美穂と遊園地

鬼脳


 「誰かいませんか」
 雄二郎は売店の中を覗きこんだ。後ろでは子供の泣き声が相変わらずうるさい。隣のメリーゴーランドの音量をもう少し上げてくれれば聞こえなくて済むのにと思いつつ、泣いているのは一応自分の娘だけに、耳をふさいでどこかへ行ってしまうわけにもいかない。
 「誰かいませんか」
 ともう一度大きな声で叫ぶ。カタンと音がして、奥からピンクのエプロンをしたオバサンが出てきた。
 「すいません。トイレに行ってまして」
 「困りますよ。ひとりだけしかいないんですか。いくら小さな遊園地だからって、人手が少なすぎやしないですか」
 雄二郎はあたりを見回した。端から端まで見渡せるほどの敷地に、こじんまりとしたアトラクションが半分以上も動かされることなく静かに並んでいる。遠くに見すぼらしい清掃員が暇そうにゴミを探しながらトボトボ歩いているだけで、客の姿は見当たらない。ふと向うのベンチに、さっき買ってやった風船を握りしめ泣いている娘が目に入り、後ろめたさに慌ててオバサンの方を振り返った。
 「ええ。このシーズンはお客さんが少ないので、従業員もあまりいないんですよ。再来週から夏休みですから、後二人バイトが来る予定なんですけど」
 「そんなことこちらの知ったことじゃないですよ。もう二度と来るもんか、こんなところ。ソフトクリームください。ふたつね」
 このクソババア、と心の中で毒つき煙草に火をつける。三度ほどため息まじりの煙を吐き出したところでソフトクリームが出てきた。くわえ煙草でそれを両手にかかえ、ベンチに戻る。
 「美穂、ほらほら、いつまでも泣いてるんじゃない。ソフトクリーム買ってきたから、これでもなめて元気だせ」
 しかし娘の美穂はソフトクリームを受け取ることなく、泣き声を増々激しくさせるばかり。雄二郎は煙草を地面にぷっと捨てると、ソフトクリームのコーンを娘の膝の間にさしこんだ。そして自分のソフトクリームにかじりつきながら、これからどうするか考えた。
 ジェットコースターが恐かったくらいでどうしてこんないつまでも泣き続けるのだ。妻がいなくなってひと月。ママに会いたいと落ちこむ娘の気分を晴らそうと、遊園地に連れてきたのはいいが、娘が今までジェットコースターに乗ったことがなかったとは知らなかった。娘は母と何度か遊園地に来たことがあったが、雄二郎と来たのは初めてだった。
 「遊園地に来たらまずこれだよな」
 そう安易にあんなものに乗せたのがまずかった。最初にいつもはママと何に乗っていたのか聞けばよかった。訳も解らず窮屈な座席に坐らせられ、初めて味わうスピードの恐怖に、九歳の美穂の心は完全に錯乱してしまっている。恐らく母に会えない悲しみも少なからず加わっているのだろう。
 「ジェットコースターに乗ったことないならないってそう言えよ」
 と自分の泣き声で何を言ってもどうせ聞こえないであろう美穂を睨む。
 どうするか。メリーゴーランドか観覧車にでも乗せれば機嫌を直してくれるだろうか。
 ソフトクリームは初夏の日差しに早くも溶け出し、美穂のスカートから剥き出しの太ももに流れはじめている。雄二郎はコーンをバリバリ噛み砕きながら、ソフトクリームを美穂の足の間から引っこ抜き、地面に放り投げた。
 さっきの薄汚い清掃員がそそくさと寄ってきて、やっと仕事が出来て満足そうに、ほうきでチリ取りの中へかきこんでいる。
 「そこの清掃員!」
 清掃員を呼び止める。「こいつもゴミだ。片付けてくれ」
 雄二郎は美穂の手から風船を奪うと、両手でパンとつぶして地面に捨てた。やはり美穂の機嫌をとるためにさっき買ってやったものだ。しかしこんな役立たず、もういらない。
 清掃員は目を丸くして、破れた風船のくずをチリ取りに掃き入れると、帽子に手を当てながらゆっくりこちらに近づいてきた。
 「可愛いお子さんですな。どうしたんですかな。さっきから泣いているようですが」
 「可愛くなんかありませんよ。よかったら差し上げましょうか」
 冗談だと思ったらしく、清掃員は笑った。しかし冗談でもない。最近の雄二郎は娘への愛情を失いかけていた。
 「妻の連れ子でしてね。その妻にも先月先立たれ、今となってはお荷物ですよ。十年勤めた会社にもリストラされたばかりで、今年はきっと天中殺ですわ」
 「そりゃ大変ですなあ。だからこうして平日にこんなところに遊びに来れるんですな」
 「本当は就職活動もしなくちゃならんのですがね。母を失って落ちこんでたもんですから、母とよく来てたこの遊園地に連れてきてみたんですが、逆効果だったみたいですわ」
 そう言って雄二郎はやけくそに笑った。
 「なるほど。確かに血のつながっていないお子さんをしかもリストラされた身で育てて面倒みるのは精神的にも辛いでしょうなあ」
 「まったくです。最初は可愛いものでしたがね。三年も一緒に暮らしていると、やっぱり飽きるものですな」
 「解りました。そういうことであれば、このお嬢さんはぜひ私が貰い受けましょう」
 「はあ……ほ、本当ですか」
 雄二郎は驚いて清掃員の顔を初めてじっくり眺めた。よく見ると、どかかで見たような顔だ。雄二郎が記憶の糸をたぐっていると、清掃員はさっさと美穂の元に歩み寄り、両手で少女の両膝をさすりながら、語りかけた。
 「お嬢ちゃん。よかったね。今日からおじさんがお嬢ちゃんのお父さんだよ」
 そう言って、少女の太ももに点々と垂れていたソフトクリームの汁を直接その舌でペロペロとなめはじめたではないか。
 「ちょっ……」
 雄二郎はあっけにとられて立ちすくんだ。そしてはっとひらめいた。この男、近頃街中の貼紙でよく見かける連続幼女暴行犯の似顔絵に似てないだろうか。
 男は美穂の太ももをなめながら「うまいうまい」と喜悦の声をもらしている。
 「この味。この香り。この感触。瑞々しい練乳プリンの表面に舌をすべらせているような心地よさ。こたえられませんなあ」
 そう言いながら、美穂の太ももをよだれでベトベトにし、少しづつ両手で掴んだ膝を左右に開いていった。そしてその顔は次第に二つの太ももの交わる中心へと移動してゆく。
 美穂の泣き叫ぶ声が一層大きくなる。
 突然の事態にあっけにとられていた雄二郎だったが、その光景を見ているうちに沸々と忘れていたある感情がよみがえり、それは猛烈な怒りへと変わっていった。そして男の襟首をひっつかみ娘から引きはがすと、「この変態野郎」と叫んでひと思いに殴り倒した。
 「俺の美穂に何をするんだ!」
 その時だった。携帯の着信音が鳴った。
 美穂は泣くのをやめ、スカートのポケットから携帯をとりだすと、声をしゃくらせながら耳に押し当てしゃべりはじめた。
 「ママ。うん。いまパパと変なオジサンと一緒なの。こわいよ。もうヤダよ。パパ嫌い。ママが作ったトンカツまた食べたいよ」
 今度は清掃員が呆気にとられた顔で、殴られた頬をさすりながらゆっくり立ち上がり雄二郎の方を見た。雄二郎は肩をすくめる。
 「奥さん、お亡くなりになったのでは?」
 「実は、逃げられたんですよ。先月。リストラされた直後のことでね」
 清掃員は苦笑して首をふると、雄二郎の肩に手を置いた。ついさっきまで雄二郎の胸の内にとぐろを巻いていた男への怒りも、不思議とすっかりおさまっていた。
 電話が終わり、美穂が携帯をしまった。
 「パパ、帰ろうよ。ママもう家に帰ってるって」
 「あの野郎。心配かけやがって」
 そして男の方を振り向く。「どうもお騒がせしました。お陰でなんだか吹っ切れましたよ。何とかこれからもやってけそうです」
 「それはよかったですなあ。まあお元気で。好きに生きていれば人生、まんざらでもないですよ。それでは、私はこれにて」
 去って行こうとする清掃員に、雄二郎は声をかけた。
 「あんたもお元気で。いつまでも続くもんじゃないですよ、こんなこと」
 「……お互い様にね」
 と清掃員は振り向きそう言った。
 雄二郎は目を丸くする。
 「……解っていたのですか」
 「目を見れば解りますよ。あんたには最初から同類の匂いがした」
 「そうですか」
 雄二郎は鼻の頭をかいた。「……まあ、こんな道もあるってことです。飽きたら次って訳にはいきませんがね。そこはそれ、ある程度折り合いをつけないと、ね。社会と」
 そう言って雄二郎はそっと美穂の手をとった。清掃員は何も言わずに、ただ少し笑っただけで、向こうへと去っていった。
 「さあ、美穂、行こうか」
 「うん。ねえパパ。お腹すいた」
 「よしよし。もう一度あそこでソフトクリーム買ってやるよ」
 「あそこの売店のお姉さん、きれいだね。いくつくらいかな」
 「さあな。二十歳くらいじゃねえの」
 雄二郎はさっきあの男を殴った手で、美穂の手を強く握った。そこには、初めて美穂と出会った時のあの甘やかな感触がよみがえっていた。
 「やっぱりパパは美穂のことが大好きだったんだな」
 誰もいない遊園地を一緒に歩きながら、雄二郎は今こそ妻が消えてくれたら嬉しいのに、と三年前と同じ様なことを考えていた。


おわり


出口なし