肋骨のイヴ

by きみよし 藪太

白い横顔。薄い唇を舌でそっとこじ開ければ、柔らかく咎めるようにわたしの髪を引く。彼の手は、いつでも凍っているかのように冷たい。
放課後の理科研究室は、ほこりっぽい匂いと光に溢れ、裏手にあるグラウンドからの声を遠い、昔の記憶のようにぼやかしていた。わたしは机の上に座り、スカートから大きく脚をこぼして目の前の相手を挑発する。
「だめだよ、蒼井」
いつものように、おざなりな注意を繰り返し、愛しい人はわたしのその真っ直ぐに伸びた脚に触れた。理科の教師、平川惟尚は、わたしの期間限定の恋人だ。薄荷のような匂いをさせた、美しい横顔の持ち主。きゅっ、と釣り上がった目は細く、それを隠したいのか誇張したいのか、薄いフレームのメガネをかけている。彼はホモセクシャルだ。男しか愛せない彼は、まだ成長期が引き出す脱皮を出来ていないわたしの、薄っぺらな胸や少年のように細長い手脚を、ただそれのみを愛している。わたし達がこういう関係になったのは、もちろんわたしが先に彼を好きになったからで、彼は残酷に冷たく、ぞくぞくするような低い声でいつもわたしに言うのだ、キミのその身体が、あの汚らわしい女達と同じように丸みを帯びてきて、気色の悪い柔らかさを備えはじめたら、ボクとの関係を終らせてもらうよ、と。背はそれなりにあるのだけれど、体重も身体の厚みもまったく標準に足りないわたしは、もう十四歳にもなるというのに、いまだ生理がなかった。
「……キミを女装している少年と考えれば、このいまいましいスカートというものもなかなか、」
太股を滑り上がる、冷たい指。
背筋をゆっくりと這い上がってゆく、電気のような走りに、わたしは小さく声をあげる。ボーイソプラノの、澄んだ声になるように、喉を丸くあけて。
彼の丁寧な指先が、静かにブラウスのボタンをはずして、そして露わにされたわたしの胸に、彼は唇を近づける。膨らみのまったくないわたしの胸。ブラジャーなどという無粋なものはつけていない、それは彼が嫌うので。
彼はけしてわたしの胸を乱暴に扱ったりしなかった。少しでも刺激を与えすぎてしまえば、あっという間にその胸は膨らんでしまうのではないかと危惧しているかのように。
舌先を尖らせ、彼は静かにわたしの胸をなぞる。空気にさらされていた肌は冷えていて、彼の舌の熱が、まるでわたしを溶かす太陽のように熱い。
「せんせ、い」
呼吸は浅くなり、わたしは彼の唇を欲しがる。
「上手にできたら、ご褒美にキスしてあげよう」
この世の中で、くちづける行為がわたしの一番好きな事だと知っている先生は、そう言ってズボンのベルトに手をかけた。わたしは音を立てないように机からおりると、彼の前でひざまずく。
こういう関係になってから、けれども一度もわたしの身体を引き裂いた事のない彼の性器。布地に手をかけて、わたしはゆっくりと空気に馴染ませようとするかのように、それを取り出す。半分ぐらい勃ち上がりかけたものに唇を寄せると、わたしは目を閉じたりしないまま舌を伸ばした。


昔々、神はこの世に人間を誕生させた時に、たったひとりだった男性であるアダムを可哀想に思い、彼の肋骨を一本折ると、それで女性であるイヴを創り出したという。女は男の肋骨から出来ているのだ。もともと、男の体内にあった、その一本から。わたしは平川先生の肋骨になりたい。わたしは、イヴになる前のただの肋骨、彼のそれになりたかった。
初めて彼を見たのは、中学の入学式の時だった。居心地の悪そうな顔をして、体育館の壁と同化したいかのように目を伏せている彼は、紺のスーツを着ていて、教師だというのに、わたしよりずっと年下に見えた。冬の蝶のように、彼は力なく静かに佇んでいた。その、静かな空気が。わたしはすぐに恋をした。あれはわたしの元の身体だ、と思った。あの人の、肋骨になりたい。キリスト教系の保育園に通っていたわたしは、シスターから読んでもらった、御伽噺のような聖書に出てくるアダムとイヴの話を、記憶の海から掬って思った。
入学してから二週間目、二度目の理科の授業が終って、わたしはすぐに彼へこの想いを伝えた。好きですと。彼は戸惑ったように笑って、ありがとう、でも、と口篭もった。
「子供は恋愛の対象になりませんか」
わたしは制服に手をかける。
相手にされないのなら、相手にされるだけの興味を引き出せばいいだけだ。
ブラウスのリボンを解き、スカートに手をかけ。
「蒼井、」
「先生の、肋骨になりたいくらい、好きなのに?」
「肋骨……?」
いや、違うんだ、その、と言いながら、彼はわたしが脱ごうとするのを止めた。困ったように横を向く、尖った顎のラインを、わたしはきれいだと思った。理科の教師らしく、膝丈までの長い白衣に身を包んだ彼は、入学式の時のスーツ姿なんかよりものすごく恰好良かった。自由に羽根を伸ばす事を覚えた、鳥のように。胸を張って、本来の自分を見せ付けている。
「蒼井、」
「わたしじゃ、駄目って事ですか?」
先生との年の差なんて、たった十七年分だ。そんなのを理由にしたら、わたしは笑い転げてやろうと思っていた。しかし、彼はわたしの予想していなかった言葉を呟いたのだ。
「……違う、蒼井が駄目というわけじゃないんだ、その、女の人が、女性が苦手で、」
「……オカマさんって事?」
「同性愛者、ホモセクシャル」
先生は優しい声で訂正すると、わたしのブラジャーが見えているブラウスの胸の辺りから目を逸らす。AAカップの、小さなわたしの胸。白いブラジャー。わたしは小さく混乱して、けれどもどうしても彼の肋骨になりたいと思う心を解放して、頭を働かせる。
「先生、」
わたしは机の上にあった、大きなハサミを見ながら言ってみる。
「わたしにどうしてそんな話をするの、わたしは言ってしまうかもしれませんよ、先生が男を好きな人種だって。言われたくなかったら、わたしを陵辱して、仲間に引き入れちゃうのが得策ですよね、先生の秘密を喋ったら、わたしも恥ずかしい姿をさらされちゃうように。先生、」
わたしはハサミから目を離さない。
「わたしの胸はまだ膨らんでないんです、男の子の胸と一緒なんです、このブラジャー、」
切り刻んで確かめてみますか、といい終わったところで、わたしはきゅっと視線を上げた。先生の、驚いた顔が目に入る。けれども、その瞳に興味の原色が動き出すのを、わたしは見逃さなかった。
「先生、わたしは先生のために、男の子になるよ」
だから、わたしを肋骨にしてよ、とわたしは彼の目を真っ直ぐに見て言う。随分長い時間、彼はわたしを見つめていた。きっと、どう想像したらわたしを男に見られるか、そしてわたしに手を出す事が自分に有利になるのかを考えていたのだと思う。
「……じゃあ、その髪を」
切ってくれるのなら、と先生はわたしの肩までの髪を指差して言った。
「そして、キミが女にならないと約束してくれるのなら」
キミが女になってしまったら、ボクはキミに触れられなくなるよ。
その言葉にはっきりと頷くと、先生の手が優しくわたしの髪に触れた。それが合図だったかのように、彼はわたしの胸元に唇を近づけ、次の瞬間歯を立てた。
自分の所有物だと、印をつけておくかのように。
そして次の日、わたしは髪を切って、ブラジャーをつける事をやめた。彼の男の子になるのだ。肋骨のイヴは、肋骨のアダムにならないといけないらしい。
そして、わたし達の静かに狂った、意味のない期間限定の恋がはじまった。


彼の薄い、体温の低い唇が好きだ。
薬品やチョーク、標本を丁寧に扱う手は、ぐっと握ると骨の形がはっきりわかる。その手で髪を撫でられる幸せ。けれども、わたし達は一度も交わらないままだった。
女の身体を気持ち悪いという彼は、わたしの中に自分の性器を突き立てる事が出来ない。短く刈りこんでしまったわたしの髪、その先に頼りなげに伸びているであろううなじに、彼は冷たい唇を押し付ける。彼の欲望は、いつでもわたしの口で処理した。それでもわたしは幸せだった。
溶けてしまいそうなほど。
わたしは幸せだった、彼の手と、声と、体温を感じていられるその日々が。
ほこりっぽい光の溢れる理科研究室で、わたし達はゆるやかに、眠たい獣のようにお互いを確かめ合った。彼は、わたしを女ではないと自分に言い聞かせ、わたしは愛されていない自分に気付かない振りをしながら。


けれども、人間いつかは必ず成長してしまうものなのだ。
ある朝、わたしは自分の下着にチョコレート色のくすんだ染みがついているのを発見してしまった。
背筋を、冷たい汗が流れてゆく。
これは夢だ、冗談じゃない、見なかった事にしよう。
それでも、一度来はじめてしまった生理が、いきなり止まってくれる訳もなく、一日目と二日目は下着をごみ箱に放りこんだわたしも、さすがに最初はチョコレート色だった血液がだんだんと色濃くなってゆく三日目に、母に告げた。
生理に、なったみたい、と。
「あらあらあらあら。それはおめでと、……摩緒?」
「……生理、来て欲しくなかった……」
いきなりだったから、戸惑っているのかしらね、と母は優しく言ってくれた。女の子は、でもそうやって身体を女としてのものに造り替えて、将来赤ちゃんを産めるようにするのよ、と。
もちろん、わたしはそれが母の優しさからの言葉だと分かっていたけれど、それに正直に頷く事は出来なかった。わたしは女になってはいけないのだ。女になったら、先生に捨てられてしまうから、二人の関係は終ってしまうから。
どうしよう、とわたしは考える。生理が来たという事は、この身体も成長して、女に近づいてしまうという事だ。
胸は膨らみ。身体のラインは柔らかく丸みを帯びてくるだろう。いつの日か、赤ん坊という名の未来を生み出すための、準備。平川先生に出会わなければ、そして彼に恋などしたりしなければ、それはすべてただ純粋に喜べた、ひとつの成長だったはずなのに。
「ちゃあんと用意してあるから、心配しなくて大丈夫よ」
準備されていたサニタリーショーツやナプキンを納戸に取りに行く母は、とても嬉しそうだった。高校生までに生理が来なかったら、一度産婦人科に行ってみましょうね、とずっと心配していた人だから。
「……子宮なんて、要らないのに……」
わたしは下腹部を叩く。手を握り締め、げんこつを作って、強く、強く。
叩いた部分はじんじんと痛みはじめ、熱を持ちはじめたけれど、わたしはそこを打つ手を止められなかった。女になるという事。偽り物の男ではいられなくなるという事。
あの歪な愛の日々が終ってしまうくらいなら、わたしは狂ってしまう方が幸せな気さえして、静かに泣き出した。


ひとつの。
生け贄を用意しよう、わたしの為に。
生け贄を用意するのだ、あの人の為に。
そして、それはわたし達を結び付け直してくれるだろう、きっと。
生理が始まってしまってから、わたしは平川先生に近づくことが出来なくなってしまっていた。女になったのだと、知られてしまうのが恐くて、自分から彼を避けてしまっていた。
けれども、それでは忘れ去られるだけだ。
彼が、男が好きな人種だというのなら、わたしは彼の為に生け贄を用意すれば良いのではないだろうか。そう考えついたのは、雨の降る、静かな放課後だった。
運動系の部活は、大会が近いせいか、雨だというのにグラウンドで練習をしていたりする。臨時の職員会議があるらしく、教師達は職員室にこもっていた。帰宅部の生徒達は、天気のせいかさっさと帰路についているし、学校は静かに時間を持て余していた。人の気配はあるのに、誰もいないような空間。
同じクラスの山田くんが、クリスチャンだと知ったのはその時だった。
斜め前の席に座っている彼が、カバンをひっくり返したのだ。教科書と、ノートと、辞書の落ちた間に、濃い緑色をした、けれども分厚いその本が。
「……それ、聖書?」
「うん、ああ、……聖書」
「クリスチャンなの?」
「うーん、一応ね」
読み込まれているのであろうそれは、随分と年代を感じさせた。茶色くなってしまっている紙は、どれぐらいの人が触ったものなのだろう。
「よく知ってるじゃん、聖書なんて」
「わたしの行ってた保育園、保母さんがみんなシスターだったの。よく読んでもらった、聖書。変な話もあるけど、なんかロマンチックよね」
「ああ、変な話、ねぇ。ま、クリスチャンって言ってもさ、洗礼名を持ってるだけで、ええっと、あのさ」
俺、施設の子だから、と彼は静かに言った。
一瞬なんの事だか分からずに、わたしは聞き返してしまう。
「俺、拾われっ子なの。駅前通りをさ、裏に回って住宅地に入る手前に、でっかい教会があるだろ? あそこって、親のいない子供を育てる施設も兼ねててさ。それで、実は」
「あ、あ……そうなんだ、全然知らなかった」
「言ってないもん、誰にも」
なるほど、聖書を持ち歩いているのは教会の子だからか、と納得する。別に、全員が持ち歩いているわけではないだろうけれど、彼は律義な人なのだろう。
今までそう気にも留めていなかった山田くんを、わたしは静かに眺めてみる。わたしより少し高い身長、ひょろりと長い手脚、真っ黒い髪は少し癖が入っているのか、柔らかく撥ねている。特定の部活動をしていないせいか、日に焼けすぎてはいない肌。
じっと見詰めすぎたのか、彼はふいっとわたしから顔を逸らした。横顔がほんのり染まっている。大きな瞳が、恥ずかしさの為か微妙に揺れる。
ふうん。
わたしみたいな女の子が、なるほど気になる年頃なのかもしれない。
「高校とかは、どうするの?」
「うーん、奨学金、か、特待生で入学させてくれる高校を探すしかないんじゃない? ま、別に高校なんて行かなくてもいいんだけど」
育ちの良さそうな大きな瞳が、照れたように時折わたしを映す。
「ねぇ、」
生け贄を作ろう、わたしの為に。
「イヴは、アダムの肋骨だったって、山田くんは信じる?」
「え……、ああ、その話もあるよね」
「うん、あのね、」
わたしは肋骨になりたいんだけど、と囁いて、わたしは彼を生け贄にしようと決めた。処女膜でもわたし自身でも、その為になら何だって餌にしてやる。 どうせもう大人に、女になってしまうこの身体など、別に惜しくはないのだから。


誘い込んだ理科準備室は、雨にくすんでひどくカビっぽい感じがした。
木製の棚には、ホルマリン付けのカエルやらネズミやらが入っていたり、ほこりを被った顕微鏡などが置いてある。そして、山のように積まれた、古いプリント、新聞の切り抜き、何十とある図鑑。
「蒼井……?」
懐かしいから聖書の話してよ、と言って、わたしは山田くんをこの部屋に連れ込んできていた。後ろのドアの鍵が壊れていることを、大抵の生徒は知らない。薄汚れた準備室に、管理責任者である平川先生以外の理科の教師達は、授業の前にしかこの部屋には入らないし、今の時間はそう、職員会議中だ。入って来る人間は、どう考えても私たちしかいない。
「なんで、こんな所へ……」
明らかに不審そうな声を出し、山田くんはそれでもわたしの後をついてきていた。
「聖書の話が聞きたいって言ったでしょ」
「そうだけど……」
「ここ、好きなの。なんか、隠れ家みたいな感じがしない?」
隠れ家、と彼は口の中で繰り返し、手前にある机の上に腰掛ける。平川先生の前で、脚を開く時にわたしが座る、その机に。
「ねぇ、十戒ってあるでしょ?」
「モーゼの?」
「ううん、うん、あれ、それなのかな、あの、」
盗むな、とか、殺すな、とか、父母を敬え、とか、姦淫するな、とかの、と、わたしは続ける。
「姦淫するな、とか」
「……それはさっき言ったよ」
「うん。ねぇ、同意の下だったら、罪にはならないのかしら?」
え、と彼が間の抜けた声を出した。まだ、少年性の抜けきらない顔。これは、先生の気に入ってもらえるだろうか。喉仏の目立たない首筋に、わたしは唇を近づける。彼は驚いたように身体を硬くしたけれど、声も出さなければ、わたしを跳ね除けることもしなかった。
「秘密っぽくて、いいでしょう?」
彼は目だけをそっと動かして、わたしの瞳を覗きこんだ。
わたしが何を言っているのか、理解できていない目。その色。
冷静にわたしの視線は壁時計を拾う。あと十分から二十分で、職員会議は終るだろう。さぁ。準備室なのだから、準備をしなければ、そう、生け贄の用意を。
「わたしね、ずっと、山田くんの事、好きだったんだ」
嘘をつくな、というのも、十戒のうちだったか。
「山田くん、わたしの事、嫌い?」
何を言って、と彼が上擦った声を出した。わたしは自分でブラウスのボタンを外しにかかる。ほら、と。露わな肌を見せ付けて。
「嫌い、じゃ、ない……」
けど、と言いかけた唇を、わたしは自分のそれで塞いでしまう。彼が座っててくれて助かった、立っていられたら、わたしの背では届かなかったから。
彼の唇は、先生の薄い唇と対照的に、ぽってりとした厚みがあった。感触が違う。舌先を侵入させると、彼は一瞬びくついて、けれどもすぐにわたしの舌に反応した。
何の感情もないのに、触れ合う唇にわたしは興奮しはじめる。彼の温かい手が、わたしのうなじを包み込むように触れた。そこに力を込められて、歯がぶつかり合ってしまうくらい、わたし達は近づき、深くくちづける。
幼いくちづけ。荒っぽいだけのそれに、わたしは自分から唇を離す。
ねぇ、と誘えば、彼はわたしの首筋に腕を絡ませ、自分もろとも床に落ちた。
「痛いって、ば、」
驚きながらも甘い声を出せば、山田くんは胸元に顔を埋めてくる。可哀想に、経験も情報も中途半端なので、わたしをどうしていいか分からないらしい。
舐めてあげる、と言って、わたしは彼の上になった。ズボンを引き摺り下ろす。
ベルトを解くのももどかしく。 彼の性器は、興奮や恐れや混乱で、半勃ちのまま戸惑っていた。わたしはそれに口をつける。まだ濃いピンク色のきれいなそれ。前歯で引っかけるようにしておいて、舌を裏から滑らせた。喉の奥で、吸ってみる。びくん、と半身を逸らせ、彼は切ない声を上げる。
「あお、い……」
駄目、と途切れる呼吸の合間に零れた言葉は、見事に甘い空気に染まる。
口を大きく開け、奥歯で慎重に挟みこんで、歯で弄る。刺激を強すぎないように気をつけ、先端の細い割れ目に舌を差し込む。ぬるりとした、濃い液体。まだ苦くはないそれを舐め取ると、彼の呼吸が早くなる。
「お前、なに、考えて……」
処女だと言っておくのは得か損かを考えてみるけれど、結局分からなかった。気持ちが良すぎたのか、彼の身体から力が抜けている。いかせてはやらない。わたしの中に、入ってもらわないと困るからだ。
処女膜なんて、惜しくはない。
「……だって、好きなんだもん」
いつからわたしはこんなにウソツキになったのだろう。山田くんは自分が生け贄なのも知らず、頬を染めてわたしを潤んだ瞳に映す。
「ねぇ、したい」
目を閉じると、彼の息遣いがひどく近くに聞こえた。
わたしは再び彼の下になる。彼はわたしのブラウスのボタンを、震えるような焦るような手つきですべて外すと、ただひたすら肌に、唇を押しつけてきた。
紺色のプリーツスカート、その脇ホックをはずそうと、右手が探している。すぐに、下から手を突っ込めばいいと気付いたようで、ホックはそのままに、脚の方から伸びてきた手が、わたしの下着にかかった。
遠くで、雨の音がする。
静かに静かに、それは地面を叩いている。
水音は、心を落ち着かせるから好きだ。心の底から願っているもうひとりの足音を拾おうとするのだけれど、わたしの耳が拾うのは、雨の音と山田くんの呼吸音ばかりで。
脅えた熱い指先が、下着を引き摺り下ろす。入れるべき穴も知らないくせに、と、わたしは少し冷めた気分で笑おうとするのだけれど、頬が火照りすぎていて、上手く笑うことが出来なかった。
彼の、もうすでに硬くなった性器が、わたしの太股に当たる。その熱さに、わたしは先生のそれを想像する。
蒼井、と彼がわたしの名を呼んだ時だった。
カラカラと引き戸が開く音がして。
「……何をしているんだ」
望んでいた声に、わたしは目をあける。そこには、男子生徒のむき出しの臀部に、明らかに興奮していると見て取れる平川先生が、わたしを見ることもせずに立っていた。


「悪い子達だ……」
山田くんは、雨の音を背に、裸で立たされている。
鍵のかけられた理科準備室。もう、けしてこの空間を邪魔する人間はいない。
「まだ中学生だというのに……」
何てことだ、と微笑みながら、俯いたまま顔を上げようとしない彼を、先生は見つめている。
お人好しの山田くんは、自分がわたしをここに連れ込んだことにしてくれた。なんて好都合なお馬鹿さんだろう。罪を被ることを、自ら望むなんて。女の子を庇うのが、恰好良いと思っているのかしら。庇おうとしている、まさにそのわたしに、彼は騙されているのに。
「そういう悪い子達には、お仕置きが必要だな」
「……ごめんなさい、なんでもしますから、親に連絡しないでください」
震える声を作って、泣き声混じりに言ってみれば、山田くんははっと顔を上げる。彼の性器はもう縮こまってしまっていて、全身にうっすらと鳥肌を立てている。可哀想に。可哀想な、わたし達の生け贄。
わたしはともかく、彼は家に連絡されたりしたら、それこそ大変だ。施設の人達は何と言うだろう。追い出されたりはしないだろうけれど、随分住みにくくなるはずだ。
「……なんでも、」
先生は静かに言ったつもりだろうけれど、その語尾は喜びに震えていた。
「なんでも、ねぇ」
先生は山田くんの身体に、欲情していた。どうやら気に入ってもらえたようだ。山田くんに背を向け、表情が分からない位置で、わたしは先生に「どう?」という顔をする。上出来だ、と、微かに唇だけを動かし、先生は言ってくれた。
「……山田が誘ったという事らしいが、蒼井にも非がないわけではないだろう?」
「か、彼女はっ、……彼女は関係ないです、俺が悪いんです、なんでもします、彼女は見逃してあげてくださいっ」
「……いや、同罪だろう」
蒼井、とわたしは名前を呼ばれる。
「これから二人に、反省してもらおう。山田を元気にしてあげてやれ」
その前に、と先生は山田くんに後ろを向かせ、カーテンのタッセルで腕を背後で縛り上げた。あんな事、わたしにはしてくれた事がないのに、と少し思ったりもするけれど、そういえばわたしは逃げ出さないからであり、山田くんはまだここから逃げ出すという選択肢を持っているのだ。
「元気にする、とは……」
分かっているのに、わたしは分からない振りをする。
「山田の前にひざまずきなさい、そして、」
 これを大きくするんだよ、と先生は山田くんの萎えてしまっている性器を、乱暴な指先で摘み上げた。山田くんの、切ない声が響き、それはわたしの耳に、ひどく甘いもののように届いた。


先生の舌先が、山田くんの背をなぞっている。目隠しをされてしまって、後ろ手に縛られている彼は、ついさっきまでわたしと繋がるはずだった人間には見えない。
結局わたしは何の役割も与えないまま、彼らを見ていることだけを強要された。強要、と言っていいものか、よく分からないのだけれど。先生はうっすらとした笑みを顔に張り付け、わたしの存在を忘れてしまったかのように、生け贄にだけ集中している。同性愛はタブーなんじゃなかったかしら、と心の中で山田くんに話しかけるけれど、そんなのはもちろん伝わったりしない。可哀想に。神様に嫌われちゃうよ、山田くん。
先生の舌はだんだんと下降してゆき、後ろから抱きかかえるようにしていた相手の身体を一度解くと、その尻に顔を埋めた。山田くんの、上擦った、驚愕の声が上がる。
「騒ぐと、蒼井を同じ目にあわせるぞ」
口を塞ぐぞ、ではなく。
そんな脅迫の仕方をされ、彼は大人しくなる。
山田くんはわたしの事を好きだったのかしら、もしかして。そんな事を今、聞くわけにもいかず、椅子の上で縛られた振りをしているわたしは、大好きな平川先生と彼の為に用意した生け贄の交わる様を、静かに見つめていた。本当は、自分の中に嫉妬心が芽生えると思ったのだけれど、それはなかった。先生を好きで、その好きな人が幸せなのなら、わたしもそれで幸せになれるのだと知る。
脚の間から手を差し込み、先生は背後から山田くんの性器を握りこんだ。う、という声が漏れる。大きなその手は、もうすでに硬さを持ちはじめている山田くんの性器をゆるゆると擦り上げた。濃いピンク色に染まるそれは、どんな熱を放っているのだろう。
「……こんな恥ずかしい事をしていたんだぞ、お前達は。悪い奴等だ」
幸せそうな先生の顔。
山田くんの頬は真っ赤に染まり、唇は噛み締められている。
やがて、彼は射精した。白濁の液体が床にこぼれ、膝をがくがくと揺らし、山田くんはその場に倒れこみそうになる。それを片腕で支え、先生は彼を自分の方へ向き直させた。
唇が。
二人の唇が、重ねられる。
ガタン、と音を立てて。
わたしは急に立ち上がり、椅子は後ろへと倒れて床を打った。
「せんせえ、」
それは。
それは駄目です、と言おうとしたよりも先に、鼻の奥がぎゅうっと熱くなって、わたしの頬に涙がこぼれた。熱くて痛い、涙だった。
「せんせ、え……」
キスは。
キスは、駄目。
それは、それはしちゃいけない。
わたしが世界で一番、その行為を好きだと知っているのに。先生とのくちづけを、一番愛しているわたしの前で、それを他の人とするなんて。
それは、して欲しくない。
してはいけない。
先生はわたしの声を無視して、山田くんの唇を舌で割った。抵抗するだけの力は残っていないらしい山田くんは、身体から抜けてしまった力と共に、気力も抜けているようで、先生にされるがままだ。わたしは呆然と立ち尽くしたまま、聞こえているはずの山田くんの喘ぎ声を耳から取りこぼし、無音の世界に閉じ込められていた。雨の、優しい匂いだけがする。
山田くんは床に四つ這いにさせられると、先生の硬く勃立した性器を尻に押し付けられた。彼の口が、酸素を求める金魚のように大きく動いている。唾液を擦りつけた指先で何度も山田くんのそこを捏ね回し、力むと痛いだけだから、と言う先生の声を、わたしはどこか遠くで聞いていた。無音の世界に、先生の声だけは、難なく入りこむ事が出来るのだ。
来なさい、とわたしは先生に手招きされる。
やっとわたしを見てくれた喜びから、わたしの頬には再び涙がこぼれる。
泣いていないで、ここを舐めてごらん、と先生は二人が繋がっているところを指差した。山田くんの蕾は痛々しいほどめくれ上がり、先生の薄灰色を混ぜたような赤い、性器を飲み込んでいる。わたしは泣き濡れた顔のまま、ひざまずき、屈みこんで、上から舌を伸ばした。三人分の体温が溶ける。柔らかな、汗の味。
「蒼井、」
静かに呼ばれて顔を上げると、先生が唇を重ねてくれた。
山田くんの、イタイ、イタイ、タスケテ、という声は、聞こえているけれど心に響かない。聞こえていないのと同じ事だ。
「偉いな、ここまで考えてくれるとは思わなかった」
きちんとした説明もしていないのに、先生は山田くんを生け贄としてわたしが用意した事を理解してくれていた。それが嬉しくて、わたしは幸せになる。本当は、自分が山田くんの立場になりたかったのだけれど、それは無理なのだ。それならば、わたしはわたしの立場で、最善の方法を考えるしかないのだ。
「気持ち良くしてあげてくれ、」
わたしは、山田くんの性器に手を伸ばす。
縮んでいると思ったそれは、けれども硬く熱を放っていた。指先が触れると、びくん、と撥ねる。先生が腰を勧めるたびに、山田くんの身体は揺れた。
生け贄を差し出し続ける事は、とわたしは考える。
生け贄を差し出し続ける事は、生け贄を差し出し続ける事によって、わたしは先生の肋骨になれるのではないだろうか。
アダムの身体を離れてしまったイヴは、けれども彼が望む事を叶えてあげる事によって、彼と離れてはいられない関係になれるのだ。
先生、とわたしは小さな声で告げる。
先生、わたしは先生の肋骨として、生け贄を差し出し続けてあげるわ、と。
だから、わたしの事も否定しないで、愛していて、そして、イヴであるわたしに、ご褒美のくちづけをください。


放心している山田くんを壁に凭れ掛けさせ、先生は一旦準備室を出て行き、カメラを持ってきて写真を撮った。何枚も、何枚も。
体内に放出された先生の精液は、山田くんの座り込む床へ、彼から少しずつこぼれ落ちていた。あの写真をネタにする事によって、山田くんを当分は生け贄にしておける。
わたしは先生に言われて、荷物を取りに一度教室へ戻った。薄暗い教室には誰もいなく、わたしは山田くんのカバンから聖書を取り出す。一頁ずつ引き千切り、握り締めると、笑いがこぼれた。
「……もう戻れないねぇ」
戻れないね。
わたしは肋骨になりかけているから。
もう、人間には戻りたくないから。
ごめんね。
利用してごめんね。
ちりちりと音を立てて破れてゆく聖書に、幸せな気分で謝ってみる。
わたしも先生に利用されているだけなのだろうけれど。
でも、愛されない女としての生を受けながら、それでも側にいられるのなら、わたしは喜んで利用される肋骨でいたい。
読み込まれた、色の変わった聖書。
そそのかされてリンゴを食べたのもイヴなのよ。
アダムを巻き込んで、エデンを追放されたのは、本当は神様にアダムを取られたくなかったからなの。自分をアダムから引き離した神様を、嫌いなの。イヴは、神様を憎んですらいるの。リンゴを食べる事も、禁忌を犯す事も、アダムを愛するがゆえなら、何も恐くないわ、何も恐くないの。
だから、神様の匂いがする聖書なんて、大嫌い。
ただのゴミに成り果ててゆく聖書の頁。わたしは先生を愛している、先生の肋骨に戻りたい、わたしは、わたしは。
「殺したいほど好きなんて陳腐な事は言わないの、殺されたいほど好きなのよ、あの人がいない世界なんて、恐くて恐くて考えられないのよ」
生け贄がもしもわたし達の世界を壊そうとするのなら、わたしは何の容赦もなく生け贄を消してしまう事が出来るでしょう。
先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生。
「愛しているんです……」
わたしを男の子に創ってくれなかった神様なんて、全然恐くない、そんなモノは。
わたしは引き千切った聖書を、準備室まで続く廊下で、花びらを撒くようにひらひらと風に乗せた。恐いものは、何もない。わたしの愛は、あの人だけに向けて注がれる。
ちぎれた聖書は、灰色の廊下を意味なく埋めて、わたしはそれが嬉しくて何度も笑った。雨の音だけが響いている。
準備室では、先生と山田くんが交じっているだろう。
あの、山田くんの力をすっかり抜いた腕は、静かに冷たい床に触れているのだろうか。
わたしは手にしていた聖書の残骸をばらまく。
先生のくちづけが貰えるのなら、新しい生け贄だって用意できるし、狂ってしまう事も出来る、そこまでの愛に嬉しくて嬉しくて、泣き出しそうになりながら。先生の、肋骨として、わたしは女になってしまっても、愛されてゆけると信じていた。



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