聖書

by 週刊文学文芸編集長

「『聖書』は実際タチの悪いゲームです。」と私の主治医は言った。「ロールプレイングの危険性は、ボードゲームの頃から警鐘を打たれて来た問題なんです」
「はぁ、、、」
 私には彼の言っている事が理解できなかった。そもそも私の主治医と名乗るこの中年男が、本当は何物なのかさえ、全く謎だ。
「ちょっと待ってください」と、私はなおも話を続けようとする「主治医」を制した。「あなたは人の生活にいきなり入り込んで来て、私の主治医だと名乗る。これほど度を超えた非常識に、私は生まれて初めて遭遇しているんだがね」
 中年男(自称私の主治医)は、顔の前で手を組んで、眉間に深い縦縞をよせると、癇癪を圧えるように溜息を吐いた。
「あなたは、この世の中で自分だけが最も正しく、最も叡知に富み、最も世界を理解しているとお思いですか?」
「いや、そんなに自惚れてはいないが」
「それならば、どうか、この不審極まる男の話を、一応は最後まで聞いてはくれませんか?」
 彼の態度は尋常ではない。私に何かを理解させたいという切羽詰まった、深刻さがある。天才的な演技力か、はたまた本物の危痴害か。私は俄に恐ろしくなり、立ち上がって叫んでいた。
「お引き取りください!今すぐ出て行ってください!け、警察を呼びますよ」
 私の態度に吃驚したのか、自称私の主治医は慌てふためくように、椅子から飛び退いた。
「ちょっと落ち着いて!」
 落ち着いて考えれば尚のこと、彼が正気でない事が明白だ。何故こんな不審人物を、私は家に入れてしまったのだろう。
 私はずんずんと、玄関へ男を追い出した。何やら弁解がましい事を喋っていたが、最早、私の耳には入らない。
「目を覚ましなさい!」
 それはこちらの台詞だろう。
「あなたは夢の中にいる!」
 寝言は寝てから言いたまえ。
「あなたは『聖書』に操られているんです」
 何を訳のわからない事を言っているんだ、この男は。
「目を覚ましてください、、、」

 私は目を覚ました。
 狭山裕子の診察室だ。
「相当うなされていたわ」
 ああ、そうなのか。私はまたしても、あちら側に行っていたのか。
「また、彼が現れたよ」リクライニングチェアから上体を起こしながら、私は額の汗を拭った。
「あなたの主治医と名乗る中年男性?」
「そうだ」
「あなたの主治医は私よ」裕子は嘲るように笑うと、机を迂回して、私の元へやって来た。ミニのスーツからスラリと伸びた脚が、私と彼女との距離を縮める。
「酷いセラピストも居たもんだな。普通真面目に考えてくれるもんだろう?それとも僕は、手の施しようもない程、気が狂っているかい?」
「そうね、重症だわ。高校生の頃からね」
「こいつう!」私は裕子の腰に手を回すと、その体をチェアへ引き寄せた。
「あははははっ、やめてってば、セラピー中よ」
「君を見ていると、頭が変になる」私は裕子の瞳に語りかけた。彼女の体はリクライニングチェアに深く沈み、私は、彼女を廻る月のように回転した。
「集中治療が必要ね」裕子はすっかり吐息のような声を漏らして、私の頬にすうっと両手を延ばした。私の乾いた唇は、彼女のワインゼリーで出来た唇へと急降下する。
 狭山裕子とは、高校時代の同級生である。実のところただの同級生ではなかったが、二人ともまだ若かったのだ。当時の彼女は、まるで何かに追い立てられているような、野心の塊だった。私は社会と大人をなめきった、生意気なガキに過ぎなかった。そんな二人が、奪い合うような関係に疲れるのも、本当に早かったのだ。
 やがて高校を卒業した私達は、別々の道に進み、別々の夢を追いかけた。裕子と再会したのはほんの数週間前の事である。焼けぼっくりに火、と言われてしまえばそれまでだが、お互いに三十路を目前にした再会は、高校時代と全く違った関係を、二人にもたらしたのである。
 目覚ましい変化は、狭山裕子の側にあった。私はと言えば、しがないサラリーマン生活だが、彼女は彼女がずっと望んでいたものをほぼ完全に手に入れたように見えた。それでもまだ満足してはいなかっただろうが、着々と成功の階段を昇る者のゆとり、そして年齢的に社会的に、彼女が不特定多数の男性たちが与えてくれる上昇気流より、より結婚を大きな問題として捉えるようになっていた事も手伝って、私達はまた、時間を共有するようになった、というわけである。
「ちょっと。ここは新手の風俗じゃないのよ」事が終わった後、診療室に消臭スプレーを撒きながら、裕子は言った。
「君が誘ったんだ」
「相当の妄想癖ね」
「そうやっていつも患者を傷つけているのかい?」
「ふふ、トラウマになった?」
「どうせ俺は擦れっ枯らしさ」
「それより、さっきの話だけど、ずっと同じ夢を見続けているのは、ちょっと気になるわね」
「ああ、もうずっとだ。最初は1年前からか、1カ月前からか、或いはもっと前からなのか、全然覚えていないんだ」
 夢というより、まるでもう一つの現実だった。もう一つの生活、もう一つの世界、そう、もう一つの人生といってもいい。
 夢の中で私は、河村和彦という青年実業家だった。馬鹿げたことだが、大金持ちだ。自分では金や出世に興味のない男だと思っていたが、こうあからさまな夢では、どんな診断をされるかわからない。裕子にはとても言えないので、黙っておくことにした。
「あなたは夢の中で、河村和彦という男性で、あなたの主治医と名乗る人物に、『聖書』という名前のゲームをやめるように説得される」机に戻った裕子が、私のカルテを読みながら言った。
 あらためてそう聞くと、全く奇妙な夢だ。大体、そのゲームをこっちの私もあっちの私も、まるで聞いたことも見たこともないのだ。
「あなたは何故、いつもその主治医と話してしまうの?」
「奴は俺のまわりで、いつも俺を監視しているんだ。ストーカーのようにね。さっき見た夢では、いつの間にか家の中にいた。どうやら俺が入れたみたいなんだが、そのへんがよくわからない。夢の中で何故、自分はこんな男を家に入れてしまったんだと後悔したのを憶えている」
「どんな風体の男?顔を憶えてる?あなたの知り合いの誰かに似ている?」
「うん。はっきり憶えている。誰とも似てはいないな。いや、待てよ。似ている俳優がいたかも知れないな。しかし、会えばすぐ奴だとわかるが、似顔絵を描けと言われても困るぜ」
「ねえ、モンタージュ写真の作成ソフトウエアがあるの。試してみる?」
「ええ?どうしてそんなものがあるんだい?!」
「科学警察が使っているものなんかに比べたら、玩具もいいところなんでしょうけど、私の患者にゲームクリエイターがいるのよ。その人が作ったものなの」
 ゲームクリエイターが、モンタージュ写真を?一体どんなゲームなのか知らないが、ちょっと面白そうだ。いや、ゲームがじゃない。私の夢の中の人物を、モンタージュで見つけてみようという、裕子の突拍子もない提案がである。
「そうだな。夢の中の人物の顔を特定するなんて、あまり意味が無さそうだけど、やってみてもいいよ」
「わかりやすい人。ホントは興味深々なんでしょ。目が輝いてるわよ。ふふふ」裕子は机の上の液晶モニタを、ぐるりとこちら側へ回した。
「待ってね。今、立ち上げるわ」
「どうせ、ヘアスタイル数種類、目元、鼻、口元数種類ってチープな奴だろう?」
「どうかしら。データはCD-ROM一枚にぎっしり入っているわ。そんなに馬鹿にしたものでもないかもよ」
 ソフトウエアのウインドウが、液晶画面に現れた。裕子は、机の中を引っ掻き回して、ようやく一束のプリントを引っ張り出した。マニュアルらしい。
「えーっとえっと。先ず、顔の輪郭は?丸型、四角型、細型、逆三角、たまご型、、、」
 やれやれ、思った通りだ。子供の頃テレビで南伸介がやっていた、「減点パパ」の方式だ。
「強いて言えば、たまご型かな?」
 人間の顔の輪郭など、実際にはそれ程個人差があるものではない。何々型というのはあくまでも、印象の話である。しかしこの印象というのが記憶なのだ。印象は現実を誇張する。たまご型という印象が、実際にはこれこのような骨格である、といった事はない。顔の印象というのは、総合的なルックスに起因するのである。第一、たまごの形だって鶏の種類や健康状態によって、微妙に違うのだし、たまごを描いてみろと、百人に描かせれば、それこそ百様の形になるだろう。
 このあと、このように曖昧な質問は、目、鼻、口、耳、ヘアースタイルに至るまで、12の部位について行われた。次々に出来上がって行く「私の主治医」の顔は、まるで出来損ないのマンガのキャラクターのようで、私が夢であった人物とは、およそ程遠いものになった。
「どうかしら?こんな人物だった?」
「いや。期待しちゃいけなかったよ。全然違う」
「ふふふ、あなたの言った通りに組み合わせたのよ」
「まあ、所詮はそんなものさ。お遊びだと、最初から割り切ってはいたけれどね。バリエーションがそもそも不足しているのさ」
「でも、実はこれからがこのソフトの本領なのよ」
「何だって?」私は吹き出しそうになった。「ホクロの位置でも決めるかい?」
「もう!ふざけないで。この段階は、あくまでも顔の印象をダイレクトに反映したものに過ぎないのよ」
「それにしたって、似てもにつかない。普通、似顔絵のマンガは、特徴を巧く捉えているものじゃないか」
「その通りよ。ここにはまだ、特徴が反映されていないの」
「おいおい。その人の顔の印象的な部分を、特徴と言うんじゃないのか?」
 裕子は少し眉をしかめてマニュアルを睨んでいたが、やがて何かを見つけて口を開いた。
「このソフトで言う特徴は、言葉で言い表せない印象の事らしいわ。最初に5段階の変化量を設定して、それからそれぞれの部位の大きさと位置を変化させ、似ていると思ったところで止めるの。いい?」
「ああ、いいとも。続けよう」
 やれやれと思ったが、乗り掛った船だ。最後まで付き合おうと、腹をくくった。
「まず、この顔は、1すごく似ている、2まあまあ似ている、3普通、4殆ど似ていない、5全然似ていない、の内、どれ?」
「ちょっと待てよ。3普通ってなんだよ。どういう状態だよ、普通の似方って」
「普通は普通よ。いいのよ、変なところでひっかからないでよ。似ていなくもない、似ていなくなくもないっていう状態よ」
「うーん、まあいいや。どのみちそんな中途半端な答えは出さないからね。俺の答えは、5全然似ていない、だ」
 さっさと答えてやったのに、裕子はまた、難しい顔をして、マニュアルと睨めっこを始めた。
「ねえ、あのさ、悪いんだけどさ4にしない?」
「はあ?」
「5だと変化量5ってことになっちゃうのよ。それはまあそれでいいんだけど、5の場合は、12の部位の内のどれかを決め直さなくちゃいけないから、面倒臭いっていうか、正直、前のステップに戻る方法がわからないんだよね。それにさあ。全然似ていないって言うけど、あたしとこの似顔絵と、どっちが夢の主治医に似ている?」
 そりゃあ話が違うだろ。そもそも、性別や年齢が違うじゃないか。何だかもう、無茶苦茶だ。
「ああああ、わかったよ。じゃあ4でいいよ、じゃあ」
「サンキュー、悪いわねなんか。はい、それじゃあっと。これから12の部位を一カ所づつ動かして行くから、一番似ていると思ったところでSTOPって言ってね。じゃあ、ハイッSTART!」
 最初は頭部が動き出した。動くといっても他の部位との位置関係と大きさが変化するだけだったが、段階的でなく、スムーズな動きだ。膨張、収縮を 繰り返しながら、離れたり接したりを倍の位相で繰り返している。私は一番似ていると思った瞬間を捉えて、、、なんて面倒な事するわけがない。どうせインチキなモンタージュなんだから、スロットマシーンと同じだ。適当なところで適当にSTOPと言った。画面などろくに見てはいなかった。さくさくとSTOPをかけ、やっと12個全部の部位が終わった。
「これで終わりかい?」
「いいえ、あと一回よ。最後に微調整が残っているわ。全部の部位を同時に100分の1の変化量つまり、0.05で動かすから、一番似ているところで止めて頂戴。いい?ハイッSTART!」
 似顔絵全体が、不気味にうにょうにょと変化しはじめた。その数秒後である。
 私の心臓がドクンと大きく脈打った。
 一瞬、あの男の顔が画面に写ったように見えたのだ。私は目を凝らしてモニターを覗き込んだ。このインチキ臭いソフトの画像が、本当に似てきたのか?いや、そうではなかった。そうであった方が、どれだけか有り得る話だ。更に有り得ない現実が、そこにはあった。
「おい!」私は思わず叫んでいた。「鏡は?」裕子は私が急に狼狽しているのを見て、脅えたように話しかけてきた。
「何よ。どうしたの?」
「いいから、鏡!」
「洗面室にあるわよ」裕子の言葉が終わるかうちに、私は洗面室へ駆け出した。
 ドアを乱暴に開けると、恐る恐る洗面台の鏡を覗き込んだ。
「ばかな」
 そこに写っていたのは、紛れも無く奴の顔だった。私の主治医と名乗る、あの初老の男の顔だ。一体どうなっているんだ?
 ふと背後に人の気配を感じた。振り返ると、裕子が脅えた顔で佇んでいる。
「どうしたの?」
「なあ、これは俺の顔か?」
「ええ?!何言ってるの?当たり前じゃない。あなたの顔についているんだから、あなたの顔に決まってるでしょう?」
「そ、それはそうなんだが」
 これが私の顔。だとすれば、私は誰だ?私の主治医と名乗るあの男は誰だ!
「また下らない事を質問するようだが、真面目に答えてくれ」私は哀願するように裕子に訴えた。動揺しているのは裕子も同じようで、肩を震わせドアの縁にしがみついている。彼女は私の目を見て、そしてようやく頷いた。
「私は、誰だ」
「あなたは、西崎京太郎。心療内科西崎クリニックの院長。奥さんと息子さん2人と4人家族、、、それから」
「もういい」私は狭山裕子を遮った。そうか。そうだったのか。全ては「聖書」の見せた幻覚だったのか。
 私はあらためて、鏡に写った自分の顔を眺めた。毎朝見る、見飽きた男が写っている。これが私の顔でないなら、私はどんな顔だというのだ。本当の私の顔を思い出せもしない。思い出せる筈もない。これが本当に私の顔だからだ。そしてこの私が、西崎京太郎に他ならない。
 私は今度こそ完全に覚醒した。
「恐ろしい」声に出して私は身を震わせた。「完全に支配されていたようだ」
「せ、先生」狭山裕子は恐る恐る私を呼んだ。
「狭山君、記録はとってあるか?催眠中の私の言動の記録だよ」
「はい。全てVTRに撮りました。先生はご自分を別の誰かだとお思いのようでした」
「河村和彦か?」
「さあ?」
 裕子が微妙に視線を逸らせた。私は瞬間的に彼女の唇の感触を思い出した。
「君はまさか、河村とここで、この部屋で、、、」
「すみません!」裕子は急に泣きじゃくった。「彼とは高校時代から交際があって、、、それで」
 そうか、あれはやはり河村和彦の記憶か。さりとて、妻も子もある私が、彼女の浮気を咎めるのもお門違いというものかも知れない。
「いや。君といつまでも曖昧な関係を続けている私こそ、責められるべきなのだ。しかし、何故、知るはずもない河村和彦の実体験を、私が共有したのだろう」
「確かな事はわかりませんが、このゲーム『聖書』は、ゲームの登場人物と自己の記憶とが、しばしば判別できなくなると、マニュアルには書いてあります」
 裕子はすっかり洗面室の入り口に座り込んでしまっていたので、私は彼女を抱き起こすと、セラピー室へ戻った。机の上のモニターには、河村の作ったゲーム「聖書」の画面が写っている。また何か操作したり、あるいは長時間画面を見続けるだけでも、また自我を失い、この悪夢のようなゲーム世界に引きずり込まれるかも知れない。私はコンピュータのスイッチを切った。
「とにかく、今我々に出来る事は、河村君はこのゲームがまだ試作品(プロトタイプ)だと言っていた。もうこれ以上、彼に『聖書』の開発を続けさせない事だ」私は自分の椅子にどっかり腰掛けると言った。
 そもそも、事の発端となったのは、数カ月前、私の助手兼愛人狭山裕子から、高校時代の友人がノイローゼで苦しんでいるので、一度診察してほしいと相談された事からだった。
 紹介されたのは河村和彦29歳。大手ゲームメーカーをクライアントに持つ、フリーのゲームクリエイターで、ちょっとした時の人であった。
 河村の名前を有名にしたゲームソフトがある。それは「経典」という名前のアドベンチャーゲームである。プレイヤーは、インターネットや電話などを駆使しないとゴールにたどり着けない。非常に難易度が高く、とても万人に受けるようなものではないと思われていたが、「経典」は予想を覆し大当たりした。それは「経典」が、従来のゲームの枠を超えた、実体験型のゲームだったからだ。
 河村と会う前から、私はこのゲーム「経典」を知っていた。というのは、私自身、患者の治療にある種のゲームが有効であるという自説を持っていたからで、実際にロールプレイングの手法を用いて、様々な臨床実験をしていた。そんな時、たまたまあるコンピュータ関係の雑誌に、このゲームの記事が載ってたのだ。この記事を読んだ私は、「経典」に興味を持った。早速、通信販売でこのゲームを購入し、2週間後クリアするまで、昼夜を通して没頭していたのだ。大の大人がたかだかゲームに、仕事も忘れ、日常の全てを棚上げにしてまで熱中したのである。
 実際、その2週間の体験は最早、ゲームではなく冒険そのものであった。何しろ、最初のうちは、自分がゲームを始めているのだいるのだという事自体、判らなかったのだ。それが、「もう、ゲームは始まっているんだ」と気づいた瞬間。「これがゲームなのか!」と激しい衝撃を受けた。それからは、次から次へと新たなる難関の連続。そして謎が謎を呼び、一気に完璧なラストを迎えた。今こうしていても、あのラストシーンの感動が甦ってくる。
 ただひとつ、未だに解けない謎がある。それは、このゲームのプレイヤーが全国にどれだけいるのか知らないが、まるで私の為だけにお膳立てされたように思える事だ。ゲームの値段が何百万円もするのならわからないでもないが、「経典」の販売価格はたったの5千円。ヒントを与えてくれたタクシーの運転手、割り符を渡してくれたバーのマスター、そして私の命を狙ってきた殺し屋、など、彼等は時間差を設けて他のプレイヤー達にも同じ事をしているのだろうか?ゲームが発売されてから、ずっとそれらの演技を続けているのだろうか?人件費を計算したって、到底一人あたま5千円の儲けでは割に合わないんじゃないだろうか?いや、そもそもに、数多のユーザー毎に個別のシチュエーションを用意するなんて、現実には有り得ない。
 私はハッとなった。彼等は本当に実在したのだろうか?彼等との出会いは、私の妄想かも知れない。もし、仮に彼等と接触したという記憶が、ゲームによって植え付けられた単なる「記憶」なのだとしたら。
 私は再度ゲーム「経典」をやりはじめた。するとどうだろう。殺し屋も謎の運転手も、いきなり深夜に鳴り出した電話も、全て現実ではなく、パソコンの画面の中だけの出来事だった。私は、ゲームでの疑似体験を、実体験として記憶していたのだ。
 個人差があるにせよ、このゲームが危険極まりないものであるのは明白だった。私は製造元に電話をし、その時初めて河村和彦の名を聞いたのである。
 私は、ゲームの危険性を知らせようと、作者である河村とのコンタクトを試みた。しかしこの時点では、彼は失踪中で、行方がようとして知れなかったのである。
 私の助手兼愛人の狭山裕子が、ノイローゼ患者として私のクリニックに河村を連れて来たのは、それから数カ月経った頃のことだ。患者の名前を聞いて、私の心臓が飛び出しそうになったのは言うまでもない。
「河村和彦っていうのは、あのゲームクリエイターのか?」私は目を丸くして狭山君に尋ねた。
「そうですよ。先生が知ってるなんてびっくり」そう言って狭山君は、カラカラと笑いながら、彼を紹介してくれたのだ。
 私はすぐに、狭山君と河村氏が、もう随分と以前から、ただならぬ関係であると見抜いた。私は俄にこの若い男に対して嫉妬を感じたが、その直ぐ後には、彼が単なる哀れな病人であるとわかった。
 この時の河村は、憔悴しきった面持ちで、重度の不眠症と偏頭痛に悩まされているのがすぐにわかった。彼は頭を押さえ、自分の症状を滔々と訴え始めた。
 それによれば、河村は新作ゲーム「聖書」の制作中で、これまでにないスランプ状態に陥ったそうである。そしてとうとう、数日前に自殺を図った。
 大量の睡眠薬を飲んだのである。ゲームスタッフの一人が発見し、救急病院に運び込まれ、胃洗浄し、最悪の事態は免れた。頭痛はそれからずっと続いているという。
 私は同じような患者を何人となく見続けて来た。作家など、クリエイターに多くみられる鬱状態である。このような患者に対する治療法は確立していると言って良い。
 殆どの場合、作家や画家、その他の芸術家は孤独な存在だと言って良いだろう。それは確かに彼等自身が望んでいる孤独なのだが、人間とは不思議なものである。その自ら好んで陥った孤独に、飲み込まれそうになることがしばしばあるのだ。彼等のやっかいなところは、孤独であることを認めないばかりか、往々にしてなおさらに世間と離れようとする点である。それは自らの抱えた問題について、自分を取り囲む世界の誰もが無関心であろうということを知っており、誰の協力も得られないばかりか、馬鹿にされたり、煙たがられたり、敬遠されるような目に何度も遇っているからである。
 幸いな事に、私は彼の抱えている問題に個人的な興味と関心が、嘘いつわりなくあった。私が、彼と一緒にあるいはライバルとして、「聖書」の完成を目指す事は、大変意義のある治療法であると考えたのだ。
 案の定、彼のスタッフには彼のヴィジョンが理解できず、孤高な独り相撲になっている事が、短い問答の中で明らかだった。そこで私は彼にある提案をした。それは私が彼のアシスタントとして、一緒に「聖書」の製作に携わるというものだ。提案を聞いた直後は、彼は戸惑っていたようだが、直ぐにその意義を見い出してくれた。つまりはそれは、私の中に彼と同じヴィジョンが存在することに彼が気付いたからだ。私はパーソナリティが形成される過程に於いて、人間が獲得する後天的な自我と、そうではなく社会的な関係なしに先天的に所有する自我を切り分けてみたいと考えていた。その為に完全なパーソナリティのリセットが必要になる。もしも、ゲームによってそれが可能になるのであれば、私自身の研究が目覚ましく進展する。
 しかし、これは危険な提携だったのである。河村は私の精神病理学に異常な関心を示し、ゲームのトリックに応用していったのだ。そしてとうとう、私達の前から消えた。作りかけのゲームソフト「聖書」を残して。
「狭山君、彼の行方に何か心当たりはないのかね?」
「申し訳ありません。全く心当たりがありません」狭山裕子は怯えるように言った。
 このゲームが世の中に氾濫したら、一体どんな事態になるのだろう。プレイヤーは皆、自分の正体を失い、自分をゲームの中のキャラクターであると思い込む。しかし、実際にはまるで夢遊病患者のように実社会を彷徨うのだ。そして、ゲームの目的と人生の目的がすり変わり、精神分裂症と全く同じような症状を呈するに違いない。そのような危険なゲームを野放しにしてはいけない。
「あの、、、」と狭山君が何かを思い付いたように顔を上げた。「河村君は、『聖書』がもう完成に限り無く近づいていると言っていました。そんな状態でいきなり失踪するでしょうか?」
「何が言いたいんだね、君は」
「つまり、、、その、、、とても馬鹿げているということは承知の上で申し上げるんですけど、、、」狭山君はまた顔を伏せて言葉を詰まらせた。
「構わない。馬鹿げているとは思わないよ。君も私と同じ事を考えているんだね?」私には狭山君が言いかけた事が何なのか、わかるような気がしたのだ。「つまり、河村和彦は、失踪したのではなく、ゲームの中に入ってしまったのだと、君が言いかけたのは、その事だろう?」
「そうなんです!先生もそんな風にお感じになりましたか?」
「うん。有り得ない事だとわかってはいるのだがねえ。彼になら、それも可能だったのじゃないかと思えてならないんだ」
 そもそも、私がこの危険な未完成の「聖書」をプレイしてみようと思ったのは、実はそんな有り得ない事を考えたからだ。実際に、私自身が河村となって、ゲームの中に登場した。ゲームの中での私は、完全に自分を河村和彦だと思い込んでいたようだし、確かに私は彼をゲームの内部に発見したと言えるのかも知れない。
「非常に危険だということはわかっているが、、、」と私は狭山君に言った。「もう一度、ゲームの中に入って行くしかないようだ」
「先生!それは無謀です。先生は自分の目的すらも、ゲームの中では忘れてしまっているんです。河村君に『聖書』の製作をやめさせるという目的を、どうやって達成するんですか?」
「実は私は、河村君との共同製作中に、このプログラムに『ものみの塔』という機能を付け足しておいたのだ。彼は共同制作者でありながら、このプログラムの必要性に気がつかなかった。このプログラムは、ある種のプレイヤーが『聖書』との接触を嫌い、いかなるパーソナリティをも否定した時に発動する。その時、単なる『視点』だけがゲームの中に存在するようになるのだ。この神たる視点は、ゲームの中全てを鳥瞰的に見渡す事ができる。河村君の居所はこれでわかる筈だ。居場所だけはそれでわかる」
「居場所がわかっても、その神たる『視点』は『聖書』世界への影響力がないんじゃ、、、」
「その通り。単なる『視点』に過ぎないからね。でもこの『視点』は、ゲームの外側に出力できるんだ。だから君が頼りになるんだよ、狭山君。君はゲームの外側に、つまりゲームに参加せずに、ただ、河村の居場所をつきとめて欲しい。そしてその部分のプログラムを消去してしまうのだ。そうすれば、もう河村和彦はゲームの製作を続けられなくなる」
「それならいっその事、この『聖書』を全部消去してしまえばいいじゃないですか?」
「いや、それでは駄目だ。私達がゲーム『聖書』への入り口を失えば、彼の『聖書』は完成してしまうんだ」
「どういう事ですか?」
「実は、懸念している事があるんだよ。私はまだ、『教典』をプレイ中なんじゃないかという、恐ろしい懸念だ」
「でも、これだけ複雑なプログラムは、何処でどんなふうに相互依存しているかわかりません。もし、河村君の居る場所だけ消去したら、先生だって、戻って来られなくなるかも知れないんですよ」
「それはもとより覚悟している。人類の『正気』を守る為なら、私は喜んで犠牲になろう」
「先生、、、」
「頼んだよ、狭山君、君だけが人類の希望なんだ!」
「せんせーい!」
「さやまくーん!」ひしっと抱き合う2人であった。
 さて、人生最後というべきか、「正気」最後というべきなのか、私は最後のエッチを堪能した後、「聖書」がインストールされた診察室のパソコンに向かった。「ものみの塔」にモードを合わせると、直ぐにゲームをスタートさせる。隣の部屋では、狭山君のしくしくという泣き声が聞こえる。さらば、「現世」。さらば、「正気」の私。さらば、西崎京太郎。
 徐々に意識が朦朧として来て、私はゲームの中で「睡眠」を選んだ。


 いつになくぐっすりと眠って居たようだ。私は「ものみの塔」で目を覚ました。
 この「ものみの塔」は、私が見つけた、私だけの秘密の別宅である。
 私がこの密かなる別宅を持つようになったのは、春先のまだ肌寒い頃のことだった。
 春になると何故だか早起きになる。冬の間はどうしても午前中に起きる事ができない。別段寒さに弱い体質というわけでもないのだが、毎年寒い季節が来ると、この世の全てが厭わしくなり、私の五体は鉛のように鈍重になる。そんなものだから、この年齢までろくに働いた事もないのである。。それでもこんな生活で十年以上も食いつないでいる。贅沢さえしなければ、あと十年はもつだろう。その先の事はわからない。考えてもいない。
 祖父が残してくれた屋敷は、住まいと言うにはあまりにおうぎょうで、私はそのごく一角しか使用していない。そもそもに、私はこの家が大嫌いだ。私が生まれた頃にはすでにして、この家の四方の黴臭い暗闇には、数千数百という憂鬱な亡霊たちが潜んでいた。ここで育った私はいつしか無口でひどく怯えがちな少年になり、ただ書物と空想とに耽る陰鬱な青年となった。
 その冬も殆どと言って良いほど、屋敷から出なかった。夢想と文学だけが私の相手をし、私もまた彼等にだけ心を許した。その前の冬もまたそうであったように、私は冬眠をするのだ。
 一冬分の食料を、身の丈足らずの冷蔵庫に詰め込み、食べたければ食べ、眠たければ寝る。時折書物を繙いてはまた閉じ、静寂に耳を澄ませてみる。昼間であれ緞帳の黒いカーテンを閉め切って、私はただただ、春の到来を待っていた。
 暦を読むでもなく、訪れたる春をぬくもりで知る。
 カーテンの狭間から射込む陽光が、ほんのりと希望色に染められて、ようやっと私は、長い長い欠伸と一緒に、大きく背筋を伸ばした。
 凡そ三千時間の長い幕間を明けるには、ことにスメタナが相応しかろう。
 悴んだ指でフォノを引き抜き、回転台へと置いた。
 針を落とす瞬間はいつでも特別に胸が高鳴る。それはまるで剥き出しにされた神経の最も敏感な先端部が、ざらつき乾いた山犬の舌の上に乗せられるようである。
 ぷつりぷつりと私の神経は鋭い断続的な刺激に耐え、やがて連続した甘く切ない痛みへと変化する頃、影として其処へ染み付いたヴァイオルの、かつて細かく震わせられたエーテルたちの記憶が、私の凍てついた魂をゆっくりとゆっくりと溶かしはじめるのである。
 コートを羽織って表に出ると、さすがに朝方はまだ空気がしんとしていた。それでも昨日までとは、明らかに季節がちがっていた。
 そうしてしばらくは家の近くをうろうろと歩いていた私だったが、私にしては珍しく、この朝ちょっとした冒険心が沸き出てきた。私はここ十年以上もの間、隣町へさえ足を運んではいないのだ。
 何故かこの日の朝、私は不思議にも晴ればれとした気分で、ここ数年か恐らくは十数年味わっていなかった充足感に満たされていた。この爽快感が一体何処からやって来ているものなのか、私自身にもまるで心当たりがなかった。ただ、その日が例年と大きく異なったのは、私の足と気持ちが、あろうことか「外」に向けられたことだった。
 私はこれといった宛もなく、ただ隣町へと歩を進めていた。
 1時間も歩いていただろうか。この辺りにはまだ、人知れぬ狭い路地が沢山残っていた。ある路地を進んだ商店街から程近い住宅密集地には、戦火に焼け残った古い木造建築やら、増築された奇形的な長屋などが、軒を連ねている。これらは私が幼少の頃と少しも変わらない佇まいを残しており、こうして暫くぶりに訪ねてみると、まるでタイムスリップしてしまったかのように、あたかも現代文明から乖離した夢幻の世界のふうであった。そして私の記憶に鮮明に残っているのは、ここいらで最も古い木造の教会であった。その時計台になった尖塔は風呂屋の煙突よりも遙かに高く、今もなお、太陽を4つに分けるかのように十字架を掲げてる。
 子供の頃、私はこの教会が好きで、何度となく遊びに来ていた。別に神様に関心があったわけではない。神様はおられるんだろうが、私には特別に無縁であると思えてならなかった。それは私に祈る理由が無かったからだ。私はまだほんの幼い頃から、生きることに疲れ果てていたのだろう。祈るという事は、ちょうど玩具屋の前でだだをこねてえんこするような、聞き分けのない行為であり、親が根負けして買い与えた玩具はしかし、結局心を満たしてくれるものではありえない。私の心を満たすものは、ショーウインドウの中にはない。そして何処にもない。
 私がその教会に惹かれたのは、ただただ、その高くそびえ立つ時計搭のためである。その頂上には何があるのか?人はいるのだろうか?誰ひとりとして行ったという者を探し出せなかった。そして誰も教えてはくれなかった。しかし子供の頃の私がその頂上に何を期待していたのか、今となっては覚えていない。

 ある日夢を見た。この夢はその後何度も何度も幼い私の夢に出てきた。禁止されている時計塔にある日自分が上る夢である。階段は狭い狭い螺旋になっていて、それが上に行くにつれ更にだんだんと狭くなる。少年の私は身体を窄めて、更に上へ上へ、奥へ奥へと進むのである。既に階段はなくなって、ただ螺旋上に伸びた管のような中を、這うように登ってゆくと、やがて光が見え始める。その先には丸い窓が見え、鳩の鳴き声と風の音が聞こえる。しかし、身体がもうこれ以上は進めない。
 それでも夢の中の少年は諦めなかった。私は身体中の骨が砕けるような痛みを感じながら、窓へ窓へと、まるで芋虫のように身を捩らせて、じわじわと登っていったのである。そして、遂に私の頭は窓の外へ抜けた。
 其処で私が観た光景は、とても言葉では言いあらわせない。想像も絶する、驚愕の景観だったのである。雲はすぐ頭上を漂い、地上を見下ろせば青白い膜で覆われたように霞んでいた。其処は地上で最も高い場所であり、この世界と人間存在を一望できる、正に神たる視点であった。暫く私はその景観に目を捕らわれていたが、引き返すために身体を動かそうとして、愕然となる。私の身体は全く動けなくなってしまっていた。その管の中で私の身体は不自然に捩れ、もうどのような余裕も残されてはいなかったのだ。私の頭から血の気が引いた。心臓は大きく高鳴った。まずい!やばい!
 必死になってもがけばもがくほど、更に身体が強く締め付けられて行く。いやだ。助けてくれ。誰か!
 その時、何故それまで気が付かなかったのか、私が頭を出している窓が、すぐ右にもう1つあることに気づいた。そこからは、長い長い白髪で、髭もまた白く長く伸びた老人が、ぐったりと顔を出していた。
 老人はやがて、乾いた唇を動かした。
「あきらめろ。俺も丁度お前ぐらいの歳に此処へ来た」
 その言葉は、私の心を引き裂いた。虫の息の希望が、絶望に飲み込まれる瞬間。
「やがて、我々もああなる」苦しそうに老人が顎を持ち上げた。私の左の窓を差しているようだ。私はくるりと左に首を回した。
 其処には、もう殆ど白骨と化したミイラ状の首が、だらりと垂れ下がっていた。
「うわああああああああ!」

 と、いつもここで目が醒める。
 大量の汗をかき、いつまでも心臓は早鐘のようになっていた。このような悪夢を再三見たからといって、しかし私の教会に対する興味は萎えるどころか、より大きく膨れあがっていったのである。
 ある日の事、私は意を決して礼拝の間二階の袖廊に身を隠し、神父が表の戸に閂をかけて裏口から自宅へ戻るのを見計らって、時計塔の螺旋階段を登っていった。昼間だったが全く陽が差さず、真っ暗な中、歯車の音だけが不気味に響いていた。やがて麻の袋のようなものにつま先が当たり、階段を登る事ができなくなったので、私はその麻袋に足をかけてよじ登った。階段の手摺だけが頼りの、全くの暗闇だった。しかしこの直後に簡単に冒険は幕を閉じた。私の足下で積み上がっていた麻袋が崩れ、私は袋ごと階下に投げ出された。麻袋の中身はコンクリートの砂で、木造の螺旋階段を改造補強するためのものだったらしい。大きな物音に神父が駆けつけ、5メートル程を落下した私は上半身の打撲と右足の骨折で病院へ運ばれた。父親からはひどく叱られ、もう二度と教会へ行く事を止められてしまい、教会は螺旋階段の入り口を檻で仕切ってしまった。
 そんな思い出のある教会だった。私はいつの間にやら教会の前に立っていた。今はもう、誰も管理していないのだろう。取り壊されるのを待つのみの廃墟と化していた。
 入り口の戸を押すと、がたがたと音を立てていとも簡単に開いた。真っ黒にすすけたステンドクガラスから差し込む朝日が、礼拝堂の中を縦横無尽に舞う埃をキラキラと瞬かせている。古い木の臭いと独特の朽ちてゆく時間の匂い。ミシミシと音を立てる床を進み、私はやはり気になっていた時計搭の入り口へと向かった。
 歯車は回っていなかった。ここ数年は誰も侵入した形跡がなく、あの日、螺旋階段から落ちた時のまま、ねじ曲がった手摺りと踏み抜かれてしまった階段が残っている。まだ登る事ができるだろうか?私は慎重に慎重に、階段に足をかけてみた。体重を静かに移動したが、問題はないようだ。補強されたコンクリートの部分は、かなり丈夫なようだ。手摺りは一部錆と痛みがひどく、もたれ掛かるのは危険だったが、何とか登れない事はないようだ。私は静かに静かに、螺旋階段を上へと登り始めた。
 何のことはない。大人になってみるとあっけないものだ。時計搭の頂上は、文字盤を調整する為の小部屋であった。広さにして丁度4畳ほどの円形の部屋である。屋根から壁にかけて円錐形に傾斜していて、中央に十字架の軸である柱が立っている。小さな窓が東西南北に4つあり、そこからの眺めはバブエルの搭とはいかないまでも、なかなかに面白い。少年の日に妄想した成層圏にも達する神の視点はなかったが、ここで人間を観察するのは、悪くない暇つぶしかも知れない。それにこの空間は、綺麗に掃除をすれば、快適な部屋になりそうだ。
 こうして私は、不思議な別宅を手に入れた。誰も管理していないだろうこの建物に、私が住み着いたとしても誰も困りはしない筈だし、ある日誰かが訪ねて来て立ち退けと言うのなら、素直に帰ればいい。それまでの事だ。その日までで構わないのだ。
 長い年月を経た埃を払い除け、床に厚手の絨毯を敷き、明るい色の壁紙を貼ってみた。すると驚くほど部屋らしくなり、本格的に住めそうな気がしてきた。近くにはコンビニエンスストアもあるし、風呂屋もある。もっともシンプルな生活スタイルを持てば、快適で静かに暮らせる事だろう。私の理想とする、余計なものの何も無い世界だ。
 そして私はこの不思議な時計塔で暮らす事になった。私はこの場所を、「ものみの塔」と名付ける事にした。最初の夜、私はしばらく見なかった例の夢を観た。ただ、少年の頃観た夢と異なっていたのは、私は既に恐怖を感じなかったという事だ。私は窓から首を出し、静かに朽ち果てて行く自分の頭蓋骨を見つめていた。少年期のトラウマを克服したのだろうか?それとも、私自身が、現世に敢然に絶望してしまっているのか?
 私は絶望というものを実感したことがない。この世界を信じているし、世界がヒューマニズムで溢れている事を信じて疑わないからだ。この宇宙がやがて膨張を止め、時間が失われようとも、私の信じている、安らかで揺るぎない寂光の「居場所」は、必ず永遠に存在し続けるものなのだと、確信しているのだ。
 ただし、私が楽園として定義するものは、「私」自身が存在しない世界だ。私だけの為の世界でありながら、「私」は何処にも存在しない。ただそこに「視点」だけがあり、全てを見渡している。そのような神の目そのものに、私は成りたいのだ。そしてその視点を今、私は手に入れようとしている。
 倍率の高い双眼鏡を手に入れ、私は四六時中、起きている時は殆ど、この塔の窓から世間を見渡していた。夫婦喧嘩や泥棒、殺人、詐欺、情事、排便排尿、自慰に至るまで、ここで住む人々の日常とプライバシーを観察した。全ての壁に遮蔽力は無く、双眼鏡は実際の倍率やアングルを超えて、ありとあらゆるものを写し出してくれた。それは単に、私の想像力が「見る」という行為を超越し、最早、見る事と同義になってしまったからだ。
 そんなある日、私は部屋に閉じ篭りきりで、ただパソコンに向かうある青年を見つけた。彼はどうやらゲームのクリエイターらしい。煩雑に放り出された設定書が、机の上に散乱している。
 私がこの青年に何故だか引かれたのは、何処かで出会ったような気がするからだ。何処で会った事があるのかは判然としない。思い出せない。全く会った事などないかも知れない。ただ、彼が作ろうとしているゲームのタイトルが、「聖書」という面白いものだったせいかも知れない。とにかく何故だか、私は彼に惹かれて、ずっとずっと観察し続けた。彼の作っているゲームは、本当かどうかは怪しいものだが、設定を読むところ、プレイヤーが自分の事を忘れ、ゲームの中のキャラクターだと思い込んでしまう程、のめり込むゲームらしい。
 そんな事があるものか。そんな事が実際に起こってしまったら、私達の人生だって、ゲームだと言えない事もなくなるじゃないか。この娑婆世界が、全てゲームの中の世界で、私達はゲームに熱中するあまり本当の自分の名前や記憶を全て忘れてしまっているのかも知れない、という事になってしまうじゃないか。全く馬鹿馬鹿しい考えだ。
 私は彼の机の上の設定資料を、尚も倍率を上げて覗き込んだ。そこには、ゲームのキャラクター設定もあった。

 狭山裕子 : このゲームの案内役。魅力的な容姿である。このキャラクターは、プレイヤーの記憶で構成される、最もプレイヤーにとって魅力的とされたパラメータによって造型される。プレイヤーはこのキャラクターと性交渉を持つ事もできるが、あくまでもゲーム上のキャラクターであり、実在しない。プレイヤーの記憶を混乱させる為に出現し、新たなパーソナリティを埋め込む為のメインの仕組みを司っているプログラムである。

 何故だか私は、この設定記述を読んだ直後、かつて一度も味わう事のなかった、「絶望」という感情を理解したように感じた。






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