雨宿り
横尾茂明:作

■ 驟雨2

大佐であった父は第二次ノモンハン事件でハルハ川東岸においてソ連軍の攻撃で戦死していた、訃報を聞いた母は一郎に隠れて何日も泣いていたのを覚えている。

その時以来…母は一郎が希望していた陸軍大学への進学は頑なに反対した…。
結局母の願いで徴兵猶予のあった帝大の文科系に進学したが…それが後に学徒動員にかり出される結果になるとは母は思いもしなかったであろう…。

「どうしたものか…母さん悲しむだろうな…」

雨が小雨に変わってきた…肩口に染みた水の冷たさに一郎はふと我に返える。

(この界隈…初めてだな、家からこんなに近いのに一度も来たことが無いなんて…)

静かなたたずまい…軒先には色づきもまだ浅い楓の葉郡が揺れ…生け垣の隅にひっそりと咲いた野紺菊と駒繋の小さな花々が秋雨に濡れていた。

(このごろ…庭の手入れをしていなかったな…今年は内外ともめまぐるしく変動し花を見るなんて心のゆとりもなかった…山本長官の戦死…アッツ島守備隊の玉砕…南方戦線での相次ぐ撤退…イタリアは降伏するし…このさき日本はどうなって行くんだろう…)

突然…軒下奥の格子戸が開けられた…。

思いに沈んでいただけに一郎は飛び上がるほど驚き…振り返った。

「あのー…ここでは濡れますから、雨が上がるまでどうぞ中でお休み下さいませ…」
そこには色白の美しい女性が立っていた…。

振り返った一郎の顔を見た女性は驚いたように一瞬目を丸くし…驚きながらも頬を赤らめて目を伏せる…。

「いえ! とんでもない…勝手に軒先を拝借して申し訳有りません…すぐにご無礼しますから、すぐに…」

「そんなこと仰らずに…坊ちゃん…どうぞ中に入ってくださいまし…」

「えっ! 僕を知っているのですか…」

「ハイ…昔…麻布のお屋敷には何度も行っていますのよ…覚えておいででしょ?」

一郎は女の顔を見つめたが…咄嗟のことで思い出せない。

「坊ちゃんは…もうお忘れになったんですね…」

女は寂しそうにまた目を伏せる…そして独り言のように…

「黍稈細工…」とつぶやいた。

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