ネジ支鬼

by Nero Padrone



 や、足音や。来た。来よったワ。せやけど、ようもまぁ毎日毎日、朝も早よから飽きもせんと……。また今日も検査三昧になるんやろかね? せやけどあのセンセ。なんや自分に含むモンがあるんとちゃうやろか。職業意識っちゅーより、なんやらあのセンセの目ェ見てると執念みたいなモンを感じるんは自分の気のセイなんやろかねぇ? と。で、ドアが開きよって今日の1日の始まりと。……あ、センセ。おはようさん。もうかりまっか? ……や、ないワ。「おはようございます」やね。で、センセ。また検査でっかいな? ええ加減にウンザリなんやけどねぇ。いつになったら外に出してもらえんやろか。そろそろ教えてもらえまへんかね。
 え? 後遺症やらが心配やて? ない。ありまへん。おまへん。ゼンゼンあらへんて。ホンマにありまへんて。ゲンに自分はセンセとマトモに会話してまんがな。ちゃいますか?
 はぁ? 気分? 気分やて? 今の気分でっかセンセ? そうでんな。また今日も検査ばっかりでウンザリなんやけど、ま、普通やね。この後の朝飯の献立の中に納豆が入ってへんかったら一寸ばかし幸せな気分になるし、センセに自分はクビ(退院)やと宣言されたらそれこそ幸福の絶頂まちがいなしの気分やと思いますね。
 え? それはないてかいな。 チャカのマメがまだ自分の頭に残っとるって? それは何ですの? まあ、ええんやケド。せやけどセンセ……。あ、アカンてかいな。少なくとも再手術が終わるまでは……って、何時頃ですねん。その再手術っての。は? その目安の為の検査やし鑑定やってかい……。は、話が前後しとるがな。知的でクールで別嬪で腕ききの上昇思考アリってのがウリの頭専門の女医さんやちゅーんはわかっとりますんやけどね。言葉に衒いちゅーか芸がありまへんね。あまりにおもろ無さ過ぎですワ。自分にはね……。
 え? 気分を害したかって? そうやね。センセ。正直に言うと一寸ばかしヘコみましたワ。毎度の事やが改めて宣言されると。まだまだ検査が続くちゅーんワ。ハァ。アカン。嫌になる。ため息出るワ。
 はぁ? 出すのはため息やのおて検査の結果だけやて? オイオイ。たまらんねぇ。センセ今日はホンマにエロウ性格がキツおまんなぁ。はい。はい。わかりましたワ。検査。検査と。で、センセ。いつも通りでええんでしょうかね? はい。はい。はい。わかってま。椅子に座って心おだやかにリラックス。で、頭の検査と。印象が強く残ってる見た夢を思い出せるかぎり言葉にしてセンセに話したらええんでっしゃろう。
 見た夢やねぇ。
 せやねェ……。
 
 
 自分の目の前に広がるのは白のフィルターがかかったモノクロの世界。
 そして自分の言葉から訛りが完全に消える世界。
 コマ落としやらフラッシュライトが映し出す映像のように時折、飛んだり、切れたり、捩じれたり、繋がったり、途切れたりする世界。
 時折、目に映る物や者の一部ダケに色が付く世界。
 そして音も声も聞こえると言うよりもこもった風に感じる世界。
 臭いはなんとなく感じる世界。
 味はまったく感じない世界。
 手や体が物に触れ握っても有る事を頭が感じる事は出来てもそれが何なのかが、かなり曖昧で具体的に感じられない世界。
 そう。
 白と黒、光と闇が写し出す自分の夢の中の世界。
 自分は自分が今、夢を見ているのだと言う自覚が何故かある。
「夢を自分は見てる」
 そう呟いてみた自分は自分の頬を指先でつねってみる。
 やはり頬に指があたる感触はなんとなく頭の一部が感じる。
 だが痛みは感じない。
 まったく感じない。
 自分は顔を上げて見上げてみる。
 空が見える。
 青空ではない乳灰色の空と千切れ流れる灰色の雲。
 自分はなぜか自分の左手首の腕時計を見る。
 長針も短針も秒針も中には見えない。
 時計の中にあるのは意味不明の歪んだ鏡文字のような記号の付いた文字盤。
 その文字盤は揺れ蠢いている。
 結局は今何時なのかすらもわからない。
 この世界の中で影の部分が薄いから多分昼なのだろうと自分は考える。
 顔あげると目の前に公園が広がっていた。
 住宅街の端の公園。
 良く知っている公園。
 生家の近くにあった公園。
 農地の区画整理後、農地の面積を過小に申告して脱税を計っていた農家たちの申告外の半端な土地をよせ集めてできた巨大な公園。
 その横を自分は一人で歩いて帰る。
(何処へ) 
 遠く前方に自分の先を進む誰かの影が街灯の下から伸びた長い影法師が見える。
 自分が歩き立てる小さな足音をなぜか感じる。
 まったく暑くもないのに何故か汗ばむ。
 そして自分は何故歩くのか理解できないままに続ける。
(だから何処へ?)
 公園を右に曲がる。
 曲がったヒョウシに頭の中でカラコロと何かが転がる音がした。
 その刹那に自分は死を上回る恐怖を覚えてしまう。
 夢の画面が飛び自分が消える。

 
 旧家が立ち並ぶ町並み。
 生け垣やら土塀やらの横を自分は進む。
 丁字路に出る。
 右に曲がれば板塀と防錆剤を塗った黒いトタン板の壁が立ち並ぶ廃屋に近かった自分の生家へあった場所……。
 嫌な思い出しかないあの宅地と言うよりも集落に近いあの場所へと続く道。
 そう言った者たちが泥流の澱みのごとくに社会的に自発的に作られたアノ場所へ。
(思い出した。音のセイだ。これは仕方のない事だ……。待て。音って何だった?)
 記憶が曖昧だった。
 何が音なのか自分は理解できてなかった。
 だが、意味不明な説得力だけが自分の頭を支配している。
 だから自分ははアノ場所へと歩み続ける。
 またアノ音がした。
 夢の画面がまた飛んだ。
 そして恐怖。
 自分が再び消える。
 
 音がする。
 イヤ、声だった。
 ガキの頃から聞き慣れた韻を含んだ呪文だった。
 何を言ってるのかはサッパリわからない。
 フレーズだけが頭の中に響き続ける。
 そして幾度となく繰り返される金目の物が投げ捨てられて地面や床に落ちる音。
「黙りやがれッ! クソ婆ァ。棺桶の中にィ首までハマリ込んだ生きた即死ン成仏の分際で魔除けのマジナイなんぞするんじゃネェ。そのマジナイの声に呼ばれて魔物より余計にヤヤコシイ者が俺んトコに現れ出やがったじゃねえか。いいから黙って息止めて死ねやッあ! 婆ァ!!」
 目の前の幾つもの器の底の輪っかの形が残る薄汚れたちゃぶ台の上に置かれた一升瓶と半分ばかりに中身の残った湯飲み。
 その向こう側の男の声のダミが響く。
 かなり酒が入ってるのだろう。
 その背後にはあるのは生活の臭いや煙、そして貧困の色を吸ってくすんだ色の板壁。
 目の前の全体的にデッサンが狂った男はその木目が斜に走った薄い板壁をバンバンと平手で叩き吠え狂う。
 だが、老婆の口が紡ぎ出す呪文は途切れる事なく続けられる。
「魔物より余計にヤヤコシイ者って自分の事かな?」
「せやないかい。ちがうんか? 毎日毎日、来やがってからに……」
 壁を叩き続ける男は振り向いて自分にそう言った時にドカッと言う音がした。
 出刃包丁の切っ先が隣の部屋から薄い壁ごしに叩く男の顔面寸前まで飛び出ていた。
「過激やねぇ。今日もアノ婆ァは……。金のモンなら何でも投げよる。ま、いつもこんなモンなんやけどね」
 老婆の呪文は少し小さくなるが、やはり続けられる。
(こいつは誰だった?)
 自分は目の前の男が誰なのか思い出せないでいた。
 それだけでなく何故ここにいるのかさえわからない。
「またかい。記憶がオシャカなん……。見た目はまともでも、これやから頭のネジが飛んどるヤツは困るワ」
「頭のネジ?」
「それに朝、目覚めたら忘れよって、また衝動にかられて習慣でブーメランみたいにワシんトコに来よる。ま、ええんやけどな。……で?」
「……でって?」
「ドライバーか? ラジオペンチか? 金属バットか? 今日は何がいるねん?」
「な、何?」
「今日はまた一段とヒドイな。……オマエはな。頭の中にあるネジが飛んでるんやろ? それが転がる音を聞くとマスマスにオマエは頭がオカシクなりよる。やからネジを閉め直すか、ペンチで挟んでつまみ出すか、金属バットで頭ァ叩いて外れたネジを耳の穴からたたき出そうとして毎日ワシんとこに道具を借りに来る。ちゃうか?」
「………………」
「だんまりかい。まだわかってへんみたいやね。で、どうするんや? 何の道具が今日はいるねん?」とデッサンが狂った男。
 自分は欲しい物がわからない。
 それでも何か言おうと口を動かそうとする。
 音がした。
 カラコロとネジの転がる音が。
 また画面が飛ぶ。
 恐怖に続き自分は消える。
 
 暑くもないし、寒くもないのに汗が噴き出始めて全身がネトネトする。
 自分は歩き続けていた
 小さなこもった足音がその自分に続く。
 山の中の道をなぜか右手に五番アイアンを握って歩いていた。
 なんとなく理解している事は自分の頭の中で外れたネジの事だった。
 ネジが転がる音がする度に記憶だけでなく物事がマスマスわからなくなって行く。
 兎も角、この頭の中のネジを閉め直すか、頭の中から取り出さなければならない。
 そうしなければならない。
 自分が自分である為に。
 自分が自分でなくならないようにする為に。
(その為には……)
 何処かで聞いた様な話になるが自分は病院を医者を探そうと考え始める。
 誰もいないし、人通りもなく、人家もない竹薮とその細い木漏れ日が延々と続く山道をただひたすらに病院か医者を探し求めて歩き続ける。
(象の耳の穴なら使えるが、自分に耳には無理だ。耳掻きにしてはあまりに大き過ぎる)
 自分は五番アイアンを竹薮の中に投げ捨てる。
 啄木鳥がたてる音に似た乾いたカンコンと言う音が竹薮の中で幾度も鳴り響いた。
 
 自分はなぜか村へと続く道の上にいた。
 白と灰色と黒の色で着色された茅葺きの屋根がポツポツと立ち並ぶ集落のに向かって。
 その道の真ん中で自分を見つめる者がいた。
 犬を連れた男。
 大形の洋犬。
 首輪に引綱を付けたボクサー犬を連れてた枯れ木の様にゲソゲソに痩せた老人だった。
「すみません。こ、この近くに、び、び、病院はありませんか?」
 自分の口が動きその老人にそう尋ねていた。
「ホッホッホッ。耳じゃ。耳じゃな。コヤツじゃな。コヤツの垂れた耳。オカシイじゃろう。変じゃろう。不細工じゃろう……」
 ボクサーが大声でしゃべり始めた老人を見上げる。
「自分は病院を探してるんです。医者を探して頭を観てもらいたいんです」
「何? 良くは聞こえんが、病院と医者じゃと?」と老人。
「耳が遠いのですか? いや、すみません。自分は病院と医者を探してるんです」
「そうか。そうか。その通りじゃ。病院と医者が原因なんじゃ。コヤツの垂れた耳はのう。犬猫病院の医者にコヤツが子犬の時に格好を付るとかのたまいおって尻尾を切ってもろうてのう。痛がるわ。痛がるわ。痛がって一晩中に泣叫びよってのう。それが不憫で、不憫で。無益な事をした可哀想な事をしてしもうたとワシゃ後悔してのう。ゆえ、両の耳の方は切らんでおったのじゃ。だからコヤツの耳は垂れたまんまなんじゃ。オカシイじゃろう。変じゃろう。不細工じゃろう……。あっ、オイ。コラ。ワカイシ。何処へ行く? 何処へ行くんじゃ。ワシの話はまだ終わって……」
 自分は目の前の耳の遠い老人に話かけて病院の場所を聞く事を諦めていた。
 このままだとまた頭の中のネジが転がってしまいそうな気分になったからだ。
 それに目の前に見える茅葺きの屋根の場所まで行けば病院の場所を聞ける。
 電話を借りる事が出来れば救急車を呼べる。
 そんな事を考えながらまた自分は道を歩き始める。
 老人と犬の横を通り過ぎる。
 ボクサーはまだ大声で自分を呼び止めようとする老人を見上げたままだった。
 ネジの転がる音がした様に思う。
 恐怖を感じなかったので違うかもしれない。
 気のせいかもしれない。
 
 尻がペトペトする。
 自分は茅葺きの家にたどり付く。
 血色の悪い初老の男がバイクの修理をしていた。
 前と後のブレーキを工具で外し汚れを取り去る為にガンノズルでそのパーツにエアを吹き付けていた。
「すみません。お伺いしたいのです。この近くに病院はありませんか? あるいは電話をお借りしたいのですが……」
「全滅だ。全滅だょ。全滅なんだ。皆。全滅するんだ」と初老の男は小さく呟いていた。
「すみません。本当に教えて欲しいんです。病院の場所か、電話のある場所を……」と自分は声を荒げて初老の男に再び問いかける。
「大声ださなくても聞こえてる。病院の場所が知りたいだと?」
「でなければ電話のある場所を教えて欲しいんです」
「ここはバイク屋だ。病院じゃねぇョ。それにな。山を三つばかし越えねぇと病院がある町にはたどり着けねぇんだ。救急車を呼ぶような怪我人には……。見えねぇ事も無ぇな。中途半端にケツのズボンに血が沁みてやがる。怪我か? アンタは電話をかけて救急車を呼びてぇのかな?」
「それしか手がないのなら」
「わかった。ちょっと待ちな。コイツを直したらケツに乗せて町まで送ってやるよ。それとケツにコレを当てとけや」と初老の男はきれいなタオルを取り出すと自分に向けて放り投げて渡してくれた。
「た、助かります。やっとマトモな人に……」
「兄ちゃん。ちょっと待ってろょな。さて、パッドの交換を続けるか。……全滅だ。全滅だょ。全滅するんだ。皆。俺の世代のバイク屋は全滅するんだ。全滅して、全滅して、全滅するんだ。このバイクは俺の物だ。パッドを取り替えて思う存分に乗り回すバイクだ。走って、曲がって、止まってパッドとタイヤをすり減らして走り回るバイクだ。それだけじゃない。ここはバイク屋だ。この村で唯一のバイク屋だ。何台も何台も俺は修理した。バイクも車も。パーツを外して、磨き、取り替え、エアで汚れを飛ばして修理した。他のバイク屋もそうだ。そしてその結果が全滅だ。全滅だょ。全滅するんだ。皆。俺の世代のバイク屋は全滅するんだ。全滅するんだ。全滅して、全滅して、全滅するんだ。このバイクは俺の物だ。パッドを取り替えて思う存分に乗り回すバイクだ。走って、曲がって、止まってパッドとタイヤをすり減らして走り回るバイクだ。それだけじゃない。ここはバイク屋だ。この村で唯一のバイク屋だ。何台も何台も俺は修理した。バイクも車も。パーツを外して、磨き、取り替え、エアで汚れを飛ばして修理した……」
 針が飛び同じフレーズを繰り返す傷の付いたレコードの様に初老の男は手を止める事なく繰り返しそう呟き続ける。

「終わったぞ。直ったぞ。兄ちゃん。バイクのケツに跨がんなョ。送ってやるからョ」
 やがて、手が完全に止まり、『全滅』って繰り言の呟きも止めてしまった男は立ち上がるとヘルメットを自分に差し出してそう言った。
「すみません。助かります」
「いいって事ョ。俺も病院に行くんだからよ。ついでだ。ついで」
「貴方も病院に行くのですか?」
「オオョ。検査だ。検査。でもョ。結局は皆、全滅なんだがナ」
「先ほどから何度も全滅、全滅て繰り返しておっしゃってましたが、その全滅ってはいったい何の事なんです?」
「よくぞ聞いてくれました。嬉しくなっちまうネ。話せば長くなるが端折ッて言おう。見てただろう? バイクのパッドの交換をな。俺は、俺の世代のバイク屋はアーやってブレーキのパッドを交換するんだ。ボルトを抜いて、パーツ外して、ブラシで磨いて、エヤを吹き付けてゴミや汚れを飛ばしてブレーキパッドを装着し交換する。そんで何台も何台もイヤってほど修理したんだ」
「それがどうしのですか?」
「わかんねぇかなぁ。そりゃ、ま、そうかもな。今のブレーキパッドは柔らかなメタルだしなぁ」
「………………」
「昔はメタルじゃなかったって事だョ兄ちゃん。昔のブレーキパッドはな。全部が石綿だったのさ。アスベストってヤツ。それをョ。エア使ってゴミやチリや汚れを飛ばして綺麗にしてたんだわ。俺の世代のバイク屋はエアで飛ばしたそいつ等をシコタマ吸い込んヂまったって事。だから検査しょうが病院に行こうが結局は全滅なんだよ。全滅コクんだよ。だから俺の世代のバイク屋全部が全滅なんだ。俺の言ってる事の意味はわかるだろ? さて、早いトコ乗りな。跨がりな。飛ばすからョ」
 初老の男はにこやかに自分に微笑みそういった時だった。
 カラコロと頭の中でネジが転がる音が小さく響いた。
 そして恐怖。
(また自分が自分で無くなる) 
 その思いが、その得体の知れぬ強迫観念に似た恐怖が自分を動かす。
 恐怖は自分の体を是も非もなく衝き動かし続ける。
 修理されたバイクの横。
 茅葺きのバイク屋の軒先きの地面に置かれた大きなモンキーレンチとガンノズル。
 ガンノズルはコンプレッサーに繋がり圧縮空気を吹き出す。
 それを使って頭の中のネジを吹っ飛ばしてしまおうと何故か考える自分がいた。
 それに飛びついた自分は自分の右の耳穴にノズルを突っ込み躊躇う事なく引き金を引いていた。
 小さなネジが凄まじい勢いで頭の中で跳ね回る音が聞こえた様に思う。
 
 いつの間にか病院の中の受け付けの前に立つ自分がいた。
「えっ? 何ですって?」
 よく耳が聞こえなかった。
 自分は左耳だけを向けてみる。
「……では、йаж&ф%さん。次回の通院時に保険証を忘れずにお願いします」と顔がよく見えない受け付けの中年女性が自分にそう言うのが聞こえた。
「あの。自分はどうすれば……」
「お呼びするまでロビーでお待ち下さい」
「わかりました」
 受け付けの近くの薄暗いロビーに備えられた長椅子に腰掛け自分は待った。
 自分以外は誰もロビーにはいなかった。
 そして静かだった。
 病院の臭いがまったくしない病院のロビーで自分の名前が呼ばれるのを待つ。
 何処から現れたか目の前を3人ばかりゾロゾロと歩いて奥へと進む。
 その後ろ姿を何気なく見つめる自分。
 白いナースキャップを頭に被った3人の看護婦、いや、看護師。
 その3人がまとめた髪の毛に幾本ものヘアピンでナースキャップがシッカリと止められている事に自分は気付く。
(アーやってピンで止めてるから帽子はズレも落ちもせずに頭に乗ってるのか)
 そんな事を考えていると「大久保さん」と受け付けの中年女性の声が上がる。
 自分は回りを見回す。
 やはり誰もいない。
「大久保さん」と再び受け付け女性の声。
 また何処から現れたのか三人の男が自分の前を通り過ぎる。
 二人の男に抱え、支えられるように挟まれて体の前で自分の上着を持った小男。
 三人はそろって受け付けの前に立つ。
「大久保さんですね。これを持って内科の106号に行って下さい」と受け付けの女性。
 三人の男は受け付けから離れて106号に向かい歩き始める。
 その時に二人の男に挟まれた小男の両手に手錠をされてる事に自分は気付いた。
 
 かなりの時間が過ぎ去ったように感じる。
 自分はひたすらに自分の名前を呼ばれるのをロビーの長椅子の上で待った。
 だが、受け付けの女性が別の人間の名前ばかりを呼び続ける。
 そして、その度にどこからともなく現れる人間が病院の奥へと消え 、また病院の外へ向けて消え去って行く。
 病人に怪我人に半病人にマトモに見える者。
 血を流す者に血を流さぬ者に血を流そうとする者。
 泣く者に暴れる者に無表情な者に逃げようとする者に逃げ出す者。
 とりあえず全員が目付きが悪い者たちの集団。
 必ず3人づつがゾロゾロと病院の奥へと消える。
 時折2人の場合もある。
 女がいる場合のあった。
 そして誰かしらその中の一人が手錠をされている事に自分は気付いていた。
 
 幾人もの看護婦と目付きの悪い男たちが自分の前を病院の奥へ あるいは病院の外へと通り過ぎては消え去る状態が続きに続く。
「йаж&ф%さん」とやっと受け付けが自分を呼ぶ声がした。
 自分は長椅子から立ち上がり受け付けに向かおうとする。
 そんな自分をその体重で弾き飛ばし、押し退けて三人の人間が先に受け付けの前に立ってしまう。
 三人ともに若い女だった。
 多分学生なのだろう。
 手錠はしてなかった。
 真ん中の支えられるように左右から挟まれて支えられる女性の顔は苦痛に歪み切りヒドイ脂汗を垂れ流していた。
 パニくった様にしゃべり続ける左右の女たち。
 苦痛に呻き身悶える事も出来ずに青ざめた容貌の真ん中の女性。
 冷静に受け答する受け付けの女性の声。
「盲腸じゃありません。彼女は小学校の頃……」
「彼女が言うにはたぶん……」
「つまり、お通じ……」
 結局、それらの会話からわかった事は便秘が原因で自分の順番は飛ばされたと言う事だけだった。
 
 産婦人科の109号室。
 自分は受け付けの中年女性にそこに行くように指示された。
「アラアラ。ここは男の人が来る所ではありません。産婦人科ですよ。ここは」
 109号室に入りベッドの横に置かれた丸椅子に腰掛けた女医にいきなりそう言われた。
 銀ぶちの眼鏡かけ刺すような知的な雰囲気を全身からかもし出す美人の女医に。
 その容貌に自分は何故か微かに見覚えがあるような気がした。
「そんな事言わずに見て下さいよ。このままだと……」
 頭の中でまたネジが転がるような気配がして自分は突如理解してしまう。
 頭の中でネジが転がる事の結果を……。
 頭の中で転がけば少なくともネジは500000倍には膨れ上がり最低でも全長が50メートルには伸び続ける恐怖。
 そして自分が自分で無くなる恐怖。
 何時の間に背後より忍び寄る夜の闇の様に忍び寄る死の恐怖。
 比べればその恐怖をも上回る巨大で巨体で巨魁で巨億の恐怖。
 転がるネジが自分の内なる理性や知性、人間としてのポジティブな物を噛み尽し喰い尽くして吐き捨てたガムのようにしてしまう恐怖。
「なんてね。腰掛けてйаж&ф%さん。わかりました。わかってますよ。冗談よ。耳の中に異物が入り込んでるとカルテにはあるけど?」
「ネジです。ネジなんです。それを先生に耳の中から取り出して欲しいんです」
「ネジ? ネジねぇ。珍しくもなんともくないわね。安心してйаж&ф%さん」
「珍しくない?」
「私の専攻は産婦人科と泌尿器科。どちらも耳の内部よりも複雑でデリケートな臓器の専門医よ。その程度の体内へに入り込んだ異物なんか珍しくもなんともないわね。バギナが飲み込んだヘアスプレーの缶。直腸の中のコンドームに包まれたミニカーやらゴルフボール。マンゴーにキウイにパプリカにアボガドにゆで卵。切り刻んで盛り付けてやればサラダが出来そうな程にカラフルなマダムたちもいたわね」
(切り刻む……?)
「では、йаж&ф%さん。耳を見せて。そうそう……」
 女医はライトを自分の左耳に当てて覗き込む。
「ふーん。おかしい所はないわねえ。反対を向いて」
 自分は丸椅子の足を蹴り体を回して右耳を女医に向ける。
「さてと。どーれ。どーれ………と、アラ、これは凄いわね」
「ネ、ネジですか?」
「そうね。これは確かにネジその物ね。外耳に癒着し巻きついてるみたい」
 そう言うと女医が何やら取り上げ小さく金属音が響く。
 それに続くのは細い金属で出来た医療器具がガリゴリと耳の中掻き回す音。
 頭の中を掻きむしられる様な音が右耳の中で鳴り響き時折、右耳の中を雷ように凄まじい音が突っ走り続ける。
 自分は不安にかられて横目で女医の手元を見る。
 ワゴンの上。
 膿盆のプレートの横に置かれた機具の中から鋭く尖ったピンセットを取り上げる。
 そして耳の中から何かが引ずり出される音。
 耳の穴よりも二回りは太くて目の粗い金属を削る棒ヤスリを無理矢理引きずり出されるような感覚と音。
「よし。きれいに取れた。йаж&ф%さん。どうです。良く聞こえるようになった?」
 自分は自分の右の耳の中から取り出された物を、膿盆のプレートの上に置かれた物を覗き見る。
 赤黒く、捩じれ、醜く節くれだち、腐った血の色をした5センチ程の芋虫状の物体。
「何ですか? こ、これは?」
「あなたが言うネジの正体。凝り固まった年期の入った耳垢よ。これでもう異物が耳の中で転がる音は聞こえないはずよ」
 女医がそういった時だった。
 ネジがカラコロと転がる音がした。
 自分は自分でなくなり消える。

 
 ……と、まあこんな感じですわセンセ。オツムの中でネジが転がるって自分に脅える夢をダラダラと何度も何度も色々と出てくる人間やら場所やらはバラバラで見たワケですワ。で、センセ。どんなモンですか?
 あ、あかんてかいな。はいはい。了解。手術も退院もまだまだ見込みなしと……。せやけど、そ理由をバカでもわかるように自分に教えてもらえまへんかね。
 は? 回復の兆候がまったくない? 回復の兆候ってなんですの? 発作? 発作のスイッチがネジが転がる音? センセ。何ですのそれは? 記憶の障害と欠落も著しいままて? 事件の記憶……? ヤクザの抗争のトバッチリで当ってもた頭の中に残ったチャカ(拳銃)のマメ(弾丸)が原因? 病院からの逃走? 意味のない徘徊? 五感の障害? 視覚は色彩が消えたまま? 聴覚はややマトモで嗅覚は怪しく味覚は完全にワヤ? ネジの転がる幻聴が発作の引き金? 痛覚がほとんど消えたままで熱も同様に感じてへんて? 現実と夢の判断が、その把握ができてとらへん? 何より発作を起こした状態後の記憶が完全に欠如しとる? 
 は? 外で起きたゴルフクラブでの父親殺し? 老人を犬の引綱で絞殺しようとして飼い犬に逆襲された? モンキーレンチでの撲殺事件? 警察病院での治療中に女医を絞め殺して切り刻んでからレイプって何の事やの? 知りまへん。知りまへんて。
 忘れてるって? 5分間だけでも必死に生き延びようと命乞いする犠牲者の事を?
 忘れてるって? その姿を見てほんの一瞬、神の気分を味わえる事を? 
 忘れてるって? 悲鳴と血と垂れ流す小便の臭い?
 はぁ?  
 まったくに犯罪行為の記憶が削除されとって欠片もないって?
 な、なんなんですの? せ、センセ。センセっ、センセって、センセ、一体全体、なんの話でっかッ!?
 は? センセイとちゃう? ここは病院でもない? ならなんやのここは? なんで自分はここにおるん?
 何?
 自分の心の中に残っとる記憶の欠片の中にある自分の良心やて? 
 それにここが自分が見ている夢の中やて?
 センセ、そんでアンタが自分の良心ソノモノやてかい?
 シャレ抜きで、この場所が自分が見とる本当の夢やて?
 オイオイ。この色付きのこの世界が? 信じられへんねぇ。嘘そのモンに聞こえるワ。
 は? 極めて記憶力良い人間は色付きの夢を見る可能性が科学的に証明されとる?
 それに現実の人間とちごて夢は嘘を付く必要がない?
 夢は願望の現れで、その人の良心ソノモノで正直ソノモノやて?
 ははは。しょーもな。センセ。やっぱし、センセのジョークにはホンマに芸がありまへんね。あまりにおもろ無さ過ぎですわ。
 は? なら何でセンセの顔が警察病院で殺された女医とまったく同じ顔なんやて? 
 やから、それは何の事ですの? 自分は知りまへんがな。
 え? なら自分で自分の頬を抓ってみいてか?
 見てみい。
 痛いわ。ホッペタがものごっつう痛い。痛とうて痛とうてしゃーない。
 やったら、この痛み一体なんなんですのや。センセ?
 
 自分は自分で自分の頬を本当に力強く抓っていた。
 そして本当はまったく痛くも痒くもないのだが「痛い痛い」と勝ち誇ったように吠え狂う自分の声を遠くに聞いていた。
(夢は嘘を付く必要がない。夢は願望の現れで、自分の良心ソノモノってのが本当の大嘘なのかも知れない)
 そんな事を頭の片隅で考えている自分もいた。
 そして、自分はこの場所で、自分はこの病院で、自分はこの病室では、自分の耳の中でネジが転がる音を、その気配さえも、自分がまったく聞いた事がなく、鳴る気配すらも感じた事が一度もなかった事を今なって始めて気付いていた。

終わり




UP


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