
 「私が? そうでしょうか。知識を求めることが、主に背くことなのですか」
 ヨシュアは答える。
 「汝のうぬぼれと、早急さのことを言っておる」
 「早急...そうかもしれません。しかし、イスラエルはいま死にかかっている。クムランも、同様なのではありませんか。急ぐ必要も、ありましょう」
 「豎子、聞いたふうなことを言う。それがうぬぼれと言うのだ」
 「ふふ、そうだとしても、そうでなくとも、私は秘密を知りたい。それだけです」
 言うと、ヨシュアは移動した。壁の中に入り込んだ。入って、聖書を封じた箱を取り出し、そのまま抱えて、司長の部屋へ戻ってきたかと思うと、現れたときと同じように、忽然と消えてしまった。守人衆が攻撃する暇もない。
 アンデレは不安を抱いた。それは確信となったので、司長の窟へ走っていた。窟に飛び込む。座って、威を正すこと変わりない、司長と、戸惑うばかりの守人たちがいた。
 「アンデレ、追え」
 「はっ」
 アンデレは舌をうった。走った。憤った。
 (おのれ、このわしを、出し抜きおった)
 風の如くに駆けて、アーシュラムを出、崖道を舞うように駆け下りる。崖道の、アーシュラムと湖との、中腹あたりで、ナツメヤシの枝茎で織った箱を背負う、あの男に追いついた。
 ヨシュアは振り向かなかった。ただ叫んだ。
 「なぜだ!」
 「なぜだと?」
 「なぜ、ならぬ。この秘密はイスラエルのものだ。クムランびとのためだけにあるのではない。私は王たらんとする。それがなぜいけないのだ。王になろうとしないで、いったい誰が王になれるというのだ。知識を求めずして、いったいだれが賢者となれるのか」
 「ふん、知らぬよ。わしが知っておるのは、おぬしが、盗人だということと、クムランの敵だということくらいでな」
 「違う! あなたはそれほどまでに主の側にいるのに、なぜわからぬ」
 「豎子が。老いぼれに説法か。無益じゃよ」
 アンデレは刀を手に歩み寄る。ヨシュアはまだ振り向かない。
 「また逃げるがいい。ナザレでも、どこへでも。おぬしがどこへ逃げようと、その書を持ち去るのなら、わしはどこまでも追っていくぞ。エジプトでも、ギリシアでも、ペルシアでも、どこへなりと、逃げるがよい。おごった豎子よ」
 「私をおごった青二才と思うか。しかし、あなたこそ、あなたとクムランびとこそ、おごり高ぶる、子供のようだ」
 「ほう、なぜだ」
 「あなたのような蛇に、どこまでも追って来られてはかなわぬ」
 ヨシュアはそう言って、はじめてアンデレを振り返る。笑っている。箱を地に降ろし、きびすを返して、歩き去ろうとする。
 「ここには秘密の知識があるだろう。私はそれが欲しかった。しかし、あなたは知らない。世界は、どこまでも広いのだ。そして主は、どこにでもおわす。知識は、イスラエルにだけあるのではない」
 「ふ、東方へ逃げ去るか。それがよい」
 「ええ、逃げましょう。しかし、私は必ず帰ってくる。あなたよりも強くなって。そしてクムランびとに、そのおごりを気づかせてやりましょう」
 そう笑う。あまりに大きな笑い声なので、渓谷に、アンデレの耳に、鋭く響きわたる。アンデレの頬を汗がつたう。
 (いましかない...いま逃せば...)
 アンデレは走る。刀を、ヨシュアの背中に突く。しかし突けなかった。ヨシュアは、空を舞っていた。アンデレが仰ぎ見るに、その姿は、太陽を背にして、その光を、一身に集めているようであった。ヨシュアが一瞬に腕を振り針を投ずる。アンデレは飛んだが、右の脇に針を受けた。
 「さらば」
 「待て」
 アンデレは倒れながら吹き矢を吹いたが、ヨシュアは一陣の風とともに空を駆け去ったので、その矢は、ただ太陽めがけて飛び、届かずに、地に落ちた。
    ★
 「小者か...」
 アーシュラムの土塀に伏せて、その男を見たアンデレは、つぶやいた。
 (つまらぬ)
 内心、あの男、ヨシュアと再び出会うことを、望んでいた。アンデレはもう60歳をすぎていた。壮健なうちに、いまいちど、彼とまみえたかった。しかし、思い直す。首をふる。
 (厄を招こうなど、不敬であったな。わしは守人じゃ。阿修羅ではない)
 そうして守人のひとりに命ずる。
 「はじめに何者なのか探れ。そうして追い払え。殺すな」
 守人はうなづき、土塀が切れるアーシュラムの入り口で、男を呼び止める。
 「待て。名乗りなさい」
 するとこの、水やパンくずでも入っているのだろう、麻袋を背負った男は、唐突に、割れんばかりの大声で笑い出す。そうしてから、睨みつけている守人の目を、正面から見返して、しばらく黙ったあと、
 「イスカリオテのユダ...ナザレのヨシュアの高弟である」
 と言う。守人は緊張する。ナザレという語に、緊縛を受けたかのようになる。彼も長くクムランを守ってきた、経験の深い守人のひとりだ。10年前の、ナザレびとのことはよく知っている。
 「何用だ」
 との問いに、この、ゆがんだ笑みを絶やさない男は、ことさらな大声で、
 「主の真の教えを届けにまいりました! 当地は世間で噂される秘密の聖地と言いますが、その秘密の教義を聞いたものなど、ひとりもおりはしません! おおかた、当地で特権をすする老人たちの流した、不徳なでまでありましょうな!」
 この大声を聞いて、アーシュラムの者たちが仕事の手を休め、家の外へ出たり、畑に鍬をおいて走ってきたりする。アーシュラムの静寂はもはや破られた。静寂は、聖化をなす禁のひとつだ。それはすでに破られた。
 土塀に身を伏せながら、アンデレは舌をうつ。
 (ぬかった、ただの小者ではなかったか。こちらが目的...)
 懐中の吹き矢を握る。
 「もし真に当地に秘密の知識があるのなら、イスラエルの王、マシーアハであるわが師に、それを進んで差し出すべきでありましょう! 差し出していただきたい! ああ、しかし、そんなものは、はじめからないのでしたね!」
 ユダは、なおも叫び続ける。守人が見るに、その目は、紫色に、みるみる染まっていく。
 (この男...なにか憑いておる)
 守人はそれを見て取る。手の内に針を握る。
 クムラン・アーシュラムの伝説。秘密の教え。それは、クムランびと自身には、もちろん、充分に知られている。親から子へ、語り継がれる。イスラエルの伝統の守護者である誇りを植えられるのは、成人、もしくは結婚の儀のときだ。神秘的に、秘儀的にではあるが、大人はみな知っている。しかし、それは、秘密のことだ。誰もそれについて話したりはしない。ただ知って、受け継ぐだけでよい。だから、ここでユダが叫ぶのは、不敬である。彼は禁忌を犯している。だから、アーシュラムの人々は、注目する。人が人を呼び、次々に、この東門に、人が集まってくる。
 (ふ、田舎者を呼び集めるなど、実にたやすい)
 ユダはほくそえむ。守人には目をくれない。視線をやるのは、集まった者たちのほうだ。なおも勢いを強くして叫ぶ。
 「ああ、クムランの純朴な羊たち! 痩せて、慈愛を知らぬ、穴蔵に飼われた、不憫な哀れな子羊たち! 窟を出よ! マシーアハに、わが師に続きなさい! 王は、湖を歩き、いかなる病もいやし、パンを増やされました! 窟を出て、私とともに山を下り、町へ出なさい! あなた方は新しい真実を知るでしょう!」
 (姑息じゃ。あやつの弟子らしいわい)
 憤って、アンデレは土塀の影から矢を吹く。ユダの右の腿に矢が立つ。
 「ああ...主よ!」
 ユダは腿を抑え、芝居がかったやり方で天に手をさしのべ、そのまま倒れる。足を引きずる。
 (まずは、これでよいか)
 と内心でほくそ笑む。
 「おのれ、背信の徒ども! 主のいかずちが、汝らを襲うであろう!」
 とわめきながら、逃げ去った。
 リアムもジョセフィーヌも東門へ来ていた。リアムは倒れる男を見て怪しんだ。
 (人か?...そうなら、ナザレびととは、かくも邪悪なのか)
 ジョセフィーヌは女性らしい意気の張り方をする。
 「ふん、パンを増やしたですって。パンなんか、私のお父さんとお母さんが、毎日焼いて、増やしてるわよ。もう何十年も、毎日毎日、増やしているわよ」
 リアムは笑った。
 「その通りだ。セフィーのご両親のほうが、マシーアハなんかより、ずっと偉い」
 ふたりはそうして笑ったのだが、アーシュラムの者のなかには、そうしなかった者も多かった。静寂は、ユダがやってきたときに、すでに、かの者が破ってしまったのだ。
 「マシーアハ...」
 「本当なのか...」
 「えせだよ、またぞろ...」
 「病を...」
 「パンを増やした話は...」
 ざわめいた。ナザレのヨシュアの噂は、風に乗ってか、人によってか、いずれにせよ、ユダが来るまえから、少しずつ、アーシュラムにも届いていたからだ。その日を境に、アーシュラムは、確実に、以前とは違った空気を宿すようになった。聖地は、疑えば、即、聖地ではなくなる。
 アンデレの報告は、司長をいぶかしめ、憤らせた。
 「ナザレびと...見過ごすか。堕天使の手を借りるか...主は、なぜ見過ごすのか...」
 と天を仰ぐ。この日、クムランはまたひとつ年を重ね、老いた。

 イスカリオテのユダは崖道を降りている。痛むはずの脇腹は、まったく痛まないし、血も、すぐに干上がった。
 (主は我とともにあり)
 と彼は疑わない。
 (これが証拠だ。俺こそ、王になるのだ。見ていろ...青二才)
 脇腹を探る。やはり傷も痛みもない。笑いがこみ上げてくる。
 なにかに突き動かされた。ガリラヤでの、ヨシュアの困惑。クムランになにがあるのかは知らぬ。しかしここは、ヨシュアの弱みであるらしい。クムランの禁を破り、静寂な聖地に混沌を持ち込めば、ヨシュアの計画は狂うはずだ。頓挫するやもしれぬ。そう考えて、ユダは、朝のまだきに、空を見ていた。明星が見えた。そのとき、ユダは霊感を得たと感じた。明星は、クムランの方角にあった。
 そして一行を抜け出した。ヨシュアに置き手紙を書いた。

  明星より宣あって母の身に何事かあるよし。我追ってエルサレムにてまみえん

 そのように。
 (虚とは実に便利だ。信じれば、信じられる。虚はたちまち真実となる。虚であったものは、運命にてらされて、たちまち真実となる)
 ヨシュアを出し抜いてやったことが愉快でたまらないといったように、彼は笑う。不気味に、紫の目になって、笑うのだ。
 しかし彼は凍りついた。彼の目は、すぐに、人間の、臆病で卑屈な、へつらう人間の常の目に戻った。
 「クムラン参りもいいが、エルサレムへ急がねばならん」
 ヨシュアが、崖道に立って、陽に照らされ、潮風を集めていた。ユダはぎょっとしてみじろぎもならぬ。
 「私は...ヨ、ヨシュアさま...」
 とどもるばかり。ユダは、ヨシュアを妬むこと深いというのに、彼の前では、小さくなることしかできない。虎と鼠か。いや、ユダが、小人というだけのことだ。
 「おまえは私の弟子だ。もう二度と、私のもとを離れるな。今回は許す」
 そう言って歩き出す。ヨシュアは思う。
 (わからん...ルチフェルなのか...ユダを使うのか、このような小人をなぜ...クムランが変わるのはよい。だが...あやつの手を借りるわけにはいかん)
 葛藤していた。ユダはそのような師の葛藤を知らない。ただ膝を落とす。おびえながらも、彼は誓う。
 (おのれ...許すだと...見ていろ...次こそ...)
 屈辱に耐え、師の後を追う。

 4 なにを戸惑う?

 アーシュラムの色が変わる。色づく。夜のうちに、荷物をまとめてロバとともに窟を出る者がいる。ふだん快く思っていなかった者の家から、パンを盗む者がいる。女を寝取る者がいる。諍いが起きる。禁忌は、日常的に犯された。
 アーシュラムに以前の静寂、聖化された空気はなくなった。守人衆は突然忙しくなった。諍いを、威圧や、暴力によって静めることも多くなる。そうすると、ますますアーシュラムに響く音が、大きくなる。もはや、禁は破られたのだ。
 「こうも、もろいものかの」
 司長は窟のなかにあって、自らの無力をさげすむ。
 「わしが、もう少し若ければ...いや、リアムに、もっと早くに、譲っておればよかった」
 独り言のように、目の前のアンデレにつぶやく。
 (これは、人の仕業なのか)
 アンデレには、あのイスカリオテのユダの来訪だけで、こうまでアーシュラムが乱れてしまうことが、いぶかしく思われた。あの男の、紫の目。それに、アンデレの吹いた矢は、ユダに致命傷を与えたはずであった。だのに、あの男は、無事に崖を降りた。
 「司長さま...あの男、堕天使の使いだったのでしょうか」
 それで司長にそうたずねるほかなかった。だが司長は答えない。沈黙して、アンデレの目を見据え、それからまた、黙った。
 (滅びるのか)
 アンデレはうつむく。神々の前に人は無力である。悪魔に魅入られて、それに打ち勝つことができるのは、堅固な聖人くらいなものだ。うなだれるアンデレに、司長はようやく口を開く。
 「アンデレ、おぬしも老いたな。気を落とすのは、その時になれば、いくらもできる。クムランには若い者はいくらもおるぞ。リアムと、あの娘、セフィーと言ったか、あれは、強き、新しいクムランびとじゃ。主は、あのように美しい若者たちを、無惨に滅ぼすかな。わしは、そうは思わぬ」
 (リアム...)
 アンデレは、ここのところ、忘れていた。リアムはすでに、クムランの新しい長となる指名を受けているのであった。リアムの、何事にも動じず、常に怜悧なままのその若い心を思い出す。ジョセフィーヌの、無邪気で活発な若さを思い出す。
 (若さか...ふ、わしには、もう残っておらぬ。死にゆくわしが、気に病むことはあるまいな。任せればよい)
 そう思う。こみ上げる曇った念は、それで少し晴れた。
    ★
 イスカリオテのユダが師を売ったのは、クムランに行ったあと、エルサレムに着いて、しばらくしてからのことだった。
 ヨシュアは、エルサレムの街頭で、声を張り上げ、歩きに歩いた。それは、エルサレムで私腹を肥やす祭司たちへの、妥当な、しかし激しい、糾弾であった。憲兵が差し向けられる。ヨシュアと弟子たちは逃げ、潜伏する。また街頭に現れ、祭司をなじり、臆病で偽善的な市民たちをもなじる。憲兵の監視をくぐり、また現れること神出鬼没だ。手配がかかる。賞金がかかる。そこでユダは、憲兵たちに、自分たちの居場所を密告した。
 最後の晩餐がとられる。ヨシュアは自らの死を臭わす。弟子たちは嘆く。ヨシュアは、ユダの目を見る。ヨシュアの目には、恐怖も、責めるそぶりもない。ユダには目を見返すことができない。おどおどと、ただテーブルの上の、ちぎられたパンと、葡萄酒を見つめる。
 (これでも、まだ動じぬか。俺を、さげすむのか。恐いくせに、恨んでいるくせに...)
 そう小人らしい意気を張る。ヨシュアには、ユダの裏切りは、予測できたことだった。期待していたとも言える。しかし、解せぬことはあった。
 (この男に、こんな意気地があっただろうか。妬むことはできても、なにも行動することができない男だったはずだ)
 そのはずだったのだ。だがいま、自分は売られた。明日、捕らえられ、さらされ、架せられる。
 (ルチフェル...これで私を捕らえたつもりか。私がおとなしく、死ぬと思っているのか。まだ、早かろう)
 堕天使を見ようと、ヨシュアはユダの目を見る。しかし彼はうつむく。その主人の意をうかがわせることを、拒絶している。
 ヨシュアははじめて、不安を感じた。晩餐を抜け、厠へ立つ。この、純朴なパン屋が提供してくれている、小屋を出て、星空の下へ出る。星を見上げて兆をさぐる。霊感をさぐる。
 (捕まったとて、逃げればよい。それとも、逃がさぬというのか? 私は、死ぬのか? 馬鹿な、まだ早い! 私に罪はなかろう?)
 天に問う。答えは聞こえない。目を戻す。森がある。そこに、女がいた。白いローブを着て、腕をたらし、垂直に立って、自分を見つめている。その目は、ことさらに見開かれているようで、しかし、自然に、大きく開かれていた。
 (人ではない)
 ヨシュアは直感する。なにか口に出したいが、なにも心に浮かばぬ。女がゆっくりと、唇をひらく。
 「ナザレのヨシュア。汝は誤った」
 声が通る。それだけ言って、女はきびすを返し、ゆっくりと、森の中に去った。
 ヨシュアは驚愕する。口を開け放つ。足がふるえ、耐えきれずに、地にひざをつく。
    ★
 それでクムランの司長は夢のうち、風の吹きすさぶ丘へ飛んだ。ナザレの、あの男が、十字架に架けられて、風に吹かれ、風に肉を吹き飛ばされ、骸骨となる。やがて槍を持った、黒いローブを頭からすっぽりかぶった男、いや性などわからぬ、人かどうかもわからぬ者が、司長に背中を向けたまま、ナザレびとの骸骨に、槍を突き、脇骨を貫く。そうして、振り向く。紫の目の、山羊の角のある面を司長に向け、薄く笑う。振り向かれた司長は、星の位置から、自分が、クムランの位置にいることを知る。驚愕してもがく。床から飛び起きる。
 「アンデレ!」
 窟の脇に控え、眠るでもなく起きるでもなくただ気を張っていたアンデレは、常にない司長の声に、直感した。
 (終末か...残酷だ)
 思いつつ、司長に答える。
 「はっ」
 「リアムを呼べ」
 蒼白な面で目を見開く司長は、窟の土の天井を、暗闇に包まれているのだが、そこを睨んだまま、それだけ言うことができた。
 うなづいて即走る。夜の暗闇を、窟の狭道を駆ける。
 (リアム...おぬしにかかっておる)
 念じる。リアムの窟に着く。呼ばれて、リアムの眠気は払ったように消える。
 「託宣ですか」
 「しかり。急げ」
 ふたりは駆けて司長の窟へ行く。
 (いまがそのときか...)
 リアムの心は動じない。待っていたようにも思う。このときのために、彼は、己を落ち着かせ、準備していた。
 「ナザレびとが、死ぬ」
 司長はつぶやく。リアムは拝跪し、ただ宣を聞く。己を静かにする。私情を見て、それにしたがって己を乱せば、すなわち誤る。リアムはそれを聖書から学んでいた。ただ聞く。聞いて、真実を聞いたら、それに従い、動けばよい。
 「殺させてはならぬ。あれが死ねば、クムランは滅びる。エルサレムへ走れ」
 「はっ」
 リアムは理解した。命を受けた。それに従うだけである。駆けて、東門からアーシュラムを出る。崖を飛ぶように降りる。
    ★
 憲兵が押し掛ける。ヨシュアと弟子たちが捕らえられる。ゴルゴダ。風の吹きすさぶ荒涼たる丘へ引かれる。鎖に引かれたヨシュアは、嘆く母の顔を見たとき、己のおごりにはじめて気づいた。自分は聖者だと自負していた。しかしいまその自信は崩れた。ヨシュアは、人の子として、いま己のおごりを悔いていた。
 (クムランの司長が言ったとおりだ。私は、おごった豎子であった。母を悲しませるような者に、イスラエルが救えようか?)
 悔いたが、しかしヨシュアは嘆かなかった。まだあきらめてはいなかった。
 (ルチフェル...どこだ、どこで見ている、私が逃げるのを待っているのだろう? おまえに捕まるわけにはいかぬ...)
 いばらの冠がかぶせられる。十字架を背負う。ヨシュアは力を奮って、大きな木組みをかつぐ。
 (ふふ、若い頃は、親父と一緒に、このくらいの木組みを、かついだものだな)
 若い頃、父親の大工仕事を手伝ったことなど思い出す。その重荷を担いで、懸命に丘を登る。
    ★
 リアムは足を休めなかった。リアム自身、己の脚力に驚いた。水もいらぬ。走っているという感覚すらない。歩くようだ。ただ、景色が流れていく。息が乱れぬ。体を感じぬ。
 (急がねば)
 それだけを思っている。クムランを出てどれくらい時間が過ぎたのか、とうにわからなくなっているし、気にもかけない。だが、エルサレムは、ゴルゴダは、もう近いはずだ。
    ★
 イスカリオテのユダは、そのときどこにいたのか。
 再びクムランに向かっていたのだ。しかし今度はひとりではない。エルサレムの武装した軍勢の陣中にいて、輿に乗っていたのだ。
 槍と盾。兜と鎧。軍勢は千人を越える。
 エルサレムの元老たちは、異存をはさまなかった。不思議であった。クムランは、エルサレムの祭司たちにとっても、さわらざるべき聖地であったはずだ。それが、ユダがクムラン侵攻を提案したとき、恐れるそぶりもみせずに、たちまち軍勢の派遣を決めてしまった。
 (主の思し召しということだな。老いたものは、滅びる定めだ)
 ユダはそう安易に思ったが、彼は知らない。元老たちが、クムラン攻めを勧めるユダに、山羊の角と、紫の眼光を見ていたことを。
 クムランには天険の守りがある。死海から続く崖道を登るうちに、重い甲冑を着た軍勢は、多くの離脱者を出すはずであった。しかし、エルサレムの軍勢は、頑強に崖を登っていく。だれひとり力つきることはない。
 アーシュラムのなかで、その日のパンを届けるために走っていたジョセフィーヌだけが、それを見た。
 (紫...)
 晴天下に、突如、紫色の雲が、麓のほうから登ってきているのだった。
   ★
 ヨシュアは十字架に架けられた。すなわち、手に釘を打たれ、足に釘を打たれた。激痛に耐える。
 (これしき、こたえぬ。逃げてみせる)
 逃げるつもりであった。最期まで待って、敵の出方を見た。いまが、最期だ。
 憲兵のひとりが槍を取り上げる。ヨシュアのわきに狙いをつける。そのときだ。
 「待て! 死ぬな! ナザレびと、死んではならぬ!」
 吹きつける風を裂き、地を轟かせる者がある。ヨシュアは見る。若い、怜悧な細面の、息を切らせた男だ。
 (あれは...人だ...そうか、クムランの...)
 リアムは間にあったのだ。必死に叫び、人をかき分ける。
 「ナザレびと、逃げよ!」
 (言われなくとも...)
 ヨシュアは息をため、移動せんとする。リアムの目を見る。すると、ヨシュアの目は飛んだ。リアムの眼球に映る、景色を見た。ヨシュアの顔は、驚倒に染まる。
 (ユダ...ルチフェル...なんということだ...私に、罪を着せるか...)
 いまやヨシュア、この聖者の心は、狂わんばかりに、飛び交っていた。それというのも、リアムの眼球のうちでは、人が次々に、殺されていたからだ。
   ★
 アンデレはエルサレムの軍勢を目のあたりにしたとき、この軍勢を、信じることはできた。これは人間の軍勢であり、これは現実であると。
 (いずこからなりとも、かかってくるがよい。老いぼれが相手になってやろう)
 意気込む。アンデレはやけになっていたのではない。やれると思った。天険を背に守人衆の精鋭が足止めし、少人数を逃がすことはできると思った。実際、初戦で、アンデレ率いる守人衆は、エルサレムの大軍を破った。崖道で待ち伏せし、岩を落とし、矢を放って敗走させた。アンデレはひとまずその場を部下に任せて、森を駆ける。アーシュラムの者、わけても若い者たちと、司長を逃走させなくてはならない。そのためにアーシュラムへ急ぐ。そこで、女と出くわしたのだ。
 アンデレはすぐにわかった。それは、いまは亡いアンデレの母の姿だった。
 (母上...)
 思い直す。まだ自分は生きている。ここは現世である。
 (ふ、そういうことか)
 「堕天使、よくも現れおった」
 そう呼ぶ。呼ぶと、アンデレの母は、母の姿のそれは、山羊の、角を現す。目は紫色に染まり、沈黙して、ただ微笑する。
 (最期の最期で、わしを負かしに来よったか。だれにも負けぬと思っていたが、あのナザレびとの言うように、わしも、おごっておったということか)
 アンデレは小刀を懐中から抜く。女に、山羊に、いかずちの如く襲いかかる。しかし女はもっと速かった。すれ違いざまに、アンデレの首もとを手で突いた。
 (わしに勝ったとて、クムランに、人に勝ったと思うな。おぬしは、いつか人に討ち負かされる)
 倒れて、母の目を見上げながら、老雄アンデレは息絶えた。

 それからあとはただ残酷だった。守人衆の守りが突破されると、アーシュラムは抵抗しようもなく犯された。手当たりしだいに殺された。ジョセフィーヌは、リアムと、聖書のことを思った。聖書を埋めた丘の方角へ向かう軍兵たちの前に立ちはだかった。
 「行かせない!」
 少女とは思えぬ強い声で怒鳴りつけた。軍兵たちは笑う。少女は、捕らえられ、何人もの男に、無惨に犯された。少女の悲鳴が、どうして、遠くエルサレムまで、届かないだろう?
    ★
 ヨシュアはリアムの眼球にこれらの景色を見た。当然、リアムも見た。
 それでヨシュアは泣いた。突然、大声で、赤子のように泣いた。叫んだ。
 「ああ! 私は誤った! 私は罪人だ! 殺せ、早く殺せ! 主よ、なぜ見過ごした? なぜ私の誤りを、見過ごした?」
 丘に、風に、ヨシュアの叫びが轟く。同時にリアムも泣いた。牛のようなこの動かざる男が、嘆いて、地に崩れた。
 (終末だ)
 リアムの涙が止まることはなかった。ヨシュアは、右脇に、槍を受けた。
    ★
 リアムを抱き起こす者がある。力無く、泣き崩れた男を、力強く、優しく包む者がある。リアムはそうと知らないが、ヨシュアの母であった。
 「クムランのリアムよ」
 声が聞こえる。リアムが目を開く。美しい、リアム自身の母にも似た、目を見開く、女がいた。
 「嘆くな。走れ。友を救え」
 そのように声が通る。
 (天使...)
 リアムがそう思う暇もない。女は、リアムを投げ出し、促したからだ。投げられたリアムは、そのまま、走り出した。クムランへ戻らなくてはならない。一度振り向く。母が、女が、自分を見つめていた。
    ★
 思えば、人の力に限界などはない。人は望んだものを、いつでも、望んだ形で手に入れることができる。運命というものは、それがいかに人にとって悲しい結果であろうとも、喜ばしい結果であろうとも、人の短慮には目もくれずに、ただやってきては、過ぎ去っていく。神は、運命は、このように、人の情緒には縁がない。それでも人が行い、さまざまな情緒を得る定めにあるのは、その力に限界がないからである。
 人は、望めば、いつでも神を越えることができる。運命を、望んだ形に形作り、手にすることができる。神を使役するかのように、生きることができる。人の強さとは、まことこのような生き方について言うのである。

 リアムがクムランに着いたとき、すでにすべてが終わっていた。ほとんどの者が殺され、女は犯されていた。あらゆるものが盗まれた。軍勢は引き上げ、ただ、リアムが想像もできなかった、残酷な景色だけが、そこに残されていた。
 ジョセフィーヌは、大きな樫の木の側で、裸で、倒れていた。
 (どうやって救えばいいというのか)
 リアムにはわからなかった。生きているのかもわからない。確かめる気にもならない。
 立ち尽くす。目の前に、樫の木の木陰に、倒れた少女に寄り添うように、女が、そこにいた。白いローブを着て、腕をたらして、垂直に立って、目を見開いて、リアムを見つめている。唇を開く。
 「身ごもっている」
 そう言う。リアムは手で顔を覆う。リアムはまた崩れそうになる。賊徒に犯され身ごもった少女を、どう救うのか。わからない。
 「なにを戸惑う? ジョセフィーヌを妻とし山で生きよ。子を育てよ。そうすることに、なにを戸惑う?」
 リアムははっとする。女は微笑んだ。その笑みは、リアムの心に、勇気を植え込んだ。そうしてから、女は背を向け、ゆっくり歩き去った。

 リアムは少女を包む。胸に抱く。もはや涙はなかった。
 「リアムさん...」
 少女が目を覚ます。
 「ご本は...」
 「いいんだ」
 軍勢は、聖書を発見することができなかった。しかしそれは、だれにとっても、ささいなことであった。
 「セフィー、愛している」
 「まあ...」
 少女に、恐怖は、記憶されたのか? 夢になって、忘れられたのか? それも、いずれにせよ、ささいなことだ。
 リアムは少女に接吻した。



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